はじめに
この書状は10年以上前に入手していたものである。今回、大分県立先哲史料館の松尾大輝さんの御協力を得て解読できたので紹介する。
書かれた日付は西南戦争が始まって一か月も経たない頃のもの。紙の寸法は右端が縦17.4cm、左端が17.3cm、横45.6cm。書状よりも少し厚手の和紙に貼り付けられている。その台紙和紙の裏面には糊を剥がした痕跡はない。したがって扁額や襖などに貼って飾っていたのではなさそう。
右上部に丗号(丗は不確実)という朱書きがあるが、字の上部は切り取られていて、存在しない。つまり書状も切り詰められている。台紙には朱が及んでいないので、貼り付ける以前の記入と分かる。受け取った大久保か周辺の者が番号を付けて保管していたのだろう。
書状の写真
上段に全体を掲げ、その下に部分写真を掲げる。
解読文は次の通りである。
丗号
尚大浦二等少警部差上候間事情御聞取被下度候也
只今石川縣出張之内ゟ(※より)警部壱名来り戦地ニ向ひ度赴願出候彼ノ
表(※おもて)差程ノ無事の赴ニ候得共縣廳ニ於テ盤(※は)大ニ恐レ居
候赴ニ承候別紙持居書供御覧候也
三月九日利良
利通公
閣下
冒頭の尚大浦二等少警部差上候間事情御聞取被下度候也は余白のある冒頭に最後に書き足したものである。内容は以下。
「石川県に出張している警察部隊の内から警部が一人川路に戦地に行きたいという皆の希望を伝えに来た、石川ではさ程のことはない様子だが県庁は大いに恐れている状態だとのことであり、別紙を持参しているのでご覧ください。なお、大浦二等少警部をそちらに行かせますので事情を聴きとってください。」
これ以前、明治9年12月三重県で起きた農民暴動、別名伊勢暴動の鎮圧に名古屋鎮台と大阪鎮台から合計3個中隊、さらに警視庁から巡査200人が派遣されていた。事件後、巡査は石川県に派遣されており、石川県出張とはこのことを指す。
3月16日午後2時15分、彼らに対し大久保参議から小銃70挺・弾薬を貸し出すよう大阪陸軍事務所の鳥尾小弥太中将に依頼電報が出されている。200人ではなく70人に減っている。
C09081778100「明治十年自二月至五月 来翰日記 附伺届 神戸陸軍參謀部」(防衛省防衛研究所蔵)0282
第三百五十九号
石川縣ヨリ本日到着ノ巡査直ニ熊本地方江向ケ出發セシムルニ付小銃七十
挺弾薬共御借渡シニ成リ度旨大警視ヨリ申出候右繰合セ御許可ニナリタシ
至急御返事ヲ待ツ
三月十六日午後二時十五分發
〃 三十分届
大久保参議
鳥尾中将殿
鳥尾中将ヘ上申ス
C09081778100「明治十年自二月至五月 来翰日記 附伺届 神戸陸軍參謀部」(防衛省防衛研究所蔵)0282
第三百六十六号
スナイドルアルミニー之内五六十挺巡査ニ渡シ方之儀銃ハ差支ナケレノモ弾薬
戦地ニテ費ヤス数一日六十萬ナリト井上少佐ヨリ報知アリ此レニハ甚タ痛心
致シ鳥尾中将江上申セシ次第モアリ可相成ハエンピールヲ貸渡ナリタシ何分
ノ返事待ツ
三月十六日午後七時五分
關 中佐
茂野中佐殿
関中佐は大阪砲兵支廠所属、滋野中佐は征討総督本営参謀。これまで、田原坂で一日に32万発を消耗したことが強調されてきたが、戦地全体では60万発を消耗していたのである。この数値の大部分はスナイドル弾薬(アルミニー銃でも使うことができた)であり、陸軍は急速に減少する在庫を心配し、使っていないエンピール銃を巡査には渡したいということ。この銃は火薬と銃弾を別々に筒先から装填せねばならないため発射速度が遅かった。熊本鎮台小倉分営部隊が通常装備のエンピール銃を福岡県庁に預けてスナイドル銃と交換し熊本に向かっているように、戦場ではできれば使いたくない小銃だった。
川路は20日、別働第一旅團長(旅団名称はめまぐるしく変わった。25日には別働第四旅団、最終的に別働第三旅団)に任命され、21日に神戸港を発ち23日長崎に着いた。その後、八代南部の日奈久に上陸し衝背軍として八代・宇土・熊本城へと進むことになる。大浦等石川県出張巡査らが何日にどこの戦地に到着したかは分からないが、田原坂を突破した3月20日以降に熊本県に着いたはずである。「西南戰鬪日注並附録 一」に別働第三旅團編制表があるが、石川経由で従軍した警察官代表として大浦を探すと大浦の名は第五大隊中隊長3人の内に出ている。アジ歴では次の史料だけが検索できた。
C09082175900「明治十年 探偵報告書 軍團本営」(防衛省防衛研究所蔵)0450・0451
宮ノ原出張大浦警部ヨリ報告書事情申出書
記
一賊植木其他ヲ潰走シテヨリ去ル十六日以来肥後國南郷上下ノ久木野村辺
ニ於テ人夫ヲ雇ヒ頻リニ荷物ヲ運送シ当時本營ヲ南郷ノ下市ヘ轉シタリ
ト又同所新町ヘハ病院并ニ器械所等ヲ設ケ頻リニ弾薬ヲ製造スルト云フ
一南郷ヘ集リタル賊ノ勢只官軍ニ對スル諸口ノ要地ヘ砲臺ヲ築造目今進撃
スルノ勢ヒ無シ依テ思フニ数十日ノ戦勞ヲ除キ大ニ兵粮弾薬ヲ整備シ十
分兵氣ヲ養ヒ以テ何レカ進軍スルナラン
一肥後ノ南郷タルヤ先ツ一面ノ平地ニシテ四方ニ連山加之土地豊饒故ニ兵
ヲ養フニハ大ニ便ナラン
右探偵旁〃事情概畧上申仕候
二等少警部大浦兼武
四月二十一日
久留米参謀部
坂元少佐殿
宮の原は宇土半島の南側付け根付近にある。とすれば大浦等は川路らと別行動していたわけではなさそうである。