satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

草木藪(くさきやぶ)・杉ヶ越 ※今回紹介する一帯に安易な気持ちで出かけないでください。迷うと危険です。

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 久し振りに台場跡探しに行ったので写真を投稿します。佐伯市宇目の戦跡です。石灰岩・赤いチャート・砂岩のような堆積岩が山砂利のように混じり、踏むと足元が流れる登りにくい山でした。写真の左端が杉ケ越。草木藪では杉ケ越に通じる大分県側のトンネルの真上とその南側に3基の薩軍台場跡がありました。ただし、ここでは戦いはないまま、戦争はおわっています。下の写真はトンネルの北側にある嶺の頂上から西側を撮ったものです。

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 これは明治18年大分県(担当は兵事課)が参謀本部に提出した「明治十年西南ノ役戦地取調書」(高橋蔵)で、参謀本部はこれに表紙を加えて「西南戦地取調書 豐後」としています。市町村が提出した説明文と地図からなり、100頁前後ある貴重な史料です。

 草木藪は薩軍が守った場所として知られてはいたものの具体的にはどこにあるのか不明でしたが、この史料によりおよその場所が判明し、以前あたりを付けて出掛けてみたところ台場跡を1基確認していました。今回は二回目の踏査です。

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 上は部分拡大です。右端にある四王子ヶ嶽とは傾山かなと思います。草木藪の右にある大明神越は杉ヶ越として国土地理院地図に載っている県境の峠です。

杉ヶ越

 簡単な神社が宮崎側をむいて存在し、周りには最大直径4m位のものなどいくつか杉の切り株(下図では橙色で示す)があり、神社は杉を祀ったのが始まりかもしれません。現在はトンネルが真下を通っていて、旧道はトンネルの宮崎側から登ると正面に左右に続く尾根の手前に着き、そこに峠道と神社があります。

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 杉ヶ越の尾根は標高が1000mくらいの所にあり、台場跡が1基、宮崎側を向いて存在します。草木藪と同じくここも実際の戦闘はなかった戦跡ですが、宮崎県と大分県を行き来できる路線であるため、薩軍が守ったり、官軍が守ろうとしたりした場所です。大分側山道は廃道状態です。杉ヶ越の台場跡は何年か前、踏査に行って見つけたものです。神社がなかなか風情ある様子でした。石段が始まる所を横切る小道は傾山の登山道で、トンネルの右傍から登り着いた場所です。

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 右上写真は直径4mの杉の切株。手前に左から右奥に旧道が延びる。神社は切株の向こう側にある。

草木藪 

 次は草木藪です。

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 草木藪の台場跡は写真は撮ったけど、写真だと草木の中にあるので台場跡だと理解できない状態で割愛しようかと思ったけど、ましな1枚を掲げます。

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 これは草木藪峠方向を向いた2号台場跡で、北側の尾根筋よりも2mほど高い場所にあります。尾根の中央にあるため長年の間に人や鹿・猪が踏み続けたので土塁部分の中央は土が流れ、内側の窪みも痕跡的ですが、向く方向から考えると尾根の先、峠道はこの先で尾根筋がぐっと下がりきったところを斜めに横断する状態であるのですが、そちらをにらんでいます。この先の急激に下がる手前に1号が西、左向きに造られています。眼下には西からくる山道があり、それを見張る状態です。前回はこの尾根の先が下がる部分を見下ろしただけで引き返したのですが、今回は北側の分布状態を確かめるため、降りてみました。降り着いた本当の垰(たお)部分に左側の杉ヶ越の方から旧道が来て、右斜め前方に下っていく状態でした。垰から北側に登り、頂上に進むと両側は急斜面で狭い状態でした。

 3号はこの写真の背後、左後の高い場所にあり、やや大型の「J」字形です。そこからは急激に尾根が落ち込み、谷底の水音がよく聞き取れました。後で地図を調べたら水平距離で700mの所を西山川が流れていましたが、もっと近いところに地図にない支流の滝があるみたいです。

   「西南戦地取調書 豐後」はポツダム宣言受諾直後に各地の軍関係文書を数日間に焼却した際に心ある人が秘かに持ち出し、巡りめぐって高橋の所に来たのだと思います。戦場になった各県も参謀本部に提出したはずであり、熊本県立図書館には熊本県分の控えが残っているようです。

 薩軍側の記録「二見はやし上申書」『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』pp.851~857に次の記述がある。当時二見は奇兵二十二番右小隊長だった。

  而六月四日吾一中隊延岡ヲ出発豐後地ニ進軍ス、同日熊田駅ニ一泊シ翌日昧旦同所

  出足重岡ニ着ス、爰ニ隊ヲ止メ置キ単身小野々市分営ニ至リ軍議ヲ決シ、重岡ヘ帰

  リ翌払暁ヨリ左小隊ハ三國峠ニ進ム、吾右小隊ノ左半隊ハ半隊長ノ吉野之ヲ率テ宇

  目津越シニ進ンデ彼地ヲ守ル、右半隊ハ吾輩率テ木浦礦山ニ至リ、奇兵壱番和田正

  之丞隊并武田報國隊ト交代シテ、西山・草木山等ノ両所ヲ守ル、鐘掛越ニハ当所農

  兵ヲ以先ヨリ之ヲ守ラシム、敵ハ中津留・高千穂其他諸所ニ在リ、而同月十三日午

  前七時比宇目津越之吾左半隊守ルノ台場ヘ敵二百名余不意ニ襲来、暫時防戦スト雖

  少兵ニシテ終ニ敗走ス、此時兵士世山勝之・片寄傳藏銃瘡ヲ負フ、葛葉村給養宿陣

  ニ敵放火ス、依テ壱里余退軍要害ノ地ニ拠リテ守兵ヲ置キタル由半隊長吉野某ヨリ

  報知達シ、夫ヨリ直ニ横撃ノ敵ヲ禦ノ為笹峠三ケ所ニ胸壁ヲ築キ、西山・草木山ノ

  両所ノ兵ヲ分配シテ之ヲ守ラシム、此時三番一小隊木浦礦山ヘ着ス、依テ所々ニ兵

  ヲ分配シテ共ニ此地ヲ守ル事二三日ヲ過ギテ、三國并旗返シ等相敗レ、小野々市

  営モ最早重岡ニ退営ス、是ニヨツテ木浦礦山ノ守兵方今退軍スベシト右分営ヨリ

  達シ、之レニ随テ直ニ兵ヲ纏メ当所背後ノ大霧峠ヲ越ヘテ下赤村ニ退軍ス、

 草木山とは草木藪のことだと思います。大分県薩軍奇兵隊が侵入したのは5月12日で、それは宮崎県延岡から大分県南部の佐伯市宇目の重岡(誤解されることが多いが、重岡は日豊線重岡駅の場所ではなく、そこより4km西方です)でした。以後、竹田、佐伯、三重、鶴崎臼杵などで暴れまわり、その間、宇目は拠点のようになっていました。

 当時、第一旅団が阿蘇南東側の高千穂方面から延岡に向かって東進中で、これが宇目の薩軍にとって南西側からの脅威となっていました。杉ヶ越・草木山(草木藪)などはそれに対する警戒網でした。この文によると二見隊が守る以前に既に奇兵一番中隊や竹田報国隊が守備を設けていたようです。しかし、6月17日に北東側の旗返峠や三国峠を奪われると草木藪からは撤退し、近くの宮崎県下赤に移動したのです。

 その後、草木藪にはどちらも守備を置かないままに過ぎました。延岡市長井村で官軍に包囲された西郷隆盛桐野利秋等の薩軍は8月18日に延岡市可愛岳を急襲し、19日、可愛岳の西方に向かって逃走し、官軍は行方を探索することになり草木藪が再登場します。

 下記は第二旅団の文書に登場する草木藪です。20日薩軍が鹿川越(二つあるので紛らわしいが)に到着したことを把握した宮水の東、舟の尾の東にある新町に出張していた宮井少尉は薩軍大分県に向かう場合を想定し、草木藪とその西側の三ツ合に警備兵を出すよう進言したが、実現しなかったようです。但し、参謀本部に提出した前掲の地図では官軍が守ったとする記号が記されていますが、この点は検討課題です。

C09080572300「探偵戰鬪報告 明治十年八月十七日ヨリ同廿六日 延岡出張軍團本営」(防衛省防衛研究所蔵)0773

  今朝賊獅子川峠ヲ経テ山浦越或ハ杉ケ越ノ両道ニ向ケ突出シタルヿ確然タリ故ニ木

  浦口草木藪峠ト三ツ合トニ充分ノ兵ヲ出シ警備ヲナシ而シテ宮水ヨリ川ノ詰メニ進

  撃兵ヲ出シ杉ケ越三ツ合ノ両道何レニテモ賊ノ経行セシ方エ向ケ御繰出シ相成度此

  段申進候也

   逐テ西郷桐野別府兄弟村田逸見馬ニテ指揮ス(手負ナレノモ)等ハ何レノモ同道ニテ本

   文ノ通突出シタル趣ナリ且賊ハ竹田ニ出ル趣ニ付三ツ合ヨリ三本松越(堀江中佐カ豊

    後路エ通行シタル道ナリ)ヲ経テ竹田江向ケ御繰出相成候ハヽ都合冝敷ト奉存

    右八月廿一日新町出張宮井少尉ヨリ報告

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 谷を通るよりも尾根を進む方が安全であり、もし薩軍大分県方向に進んだなら草木藪を通ることも十分あり得ることでした。しかし、薩軍大分県方向には進まず、三田井から南に向かいました。

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 6月の2 ※末尾に30日に薩肥軍が川内川流域から退却後に守りを付けた高田について書き加えました。

「C0908479800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0319・0320

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:古志山 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時半出水村山上ノ哨處ヲ發シトカメ岡右方賊塁ノ正面ニ       進軍ス此時☐霧深咫尺ヲ弁セス依テ一齊ニ鯨波ヲ發シ銃槍ヲ振ツテ堡内ニ突入ス賊

  兵大ニ狼狽塁外ニ出テ拒戦ス我兵憤戦猛烈ニ發射スルニ依リ遂ニ道ヲ西南ニ取リ潰

  走ス此ニ於テ北クルヲ逐フテ☐村葉月麓ヲ経ヘ堂崎村ニ到リ止戦ス

  我軍総員:八拾人 傷者:下士卒 一   備考我軍※略す

 葉月麓は羽月麓だろう。堂崎は大口街の南南西2.2km付近である。

C09084798900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0321・0322

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍中尉横地 剛㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:トガミ山脉右方  

  戦闘ノ次第概畧:本日午前開戦ニ付昨夜第十二時當線ヲ発シ竊賊塁ニ近接ナル森林

  ニ伏兵シ而期ヲ待リ時ニ暴風実ニ咫尺ヲ辯セス當隊此機ニ乗シ吐喊直ニ賊塁ニ突入

  シ賊ノ堡塁數ヶ所ヲ乗取ル賊狼狽出ル處ヲ失ス當隊憤進尾擊終ニ大口ノ近傍善寺塚

  ニ歩哨線ヲ定ム   我軍総員:百十六將校以下百十六名

C09084799000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0323・0324

  第三旅團名古屋鎮臺第二聯隊第壱大隊第二中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:鹿児嶋縣薩摩國羽月郷ケナシムタ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時ヨリ鹿児嶋縣薩摩國伊佐郡羽月村ケナシムタニ於テ戦

  ヲ初メ賊ヲ追テソーキ郷シモドノ村至リ命令ニ依リ羽月郷善寺塚ニ引揚ケ大哨兵ヲ

  張ル  我軍総員:將校百十六名  我軍ニ獲ル者:銃 元込銃 壱挺 弾薬 ヱ

  ンピール銃弾藥壱箱  器械 鑄形并刀各壱個宛

  備考敵軍:小銃壱挺刀壱本羽月郷ケナシムタニ於テ得ルヱンピール銃弾藥壱箱鑄形

  壱個同所ニ於テ得ル   我軍総員:百貳拾参名 

 シモドノ村は下殿村で、羽月川と川内川の合流点の少し北にある。元込銃はスナイドル銃である可能性がある。

C09084799100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0325・0326

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:薩摩国大口郡腰山上 

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時三十分頃岩塚岡ヲ発シ仝第四時頃腰山ノ麓ニ至リ雲霧

  ニ乗シ側面及ヒ正面ヨリ銃鎗突感直ニ山上ノ數壘ヲ陥ル賊敗走尾擊シテ終ニ善十塚

  ノ岡迠占領ス次ニ午前第七時ナリ   我軍総員:六拾壱名

 分からない地名ばかりが出てくる。善十塚は善寺塚か。ゼンジ塚がゼンジュ塚と聞こえたのか。

C09084799200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0327・0328

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:十年六月廿日 戦闘地名:観音谷 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前一時大哨兵ノ位置出発観音谷ノ山頂ニ達スレハ東方既ニ

  白ク我兵ヲシテ右側ニ当ラシム賊ノ弾丸射ルヿ雨ノ如シ我カ兵奮擊鼓譟シテ進ム遂

  ニ賊塁数十ヶ所ヲ拔ク尚オ逃ルヲ遂テ岳南ニ赴ク時ニ午前第五時ナリ 

  我軍総員:九十五名

 観音谷とはどこか。

C09084799300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0329・0330

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:觀音谷 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分各隊賊塁ノ左正面ヨリ侵襲ス賊早クモ之ヲシリ

  速クニ各隊ニ向テ乱射ス此時我隊第壹半隊ヲ賊塁ノ背後ニ迂回セシメ放火壹回直ニ

  突進ス賊之ヲ知ルヤ大ニ狼狽シ守地ヲ捨テ四方ニ散乱シタリ 我軍総員:八十七人

 C09084799400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0331・0332

  第三旅團第十聯隊第三大隊第三中隊大尉山村政久㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児縣大口郡土山 

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日午前第三時淵辺村ノ山ヲ出第三時土山ノ敵塁ニ向ヒ開

  戦直チニ臺塲ヲ乗取夫レヨリ間道本庄万出村ニ至リ大哨兵ヲ布ケ

  我軍総員:百四拾五人 俘虜:未詳一人 

  備考敵軍:一敵ノ人夫体ノ者壱人ヲ縛ス直チニ本営エ送ル

 土山と本庄万出村が場所不明。我軍備考は薄くて読めない 傷者下士卒も薄くて読めない。

C09084799500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0333・0334

  明治十年六月廿二日歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長第三旅団陸軍大尉安満伸愛㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:大口 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分ソンダ山ノ賊ヲ打拂ヒ続テ河邊ノ賊壘数多ヲ取

  リ尚進テ大口本道守賊ノ左翼ヲ猛擊ス彼敗兵ヲ留メ必死ノ形勢ニ移リシト𧈧豈ニ保

  ツ可ンヤ遂ニ又敗ス尾撃シテ大口旧城ニ到リ兵ヲ留ム再攻撃ノ命ニ依リ進テケ子山

  ニ到ル爰ニ於テ固守ノ命ヲ拝シ大哨ヲ布ケリ   我軍総員:八十七人 

  我軍備考:一死傷異情ナシ 一糧十四俵花北村ニ於テ獲タリ 一此日費ス所ノ弾数

  三千八百発ナリ

 ソンダ山は羽月川右岸の園田村背後の山という意味である。ケ子山は、かね山と読むかも知れない。大口町の東側に金山があったということか。付近の菱刈金山は1981年発見である。

 戦闘報告表ではこの日、花北山で安満大尉が薩軍所持の白米と玄米を分捕っており、23日までに厚東中佐に届け出ている。

C09084912200第二号 自五月至六月 來翰綴 第三旅團参謀部 

去ル廿日攻撃之際賊徒所事之白米拾俵玄米四表分捕候旨安満大尉ゟ届出候間即大口村出張糧食分配處ヘ引渡方可取斗旨該隊ヘ相達置候間此段御届ニ及置候也

  六月廿三日厚東陸軍中佐

   第三旅本營

       御中

 それらを官軍が消費したかどうかは分からない。

C09084799600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0335・0336

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊附属同聯隊第貳大隊第四中隊一小隊 中隊

  長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:大田村 

  戦闘ノ次第概畧:此日攻撃隊トナリ午前第二時小木原村砲台エ整列直ニ對向ノ地エ

  散布俄カニ急進突戦ノ譜合ヲ吹奏シ正面左右トガメガ丘左ノ諸塁瞬間ニ乗取續テ連

  突セシ折賊ノ背后ヲ絶ツナランカ正面左ヘ突出シタリ依テ我軍一時混乱ヲ醸シ甚

  戦ナレ共肉薄是ヲ攻メタリ賊手ノ舞ヒ足ノ踏處不覺シテ散乱敗走北クルヲ逐テ大口

  街ヲ經テ花北山々上マテ追撃止陣シタ   我軍総員:三拾八名

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 上図は南報告に出ている地名を示したものである。小木原村を出発し大田で羽月川を渡り、鳥神岡の麓で戦ったのだろう。この朝、鳥神岡の麓の丘陵、ソンダ山で戦った別の隊の報告もあるので、南隊も同所で戦ったのだろう。その後大口街を通り抜けて花北山で留まっている。花北は平野部にあり、付近の山に登って守備したのだろう。具体的にはどこであるかは不明。図の下部には辺見十郎太の涙松跡がある。ウィキペディイアから説明文を引用する。「明治10年6月20日、西南戦争の高熊山の戦いで敗走した辺見は、現在の鹿児島県伊佐市菱刈市山にあった松並木で馬を止め「死を堵して固守すること四句余の山塁、いまこの要害の地 (高熊山)を糞鎮(政府軍)に奪わる。あぁ、吾が事終った。今は鹿児島に帰って死に就かんのみである。」と嘆き、涙を流したと伝えられている。」 南隊は前もそうだったが報告を二種類作成している。

C09084799700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0337・0338

  第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:大田村 

  戦闘ノ次第概畧:此日攻撃隊トナリ午前第二時小木原村砲台エ整列直ニ對向ノ地エ

  散布俄カニ急進突戦ノ譜合ヲ吹奏シ正面左右トガメガ丘左ノ諸塁瞬間ニ乗取續テ連

  突セシ折賊ノ背后ヲ絶ツナランカ正面左ヘ突出シタリ依テ我軍一時混乱ヲ醸シ甚

  戦ナレ共肉薄是ヲ攻メタリ賊手ノ舞ヒ足ノ踏處不覺シテ散乱敗走北クルヲ逐テ大口

  街ヲ經テ花北山々上マテ追撃止陣シタ 我軍総員:九拾三名 傷者:下士卒壱名

 対向の地は羽月川の対岸らしい。淵辺や園田の集落がある辺りか。人数が異なるだけである。

C09084799800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0339・0340

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 煥之㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣下小木原村前方 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時援隊トシテ小木原邨ヲ発シ本道ヨリ進ム然ルニ第六時

  頃本道ノ味方殆ト敗ルヽノ勢アリ依テ古田少佐ノ命アリ援隊ヲ道ノ左右ニ配布シ

  攻撃當方遂ニ賊大口ヲ捨テ走ルニ付又攻線ヲ攻撃隊ニ譲リ隊ヲ集メ援隊トナリ☐ヒ

  本庄ノ下出村☐☐江至リ茲ニ大哨ヲ占ム

  我軍総員:百二拾五名  備考:死傷ナシ此日費ス所ノ弾薬五千発

 岡隊は本道を進んだので小木原村から大口中心部に直線的に移動したらしい。本庄ノ下出村は場所不明。小銃弾は平均40発発射している。

C09084799900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0341・0342

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長 陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:ソンダ山 

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月廿日午前第三時トカメ丘左方ソンダ山之賊塁ニ向ケ

  攻撃于時大雨且ツ濃霧ニ乗シ潜テ賊ノ左方ニ出テ突然彼カ側面ヲ撃ツ賊兵狼狽一時

  烈シク防戦スト𧈧モ我兵奮進遂ニ賊塁九ヶ所乗取彼大ニ敗走逃ルヲ追テ羽月ニ至テ

  休戦ス此日費ス所ノ弾数凡ソ千二百余発   我軍総員:九拾三名

 前にも出てきたが鳥神岡の東側に園田村がある。ソンダ村と聞こえたので漢字が分からず、聞こえたとおりに書いたのだろう。バンバデーラと聞いたら馬場平とは思わないようなものである。昔の発音を標準語化するのが流行っていて、ウエンバイが国指定史跡上野原ウエノハラになったのと同じである。下村隊は一人13発弱の小銃弾を発射しているのでそれ程の激戦ではなかった。

C09084800000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0343・0344

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿兒嶋縣ハツ郡千貫ヶ山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時平泉村ノ防禦線ヲ發シ援隊ニテスワノヽ山ニ至ル処第

  三時先鋒隊開戦ニ付直ニ之レニ応ス暫時ニシテ賊兵ヲ敗走セシム而シテ進ンテスワ

  ノヽ山ニ至リ第十一時茲ニ防禦線ヲ占ム

  我軍総員:百三十二 傷者:下士卒一   我軍ニ穫ル者:銃:二 器械:刀二

  備考我軍:一傷者一名ハ一等卒根本末吉スワノヽ山ニテ傷ク

  備考敵軍:一銃二挺ハスナイドル 一刀ハ破損物 右スワノヽ山ニテ得ル

 スワノヽ山は場所不明。平泉村つまり平出水村を出発しているので、羽月川の右岸を進んだのだろうか。スワノ前遺跡というのが左岸の坊主石山の南東にあるのを参考までに掲げておきたい。結論は保留する。分捕り品にはスナイドル銃2挺がある。

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C09084800100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0345・0346

  第三旅團大坂鎮臺砲兵第四大隊第一小隊右分隊長 陸軍中尉三宅敏徳㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国大口驛

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時整列同第七時山野村出立直チニ大口ニ進入ス敵退去ス

  ルニ依テ該地ニ宿陳ス 我軍総員:六拾壱名

  我軍ニ穫ル者:砲:壱門外ニ車臺二輛 銃:小銃三挺 弾薬:大砲彈三百三十四個

  外ニ箱入七個 小銃彈五百外ニ五箱 器械:具足一領 鎗三十九本 刀七本 銃劔

  十二本喇叭三管

 三宅隊は山野村を出発し戦うことなく大口街に直進したようである。分捕った砲弾334個と箱入り7個は5月上旬に山野の戦いで別働第三旅団から分捕ったアームストロング砲弾もあるかも知れない。

C09084800200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0347・0348

  第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊 大尉沖田元康廉㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前一時整列直ニ出発髙熊山下ニ至リ卒ニ令シ賊塁ニ達セスンバ

  発火ヲ禁ス凖備已ニ終テ兵ヲ潜メ山頂ノ賊塁ヲ指シテ攀躋塁ヲ巨ル纔カニ五六米突

  時已ニ三時我全兵大声銃鎗ヲ揮テ突入賊狼狽或ハ放火スルモ弾着髙ク或ハ降雨ノ為

  メ雷管鳴ヲ傳火ヲ得ス漸時ニシテ賊ノ三塁ヲ奪フ直ニ廠舎ニ火シ更ニ追テ又数塁ヲ

  陥ル是ニ於テ兵ヲ半月ニ布キ猛烈火擊夜ノ明ルヲ竢ツ天明ケ全山ヲ掠シ猶山下ノ残

  賊ヲ尾擊シ此夜鳥越ノ右側ニ於テ守線ス 

  我軍総員:八十九名 失器械:銃剣 三挺 我軍ニ穫ル者:俘虜:下士卒一名

  銃:十二挺 弾薬:四箱外大砲弾三個

  備考我軍:〇銃剣三挺髙熊山ニ於テ衝突ノ侭発火ノ砌紛失

  備考敵軍:〇俘虜鹿児嶋士族一佐弥右衛門〇ヱンヒール十挺シニーデル二挺〇弾薬

  ハヱンヒールノミ此銃及ヒ弾薬ト凡テ髙熊山ノ賊塁ニ於テ分捕

 午前1時に出発して、高熊山の下に到着して密かに登り、薩軍の台場から5mか6mの近くまで忍び寄り、開戦は午前3時だった。雷管鳴ヲ傳火ヲ得スは「雷管、鳴るを伝うる火を得ず」だろう。この日は雨だったので、金属薬莢実包を使わない前装銃・管打銃は筒先から粉火薬を入れるため、雨に濡れて発火しなかった、ということ。シニーデルはスナイドル。スナイドル銃は金属薬莢を使用し、官軍の多くが装備していた。

