西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 8月 ※この一連のブログの引用に際しては、筆者名・記事名を明記せず使用することを禁じます。

 8月1日の「戰記稿」から。 

 八月一日第三旅團第三旅團ノ先鋒川村少佐ノ兵ハ昨夜十一時已ニ別働

 第旅團及ヒ第二旅團兵ト連合佐土原ニ進ミシニ賊千人許狼狽遁走シ

 忽チ又防禦線ヲ前岸ニ設ケテ我ヲ拒キ射擊シテ是日猶ホ未タ止マス川

 村乃チ防禦線ヲ右翼廣瀬ニ第四旅團ニ連(※連ね)下リ村前面ヲ畫シ

 二中隊生本城兩大尉ヲ此ニ休憩セシメ左翼ヲ第二旅團ニ連接ス〇又

 倉岡ナル歩兵三中隊栖横地大多和(篤義)三大尉及ヒ砲兵二分隊ト一小隊

 ヲ佐土原ニ進マシム

 第三旅団の先鋒川村少佐隊は7月31日23時に別働第二旅団・第二旅団と連合して佐土原に進んだところ、薩軍約千人が一ツ瀬川の対岸に逃走して防禦線を築いた。そこで先鋒は川の手前に防禦線を設けた。第三旅団右翼は広瀬の第四旅団と連なる下リ村を境とし、左翼は第二旅団に連接した。また、倉岡にあった歩兵三個中隊と砲兵を佐土原に進めた。佐賀利という集落が佐土原中心部から1.7㎞ほど東、一ツ瀬川南岸にあるのを下リ村としたのだろう。

参考までに、上は「新編西南戦史」附図だが見にくいので上下に分割で示す。

 3Bというのが第三旅団である、分かりにくいが。3旅じゃダメなんか。

 下記は下リ村(佐賀利)に置かれた柳生隊の報告である。

  C09084819900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0742・0743

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第三中隊大尉柳生房義㊞

  総員:百三十名  

  傷者:下士卒壱名   戦闘日時:八月一日 

  戦闘地名:鹿児島縣下佐土原髙鍋川

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時高鍋川ニ防禦線ヲ設ケ敵間二百メートル

  ニテ互ニ射撃戦傷壱名アリ午后第一時第二旅團歩兵第九聯隊伊藤大

  尉ノ隊ト交換ス  

  敵軍総員:凡三百五十人   備考我軍:傷者 一等卒 川﨑吉三郎

 柳生・本城隊は「戰記稿」では下リ村前面で休憩とされたが、柳生隊は戦っている。高鍋川とあるのは高鍋の南にある一ツ瀬川だろう。午前3時に一ツ瀬川の南岸に防禦線を設けて銃撃戦を行っている。敵までの距離は200ⅿとあるが、現在の地図では両岸の土手上を走る道路の距離は500ⅿ弱である。この日の別働第二旅団岩尾惇正の従軍日記を引用したい。当時の状況の一端を知ることができる。

  八月一日本軍第二旅團及第三旅團陸続来リ一ノ瀬川ヲ挾テ守備ヲ設ク

  我翼ヲ第二旅團トシ其右ヲ第三旅團トシ第四旅團モ廣瀬ヲ取リ其右

  ニアリ而テ我哨所ハ高鍋本道ニアリ一ノ瀬川ハ都ノ郡ノ方位ヨリ来

  リ佐土原ノ外面ヲ繞テ海ニ入ル此日始テ海面ヲ見ル我隊ハ此日一日佐

  土原ニア薄暮リ第廿九中隊ニ替テ哨線ヲ守ル故ニ市街ノ景况ハ之

  ヲ記スル能ハス此一ノ瀬川ハ深ク乄徒渉スヘカラス且川巾大約百米

  許故ニ賊トノ間近巨离ナルヲ以テ日中塁ヲ築ク能ハス殊ニ我地ハ彼ノ

  地ヨリ低下シ加フルニ砂地ナルヲ以テ漸ク塹壕ヲ築クモ一発ノ小銃弾

  ヲ受ルノキハ乍チ破壊セラル故ヲ以テ実ニ危嶮極リナシ賊ハ土堤ヲ堀リ

  塁ニ代フ故ニ堅固ニ乄且其所在ヲ探知ル能ハス夜ニ至テ哨兵線ニ砲

  ヲ設置スルヲ以テ砲兵及ヒ人夫多分ニ来ル偶マ我左屯田兵ノ哨所ヲ

  前面川ノ中央ニ賊来ル故ニ一時放火ヲナス然ルニ此人夫等ハ全ク賊ノ

  来ル者トナシ砲ヲ率テ狼狽市街ヲ指テ遁ル故ニ一時ノ雑沓恰モ賊ノ奇

  襲ニ遇ヘシ者ノ如シ之ト同時ニ右翼ニ於テモ放火ヲ始メ終夜大小砲ノ

  音絶ヘス

  (高橋信武2020「西南征討日誌(別働第四旅団岩尾惇正従軍日記)」『歴史玉名』第92号PP.26)

 なお、岩尾等の隊は初めは別働第四旅団だったが、途中で別働第二旅団と合併している。北岸の薩軍は土堤の上に台場を築いていたが、岩尾等は土堤よりも川に近寄った低地に台場を築いていたのである。

 柳生の戦闘報告では守備を第二旅団伊藤隊と交代しているが、伊藤隊の報告は存在しない。

     C09084820000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0744・0745

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊中隊長大尉弘中忠見㊞

  総員:百〇七人  

  戦闘日時:八月一日   戦闘地名:倉岡嵐田川ヨリ宮﨑ニ至ル

  戦闘ノ次第概畧:午前四時倉岡嵐田川ニテ開戦直チニ渉川賊壘ヲ落シ

  入尾撃八時頃宮﨑ニ入リ後佐土原口池内村ニ進ミ宿陣ス 

  我軍ニ穫ル者:弾薬 若干 エンヒール   備考我軍:死傷ナシ

  備考敵軍:弾薬破棄セリ

 前日7月31日の報告ではないかと思わせる内容である。弘中隊は31日の戦闘報告表が存在しないので、おそらく日付を間違えたのだろう。

 8月2日の「戰記稿」は、第三旅團ノ先鋒モ亦高鍋ニ入ル沿道ノ賊戰ハスシテ潰走ス是日牙營ヲ佐土原ニ移スと簡単である。

  C09084820100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0746・0747

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第三中隊大尉柳生房義㊞

  総員:百二十五人   戦闘日時:八月二日   戦闘地名:※空白 

  戦闘ノ次第概畧:援隊ニテ午前第六時佐土原ヲ発シ午后第二時三十分

  髙ニ進入捕品左之通  

  我軍ニ穫ル者:俘虜 下士卒二名 銃 拾四挺  弾薬 五箱  

  器械 銃工具壱箱 刀 壱本  備考敵軍:俘虜ハ負傷  卒 貳名

 戦闘地名欄が空白なのは戦闘がなかったからということだろう。佐土原から高鍋まで8時間半かかっている。

  C09084820200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0748・0749

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長栗林頼弘代理陸軍中尉中村

   覺㊞  我軍総員:将校以下百十五名  

  戦闘日時:八月二日  戦闘地名:髙鍋 

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第七時過キ佐土原出発髙鍋ニ至ル途中更ニ

  戦セズ髙鍋ニ至ル頃午后第二時ニ及フ

 佐土原から高鍋まで7時間弱かかっている。

  C09084820400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0750・0751

  第三旅團第九聯隊第三大隊第三中隊 陸軍大尉本城幾馬㊞

  我軍総員:八拾名  

  戦闘日時:八月二日   戦闘地名:日向国児湯郡髙鍋    

  戦闘ノ次第概畧:八月二日下リ村ノ大哨兵ヲ引上ケ一ツ瀬川ヲ渡リ進

  ム賊逃走スル以テ髙鍋ニ至ル

 佐賀利村から高鍋まで戦闘せずに到着している。

この日の「西南戰袍誌」の一部を掲げる。

  本日の戰況を司令長官に報告し舎營を下村舊穢多村☆☆☆☆☆方に設

  く。所に山縣参軍來り休憩す随行者の中に東京日日新聞記者として

  末松謙澄もあり、談話中誰れなるか此家は穢多なりと云ひしに末松呵

  と云ふて飲み掛けたる茶を棄たり、参軍其態度を見て失笑し、末松今

  のは何にか平素貴様は民權を主張し居るではないか未だ舊穢多を區別

  し居る乎と末松氏一言なかりし。 

 この時の山縣は人間観察が細かいだけでなく、お前の主張は本心なのかと相手に突きつけたわけである。さらにそれを記憶していて記した人がいた。

 8月3日の「戰記稿」第三旅団に関する全文。

  第三旅團ハ是日牙營ヲ高鍋ニ移シ午後十時ヨリ美々津川ニ向ケ進軍ス

 高鍋から美々津川までは25㎞ほどである。3日から7日までの戦闘報告表は存在しない。4日からは美々津川の南岸にあって対岸の薩軍とにらみ合い銃砲撃を交わすのみだった。丁度長雨が続き、川は急流となり渡ることができなかったのである。「西南戰袍誌」によると4日は晴雨交至る、5日から7日は半晴半雨、8日と9日は大雨とある。

 4日の「戰記稿」全文。

  第三旅團ハ是日全軍ヲ舉テ美々津町ニ入ルニ賊尚ホ在リ乃チ第四旅團ト

  ニ之ヲ擊ツ賊輙チ川ヲ渡テ退ク因テ川ノ西岸ニ配兵シ厚東中佐之ニ指令タ

  リ右翼ヲ第四旅團、左翼ヲ第三旅團ニ接ス〇是日牙營ヲ高松村ニ移ス既ニ

  シテ前岸ノ賊銃砲ヲ以テ頻リニ美々津町ヲ射擊シ且ツ美々津近傍ハ諸旅團

  兵ノ雜■甚タシキヲ以テ五日ニ至リ牙營及ヒ砲廠輜重病院ヲ都濃町ニ轉ス

 上記中、左翼ヲ第三旅團ニ接スは、同じ頁で第二旅団の配置を述べた部分によれば左翼を第二旅団に接す、が正しい。美々津川の川下から上流に向かい、第四旅団・第三旅団・第二旅団の順に配置に就いていたのである。牙営を置いた高松村は美々津川の南2.8㎞にある。

 現在、宮崎県埋蔵文化財センターが県内の西南戦争戦跡の分布調査を継続中で、耳川両岸でも多数の台場跡を確認済であり、後日の報告が楽しみである。「西南戰袍誌」を掲げる。

  八月四日晴雨交至る 山縣參軍更に進軍の令を下し部署を定め方略を授

  る左の如し。

   第三旅團は第四旅團及新撰旅團と共に美々津に進軍し、直に美々津要

  に砲壘を造して嚴重に守備を設くべし。而て河を渉り前面の賊壘を突擊

  するは實地目擊の團長の意見を申告すべし。

   午前二時諸隊高鍋を發し市外川原に集合して都濃町に進み敵情を探偵

  るに、賊は已に美々津川を越へ要地を守備するを以て、更に美々津に進で

  右岸の要地に守備を設く。高鍋より美々津迄七里の間旅團一道を行進する

  を以て混雜甚し。予等は高松村に入り齊田仁三方に舎營す。

 この時、第三旅団が具体的にどこを守っていたのかを示す記録がある。

  C09082207800戦闘報告並部署及賊情探偵書類 明治10年2月24日~10年8月16日(防衛省防衛研究所蔵)0246

  本日午後第三時当田ノ原村ヘ着敵ノ景况探偵且ツ処〃巡視候處当村ゟ十

  六丁相隔テ美々津川向岸トイ川(※鳥川。この紙は今井中佐の字ではなく、写した人

    が誤記したらしい)村背後ノ山上ゟ美々津町前岸迠數十ヶ処之胸障ヲ築設守衛

  兵モ夫〃籠居之様ニ相見得候尤モ左翼別働二旅團ノ守備線何方迠トカ儀更

  ニ不相分候ニ付則坪屋村福瀬村方面ヘ向ケ斥候隊差出候得共未タ帰營不致

  候ニ付守備線不相分右□第三旅團守備線ハヨセ村背後之岡上ヘ守備線ヲ設

  有之尚背后山上ゟ直経七合位ニ相見得其内深□ニ而丘連絡俄カニ先着ノ兵

  員ヲ以聯絡ヲ附着スル叓不能就中別働第二旅團ノ守備線何レトモ不相分候

  ニ付テハ地理不熟ノ塲處柄猥リニ延線候時ハ危害ノ恐レ甚敷仍テ本日ハ我

  カ引卆ノ先發隊ヲ以テ當村ノ周囲ノ要地并ニ証失(※征矢原村)ゟ坪屋ヘ

  ノ通路ニ守備線ヲ設ケ厳重警戒ヲ加ヘ置候間决テ御係合被下間敷候尚明日

  ハ早天ゟ左翼別働第二旅團ノ守線ヲ捜索之為メ斥候隊差出候積リ守線相分

  リ候次第直ニ連絡相通シ候様可致尤第三旅團ゟ士官相見得候ニ付本日守備

  線且別働第二旅團守備線不相分等之儀營候上其筋ヘ演舌致候様申聞置候

  右先以不在散上申仕候也   田ノ原村   

   八月四日          今井中佐(※第二旅団)

