西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

臼杵市井村山の戦跡 田ノ口に戦跡なし。5月23日踏査結果。

はじめに

 巻尺の位置が塹壕内側の窪みです。向こうに見えるのは藤原山。

 塹壕跡から見た北東方向風景。中央左に龍王山、右は大迫山。低地を横切るのは臼坂バイパス。

 大迫山の踏査以来、周辺のいくつかの戦跡が未踏査であることに気づきました。その一つが井村にあったという井村山です。これまで井村の丘陵を山と称していた可能性もあると漠然と考えていましたが、1基だけ井村西部に台場跡が存在する周辺を確認してみることにし、出かけました。下図の中央部に官軍台場跡とある地点の北側です。

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 井村山の台場跡分布図 5号と6号は初めに薩軍が北方の大分市方向を意識して構築、4号は官軍が南から進撃した際に薩軍が築いた。1号から3号は占領した官軍が東側を向いて築いた。

 井村の地形は9万年前の阿蘇Ⅳ噴火に伴う堆積層が浸食され、残った溶結凝灰岩丘陵です。上面の標高は10mから20m前後であり、西方の今回井村山と呼ぶ山は最高所が77mです。東側の丘陵面よりも60m前後高くなっています。また、この山自体も阿蘇Ⅳであり、浸食が比較的少なかった部分です。谷間では凝灰岩の崖面を観察できます。

遺構・戦記について

1号台場跡はすでに存在が知られているものであり、今回確認したものを2号とします。2号台場跡の略図が下図です。

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 2号台場跡がある場所は上面が比較的広い尾根の東部にあたり、東側を向いて「し」字形の土塁があり、内側は窪んでいます。窪みの底に試しに細い棒を差し込んだところ30cm弱で硬い面に達したので、埋まった深さが判明しました。台場跡の規模は南北14.2m、東西5.6m。土塁の北端から52mの距離に次の3号台場跡南端があります。

 3号台場跡は2号よりも幅が狭い尾根上面にあり、尾根の東部に東向きに築かれています。土塁は半円形というか弓状です。内側は窪み、南側から入りやすくなっています。規模は南北8.0m、東西5.0mです。こちらの窪みは厚さ20cmほど埋没しています。台場跡の背後に図示していないが幅3mほどの踏み分け道があり、道の西側は土塁状に高まっています。また、台場跡の北側には地形の傾きに直交するように土塁が一直線に存在し、地図外の一段掘り下げられた平坦面(同じ高さを南北に走る畑跡状のもの。道路跡か?)直前まで続いています。これら二つの土塁は踏み跡により消滅した部分が断続的にあり、相当古いようですが、台場との新旧関係は不明です。

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戦記

 井村山が西南戦争時に登場するのは6月8日からです。大迫山を扱った際に関係文書は網羅したつもりですが、そこからいくつか転載してみます。

 6月8日、戦闘開始。官軍の臼杵進撃の方略・部署表があるが、簡単に記す(「征西戰記稿」)

左翼(司令官奥少佐):白木峠に第十四聯隊の2個中隊と警視三番小隊、その北側の再進越に遊撃第四大隊の1個中隊、その北の白山越に第六聯隊の1個中隊。

中央(諏訪・吉田両少佐):松原峠と吉野越に第十三聯隊の2個中隊と警視四番小隊と第十一聯隊の2個中隊。

右翼(林少佐):野津市口に第十三聯隊の4個中隊。

三道ノ兵午前四時ヨリ進ム左翼先鋒ノ警視兵ハ廣田村ヨリ白木峠ヲ越ヱ臺兵ト合シテ末廣村一里松ニ至リ江無田ノ賊ヲ撃ツ而シテ先ツ諏訪山ヲ取ラサレハ或ハ横撃ノ患アルヲ以テ一分隊ヲ留メ路ヲ轉シテ左翼井村ニ至ルニ賊忽チ江無田橋側ニ出テ襲撃ス我カ兵直チニ井村山ニ登リ戰フ會〃日暮ル賊敢テ逼ラスシテ退ク又中央先鋒ハ突進直チニ水城ヲ拔ク其警視兵ハ臺兵ニ並木峠ニ合シ間行吉野峠ヲ下リ賊ノ不意ニ出テ其背ヲ衝ク賊狼狽潰走ス然レノモ両翼ノ攻撃少シク期ニ後ル﹅ヲ以テ未タ志ヲ達スル能ハスシテ天明ク乃チ警備線ヲ設ケ又工兵隊ヲシテ胸墻ヲ水ケ城ニ築カシム