C09084800300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0349・0350

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第二中隊長 陸軍大尉福島庸知㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時防禦線ヲ発シ同第三時髙熊山ノ塁壁ヲ襲ヘ一時ニ賊兵

  ヲ追拂ヘ全ク髙熊山ヲ占領テ斥候ヲ出シ賊ヲ追躡シ大口邉ニ入ル賊退キ去ル 

  我軍総員:九十五 傷者:下士卒 三 我軍ニ穫ル者:銃 十二

 午前2時に防禦線を出発し、午前3時に高熊山を攻撃している。攻撃が3時からというのは直前の沖田報告と同じである。一気に片が付いた。

C09084800400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0351・0352

  第三旅團工兵第二大隊第一小隊第二分隊陸軍少尉横地重直㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時塹溝造築ノ爲メ髙熊山ノ麓ヲ発シ頂上ニ登レバ賊等敗

  走スルヿ数里漸ク進テ大口村ヲ過キ馬越街道ナル田中村ニ至レバ既ニ☐☐テ本夜同

  村ノ民家ニ宿陣ス  我軍総員:拾九名

 高熊山の戦いが始まった時間の午前3時に麓を出発し、頂上に到着したときには薩軍(熊本隊)は数里も先に敗走していた。それで築造作業はせず馬越街道の田中村に宿陣している。

C09084800500 「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0353・0354

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊 中隊長代理中尉松田是友㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時三十分髙熊山出発嶮ヲ不厭山上ノ賊塁ヲ攻撃我隊ヲ

  シテ先鋒賊ヲ突刺候処賊アハテサヽユル者ナク敗走及依テナンナク数塁ヲ攻落シ右

  小隊ヲシテ走賊ヲ遂擊ス左小隊ヲシテ山ノ口山辺ノ賊ヲ追打数塁ヲ落シ入夫ゟ馬越

  山ヘ防禦線ヲ定   我軍総員:九十八名 我軍ニ穫ル者:俘虜:未詳 一名

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 山ノ口は坊主石山の南東側麓の村であり、その名で呼ばれた山は坊主石山の南西部分か、もしくは村の東側の山だろう。その後進んだ馬越街道の路線は分からないが、中世の馬越城跡が上図左下にある。付近の山が馬越山だろうか。

C09084800600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0355・0356

  第三旅團近衛歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊 中隊長陸軍大尉竹田實行㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日髙熊山攻撃ノ為メ午前第二時大哨兵ヲ発シ同山左ノ麓

  ニ兵ヲ散布シ第三時銃鎗進撃シテ山上ノ賊塁ヲ乗取リ爰ニ防禦ノ凖備ヲナシ夫ヨリ

  馬越街道稲荷山ニ進軍シテ大哨兵ノ凖備ヲナス 

  我軍総員:百三拾八名 傷者:下士卒壱名 

  我軍ニ穫ル者:銃:ヱンヒール短銃 二挺 弾薬:仝 五百発入 壱箱

 稲荷山は他の戦闘報告表にも出てくる。馬越城跡の東か北東だろう。

C09084800700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0357・0358

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長陸軍大尉斎藤徳明㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時髙熊山防禦線出発同第三時攻擊隊ノ進ヲ見直ニ髙熊山

  ニ攀登シ一分隊ヲ以テ斥候出シ后チ一半隊ヲ攻擊隊ノ援隊ニ発遣セシメ賊兵ヲ長駆

  シテ徳兵衛村ノ臺ニ防禦線ヲ定メ守備ス  我軍総員:百拾四名 

  我軍ニ穫ル者:ヱンヒール銃二挺 スナイドル銃 壱挺

  備考敵軍:午前第二時出発髙熊山麓森林中ニ兵ヲ潜伏セシメ同第三時攻擊隊ノ進ヲ

  見直ニ兵ヲ二分シ一ハ髙熊山横面堡壘ノ右翼ニ進ミ一ハ左翼ニ進ミ山ニ攀登シ直ニ

  散兵ニ配布シ一分隊ヲ以テ山下ノ村落ニ斥候ヲ出セシ時賊ノ敗兵返テ我カ兵ニ抗ス

  故ニ戦フ須臾ナリ又一半隊ヲ出シ攻撃隊ノ援隊タラシメ遂ニ進テ徳兵衛村ノ臺防禦

  線ヲ定メ守備ス

 徳兵衛村は場所不明だが、伊佐市役所の南東約5,6kmに徳辺(とくべ)がある。 

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C09084800800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0359・0360

  第三旅團砲兵第四大隊第壹小隊分隊長 陸軍少尉居藤髙次郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:朝第二時半山野村出発鳶ノ巣岡ニ向ケ進ミ髙熊山ヲ超過シ小苗代

  村ニ繰込馬越臺ニ至テ数十個ノ塹溝ヲ築キ夜第十二時重冨村ニ引

  揚ク 我軍総員:拾五名

 重冨村は徳辺から2kmほど高熊山寄りにある。小苗代村は地図には載っていない。検索すると「薩摩旧跡巡礼」というブログに「今回は伊佐市菱刈市山にある小苗代薬師堂跡です。十三世紀頃には存在していたという、歴史ある薬師堂であったそうです。」という記事を見つけた。今は松原神社といい、辺見十郎太の涙松跡から南東200ⅿ付近にある。当時その村名が存在したかどうかは兎も角、戦闘報告表ではこの辺りを小苗代村と呼んだのである。

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C09084800900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0361・0362

  第三旅團工兵第二大隊第壱小隊第一分隊 陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣於大口郡小木原村

  戦闘ノ次第概畧:大口丑山小木原村防禦線ヲ固守シ遂ニ進テ孫子下村ニ達シ同所大

  哨兵線ニ守備ス 我軍総員:五十三人  備考我軍:当小隊ノ内徒歩編製ノ隊

  丑山は牛尾の山、工兵隊だから攻撃には参加せず、小木原村の防禦線にいて、その後、馬越村で大哨兵の守備についている。孫子下村はマゴシ村、あるいはマゴシタ村つまり馬越村のこと。

C09084801000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0363・0364

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊 陸軍少尉小倉信恭㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡栗山村

  戦闘ノ次第概畧:六月廿日午前第二時三十分左翼開戦スルヤ我隊栗山ノ賊塁ニ對戦

  シ同所賊壘ヲ乗取リ左翼賊軍ノ火ノ挙ルヲ見ルヤ一層猛烈ニ進入スル処賊遂ニ悉ク

  胸壁ヲ棄テ隣奔リ之ニ乗シ里村迠追撃ス然レノモ同所ニ於テ賊戦シ勢ヒ盛ナリ故ニ苦

  戦ニ及ヒ我兵稍退歩シテ猛射スレバ賊終ニ大敗シ奔リ稲荷山迠尾撃シ仙臺川ヲ隔テ

  茲ニ大哨兵ヲ張ル 

  我軍総員:百八人 傷者:將校二人 下士卒四人 

  我軍ニ穫ル者:銃 和銃三挺 備考我軍:※傷者名を略す

 栗山は不明。これも園田村がソンダ村と表記されたように郡山のことかも知れない。南隊報告0335部分に掲げた地図に郡山を示した。高熊山の南西で、小木原村の南東側に位置する。コオリ山がコリ山とかクリ山に聞こえたので栗山と書いたのだろう。栗山を奪った後に進んだ里村は郡山から水田地帯を1.7㎞南下した所、大口の町の中心の西部、羽月川沿いにあり地理上の関係は矛盾しない。

 仙臺川は東流して大口中心部から南西4,6km付近で羽月川に合流する川内川のことである。稲荷山がまた出てきたが、記述から川内川の手前、大口側にあると分かる。

C09084801100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0365・0366

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長代理 陸軍中尉中村 覺㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:高隈山

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第二時三十分髙熊山ノ麓ニ向テ進撃同シク第三時開戦忽

  チ大喊ヲ作ツテ賊塁ニ驅ケ入ル賊皆ナ支スシテ走ル尾擊シテ大口ノ臺ニ至ル頃賊又

  返リ戦フ此時我兵ヲ左ニ大迂廻セシメテ賊ノ側面ヲ撃ツ賊畢ニ死体ヲ棄テ走ル追撃

  シテ「マゴシ」ノ臺ニ至ル戦止ム時ニ午后第四時三十分頃也費ス処ノ弾丸大七千發

  我軍総員:将校以下百三拾貳名 死者:将校一 下士卒一 傷者:下士

  一 我軍ニ穫ル者:銃 火縄銃一挺及ヒ刀三本 備考我軍:※死傷者名を略す

 小銃弾は一人平均53発を使用している。

C09084801200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0367・0368

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊等陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:十年六月廿日 戦闘地名:薩摩国大口村城山

  戦闘ノ次第概畧:午前四時大口進撃援隊トシテ進軍髙熊山ノ左翼前方ニテ開戦直チ

  ニ城山ヲ落シ入レ大口村ニ進入續テ馬越村ノ上ノ山ニ追撃ス 

  我軍総員:百二十五名 死者:下士卒一名 傷者:下士卒一名 敵軍総員:二百人

  余 死者:三名斗 傷者:不詳 我軍ニ穫ル者:弾薬 若干 糧 二十四俵 備考

  我軍:傷者一名二等兵卒☐原熊吉也午前四時頃開戦大口ヲ落シ入レ同十二時頃馬越

  村ノ山上迠追撃防禦線ヲ同所ニ着ク 

  備考敵軍:死傷若干見請ルト𧈧モ助ケ去二三名戦地ニ死体ヲ残セリ 一弾薬若干ハ

  破捨セリ 一粮米ハ粮食課ニ送ル

 弘中隊は18日の報告では鳥神岡を占領し守備していたので、高熊山の左翼前方で開戦とい意味は敵にとっての左翼、羽月川の右岸ではないか。その後。川を渡って大口町に進んだのだろう。伊佐市(大口)中心部、市街地に接して北西部に大口城跡がある。これが城山だろう。

C09084801300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0369・0370

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊 陸軍大尉本城幾馬㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡大口町

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日午前二時開戦仝午后三時ニ至ル

  我軍総員:八十七名 死者:下士卒一 傷者:下士卒五 我軍ニ穫ル者:俘虜 下

  士卒一 備考我軍:明治十年六月二十日午前第三時小野木原ノ大哨兵ヲ引拂シ大口

  ニ向ヒ進撃仝第三時半發戦直ニ胸壁數十ヲ乗取リ大口村迠追撃同處ニ於テ賊俄ニ拔

  刀突入一時苦戰終ニ討拂ヒ尚尾撃スル叓三里余已ニ馬川内村ニ至ル時賊遠ク迯ケ去

  ルヲ以テ同所ニ於テ大哨兵ヲ布ク此時彈藥壱万発ヲ放ツ傷者伍長田邉正則仝下村保

  輔兵卒中嶌捨治郎川口與吉坂本留吉死者兵卒嶌田辯藏

  我軍ニ穫ル者:器械:大砲玉七拾五個 小銃玉壱箱 鉛壱俵 劔八本 糧:米貳拾

  弐俵

  小野木原は小木原だろう。馬川内村はウマゴシ村、つまり馬越村である。中世の馬越城跡を北側背後にもつ集落が馬越村だろうか。小銃弾は一人平均115発を使用している。普通は百発所持していたので、補給を受けなければ危険な状態になっただろう。

C09084801400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0371・0372

  第三旅團歩兵第拾貳聯隊第貳大隊第二中隊長陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡大口町

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時鳶巣ヲ出発シ二時四十分髙熊山下ニ至テ隠匿シ三時五

  拾分開戦即時臺塲畧取直ニ進撃午后第四時馬越ニ至テ防禦ス

  我軍総員:百四十二名 備考我軍:傷者壱名ハ二等卒淺井忠次放ツ所ノ弾数四千五

  百發  

 鳶巣丘を午前2時に出発し、40分かかって高熊山の下に到着し、3時50分に開戦したという。他の隊は3時に攻撃を始めたのとは異なる。一人31発強の銃弾を発射。

 以上、第三旅団の記録である。

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 字が小さくて見づらいかも知れない。最上段が時間、赤い部分が戦闘を表す。戦闘はほぼ午前3時に開始され継続時間は分からない。

    次は別働第二旅団の記録を見ておきたい。20日時点で黒萩山・弁天山・坊主石山とその東側の尾根を占拠していた同団は引き続き戦闘に参加しており、報告を残している。最初は三好少佐が高島少佐に提出した報告である。

C09086075000「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1251・1252

  六月廿日第三旅團ト戮力髙隈山攻撃ノ命ヲ被ル其方向並ニ人員前日ノ如シ午前第二

  時三十分雨ヲ冒シテ黒矧山ヲ降リ山下ニ潜伏ス拂暁戦端開ク聲ヲ聞キ山畑村ヲ経テ

  進ム山頂ノ賊塁已ニ陥リ山腹ノ賊モ亦随テ潰走セリ進テ木ノ内村ニ至ル時ニ青木越

  ノ山脈ニ拠ル処ノ賊髙隈山ノ陥ヲ見テ退テ爰ニ至リ我兵ノ進ムニ會ヒ左方ヨリ射撃

  ス我兵之ニ應シテ火戦ス暫時ニシテ賊敗走ス於第三旅團ノ左翼ト連絡シ戦且

  ツ進テ遂ニ大口ニ入リ尚進擊スル叓二里余ニシテ兵ヲ収テ大口ニ還ル此日死傷ナシ

  右戦状報告仕候也

         遊撃歩兵第壱大隊長

   十年六月廿七日  陸軍少佐三好成行

    陸軍少佐高島信茂殿

 18日と同じく山畑村経由で高熊山に進んでおり、「山頂ノ賊塁已ニ陥リ山腹ノ賊モ」とあるように山頂と山腹に敵塁があったという。木ノ氏村まで進んだときに黒萩山背後の熊本県境の青木越にいた薩軍が高熊山が官軍に奪われたことに気づき、退却してくるのに遭遇し、若干銃撃戦となった。彼らはその後、山間を抜けて大口北部に逃走したのだろう。三好等は大口中心部を過ぎて進撃したが、中心部に引き返している。

 次は部下の第28中隊長井野大尉の報告である。    

C09086074800「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1253・1254

  昨十九日午后ヨリ弁天山哨処江出張シタルニ今廿日第三旅團兵高熊山ノ賊ヲ撃破シ

  續テ進撃ノ景况ニ付預テ命令ノ如ク直ニ兵ヲ率テ大口村ヘ進入シタルニ最早賊兵遠

  ク退却スルヲ以テ大口村ニ兵ヲ止ム

  本日ノ景况ノ通ニ候間間此段御届申候也

          第廿八中隊長

  本年六月廿日   陸軍大尉井野好脩

 

   陸軍少佐三好成行殿

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 第28中隊は19日午後から弁天山の配置に付いており、20日は高熊山が陥落した後に大口町まで進んでいる。

 次は第30中隊平井少尉の報告である。

C09086074800「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1255・1256

  六月廿日午前第三時半頃第三旅團ヨリ高隈山ニ登リ山頂ニ戦フヲ見當隊ハ第三旅團

  ニ應援トシテ右山下ヨリ進擊スヘキ命ヲ受ケ同山下ニ至ルニ賊兵既ニ敗走セリ故ニ

  進ンテ木ノ内村ニ至ル頃賊兵我左ヨリ襲来ス因テ我迎ヱ戦フ事僅カニシテ賊退ケリ

  此ニ於テ我兵ハ右側面行進ニテ射撃シツヽ大口(※旧城?)ノ左側ニ沿ヒ第三旅團

  先鋒兵ト連絡シ終ニ市山村ノ向ヒ川迠達シ同地ニ止リ(ア)ル内進テ第三旅團ノ兵

  員我カ方ニ増加シ来ルニ付其隊引卒ノ中尾少尉ニ同地ヲ托シ置キ大口迠引揚ケ罷帰

  リ候間此段御届候也

  本年六月廿四日

            第三十中隊長心得

             陸軍少尉平井信義

    陸軍少佐三好成行殿

 第30中隊はおそらく黒萩山から出発し、木ノ氏村まで来たとき左側から攻撃されたというが、敵は青木越を退却してきた薩軍だと考えられる。少し谷奥の山畑村で第28中隊がその敵に遭遇しているからである。市山村ノ向ヒ川、つまり市山村の向かい側は小苗代村とされた場所であろう。

 別働第二旅団の記録で珍しいのは、青木越を退去してきた薩軍と山畑村や木ノ氏村で交戦した記録の存在である。この件に関し「戰記稿」は、

  別働第二旅團ノ兵ハ木之氏村近傍ノ賊ヲ擊チ悉ク之ヲ敗リ遂ニ進テ大口ニ入リ猶ホ

  尾擊スルヿ二里餘ニシテ大口ニ歸ル 

とあるだけで、交戦した相手が青木越から退却してきた薩軍だったことについて触れていない。別働第二旅団にとってその他は大した戦いのない日だった。

 官軍側の記録を見てきたので次に薩肥軍の記録を簡単に見ておこう。「薩南血涙史」によると高熊山は熊本隊の三番隊(佐々)・四番隊(深野)が守っていたが、6月18日まだ暗い朝霧の中を第三旅団が襲撃してきた。予め準備していた石を投げたり、射撃して官軍を退けている。左翼(干城一番中隊隊長伊集院権右衛門)も激戦で、応援に駆け付けた協同隊と辺見が派遣した一隊が官軍を撃退した。この左翼というのは、高熊山部分の左翼ではなく平地部での戦いだったと上記の戦闘報告表類の存在から考えられる。

 高熊山を守っていた熊本三番隊長による戦状記録は佐々友房「戰袍日記」に記載がある。

  十八日敵軍暁霧ニ乗シ大喊シテ髙熊山ノ胸壁ニ迫ル勢風雨ノ如シ沼田能勢等防戰最

  モ力ム余時ニ左小隊、以テ山下ノ人家ニ休憩ス急ヲ聞キ馳セ上レハ戰方ニ酣ナリ乃

  チ沼田等ト衆ヲ皷シ奮戰ス此山三面壁立一面稍々陵夷、而シテ巨石縦横、壘下ニ

  錯峙ス此時霧益々深ク咫尺ヲ辯セス敵兵之ヲ時トシ石間ヨリ射擊殊ニ甚シ距離僅ニ

  五六間ニ過キス是ニ於テ主旗雲生嶽等數人ニ命シ豫メ備フル所ノ巨石ヲ投下ス敵兵

  壓死スル者甚タ多シ能勢自ラ巨石ヲ轉シ敵丸ノ爲メニ股ヲ貫カレ仆ル衆之ヲ扶ケ去

  ル時ニ狂風驟ニ至リ濃霧忽チ散ス敵兵面貌鮮明、逡巡退去セントス我兵氣ヲ得テ石

  丸交々發ス敵軍死屍銃器ヲ棄テ遂ニ大ニ敗走ス此役半隊長能勢運雄、分隊長中林駒

  八、長安田義虎、兵士村上又熊以下傷者六人、岩間隊死二人、傷三四人ニ過ギズ

  既ニ乄敵ノ別軍、坊主石山ヲ攻ム伊集院之ニ死ス餘衆壘ヲ捨テヽ走ル敵軍奮進、坊

  主石山ヲ占領シ更ニ進テ大口ニ迫ラントス我兵危ミ謂フ此山獨リ敵中ニ突出セルヲ

  如何セン此時池邊氏来テ監督ス石ニ踞シ烟ヲ吹キ泰然トシテ動カス衆頼テ以テ安シ

  暫アツテ薩兵數百、大口山上ヨリ坊主石山ニ向テ疾驅シ以テ敵軍ヲ擊破シ山ヲ越ヘ

  谷ヲ渡リ北ルヲ逐フ數丁然レトモ坊主石山終ニ復スル能ハズ(略)十九日前八時髙

  熊山ノ力攻ス可ラスヲ察シ戰略ヲ一變シ坊主石山ノ半腹、及正面ノ丘陵、並ニ本道

  等ノ數處ニ於テ礟臺九個ヲ築キ山ヲ環リ一齊亂發、殆ト虚時ナシ四斤砲、野戰砲、

  山砲ノ數種アリ而乄破裂彈アリ實彈アリ着發彈アリ宛モ萬雷ノ頭上ヨリ堕落スルカ

  如シ此ノ如キ者盡日、胸壁三四、爲ニ壊ル而シテ我隊一礟ナク徒ニ壘中石間ニ潜伏

  シ時ニ小銃ヲ以テ相應スルノミ其苦知ル可キナリ日暮ニ至テ止ム此日、敵費ス所ノ

  礟彈ヲ推算スレハ蓋シ七八百個ニ下ラサル可シ而シテ深野隊ノ兵士岩﨑谷藏ヲ除ク

  ノ外、滿山又一人ノ死傷ナシ衆戯テ曰ク岩﨑一命以テ數千金ニ値ル亦以テ死ス可キ

  ノミト此時ニ方テ彈藥空乏復一凾ナシ深野隊幹事財津永記来リ議シテ曰ク守ルニ彈

  藥ナク寧ロ去ルニ如カス余聽カス曰ク此山ハ大口ノ保障タリ决シテ撤ス可ラスト因

  テ議ス明旦復今日ノ如クンバ恐クハ支ヘ難カラン夜ニ乘シ山上ニ隧道ヲ開鑿シ以テ

  礟彈ヲ避ク可シト乃チ人夫數十人ヲ雇ヒ之ヲ堀ラシム余沼田、筑紫及深野隊ノ半隊

  長大西彌太郎、同分隊長内海善九郎等ト薫督深更ニ至ル更ニ人ヲシテ代督セシメ營

  内ニ寝ス幾モナク礟聲耳ヲ穿チ驚キ起テバ敵兵方ニ諸壘ヲ占取シ飛丸雨集ス余慙憤

  之ヲ復セント欲ス而シテ深夜闇黒、一軍散亂、収拾ス可ラス終ニ引キ去ル危巌壁

  立、歩ス可ラス木根ヲ捫シ岩角ヲ縋シテ下ル敵敢テ追ハス木内村ヲ過キ一丘陵ニ登

  リ呼子笛ヲ吹ク敗兵盡ク聚ル率子皆完人ナシ(銃劔創ニ係ル者兩三人ニ過キス餘皆

  山谷ニ陷リ巌稜ニ觸レタル者ナリ)半隊長安岡競、伍長佐藤嘉津馬終ニ至ラス蓋シ

  二人刀ヲ揮ヒ奮戰遂ニ之ニ死セリト云フ此時天漸ク明ケ大雨驟ニ至ル敵兵随テ進ム

  會々北村部下ヲ率ヰ来リ余ニ代リ殿シテ退大口町ニ抵ル比、四方ノ敗兵麑集ス而

  シテ左翼平泉、渕邊方面亦先ツ敗レタリト云フ是ニ於テ邊見大ニ怒リ馬ニ跨リ大呼

  叱咤ス敗兵風靡返戰ス池邊氏亦自ラ本道ニ出テ衆ヲ麾キ返戰セシム山﨑氏及友成

  周旋甚タ勤ム余北村ト兵ヲ合セ右翼ノ髙阜ヨリ返戰ス敵兵支ヘス敗走ス北クルヲ遂

  フ數丁、余小丘ニ佇立シ槍ヲ杖キ衆ヲ指揮ス敵丸来テ右手及右腹ヲ傷ク流血淋漓タ

  リ伍長增見直丈馳セ来テ余ヲ扶ケ行カントス沼田、筑紫二人ヲ呼ヒ部下ヲ托乄去ル

  本庄川ニ抵ル敗兵爭ヒ濟リ殆ト舟中ノ指掬ス可キノ概アリ遂ニ横川病院ニ抵ル蓋シ

  皆微創ナリ暫アツテ友成、竹内及牧柴隊幹事中村信雄、北村隊小隊長間部武雄深野

  隊分隊長福田新九郎以下重創ヲ被リ至ル此役、惣軍死傷無慮數十人、熊本隊最モ多

  シト云

 18日、薩肥軍が大きな石を投げ落として官軍を苦しめたことは官軍側の記録と一致する。巨石を投下した一人、主旗雲生嶽は力士である。官軍兵士は五、六間(10m強)の距離に迫り、岩の陰から射撃している。前に見たように、スナイドル薬莢が同じ状態で、熊本隊の台場から見たら蔭の側から出土している。