    三好少将殿

 第三旅団が8月4日の時点で美々津川右岸余瀬村背後の山上を守備していたことが分かる。戦記類は美々津川とするが、現在の地図は耳川となっている。

 上も「新編西南戦史」日向各地の戦闘経過附図。見にくいが分割して示す。左が上部、右が下部。美々津川付近を取り出して作成した附図はないので、これに替える。下図は戦記の登場する地名を抜き出した現在の地図である。右部分は日向灘

 8月7日、山縣は美々津川(耳川)南岸にひしめく各旅団に8日の進撃を命ずると共に、各旅団が整然と行動するよう行軍順序と渡河後の目的地を分けて命じた。第三旅団は8日の進撃は割り当てられなかった。

 7日、別働第二旅団は美々津川(耳川)上流を北岸に渡り、山陰やまげ地方の薩軍を破って進撃し、一部部隊は美々津川北岸の背後を迂回して海岸沿いにある富高新町に突入した。下流域北岸に陣取る薩軍側は右側面が危うい状態になり、持ち場を捨てて退去北上し始めた。

 8日の「戰記稿」には第三旅団の記事はない。

  C09084820400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0752・0753

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞  

  総員:将校以下百〇九人  

  戦闘日時:八月八日   戦闘地名:ヨセ村上ノ山美〃津川    

  戦闘ノ次第概畧:午前四時三十分頃ヨリ攻撃隊トシテ臺塲前ニ進ミ美ヽ

  川ノ岸ニ我軍散布シ川ヲ隔テ賊壘ニ向テ開戦此地ノ賊ヲ拂フ此日大雨満水

  渉川スルヲ得ス十二時頃帰線ス   備考我軍:死傷ナシ

 弘中報告でもヨセ村の上の山という守備地が登場する。午前4時半山を下り川岸に散布して対岸の薩軍を小銃射撃し、敵は眼前から消えたようである。

  C09084820500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0754・0755

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長 陸軍大尉齋藤徳明㊞  

  我軍総員:八拾五名 死者:下士卒一名  

  戦闘日時:八月八日   戦闘地名:美々〃津川上流   

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時出発正面ヨリ山降シ同五時四十分川岸ニ至

  賊塁ニ向ケ砲発セシニ一賊ヲ不見然レノモ川水漲リ渡川スル不能ルヲ以テ旧

  線ニ引揚ケ守備ス

  備考我軍:溺死 一等兵卒室伏卯之次郎   

  備考敵軍:午前第五時出発正面ヨリ

  山降シ同五時四十分川岸ニ至リ賊塁ニ向テ砲発セシニ一賊ヲ不見故ニ渡

  セント欲シ向岸之舟ヲ得ル為メ兵卒二名ヲ游泳セシメシニ急流ニシテ不能

  渡一ハ半渡ニシテ復リ一ハ溺死ス時ニ川水益増加シ渡川之術無キヲ以テ旧

  線ニ引揚ケ守備ス

 余瀬村背後の山を40分かかって下り、川岸から対岸を攻撃した。敵が一人も姿を現さないので、対岸の舟を得ようと二人の兵卒をやったが、一人は溺死し、一人は引き返した。渡る術がないので山上に引き揚げた。

 「西南戰袍誌」を掲げる。 

  八月八日大雨 午前四時より河の南岸に兵を展開し對岸の賊壘を射擊す

  山陰地方に官軍進出せしを以て彼れ背後を斷絶せらるヽを以て皆狼狽して

  遁去る。之れを追撃擊せんと欲するも川幅廣く且つ急流にして大雨の爲め

  川水滿漲し渡河する能はず、渡河を試み兵卒一名溺死す、止むを得ず一反

  兵を収め雨止み水の減ずるを待つ、午前十時頃暴風雨となり樹木を倒し土

  堤崩壊す。

 戦闘報告表にあるように敵の姿が見えなかったのは理由がある。耳川(美々津川)上流側で北岸の山陰やまげ地方を官軍に奪われたことが薩軍には背後を襲われる脅威となり、耳川北岸の守備を捨てて北に退却したのである。

 「戰記稿」8月9日第三旅団の記事全文。

  第三旅團ハ是日牙營ヲ美々津町ニ移ス

 本営は最前線から常時少し遅れて前進していた。耳川北岸から薩軍が退却したので4日に高松村に置いた本営を耳川河口右岸の美々津町に移したのである。

 8月10日には諸旅団守備線の方面分担が決定した。海岸部から述べると、第四旅団は細島ヨリ延岡街道ノ右側ニ至リ其最右側ト爲ル・新撰旅団は第四旅團ニ連リ街道左側ヨリ逓次左延・第三旅団は新撰旅團ノ左ニ連リ黑木村ニ至ルヲ限リトス・第二旅団は黑木村ヨリ宇納間ヲ限ル・別働第二旅団は宇納間ヨリ七山ニ至リ其最左翼第一旅團ニ連繫スである。七ツ山といわれる地域は広いようで場所を特定できないが以上を図示する。第一旅団は阿蘇方面から五瀬川流域を東進中であり、その左翼は大分・宮崎の県境地帯で薩軍と対峙中の熊本鎮台と連絡をとっていた。薩軍に対する包囲網は次第に狭められていたが、北上する旅団の速度が最も早かった。

 「戰記稿」8月10日記事。

  第三旅團ガ是日大島少佐竹下中佐ノ師ル所ノ部下四中隊佐々木栗栖沖田岡四大尉

    ノ隊ヲニ分一ハ鳥川道、一ハ田之原道ヨリシ美々津川ヲ渡リ進テウケ

  ニ至リ相合シ又進テ日ノウチ一ニ日ノ平ニ作ルヨリ永田村ニ入ル沿道餘賊

  十名ヲ慮ニス

 次いで11日、

  第三旅團ハ三浦少將、山縣參軍ノ議ニ依リ是日全團ヲ先鋒ニ進メ新町ニ

  營ス美々津ノ守備ハ一ニ新撰旅團ニ委ス

 「戰記稿」8月9日第三旅団の記事全文。

   第三旅團ハ是日牙營ヲ美々津町ニ移ス

 本営は最前線から常時少し遅れて前進していた。

 12日の第三旅団戦闘報告表が4件ある。

  C09084820600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0756・0757

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長 大尉岡 煥之㊞

  総員:百十二人   

  戦闘日時:八月十二日   戦闘地名:鹿児嶋縣下日向国五カセ川   

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分髙冨新町ヲ発シ黒木邨迠繰込可クノ

  ヲワノ野邨ニ賊アリ先頭第二旅團ノ行進路ヲ妨ク依テ援兵トシテ尚千原ニ

  進ムニ命アツテ出山ニ登リ茲ニ防禦線ヲ占ム 

 冨高とあるべきを髙冨としている。門川の海岸から五十鈴川を直線距離で7.5㎞遡ったところに上井野があるが、これがヲワノ野だろうか。さらに上井野から五十鈴川を直線距離で7㎞遡ると黒木がある。千原は場所不明。

 C09084820700「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0758・0759

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉栗栖毅太郎㊞  

  我軍総員:第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊 七拾六人   

  戦闘日時:八月十二日   戦闘地名:小原村尾張野村   

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分新甼地ヲ発シ同十一時頃三ケ瀬内小

  村ニ到レハ賊アリ既ニ第貳旅團ニテ開戦シアルヲ以テ急ニ其右翼ニ迂

  ス径路更ニナシ叢樹亂横崎嶇云フヘカラストモ漸ク攀躋山頂ニ出テ一薺

  ニ鯨波ヲ發シテ発射シ且ツ漸次ニ兵ヲ河岸ニ下シテ點發セシム賊支フルヿ

  能ハス背後ノ山道ヲ差シテ敗走ス此時午後七時頃也日晩ナルヲ以テ之レヲ

  追撃セス依テ北ノ山上ニ守備ス   

  我軍ニ穫ル者:銃 三挺 属具共  器械 刀四本 

  備考敵軍:一銃三挺内一挺ハスニーテル銃ニシ二挺ハヱンヒール銃ナリ

 上図は栗栖隊の軌跡である。第二旅団は低地から攻撃していたのか?午後7時頃まで戦いは続いた。

  C09084820800「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0760・0761

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第一中隊 陸軍大尉山本 弾㊞  

  我軍総員:第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊 九十五名   

  戦闘日時:八月十二日   戦闘地名:※空白   

  戦闘ノ次第概畧:八月十二日午前第三時美〃津出発同所渡川シ新町并冨

  村ヲ経テ進軍河内三ケ瀬河瀬原村江午后第二時着仝所ニテ一小隊門川街道

  ニ防禦線ヲ設ケ午后第八時ヨリ二分隊第二旅團押兵トシテ黒木村街道入下

  ニ分遣ス

 三ケ瀬は阿仙原の南、赤木付近だが、河瀬原村は不明。字句通りに解せば河原の広がる村だろう。新町からそこに至経路は分からない。

 C09084820900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0762・0763

  第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊 陸軍大尉沖田元廉㊞  

  我軍総員:第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊 八拾四名   

  戦闘日時:八月十二日   戦闘地名:日向国門川   

  戦闘ノ次第概畧:午前五時三十分冨髙新甼ヲ發シ三ケ瀬村ヘ進軍後村ニ

  レハ賊門川ノ向岸ニ在テ砲撃セリ依テ本道右側ノ峽谷ヲ守備セリ 

 後掲の浅海隊と似た行動である。次は第二旅団の戦闘報告表である。

  C09083969900「明治十年 戦闘報告 第二旅團」0073~0076征討総督本営罫紙

  八月十二日臼杵郡ウワヰノ村戦闘報告表

  八月十二日第二旅團第十一聯隊第二大隊合併第三中隊司令陸軍大尉浅

  直㊞(※人員欄を略す。総員103人)備考(※戦死・負傷欄を略す。)

     戦闘景况之部

  本日攻襲偵察ニシテ午前第四時内平村ヲ発シ其前衛ニ在テ行進シ佛越及

  赤木ヲ経テ本河内ニ向フ川ヲ隔テ﹅賊ノ展望兵ヲ見ル我尖兵之レヲ呵

  展望兵走リ報ス因テ賊ノ舎營スル者凡ソ百五十名皆逐テ走ル前兵追撃ス賊

  兵遁逃跡ナシ故ニ隊ヲ止メ撒兵ヲ集ム哨兵又賊ノ山上ニ在ルヲ報ス直ニ斥

  候ヲ出シテ之レヲ探ル賊兵退テウワヰノニ塁ヲ築ク於是全隊亦進ム◦午后

  第一時賊ヲウワヰノニ見ルヤ前兵川ノ手前ニ散布ス賊兵乃チ之レヲ狙撃ス

  時援隊ノ頓占スル地勢タルヤ平田ニ属スルヲ以テ退テ左轉シ山ヲ廻リ前面

  撒兵ノ左翼ヨリ援隊線ヲ進メテ救助ス日暮遂ニ後方ノ防禦新線ニ退テ守備

  ヲ付ス賊兵夜ニ乗シテ塁ヲ棄テヽ去ル此兵賊ノ振武隊云フ由

     雜報之部

  小銃十三挺 刀壱本 胴乱五個 鍬三

 第二旅団浅海大尉の戦闘報告ではウワイノ村とあるのが第三旅団岡大尉のヲワノ野だろうか。午後1時に敵を発見し、敵は振武隊で150人程だったとある。開戦時間の記録は後でも出てくるが一定していない。

