西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

2022-01-01から1年間の記事一覧

「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」5月

熊本平野の会戦で敗れた薩軍は熊本市南東の木山から浜町(矢部)を通って人吉盆地方面に向かう様子だった。官軍側では4月25日に木山の灰塚で以降の進軍部署を協議した。もし薩軍が人吉に立て籠もるならば、西側の八代から進撃し、都城に立て籠もるならば鹿児…

1877年2月小林清親の版画

西南戦争の際、2月15日には薩軍が鹿児島を出発開始しており、19日には征討の命令が出ている。両軍が初めて戦火を交えたのは1877(明治10)年2月21日でした。今回紹介するのはその間の2月20日に版行届が出された小林清親筆の三枚続き版画です。当時、西南戦争…

「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」2月から4月 少しずつ加筆します。

本文がペンで書かれた「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」を紹介したい。熊本の古本屋から購入したものである。序に記すと、この日誌は以前東京で売られていたと鈴木徳臣さんから聞いたことがある。 巻頭の附言によれば、本日記の筆者は熊本鎮台第十三聯隊…

今年も賀状は書かず、年初にも出しません。

皆さん、2023年もよい年をお迎えください。

明治十年の巡査の辞令・慰労金証書などの史料紹介。がPCのネット接続が不完全で・・・買い替え時かなあ・・・

netto これらは一条千代吉氏が四等巡査心得として警視局に採用され、西南戦争に従軍、終戦時に退職して慰労金を下賜された一連の辞令や証書です。 辞令は縦21.4cm・横28.0cmの和紙で、木版印刷した空白部分に一条千代吉・四・十・五・十七」を毛筆で記入して…

淵辺高照の水野武一郎宛書状

淵辺高照の書状を紹介したい。 まず彼が何者なのかについて、「西南記伝」下・2の本営護衛将士伝「淵邊群平傳」の記述を掲げる。 淵邊群平、名は高照、初め直右衛門と稱す。薩摩の人。天保十一年鹿兒 島高麗町に生る(※1840年)。世、島津氏に仕へ帽子、其藩…

宮﨑県埋蔵文化財センター講座「山河に刻まれた西南戦争の記憶」拝聴

宮崎県埋蔵文化財センターでは、この数年西南戦争戦跡の分布調査を継続しており、堀田孝博さんが代表として発表した。ささやき情報(マンチカン帝国・佐倉桜香両氏)で知り、 しつつ、風景を眺めつつ出かけた。途中、可愛岳尾根の北東部にある烏帽子岳展望所…

神風連関係史料の紹介

和紙(青色木版印刷罫紙。縦24.0cm・横33.0cmを上から下に半折し、右上部に穴をあけて紙縒りで綴じたもの4枚)に毛筆で書かれた上記の史料を紹介したい。本史料は冒頭文から熊本県庁の記録を写したものと分かる。写本を作成した人物名(末尾近くに康とあるの…

上門手(かもんで)遺跡吉田初三郎風想像復元図

20年近く前、16世紀末頃の山城跡を発掘調査し、周辺住民に対して現地説明会をしたことがあります(大分県千歳村;現在は豊後大野市)。ここに掲げるのはその際資料として添付した自作のアクリル画です。自画自賛ですが、なかなか捨てたもんじゃないので次の…

印鑑を作る

石川九楊さんだったか、人は退職したら印鑑を彫り始めることがあると書いていた。郷土史の勉強をしたリ、絵筆・筆をとるのもそうだろう。というわけで印鑑を構想し彫り始めました。面白いの?ができるところを載せます。 左端のが今朝のもの。他のは以前、作…

川路利良1877年3月9日付の大久保利通宛書状

はじめに この書状は10年以上前に入手していたものである。今回、大分県立先哲史料館の松尾大輝さんの御協力を得て解読できたので紹介する。 書かれた日付は西南戦争が始まって一か月も経たない頃のもの。紙の寸法は右端が縦17.4cm、左端が17.3cm、横45.…

「警視出張所印」のある資料

はじめに 数日前、ブログ村に登録した機会にぶろぐ名を「西南戦争之記録」に変更しました。これまでは横文字で、我がことながら分かりにくいなと思っていたのでこれで一安心。 本日9月24日は1877(明治10)年に西南戦争が終わった日です。何か投稿しようと思…

画面の表示方法を変更したら、引用文章が分断されてしまったが、少しずつ修正します。

竹田市片ケ瀬を歩く

先日、片ケ瀬の由布 晃さんという方(詩人)から西南戦争に関する珍しい墓地があると連絡を頂いたので、今日出かけた。詳細は由布さんがいつか紹介する予定だからこれ以上触れない。自家用車は電話番号で位置情報が表示されるので簡単に由布さん方に着くこと…

西南戦争後の野村忍助 

はじめに 「野村忍助自叙傳写本」やアジ歷史料などをもとに西南戦争後の野村の動向を跡付けてみたい(高橋信武2003「野村忍助自叙傳写本」pp.120~pp.145『西南戦争之記録』第2号)。以下、太字が上記自叙伝の引用部分、〇が記述概要である。野村は忍介ある…