 19日、坊主石山は別働第二旅団に奪われ、黒萩山に四斤砲2門・ブロードウエル砲2門、坊主石山に四斤砲2門の大砲を置いて高熊山を砲撃している。また、その西側では第三旅団が四斤砲8門で高熊山を砲撃している。佐々の記述では、砲弾は破裂彈(空中で爆発する砲弾で、火薬を詰めた榴弾と火薬と鉛玉を詰めた榴散弾とがあり、形が微妙に異なる)・實彈(アームストロング砲弾には榴弾と内部も鉄製で破裂しない実弾があるが、高熊山砲撃にこの砲は使われなかった。別働第二旅団が装備したブロードウエル砲弾は頭部に信管が付いていて内部に火薬が詰まっていたので、単なる鉄塊ではない。【山本達也2018「西南戦争の弾薬-火砲弾薬編-」】)・着發彈(破裂弾とは信管だけが異なり、衝突すると爆発する)があったとあるが、実弾の存在は勘違いだろう。破裂弾が空中で爆発せずに直接命中し、破裂しないものがあったのかも知れない。

 19日官軍が使用した砲弾は7,8百個というのは砲撃音を数えたのだろう。別働第二旅団戦記は17~19日の三日間に280余弾を発射したと記すので、第三旅団は470発前後だろう(750-280=470)。発掘調査では3点の四斤砲弾片が報告されている湯葉﨑2021)

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 実際に使われた砲弾や銃弾・薬莢は出土した数よりもはるかに多かったが、それらはどうなったのだろうか。多数が発見できたなら、もっと具体的に戦闘を復元できる筈だが、長年の採集・盗掘がこういう所にも影響を残している。

 報告書では各戦跡の位置を次の図のように想定している。

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 報告書の結論にとらわれることなく、戦跡の位置を考えてみたい。先に当時の高熊山・芝立山・坊主石山などの一枚の地図、「大口攻撃之記」にあるものを掲げたが、それらが実際はどこに該当するのだろうか。下図では「大口攻撃之記」地図の山の輪郭を伸縮しつつ現在の地図に重ねてみた。

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 下図が想定する各山の位置である。

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 芝立山から坊主石山と東側の山地は二又鍬、あるいは古代中国の貨布のような形をしている。南西側から芝立山に向かって谷が入り込んでいるのは、現在の地図とよく符合する。高熊山と坊主石山の間には木ノ氏から人吉の田野に通じる田野越道があるとされているが、これも屈曲状態が符号する。現状と異なる点は高熊山がやや西側にある点と、黒萩山の山地が現状よりも幅広いことである。しかし、芝立山に向かって入り込んだ谷が符合する点や黒萩山と高熊山の位置関係はこれ以外に考えられない。第三旅団の戦闘報告表を検討した際、斎藤隊が金山岡出発險ヲ越ヘ閑行シテ髙熊山ノ麓ニ至リ兵ヲ部署シたり、松田隊が金岡山ニ兵ヲ潜伏セシメ同十八日午前第零時十五分仝地出発仝第三時三十分髙熊山賊塁凡十米突ヲ隔テ敵ヲ発見シ直ニ開戦したりしているのを見ると、「大口攻撃之記」で高熊山とされている一つの山塊全部を高熊山と考えるべきであろう。発掘調査報告のようにその端っこの方に黒萩山を想定するのは難しい。齋藤隊などの報告に黒萩山を経由したと記してないということは、その進路に黒萩山がないということである。もう一度、斎藤隊の進路を掲げる。

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 上図のように齋藤隊の進路には黒萩山はなかったと考えられるのである。高熊山や坊主石山・柴立山などの周辺でもっと広く戦跡分布状態を調べれば、ここに想定した場所に台場跡が確認できるのではないだろうか。どちらを向いているかとか、どこに分布するかとかから以上の推定は裏付けられるかも知れない。

 ところで、高熊山では「薩南血涙史」や佐々が言うように頂上だけに守兵が置かれていたのではない。

  我軍一番・三番・四番・五番中隊高隈山ヲ守ル、其三番・四番ノ如キハ其頂上ニ在

     リ、厳然動カス、而テ敵前岡ニアリ、翼暁大霧ニ乗シ来リ侵ス、

 翌暁とは18日だろう。前の岡に敵がいるというのは、金岡山や黒萩山の官軍だろう。続きを掲げる。

  我小隊長沼田常雄蹶起シテ曰ク、敵来レリ、汝等何ソ怠タレルヤ、大ニ叫テ兵士ヲ

  指揮ス、分隊長高橋長秋・加々山克已然能力ム、劇戦数刻弾薬頓ニ尽ク、敵殆ント

  塁壁ヲ奪ハントス、援兵偶至ル、兵気復振フ、即チ大石ヲ擲チ吶喊ス、敵多ク死傷

  ス、乃チ敗レ退ク、其大瘡ヲ蒙リテ退ク事ヲ得サルモノ谷間ニ蠢々焉トシテ哀号ノ

  声聞ニ堪ヘス、此戦我半隊長能勢運雄分隊長中村駒八其他五六名瘡ツク、 (「中村信雄外五名(熊本隊)連署戦状上申書」『鹿児島県史料西南戦争第二巻』pp.829~841

 沼田常雄は頂上を守っていた三番隊のようである。頂上傍まで攻め込まれた後、官軍が負傷者を残して背後の小丘に立て籠もったと考えられ、18日夜には高熊山の頂上周辺を守る状態に変化したのだろう。

  十四日、薩肥の軍守備を修め。右翼坊主石山は薩正義中障長伊集院權右衛門之を守

  り、谷を隔て高熊山之に次く、山頂は熊本三番、四番兩中隊之を持す。山の左右に

  各小丘あり、右丘は五番中隊之を守り、左丘一番中隊之に據る。ニ番中隊は遊軍と

  して後方に在り。而して大口街道より左翼平泉、渕邊、トガメ岡に至るまで、薩軍

  之を守り、守線東西數里に連互し、大口町に薩肥の本營を置く。

 6月14日、高熊山の頂上を三番中隊と四番中隊が守り、山の左右に小さい丘があり、右丘を五番中隊が、左丘を一番中隊が守っていたという。頂上は分かるが左右の小丘がどれを指すのか明確ではないが、推定図を示す。

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 熊本隊士で隊長池辺吉十郎の側近だった中島典五は懲役一年に処せられた人だが、「彪皮一班録」という池辺の本営記録に準ずる記録を残している青潮社1996「西南戦争資料集」に掲載)。高熊山における守備状況については一番中隊と五番中隊の位置が異なるように記録している。

  是ニ於テ前後ノ薩軍総テ大口ニ會ス、而シテ先ニ我五番中隊ノ田野口ニ発向スルモ

  ノモ来リテ相會ス、因テ我五番中隊共ニ連合ス、而シテ山上ハ三番中隊ト四番中隊

  之ヲ守ル、又左右翼ニ各小丘アリ、左丘ハ五番中隊之ヲ守ル、右丘ハ一番中隊之ヲ

  守ル、各左右小隊ヲ以テ更代シ、ニ番中隊ヲ以テ援隊ニ備フ、又右岡ノ守リト谷ヲ

  隔テ相對スル高丘アリ、薩兵之ヲ守ル、(pp.54~55)

 これによると右岡と谷を隔てて相対するところに坊主石山が位置することになる。上図で五番中隊を高熊山頂上の北側に想定し、一番中隊を頂上の西側に想定したがこれは間違いということになる。中島によると一番中隊の隣に谷を隔てて坊主石山があるのだから上図の一番と五番は入れ替えねばならない。佐々説と中島説のどちらが正しいのかは分からない。

 先に三番隊佐々の記録を見たが、彼は頂上を守っており、頂上での戦いが記述の中心になっているように感じる。左右の小丘の記録も見てみたいが探せない。もしかしたら頂上以外の戦跡の分布調査で何か分かるかも知れない。 

 熊本隊が高熊山から退却して大口町まで来たとき、平出水や淵辺方面などの薩軍も集まって来た。この時、辺見十郎太は敗兵を止め本道方面から官軍を迎え撃ち、熊本隊の池辺吉十郎等も右翼の高い丘から官軍を攻撃し追い返している。官軍の戦闘報告表に出てくる薩肥軍の反撃である。安満の報告には「ソンダ山ノ賊ヲ打拂ヒ続テ河邊ノ賊壘数多ヲ取リ尚進テ大口本道守賊ノ左翼ヲ猛擊ス彼敗兵ヲ留メ必死ノ形勢ニ移リシト𧈧豈ニ保ツ可ンヤ遂ニ又敗ス尾撃シテ大口旧城ニ到リ兵ヲ留ム」の部分である。大口町に通じる本道を守る賊の左翼を撃退し、安満隊は大口城跡に進んで一旦停止している。佐々が小丘ニ佇立シ槍ヲ杖キ衆ヲ指揮したのは町の北東部にある城跡だったかも知れない。

 その後、薩肥軍は本庄川(川内川)を渡り川を挟んで官軍と対峙状態となるが、負傷者は東側の横川町の病院で治療する。

 次に熊本隊三番中隊伍長だった眞勢一次の上申書を掲げる。中隊長は佐々である。日付は間違えているので(※)内に正しい日付を加える。

  同廿日(※18日)敵兵払暁我塁ヲ圧シテ発射ス、時ニ霧深クシテ咫尺ヲ弁セス、挙隊

  丸乏シク敵乗シテ増進ム、乃チ礫ヲ擲テ拒キ戦フ、会マ霧晴レ丸亦至ル、奮撃之ヲ

  卻ケ銃及ヒ弾薬ヲ獲タリ、此日半隊長能勢登股ヲ傷ツ、 

           (「眞勢一次上申書」pp.286~288『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』)

 「戰袍日記」によれば、半隊長能勢運雄は18日に巨石を投げた際に股を貫かれており、この能勢は同一人物であり、本文に廿日とあるのは正しくは18日のことである。続きの文を掲げる。

  同廿一日(※20日三面ノ丘山ニ十余門ノ大砲ヲ配置シ頻ニ我ヲ射ル、胸壁一ツモ全

  キモノナシ、皆俯伏シテ之ヲ避ク、即夜敗壁ヲ修メテ未タ就ラス四更官兵我丸ノ乏

  シク暴雨ニテ「ミニヘル」銃ノ発弾セサルヲ察シ襲ヒ来リ塁ニ逼リテ射ル、全壁拒

  クコト能ハス退キ走テ大口ニ至リ、兵ヲ整ヘテ又タ進ミ撃テ卻クル五六丁、丸竭キ

  退テ本庄ヲ保ツ、

 20日高隈山から大口町まで退却し、兵ヲ整ヘテ又タ進ミ撃テ卻クル五六丁という状態は官軍を退けた距離が500mから600mだったとする点が他にはない具体的な数値である。最後の記述、退いて本庄を保ったその本庄は川内川の南側、伊佐市の大口盆地の南側にある旧本城村である。古閑俊雄も高熊山敗退後に「遂ニ薩肥全軍共ニ退ヒテ本城ニ據ル、即チ大河ヲ夾ンデ・・(pp.96)」と記している。この場合の薩肥全軍とは水俣の深川や佐敷の大関山、伊佐市の高熊山一帯に展開した部隊のことである。

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 6月20日の次に作成された第三旅団の戦闘報告表は10日後の30日のものが少しあるのだが、その間はどうしていたのだろうか。「戰記稿」(「征西戰記稿」を略しています)をみてみよう。

 下図はこれからの記述に関係する地域の地図である。鹿児島県と宮崎県との県境は一部分決まっていないらしい。伊佐市と東側にあるえびの市の境界から熊本県人吉市の県境線はカルデラの壁になっており、急な崖線である。カルデラ南部は霧島連山が覆いかぶさって不明確とされる。

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 6月21日に関する「戰記稿」記事はない。22日、「第三旅團ハ廿二日其左翼ト別働第二旅團ノ右翼ト馬越村ヲ界トシテ守線ヲ定メタリ因テ部署ヲ更ムルヿ左ノ如クシ大口ニ移營ス大繃帯所ハ當分ノ内第二旅團ト合併セリ」及び部署表がすべてである。それによると、右翼軍は分遣位置が羽月村・田代村で司令官は川村少佐の5個中隊と内藤少佐に1個中隊、左翼は分遣位置表記なしで吉田少佐の5個中隊、正面は大島少佐の3個中隊、以上を竹下中佐がまとめ、その他大口及び金場村に友田少佐の5個中隊を厚東中佐がまとめることになった。田代は伊佐市中心部の西南西側約9kmにあり、その先の宮之城(薩摩郡さつま町)方面を警戒しての配置とみられる。「大口及ヒ金塲村」の金場村は不明だが市街地北側だろうか。

 21日から29日の間、第三旅団方面は戦闘がなかった。しかし、隣接する川内川の上流域では第二旅団が対岸の敵を射撃し、川越しに交戦している。第三旅団のことではないので簡単に「戦記稿」を引用するに留めたい。第二旅団の戦闘報告などを掘り返してくると、記述の範囲が際限なく広がりそうだから。

  第二旅團ハ廿二日一中隊第九聯隊第一大隊第二中隊〇和智大尉ヲ以テ攻襲偵察トシ線外馬

  越麓川北村湯尾等ニ出スニ賊ハ川内川ヲ阻シテ一帯ノ砲壘ヲ羅布シ壘内賊ノ來往ス

  ルヲ見ル因テ狙擊數發之ヲ試ルニ答射頗ル烈シ蓋シ毎壘賊數三十ニ下ラス又渡頭ニ

  モ壘ヲ設ケ砲擊極メテ劇シ我兵據ルヘキノ地物ナク纔ニ沿岸ノ一小村落ニ入リ下士

  官以下十三名ヲ留メ虚彈ヲ發シテ賊ヲ☐シ本隊ハ線内ニ歸レリ午後前岸火揚ル因テ

  又一中隊島野中尉ヲ遣テ之ヲ伺フ是時賊ハ渡口ノ砲ヲ撤シ其後方ノ一小阜ニ移セリ砲

  僅ニ二門曩ノ火ハ即チ其彈道ヲ蔽遮スル民家三四戸ヲ燬キシナリ賊我兵ノ到ルヲ見

  テ發射亦烈シ我兵應射セスシテ歸リ途ニ馬越ノ黌内ニ密藏セル賊ノ榴弾三百發散弾

  十小銃五糧米百五十苞ヲ獲テ之ヲ収ム篠崎善六ノ告ニ據ル是日大口麓ニ移營シ別働第 

  二旅團ノ守地即チ第三旅團守地ノ馬越村ノ左翼ヲ其守地トシ馬越村ノ本道ヲ界トス

 22日の第二旅団の攻撃は馬越村・川北村・湯之尾などである。古閑俊雄の「戰袍日記」pp.98には薩兵の守る湯之尾が砲撃されたことを記している。

  同廿二日晨暁、官兵湯ノ尾本道薩兵ノ台場ヲ襲フ、薩兵激戦之レヲ勤ム、官兵巨砲ヲ以テ湯ノ尾ノ寨ヲ焼カントス、破裂丸數々湯ノ尾ノ民家ニ☐(まま)リ焼ケントスルコト數回、薩兵或ヒハ火ヲ消シ或ヒハ敵ニ当リ遂ニ撃ツテ之ヲ退ク 

 少なくとも薩兵は湯之尾付近の左岸を守っていたと分かる。

 23日、三浦少将は厚東(ことう)・竹下両中佐に次の命令を出した。

  明朝各大隊長及ヒ各中隊長ヲシテ防禦線ヲ巡視シ濟ル可キ處ヲ川内川ニ定メシム可

  シ

 川内川は東部のえびの市からカルデラ内に流れ出て、湧水町で西に屈折して伊佐市に向かい、市街地手前で左折し南西の宮之城町を経て川内市に流れており、丁度官軍各旅団の配置は川の右岸に沿うように並んでいたのである。6月25日には第三旅団は右翼を柳葉山(場所不明)に、左翼を湯尾城山(湯之尾周辺にあるのだろう)にして東側の第二旅団と連絡する状態だった。三つの旅団は第二旅団を中央に置き、大口から人吉盆地東側まで連続していた。下図は大口から宮崎県最西端のえびの市における分布状態である。第二旅団に関しては布陣した所の地名は記録があるが、場所不明というものが多い。「戰記稿」では各旅団の配置状態を次のように記している。

  廿五日第二旅團ハ昨日ノ占定ニ依リ午前第七時ヲ期シ哨兵ノ全線ヲ進ム其右翼線端

  ヲ湯尾麓ノ上流楢原山ニ起シ平澤津稻葉崎ヲ占メ左折シテ甲尾原山田平分石北ノ山

  烏帽子石及ヒ般若寺越ヨリ岡松村ヲ以テ左翼線末トシ別働第二旅團ニ連絡シ而シテ

  右翼ニ隣スル湯尾馬越ノ両麓ヲ第三旅團ニ譲リ

という配置だが、甲尾・原山・田平・分石・北ノ山・烏帽子石は国土地理院地図になく、同名のバス停もないので下図には記せない。

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 この頃は梅雨時だった。

  昨日(25日)以來猛雨盆ヲ傾ケ川内川ノ水、暴ニ漲リ堤防ヲ超越シ馬越村ノ道路ニ

  溢ル故ニ第三旅團ハ曾木本城湯之尾諸村ノ賊ヲ前岸ニ見ルモ濟川ノ凖備ヲ爲ス能ハ

  ス(略)廿日第二旅團三好少將ハ線外ニ出テ賊状ヲ視察シ一部兵ヲシテ川ヲ越エ賊

  ヲ驅ラシメント欲シ渡渉便宜ノ地ヲ撰ム終ニ得(略)(29日)第三旅團ハ連日ノ

  強雨川流暴漲ノ爲メ曾木本城湯尾ノ賊ヲ攻擊セント欲スルモ百計殆ント盡キ濟川ノ

  術ヲ得ス蓋シ川内ノ川タル其流殊ニ急ニシテ浮梁舟筏ノ能ク渡リ得ヘキニアラス之

  ヲ第二旅團ニ謀ルモ其苦シム所、我ト同シ是日右翼軍ノ一部羽月村ヨリ宮城街道ヲ

  探索シ遂ニ川内川ヲ渡リ鶴田村ニ至ルニ對岸ノ賊ハ專ラ羽月及ヒ大口湯尾ノ前面ニ

  備ヘ鶴田以西ハ天險ヲ恃ミ其警備ヲ懈ル者ノ如シ乃チ竹下中佐牧野少佐等倶ニ策ヲ

  献シテ曰ク連日ノ甚雨、川流暴漲シ今一二日ノ晴ヲ得ルモ遽ニ徒渉シテ對岸ノ賊ヲ

  衝ク能ハス寧ロ鶴田ニ大懸軍ヲ差遣シ彼ノ背ヘ出テ彼ヲシテ後顧ノ憂アラシメハ假

  令ヒ正面徒渉ノ便ヲ得サルモ以テ大ニ其膽ヲ破舟筏又用ル所アラント(「戰記

    稿」)

 第三旅団は連日の雨で川内川を渡ることができなかったが、大口から南西方向の宮之城方面を探ったところ、薩軍の守備が手薄であることを掴んだのである。

 五日間前後動きのなかった第三旅団だが、6月30日には西部で川内川下流方面を攻撃することにし、その結果は次の戦闘報告表の通りであった。

C09084801500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0373・0374

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:鹿児嶌縣下大隅国☐☐郡千代川

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時童﨑村ヲ発シ同七時三十分頃千代川ヲ隔テヽ開戦同九

    時頃鈴ノ瀬ニ渡舟シ川西村賊ノ数塁ヲ陥ル尾撃シテ湯尾ノ麓ニ至リ要地ヲ占領ス時

  ニ午後第四時ナリ   我軍総員:六拾二名 我軍ニ穫ル者:銃 一 弾薬 二

  備考敵軍:小銃ヱンピール 弾薬二箱スナイドルヱンピール合シテ七百発余

 童﨑村は伊佐市役所の南南西3,5㎞付近の堂崎のことであり、鈴ノ瀬は地図に載ってないので初めは分からなかったが、伊佐市大口大字下殿字下ノ瀬に川内川の鈴之瀬水位局があると判明し、川沿いの地だと判明した。この日の井上隊の軌跡を地図で示す。

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C09084801600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0375・0376

  第三旅團歩兵第六聯隊歩兵第十一聯隊第三大隊第弐中隊長 陸軍大尉栗栖

  毅太郎㊞   戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:曽木村本庄村

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時☐ノ☐ゟ曽木ケ瀧迠之處ヘ衛兵ヲ散布シ河岸

  ノ賊ニ向ツテ虚勢ヲ占ス大砲数門ノ連發シ☐リ賊兵ヲ塁内ニ潜カクシ走ル

  ヲ得ス遂ニ河岸ノ塁ヲ捨テ山上ノ塁ヲ保ツ此ニ於テ我兵狙撃或ハ一齊ニ發

  射スルヲ以テ又之レヲ捨テ走ル既ニシテ攻撃隊速ニ川ヲ渡るヲ以テ賊全ク

  潰走我隊モ又舩渡曽木里村ニ至リ命ヲ得テ本谷村ノ内西ノ☐山上ニ露営ス

  我軍総員:九十人

 字が小さ過ぎて読めない部分があるので下に原文を掲げる。

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 曽木の瀧は鈴之瀬のすぐ西側下流に位置する。栗栖隊は井上隊の西側から川内川を渡ろうとしたようだ。結局、対岸へ舟で渡り西ノ山?の山上に露営している。当然陣地を構えた筈である。この配置は南西側の宮之城(現在のさつま町)を意識してのものだろう。

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C09084801700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0377・0378

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉大西 恒

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:千台川

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第六時開戦当隊援隊ニテ善寺塚正面ヨリ進擊賊

  ト千台川ヲ隔テ戦フ我兵扼腕憤怒川ヲ渡ラント欲ト𧈧賊前岸堅固堡塁数ヶ

  所ヲ連子加フルニ急流泥水ニシテ其浅深不可量依テ茲ニ止マリ戦フヿ暫時

  ニシテ賊大ニ潰走ス我兵尾擊終ニ渡川歩哨線ヲ☐處ニ定ム

  我軍総員:將校以下百二十五人

 この隊の20日の戦闘報告表は横地剛中尉が作成している。善寺塚正面から進むと川内川の向岸に薩軍の台場が数基あり、しばらく対戦すると敵が潰走したので川を渡って歩哨線を定めたという。この報告だけではどこのことかさっぱり分からないが、善寺塚は6月20日の戦記にも登場する地名である。先ず、横地報告の関係部分を再度掲げる。

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍中尉横地 剛㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:トガミ山脉右方 戦闘ノ次第概畧:本日午前開戦ニ付昨夜第十二時當線