 C09083976900「明治十年 戦闘報告 第二旅團」0073~0076征討総督本営罫紙

   明治十年八月十二日日向国臼杵郡上衣野村戦闘報告表

  明治十年八月十二日第二旅團歩兵第九聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉

  和智重仕㊞  (※人員欄を略す。総員83人)

         戦闘景况

  黒木村攻襲偵察之命ヲ奉シ午前第四時内平村集合塲ヲ発シ第十一聯隊浅

  大尉之隊先頭ニテ当中隊之レニ次キ進ンテ小原村ニ至リ先頭隊賊兵ヲ発見

  シ一撃之下ニ之レヲ驅逐シ尾撃アセンバル村ニ至リ賊ノ糧食炊爨塲ヲ奪ヒ

  午飯ヲ喫シ尚進ンテ上衣野ニ達セントスルノキ賊兵同川對岸ノ隳篁中ヨリ

  突然急ニ放火スルヲ以テ先頭隊直ニ前岸ニ拠リ對戦シ当中隊ハ左方之山ニ

  登リ目下ニ賊塁ヲ射撃ス于時午后第十二時四十分ナリ須臾ニシテ出征第三

  旅團ノ兵到着共ニ攻撃スルト雖ノモ賊要地ニ拠リ進取スヘカラス故ニ守線ヲ

  アセンバルノ山上ニ撰ミ午后第六時半該線ニ引揚ケ守備ヲ嚴ニ

 昼食後に五十鈴川北岸から銃撃され戦闘が始まった。昼12時40分過ぎに第三旅団が到着し、阿仙原の山上に引き揚げたのは午後6時半だとあるが、来栖隊報告の午後7時頃とあるのが6時台の意味だと分かる。

 上図は浅海隊の進軍経路概略である。地図を横倒しして左が北である。図の右上外側に日向市街地がある。浅海報告から赤木を通ったと判断した。

 直前に引用した浅海隊と共に進軍しており、浅海のワヰ村がここでいう上衣野村と同じ場所だと判明する。発音が現在の地図にある上井野うわいの村に近づいてきた。上図は上井野村付近の拡大図である。両軍がどこに位置して戦ったのか、推定してみた。和智隊は上図の赤丸から対岸を攻撃し、浅海隊は村の対岸低地部から攻撃したのだろう。沖田隊は本道右側ノ峽谷に配置に就いて戦っている。

 これらの戦闘報告表から、第二旅団と第三旅団左翼とが重複した地域に進軍したことが分かる。なお、放火の意味は射撃である。想定場所には台場跡があるかもしれない。

 以上、官軍の記録を見てきたが、次は上井野村を守っていた薩軍側の記録をみておきたい。浅海報告で薩軍が振武隊だとあるとおり、彼らの上申書があった。

 石原近秀は振武ニ番小隊に属し、諸所の戦いを経て耳川北岸の飯谷村を守り、8月8日に上流山陰方面が敗れたのち門川町川内に引き揚げ、翌日他の3個中隊と共に「上井村迄進ミ守兵ス、爰ニ於テ敵兵襲来味方破軍ス、我左小隊川路(※川内)村ヘ遊兵ノ故ヲ以テ直ニ繰出シ、同所川ヲ隔テ戦フ、此時大利ヲ得追々味方モ走来リ爰ニ堅守ス、翌日延岡ノ内門井破軍ノ報ヲ得松山村迄引退キ、爰ニ於テ足痛ノ故ヲ以テ長井村山中ニ潜伏セシ時、同所敗軍ノ際敵兵ヨリ取囲マレシ時帰順仕候也、「石原近秀上申書」『鹿児島県史料 西南戦争第三巻pp.114~115』)とある。

 解釈すると次のようになろうか。耳川北岸の飯谷村を守っていたが上流の山陰方面が敗れたため退却し、8月9日に上井村に移動した。その後12日に官軍が襲来し、すぐ近くの上井野の薩軍が敗れたので川内からすぐに駆け付けて応援した。川内は上井野の川向う南西約500m前後にあり、官軍が進んで来た場所にあり、石原の属する左小隊が守っていた。この部分は矛盾があるが続ける。石原等は川の北側から南側の官軍を攻撃し大勝利だった。翌13日、延岡ノ内門井という所が敗れたので松山村に退却した。門井は場所不明。松山は上井野の北東12㎞に位置し、五ヶ瀬川左岸の集落である。

 もう一つ上申書がある。平田幾之介は当時振武六番中隊長で、8月5日には耳川北岸の「袈裟村ト云フ所ニ哨兵ス、同八日官軍間道ヲ経テ富高新町ニ突入、既ニ我背後ヲ衝ク、我兵支フル不能、夜ニ乗シ門川之内尾張野村ニ退キ哨兵ス、同十二日午前十時頃ヨリ官軍来襲、我兵防戦スルコト終日、暮ニ至リ門川口ノ味方既ニ敗レシ由急報アリ、依テ我隊ヲモ間道ヲ経テ翌朝延岡之内三輪村ニ曳揚ケ見レハ、三田井口方面ハ已ニ打破ラレテ同所旧城下ヘ引退キ防戦最中ノ由、因テ我モ応援トシテ同所ニ到ッテ戦ヲ交ユ、「平田幾之介上申書」『鹿児島県史料 西南戦争第三巻pp.892~894』)」という状態だった。袈裟村は耳川北岸のどこか場所不明。尾張野村は官軍側一部が使った言葉と同じで上井野村のことである。12日午前10時頃から攻撃され終日戦闘が続いたという。開戦時間に関する情報である。先に登場した昼食後に銃撃された、というのは正確な時間が分からない。昼食は何時でも摂れるから。日暮れに門川方面の味方が敗れたとの報知があったので翌朝五ヶ瀬川右岸の三輪村に引き揚げた。三輪村は松山村の南西方向にある。

 上図は振武隊の移動経路概略である。方位は北が右。この二つの振武隊は耳川北岸から撤退した後に上井野に移動しているが、しばしば目にするのは耳川北岸から門川北部の加草に陣地を構えたという記述である。違う経路を選んだ部隊もあったことが分かる。

※5月13日、宮崎県埋蔵文化財センターの堀田孝博さんから指摘を頂いたので転写します。

  まず、C09084820600(岡大尉の報告表)に出てくる「千原」ですがこ

  は「チハル」で「市の原」のことと思われます。明治36年測量の地図には

  「市原」とあり「イチハル」のルビが付いています。

  「ヲワノ野邨」についても、同地図では「上井野」に「オアイノ」のル

  が付いており、近い音と思います。

  次に、C09084820700(栗栖大尉の報告表)に出てくる「三ヶ瀬内小原

  」ですが、これは「大原(同地図ではオハル)」とすれば、位置関係は矛

  盾しません。

  続いて、C09084820800(山本大尉の報告表)に出てくる「河瀬原」は

  証はないのですが、「カセバル」≒「アセンバル」=「阿仙原」ではと思

  ったところです。

  石原近秀の上申書に出てくる「川路」は「川内」でよいと思うのですが、

  この「川内」は「門川尾末」「加草」「庵川」と並び、現在も大字とし

  残る地名なので、かなり広範囲を指している可能性があります。実際に国

  土地理院の地図でも上井野から五十鈴川上流へ5kmあたりにも川内の

  記があり、どこのことかは絞り込みづらいかもしれません。

 いちいちごもっともと納得しました。

 翌8月13日、第三旅団は延岡の南11㎞ほどの門川に着き、14日には先鋒が延岡に入って山縣参軍の命により市街を警備している。15日の両軍の会戦である和田越や周辺の可愛岳、北川東岸の戦いに第三旅団は参加していない。残りの第三旅団部隊も延岡に繰り込み、引き続き延岡市街を警備していた。16日夜には山縣の命令で友田少佐ノ部下二中隊ヲ潜カニ長尾山ノ防禦線ニ出(「戰記稿」巻六十 可愛嶽戰記)した。その場所で19日薩軍の襲撃を受けており、第三旅団が代表して戦闘報告表を作成している。

また、2個中隊も下記のように戦闘報告表を作成している。

 C09084821000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0764・0765

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞  

  我軍総員:第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊 百八名   

  戦闘日時:八月十九日   戦闘地名:延岡長尾山   

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時頃賊我カ防禦線ニ近キ来ル哨兵之ヲ報知ス

  チニ放撃暫クシ再ヒ襲来又撃テ之ヲ退ク   我軍ニ穫ル者:降人 

  未詳 若干

  備考敵軍:賊退ク後チ天明カナリ即チ一部分ノ探索斥候ヲ出シ前面深林

  谷間ヲ捜索シ若干ノ降伏ヲ卒ヒテ帰ル

 19日午前三時、長尾山の防禦線に薩軍が襲来したが撃退した。再びやって来たがこれも撃退した。夜が明けて明るくなり、谷間に斥候を出し捜索して若干の降伏人を捕らえて帰ってきた。長尾山は標高728mの可愛岳の東側中腹に一筋の尾根筋がぶつかるが、その途中にある標高382mの峰である。俵野で包囲された薩軍は18日早朝、可愛岳頂上の西中腹に置かれた第一旅団・第二旅団本営を襲撃し、その日は終日戦闘が続いた。西郷等は18日夜は地蔵谷という西方の谷間で野営し、19日さらに西方に向かって去った。

 C09084821100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0766・0767

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸愛㊞ 

  戦闘月日:八月十九日   戦闘地名:長尾山 我軍総員:八拾人 傷

  :四名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時三十分賊我塁ニ向ヒ左右谷ヨリ突襲暗黒其

  ヲ弁セス烈發以テ之ヲ打拂フ   

  備考我軍:一傷者下士卒四名ハ第九聯隊第三大隊第四中隊伍長早川長吉

  等卒伊藤元次仝川口萬吉二等喇叭卒中村傳之丞ナリ内壱等卒伊藤元次ハ軽

  傷ニ依リ入院セス 

  一当中隊付人夫福岡縣農篠宮孫市刀瘡ヲ受ク 

  一費ス弾数四千八百発ナリ

 午前2時半に襲撃されている。暗いうちに守備している場所の左右の谷から来襲したが打ち払った。一人60発を使用する戦いだった。人夫が刀瘡を受けており、薩軍は多分弾薬がほとんどないので切込みをかけたことを示すのだろう。官軍本営を襲撃した薩軍は多量の弾薬を分捕っているが、長尾山を襲撃した部隊は弾薬が欠乏していたのだろう。弘中隊が午前3時に襲われたのとは30分の違いがあり、互いの戦闘について触れていないので明らかに別の場所である。30分の時間差は攻撃側が移動してきたことを示すのかも知れない。とすれば安満隊が最初に攻撃されたことになるが、どれだけ正確に時間を記したかも疑問なしとしない。

 C09084821200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0768・0769

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長 大尉岡 煥之㊞

  我軍総員:九十五人

  戦闘月日:八月十九日 戦闘地名:鹿児嶋縣下日向国長尾山   

  戦闘ノ次第概畧:援隊トシテ長尾山ニ屯在ノ所午前第四時頃安満大尉ノ

  禦線ニ賊襲来スルニ付一小隊ヲ同処ニ出シ残余ノ隊ヲ以テ弘中大尉ノ受ケ

  持線ノ薄弱ナル所ニ散布シ放撃雨注遂ニ賊遺骸ヲ捨テ退去スルヲ以テ直ニ

  隊ヲ纏メ旧所ニ復ス此日死傷ナシ   

  備考我軍:此日費ス所ノ弾薬三千発

 岡隊は援隊だったので哨兵線にはついていなかった。午前4時頃、安満隊が襲われたとあるが安満報告ではその時間は午前2時半である。そこで1小隊を安満隊の所に応援に出し、残りの1小隊を弘中隊が受持つ防禦線に派遣している。薩軍を撃退した後、援隊として待機していた場所に復帰している。岡隊は一人31発強を使用した。