辺見十郎太の書状  ※💭・💛などが付くようになりました、というか付けました。

熊本市に寄託している史料について当時植木町教育委員会職員だった(その後合併したので熊本市職員だった)中原幹彦さんから問合わせがあったので、引き続き寄託を継続することにした。「征西戰記稿」や辺見十郎太書状他である。この書状は熊本市田原坂西南…

山口県のある軍夫名簿 (絵は一休み)※史料を何故かスキャンできない頁がまだあります。

はじめに 「山口縣軍夫名簿」を紹介したい。これは以前入手していたものである。 二つ折りした和紙を綴じたもので、縦32.8cm、横23.9cmになっている。全体の枚数は13枚である。運ぶには不便な大きさなので折り曲げて携行したらしく半分、更に半分に折り曲げ…

高床山 斎藤一 藤田五郎

伊東成郎著2022年「斎藤一 京都新選組四番隊組頭」河出書房新社という本を開いたところ、斎藤一(藤田五郎と称していた)が西南戦争に従軍し負傷した高床山の場所が分かっていないという記述があったので、この短文を書いておきます。同書には下記のように記…

和紙に絵を描く

和紙にアクリルで風景画を描いて、満足するのができたら最終的には掛軸にしようと計画しています。 昨日はペイントで描き続けてきた下書きをA3版4枚に白黒で複写し接合して満足。今日はアワガミファクトリーという所に注文しておいたエデイショニングペー…

「秘録維新七十年図鑑[新装版]」の薩軍の枝弾

1937(昭和12)年4月1日から5月20日まで、東京日比谷の旧国会議事堂で東京日日新聞社と大阪毎日新聞社主催の政治博覧会が開催されている。そして三か月後にはそこで展示した史資料写真を掲載して「秘録維新七十年図鑑」が刊行された。その復刻本を2018年に吉…

小幡山(おばたやま)の遠景

去年撮影したものです。以下は以前のものと重複しますが、写真があると分かりやすいので説明します。 延岡市小幡山は1877年8月15日、第二旅団が下に掲げた写真の左側から急斜面を登っている。「征西戰記稿」を掲げる。 第二旅團ハ是日熊田ヲ指シ道ヲ第一旅團…

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争(終) 9月

第三旅団の移動状況を「戰記稿」から見ておきたい. 9月1日紙屋村・綾・野尻・高原・小林に進軍。2日、左翼軍は国分に向け進軍。3日、田口村、4日横川・溝辺・加治木・国分。揖斐中佐は7個中隊を率い海路鹿児島へ。 5日、「第三旅團ハ五日三浦少將二中…

臼杵市徳尾(とくの)山の台場跡

5月5日、午後、臼杵市井村山の北東側の稲田周辺の山で戦跡踏査を行った。ずーと歩いてゆくと、最後の高まりに塹壕跡があった。これは長い塹壕跡で50ⅿくらいは土塁が続き、背後内側の南側は一段下げられており、畑に再利用されたことがあったらしい。東側の延…

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 8月 ※この一連のブログの引用に際しては、筆者名・記事名を明記せず使用することを禁じます。

8月1日の「戰記稿」から。 八月一日第三旅團第三旅團ノ先鋒川村少佐ノ兵ハ昨夜十一時已ニ別働 第二旅團及ヒ第二旅團兵ト連合佐土原ニ進ミシニ賊千人許狼狽遁走シ 忽チ又防禦線ヲ前岸ニ設ケテ我ヲ拒キ射擊シテ是日猶ホ未タ止マス川 村乃チ防禦線ヲ右翼廣瀬ニ…

次亜燐(じありん) 

次亜燐は昔の栄養剤です。自分が大分県内の発掘調査に従事していた際、ある遺跡で最初の表土剥ぎを重機で実施中にゴミ穴からガラス瓶が沢山見つかり始めたので、重機を止めて手作業で回収し、100点以上出土したガラス瓶類を発掘調査報告書に記載したことがあ…

臼杵市井村山の戦跡 田ノ口に戦跡なし。5月23日踏査結果。

はじめに 巻尺の位置が塹壕内側の窪みです。向こうに見えるのは藤原山。 塹壕跡から見た北東方向風景。中央左に龍王山、右は大迫山。低地を横切るのは臼坂バイパス。 大迫山の踏査以来、周辺のいくつかの戦跡が未踏査であることに気づきました。その一つが井…

水ケ城山踏査

2022.3.5朝8時に出発し40分で駐車場に着き、大迫山5号台場跡の略図を午前中作成しました。pm2.5のために終日遠景視界は不良でした。その後、第二の目的地である水ケ城山に向かいました。山の南側にある白馬渓(文化年間に臼杵の町人が開発した風光明媚の地)…

大迫山の見学会をおこないました

臼杵市海部振興協議会が主催して「緑輝く三角台の歴史をたどる春登山」を2月26日(土)午前9時からおこない、西南戦争の官軍遺構群を説明しました。当日は39人の参加があり、天気も良く気持ちのいい近場の山歩きでもありました。上は大分合同新聞3月4日記事…

臼杵市大浜・中津浦背後の山歩き

1.2020.2.12、最近気になっていた大迫山の南東側、大浜集落背後の地域を歩いてみました。 集落の背後の山寄りに大きな墓地があり、そこに駐車できたのでそこから北西側の山に入り、枯葉で滑り易い斜面を立木を掴んで登りました。近年ほとんど立ち入る人が…