  ヲ発シ竊賊塁ニ近接ナル森林ニ伏兵シ而期ヲ待リ時ニ暴風実ニ咫尺ヲ辯セス當隊此機ニ乗シ吐喊直ニ賊塁  

  ニ突入シ賊ノ堡塁數ヶ所ヲ乗取ル賊狼狽出ル處ヲ失ス當隊憤進尾擊終ニ大口ノ近傍善寺塚ニ歩哨線ヲ定ム

 横地隊は鳥神岡の右方の山地で戦い、薩軍の台場数個を乗っ取り、尾撃して大口町の近くにある善寺塚に歩哨線を張った。これから分かるのは善寺塚が伊佐市街地の付近、おそらく羽月川寄りにあるらしいという情報である。次は6月20日の平山隊報告の情報である。平山隊報告にも同じ地名が出てくるので再掲げる。

  第三旅團名古屋鎮臺第二聯隊第壱大隊第二中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:鹿児嶋縣薩摩國羽月郷ケナシムタ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時ヨリ鹿児嶋縣薩摩國伊佐郡羽月村ケナシムタニ於テ戦ヲ初メ賊ヲ追テソーキ

  郷シモドノ村至リ命令ニ依リ羽月郷善寺塚ニ引揚ケ大哨兵ヲ張ル

 羽月郷に善寺塚があるという点は横地報告を補強する情報である。下殿よりも北側にあると分かる。

 もう一つ、下記の類似の地名記録がある。

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:薩摩国大口郡腰山上 

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時三十分岩塚岡ヲ発シ仝第四時頃腰山ノ麓ニ至リ雲霧ニ乗シ側面及ヒ正面ヨ

  リ銃鎗突感直ニ山上ノ數壘ヲ陥ル賊敗走尾擊シテ終ニ善十塚ノ岡迠占領ス次ニ午前第七時ナリ

 前の3件から善寺塚が大口町西部で、羽月川付近らしいと考える。善十塚ノ岡はおそらく同じ場所であろうが、一緒に出てくる岩塚岡や腰山が場所不明なので、参考にならない。腰山は栗栖報告0319で古志山とある場所と同じだろう。

   古志山 戦闘ノ次第概畧:午前第二時半出水村山上ノ哨處ヲ發シトカメ岡右方賊塁ノ正面ニ進軍ス此時

  ☐霧深咫尺ヲ弁セス依テ一齊ニ鯨波ヲ發シ銃槍ヲ振ツテ堡内ニ突入ス賊兵大ニ狼狽塁外ニ出テ拒戦ス我兵

  憤戦猛烈ニ發射スルニ依リ遂ニ道ヲ西南ニ取リ潰走ス此ニ於テ北クルヲ逐フテ☐村葉月麓ヲ経ヘ堂崎村

  シトカメ岡右方賊塁ノ正面ニ進軍ス此時☐霧深咫尺ヲ弁セス依テ一齊ニ鯨波ヲ發シ銃槍ヲ振ツテ堡内ニ突

  入ス賊兵大ニ狼狽塁外ニ出テ拒戦ス我兵憤戦猛烈ニ發射スルニ依リ遂ニ道ヲ西南ニ取リ潰走ス此ニ於テ北

  クルヲ逐フテ☐村葉月麓ヲ経ヘ堂崎村ニ到リ止戦ス

 出水村は平出水だろう。このように栗栖隊の行動は大口町の北西から南西側が舞台になっており、善寺塚想定地と矛盾しない。

 再び30日の戦闘報告表を見ていきたい。

C09084801800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0379・0380

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸愛㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:仙臺川

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時仙臺川ノ賊ヲ攻擊ス賊塁ヲ捨テ走ル追テ楢葉村ノ臺ニ

  至リ命ニ依リテ大哨兵ヲ布ケリ

  我軍総員:八十人  備考我軍:一死傷ナシ 一費ス所ノ弾数五百發

 一人6発強の小銃弾を使っている。死傷者も出なかったし、それ程、困難な戦闘ではなかっただろう。楢葉山は楢原山だとすると第二旅団の担当区域になるのでそれに比定するのは疑問が残る。楢原山地図を再度掲げる。

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C09084801900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0381・0382

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第四中隊長 陸軍大尉武田信賢 花押

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:自滝ノ神 至楠葉

  戦闘ノ次第概畧: 六月三十日午前第六字諏訪野山ヲ雷発シ同第六時千代川上ノ前岸

  ヨリ川ヲ隔テ開戦ス遂ニ川ヲ渡リ賊壘数ヶ所ヲ拔キ進撃シ同午后第五時本城上アラ

  タ原ニ至リ露営ス

  我軍ニ穫ル者:俘虜 下士卒 一 弾薬 一箱  我軍総員:百三十六  

  備考敵軍:一弾薬一箱ハヱンヒェール五百發進擊ノ際本城ニ於テ之ヲ獲ル

       俘虜兵卒鹿児島縣泉髙尾郷士族出水彌助

 本城上アラタ原は下殿の南東3.5km付近の川内川南岸にある荒田付近だろう。馬越村の対岸やや西側である。

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C09084802000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0383・0384

  第三旅團歩兵第拾貳聯隊第貳大隊第二中隊長 陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:馬越

  戦闘ノ次第概畧:午前第十時馬越出発同四十分渡塲ニ至リ對敵放擊午后第三時賊塁

  ヲ取ル直ニ追擊午后第五時湯尾山ニ至テ防禦ス

  我軍総員:百三拾九人  備考我軍:放ツ所ノ弾数八千發

 一人58発小銃弾を使用しており、安満隊の6発強に比べれば楽な戦闘ではなかったと想像できる。

C09084802100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0385・0386

  第三旅團工兵第二大隊第一小隊第一分隊 陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:湯ノ尾

  戦闘ノ次第概畧:朝第三時重冨村出発湯ノ尾村ニ向ケ進ミ湯ノ尾ノ渡ニ於テ竹筏ヲ

  以テ橋ヲ急造シタ第八時作業終リ湯尾ニ於テ露営ス

  我軍総員:拾七員

C09084802200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0387・0388

  第三旅團大坂鎮臺砲兵第四大隊第壱小隊右分隊長 陸軍中尉三宅敏徳㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:大隅伊佐郡馬越村ニ於テ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第九時整列同第十時馬越村山上ニ於テ開戦正午第十二時頃砲

  戦最モ盛ンニ午后第一時頃進軍千代川ノ北岸ニ放列ニ備フ第三時頃敵逃走スルニ付

  湯ノ尾村ニ宿陣ス   我軍総員:二十人

C09084802300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0389・0390

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:湯ノ尾町ヨリ横川本道

  戦闘ノ次第概畧:午前六時本城正☐川ニ對シ開戦十二時頃前岸ノ臺塲ヲ落シ入レ即

  時筏ニテ渉川湯尾町ヨリ横川本道ニ進撃山上ニ對シ終夜防戦ス

  我軍総員:百二十名 死者:将校一名 傷者:下士卒四名 失器械:銃劔二  

  我軍ニ穫ル者:弾薬:若干  

  備考我軍:死陸軍少尉須藤輝長傷一等兵卒春田与吉二等兵卒☐木萬次郎二等兵卒小

  ☐☐造二等喇叭卒栗山廣田左衛門ノ五名也

  渡川ノ刻筏覆リ銃及劔ヲ河中ニ投ス銃ハ捜リ得ルト𧈧劔遂ニ不知

  備考敵軍:死人二三名見請ト𧈧モ不詳瘡同断 弾薬ハ破壊セス

 本城正☐川は中村報告0397にある正木川と同じか。正木川は場所不明だが。

C09084802400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0391・0392

  第三旅團砲兵第四大隊第一小隊左分隊長陸軍少尉居藤髙二郎㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:アバノ山

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時三十分羽月麓村ヲ発シ五時四十分アバノ山ニ着直ニ胸

  壁ヲ築キ同第七時戦端ヲ開キ一時盛ニ砲戦シ九時ニ至リ歩兵ノ進路ヲ開第十一時過

  キ賊次第ニ逃走セシ故発射ヲ止ム同第四時ニ至リ羽月麓村ヘ退軍スベキ命ヲ得五時

  十五分羽月村ヘ着到ス   我軍総員:十八名

C09084802500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0393・0394

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊陸軍大尉本城幾馬㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:大隅国

  戦闘ノ次第概畧:六月三十日第四時馬越村ノ大哨兵ヲ引拂ヒ本城村ニ進ム賊退去ス

  ルヲ以テ廿二羽石山ニ至リ為援隊ト仝処固守ス   我軍総員:八拾七名

C09084802600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0395・0396

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊 陸軍大尉山本 弾㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:薩摩國伊佐郡湯ノ尾村城山ノ間

  戦闘ノ次第概畧:六月三十日午前第七時頃ヨリ千代川ヲ挟ミ我右翼湯ノ尾神社川邉

  ヨリ右翼ニ至ル迠烈敷発放川村少佐ノ手ノ進ニ従ヒ我右翼烈敷発兵卒両三名ヲ以

  テ筏ヲ浮レノモ賊発放列敷渡ルヲ得ス依テ又一二ヲ游渡セシメ舟ヲ奪ヒ漸ク一二分隊

  ヲ渡シ進撃ス其余モ漸々川ヲ渡リ防禦線ヲ定ム

  我軍総員:百五名 傷者:下士卒一人 備考我軍:手負 兵卒小池寅次郎

 地図を見ると湯之尾神社の東側で川内川が北側に蛇行した痕跡が残っており、西南戦争後に流路変更した可能性がある。 

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 下図は本城が旧伊佐郡本城村だった時の村範囲圖であるが、河川改修による流路変更が行われる前の状態とみられる。

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C09084802700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0397・0398

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長代理 陸軍中尉中村 覺㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:本城正木川

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第五時ヨリ本城正木河ノ堤上ニ散布シ正面ノ賊塁ヲ虚撃

  ス十一時過キニ及ンテ竹筏ニ乗リ河ヲ渡リ賊ヲ逐フ時ニ午后第四時半頃也是レヨリ

  本城ヲ過キ湯ノ尾町本道ノ即チ長池ノ岡ニ至リ賊ト戦フノモ夜茲ニ對塁互ニ砲撃天明

  ニ至ル

  我軍総員:将校以下百十五名  傷者:下士卒三 

  備考我軍:傷者:二等卒 伊藤彦十郎

  右診察ヲ受クルモ入院セス

     上等卒 寺島民之助

     二等卒 伊藤定八

  右兩名軽傷ニ付診察ヲ乞ハズ

 正木河と長池ノ岡は場所不明だが当隊が結局湯之尾に進んでいるのから考え、これら不明地は川内川沿いにあり、湯之尾の西方らしい。

C09084802800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0399・0400

  第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉久徳宗義㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:湯尾山及湯尾渡塲ニ於テ

  戦闘ノ次第概畧:分隊ハ湯尾山ニ備ヘ午前五時半ヨリ前面ノ賊塁ヲ烈シク攻撃ス

  午后三時賊敗走スルヲ以テ射擊ヲ止ム分隊ハ湯尾渡塲ニ於テ午前六時ニ十分ヨリ

  對岸ノ賊塁ヲ攻擊ス此地最モ敵ニ近接スルヲ以テ霰弾数十発ヲ放射ス午后三時賊敗

  走スルヲ以テ放射ヲ止ム   我軍総員:四拾三名

 四斤砲の霰弾は形が缶コーヒー状で、砲弾の飛距離は300m~500mである。

C09084802900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0401・0402

  第三旅團大阪鎮臺豫備砲兵第二大隊第一小隊長左分隊長 陸軍少尉杦田豊

  実  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡アバ野

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時山砲三門羽月麓村ヲ発シアバ野ニ至リ砲臺ヲ築き同七

  時放射ヲ始メ賊ノ胸壁数箇ヲ擊破シ同九時頃竟ニ歩兵ノ進路ヲ開ク亦一砲車ヲ下殿

  村ヘ轉シテ曾木ノ賊塁ニ向テ発射ス同十一時賊逃走ニ付発射ヲ止ム午后五時命ニ因

  テ羽月麓村ニ帰ル   我軍総員:三拾六人

 アボ野も川内川沿いらしい。

C09084803000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0403・0404

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:十年六月丗日 戦闘地名:本城村辺 

  戦闘ノ次第概畧:本日当隊ヲ區分シ二個ノ小隊ヲ編制シテ一ツハ右翼一ツハ左翼援

  隊ノ命ヲ奉シ午前六時下妙村出発シ千代川ノ架渠ヲ経テ屯集ス而ルニ賊敗走ス遂ニ

  小越瀬村ニ達ス于時午后三時ナリ   我軍総員:九十七名

 下妙村と小越瀬村は場所不明。

C09084803100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0405・0406

  第三旅團近衛歩兵第二連隊第一大隊第一中隊長代理リ 中尉横地剛㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:下ノ木葉

  戦闘ノ次第概畧:当援隊為下ノ木葉迠進軍シ千台川ヲ渡リ本城岳前迠進ミ同所ニ防

  禦ス   我軍総員:百零三名

 下ノ木葉は場所不明。

C09084803200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0407・0408

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊 中隊長大尉 南小四郎代理 少尉浮村直

  養㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:本城

  戦闘ノ次第概畧:此日第二攻撃隊ノ命アリ午前第四時花北山ヲ引揚ケ馬越前目

  ノ河堤ヘ散布シ架橋成ルヤ直チニ第一攻撃隊ニ續テ渡川俄然吶喊正面ヲ衝突シ下荒

  田村ノ数塁ヲ拔キ尾擊シテ本城町ヲ経タカム子山ニ登レハ賊前山ニ依リ防戦不退我

  猛撃スルノモ猶不退午后第八時半分兵ヲ引揚ケテントウ岡山ニ沿フテ防禦ス 

  我軍総員:九拾貳名  傷者:将校一名 下士卒一名

  備考我軍:傷者 中尉 伊藤一幸

          仝  伍長 山本春松

C09084803300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0409・0410

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊附属同聯隊第貳大隊第四中隊一小隊 中隊長

    大尉 南小四郎代理 少尉浮村直養㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:本城

  戦闘ノ次第概畧:此日第二攻撃隊ノ命アリ午前第四時花北山ヲ引揚ケ馬越前目下村

  ノ河堤ヘ散布シ架橋成ルヤ直チニ第一攻撃隊ニ續テ渡川俄然吶喊正面ヲ衝突シ下荒

  田村ノ数塁ヲ拔キ尾擊シテ本城町ヲ経タカム子山ニ登レハ賊前山ニ依リ防戦不退我

  猛撃スルノモ猶不退午后第八時三十分兵ヲ引揚ケテントウ岡山ニ沿フテ防禦ス 

  我軍総員:三拾九名  傷者:下士卒二名

  備考我軍:傷者 二等喇叭卒 山本福松

          仝  仝     西脇卯之助

 ひとつ前の報告とは青色部分が違う。

C09084803400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0411・0412

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名: 花北山ヨリ本城村ニ至ル

  戦闘ノ次第概畧:午前第十時四十分仙臺川ヲ渡リ曽木村ニ向ツテ進撃ス賊退テ本城

  村山上ニ塁ヲ築キ防禦ノ勢ナク因テ山村大尉ノ隊ト我一小隊ヲ以テ正面ヲ衝キ他一

  小隊ヲシテ賊塁ノ左翼ニ迂回セシメ背后ニ出テ射撃ス賊狼狽支ユル能ハズシテ退ク

  北ルヲ追テ南本城村ニ進ム賊山上ニ據ル我隊激戰左翼ノ髙山ヲ乗取ル賊ハ后方ノ山

  上ニ退キ固守ス于時薄暮ニ近ク進撃ニ利ナキヲ知リ二百米突退キ山上ニ防禦線ヲ定

  ム

  我軍総員:八十八人 傷者:下士卒三人

  備考我軍:兵卒田中竹枩久保田冨三郎喇叭卒山田岩吉ノ三人負傷

C09084803500「明治十年自五月至七月 戦闘報 告表 第三旅団」0413・0414

  第三旅團第十聯隊第三大隊第四中隊長心得中尉岡 煥之㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名: 鹿児島県下下出村

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時攻撃隊トシテ本城下出村ヲ発シ渡川開戦ス可キノ命ア

  ルニ依リ暫時渡川ノ凖備ヲ待ツテ進撃ス然ルニ賊敗テ南本城ノ前山マテ尾撃シ茲ニ

  大哨兵ヲ占ム此日不詳ナシ

  我軍総員:百二十名   備考我軍:此日費ス所ノ弾薬二千発

 下出村は堂崎の東側対岸にある下手のことである。次の山村報告にも出てくる。この日、岡隊は一人17発弱の小銃弾を発射した。

C09084803600「明治十年自五月至七月 戦闘報 告表 第三旅団」0415・0416

  第三旅團第十聯隊第三大隊第三中隊大尉山村政久㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名: 鹿児島県下本城村

  戦闘ノ次第概畧:六月三十日午前第四時本城下出村ヲ発程シ第五時本城下出村ノ前

  方大口川ノ前ニ一時防禦ヲ調ヘ先頭渡舟ノ警備ヲナスソレヨリ川ヲ渡リ追〃進ンテ

  本城村ニ至ル尚本城ヨリ湯ノ村ノ前方ニテ敵ヲ見直ニ開戦午后第八時同所エ大哨兵

  ヲ布ク

  我軍総員:百四十三人

  我軍ニ穫ル者:現米三十六俵 備考我軍:現米三拾六俵ハ本城村ノ内前田村今朝次

  郎ト申者ノ後ロ竹林ノ内ニ在アル其儘其處ニ置ク

  敵軍備考:現米三拾六俵ハ本城村ノ内前田今朝次郎ト申者ノ後ロ竹林ノ内ニ在ル其

  儘處ヘ置ク

 現米は玄米。

C09084803700「明治十年自五月至七月  戦闘報告表 第三旅団」0417・0418

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名: カジク村ヨリ本荘迠之間

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月丗日午前第三時鶴田村出発曽木村ニ向ケ進擊カジク

  村ニ至ル時賊兵本道ノ並木ニ依テ防戦ス我兵左側ヨリ擊テ之レヲ走ラシ進テ炭持村

  ニ至ル賊又本道并山上ヨリ烈シク防戦スト𧈧モ我兵益奮擊又之レヲ走ラシ逃ルヲ追

  テ芋頸山ヨリ本荘ニ至テ休戦ス此日費ス処ノ弾数凡ソ三千五百発

  我軍総員:九十四名 傷者:下士卒壱名 備考我軍:明治十年六月丗日攻撃之節傷

  者 兵卒 小林卯之吉

C09084803800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0419・0420

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第壱中隊大尉齋藤徳明㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:本城カ嶽

  戦闘ノ次第概畧:二十九日午前第五時羽月村出発午后第四時鶴田村到着三十日午前

  第二時鶴田村出発同第五時攻撃隊開戦ス同第九時一小隊ヲ以テ賊兵ノ左側面ヲ攻撃

  シ遂ニ進テ本城ケ嶽ニ至リ防禦線ヲ定メ守備ス

  我軍総員:百拾七名

  備考敵軍:午前第二時鶴田村出発同第五時楠原村ニ至リ攻撃隊戦端ヲ開ヤ否ヤ直ニ

  一小隊ヲ以テ本道ノ右翼山上ニ散兵ヲ配布シ賊兵ノ迂回ヲ禦ガシム既ニシテ賊兵敗

  走ス又進ンテ平地ニ在ル賊兵ヲ山上ヨリ左側面ヲ攻撃スルヿ凡ソ一時間餘賊支フル

  能ハズシテ敗走ス遂ニ進テ本城ケ嶽ニ至リ防禦線ヲ定備ス

C09084803900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0421・0422

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第三大隊 第二中隊陸軍大尉福島庸智㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:灰持村近方

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時靏田村ヲ発シ曾木村ニ向ヘ灰持村近方ニ於テ

  賊兵ヲ追拂ヘ進デ本城ガ嶽ニ至ル   我軍総員:九十四

C09084804000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0423・0424

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊中隊長陸軍大尉竹田実行

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:曽木街道

  戦闘ノ次第概畧:六月三十日曽木ノ賊背攻撃ノ援隊トシテ午前第二時鶴田ヲ発シ本

  道ヲ進ミ第六時針持村ノ坂上ニ兵ヲ配布シ正面ノ賊敗走スルニ及ンテ第八時兵ヲ纏

  メ本道ヲ進ム第十時本道ノ賊ヲ攻撃ス第十一時賊敗走ス依テ本道ノ右ヲ尾擊シテ金

  山ノ麓ニ至リ大哨兵ノ凖備ヲナス   我軍総員:百拾八名

C09084804100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0425~0427

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壱大隊第貳中隊陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:鹿児嶋縣薩国曽木口街道進擊

  戦闘ノ次第概畧:六月廿九日午前第五時金波田村ヲ発シ田代村花子峠平江口神子村

  ヲコへ靍田村ノ麓ニ至リ一泊ス翌丗日午前第二時曽木口街道進撃途中賊ノ哨兵ヲ目

  撃スルヤ直ニ賊徒七名ヲ生捕残余ノ賊ハ左右エ散乱ス是ヨリ急行終ニハイモチ山ニ

  テ賊ノ臺塲ヲ発見ス我隊本道ヨリ右ニ進ミ迂道ヲコヘテ賊ノ背後ヲ襲ハント進入ス

  賊此ノ挙動ヲ先見シ巓兵ヲ増シ頻リ☐発射ス諸隊一聲突入賊ノ占領シアル山頂ヲ乗

  リ取リ直チニ家屋ヲ放火シ此ニ依テ賊壱名ノ死体ヲ見ル弾薬数百ヲ分捕ル暫時火中

  ニ捨ル是ヨリ進擊終ニ山ノ麓ニ至ル降賊右山ヨリ発覚我隊ノ右翼ニ至ルヤ直ニ射撃

  シ暫時奮戦進テ潰破シ道ヲ進テ本城村右翼ノ山頂ニ大哨兵備ヘ命ヲ待ツ 

  我軍総員:百拾四名 我軍ニ穫ル者:銃 ヱンピール二挺 

  我軍ニ穫ル者:器械:刀 九本  備考敵軍:六月丗日午前第貳時曽木口街道進撃

  途中賊ノ哨兵目撃スルヤ直ニ賊徒七名ヲ生捕ル分捕左之通リ   刀九本 銃貳挺

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 平山隊はだいぶ大回りをしているが、「戰記稿」によれば南岸の曽木にいる薩軍の背後を襲おうとしたのである。

C09084804200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0428・0429

  第三旅團第十聯隊第三大隊第一中隊長陸軍大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:カイジク村

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時靍田村ヲ発シカイジク村ニテ賊ノ哨兵ニ逢フ直ニ賊走

  リ同処山上ニ集ル我兵其左翼村中ヨリ一ツノ髙山要処ニ登ル此山ニ亦賊アリ討テ走

  ラセ暫時固守ス本道賊走ル我兵ハイモチ村ヲ経テ山上ニ登ルト亦賊アリ稍暫シ互ニ

  発砲賊ヲ陥レ彼レ迯ルヲ進テ強ク尾擊シ曽木村ニ至ル本庄村方向ニ方テ一ツノ小山

  ニ賊発砲亦是レト戦フ暫在テ走ル終ニ日没ス本庄村口金山麓ニ大哨兵務ム

  我軍総員:百拾四名  我軍ニ穫ル者:銃:和銃 壱挺   器械:日本刀 二本

  器械:刀 九本 刀九本 銃二挺

 以上28件(浮村隊は2件)が第三旅団の6月30日の戦闘報告表である。

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 不明の場所もあるが全体としては、川内川を渡って対岸の曽木や本城村に進んでいる。東に進んだ部隊は湯之尾の対岸付近で止まっているのは、それより東側は第二旅団の進軍方向だと判断したのであろう。