上図は8月15・16日の延岡市北川町での両軍対峙状態を台場跡の分布状態から以前に検討した時に作成した図である。図示していないが長尾山の西にはもっと可愛岳寄りにも官軍の台場跡が存在することをその後確認した。赤は官軍、黄は薩軍陣地である。なお、六首山に対する薩軍陣地は16日には官軍に奪われていた。「新編西南戦史」にはこの期間の推定図があるが、現地踏査せずに机上で推定したので間違いが多い。実際は和田越から西に続く尾根筋に別働第二旅団の多数の台場跡が北側で対峙する薩軍のいた尾根を睨んで並んでいる。「・・戦史」では小橋山一帯を長井山としているが、長井山は薩軍本営の北側の尾根である。そこは可愛岳から北東に続く尾根筋にあたる。官軍の長尾山左翼には防禦線に空白域があった。谷の北側には薩軍が布陣しており、空白域の存在はそのままにはできない状態だった。

 以上、8月19日まだ暗い時間に長尾山が襲撃されたとの三個中隊の報告である。8月15日の和田越の戦い後、和田越から小梓峠を経て一本松までは別働第二旅団の守備範囲になっていた。しかし、その西に続く長尾山とそこから一筋の尾根が可愛岳の中腹に向かって延々と延びているのだが、この部分の守備担当は明確になっていなかった。別働第二旅団の山田顕義少将は可愛岳周辺の第二旅団から哨兵を出させるよう山縣に再三依頼している。とはいっても空白にしておくわけにはいかないので、その後、15日中には山田の旅団から2個中隊を派遣した。その派遣部隊からは広すぎて守れないと苦情が出て結局、撤収させている。そこで延岡市街周辺にいた第三旅団から2個中隊を問題の長尾山一本松よりも左翼に出したのである。それも2個中隊であり、それが安満隊と弘中隊だった。

 このブログの題名を安満隊を指す「第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争としたのは、この日の戦いに注目したからである。この戦闘に関わった中隊だけを抜き出し部分的に記述するよりも第三旅団の全期間を見ておきたく思い、寄り道しながら書き進んだのでここまで来るのに時間がかかった。

 8月19日、薩軍の攻撃開始時間は安満報告が午前2時半、弘中報告では午前3時頃である。岡隊は別の場所に居り、薩軍の襲撃の後に一小隊を安満隊の所に派遣し、残りの小隊を弘中隊の受持ち線の薄弱な部分に派遣して戦闘に参加している。派遣の順番は先ず安満隊、次に弘中隊の順だったと考えられる。岡報告では午前4時頃となっているが、その時間は薩軍の襲来時間なのか岡隊の出発時間なのか分からない。ともあれ、全体では2時半から4時頃までの一時間半の幅があるのをどう理解したらいいだろうか。戦闘が始まってしばらくたった4時頃に派遣したという意味かも知れない。記述通りに理解すればまず午前2時半から安満隊が攻撃され、間もない午前3時頃に弘中隊も攻撃されたことになる。そして午前4時頃に岡隊が援隊として出兵したということか。

 安満隊と弘中隊相互の位置はどうだったのだろうか。後述のように、襲撃した薩軍は可愛岳南側の六首山付近の戦闘後に空白時間を置いて来たと考えられるから、六首山に近い西側に2時半に攻撃された安満隊がいたと考えるのが自然である。その東側に3時頃攻撃された弘中隊が配置に就いていたのだろう。問題の尾根筋の分布調査は実施済だが、機会があれば後日改めて公開したい。背の高い羊歯が密生し、現地に接近するのが大変だったし、目印となるものがない山の中で何度も彷徨った、とだけ記しておこう。

 当時の中隊長は時計を持っていただろう。複数の部隊が計画通りに行動するためには時計は必需品である。戦闘報告表の記述でも中途半端な四十分などと記す例があり、時計を所持していたのでなければ分からない時間であろう。参考までに別働第二旅団参謀付で少尉取扱上野五郎は球磨川付近で戦死しているが、彼の遺品の中に懐中時計がある(C09085398800「明治十年五月ヨリ起 ル第三号 諸向来翰 丙 別働第二旅団」)。したがって戦闘報告表の時間もそれなりに正確に記録されているとみるべきだろう。

 応援に駆け付けた岡隊はどこにいたのだろうか。報告では援隊トシテ長尾山ニ屯在ノ所とある。いわゆる長尾山にいたのだろうが、広い上面をもつ長尾山一本松の南側付近に野営していた可能性もある。

 この戦闘について記したと思われる記述が別にある。その別働第二旅団第七中隊所属の名前不明兵士の従軍日記「西南戦争従軍日誌」8月19日の全体を掲げる。

 田中一郎1988「西南戦争従軍日誌」pp.7~pp.22『坂戸風土記坂戸市史調査資料第13号 坂戸市教育委員会 

  午前八時ニ和田越エ登リ、后備兵ト哨兵交代仕、夜十二時頃左翼ノ方ヘ

  徒切込ンデ来ルヲ哨兵見附ケ、何者成ルト問ヘケレバ近衛兵ト答ケル故ニ

  、答語ニ進メト申シケレバ、来ルヨリ早ク太刀抜キ揃エテ切駆ル。哨兵引

  揚キ気ヲ附エノ令ヲ以テ砲発スレバ、直ニ援隊繰出シ、非常ノ喇叭ヲ吹キ

  応援迄繰出シ、雨雹ノ降ル如ニ放玉スレバ、賊徒必死ヲ極メテ来ルト雖ト

  モ数玉ニ恐レ終ニ退走ス。但シ此時死傷ハ互ニ数十人有ト云フ。 

 末尾にト云フとあることから、前任の哨兵から聞いた話だと分かる。別働第二旅団は19日の戦いがあった場所の東方、長尾山一本松付近からさらに東側までが担当区域だったので、日記筆者に情報を伝えた前任の哨兵もその戦闘に参加していなかったはずであり、又聞きだから信憑性はやや薄れる。夜12時頃に襲撃されたという時間は、懐中時計を所持していなかっただろう一般兵士だから間違いだろう。しかし、接近する者を哨兵が発見し誰何したところ「近衛兵」と応じると共に太刀を揃えて切り掛ってきた来たという点は信じてもよいと思う。戦闘報告表も、相良の上申書なども刀の使用を記録しているし、唯一負傷した人夫も刀傷を受けているからである。官軍側に援軍が駆け付けたことも事実である。ただ、死傷者が互いに数十人あったという点は直ちには信じ難い。

 長尾山付近の防禦線について検討する。

 8月15日の和田越周辺で行われた官薩両軍の決戦後、官軍は奪った和田越やその左右の尾根筋に守備を布き、薩軍は北側の小橋山それに東西方向に続く尾根やその背後に退却した。北川の東側も官軍が奪い、西側川向うの俵野周辺の薩軍に対峙する状態になっていた。東および南から迫る官軍の状態は「是夜賊軍ニ對スルノ守備ハ和田越ヨリ右翼ヲ第四旅團、和田越ヨリ左翼長尾山絶頂マテヲ別働第二旅團ニテ擔任セリ(「戰記稿」)という状態だった。

 ここでいう長尾山絶頂というのが、従来考えられてきたように標高382ⅿの頂上だとするとすれば疑問がある。15日に別働第二旅団の山田少将は山縣に次のように懸念を伝えている。

 C09082268700「来翰及探偵戰鬪報告 軍團本營出張」(防衛省防衛研究所蔵)

  先刻傳令ヲ以テ申上候通左翼長尾山一本松之處よ里右翼堂ケ坂迠ヲ當團

  防禦線と爲シ哨兵配布於着手致置候間其旨御含■■然處左翼第二旅團防禦

  線何處ニ有之候哉更ニ相分不申甚懸念罷在候間至急長尾山壱本松之處迠ハ

  第二旅團之右翼張出候様御達被下度此旨大急申進候也

  八月十五日 山田少将

  山縣参軍殿

 上に掲げた手紙は何ヶ所か読めない字があったので、大分県立先哲史料館の三重野誠さん・小野順三さん・松尾大輝さんに解読協力していただいた。記してお礼を申し上げたい。

 長尾山一本松については指摘したことがある。標高382mの長尾山頂上から南西に直線距離で1.1㎞離れた標高280mの小高い峰に当時一本の老松があり、現在と違い鬱蒼とした樹林の景観ではなかったので目立ち、この峰は一本松と呼ばれていた。堂ケ坂という場所は南から和田越付近を通過する坂道のことである。

 8月15日に激戦があった長尾山というのはこれまで誤解されていたが、長尾山一本松のことである。「明治十年西南戦史」や説明看板類、一般概説書をはじめ、全てそうなってきた。下は当時和田越攻撃の官軍を南から督戦した官軍の山縣参軍がいた樫山の看板である。これに長尾山一本松を加筆した。一本松の左側にも薩軍が配置に就いていたことになっているが、疑問である。少なくとも当日、そこでは戦闘はなかった。

 もう一つを掲げる。

 分かりやすいように上図にも長尾山一本松を加筆した(これを示すのは悪意ではなく、一般的な理解の一例として掲げたに過ぎない)

 しかし、戦記に長尾山として登場するのはこの一本松のある峰のことであり、現在の地図に長尾山と記されている山のことではない。この点は筆者が初めて指摘した(「西南戦争之記録」第4号・「西南戦争の考古学的研究」)。参考までに和田越周辺の推定対峙図を掲げる。激戦地の一つだった堂ケ坂とは、今は宅地造成で消滅した尾根を南西から和田越の峠を通る路線である。

 別働第二旅団司令長官山田少将は左翼にあたる可愛岳周辺を守る第二旅団の防禦線の場所が分からず甚だ懸念だから、至急可愛岳から長尾山一本松までの空白域を第二旅団で埋めるように通達してほしい、と15日に山縣参軍に依頼している。しかし、文書は見当たらないが次の史料のように山縣から別働第二旅団が空白域に哨兵を派遣するよう命令されたようであり、2個中隊を問題の空白域に派遣した。

 同団は多数の兵員を五つの方面軍に分けて戦闘に従事していた。時間は不明だが16日に別働第二旅団が2個中隊を一本松左翼に派遣したが、尾根筋が続く左側から攻撃されればどうしようもない、という内容である。そこよりも左側はなお守備の空白域となっていたのである。16日の午前2時、山田は山縣に次のように連絡している。

 C09082269600「来翰及探偵戰鬪報告 軍團本營出張」(防衛省防衛研究所蔵)0258~0261

  過刻御回答之趣且昨日午後中邨中佐貴命ニ依リ差出候傳令之者只今帰来竹 

  内中尉モ同伴候由ニ而全ク同團昨日者ヱノ瀧越ニ進軍少戰有之候ニ相達有

  之□然同所ヨリ右翼長尾山壱本松迠ハ更ニ連絡無之只昨日貴命ニ依リ當團

  ゟ追〻操出候兵都合三中隊其中間五丁或ハ十町隔テ分遣第二旅團ヨリ哨兵

  配賦ヲ相待候得共於今一兵モ不被差出ニ付中間遠隔之地ニ孤立無覚束段屡

  申来去リ迚新ニ増加スヘキ兵員モ無之ニ付無拠一旦長尾山一本松迠右三

  中隊引揚候様指令仕候何分各旅團各固之挙動ヲ為シ部署通ニ施行無之テ者

  労スル者ハ益労シ終ニ不測之大害ヲ可醸と懸念仕候間其邉申上迠モ無之候

  得共偏ニ御注意可被下将又明日第一第二第四旅団とも攻撃之都合ニ付テ

  左右ヲ見合セ前進可申候此段至急申進候也

         八月十六日山田少将

      午前二字

  山縣参軍殿

 当時の時間認識では16日午前2時は実際は17日2時だった可能性があるが、字面通り16日のこととしておきたい。夜が明けたら次の日になる江戸時代の考え方を引きずっていたかも知れない。可愛岳から長尾山一本松まで3.8㎞の尾根線では哨兵線が途切れたままだから別働第二旅団から三個中隊を500ⅿから1㎞の間を置いてまばらに配布した。しかし、配布した部隊から孤立状態を訴えてくるので、仕方なく一本松まで引き揚げるように指令した。先の山川中佐は2個中隊が守備したといっているのに数字が増えている。それだけの兵員がそこには必要だと訴えたかったのだろうか。第二旅団兵の派遣を待っているが一兵も来ていない。努力する者だけが苦労する、と不平を述べたのである。