 一行目の広田村は広内村の間違いです。白木峠は今は九六位峠と呼ばれる場所のことで、その北西側麓に広内があるのが広田村とされた所でしょう。8日に戦いを交えたのは広内村から白木峠を越えて末広一本松に進み、江無田の薩軍と交戦した左翼兵だけのようです。官軍側の探偵報告にも井村が出てきます。

 林少佐の4個中隊が井村山で戦ったとあります。対する薩軍は井ノ村山に4基の台場を築いたという記録が大分市松岡の小区役場の記録にあります(大迫山記事に掲載)。

 次は4号台場跡です。これだけが南向きです。

 図では等高線が少ないので分かりにくいが、要するに平坦面がニ段ある地形です。左右の一段低い面は戦後の食糧難時代に畑を開いた跡かも知れません。4号は北側から登ると、頂上に着いた途端に見つかる状態です。

 きれいな図を示せないので仮に写真で撮ったのを掲げます。5号は平面形がL字形で全長延べ94mです。方位印の部分は右から入り込んだ谷になっています。図の左下部分は小さな広場であり、左外側から自動車がここまで来れるようになっています。昔も同じ経路で登ったのでしょうか。北部土塁部は尾根の片側に一直線に続き、内側は窪んでいます。棒を刺したら20cmくらいで硬くなるので埋まった深さはそんなものです。西部は頂上から屈折し、尾根の端に西側を睨んで造られています。

 西部では土塁だけがあり内側の窪みは見られないが、土塁に沿って通路になっているので踏み均された可能性もあります。土塁だけだったら戦跡かどうか疑問が残るが、南西部にJ字形の台場跡があるのでこれで側面からの攻撃に弱いという塹壕側面を補強していると解釈でき、結局土塁遺構も戦跡だと判断できました。

 この二つは薩軍が築いたと考えられます。南向きの4号は官軍が南から進撃して来た際に、井村山を守っていた薩軍が山の北部に退却し戦闘中に築いたと考えています。

まとめ

 前回大迫山の記事では井村山の台場を造ったのは官軍だと当然のように判断していましたが、記録を読むと初めに薩軍が4基築いていたとなっています。東向きの1号から3号台場跡の向きは官軍説に有利です。官軍は井村山の南西側や南側から薩軍を攻めたとみられるので、台場跡の土塁が東を向いているのは薩軍説には不利です。

 北部で南向きの台場跡4号(土塁跡)・北端部で長大な塹壕(5号台場跡)と6号台場跡を確認し図化しました。5号(塹壕跡)・6号の台場跡は井村山で戦闘が行われる前に薩軍が築いたものでしょう。九六位峠(白木越)・再進峠・白山越のどれかを越え大分方面から来るであろう官軍に備えて築造したのでしょう。4号は官軍が南から攻撃しつつ進軍した際に薩軍が応急的に土嚢ないし土塊を積み上げた痕跡だと思います。

 このような戦闘中に敵に向かう形で築造した台場の類例を挙げれば、大分県佐伯市宇目にある観音山戦跡があります。薩軍が守っている観音山に対し、7月1日麓から官軍が攻め上がり、点々と高い方、薩軍のいる方を向いた台場を築きながら10時間戦闘したことが分かりました(高橋信武2002「宗太郎越え周辺のできごと」『西南戦争之記録』第1号PP.110~134)。観音山には多数の尾根筋があり、そのどれを伝って官軍が攻め上がったのかまでは戦記には載っていませんが、戦跡の分布状態を調べると判明しました。

このような推移が井村山であったことは今まで全く知られていなかった点であり、戦跡踏査は意味ある作業だと理解できると思います。

 やっと戦記にある薩軍台場跡の一部を見つけた感じです。戦記では井村山と田ノ口が並んで登場することがあるので、井村山の北側にある田ノ口集落の周辺にも指呼の間に小山がいくつかあるので、それらにも台場跡があるのではないかと考えています。

 5月23日、田ノ口集落の東側、井村山の北側の山を歩いてみました。下図の田ノ口の「田」の右下にある尾根筋から南東に登り、標高73mの頂上から北側、東側を調べたけど台場跡は発見できずに終わりました。

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