西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

臼杵市大浜・中津浦背後の山歩き

1.2020.2.12、最近気になっていた大迫山の南東側、大浜集落背後の地域を歩いてみました。

 集落の背後の山寄りに大きな墓地があり、そこに駐車できたのでそこから北西側の山に入り、枯葉で滑り易い斜面を立木を掴んで登りました。近年ほとんど立ち入る人がないらしく、斜面には木々に埋もれて戦後の食糧難時代のものとみられる細長い畑の跡が何段もありました。先日歩いた下山古墳の南側斜面を思い出す状態です。標高110m等高線が東側に長さ100mほどの平坦面を描く場所が最初の目的地でした。上面は耕地化されるということもなく、まばらな木々と枯葉が埋めていました。先端部に台場跡があるのではないかと見まわしたけどそれはなく、西側の根元に進むと上面の西縁に沿うように土塁状の高まりが続いているのを確認できました(①)。大迫山4号台場跡のように礫を混ぜ込んで造られており、幅は80cm程で高さは平均20cm程度です。全体は一直線に続き、長さは21m、西側で地形が登りとなる位置から測って51mの場所から始まり、平坦地上面の途中で次第に消えています。

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 次に上方に向かって進む。三角台を守る会によって新しい径(人が歩く)が整備される途中らしく道具が脇に置かれているのを見つつ三角台に到着。先客が二人、長椅子に腰かけて豊後水道を眺めていた。次の目的地は北東方向に続く尾根を通って中津浦集落背後の尾根線まででしたが、4号台場跡を抜けていったのが間違いで、羊歯に遮られてしまう。しばらく羊歯を折り取る作業を続けたが断念した。後で地図を見たら三角台から北東に破線が記されており、これを通るべきだったようです。見過ごしてしまった。

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 帰りは同じところを通りたくなかったので、②方向に径を進み、途中で①とは谷を共有する南側の尾根に行くらしい筋を降りることにしました。その途中の景色が次の写真です。臼杵湾の対岸に市街地が透けて見えます。先日の絵も近景はこんな感じでできればよかったのですが。

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 かなり下の方に着き、尾根が南東に延びた場所でまたも土塁状のものを確認。それは西側眼下に県立海洋科学高校の運動場を見下ろす場所にあり、長さ13mで幅0,8mのものです。これも礫混じりでした。高さは10cm程度しかなく、尾根の先端側では不明瞭になっています。その先、尾根先端はかつて畑化されたらしく長さ10mほど高さ20cm程度一段低く平坦にされています。

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 はたしてこれら土塁状の高まりは西南戦争時に造られたものでしょうか?内側に窪みがない点は否定的な要素ですが、どちらも平坦面の西端に縁どるように存在する点は戦跡として捨てがたいものがあります。戦跡とした場合、どちら側が築いたのか判断できません。もう少し北東側の戦跡分布を広範囲に調べる必要があるようです。降り着いた場所には大東亜戦争戦死者達の慰霊碑がありました。

2.2022.2.18 前回に続き大浜の未踏査部分とその北東側の中津浦の背後の山を歩きました。10時過ぎから12時35分までで終了し、初めの気温は4度でその後も10度くらいまでしか上がらず、雲も減っていい天気でした。下図は前回の地図に本日分を加えたものです(3~6)。

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図右の往路・復路の記号は今回は該当しません。歩いた場所には台場跡はなく、前回大浜背後で見つけた土塁二つの結論は付けることができずに終わりました。中津浦集落の写真を上の方から撮りたかったけど木々に遮られていて断念しました。

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 上は3付近から撮影した大浜集落です。

 次回は水ケ城跡の南側尾根を歩きたいと思っています。