 16日午後11時50分時点の報告がある。

 C09082275800「明治十年八月十七日ヨリ同廿六日 探偵戰鬪告 延岡出張軍團本営」防衛研究所蔵0397~

  過刻御命令ニ依リ斥候ヲ出シ候処左件〃之通リ申出候間此段御報知仕候

   一長尾山麓稲葉崎村ニハ別働第二旅團宮城少佐之二中隊及遊撃隊第一大

   第四中隊砲兵栗原中尉ノ一分隊高渕中尉ノ分隊屯在ス其他該団附属隊一

   中隊宿陣ス

  一小平山ハ昨日別働二旅団狙撃小隊ニテ防御線ヲ張リ居リシ然ルニ昨日

   攻撃ニテ同所ハ第二線トナリシ故本日午後第二時山麓コミ子村ヘ操込候

   由

  一祝子村本村ゟ之通路ハ第一熊田ヘ通スル間道アリ其他数条之技路アリ

   雖トモ何レモ樵夫道ノミノ由

  一祝子本村ニハ昨日第一旅団之兵宿陣セシカ本日何レヘカ操込今夕ハ唯

  多和ノ一中隊ノミ

  一過刻長尾一本松ゟ左翼連絡方ヲ尋ヌルノ際第二旅團ノ士官一名一本松

   来着ニ付問合候處ヱノキ嶽ゟ右翼ヘ連絡ヲ付候処一本松之処五六丁連絡

   打切候ニ付別働二旅團ヘ掛合之上尚二旅團ゟ一中隊ヲ出シ連絡ヲ附ル趣

   申聞候

  唯今友田少佐二中隊ヲ引卒当村来着之処此近傍右二中隊ヲ配布スベキ好

  置ナシ依テ一本松左翼ノ山頂邉ヘ配置スヘキ見込ヲ以テ同所ヘ向ケ出發致

  候此段添テ御報告ニ及候也

   八月十六日午後十一時五十分渡辺中尉

    揖斐大佐殿

  追テ此報告書認候処今晩一本松ヘ出セシ斥候帰来同所ハ別働第二旅團ノ

  一中隊ノ外更ニ援隊一中隊ヲ備ヘ甚タ堅固ニ相成候由届出申候

 渡辺徳介中尉は第三旅団第四大隊所属。揖斐章大佐は別働第一旅団参謀長兼第三旅団参謀。報告の後半に注目したい。第二旅団は可愛岳から右翼は一本松手前五六丁の所まで守備を伸ばしており、なお1個中隊を第二旅団から出すということを第二旅団の士官から聞いている。第三旅団の友田少佐が2個中隊を引率して当村(おそらく稲葉崎村)まで来たので一本松左翼の山頂辺に守備を置く見込みで出発した、という内容である。

 さらに16日夜にも山田は山縣に催促している。渡辺中尉の書との前後関係は分からない。

 C09082271700「来翰及探偵戰鬪報告 軍團本營出張」(防衛省防衛研究所蔵)0307・0308征討総督本営罫紙

  本日モ遂ニ第二旅團トノ連絡維持シ得ス懸念ニ付尚又寡少殊ニ疲労ノ兵

  繰合セ弐中隊長尾山一本松ヨリ左翼江配布為致候處山川中佐ヨリ別紙ノ通

  リ申出候然ルニ当團ニテハ最早此上ノ繰合相付不申候間至急第二旅團江御

  督促出兵相成候様致し度存此段申進候也

     八月十六日夜山田少将

    山縣参軍殿

 内容は16日夜になってもまだ第二旅団兵が右翼を伸ばしていないので、別働第二旅団から2個中隊を長尾山一本松から左翼に配布したが、最早これ以上の兵を配布する余裕がないので至急第二旅団に出兵するよう督促して欲しい、との内容である。これも17日に日付が替わって数時間以内だった可能性がある。山川中佐の別紙とは次のものらしい。

 C09082271800来翰及探偵戦闘報告 明治10年7月29日~10年8月16日(防衛省防衛研究所蔵)0309・0310

  過刻御下命ニナリタル長尾山壱本松左翼ヘ當方面ヨリ壱中隊差出シ申候

  五方面ヨリモ壱中隊差出候當方面ヨリ差出タル中隊長ノ言ニ正面ヨリ来襲

  スル者ハ充分防禦シ得ベク候得共左翼ハ已ニ連絡ナケレハ賊ノ迂回ヲ如何

  トモシガタシ左スルノキハ敗走目前ニ候依テ不取敢右ノ趣申進置候

   八月十六日     山川中佐

    黒川大佐殿

 内容は、先程山縣参軍の命令で長尾山一本松左翼へ2個中隊を配布したが、彼らの左翼は守備の空白地帯になっており、敵がそちらから迂回してきたらどうしようもない、ということである。別働第二旅団の山川浩中佐が16日のある時点で同団参謀長の黒川通軌大佐に宛てたものである。

  C09084218100「明治十年 往復書類 第二旅團」(防衛研究所蔵)0768~0771

  竹内中尉ヲ以て永尾山一本松出張参謀ニ宛御照会之趣当團参謀中村中

  リ傳ヘテ承領始メテ貴團ノ兵ノ所在ヲ知得申候然ルニ昨午後十二時四十五

  分下官ヨリ貴團参謀ニ宛防禦線連絡之義御照会ニ及ヒシニ御所在知ルヘカ

  ラサルノ故ニ傳令使各處ニ奔走遂ニ捜リ得ス御本陣迠持参御出張先江送付

  ノ筈必速ク御領手被下候事ト存候尚三中隊ヲ以て長尾山ヨリ右江仮ニ日間

  守備相付御手ノ出兵次第引取候筈ノ處今以て御出兵も無之遠隔ノ地ニ在リ

  声息も通セス右三中隊ハ◦一時ノ守備尓て固ヨリ薄弱夜間ニ至テハ甚懸念殊

  ニ■本日追拂候賊多數其間ニ潰走旁迚モ薄弱ノ守線ニテハ維持無覺束候ニ

  付不得已当團受持ノ左翼永尾山迠引揚サセ候様致度候将タ又續テ本日攻

  ノ義ハ当團此地ニ在ル兵員ハ寡少殊ニ連日進軍ニ依リ兵頗ル疲労迚モ充分

  擔当シ攻撃ノ義ハ相務不申ニ付左翼(横に右の記入)各團進撃ノ運ヒニ至レ

  ハ可成丈之声援ハ可致段当團長ヨリ山縣参軍江既ニ申出有之義ニ候間左様

  御承知被下度■候此段團長ヨリ命ノ侭御回答旁及御照会候也

     八月十六日    黒川大佐

     高橋大佐殿

  尚以て御書中ニ過刻伊藤大尉ノ一中隊ヲ以て熊田進軍ノ義御催促申出ト

  御事ナレノモ曽テ承知不致如何之行違哉ト致疑惑候

 黒川は別働第二旅団参謀長黒川通軌大佐。高橋は第二旅団参謀高橋勝政大佐。

 16日に出されているが、時間が分からない。次のような内容である。「15日12時45分に第二旅団参謀に宛てて防禦線連絡について照会したが、参謀の所在が分からなかったので本陣まで送付した筈です。それで早い段階で受領したと思います。なお、長尾山よりも右翼に昼間だけ別働第二旅団から3中隊を出して守備しました。第二旅団からそこに出兵次第に3中隊を引き揚げる筈ですが、未だに第二旅団からの出兵がなく、そこを維持するのが覚束ないので長尾山まで引き揚げさせようと思います。さらに翌17日諸道からの攻撃について当団兵は疲労しているので声援だけにします。」

 原文を下に掲げる。

 長尾山一帯の尾根筋の北側には谷を挟んで薩軍が陣地を構えており、相対する官軍守備線に4㎞近い空白域があるべきでないのは当然である。

 上図は長尾山に北側で対峙する薩軍台場跡分布図である。敵が登ってきやすい支尾根の根元を守ったことが分かる。方眼は500m。左図は右が北。辺見十郎太や相良長良がいた。

 山田の度重なる要請を受けた山縣は、丁度延岡に着いたばかりの第三旅団から引き抜いて問題の場所に派兵することにした。渡辺中尉の書にあるように第三旅団は三浦の命令で派遣されたのである。

 以上の史料に登場する長尾山一本松左翼の防禦線は、台場跡の分布状況から判断するに一本松からそう遠くない範囲に置かれたらしい。

 次は「戰記稿」第三旅団の部分の記述である。同団は8月16日「第三旅團ハ山縣參軍ノ命ニ依リ十六日夜友田少佐ノ部下二中隊ヲ潜カニ長尾山ノ防禦線ニ出ス

 これによれば長尾山には第三旅団兵から2個中隊が派遣されたことが分かる。具体的にはどの範囲に配布したのだろうか。現地に派遣されたのは戦闘報告表を残した安満・弘中両隊である。したがって援兵として戦闘中に出動した岡隊は守備に就いていなかったことになる。戦闘後、第三旅団の三浦少将は山縣参軍に次のように報告している。

 C09082281900「明治十年八月十七日ヨリ同廿六日 探偵戰鬪報告 延岡出張軍團本營」 (防衛省防衛研究所蔵)0546

  本日第四時頃長野山ニ在ル我防禦線江賊兵来リ襲フ我兵直ニ之ニ應ス賊

  チ敗レ死傷ヲ棄テ去ル依テ攻襲偵察ヲ出シ残賊ヲ捜索為致候条此段不取敢

  御届申候也

 

  八月十九日       三浦少将

    山縣参軍殿

 長尾山を長野山と誤記している。三浦は延岡市街地におり、この付近の地理感が薄かったのだろう。第二旅団もこの戦闘について記録している。

  C09082273200「明治十年八月十七日ヨリ廿六日 探偵戰鬪報告 延岡出張軍團本營」 (防衛省防衛研究所蔵)0342・0343 

    今朝ニ至リ我前面ヱノタキ頂上ニ據リタル賊一人モ不相見定メテ昨夜ク

  キニ乗シ何レノ地ヘカ去リシモノナリ依テ只今ヨリ捜索兵ヲ出シ渓間深林

  ヲサグル中也

  右不取敢上申仕候也

  一追而今暁未明我線ノ内右翼第三旅團ノ哨線ヘ切込之由併シ忽チ打拂ヒ

  由ナリ

   八月十九日午前五字四十分 高橋大佐

    山縣参軍殿

 この報告は小紙片に鉛筆書きしたように見える。大急ぎで書いたのだろう。可愛岳頂上から薩軍が消えたという報告と共に第二旅団右翼方向の第三旅団哨兵線が襲撃されたと報告している。午前5時40分の通知文だから、それ以前に戦いは終わっていたと分かる。

上図は可愛岳脱出後の薩軍本隊の経路。長尾山を攻撃した部隊や山中に潜伏する敗残の兵士達を残し、他は可愛岳から遠ざかっていた。

 「戰記稿」はこの戦闘をどのように記述したのか見ておきたい。

  〇十九日午前三時、賊長尾山ノ防禦線ヲ突擊ス直 チニ擊テ之ヲ郤ク頃ク

  リテ復タ來ル又之ヲ雨射猛擊ス賊遂ニ死屍ヲ棄テ走ル

  (巻六十二 脱賊追擊記)