「戰記稿」は6月30日の行動をどう纏めたのだろうか。前半は戦闘報告表とあまり変わらないので後半部を掲げる。

  午前六時砲九門ヲ馬越村ノ臺及ヒ湯尾下手村アバ野等ニ配置シ曾木本城湯尾町ノ前

  面ヨリ發火ス時方サニ十時未タ迂回兵ノ砲聲ヲ聞カス前面ノ賊依然變態アラサルヲ

  以テ三浦少將ハ下手村ノ臺ニ在テ古田少佐ニ令シ敵丸ヲ冒シ竹筏ヲ以テ川ヲ渡ラシ

  ム既ニシテ遥ニ迂回兵ノ砲聲ヲ聞キ尋テ火焰ヲ曾木村背後ニ認メ果シテ迂回兵ノ其

  目的ヲ達セシヲ知リ衆皆欣躍先ヲ爭テ渡ル初メ濟川ヲ圖ルヤ豫メ傍近渡津ノ小艇ヲ

  索ムルニ多クハ賊岸ニ在リ或ハ之ヲ沈メ或ハ之ヲ毀チ僅ニ七隻ヲ大口川ニ繋ク故ニ

  豫メ竹筏數個ヲ作リ之ヲ田間ニ伏セ或ハ林中ニ匿シ以テ今日ノ用ニ備フ是ニ於テ浮

  筏、流ヲ亂シ對岸ニ達セントスルニ未タ此岸ヲ離レサル二三間ニシテ激流、筏ヲ破

  リ或ハ深サ數尋ノ處ニ至リ棹竿其用ヲ爲サス乃チ更ニ筏ヲ聚メ二三或ハ四五個ヲ約

  スル數重ニシテ遂ニ渉ルヲ得、直チニ曾木ヲ略シ本城ニ至ル此時迂回兵既ニ曾木ノ

  山上ニ在リ頻リニ賊ノ側面ヲ撃ツ賊尚ホ湯尾横川ニ退キ更ニ湯尾山ニ據リ大ニ我兵

  ヲ拒キ又再ヒ兵ヲ勒シテ我カ湯尾ノ友田少佐ノ兵ヲ撃ツ此戰遂ニ暁ニ達シテ止マス

 第三旅団の三浦少将は川内川北岸の下手の台地から指揮していた。旅団左翼部隊が対岸の曽木背後から攻撃するのを待っていたが、なかなか現れないので秘かに用意していた竹筏を持ち込んで渡ることができた。丁度その頃、迂回兵も曽木背後の山上に進出しており、右岸に対峙していた敵の側面を攻撃したので敵は湯之尾・横川に退却した。末尾にある友田少佐の隊はこの日の左翼部隊であり、中村中尉・本城大尉が属していた。この戦いは翌暁に至っても止まなかった。

 30日、第三旅団の左翼に位置した第二旅団の行動を簡単に見ておきたい。

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 午前七時、第二旅団の右翼軍は稲葉崎・城山(場所不明)川内川対岸を銃砲で射撃し、午後3時になっても膠着状態のままだったので、一個中隊を楢原山に派遣し稲葉崎と共に十字砲火を浴びせ、渡河する官軍を射撃する隙を与えないようにして対岸に渡ることができたので、他の兵士も次々に後に続いて陣地に迫ったので薩軍は栗野・横川・本城方面に分かれて退却した。その結果、第二旅団左翼は広田村に、正面は付近の山上に、右翼は二渡村に陣地を築いて守備を布いた。

 第二旅団左翼軍は午後七時稲葉崎を出発して東方の北方村、つまり川内川の北岸を占領して対岸としばらく交戦した。次いで稲葉崎の方から薩軍が退却してきたので対岸の敵も退却を始めたのを機会に官軍は川を渡って、それまで薩軍がいた陣地を改造して夜明けを待った。

 

 薩軍・熊本隊の状況

 6月30日、官軍の戦闘記録を見てきたが薩軍・熊本隊などの記録も見ておきたい。熊本隊古閑俊雄「戰袍日記 全」の6月24日部分を掲げる。

  同廿四日晨暁、官兵我ガ長蛇ノ寨ヲ襲フ、然レドモ川ヲ隔テヽ遠ク砲戰ス、午牌下

  流薩ノ干城隊ノ守寨敗レテ高田ニ退ク、初メ官兵筏ヲ作リ夜半ヨリ之レヲ渡シ、急

  ニ干城、雷撃ノ守寨ヲ襲フ、薩兵不意ヲ衝カレ寨ヲ棄テヽ走ル、此ニ於テ官兵其ノ

  寨ヲ焼ヒテ進ミ来ル、我カ軍ノ背後ニ煙焰ノ起ルヲ怪ミ、斥候ヲ遣ハシテ之レヲ伺

  ハシムルニ還リ報ジテ曰ク、薩兵已ニ敗レ官兵其ノ虚ニ乗ジテ、☐☐ノ村ニ放火シ

  潮ノ如クニ襲ヒ来ルト、時ニ本営命アリテ全軍ヲ高田ニ纏ムト、此ニ於テ薩肥共ニ

  本城ヲ退ク、然ルニ湯ノ尾口ノ米倉ニ薩ノ兵粮數千俵ヲ蓄フ、官兵急ニ迫マツテ之

  ヲ奪ハントス、薩兵之レヲハバミテ拒ギ戰フ、熊本隊亦横ニ撃ツテ薩兵ヲ助ク、激

  戰數時砲声雷ノ如ク夜ニ入テ已マズ、

 長蛇ノ寨とは薩肥軍の陣地が川内川南岸に蛇行して連続的に存在したことを形容したものである。宇野東風編「硝煙彈雨丁丑感舊録」を掲げる。彼は当時未刊行だった古閑の日記や佐々の記録も参考にして執筆したという。上記の古閑の24日の内容は官軍の戦闘記録からみて30日の誤記ではないかと考えられるが、宇野もそう判断したらしく、30日のこととして書いている。

  三十日、暁、東軍來たりて、我が本城伊佐郡長蛇の塞を襲ふ。而して川内川の右岸

  に止り、水を隔てて銃火を交ふ。敵下流を亂して至る。薩兵守を去つて退く。協同

  隊之を見、進みて山上より敵の後繼隊を瞰射す。敵辟易して稍〃郤く。已にして敵

  の別隊、また一道より來たりて、我が側面より攻擊す。我が兵頗る苦戰し、淵上隊

  長奮鬪して之に死す。我れ敵を左右に受け、勢支ふべからず、退くこと數丁、險に

  據りて再び戰ふ。東軍益々猛進し、喊聲を發して逼る。我か隊敢死防戰す。銃聲山

  谷に響き、彈丸恰も蝗蟲の飛ふが如し。邊見其の苦戰の狀を聞き、一隊を發して扶

  援せしむ。協同隊謝して曰く、厚意此に至る。實に謝する所を知らす。然れども、

  我が隊堅守し、諸君をして左顧の憂なからしめむ。幸に念となす勿れと。遂に辭し

  て受けず。

  而して其の上流の薩兵、亦敗れて高田へ退き、東軍其の寨を焼きて進み來る。我が

  熊本隊其の上流に在り、背後に煙焰の起るを怪しみ、斥候をして之を探らしむ。還

  り報して曰く、薩兵已に敗れ、敵火を放ち、勢に乗して來攻するなりと。時に我が

  本營より命あり、急に全軍を高田へ退くべしと此に於て、薩肥の兵共に本城を退

  き、高田山に守線を張り、我が四番中隊は、陣ヶ岡を守る。

 薩軍が退き、次いで熊本隊・協同隊が退いた高田は地図で確認できなかったが、湯之尾のほぼ南5kmに幸田という地名を発見した。高田はたかだではなく、こうだと発音するのではないだろうか。下図はその広域地図である。

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 「高田山に守線を張り、我が四番中隊は、陣ヶ岡を守る」とあるので国土地理院の「基準点閲覧」で探したら「陣の岡」という三角点が幸田集落の北側にあった。そこを熊本四番中隊が守り、付近を他の薩肥軍が守ったのである。鹿児島県教育委員会の「鹿児島県の中世城館跡」によると陣の岡には中世の城が造られている(奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」参照)。残念ながら縄張り図はない。周辺の村々を見下ろす高い地形が時代は違えど防衛上の利点を備えている訳である。高田山という特定の山はおそらく存在せず、幸田にある山という程度の意味だろう。現地を踏査すれば台場跡がたくさん残っているのを確認できるだろうと思う。

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 6月30日前後の薩軍の状況について、薩軍の雷撃十番中隊右小隊半隊長だった唐仁原叶の上申書が詳しいので引用する(「唐仁原叶上申書」『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』pp.245~249)。但し、二日ほど間違えて新しい日付を記しているようである。( )内に正しいと思われる日付を加えて示す。

  十七日(15日)本営ヨリ用向ニテ隊与決議アリテ、雷撃十番中隊右小隊半隊長ニ命セ

  ラル、十八日(16日)午前五時山野小木原ニ進撃終日撃合、敵味方勝敗ナシ、味方兵

  士二名手負、八幡原ヘ守ヲ付番兵ヲ置、十九日(17日)未明ヨリ大砲ヲ打掛互ニ大砲

  小銃終日撃合死傷ナシ、午後七時大口本営ニ至リ邊見ニ両日戦争ノ顚末ヲ語ル、邊

  見大ニ喜ヒ酒盃ヲ取リ十時頃帰リ守リ先ヲ廻リ、押伍ニ敵モ近クナル模様ニ付探リ

  ヲ打ヘシト伝フ、廿一日(19日)同断、廿二日20日午前三時敵兵進擊シ互ニ大小

  砲撃合、午前五時山手ノ方熊本隊守場ヨリ打敗ラレ引揚ノ形勢ニヨリ、押伍両名斥

  候ニ出、間モナク帰リ告ルニハ、山手ノ方熊本池邊隊ヨリ敗レ引揚タリト、聞ヨリ

  早ク台場ヨリ大口本道ヘ引出シ、里程七合計来ル時邊見ニ出合フ、此時夜既ニ明タ

  リ、邊見云、池邊隊ヨリ敗立、左右ノ山手モ引揚実ニ残念ノ事ナリ、此上ハ本営輜

  重引揚ル迄此辺ニテ敵ヲ支ヘヨト、直ニ邊見ハ本営ニ帰、其後敵ヲ顧レハ英々声ニ

  テ撃掛進来ル故、隊ヲ本道ニ伏セ敵二町程来ル時俄ニ起リ立惣進撃ノ処、大口山野

  境迄盛返シ、敵ノ死傷相応ニ相見、飛越々々進入ス、此ニ隊ヲ開カセ暫時ノ間戦フ

  内、山手左右ノ隊嚮ニ引タル故夾打トナリ、余義ナク散々ニナリ引上ル時中隊長平

  山・兵士竹添源兵衛手負、外ニ隊夫ニ名手負アリ、余ハ本営ニ至リ邊見ニ偶ヘハ、

  全ク子ノ働ヲ以テ本営輜重モ引揚タリト云、夫ヨリ邊見ニ随ヒ馬越往還ニ出、味方

  ノ兵隊残ラス馬越ヲ指テ引揚、同所ハ地利宜シカラス、故ニ本城郷ニ本営ヲ立、各

  隊皆引上ケ、余カ隊ハ一人モ来サル故、本営ヨリ湯ノ尾町口渡場ニ至リ尋レハ、散

  兵追々ニ集リ漸ク隊ヲ纏メ湯ノ尾町ニ引揚休息サセ、又々本営ニ至ル、本営ニハ各

  中隊三官打寄、守リヲツクベキ地利ヲ議ス、菱刈川ヲ敵味方ノ境トシテ川筋ニ守ヲ

  付ルニ血シ、余カ守場ハ湯ノ尾口舟渡場ニテ隊ニ帰リ直ニ守ヲ付、廿三日(21日)廿

  四日(22日)場詰休戦、廿五日(23日)ヨリ三十日迄同断、七月一日(6月28日)本営

  ヨリ湯ノ尾郷方限ヘ敵兵見ユルニ付、渡場ノ守ハ正義三番ニ譲リ、午前十時頃湯ノ

  尾郷麓ノ前ニ守ヲ付、二日(?日)午前八時ヨリ敵大炮撃掛、川ヲ隔テ互ニ終日発炮

  死傷ナシ、三日(30日)午前三時官軍進撃ニ及、曽木郷ノ内城山ニ番中隊ヨリ打敗ラ

  レ、我持場ニモ打掛来リ、持留メタレトモ城山ノ味方敗レ来ルヨリ、友崩レトナ

  リ、横川往還小田村山ノ口ニ引上ケ各中隊ヲ伏セ、余カ隊ハ本道ノ右翼ニ伏セ、午

  後十時迄戦ヒ防留メ、午後十一時官軍引揚ク、味方隊長有馬戦死、分隊長一名・押

  伍二名・兵士三名手負、敵ノ死傷相分ラス、

 20日の敗戦後、薩軍は川内川、菱刈川としているが、を境に敵味方の境界とすることにし唐仁原の雷撃十番中隊右小隊は湯之尾の南岸の渡場を守ることになった。30日にはさらに退却し、小田村を守ることになった。これは熊本隊が高田と記す幸田村のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 6月の1 ※別働第二の高熊山攻撃加筆。

 5月25日以来戦闘記録のなかった第三旅団だが、6月1日には薩軍の状態を探るため久木野へ向け一分隊を偵察に出し、さらに大関山の敵状を観察しようと試しに砲撃した。

C09084893800「第二号 自五月至六月來翰綴 第三旅團参謀部」0368

     第七百七十五号

  今朝第七時頃ゟ大西大尉之中隊一分隊攻襲偵察トシテ久木野ヘ向ケ発遣其後大砲壱  

  門ヲ以上木塲口正面ノ賊状ヲ探ランカ為メ七八発程試放為致候處各賊塁ニ五六名宛

  顕レ出テ我放火ヲ見分ス且我ゟモ時々為探小銃放火ヲ為ス是以テ考ル時ハ彼ゟ攻襲

  ノ勢ヒナシト𧈧ノモ現在依然トシテ旧ニ異ナル事ナシ就而ハ現今ノ處ニテハ我ヨリ攻

  撃スルノ目的相立兼候尚大西大尉斥候歸陣之上賊状詳細ヲ得ハ重而上申可仕候得共

  不取敢此段申進候也 

 

     六月一日  厚東陸軍中佐

  三浦陸軍少将殿

 三浦は5月上旬以来、佐敷に本営を構えていた。この日、6月1日、山田顕義率いる別働第二旅団は人吉市街に北・北東から突入し、市街地中央を西流する球磨川の北岸を占領した。佐敷および球磨川下流から進んでいた旧別働第四旅団(5月13日に別働第二旅団に合併し、名称は消滅していた)も球磨川下流域から人吉盆地に入った。薩軍球磨川の南側に退き、数日後には下図のような状態となった。赤字が官軍、黒字が薩軍である。やがて薩軍は鹿児島県大口盆地やその東側えびの市に入るものと、人吉盆地南東部・東部の山地に進むものとに分かれることになる。

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 6月2日、三浦少将は別働第三旅団の川路少将に水俣方面の敵状を問い合わせたところ変化がないという返答だったので、第三旅団から行動を起こすことにした。3日、旅団の揖斐大佐は古道村に出張本営を移し、大島・内藤・友田各少佐と中隊長達を集めて次のように攻撃部署を伝えた(「戰記稿」)。3日に攻撃しているので実際は前日には命令していたはずである。攻撃目標:右翼は城山(久木野の北西の山)を大島少佐の6個中隊(佐々木・瀧本・大西・矢上・井上)、(おそらく中央の)長左衛門釜を内藤少佐の3個中隊(安満・栗栖・岡)、大関山を同じく3個中隊(平山・下村・武田)、左翼の大関山と国見山を友田少佐の4個中隊と工兵2分隊(栗林・弘中・堀部・沓屋・内藤・石川)、その他若干(林・南・山村・町田)である。

 次に当日3日の戦闘報告表を掲げる。 

C09084789200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0126・0127

   第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉堀部久勝㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:肥後国芦北郡 我軍総員:一百ニ十六人

  傷者下士卒1 賊軍死者1

  戦闘ノ次第概畧:六月三日午前第五時三十分開戦大関山ヲ攻擊援隊トシテ出戦十文

  字口ヨリ進入攻擊隊戦ヒ始ルヤ兵ヲ撒布シ山ノ神右方ニ増加シ進大関山ノ賊塁ヲ

  棄テ西南ノ焼野字ゴツトンニ走ル于時午後一時前ナリ

 于時は「ときに」と読む。攻撃隊の出発地と十文字口が分からない。大関山頂上にあったと思われる山ノ神神社(当時は現在神社建物の北側にある小さな石積み石室を祀る簡単な祭祀場だったかも知れない)の右に攻撃の重点を置いたところ、薩軍は頂上の南西に続く尾根にあるゴットン石(野原にあり、上に乗って動くと揺れる岩)の方に移動した。

C09084789300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0128・0129

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長 陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:大関山 山ノ神山 我軍総員:百四拾六人

    死者下士卒1 傷者下士卒2 

  戦闘ノ次第概畧:三日午前第拾二時嘉門越口ヲ発シ三時四拾分四本杉ニ至ル第六時

  山ノ神山下ニ於テ開戦同三拾分同處ヲ取 備考我軍:(略)放チシ處ノ弾薬六百發

 大関山頂上から続く尾根上で北約1.2kmに四本杉台場跡がある。沓屋隊は前回、5月24日の戦闘報告表では嘉門山を乗り取っており、今回も嘉門越を出発しているので、そこでずっと守備についていたのだろう(嘉門越は各隊の戦闘報告表の中で色々な字が充てられているが、同じ地名である)。そして、3日は北側から大関山目指して尾根を進んだのである。山ノ神山を取ることが大関山を取ること、と理解できる。戦闘地名欄に二つの山を併記している意味が分からない。

C09084789400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0130・0131

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:芦北郡大関山 国見山 我軍総員:百二十二名 死

  者下士卒1 傷者下士卒3  敵軍総員:大関山ニ五十名斗 国見山ニ八十名余 敵軍

  死者3 傷者不詳 我軍ニ獲ル者:弾薬三箱

  戦闘ノ次第概畧:午前五時四十分大関山進撃即時追拂同六時比ヨリ国見山江大斥候

  ヲ挙進擊九時頃国見山ノ賊ヲ追拂ヒ大関山ヨリ国見山ニ續キ防禦ヲ設ケ固守ス

    大関山と国見山の薩軍の人数を記す唯一の記録である。薩軍大関山に50人・国見山に80人余に対し攻撃側は926人であり、人数で圧倒しすぐに決着がついたのである。

C09084789500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0132・33

  第三旅團工兵第二大隊 陸軍少尉内藤冨五郎㊞陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:芦北郡大関山 我軍総員:三拾三名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時長嵜村ヲ出発大関山ニ至リ全員ヲ二分シ一ハ右翼ニ一

  ハ左翼ニ進ミ敵火ニ對シ塹溝數拾箇處ヲ築キ午后第十一時長嵜村ニ引揚

  工兵隊である。「戰記稿」では2分隊と表記されている。死傷なし。工兵隊は大関山に着いて台場類を数十基築造している。大関山頂上付近で北側を向いている台場跡は薩軍が築いたものと考える。弘中報告では午前6時前には大関山を占領しているので、その後夜11時に長﨑 村に帰り着く前は長時間築造作業をしている。大関山の薩軍に対して築いたものもあり、占領後、久木野方向に築いたものもあっただろう。

C09084789600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0134・0135

  第三旅團歩兵十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉来栖毅太郎㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:大関山 長左衛門釜 我軍総員:四拾六人 

  死者:下士卒1・傷者:下士卒4

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時石間伏村出発十文字ヨリ道ヲ右方ニ取リ進軍突然賊塁

  ノ右翼ニ出ツ茲ニ於テ大ニ鯨波ヲ發シ開戦ス此時五時半頃ナリ賊塁ニ據リ且ツ戦ヒ

  且ツ退キ進ンテ長☐釜ニ逼ル賊兵塁ノ右翼及ヒ背後ヨリ攻撃ヲ受クルヲ以テ終ニ支

  ユル能ハス数塁ヲ余テ奔ル同第十時頃命☐退去

 石間伏村を出発して十文字という場所不明の地で右折して進んだら長左衛門釜に至るのである。長左衛門釜にいた薩軍にとって塁の右翼・背後から攻撃される状態になったという。長左衛門釜は細長い尾根の先端近くにでもあるのだろうか。5時半頃に攻撃を開始したという。弘中報告の午前5時40分とほぼ同じである。

C09084789700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0136・0137

  戰闘報告表:明治十年六月四日歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長  

  第三旅團  陸軍大尉安満伸愛㊞  

  戦闘月日:六月三日 戰闘地名:長左衛門釜

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分長左エ門釜賊ニ向テ突進賊塁悉ク打拂☐ラ山ヲ

  占領シ大哨兵ヲ配布セリ

  我軍総員:九十名 死者:下士卒壱名 傷者:下士卒三名

  備考:我軍:一下士卒死スル者壱名第九聯隊第三大隊第四中隊一等卒矢田他壱郎ナ

  リ  一傷者下士卒十三名ハ第九聯隊第三大隊第四中隊軍曹角田義定仝一等卒池上

  吉次郎仝二等卒宮崎宇之助ナリ   〇本日費耗ノ弾数四千発ナリ

 沓屋報告と弘中報告では大関山を午前6時頃に占領しており、安満隊は2時間半攻撃したと単純計算できる。この間に一人約44発を発射している。 

C09084789800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0138

  第三旅團大阪鎮台豫備砲兵聯隊第二大隊第一小隊長 陸軍大尉村井忠和㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:熊本縣下肥後國芦北郡上木塲村 我軍総員:六拾

  貳人 

  戦闘ノ次第概畧:兵員ヲ区分シテ二トシ一ヲ砲車付トシ少尉杦田豊実之レヲ率ヒ一

  ヲ護衛兵トシ少尉野間駒之ヲ率ヒ午前一時三十分古田村ヲ発シ同三時卅分三十挺阪

  上砲臺ニ着直チニ山砲二門ヲ備ヘ仝五時丗分左翼開戦ニ因リ放射ヲ始ム同九時頃ニ

  至リ賊軍逡巡故ニ益射撃ヲ盛ンニス而乄九時卅分歩兵ノ進軍号音ニ應シ放射ヲ止メ

  護衛兵転シテ歩兵ト共ニ前進シ本道及同左側山上ニ於テ銃戦ス午后賊軍敗走止戦ニ

  因リ上木塲近傍ニ舎営ス

 乄は「して」と読む。三十挺阪の左上方向に敵がいて、5時30分に左翼が開戦したというのは、来栖隊が長左衛門釜を攻撃し始めた時間である。三十挺阪の上に築いていた砲台から左翼にあたる位置にある長左衛門釜を大砲二門で砲撃したのである。

C09084789900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0140・0141

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第壱大隊第二中隊長  陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:大関山ヨリゴツトンノ野迠 我軍総員:八拾七人

  傷者:兵卒二名

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月三日午前第三時管ノ本出発大入道ヨリ登尾ヲ攀チ大

  関山ノ右方ニ向ケテ攻擊賊塁数ヶ所ヲ奪ヒ猶進テ大関山ノ内「ゴットン」ノ野ニ出

  ルノキ賊又胸壁ニ依テ固守ス故ニ我兵益奮進賊兵遂ニ守リヲ捨テ悉ク敗走ス依テ第九

  時頃休戦ス此日費ス処ノ弾數凡ソ三千発ナリ

 管ノ本も大入道も場所不明。前回5月24日の報告表では石間伏村を出発して大関山を攻撃した後、平山隊と合併して第二防禦線に引き揚げている。では平山隊の報告ではどうかというと、24日の報告表は存在せず、翌25日のものがある。それは「午前第二時三十分肥後國芦北郡古石村ノ内大入道ニ於テ大哨兵ヲ布シ歩哨勤務中」である。