 これに続く第三旅団の戦闘報告表は9月6日鹿児島市天神馬場のものであり、第三旅団にとって宮崎県内での最後の戦いだったことになる。

 この8月19日の長尾山攻撃を薩軍側はどのように記録しているのか見ておきたい。

 やや長くなるが8月17日の「薩南血涙史」後半部を掲げる。

  薄暮西郷隆盛使を馳て相良長良、貴島淸、松岡岩次郎を招具相良等至る

  西郷曰く。

  「今や我兵既に已に死地に陷ゐれり前日より一方の圍を突破せんと欲し

  を再びすと雖も遂に破ること能はず、最早糧米竭き彈藥乏しく百方策盡き

  如何とも爲すべからず因て各大隊の強兵を撰拔し其の一方面を破らんと欲

  す故に三人を以て先鋒の指揮を命ず」と、三人則ち之を諾して歸り直に精

  兵百五十人を撰び土人二名を嚮導とし、此夜十二時相前後し先鋒隊を率ゐ

  相良長良、貴島淸、松岡岩次郎等先づ長井村を發し、西郷隆盛、桐野利秋

  池上四郎等中軍と爲り中島健彦、佐藤三二等後軍となり言語を戒め路を可

  愛嶽に取り祝子川方面に向ひ敵壘篝火明滅の間を進めり、此の間崖絶壁樵

  夫と雖も未だ至らざる處、前軍は暗夜なるを以て白紙を路傍の樹木に結び

  以て後軍の目標と爲し行くこと三里、其難苦言ふべからず、時に桐野、邊

  見馳せ來りて曰く、「敵の篝火甚だ熾なり暫らく此地に兵を駐め全軍の來

  るを待ち一時に敵壘を衝かん」と、貴島、相良之に答へて曰く「我輩已に

  先鋒の任を受く以て一歩も止まる能はず唯進死あるのみ」と、聽かずして

  進み行くこと數町にして官軍中軍の間を絶つ、此時天漸く明けんとす、官

  軍之を見て各壘より頻りに砲發せり先隊散々亂れ山中に避阻を越えて敵

  壘を斫らんとす官兵又之を認めて頻りに擊射して之を拒ぐ、此時相良長良、

  川久保十次、松岡岩次郎及び福留某等拔刀して敵壘に突入す川久保十次は

  之に死し相良は負傷して深谷に墜落せり。

 8月17日に相良・貴島・松岡等に先鋒を命じたことや、その後の先鋒の戦闘についても相良の「丁丑ノ夢」を肯定的に取り込んだ記述であり、著者の加治木常樹が相良の行進隊に属していたので彼の記述を信頼したのだろう。8月19日に長尾山左翼の官軍を攻撃したことは上記「薩南血涙史」には載っていない。というよりも、攻撃したことは記すがその攻撃がどこで行われたのかを相良同様に記していない。

 「西南記伝」では可愛岳の官軍第一旅団・第二旅団本営を奇襲し、包囲網を脱した件について生き残りの参戦者の記述をいくつも引用している。野村忍介・相良五左衛門・河野主一郎・綾部直景・大野義行・後醍院良弼・芳野覺太郎・大磯左平太・町田四郎左衛門である。薩軍の可愛岳突囲については「諸氏の『戰鬪手録』に記する所、自ら異同あるを免れずと雖ども、薩軍脱出の狀景を知るに足るものあり」として文章を列挙し、結論として次のように記している。

  相良五左衛門の『戰鬪手録』には、相良、貴島、松岡の三將、西郷より

  鋒を命ぜられたるが如く、又、野村忍介の『戰鬪手録』には、『桐野、

  、先鋒と爲る』とありて、其記する所、各相異なるも、大野、和泉、大磯

  等の『戰鬪手録』、及、河野の口供に據れば、邊見、河野の二人、先鋒た

  ることを掲げ、後者の記事、符節を合するが如く、其事實の精確なるを信

  ずべき理由あるを以て、本文は、之に據ることヽせり。

 相良とその他の人々との内容が異なっているのである。「西南記伝」は「薩南血涙史」とは異なり相良の記述を排している。しかし、野村は可愛岳へ向けて西郷等が俵野の本営を出発したことを後から知って追いかけており、彼が記した脱出時の情況は後で他人から聞いたことであり、野村自身が目撃した訳ではない。先に述べたように突囲の際に先鋒・中軍・後軍の区別について「血涙史」は相良の説をとっているが、先鋒が19日に長尾山左翼の官軍陣地を攻撃したという点についてはどこであった戦闘なのか、はっきり認識していない。長くなるが相良の記述を見ておきたい。

 相良五左衛門、長良ともいう、は行進隊隊長で、最初の妻竹子は西郷隆盛の妻(岩山)糸の妹だったが死別している。西郷とは義兄弟ということになる。明治10年2月、西郷が相良に出した手紙が残っている(大西郷全集刊行會1927「大西郷全集」第二巻pp.855・856)

  過日來度々御足勞何卒御海怒可被成下候。今朝相認汗顏の仕合御座候得共、

  備高覽候間御受留被下度候也。

      二月                   西  郷  拜

    相 良 様

  【解説】相良長綱は舊名長良、五左衛門と稱し薩摩の藩士である。十年

  役熊本攻圍軍に參加した。本書は明治九年二月上京に決し、隆盛に暇乞の

  ため訪問して種々談話の後歸宅したが、翌朝隆盛使を以て「世俗相反處 

  英雄却好親 逢難敢勿退 見利全勿循 齊過沽是己 同功賣是人 平生偏

  勉力 終始可行身」「一貫唯々諾 從來鉄石肝 貧居生傑士  勲業顯多

  難 耐雪梅花麗 經霜楓葉丹 如能識天意 豈敢自謀安」二詩に添へて

  贈つたものである。

 文中に明治九年とあるのは十年の間違いではないだろうか。帰宅した相良に翌朝西郷が送った漢詩は「西郷南洲先生詩選」(鹿児島私立歴史館1944)に載っている。前者は「偶作」と題して掲載されているので転載する。

  世俗相反する處 英雄却て好親す 難に逢ひて敢て退くなく 利を見て 

  全く循ふ勿れ 過ちを薺ヒトシクして之を己に沽ひ 功を同じく

  ては是を人に賣る 平生偏に勉力して 終始身に行ふ可し  

 後者も同書に「示外甥政直」と題した詩が載っている。

  一貫ヰヰの諾 從來鉄石の肝 貧居傑士を生じ 勲業多難に顯る 雪に

  へて梅花麗しく 霜を經て楓葉丹アカし 如能モシヨく天意を識らば

  豈敢アニアヘて自ら安きを謀らんや

 二つ共、以前に詠んだものらしい。

 相良長良は獄中で下記の口供書を残している。文中に感想を述べながら引用する。なお、相良には内容の似た上申書もある。 

「丁丑ノ夢」『鹿児島県史料 西南戦争第三巻』pp.735~747(引用部分はpp.745~747)

  八月十五日軍ヲ合セテ延岡本道ニ向テ進撃奮戦スト雖官軍逆撃終ニ本道

  味方敗レテ進ムコト能ハス(相良の行進隊は本道ではなかったことになるのか)、時

  ニ官軍四面ヨリ押寄セ重柵ヲ例シ塁ヲ堅フシ烈シク攻撃ス、此ニ於テ各隊

  長会議シテ云フ、味方粮米乏シク弾既ニ竭キ事一モ為スヘカラス、如何ニ

  モシテ一方ノ囲ヲ突キ血路ヲ開クヘシト、因テ奇兵隊ヲ先鋒トシ、十六日

  未明ヨリ延岡本道(小梓峠・長尾山一本松方面を攻撃したらしい。開戦時間は他の記録

    では?和田越第四旅団の記録は?)ニ向テ進撃スルヤ、官兵左右翼ノ岡塁ヨリ横

  撃シ味方亦タ進ムコト能ハス、総軍悉ク旧塁ニ引揚ケ、亦タ桐野利秋

  ハ精兵ヲ率ヒ、熊田道ヨリ豊後口ニ進撃シ囲ヲ潰ヤサントスルニ大軍進

  難キヲ察シ空シク旧塁ニ引揚ケタリ、我行進隊ハ各所ノ応援兵ニ備フ、此

  日永井村南方ノ高山ヲ守ル(長尾山などに谷を挟んで向かい合う北側の尾根筋のこと)

  、熊本・高鍋等ノ兵官軍ニ降ル、此時西郷、相良ヲ招キテ云フ、此山タル

  ヤ第一ノ要地ナリ、若シ敵ノ有トナル時ハ当地ヲ保ツコト能ハサルヲ以テ

  厳ニ之ヲ守ルベシト、依テ直ニ隊ヲ率ヒテ登山防戦尤力ム、此時四面皆敵

  ナリ、夜ニ入レハ篝火野ニ満ツ、恰モ天ノ列星ノ如ク、其数幾千ナルヲ

  知ラス、火焰天ニ漲リ殆ト白昼ノ如シ、仝十七日昧爽ヨリ官軍大挙我カ塁

  壁ヲ攻撃シ(別働第二だけか?)、大小砲ヲ連発スルコト雨ノ如シ、我カ兵モ

  死力ヲ尽シテ奮戦ス、敵破ルコト能ハス、路ヲ転シ嶮谷ヲ下テ同村ノ田中

  ニ突進ス、此時邊見十郎太・松本龜五郎等兵ヲ率ヒ馳セ向ヒ一撃之ヲ卻ク、

  日暮西郷隆盛使ヲ馳テ相良及ヒ貴島清・松岡岩次郎ヲ招ク、到レハ則チ西

  郷・村田曰ク、我兵已ニ死地ニ陥リ復生道ナシ、已ニ一方ノ囲ヲ破ラント

  欲シテ再三進撃スト雖モ志ヲ得ル能ハス、粮米・弾薬全ク竭キ復タ如何ト

  モ為ス可カラス、因テ各大隊ノ強兵ヲ撰抜シ是ヲ以テ一方面ヲ破ラント

  ス(この方面はどうしてきまったのか)故ニ三人ニ先鋒指揮ヲ命スト、三人則

  チ承諾シ、直ニ精兵百五十名余ヲ率ヒ、土人二名ヲ嚮導トシ午後九時頃密

  

 

  ニ永井村ヲ発ス、時ニ夜方ニ闇黒道路咫尺ヲ弁セス、乃白紙ヲ路傍ノ草木

  ニ結ヒ以テ後進ノ標示ヲナシ、堅ク言語ヲ戒メ、中軍ハ桐野・邊見指揮シ

  後軍モ亦タ続テ発ス、時ニ池上四郎馳来リテ西郷ノ令ヲ伝ヘ曰く、這ノ

  ヲ潰ストキハ各隊方向ヲ知ラス、散乱ノ患アリ、君等敵ヲ衝破ラハ皆曾木

  ニ会シテ以テ高鍋ノ敵営ヲ襲撃セヨト、相良之ヲ諾シ、官兵篝火ノ間ヲ潜

  行スルコト数ケ所ニシテ(この間、遠距離ではなかった)、道路険阻牛馬ヲ通ス

  ル能ハス、或ハ木根ヲ攀リ岩角ニ躋リ其艱難云フ可ラス、未明可愛峠ノ下

   (可愛岳の東側の崖下だろう。尾根には上 がっていない)ニ至レハ桐野・邊見馳来リ

  云フ、官軍ノ篝火未タ甚タ熾ナレハ暫時此地ニ兵ヲ接掩トシテ全軍一時ニ

  敵塁ヲ衝破ント、相良及ヒ貴島・松岡答テ曰、予等先鋒ノ任タルヲ以テ一

  歩モ淹マル可ラス、タ進死アルノミト、肯セスシテ行ク、数丁ニシテ官

  軍我中軍ノ間ヲ絶ツ(相良等がどこまでか進んだ時点で官軍第二旅団が薩軍本営攻撃の

    ため、六首山から長尾山方向に向かい背後を下って行ったらしい)時ニ天已ニ明ケタ

  リ兵我カ兵ヲ見テ各塁ヨリ頻リニ発砲ス、之ニ依テ我カ先鋒隊支ル能ハ

  ス、散々ニ不意止山林ニ避ケ(六首山の手前で長尾山方向に下りたのか)

  俟テ山ヲ出テ嶮ヲ越谷ヲ渉リ(六首山の南東に標高253mの支尾根が下る。これを

    下ったのか。253m地点から1.27km地通り進むと南方に登る長さ約1.030m尾根がある。こ

    こから登ったのか。その間、尾根ではなく谷間も行したことになる。全体の行程は2.3km

    ほどとなる。相良等は地図をもって進んだのではないから正確な距離は分からなかっただろ

    う。)クコト一里許(4km。相良等には実距離の倍4kmにも感じられたのであろう)