 つまり古石村に大入道という所があり、大哨兵を配布しているのである。6月3日の下村隊の「管ノ本出発大入道ヨリ登尾ヲ攀チ大関山ノ右方ニ向ケテ攻擊」を参考にすると、どちらの隊も大入道を経由して大関山に向かっていることが分かる。24日に下村隊が出発した石間伏は三十挺坂の東側の尾根の東側の谷間に位置し、古石村の東隣である。この日の下村報告によると、大入道から伸びた尾根は大関山の右の方に続いているらしい。以上のことを考えると、三十挺坂の両側のどちらかの尾根、おそらく東側の尾根を通って進撃したものと思われる。薩軍の数塁を奪ってゴットンの野に出ているからである。

 小銃弾使用は平均43発強だった。ゴットンは野原で樹木が繁茂していなかったという点は他の報告と重なる。同所を奪ったのは午前9時頃だったと記している。

C09084790000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0142・0143

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 換之㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:熊本縣下長左衛門釜 我軍総員:百二拾五人

  傷者:兵卒一名

  戦闘ノ次第概畧:午前第十二時三十分石間伏ヲ発シ仝三時三十分開戦長左衛門釜ニ

  援隊トシテ進ミ同所ニ於テ一半隊攻擊隊ト共ニ突喊賊塁ヲ拔ク、又一半隊攻擊隊ノ

  右翼ニ増加シテ進擊賊辟易敗走スルニ及ンデ要所ヲ占メ命ヲ待ツニ南大尉ノ隊ト大

  哨兵交換ノ命アリ依テ茲ニ占ム   備考:(略)本日費耗ノ弾数凡千発ナリ

  来栖隊が午前1時に石間伏を出発する30分前に岡隊は出発し、3時半に長左衛門釜を攻撃している。来栖隊は5時半頃開戦したのと時間差があるのはなぜか。 小銃弾使用は平均8発だった。

C09084790100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0144・0145

  第三旅團名古屋鎭臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:肥後國芦北郡古石村ノ内大関山 我軍総員:百貳

  拾八名 死者:下士卒二名 傷者:将校一名 下士卒十三名

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時肥後国芦北郡古石村ノ内大入道ヨリ進軍午前第三時三

  十分開戦一舉ニシテ大関山及長左衛門釜等各処ノ臺塲ヲ乗リ取リ我兵奮闘以テゴッ

  トン石ノ賊兵ヲ悉ク追拂ヒ午后第三時三十分同処ニ大哨兵ヲ備フ 

  我軍ニ穫ル者:ヱンピール銃八挺 弾薬:スナヒドル二千三百発 ヱンピール三千

  発 器械:小籏 壱本 刀 九本 貨:金四円貳拾銭

  備考:我軍 (略) ◦本日費耗ノ弾数六千発ナリ

  敵軍  ◦大関山及ヒ長左衛門釜ゴットン石等ノ賊ヲ追拂フ節銃八挺スナヒドル彈二千

  三百発ヱンピール彈三千発簱壱本刀九本紙幣四円貳拾四銭ヲ獲ルヱンピール銃及弾

  薬ハ叓急ニシテ引揚ル難ク且用ヒザルヲ以テ墔折シ地中ニ埋ム獲ル処ノスナヒドル

  弾薬ハ我軍ニ配與ス 

叓は「事」の異体字。本当は上が古だが、はてなブログにはその字がない。には付箋があったと思うが存在しない。大入道を出発し、予定時間通りに午前3時半に攻撃を始めて、大関山・長左衛門釜などを一挙に奪い、引き続き南西側のゴットン石の薩軍を追い払って午後3時半に哨兵を布いた。小銃弾は平均46発強を使用した。 

C09084790200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0146・0147

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉武田信賢㊞ 戦闘月日:六月

  三日 戦闘地名:熊本縣芦北郡ゴットン石 我軍総員:百三十九名 

  戦闘ノ次第概畧:午前二時石間渕ヲ発シ援隊ニテ大入道ヘ到リ戦地ゴットン石ヘ斥

  候トシテ二分隊ヲ出シ續テ之レヲ防禦隊トナシ深林ニ配布ス十時本隊ヲ同処ヘ繰込

  ミ午后設塁防禦ヲ巌ス   我軍ニ穫ル者:俘虜一  備考:我軍 一本日弾玉ヲ

  費凡五十発

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 石間渕は石間伏と同じだろう。ここよりも大入道の方が戦地に近いことが分かる。ゴットン石を占領して守備を設けている。一人平均0,4発の小銃弾を使用し、死傷者はいない。

C09084790300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0148・0149

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:上木葉及ヒ大関山辺 我軍総員:八十壹名 

  戦闘ノ次第概畧:正面攻撃ノ命ヲ受ケ午前八時過三十丁阪大哨兵ノ位置ヲ発シ悉ク

  賊塁ヲ陥レ猶進テ久木野本道ノ山頂ニ至リ大哨兵

 矢上隊は久木野村の北西側にある城山が攻撃目標だった。久木野本道の山頂が城山か。城山は中世山城跡であり、尾根の付け根には堀切があり、上面には曲輪の平坦面があり、台場跡が縁辺に築かれているのを見たことがある。水俣西南戦争史研究会の人達に現地を案内していただいた。

C09084790400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0150・0151  

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第一中隊長 大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:上木塲 我軍総員:百十九人 ※死傷なし

  戦闘ノ次第概畧:援隊トシテ午前第二時上木塲発シ右翼ヨリ久木野ヘ進撃城山ニ於

  テ発砲午后第六時岩音山エ引揚大哨兵ヲ務ム

 瀧本隊も上木場から南下して城山方面を攻撃したのである。城山を攻撃して占領し、そこから久木野を射撃したということか。岩音山は初出地名で場所不明だが、後出の佐々木隊の報告でも登場しており、そこでは上木場村の南にある地獄谷の北側だろうと推定した。

C09084790500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0152・0153

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉 井上親忠㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:肥後國芦北郡上木塲村 我軍総員:五拾六名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時比正面攻擊シ仝第九時比終ニ大關山ヲ占領ス

 午前8時頃に上木場村の正面を攻撃し、午前9時頃大関山を占領している。

C09084790600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0154・0155

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉大西 恒㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:上木塲本道 我軍総員:百貳十貳人 

  戦闘ノ次第概畧:本日未明ヨリ大関山并長左衛門釜攻擊之處賊敗走直ニ當隊上木塲

  本道ヨリ久木野村入口迠進入大勝利   備考:本日死傷無シ

 大関山と長左衛門釜は他の部隊が攻撃したという意味だろう。大西隊は久木野村入口に進んだのである。

C09084790700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0156

  第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊附属同聯隊第二大隊第四中隊一小隊 中隊

  長大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:長左衛門釜 我軍総員:三拾八名

  戦闘ノ次第概畧:六月三日攻撃総援隊ノ命アリ上木塲山上ノ砲台エ交換整頓防禦シ

  在タリキ午前第八時大関山々上ノ戦ヒ蘭ナラントスルノキニ當リ長左衛門釜ノ賊掃擾

  ノ急命アリ直ニ左一小隊ヲ同處ニ向ケ開戦シタリ賊終ニ防戦スル不能散乱☐走追撃

  シテ午后一時狐嶺ノ前面山上ニ於テ右一小隊ト合併夫レヨリ久木野本道ノ援隊トナ

  リ而後復タ右一小隊ハ不能山々上ノ援隊ニ分遣シタリ此日死傷ナシ于時午后第三時

  ナリ

 攻撃目標は割り当てられていない援隊だったが、途中から中隊の半分、一小隊38人が長左衛門釜攻撃に参加している。午後1時、追撃して狐嶺という場所不明の地の前面の山上で先の攻撃していた小隊と合流し、久木野本道を攻撃する墓の部隊の援隊になったらしい。

C09084790900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0160・0161

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:(※空白) 我軍総員:八十七名 傷者下士

  壹人 

  戦闘ノ次第概畧:午前一時三十分熊ノケ倉整列岩音村ヲ経地獄谷ノ上ニ至リ是ヨリ

  順路木田師ニ潜伏大関山ノ開戦ヲ待ツ雨リ六時三十分大関山ノ開戦ヲ聞キ城山並ニ

  久木野道ヲ狙撃ス賊塁ニ依テ固守敢テ退去ノ色ナシ因テ益々放火ヲ盛ニス十時大関

  山ノ大勝利ヲ見ルヤ直ニ城山並ニ久木野☐☐越突貫賊塁三ヶ所ヲ拔キ廠舎ニ火ヲ放

  チ進テ久木野ノ上ニ至ル然トモ本道ノ賊☐未タ不去故ニ拔能ハサルヲ以テ遂ニ久木

  野ニ至◦

 ◦に対応する貼紙なし。熊ケ倉は上木場の北側の山の北側麓の村である。地獄谷は大関山の南西に発生した谷で、上木場と城山の間にある。岩音村が地獄谷の北側にあるらしいと分かる。佐々木隊は部署計画では城山が攻撃目標の右翼部隊である。下図は同隊の推定進路。

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C09084791000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0162・0163

  第三旅團工兵第一大隊第一小隊附 陸軍少尉林庸雄㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:熊本縣下芦北郡上木塲村近傍 我軍総員:四拾名 

  戦闘ノ次第概畧:午前四時当隊ヲ折半シ古道村ヲ発シ一ツハ上木塲口他ハ石間伏口

  ニ至ル仝九時比賊軍ノ右翼敗レ退却スルニ依リ直チ進ミ久木野村近傍我防禦線ニ至

  リ塹溝築設ニ着手ス凡数拾箇并ニ鹿柴等ヲ築設翼五日午前第六時比皈営ス

 工兵隊だから戦闘には携わらず、久木野村付近で台場類を数十基と、伐採した木を並べる鹿柴などを設置している。「仝九時賊軍ノ右翼敗レ」とあるのは下村隊の報告でゴットンまで奪った時間が9時頃とあるのに符号する。だから、ここで「賊軍ノ右翼敗レ」とあるのはゴットンを含んでいる。 

C09084791200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0166・0167

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長 陸軍大尉斎藤徳明㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:国見山 我軍総員:八拾五名 傷者:下士卒一名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時「ヲンダラケ瀬戸出発同第七時国見山麓ニ至リ賊兵ヲ

  見ル直ニ開戦同第八時十五分国見山ヲ乗取午后第三時ヲンダラガ瀬戸ニ引揚直ニ大

  哨兵ヲ配布ス

  備考敵軍:午前第五時一小隊ヲ率ヒ「ヲンダラガ瀬戸」出発一半隊ヲ以テ久木野村

  ニ通スル間道ニ潜伏セシメ賊兵ノ迂廻ヲ禦キ且ツ滝本村ヨリ碁盤石ヲ経テ久木野村

  ニ進撃之官軍将ニ戦端ヲ開カハ直ニ是ニ應シテ賊兵ノ左側面ヲ討ニ備ヘ他ノ一小隊

  ヲ率ヒ前面ニ進ム道路甚狭廣キ所ニシテ僅ニ三名ヲ進ムベシ行ク凡ソ十丁余ニシテ

  国見山ノ背後ニ至ル時ニ午前第七時ナリ我カ先捜兵敵ノ哨兵線前ニ至リ賊兵ヲ見ル

  直ニ開戦烈射スルヿ甚タ急ナリ然リト𧈧ノモ賊兵險ニ據リ防禦スルヿ殊ニ勉ムルヲ以

  テ我兵進入スル能ハス不得止放火ヲ薄クシ正面大関山ヨリ進ム官軍ノ景况ヲ窺ヒ好

  機械ニ乗シ進ント欲シ喇叭ヲ吹奏シ只振旋スル而已既ニシテ忽チ敵兵退却ノ兆有ル

  ヲ察シ魚貫シテ進ム賊兵支フル能ハス守地ヲ捨テ敗走ス我兵山上ニ攀登ス全ク国見

  山ヲ乗取時ニ午前第八時十五分ナリ是ニ於テ兵ヲニ分シ一半隊ハ大関山之官軍ト連

  絡ヲ保タンガ為メ右ニ進ミ他ノ一半隊ハ歩々喇叭ヲ吹奏シ賊兵ヲ追撃シ進ンテ南床

  村ノ嶺字新名ニ至リ直ニ寺床及ヒ大河内村ニ斥候ヲ発遣シ賊ノ踪跡探索シ午后第三

  時他ノ中隊ト交換シ「ヲンタラカ瀬戸」ニ帰リ最前ノ守地ニ據リ守備ス

 斎藤隊は前回、5月22日に札松峠を奪ったときに東側にある鏡山を占領した部隊である。ヲンダラケ瀬戸がどこにあるか分からないが、鏡山の付近だろうか。国見山から大関山までほぼ1,000mである。弘中隊は「九時頃国見山ノ賊ヲ追拂」ったとあるが、この斎藤隊は8時15分としている。大関山の占領を待って国見山を攻撃して占領した。その後、山の南側麓の寺床と大河内村に斥候を出して探索し、朝出発した所の守備を再開している。寺床は久木野の東の谷間にあり、直線距離で4kmある。南側に大川という場所があるがこれが大河内か。

 この3日の攻撃は、「戰記稿」では午前3時半に攻撃開始としているが戦闘報告表の報告ではバラバラである。官軍側の6月3日の死傷者は「戰記稿」(18個中隊と1分隊:死11人・傷43人)・「西南戰袍誌」(歩兵9個中隊と工兵3分隊と砲兵1小隊:同前)・戦闘報告表集成(歩兵15個中隊と1小隊、砲兵1小隊、工兵3分隊:死6人・傷31人)である。死傷者数は前二つは同じだが、戦闘報告表は死者も負傷者も少ない。下記史料のように後日死亡した場合もあり、戦闘当日に近い頃作成された戦闘報告表で死者数が少ないのである。負傷者が少ないのは表作成時には把握しきれなかったのだろう。

 安満隊の負傷者や病人に関する記録があるので掲げる。

C09081003800「明治十年従五月 送達書元稿 大坂 征討陸軍事務所」0289防衛研究所

  大阪鎭臺歩兵第九聨隊第三大隊第四中隊

         陸軍々曹角田義定

  右者本年六月三日肥後国上木場村ニ於テ左下脚貫通骨折銃創ヲ受ケ入院加療候處膿

  熱ニ因テ今三十日午前第八時死去候条此段御届申候也

        長嵜軍團病院

        第十四舎檐任医官

   明治十年六月三十日   陸軍々医補溝上秀休㊞

 6月3日に上木場村で銃創を受けた内容が分かる。上木場村での負傷者の中には長崎の軍団病院に送られていた者もいたのである。

C09081004400「明治十年従五月☐ 送達書元稿 大坂征討陸軍事務所」防衛研究所蔵0301

  死亡診断書

       第三旅團

       歩兵第九聨隊第三大隊第四中隊

           兵 卒  中山吉之助

  右者明治十年六月五日於小野山泰襄土症ニ罹リ六月十三日八代軍團支病院ヱ入院施

  療候處漸次衰弱七月一日午後第二時三十分終ニ致死亡候也

          八代支病院長

   明治十年七月一日    陸軍二等軍医正菊池篤忠㊞

            主任医官

             陸軍々医正井上元章㊞

 読み間違いがあるかもしれないが、泰襄土症というのが分からない。マダニにでも噛まれたのだろうか。

 八代に軍団支病院が開設されたのは3月20日で、8月21日まで存在した。それとは別に大繃帯所というおそらく応急処置を行う施設も設けられ、付近では八代(五月18日)・佐敷(5月20日)・水俣(6月1日)が開設されている(陸軍軍醫團1912年「明治十年西南戰役衛生小史」)。さらに小繃帯所もあるので、こちらは数も多く、より戦地に近かっただろう。

 6月7日、第三旅団が大口に向かって動き出す。  

C09084791500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0172・0173

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:久木野ヨリ肥薩国境ニ至ル 我軍総員:八十七名 

  戦闘ノ次第概畧:正午十二時頃賊徒退却ノ模様ヲ見ル之ニ依テ一小隊ヲ以斥候トシ

  賊情ヲ探偵スルニ堡塁隻賊ナシ進テ石井河内ヨリ賊肥薩ノ国境ニ依リ警視隊寡兵ヲ

  以テ其右ニ戦ヲ見ル依テ直ニ進テ其側面ヲ擊チ之ヲ援クルニ警視大ニ力ヲ得テ突進

  ス賊防禦スト𧈧終ニ之ヲ☐退ケ警視ト共ニ地理ニ據テ☐☐☐☐于時午后第六時ナリ同

  七時隊踵キ至ル同十二時命ニ依リ久木ノ本道ニ退ク

 石井河内は石井川内である。山野の北部の村で、佐々木隊はここまで警視隊が苦戦していたので加勢し、薩軍を退却させている。

C09084791600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0174・0175

  第三旅團近衛第二聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉大西 恒㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:久木野ゟ河内村 我軍総員:將校以下百二十二名  

  戦闘ノ次第概畧:本日午后二時頃俄然賊軍退散ノ景况ヲ催スニ付當隊直ニ久木野本

  道ヘ向ケ攻襲斥候トシテ進入ル賊塁数ヶ所ヲ乗取賊ノ廠舎ヲ焼拂フ賊大口ヲ指シ敗

  走ス當隊追撃終ニ鹿児島国界ニ歩哨線ヲ定ム大勝利

  備考我軍:本日死傷無シ

 大関山周辺から薩軍が撤退した様子なので、攻襲偵察として久木野から河内村に進軍したところ、薩軍はここからも退散していたので県境に哨兵線を定めた。久木野から見れば東も南も大口であり、薩軍はどちらの方向に行ったのだろうか。河内村が場所不明。次の報告の石井川内のことなら、第三旅団は南東方向に進んだことになる。

C09084791700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0176・0177

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:久木野ヨリ岩井河内村 我軍総員:八十三名 

  戦闘ノ次第概畧:午后一時頃右翼警視隊ノ攻撃ニ依リ我主面山頂ノ賊等退軍ノ况景

  アルヤ突然攻撃ノ命アリ依テ兵ニ進乄賊塁ニ逼ル賊之ヲ捨テヽ逃走ス猶逆撃シテ肥

  後薩摩ノ國境ニ至リ大哨兵 

 岩井河内は石井川内のことだろう。大西隊の河内と同じか。

 6月5日、第三旅団の南西側の別働第三旅団は6月5・6日、鬼嶽(734m)を攻撃し、6日午後2時に占領し、守っていた薩軍は東側の鹿児島県伊佐市小川内に退却した。7日、「戰記稿」の第三旅団部分を全て掲げる。

  別働第三旅團ノ兵昨日正午大ニ鬼嶽ニ捷チ久木野口ノ賊、漸次退却ノ色アリ、厚東

  竹下両中佐乃チ午後三時ヲ以テ五個中隊ヲ發シ久木野村正面山上ノ賊壘ニ逼リ悉ク

  之ヲ領ス

 久木野村正面山上の賊がいた場所はどこだろうか。

C09084791900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0180・0181

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:薩肥国境 我軍総員:貳拾四名 

  戦闘ノ次第概畧:六月七日正午一半隊ヲ攻襲偵察トシ城山ヲ下リ平野尾山及ヒ二ノ

  坂ニ至レハ賊逃走進撃シテ長嵜山ニ出テヒシガヒ街道鬼神山辺酣ナルヲ見テ榎谷

  村ニ下リ平石村ニ登レハ日ハ西山ニ沒シ山嶺凹凸ノ地難辯故ニ鬼神山南方ヨリ縣堺

  ニ沿フテ平石村ニ道シ哨兵連絡ヲ保ツ此日大勝

不明地名が多い。城山は久木野の北西側の山城跡である。

 8日の「戰記稿」第三旅団分を掲げる。

  午前九時攻擊隊小川内村ニ入ル賊前面山上ニ據リ暫時ニシテ潰ヘ大口本道ニ向テ走

  ル然レノモ地形守備ニ適セス乃チ午後四時兵ヲ収ム彈藥五百發ヲ獲タリ

 別に部署表もあるが略す。小川内村を占領したとあるが、以下の戦闘報告表ではそう読めない。

C09084791800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0178・0179

  第三旅團歩兵第拾聯隊第三大隊第壱中隊長陸軍大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:六月八日 戦闘地名:小河内村 我軍総員:百十九人 

  戦闘ノ次第概畧:午前第九時攻襲偵察トシテ大堺哨兵処ヲ発シ小河内村テ進軍終 

  ニ小河内村ニ進入村内ヲ捜索スルニ賊モ人民壱人トシテナシ此日深霧曽テ遠望不能

  漸ク正午第十二時頃ニ至リ聊カ霧ヲ散シ大凡同処ヨリ六七百米突前面ノ山上ニ賊塁

  ヲ設ケ防守スルヲ認ム彼我共砲火盛ニス彼レ大砲ヲ発ス午後第二時頃引揚ノ命ニ依

  テ従前ノ地ニ復ス   我軍ニ穫ル者:弾薬 スナイードル 五百発入 壱箱

 小川内村に簡単に入れたとある。後日、大口の山野村に官軍が進軍した際も住民は隠れていて誰もいなかった。村からは薩軍に従軍した者が多かったため、官軍に罰せられることを恐れたのである。

C09084792000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0182・0183

  第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月八日 戦闘地名:薩肥国境 我軍総員:九拾三名 

  戦闘ノ次第概畧:六月八日久木野城山砲台ヨリ薩肥国境マテ攻撃ノ命アリ直ニ進軍

  賊前日ノ敗レヲ以大口ノ要路ヲ指シ潰走ス依テ道路遮キル者ナシ午前第八時三十分

  於同所前日発程ノ攻襲偵察ノ一隊ト合併夫レヨリ歩哨配賦連絡防禦シタリ

  備考我軍:此日死傷ナシ

 東か南か、どちらの方向に進んだのか不正確な報告である。  

C09084792200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0186・0187

     第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 煥之㊞

  戦闘月日:六月八日 戦闘地名:鹿児島縣下稲丸山 我軍総員:百二拾五人 

  戦闘ノ次第概畧:午前第九時横立山防禦ヲ発シ攻襲偵察トシテ☐(稲?)丸山ニ至

  リ小川地村山上ニアル賊兵ヲ攻擊シ午后第三時引揚ケノ命ニ依リ元ノ大哨兵線ニ還

  ル   備考我軍:此日費ス所ノ弾薬五百発

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 横立山と稲丸山は場所不明。小川地村は小川内村である。小川内村の山上とは、同日の瀧本報告にあるように瀧本隊が小川内村に入ったところ無人で、「同処ヨリ六七百米突前面ノ山上ニ賊塁ヲ設ケ防守スルヲ認ム」という場所と同じであろう。第三旅団が猩々岳と呼んで攻撃し占領した山である。小川内村の南側の山かと考えられる。稲丸山は村の北東側にある標高490mの山及び北側の東西に長い尾根、つまり標高524mの東部を含む全長2km位の部分であろう。関係地図を掲げる。

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 岡報告は小川内村を占領したとはしていない。「戰記稿」編集者は 瀧本報告を採用したのだろう。なお、6月8日の部署表では攻撃隊が4個中隊(矢上・南・瀧本・岡)・援隊2個中隊・大岡山屯在4個中隊(安満を含む。大岡山ではなく大関山だろう)・遊軍4個中隊である。 