  敵兵ノ中ヲ斬抜ントス、官兵之ヲ認メ頻リニ砲発ス、乃相良・川久保十二

  ・松岡岩次郎・福留某等(数十人か若干それよりも多い程度だろう。貴島が登場しない

    のはおそらく彼が途中から中軍あるいは後軍に合流したためと考えられる。後に貴島は鹿

    島市城山に籠城し、米蔵で戦死した。)ト抜刀斬入リ進ンテ三塁ヲ抜ク、官兵

  ヲ捨テ﹅走ル(事実であれば戦闘報告表では故意に書いてないことになる)、余等

  塁ニ拠テスルヤ(塁を奪ったのは 確実)、直ニ官兵一中隊来リテ(実際は 官軍

    の援隊一小隊)塁ニ逼リ万生路ノ無キヲ計リ、斃レテ已ント躍テ敵中ニ斬入

  ルヤ、川久保ハ戦死、相良ハ剣創ヲ頭上ニ負ヒ深谷ニ顚墜ス、福留某相良

  ヲ躡シテ来リ助ク、遺憾ナカラ剣創ノ為メ一歩モ動クコト能ハス、山中ニ

  伏スルコト実ニ七日間(上申書では6日間とある。官軍は怖い ので尾 根筋か ら降りて

    徹底的な捜索まではしなかったのだろう。現在、樹木の間に羊歯が密生し2,3m離れて隠

    れていれば見つけることができない状態である。)、其間全ク粮ヲ絶ツ、十四日

  夜(上申書では23日)福留ニ扶ケラレ漸ク山ヲ出テ民家ニ至ル山の北側、小

    橋山の南側の細長い谷を東流する大峡川沿いの村だろう)時ニ全軍已鹿児島ニ向

  テ発シタルヲ聞キ、乃チ西郷ノ軍ニ達セント夜ヲ俟ツテ民家ヲ出ツレハ、

  官軍諸所ニ屯集或ハ哨兵ヲ張リテ篝火亦熾ナリ、之ニ依テ昼伏夜行、道路

  峻険或ハ木ノ根ヲ攀リ溪(一字欠)渉リ或ハ竹枝ニ縋テ下ル、加フルニ大

  風雨連日、川水之カ為メニ漲リテ津路ニ迷ヒ、或ハ幽燈ヲ認メ、或ハ樵路

  ヲ彳(体字行の右)ス、泥濘ハ脛ヲ冒シ跣足無帽、夜ニ入レハカニ民舎ニ

  出テ食ヲ得、十里ノ路程実ニ艱難辛苦毫舌ノ名状スル所ニアラス、数日

  ニシテ佐土原三納郡ニ到レハ、池邊吉十郎此ノ地ニ潜伏セリ、乃チ池邊モ

  相良来ヲ聞尋来リ、告ルニ佐土原戦争ノ際病院ニアリシカ味方破レテ

  ルコトヲ得ス、尓来林ニ潜伏シ亦爰ニ在ルコト久シ、已ニ味方ノ敗報ヲ

  伝聞シテ幾回カ屠腹セントセカ、西郷ノ死生未タ詳ナラサル故ヲ以テ今

  ニ存ヘタリ、君ニ遭フ恰モ夢ノ如クト、大ニ満足シテ西郷ノ踪跡且延

  岡戦情ヲ問フ、相良答テ曰ク、西郷ハ無異兵気未タ熾ニシテ永井村ノ重

  囲ヲ突キ脱ケタリト、茲ニ到ル以ヲ告ク、池邊曰ク、ナル哉、壮ナル

  哉、実ニ再生ノ思ヲナスト懇ロニ談シ共ニ酒ヲ酌ム、酒酣ニシテ土原士

  族数名来テ云、爰ニ三百余名ノ有志輩アリ、願クハ君等ニ従ツテ指揮ヲ請

  ケ西郷ノ軍ヲ翼ケント、我等大ニ喜ヒ然ラハ速ニ今宵結束セン、衆曰ク、

  暫ク滞留給ヘ、我等モ金穀ヲ調ヘ后チ進軍セント云、答テ曰ク、兵ハ神

  速貴フト云ハスヤ、今夜速ニ発セスンハ敵害ヲ請ルナラム、依テ君等ハ備

  ヲナシ跡ヨリ進発シ給ヘ、我等ハ先行スヘシトテ池邊ト共ニ又潜行シ、漸

  ク綾郷・高岡・須木郷・小林郷・飯野郷・栗野郷・横川金山・蒲生・吉

  田郷等山野ヲ経テ鹿兒島郡山ノ内花尾山ニ出テ戦情ヲ探偵スルニ、西郷ノ

  軍ハ城山ニアリ、官軍ハ既ニ下ノ四面ヲ固メ重囲厳備、水モ漏ル﹅コト

  能ハス、之ニ因テ池邊ト議シ、到底百余名ノ兵ヲ募リ必死ヲ以テ一条ノ血

  路ヲ開キ、城山ニ入テ西郷ト死生ヲ共ニセント欲シ、頗ル苦心周旋中僅

  二日間ヲ出スシテ惜哉、終ニ落城ニ及ヒタリ(相良等が鹿児島に着いたのは落

    が24日だから二日前の9月22 日か嗚呼、

 

上図はグーグルマップに西郷等の突囲経路と相良等が18日の攻撃後に経過しただろう経路を示している。地理感のない人もこれで理解しやすくなると思う。

この図では安満隊と弘中隊の場所を仮に推定した。上のグーグルマップ図では三つの進路を想定したが、長尾山には台場跡がなく、ここが戦場になった可能性は低い。また、「行クコト一里許」という記述は間違っていると思う。攻撃のために支尾根を登るのに時間を要したのだろうか。踏査時に羊歯と悪戦苦闘した経験からそう思う。

 

延岡市大峡町の竹谷神社。18日潜伏した場所の東側の谷が可愛岳にぶつかる所にある。上の地図に神社の記号がある。

竹谷神社手前で南側の谷に入ると川沿いの右にある林道が森に戻りつつあった。ある時、ここから長尾山左翼を目指した。

 手前の緑濃い山(安満隊が右端にいた?)の一番右奥に長尾山の頂上が見える

 この文中に8月19日の長尾山左翼に対する攻撃が記されていると思う。時ニ天已ニ明ケタリは18日辺りが明るくなったということ。相良達は可愛岳の南西に続く尾根に東から登り、その先にある六首山の官軍を攻撃したと考えている。

 六首山の兵我カ兵ヲ見テ各塁ヨリ頻リニ発砲ス、之ニ依テ我カ先鋒隊支ル能ハス、散々ニレ不意止山林ニ避ケというのは官軍の攻撃を避けるため六首山の手前で東側の斜面を下りて途中に留まったのだと考える。その後は、ヲ俟テ山ヲ出テ嶮ヲ越谷ヲ渉リの部分の解釈は、六首山の南東に標高253mの支尾根が下る。これを下ったのか。253m地点から1.27km地形通り進むと南方に登る長さ約1、030mの尾根がある。ここから登ったのか。その間、尾根ではなく谷間も進行したことになる。全体の行程は2.3kmほどとなる。

 行クコト一里許は4km。後述のように長尾山左翼の官軍が攻撃され始めたのは午前2時半から3時頃だからまだ真っ暗な時間であり、谷底を進んだと考えられる相良達は遠方が見えず距離感をつかめない状態だっただろう。長尾山左翼が相良等には実距離の倍4kmにも感じられたのであろう。

 敵兵ノ中ヲ斬抜ントス、官兵之ヲ認メ頻リニ砲発ス、乃相良・川久保十二・松岡岩次郎・福留某等ト抜刀斬入リ進ンテ三塁ヲ抜ク、官兵守ヲ捨テ﹅走ルは現地に官軍の台場が存在したことを示している。余等敵塁ニ拠テスルヤ、直ニ官兵一中隊来リテは岡隊が派遣した援隊一小隊のことである。

 塁ニ逼リ万生路ノ無キヲ計リ、斃レテ已ント躍テ敵中ニ斬入ルヤ、川久保ハ戦死、相良ハ剣創ヲ頭上ニ負ヒ深谷ニ顚墜ス、の部分では相良が銃剣により頭を負傷し、深い谷に落ちたということだが、可能性としては長尾山左翼尾根の南側か北側の二つが考えられるし、結論は出せない。

 この日、和田越から可愛岳の間で戦闘があったのは官軍の記録では長尾山であり、戦闘報告表を作成しているのは長尾山の防禦線にいた第三旅団(安満隊・弘中隊がいた。岡隊は援隊)だけである。防衛研究所蔵の原史料を調べると、第三旅団が配置に就いていたのは長尾山のうちでも、一本松と呼ばれた峰の西側を過ぎ長尾山を経て可愛岳に接続するまでの尾根筋のどこかであることが分かった。

 現地の踏査では一本松から少し左翼までには台場跡が分布する。しばらく空白域があって、長尾山を通り過ぎ、少し離れた場所から再び台場跡が分布する。一本松から長尾山、更に西方尾根の台場跡分布状況から考えると、第三旅団の2個中隊が派遣されたのは長尾山の西方だったとみられる。長尾山左翼と呼ぶことにしたい。

 当時も、その後も襲撃してきたのが誰だったか官軍側は全く理解していなかった。相良長良・松岡岩次郎・川久保十次・福留某達だったのである。ここで福留某とあるのは川久保はここで戦死している。敢えてボカシタ表現にしたのだろう。福留は当時生きていた可能性が有、明確に声明を記すと迷惑がかかると考えて、苗字だけを記したと思う。

 貴島清は当初は先鋒を命じられて相良達と行動を共にしていたはずだが、その後鹿児島市米蔵で戦死している。18日朝、可愛岳南西の六首山を攻めた後に相良等とは別れ、最終的には鹿児島に向かった薩軍と行動を共にしたのではないだろうか。再度の攻撃の際には貴島の名を挙げていないのも、これを証するものである。貴島は、別れた後に相良達が19日に長尾山左翼を攻撃したことを知る術がなかった。

 貴島は鹿児島に進軍した際、西郷達に相良達のその後の行動を伝えることはできなかったし、相良も鹿児島に帰った時、厳重に包囲されていた城山に合流できなかった。したがって、城山で生き残った野村や河野等はそのことを知ることはなかったのである。彼らが監獄に入るまでの間に相良と話す機会はなく、獄中で書いた各々の上申書には当然記載されなかった。

 相良等が19日午前3時前後に長尾山左翼を攻撃したことが官軍側の戦闘報告表で裏付けられ、およその場所が判明した。それならば、「西南記伝」が否定した西郷が先鋒を命じたことなど他の部分についても見直す必要が生じるだろう。

        上図は相良長良が長尾山から鹿児島に帰った際の概略図

 負傷後に佐土原三納で熊本隊隊長の池辺吉十郎に逢ったとある。西都原古墳群のある場所の少し西側である。池辺は負傷して部下とはぐれた状態だったので、ここに記された内容からその後の池辺の動向を知ることができる記述である。等ハ先行スヘシトテ池邊ト共ニ鹿児島に向かったのである。兎に角、当時の人たちの体力と精神力には感心するしかない。

 その後の相良長良 

 相良長良とはどういう人だったのだろうか。「西南記伝」の「相良五左衛門傳」を便宜上前後に分けて掲げる。

   相良五左衛門、名は長良。後、長綱と改む。薩摩の人。父は彌兵衛

    賢母は森氏。五左衛門は、其第一子、弘化四年十月二十八日、鹿兒島上

  平に生まる。世、島津氏に仕へ、其藩士たり。戊辰の役、薩藩一番隊に

  屬し、奥羽に轉戰し、凱旋の後、賞典祿八石を賜はる。明治二年、鹿兒

  島常備隊の半隊長と爲り、四年出でヽ近衛大尉に任じ、六年、辭して鹿

  兒島に歸る。十年の役、薩軍に應じて三番大隊五番小隊の押伍と爲り、

  肥後に出で、熊本城攻圍軍に參加し、尋て一番大隊五番小隊長と爲り、

  田原、吉次方面に戰ひ、四月二十一日、濱町に於て、行進隊大隊長に任

  じ、其隊を率ゐて鹿兒島方面に向ひ、是より日隅各地に轉戰し、八月、

  延岡に退き、長井村に傷き、山林に潜伏すること數旬。十月廿三日、鹿

  兒島に歸り、自首縛に就き、懲役三年の刑に處し、東京市谷監獄に幽せ

  らる。出獄の後、農商務省御用掛、外務省御用掛に歷任し、十九年高等

  師範學校幹事に任ず。二十八年、臺灣總督府恒春支廳長心得と爲り、二

  十九年、臺東支廳長に兼任し、三十年、臺東撫墾署長、及、臺灣國語傳

  習所長心得に任せらる。三十二年、病に罹りて卒す、年五十八。

 上記の文中に山林に潜伏すること數旬とあるのは、前掲「丁丑ノ夢」や次に部分的に引用する「相良長良上申書」によると6日間が正しい。相良の「十月廿三日、鹿兒島に歸りというのは数旬に矛盾しないようしたものか。参考までに「相良長良上申書」末尾部分を掲げるが、鹿児島に着いた日付は記されていない。