 6月13日、第三旅団の13個中隊は山野に向かい進撃する。左翼は布計村、ここは別働第二旅団右翼のいる田野村に隣接し、鈴ヶ原山を境としていた。第三旅団の右には別働第三旅団が同時に進撃していた。この時、古田少佐率いる大西・岡・南各隊は正面本道よりの攻撃隊で、安満隊は援隊だった。その他の第三旅団進路は内藤少佐が「花山ヨリ」・友田少佐が「中央ナスウ山ヨリ」・川村少佐が「左翼ナスウ山布毛ヨリ山野村通リヲ」である(「戰記稿」)。鈴ヶ原山と花山とナスウ山は場所不明。このうち、ナスウ山は左翼とあり布計村付近だろう。

6月13日頃C09084910700「第二号 自五月至六月來翰綴 第三旅團参謀部」0702

  十三日午后十二時発

  第八百四七号

  今朝六時開戦我旅團ハ本道及ヒ左翼ヨリ別働第三旅團ハ右翼ヨリ進テ小河内山野ヲ

  取ル午後六時ニ及ンテ戦ヲ止メ警備ニ着手ス然ルニ別働旅團ハ前面賊徒接近砲撃之

  際不意ニ守地ヲ徹シ旧線ニ引揚ケタリ依テ我右翼空虚ニシテ一兵之守リ無シ実ニ困

  難此時ゟ甚敷ハナク種々協議スルモ終ニ不☐調故ニ只必死固守スル覚悟ニテ候ヘ共

  萬一賊此虚ニ乗シ襲来セハ我軍之挫敗之レ無ク共☐申依テ至急二三大隊(◦)(〇一旅

  團)一旅團ノ兵員ヲ御繰出シ相成度希望ス不堪☐到底川路少将ト此上之協議ハ無益

  と断絶仕候明朝直ニ大口攻撃之手筈ニ有之候処前陣之挙動ゟ大ニ目途ヲ失シ此上ハ

  兵員之着ヲ不待候テハ一歩之進退モ難相成候尤本日之攻撃ハ充分大勝利ナレ共委細

  ハ四斤山砲壱門ヲ分捕リ其余ハ混難中ニテ取調難ク☐☐依テ詳細ハ後報ニ譲ル将

  又只今之守地ハ警視隊引揚後充分ニハ無之已大口攻撃ハ兵数次第一挙ニ拔クヿ容易

  ニ☐存候

 川内村の内、東部に位置する山野を占領し警備に着手した際、右翼で接続していた別働第三旅団が無断で引き揚げようとしたので掛け合ったが無駄だった。不明字があるので原文を示す。

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前掲「西南戰袍誌」はこの件について以下のように記す。

  午前三時三十分より本道大口竝花山、十曾山の賊を歩兵十二個中隊砲兵二分隊工兵

  三分隊を以て攻擊す賊必死防禦に努むるも力屈して退走す、之を尾擊して山野麓に

  侵入し之れを取り其前方に守線を備ふ此地方にては麓と稱 る山麓に非らず士族の集團し

    たる部落を稱す此日警視隊も、亦朝日山より攻擊を始し漸次賊を擊退し山野に來る

  此時未だ我旅團の守線を設けるの暇なきに際し警視隊は爰に達するや否乍ち引退

  かんと欲す其危殆なること見る耐へず、我旅團の將校等言を盡して之れ止むも聽

  かず參謀の命令なりとし、負傷者二名を遺棄し先を爭ふて退却す恰も良し我參謀

  西 寛二郎少佐途に警視隊の參謀大尉中川祐順に邂逅し其處置の不當にして機宜に

  適せるを諭すも、頑強にして之れを容れず只目的を達し山野に至りたるを以

  任務は既に足れり其餘は知る所にあらずと云ふ道路上に於て大に激論及ぶ遂に我

  旅團のみを以て同地を全ふするを得たり斯の如き不羈不律の隊と共に行動するは

  最危險にして我旅團の常に迷惑を感ずる所なり。

 別働第三旅団の言い分も「戰記稿」から掲げておこう。

  各隊尾擊シテ大口村ニ至ル初メ本團第三旅團ト謀リ山野陷レハ第三旅團之ヲ守リ本

  團轉シテ出水ニ向ハント約ス然ルニ此ニ至リ揖斐大佐中川大尉ニ告ルニ約ノ行ヒ難

  キヲ以テス大尉憤然兵ヲ収ム少將特ニ大尉及ヒ小笠原警部ヲ山野ニ遣シ揖斐ニ論議

  セシム遂ニ第三旅團兵ヲシテ山野ヲ守ラシムト云フ

 初めの約束は確認できなかったが、そういう方針の協議はあったのかも知れない。別働第三旅団は他の旅団よりも人数が少なく、川路が山縣に掛け合っていたが、増員はされなかった。それで川路は大久保内務卿に増員を要請し、5月23日に新徴募巡査1,200人が水俣に到着している。

 「西南戦争警視隊戦記」の解釈はこうである。川路少将が薩摩出身で陸軍ではなく警視隊を率いており、他の山縣参軍や第二旅団の三好少将、第三旅団の三浦少将、別働第二旅団の山田少将等が長州出身の陸軍部隊であったため表立ってではないが川路旅団に対する差別意識があったのではないか、と。第三旅団としては前回、川路隊が逸見十郎太に水俣に追い返されたときには第三旅団が援軍に駆け付けたのに、今回はこの・・・と感じただろう。兎に角、雰囲気は悪かった。

 

C09084794300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0228・0229 

  歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 第三旅團  陸軍大尉安満伸愛㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:山野村 我軍総員:三十八人

  戦闘ノ次第概畧:抑正面攻撃隊ノ援隊タリ賊逃走スルニ及テ尾擊シテ山野村ニ至リ

  命ニ依リ大哨兵ヲ布ケリ 

  備考:一死傷等異情ナシ此日費ス所ノ弾数凡ソ貳百發ナリ

  安満隊6月3日には90人だったので、38という数字は3/1程度である。援隊だったが、薩軍が逃走したときに追撃し、一人平均5発を発射している。どこを通ったのか分からない報告である。

C09084792300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0188・0189

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:鹿児島縣山野郡菖蒲ノ元 我軍総員:百三十二

  戦闘ノ次第概畧:昨十三日午后第十時三十分熊本縣芦北郡一本木ヲ雷発峻山幽谷ヲ

  攀躋本日午前第四時菖蒲ノ元ニ至リ開戦午后第一時賊兵塁ヲ捨テ敗走我軍之ヲ追テ

  散乱セシム夜十二時頃山野下村ノ山ニ登リ露営ス

  我軍ニ穫ル者:弾薬 千五百 備考敵軍:一弾薬千五百発ハ皆ヱンヒール銃ニ用ユ

  ル實包ニシテ山野ニ於テ得ル

 一本木は久木野の南、やや西側1,4kmの谷間にある。北から久木野、日当野(ひなた)、一本木の順である。そこから東に進んだのか南だったのか菖蒲ノ元が場所不明なので進路が分からない。

C09084792400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0190・0191

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:薩摩国山野郡菖蒲☐ 我軍総員:六拾壹名 戦

  死:将校 一

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時平石原ヲ発シ仝第四時頃ショーブノモトニ着仝第九時

  頃開戦午后第一時頃賊敗走ス直ニ尾撃遂ニ平泉村迠占領ス

  備考我軍:即死 陸軍少尉齋藤 孟

 6月7日、南隊の報告表に鬼神山南方ヨリ縣堺ニ沿フテ平石村ニ道シ哨兵連絡ヲ保ツとあるが、平石原は場所不明。鬼神という三角点が県境南側の五女木牧場北側にあるので、平石は近くか。

C09084792500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0192・0193

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長 陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:三ヶ月山ヨリ山野村迠 我軍総員:九拾壱名

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月十三日午前第一時出発三ヶ月山迠出張午後第一時前

  山野村近傍ノ賊悉ク敗走スルヲ以テ直ニ石河内村ニ進入休戦セリ此日攻擊援隊タル

  ヲ以テ遂ニ交戦セス 

  備考敵軍:明治十年六月十三日俘虜

               鹿児嶋縣士族伊集院郷

            正儀隊小隊長是枝吉藏

 捕虜となった是枝吉藏の上申書は少し後で掲げる。

C09084792600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0194・0195

  第三旅團鎭臺歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊附属同聯隊第二大隊第四中隊

  一小隊 中隊長大尉 南小四郎㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:髙野山 我軍総員:三拾九名 傷者:下士

  壱名

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時平石山ニテ開闘ノ期ヲ約シ終テオウデノー山ノ渓谷ヨ

  リハカマゴチ山上ニ隊ヲ区分シ散布左翼軍ノ開戦ヲ待チ漸シテ午后第一時発砲進軍

  ノ譜ヲ奏シ瞬間ニハカマゴチ山ヨリ髙野山ヘ這攀リ賊塁数十ヶ所ヲ攻落シ走賊ヲ尾

  撃シテ本道ノ一手ト合併小木原村外ヘ出テ向戦数時アリテ平村防禦線エ引揚タリ

  備考我軍:傷者 一等兵卒 山川兵五郎 

 南隊の予定部署は「正面本道ヨリ」だったので小川内村付近を通って進んだのであろうが、ほとんどが不明地名であり、内容を理解できない。この報告表を訂正したらしい報告表が次(略)の0196・0197に綴られている。0195・6が総員を三拾九名とするのが相違点。6月8日は93人だからこちらの93人が正しいだろう。オウチー山は誤読の可能性がある。0195ではオウデノー山である。平村は前出の平石村だろうか。

C09084792800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0198・0199

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:鹿児嶌縣下薩摩國伊佐郡ショーブノ元

  我軍総員:六拾壹名 戦死:将校 一

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時廣野ノ守線ヲ発シ仝第四時ショーブノ元ニ至リ第五時

  開戦ス賊塁要地ニアリ固クシテ容易ニ拔ク能ハスト𧈧ノモ我兵奮戦突進漸クニシテ賊

  ノ数塁ヲ陥レ遂ニ尾撃シテ山野村ノ要地ヲ占領ス于時午後第三時三十分ナリ 

  備考我軍:即死 陸軍少尉齋藤 孟

 0190と重複するが地名・総員・概略が異なる。これは7月26日記入。0190は午前第一時平石原ヲ発シ仝第四時頃ショーブノモトニ着仝第九時頃開戦午后第一時頃賊敗走ス直ニ尾撃遂ニ平泉村迠占領スとあり、0198では出発地が廣野の守線、開戦時間が午前5時、その地と山野の要地を占領した時間は記さない。他の隊の報告表が揃って菖蒲ノ本占領を午後1時としているので、時間に関する0190の記述は信じていいだろう。平石村即ち平石原は県境南側の五女木牧場近くと考えたが、ショーブノモトは南方の平出水との中間にあると分かる。

C09084792900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0200・0201

  第三旅團第十一聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:鹿児島縣菖蒲本 我軍総員:百三十二名 

  戦闘ノ次第概畧:昨十二日午後第十時釘野村一本木ヲ發シ本日午前第四時三十分菖

  蒲ノ本ニ開戦午後第一時☐敵ヲ追ヒ山野村ヲ経テ平出水村山上ニ露営ス 我軍ニ穫

  ル者:弾薬 千五百發 備考敵軍:彈薬千五百發ハヱンピール銃彈ニシテ之ヲ山野

  村ニ穫ル

 釘野村は久木野村であり、一本木は武田報告(0188)にも登場し久木野の南方にある。菖蒲ノ本も不明だが官軍にとって山野の手前の場所である。平出水村は前後の報告で平泉村や平出村とある場所と同じだろう。菖蒲の本での開戦は井上隊が午前5時、この武田隊が午前4時半となっているがほぼ同時だろう。銃弾は一人平均11発発射している程度なので、それ程激戦ではない。

 C09084793000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0202・0203

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:三ヶ月山ヨリ山野村マテ 我軍総員:九拾八名 

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月十三日午前第一時山木塲出發山野村ニ向ケ進撃同第

  四時過三ヶ月山ヨリ石河内村山上ノ賊ヲ攻撃午後第一時過ニ至リ同所近傍及ヒ山野

  村ノ賊兵悉ク敗走スルヲ以テ直ニ同所ヘ進入同第六時頃平出村山上ニ至リ警備ス此

  日攻撃援隊タルヲ以テ遂ニ交戦セス

  我軍ニ穫ル者:将校 壱 器械 刀壱本 備考敵軍:明治十年六月十三日戦鬪之際

  斥候枝隊ノ俘虜 鹿児嶋縣下伊集院郷住 正儀隊小隊長 士族 是枝吉藏

 0192・0193にも同様表あるがやや異なる。「三ヶ月山ヨリ山野村迠 我軍総員:九拾壱名 戦闘ノ次第概畧:明治十年六月十三日午前第一時出発三ヶ月山迠出張午後第一時前山野村近傍ノ賊悉ク敗走スルヲ以テ直ニ石河内村ニ進入休戦セリ此日攻擊援隊タルヲ以テ遂ニ交戦セス」三ヶ月は小川内の北東3kmほどの山間部で、北側背後に東西に山並みが連なる。三ヶ月山はその一部又は全部だろう。石河内は石井川内だろう。三ヶ月の南1,2kmほどにある。高熊山の西方約5km付近に平出水があるのが平出村だろう。その北側背後に最高標高427mの尾根があるのが下村隊守備の場所だろう。別働第三旅団が撤収した場所に入れ替わり配置されたのか。

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 負傷して石河内村山上で下村隊(0202)の捕虜になった是枝の上申書は次。

「是枝吉藏上申書」『鹿児島県史料西南戦争第二巻』pp.658・659

  今般鹿兒島逆徒征討始末編輯候ニ付右賊徒懲役人ノ内其事情及戦地ノ形状

  等詳悉致候者ハ該事ノ顚末ヲ上申可仕旨奉拝承左ニ筆記仕候、

  明治十年二月中原尚雄等暗殺ヲ謀ラントノ議発覚シ、政府ヘ尋問ノ為メ陸

  軍大将西郷隆盛仝少将桐野利秋仝少将篠原國幹旧兵隊ヲ率ヒ上京ノ際、

  不図モ途中熊本県下ニ於テ台兵ニ支ヘラレ、終ニ戦争ニ及ヒ候段追々報知

  之赴承リ居折柄、五月下旬勇義隊本営中山盛高十三小隊位ヲ引率シ吾伊集

  院郷ニ着シ、本営ヲ据ヘ兵ヲ募リ、吉藏モ同人ノ達ニ依リ同廿九日勇義十

  四番隊ノ小隊長ニ被命、同日同所発足鹿兒島伊敷村ニ着ス、然ル後本営ヨ

  リ差図ニ従ヒ六月五日吾十四番小隊ト振武廿六番小隊同所発足、大口ノ内

  旧山野郷ニ着ス、則同月九日ナリ、同所ノ本営逸見十郎太ノ指揮ニヨリ、

  翌十日同所石川村ノ塁ヲ守ル干城一番小隊ヘ応援トシテ進軍、同所ヘ滞陣

  スル中同十三日午前八時頃惣軍進撃ノ報ニ依リ直ニ繰出シ、午后一時頃両

  陣互ニ発砲ニ及ヒタレハ、味方已ニ敗軍ノ勢ヒニナリ右干城一番小隊モ引

  揚シニ依リ、吾十四番小隊モ同シク引ク、其際二ヶ所ニ負傷ヲ受ケ歩行自

  由ナラス、傍ノ木陰ニ臥居ケレバ忽チ敵兵寄セ来リ、其儘降伏ス、依之敵

  ノ本営ヘ護送セラレ、同十五日八代ヘ移サル、夫ヨリ官軍ノ病院ニ入テ療

  養ヲ蒙ル、同廿七日頃熊本病院ヘ移サル、

   右戦地ノ形状概文筆記上呈仕候、

            鹿児島県下第廿二大区小四区

            伊集院居住

            当時群馬県已決監囚

   明治十一年二月十一日      是枝吉藏

 是枝は5月29日に勇義十四番小隊小隊長として薩軍に加わり、6月13日に初めて大口市石井川内?(石川村)で戦って負傷し、官軍に降伏、入院した。従軍履歴は二週間だったが、小隊長だったので監獄に入れられている。

C09084793100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0204・0205

  第三旅團大阪鎭臺豫備砲兵第二大隊第一小隊長陸軍大尉村井忠和㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡長葉山 我軍総員:三拾

  七名 内貳拾二名砲護兵 

  戦闘ノ次第概畧:杉田少尉山砲一門ヲ以テ長葉山ニ備エ砲護兵ト乄石川少尉徒歩第

  二小隊ノ内半隊ヲ率ヒテ布列シ午前五時開戦ニ因テ天目山ノ賊壘ニ放發ス同十二時

  半ニ至ッテ賊軍逡巡間ニ乄進軍ノ号音ニテ放射ヲ止メ此ニ於テ砲護兵ヲ轉シテ攻撃

  ノ姿勢ヲナシ歩兵トノモニ前進鋭戦ス午后五時賊ノ全軍敗走シ止戦ニ因テ長葉山ニ帰

  リ露営ス

 芦北郡長葉山が分からない。大関山・国見山の東か南にあるのだろうが。天目山は象徴的な意味で使ったらしく、その名の山が存在する訳ではなかろう。

C09084793200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0206・0207

  第三旅團東京鎭台工兵第一大隊附 陸軍少尉林 庸雄㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡山野村近傍 我軍総員:三拾九人  

  戦闘ノ次第概畧:午前零時三十分本隊ヲ切半シ一ハ越小塲村ゟ花山ヲ経テ出水村

  ヨリ進ミ他ハ本道ゟ山野村江進ミ塹溝并ニ架橋築造ヲ成シ翌十四日午前第四時皈営

  セリ

  越木場は久木野の南2,1km付近の地名である。花山は不明。

C09084793300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0208・0209

  第三旅團歩兵第拾貳聯隊第貳大隊第貳中隊長沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:石河内村 我軍総員:百四拾八人  

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時市ノ木山ヲ発シ第五時花山ニ至リ壱小隊ヲ中大尉ノ

  隊ニ増加シ第九時開戦壱小隊ヲ以テ花山ヨリ進メ正午壱弐時石内ヲ畧取ス即時追

  撃シテ午后第三時山ノ☐山ニ進ム

 越木場の2,2km東側に市木がある。市ノ木山はその付近の山だろう。花山は前掲報告表に何度も出てきたが、市木と石井川内の間にあるらしい。

C09084793400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0210・0211

  第三旅團第九聯隊第三大隊第三中隊陸軍大尉本城幾馬㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡石河内山 我軍総員:九拾七名

  内不戦五名  

  戦闘ノ次第概畧:六月十三日午前第二時石河内越ノ大哨兵ヲ引拂ヒ仝十一時石河内

  山ニ進撃仝処ニ而午后一時三十分迠戦闘終ニ賊潰散ス依而直ニ吶喊進入珠數山下迠

  尾撃同処ニ於テ大哨兵ヲ布ク此時弾藥五百発ヲ放ツ

 珠數山は場所不明。平均5発の小銃弾を射撃している。

C09084793500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0212・0213

  第三旅團工兵第二大隊第壱小隊第壱分隊 陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:オンダラ越 我軍総員:拾五名 傷者 下士

  一人

  戦闘ノ次第概畧:朝第二時大川内村出発ヲンダラ越ニ向ケ進ミ雉子山ヲ越ヘタ第六

  時半頃山野村ニ繰込ミ夜ニ至テ塹溝数ヶ所ヲ築キ翼朝第一時内山村ニ引揚ク

 山野村以外は場所不明。雉子山が鬼神山と同じなら、五女木牧場北側の山がそれである。 

C09084793600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0214・0215

  第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉堀部久勝㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:薩州内山郷荒谷山 我軍総員:百貳拾人  傷

  者: 下士卒一人   

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時ヤボ山ノ守地ヲ発シ進テ荒谷山ニ至テ配兵ス抑該山タ

  ルヤ樹木鬱叢岩石﨑☐而テ賊堡ハ一谷ヲ隔テ左右ニ相對シ其右ハ尾ノ上山ニシテ左

  ハコヽツヽソバ子及シツソウ山其距离共ニ凡ソ千米突而シテ我隊ハ☐谷山ノ突出部

  ニ占位シ尾ノ上コヽツヽノ両賊堡ニ對シ開戰ス時ニ第六時ナリ然レノモ該地ハ山谷ヲ

  隔テ加フルニ險峻ニシテ降登セサレハ賊堡ニ達スル能ハス故ニ数時對戦ス時ニ賊軍

  ノ左翼ニ火ノ挙ルヲ見ルヤ賊稍退去ノ色アリ因テ一時ニ閧ヲ発シ疾ク進ム賊乱走我

  兵追北遂ニコヽツヽノ賊堡ヲ陷シ尾撃シテ山野尾邱ニ至リ大哨兵ヲ張ル時ニ午後第

  二時ナリ

 堀部の隊は6月3日には大関山で戦い、以後の動静は分からない。出発地のヤボ山ノ守地のヤボとは五女木牧場(大境)北西1,5km、小川内の北西4,2kmにある藪のことである。堀部の隊が進んだ荒谷山はどこか。三角点荒谷山というのが石井川内の北北東2,2kmにあるが戦闘ノ次第概略を読むと疑いが沸く。もう一つ三角点新ヤ森がさらに東南東4,4kmにあるのが該当しそうである。あらや森と読めるからである。堀部隊は荒谷山の突出部を占めていたというので、細尾根の先端にある標高800mの場所が該当するようだ。ここから約1kmの距離の山と谷を隔てた場所に薩軍の陣地があったというが実際は2km前後離れなければ適当な地形は見当たらない。

 次図は登場地名がどこにあるかの想定図である。シツソウ山は十曽付近にある山のどれかだろう。下図では仮に想定している。

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C09084793700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0216・0217

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:六月十三日  戦闘地名:薩州薩州石河内越尾ノ上山 我軍総員:百三十

  名  傷者:下士卒三名    敵軍総員:百名斗 死者三名斗 傷者:不詳   

  戦闘ノ次第概畧:午前三時肥薩境御☐市峠ヲ発シ尾ノ山上ヨリ石川津越山野村ニ向

  フ同七時開戦前面賊砲臺四ヶ所午後十二時半同所ヲ落シ入レ追撃シテ山野村ニ至リ

  防禦線ヲ守ル    我軍ニ穫ル者:弾薬エンヒール二箱(千発)ノ他若干 備考我

  軍:略)  敵軍:弾薬二箱ハ本部江送ル其他若干ハ破棄セリ

 石井川内の南1,5km尾之上村がある。堀部隊報告に登場する尾ノ上山とは別で、ここに見られる尾ノ山上のことだろう。なお、弘中はこの報告表の中で尾ノ上山としたり尾ノ山上と間違えたりしている。石川津越とは石井川内を通る路線か。 

 C09084793800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0218・0219

  第三旅團工兵第二大隊第一小隊第一分隊 陸軍少尉横地重直㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:山野村 我軍総員:二拾壱名  

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時布毛村ヲ発シ山野村道ナル牛ノ御川ニ橋ヲ架スルヿ七

  ヶ所終テ午後第一時塹溝造築ノ為メ本道并ニ左翼ニ進メハ賊兵既ニ守ヲ捨テ走ル依

  テ進テ木地山ニ至リ塹溝数ヶ所ヘ築キ第十一時山野村百姓甼ニ引揚テ對陣ス

 布計村の谷間の下流約3kmに木地山村はある。牛ノ御川は高熊山の西側にある牛尾川のこととすれば、平地の牛尾川で架橋し、その後、背後のおそらく木地山村の東側にある木地山に塹溝を築いたのだろう。

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C09084793900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0220・00221

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊 中隊長陸軍大尉竹田實行

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:ナスウ山 我軍総員:百三十七名 傷者 五名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時フケ山ノ大哨兵ヲ引揚山野街道ニ向テ進軍ナスウ山ニ

  登リ賊ノ右翼ニ出テ直ニ兵配布シ午前四時三十分開戦午后第一時賊塁壁ヲ捨テ走ル

  之ヲ尾撃シテ山野村山上ニ至ル

  我軍ニ穫ル者:弾薬 エンヒール弾三箱 備考我軍:(傷者記述略)