  廿三日ノ夜福留某ニ扶ラレテ漸ク山林ヲ出テ民家ニ到ル、全軍業已ニ鹿

  兒島ヲ指テ切抜ケタルノ説ヲ聞テ始テ安堵ノ思ヲナシ、昼夜微行シテ漸

  ク本県ニ帰着、爾後戦状ヲ詳ニセス、

 三十二年云々については後述することにして、後半を続ける。

   五左衛門の近衛第四大隊ニ番小隊附大尉たるや、一日、半大隊を率ゐ

  て、赤坂離宮を警衛す。時に 皇上、手づから旗を捧げて禁苑の池側に

  立ち、兵隊を東西に分ち、喇叭を相圖に、兵士疾足の遲速を試みさせら

  れ、號を正うし、先登して旗を掲ぐるを第一等と爲す。而して其號令あ

  るや、士官を始めとし、數百の兵士、一齊に駈け出せしが、五左衛門、

  先驅して其旗を掲げしかば、叡咸斜ならず、直に五左衛門を御前に召さ

  せられ、手づから縮緬一疋を賜はりしと云ふ

   明治六年、征韓論破裂し、西郷隆盛の鹿兒島に歸るや、五左衛門、亦

  其職を辭して故山に歸らんとし、之を篠原國幹に謀りしに、國幹、其留

  職を勸めて止まず。而も五左衛門、斷然自ら決する所あり、辭表を呈出

  せしに、西郷從道、野津鎭雄等來り、五左衛門に向ひ、懇ろに其留職を

  諭し、又、其辭表は却下せられ、國家の爲に努力せよとの勅語を賜はる。

  而も、五左衛門、再び辭表を呈出し、十一月中旬、東京を發して横濱に

  至り、郵船に搭じて歸途に就けりと云ふ。

   五左衛門の市谷監獄に在るや、滿期に先ち、破格の恩典に由りて赦免

  せらる、獄征韓論の顚末を筆記し、名けて『夢物語』と曰ふ、又、明

  治十八年、黑田清隆に随て、淸國を漫遊し、『淸國漫遊記』あり、五左

  衛門、初め岩山氏を娶りて一女を生む。岩山氏沒するに及び、靑山氏を

  娶る。

   五左衛門の死するや、知友の士、其生前、蕃界經營の功績を表彰し、

  明治三十八年、臺灣臺東卑南山腹の地を相して、記念碑を建設せりと云

  ふ。

 相良の写真はあるのだろうか。下図のような荒唐無稽の版画ならある。「賊徒軍門降伏」と題されているが、当局にこの絵柄を版行してよいか伺い、許可を得た8月4日にはまだ行進隊は降伏していない。

 

 相良長良改め長綱は台湾東部の台東庁長として明治30年5月27日に任ぜられて以来、住民の撫育・教育に多忙であったとみられる。一例を挙げれば1903年の米国船の遭難に伴う処置がある。

 足立 崇(2007「日本統治時代初期台湾のベンジャミン・セオール号事件に関する研究」『大阪産業大学論集 人文科学編122』)によると、1903年シンガポールを出港し上海に向けて航行していたベンジャミン・セオール号が台湾沖で遭難し、東海岸蘭嶼付近でヤミ族に襲われるという事件が発生した。翌年1月日本は討伐隊を派遣し加害者とされる10人を逮捕、家屋を焼き払うなどの処置を執った。ここでは事件のことではなく、相良の健康について注目すると、この時、相良自ら討伐隊の船に乗り同行したが「船中ニ於テ諸般ノ指揮命令ヲ為ス所アリシモ持病起リシカ為メ親シク実地ノ行動ヲ監視シ能ハサリシ」という。

 その後、3月段階では相良の病状は悪化しており、急遽叙勲の話が浮上した。その際の記録に彼の履歴書が添えられている。明治37年3月16日付の叙勲裁可願いに相良関係資料があり、履歴書が含まれている(叙勲裁可書「明治丗七年・叙勲巻一・内国人一」国立公文書館蔵)。細かくて読みにくい部分があるかもしれないが、アジ歷で閲覧していただきたい。

 数日後に亡くなったとしたら3月中に亡くなったのだろうか。58歳である。明治37年に病没したことになり、「西南記伝」にある明治32年没は誤りである(JACARアジア歴史資料センターRef.A04010079200「台東庁長相良長綱賞与ノ件」国立公文書館

 孫引きだが相良は明治7年の台湾出兵に従軍したという(宮岡 真央子「重層化する記憶の場〈牡丹社事件〉コメモレイションの通時的考察」『文化人類学』81 巻 2 号 pp.266 〜 283 2016 年 9 月)。何やら聞きなれぬ横文字が使われ難しそうであるが、記念碑のことである。記念碑という日本語を知らなかったのだろう。福沢諭吉なら新たに訳語を造語したに違いないが、現代人は横文字を高尚ぶるのに使う例である。どこかの知事を思い出す。世間から孤立したその学界の狭い世界では通用するのであろう(原典は山中 樵 1944    (「宮古島民の台湾遭害」『南島』第三輯:136-173)

 叙勲の資料として作成された履歴書には台湾出兵に鹿児島から参加したことや西南戦争に従軍し、あろうことか行進隊の指揮長として政府に抗戦したことに関する記載は省かれており、書かない方がよかったのであろう。

 明治18年2月には農商務省御用掛兼外務省御用掛に任命され、2月から9月まで香港に派遣されているが、これが樺山資紀に同行した清国漫遊だろう。明治19年7月、相良は沖縄県師範学校学務課長、12月には学校長を兼務した。

 明治28年5月台湾は日本が統治を始めており、総督府の初代総督は鹿児島出身の樺山資紀である。相良は明治28年5月21日台湾恒春支庁長心得に任命されており、同じく西南戦争薩軍幹部だった河野主一郎は宜蘭支廳長心得となっている。二人とも有能と見込まれていたのだろう。相良は翌29年4月には台南県支庁長、30年5月には台湾東部の台東庁長に任命されている。

 中国版ウィキペデア「维基百科」に相良長綱の項目がある。その記事を機械翻訳のまま掲げる。明らかな誤訳、樺山が鳩山となっている部分だけは訂正し、他はそのまま。

  文部省高等師範学校官、日本併合後、1886年7月に沖縄県師範学校長、美里、

  越来、勝連、那城の4学区を視察し、1887年に「沖縄県教育の沿革」を執筆

  し、沖縄県管轄内の小学校の教科用図書の審査も担当した。 優れた業績によ

  り、1888年に文部省視学官と一般学務局第2課長に異動。

  1895年、日本軍が台南を占領し、台湾西部を平定した後、台湾知事の樺山資

  紀に招かれ、恒春支局長として台湾を訪れ、恒春国語伝承所を設立し、校長を

  兼任し、同年6月30日に知事府から台東支庁の官職を授与され、東台湾を征

  服する準備をした。1] 。 「一度、その端が間違っていると、欠点が次々に出

  現し、東の地域は、最終的に島の運営を妨害し、したがって、我々の軍隊が

  南台東に出入りできるように、恒春族の帰還によってのみ、この島の運営を

  妨害する」と彼は指摘した。 豚束束のパン・ウェンジ社長と緊密に協力し、

  恒春のアボリジニの部族の帰還を東への日本の出入りの出発点としました。

  「パン・ウェンジの仲介の下、彼は「ペナン王」として知られるペナンの

  長、チェン・ダダマランのリーダー、ベラス・マヘンヘンなどの東部部族

  指導者の帰還を説得し、非攻撃的な約束を交わした後、東部の徴兵の 準備を開

  始した。

  1896年5月24日、卑南社マラン社連合軍が雷公火の戦いリウ・デビン

  いる鎮海後軍を破り、相良率は日本軍将校と兵士を恒春から船で南に上陸さ

  せ、新開園(現池上)で鎮海後軍を全滅させ、台湾最後の清朝正規軍を崩壊さ

  せた[3]。 1896年6月30日、台湾総督府、台南県の台東支局長に相良を正

  式に任命した。 1897年3月18日、台東省の埋め立て局長に就任。 5月27日、

  台東支局は台東庁に昇格し、相良は初代台東庁長官に就任した。

  相良長綱はアボリジニの教育を推進し、懐柔政策を採用している。 [4] 彼は

  台東平原の部族指導者と協力し、南大社とマランの指導者マ・ヘンヘンが花

  東縦谷と東海岸の部族を説得し、麻雀リークニュータウン事件、その他の

  先住民族の反乱を鎮圧するのを助けた。

  1904年3月16日、日本政府表彰局より、シュフン四等賞の日小樽章が授与

  された。 同日、宮内省から5人の称号を授与された。 しかし、合併症はまも

  なく突然死亡した。

 これには相良が台湾でした仕事の一端が記されている。また、「随意窩Xuite日誌」というブログには相良の病名と死亡年月日が記されている。再び機械翻訳を掲げる。

  しかし、これらの栄誉は、まだ彼の命を救う方法はありません。 受賞し

  た同じ日、1904年(明治37年)3月17日、喘鳴と小児性炎のため台東庁

  死去した。

 喘鳴ぜんめいとは空気の通り道が狭まり、音が生じる症状で、いわゆる喘息らしい。

 この叙勲に伴い作成された履歴書は相良長良と相良長綱を分断するのに相当有効だったようである。日本や台湾の研究者達は相良長綱が相良長良であることに気づいていない。「薩南血涙史」は明治38年、相良の記念碑が台湾に建設されたと述べているが、これは死去の翌年である。

 いつか相良の写真を見てみたい。

可愛岳突囲のあと

 8月18日早朝の可愛岳脱出戦闘後、薩軍本隊は西に向かって行く。その行方を追いたい官軍だったが通信事情が現在と違う当時、的確な部隊配置の方針を示せなかった。薩軍が延岡に進むのか、大分に行くのか、熊本に進むのか、人吉か、鹿児島か分からず、延岡周辺に集まった官軍は各地に分かれて進軍することになった。本営を突破された可愛岳西側の山上では21日にも第二旅団が守備を配置している。再度の襲撃を想定し八水山・可愛岳・六首山などに配兵したが、23日には可愛岳一帯から撤退し、追撃に移っている。同じ場所に本営を置いていた第一旅団は19日にはすでに可愛岳山上を降りて薩軍が去った祝子川に向かい、その後は三田井・浜町・人吉に進んだ(高橋2012「可愛岳一帯の戦跡」pp.108~130・「薩軍の可愛岳突破について」pp.131~163『西南戦争之記録』第5号)。相良長良達が長尾山麓に六日間潜伏した後、谷を出て海岸にたどり着いた時には辺りに官軍の姿はほとんどなかっただろう。

 その後第三旅団は鹿児島に向かうことになる。

 その後、第二旅団は海路鹿児島県加治木に上陸し鹿児島市北部の吉田地方に進んでいる。別働第二旅団の半分は熊本県人吉に、半分は宮崎県米良に向かった。和田越の戦いの際、大分県南部から南下した熊本鎮台は可愛岳山脈の北東部を奪い、俵野の薩軍を北から包囲していたが、薩軍が脱出した後は大分県竹田・宇目地方や宮崎・大分県境地帯の長野越を警備した。

 煩雑だから各旅団の動向は略すが、9月初めには官軍は次第に鹿児島に集まっていったのである。