  ナスウ山は場所不明。 

C09084794000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0222・0223

  第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊 陸軍大尉沖田元廉

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:ナスウ山 我軍総員:九拾五名 

  傷者 下士卒二名 

  戦闘ノ次第概畧:午前二時布毛村ヲ發シ山野ニ通スル道路ヲ経テ賊塁ノ直下ニ至リ

  是ヨリ左方ニ折レ深山ヲ越ヘ賊塁ニ相對スル高山即チヒロバ山ヲ指シテ進入殆ント

  山頂ニ達スルヤ賊ノ展望兵アリ一撃之ヲ奔(ハシラ)シ遂ニ此山ノ全部ヲ占領谷ヲ隔

  テヽ戦ヿ数時時已ニ午時ヲ過キ賊勢ノ衰フルニ乗シ全部ヲ挙テアイモト山ニ突入直

  ニ賊塁数ヶ處ヲ奪ヒ終ニ全隊ヲ陷ル午后二時三十分ナリ之ヲ尾撃シ山下ニ趣キ戦ヒ

  止ム即チ山野ハ右方眼下又谷ハ前方眼下ニ在リ是ニ於テ兵ヲ停メ此夜アイモト山頂

  ニ散布シテ露営ス

  備考我軍:ヒロバ山ニヲイテ負傷軍曹池田壽定〇同処負傷一等卒森本政吉

 布計村の南東2,8kmに上面の広い標高998mの山があるが、これをヒロバ山と呼んだのだろうか。経路としては矛盾がない位置にあり、付近で一番高い山である。 

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C09084794100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0224・0225

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長齋藤徳明㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:ヒラコ山 我軍総員:百四拾一名 

  傷者 下士卒三名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第十二時遠ノ原出発同七時石村稲前方ニテ賊ノ堡塁ヲ見ル直

     ニ開戦同第十一時賊ノ堡塁ヲ乗取リヒラコ山ニ防禦線ヲ定メ守備ス   

       備考我軍:傷者   壱等卒 平山源次郎  

        右ハ久木野小繃帯所ニ送致ス然ルニ水俣ヘ送ル途ニシテ死去ス 

       軽傷   一等卒 原增☐藏

               右ハ久木野小繃帯所ニ送リ保養ス

  同   二等卒 金舗藤四郎

   右軽小ナルヲ以テ小繃帯所ニ送致セス

  備考敵軍:午前第七時賊ノ堡塁ヲ見ル直ニ一小隊ヲ以テ正面該谷ヨリ虚撃セント欲

  スルモ敵兵大ニ我カ正面ニ放火ス此ノ巨离近キハ凡ソ六百米突ナリ又一半隊ヲ以テ

  竹田大尉中隊ノ右翼布毛ヶ鞍ニ向ケ発遣シ彼ノ中隊ト共ニ攻撃ス是ノノキ當ル☐ニ賊

  左右中央ヨリ猛烈ニ射擊ス故ニ甚タ苦戦スルヿ一時間余時ニ賊堡塁ヲ捨テ走ラント

  欲スルノ兆アリ依テ我兵大ニ放火ス賊遂ニ走ル我兵進ンテ堡塁ヲ乗取リ進擊シテ山

  野村ニ至リ兵ヲ部署シジツソウ山ニ到リ防禦線ヲ定メ守備ス

          

C09084794200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0226・0227

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:花山近ク進撃 我軍総員:九十三名 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前十二時ニ十分大界山頂出発同五時花山ヘ着直ニ開戦奮擊

       苦戦シテ菖蒲本ノ賊塁数ヶ處略取シ追テ遂ニ山野村ニ達ス于時同日午后三時三十分

  ナリ

 

C09084794300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0228・0229

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:山野村 我軍総員:三十八人 

  戦闘ノ次第概畧:抑正面攻撃隊ノ援隊タリ賊逃走スルニ及テ尾擊シテ山野村ニ至リ

  命ニ依リ大哨兵ヲ布ケリ

C09084794400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0230・0231 

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 煥之㊞

  戦闘月日:十年六月十三日 戦闘地名:鹿児嶋縣下稲摩利山 我軍総員:百二拾五

  人 傷者:下士卒 二名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時横楯山ヲ発シ中央ノ稲摩利山ヨリ攻撃スルニ地形困難

  ニ乄進ム能ハズ依テ左右ノ戦况ヲ窺フニ凡ソ第二時頃右方ノ賊敗ルルニ達ルヤ兵ヲ

  右方ノ山頂攀躋シテ尚敗賊ヲ尾擊シ遂ニ大口ヲ去ル一里許リ迠ニ進ムニ至ル然ルニ

  引揚ルノ命アルヲ以テ防禦ノ線ニ帰リ大哨兵ヲ設ク

C09084794500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0232・0233 

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍中尉横地 剛㊞

  戦闘月日:十年六月十三日 戦闘地名:小河内ヨリ山野村 我軍総員:將校以下百

  二十三名 

  戦闘ノ次第概畧:本日未明ヨリ當隊小河内本道ヨ里攻擊午后第二時頃ニ至リ賊堡塁

  ヲ棄テ大ニ敗走ス當隊尾擊終ニ黒岩峠ニ歩哨線ヲ定ム 

  備考我軍:本日死傷無シ

 

C09084794600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0234・0235 

  第三旅團砲兵第四大隊第壹小隊分隊長 陸軍少尉居藤髙次郎㊞

  戦闘月日:十年六月十三日 戦闘地名:鹿児嶋縣下於毛望山 我軍総員:六十五人

  内不出場十人 

  戦闘ノ次第概畧:左翼援隊トシテ午后第一時毛望山ヲ発シ同九時三十分石河内山ニ

  至リ直ニ歩哨ヲ配布大哨兵線ヲ守備シ遂ニ進テ山野髙山ニ達シ歩哨ヲ布キ大哨兵線

  守備ス

  備考我軍:当小隊之内中央左ノ二分隊ヲ徒歩隊ニ編製シ本城大尉之中隊ニ合併ス

 砲兵だが徒歩隊を編成した。

C09084794700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0236・0237 

  第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉久徳宗義㊞

  戦闘月日:十年六月十三日 戦闘地名:肥薩国境ナル山頂ニ於テ 我軍総員:四拾

  九名 傷者:下士卒一 

  戦闘ノ次第概畧:午前第一次古郷村舎営ヲ発シ仝五時着直ニ山砲二門ヲ砲臺ニ進メ

  仝八時ヨリ左方ノ山頂ニ設ケシ賊塁ヲ攻撃ス午后一時賊退去スルヲ以テ放射ヲ止ム

 戦闘報告表を列挙してきたが順番に部隊名・隊長名を並べると次のようになる。

1:0228・0229歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 第三旅團 陸軍大尉 安満伸愛

2:0188・0189第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊  陸軍大尉 武田信賢

3:0190・0191第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉 井上親忠※0198にも井上報告がある。   

4:0192・0193第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉 下村定辞

5:0194・0195第三旅團鎭臺歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊附属同聯隊第二大隊

       第四中隊一小隊中隊長大尉 南小四郎

6:0196・0197第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊長       大尉 南小四郎

※上記と微妙に相違。

7:0198・0199第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第三中隊長 陸軍大尉 井上親忠

8:0200・0201第三旅團第十一聯隊第一大隊第三中隊長  陸軍大尉 武田信賢

9:0202・0203第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉 下村定辞

10:0204・0205第三旅團大阪鎭臺豫備砲兵第二大隊第一小隊長  陸軍大尉 村井忠和

11:0206・0207第三旅團東京鎭台工兵第一大隊附            陸軍少尉 林 庸雄

12:0208・0209第三旅團歩兵第拾貳聯隊第貳大隊第貳中隊長          沓屋貞諒

13:0210・0211第三旅團第九聯隊第三大隊第三中隊           陸軍大尉 本城幾馬

14:0212・0213第三旅團工兵第二大隊第壱小隊第壱分隊 陸軍少尉 石川義仙

15:0214・0215第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉 堀部久勝

16:0216・0217第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊中隊長陸軍大尉 弘中忠見

17:0218・0219第三旅團工兵第二大隊第一小隊第一分隊 陸軍少尉 横地重直

18:0220・00221第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊中隊長  陸軍大尉 竹田實行

19:0222・0223第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊    陸軍大尉 沖田元廉

20:0224・0225第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長     齋藤徳明

21:0226・0227第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉 矢上義芳

22:0228・0229第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉 矢上義芳

※重複するが内容は微妙に相違。

23:0230・0231第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得中尉 岡 煥之

24:0232・0233第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊陸軍中尉 横地 剛

25:0234・0235第三旅團砲兵第四大隊第壹小隊分隊長  陸軍少尉 居藤髙次郎

26:0236・7第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉 久徳宗義

 井上・下村・武田・矢上の4報告が重複しているので、合計は22報告で、内訳は歩兵14個中隊・工兵3分隊・砲兵3分隊、計2,131人である(表が二通りある場合は前後の員数から妥当な方を採用)。

 これらを「戰記稿」の第三旅団部署表通りに並べると次のようになる(別働第三旅団分もあるが略す)。

進路方向            司令官     各  隊  長

正面本道ヨリ            古田少佐  攻撃兵:大西・岡・南、援隊:安満

花山ヨリ              内藤少佐  攻撃兵:矢上・井上・武田、援隊:下村 

中央ナスウ山ヨリ          友田少佐  攻撃兵:弘中・堀部・本城、援隊:沓屋

左翼ナスウ山布毛ヨリ山野村通リヲ  川村少佐  攻撃兵:竹田・沖田

 この他、「餘ノ兵ハ皆舊線ヲ守備シ命ヲ待タシメ本陣出張所ヲ肥薩國境ノ山上ニ移ス」とあり、攻撃隊・援隊に属さない部隊は旧守備線で守備することになっている。ただし、守備部隊の具体的名称は記載がない。

 上記戦闘報告表の内、部署表にないのは村井忠和(大阪鎭臺豫備砲兵第二大隊第一小隊長)、林 庸雄(東京鎭台工兵第一大隊附)、石川義仙(工兵第二大隊第壱小隊第壱分隊)、横地重直(工兵第二大隊第一小隊第一分隊)、齋藤徳明(歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長)、横地 剛(近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊)、居藤髙次郎(砲兵第四大隊第壹小隊分隊長)、久徳宗義(東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長)の8個の部隊で、砲兵・工兵が抜け落ちていることになる。また、部署表にある大西大尉は戦闘報告表がない。この点、「戰記稿」は不完全な記述であると思うが彼らも戦闘に加わっており、その行動は「戰記稿」の記載からは漏れている。

 第三旅団附少尉だった亀岡泰辰著「西南戰袍誌」にもこの6月13日の記述があるが、部隊数に関しては「戦記稿」と同じである。「午前三時三十分より本道大口竝花山、十曾山の賊を歩兵十二個中隊砲兵二分隊工兵三分隊を以て攻擊す賊必死防禦に努むるも力屈して退走す、之を尾擊して山野麓に侵入し之れを取り其前方に守線を備ふ」とあり、内訳は少し異なるが歩・砲・工の区別はしている。戦争は毎日進行し、新たな戦記が積み上げられてゆく。微細な(おそらく)間違いはそのままになってしまう。

 

大境とはどこか?

 以上の戦記の中で大境あるいは大界という地名が何度も登場するが、場所がよく分からないので検討したい。

  五月十日大口麓ニ陣ス、官兵山野ニ在ルヲ聞キ、翌未明之ニ赴ク、本道ノ正面ヨリ

  二中隊ヲ以テシ、外五中隊ハ三間道ヨリ進ム、我隊外ニ三中隊ハ大口ノ内遠国見ケ

  岳ノ後ヲ廻リ官兵ノ背ヲ突ク、官兵動揺、敗走シテ小河内ヲ過キ同所坂ノ上大境ニ

  防禦ス、此時辺見策ノ能ク行ハレシヲ悦、又大砲ヲ坂ノ中央ニ揚ケ頻リニ連発、小

  銃モ斉シク発炮、我隊ハ左翼ノ山ニリ之カ横ヲ突ク、日既ニ暮ントスルトキ官兵

  復退テ水俣ノ上ニ至ル、我軍之ヲ尾撃ス(「山口通淸他三名連署上申書」pp.284~289『鹿児島県史料 西南戦争第四巻』)」

 西方の水俣から県境を越えて山野村に進んでいた別働第三旅団に対し、薩軍は5月10日反撃して熊本県方向に追い返した。途中、小川内を過ぎた坂の上にある大境に退いて防禦する官軍を手前の坂の中央に大砲を置いて連発した。上申書の山口らは左翼の山から大境の官軍を攻撃し、官軍は水俣に退却した。大境は小川内と水俣を結ぶ路線上にあると分かる。

 次に掲げるのは別働第三旅団の兵士の従軍日記である。水俣から大口の山野村に進軍する際の記述である。

  それより石坂峠を登る嶺に達する頃、大降雨にして困難せり。この高山を即ち国見

  山といい、俗に大界と称す。山頂すなわち薩肥国境標杭あり。それより降りてコカ

  ハチに着す。この村人家三十戸ばかり、ことごとく薩の郷士族にして賊軍に出兵せ

  りと。家族共は我が兵至るに先立ち、皆ことごとく山間に逃れて一人も居らず

  (喜多平四郎著「征西従軍日誌一巡査の西南戦争」pp.155)

 水俣側の石坂にある峠を登り尾根の頂上に着いたところを国見山としており、大界ともいうとある。大界は薩摩と肥後の国境であり、県境に位置する。そこから鹿児島側に下ると小川内に着く場所である。なお、小川内には江戸時代に鹿児島藩の三大関所の一つ小川内関所があった。ネットを検索すると関所の石碑や看板はやたら引っかかるが、そこから水俣に至る路線を説明したものは見られない。旧道を歩いた人達の写真の投稿もあるが、地図上で示してないので路線を理解できない。 

 次は上記の官軍を追撃した熊本隊の記録である。

  小河内山上ノ敵ヲ尾擊ス我兵且ツ戰ヒ且ツ進ム敵軍随テ敗レ随テ走ル薄暮大境(即

    チ薩肥經界ノ所鬼神峠ト穪ス)ヲ越ヘ水俣地方ニ向テ走ル我軍敢テ窮追セス此夜山上ニ露

  宿ス星月娟々(※けんけん)冷氣人ニ逼ル(佐々友房「戰袍日記全」pp.343)

 次に掲げる明治23年の地図によると、小川内と越木場を結ぶ路線と、小川内と石坂を結ぶ路線とが認められる。石坂を結ぶ路線は小川内から県境を越えると(この地点を佐々は鬼神峠と記す)熊本側を県境に沿うように進み、石坂に蛇行しながら到着している。

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 これを現在の地図と比べると県境に沿うように進む道は存在しない。大境あるいは鬼神峠はどこか。三角点の所在地地名として鬼神が五女木牧場のすぐ北側の県境にある。上図に示すように標高564mで、やや高まった場所である。ここが大界あるいは大境であり、鬼神峠あるいは国見山とも呼ばれた場所であろう。◦で示したのが明治22年の地図にある路線を現在の地図に落としたものである。推定した大境には今は道路の表記は見られないので、獣道のような状態で森の中に残っているのだろう。

 明治22年の地図には小川内から越木場を経て久木野に通じる路線も描かれている。大関山周辺にいた第三旅団の一部はこの道を通って小川内に進軍した部隊があったと思うが、こちらの推定は地図以外の情報が乏しく、路線推定が難しいので止めた。

 なお、後藤正義著「西南戦争 警視隊戦記」の挿図には大境や小川内から石坂・久木野に通じる路線が示されている。真似したわけではないが、大境の位置は一致し、石坂路線は前述の推定とよく似ている。

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    6月13日、県境付近の戦いに敗れた薩軍側の内、熊本隊が山野村の東方にある高熊山に守りを付けた。この時、谷を隔てた東側の坊主石山は薩軍の伊集院権右衛門が守り、左翼は「平泉、淵邊トガメ岡近傍ニ至テ止ミ守線數里ノ間ニ連絡ス」(佐々友房「戰袍日記全」pp.159)る状態となる。井上報告にあるように平出水村はこの日第三旅団が占領し、南側の尾根である猩々山も別働第三旅団が占領している。平泉つまり平出水は官軍が占領したので佐々にはこの情報が届かなかったのだろう。

 別働第三旅団の戦記も見ておきたい。

  C09083011800「十年九月 来翰録 日知屋村出張本営」防衛研究所

  六月十三日第三旅團ト謀リ山野ヲ撃ツ第三旅團ハ左翼ヨリ我團ハ右翼タリ我兵午前

  第七時ヨリ戦ヒ悉ク旭嶽近旁ノ賊壘ヲ取ル八時頃谷ヲ渡リ小河内前面ノ岡ニ登リ賊

  背ヲ衝ヒテ之ヲ走ラシ営ニ火スル者十餘遂ニ山野ニ入ル既ニ乄第三旅團ノ兵至リ共

  ニ賊ヲ大口街道ニ追撃ス是日我團兵賊壘ヲ拔クモノ凡ソ百餘

 旭岳、朝日岳ともいう山を奪って東に進み、小川内村の南側の尾根を攻撃し、山野村に進んだ。この13日に別働第三旅団は薩軍の台場約百基を奪ったというから、朝日岳周辺から小川内周辺にはまだ多数の台場跡が残っているのかも知れない。

 人吉市街を6月1日に占領した別働第二旅団は15日、敵が大口北西部の木之氏村辺を固く守っているのを知り、そこから人吉に通じる県境熊本側の田野を抑えておくべきだと考え、熊本・鹿児島県境地帯の部署を新規に設けた。それらは観音坂と青木越に守備歩兵1個中隊と3小隊、田野村に進軍のための歩兵6個中隊と砲兵2小隊である。

 以下は上記に関する別働第二旅団高嶋少佐の報知文である。読めなかった部分があるので原文も掲げる。

C09085484400雑書 ト第4号 第5方面 明治10年5月18日~10年7月31日(防衛省防衛研究所)0161~

  大口ハ多分第三旅團ニテ陥レ候見込ニ付其含ニテ御發途有之候處唯今井野大尉ヨリ

  報知来リ其事実概ネ御承知ナルヘシ(途中ニテ探偵者ニ御逢ノ事ナレハ)賊木ノ内近

  傍ヲ頑守致居ル趣就テハ田野越ノ防禦方昨日残シ置候一中隊半ニテハ甚タ手薄ニ付

  不取敢增兵候様三好少佐ニ為打合田野江發途為致候猶賊状ニ依リ下官も彼ノ地ヘ出

  張可致而シテ大口未タ落チサルニ於テハ青木越等も防守ヲ厳重ニセサル可ラス候ニ

  付左翼ヘ十分延線ハ六ケ敷到底左翼ヘ延線候ニハ第三旅團ヲシテ速ニ大口ヲ取ラシ

  ムルヲ上策ト存候然ル處田野越ト本陣ノ間ハ御承知之通土地遠隔加フルニ山路甚タ

  険悪ニ付彼是往復ニ時間ヲ費シ候てハ時機ヲ失スル必然ニ付前面木ノ内之傍ノ賊ヲ

  掃攘候上機ニ依リ大口ヲモ突撃可致所存ニ候間彼ノ地方攻守之義ハ一時下官ニ御委

  任相成候様團長ヘ開申許可ヲ得候様可☐成候此段至急申入候也

   六月十五日午前七時

        大河間

           高嶋少佐

      大畑

       安藤少尉試補殿

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 翌16日、別働第二旅団の一部が田野村から県境を越えて南下し、黒萩山に進むと、前面1kmほどの高熊山・坊主石山やそれらの左右に薩軍の陣地が連なっているのを目撃した。13日の官軍の攻勢で水俣方面の県境地帯を追われた薩軍と熊本隊がこの線で新たな守備線を構えていたのである。

 官軍の記録に対応する薩軍側の記録も見ておきたい。水俣や大口で戦った薩軍の正義隊四番中隊の記録で、彼らが人吉盆地に入り、その後水俣・大口で戦った過程が理解できるものである。文中に(※)で日付などを加えた。

 野村源右衛門上申書第四巻pp.390~393旧二番大隊六番小隊正義四番中隊左小隊半隊長 

  江代ニ着ス、此ニ十余日滞陣、其間各隊ノ編製ニ依リ我隊ハ正義四番中隊左小隊ト

  ナリ、林一郎中隊長タリ、又同所ヲ発シ人吉ニ至リ、辺見十郎太ノ指揮ニ依リ其翌

  日人吉ヲ発行シテ田野ニ着ス、然ルニ官軍大口ヘ侵入ノ報ニ依リ各隊ノ軍配一決、

  我隊ハ大口方面ヘ進軍トナリ、其翌日発足シテ大口ノ内木ノ内ヘ着ス、即日守禦ヲ

  構フ、午后三時青山ノ本営ヨリ急報来リ、明暁総進撃ノ令ヲ達セリ、其夜高隈岡ノ

  上ヘ番兵ヲ出シ、翌日(※5 月9日)午前六時各軍進ンテ官軍ニ相当ル、我隊ハ牛尾

  村ヲ経テ右翼ノ山上ニ攻撃激戦ス、数刻ニシテ本道ノ味方憤激突戦、遂ニ官軍ヲ破

  ル、我隊モ亦山上ノ敵ヲ破ツテ追撃、山野ノ内石小路ニ至ル、其時我隊ノ戦死壱

  名・手負二三名ナリ、即日ノ分捕雑品数十駄ニ及フ、夜ニ入ツテ当所ニ宿陣ス、翌

  日(※5月10日)午前七時又進撃、大ニ官軍ヲ破リ尾撃数里、遂ニ水俣内深川ニ至

  ル、此ニテ官軍止戦ス、味方モ又本道且左右翼ニ守場ヲ構ヘ激戦数ケ所ナリ、我隊

  ハ左翼ノ丘上ニ登ツテ応援ヲナス、午后四時頃我四番中隊行進十一番中隊ト谷川ヲ

  渡リ敵ノ横面ニ出テ、屡官軍ヲ悩マス、依之官軍防キ兼大半引退ケリ、然ルニ我後

  面ニ当リ忽チ砲声烈シク聞ヘテ我隊ニ迫ル、依之俄ニ守場ヲ構ヘテ憤戦スルニ官軍

  尚迫ル、其間纔ニ数歩ニ過ス、時ニ我隊ノ死傷七八名ナリ、時既ニ暮ニ及ンテ共ニ

  戦ヲ止ム、我隊ハ又谷川ヲ渡リ本ノ守場ニ帰ル、此ニ滞陣三四日ニシテ右翼ニ出塁

  ヲ築キ一日防禦ス、其翌日(※5月17日)官軍久木野ニ進軍スルニ依リ又該地ニ赴ク、

  其翌日(※5月18日)総進撃、我隊ハ本道ノ左翼山上ニ出ツ、其時官軍上木場ニアリ、

  数塁ヲ築キ我軍ヲ防ク、依之右翼ノ味方山上ヨリ進ンテ憤闘頻ニ逼ル、午后一時頃

  官軍防キ兼、遂ニ塁ヲ撤テ逃走ス、味方等シク起ツテ尾撃数町ナリ、我隊ハ本道ヲ

  進ミ塁ヲ奪フテ禦戦ス、其時官軍ノ死骸十余名アリ、味方モ又死傷数名ナリ、此ニ

  防戦四五日、或日(※6月3日)未明右翼ノ山嶺(※大関山の長左衛門釜?)ヘ官軍潜ニ来

  襲、味方ノ不意ヲ打テ大ニ激戦スト雖味方要害ニ依リ防戦スルヲ以テ官軍利アラ

  ス、遂ニ退ケリ、二三日ヲ経テ官軍大挙、又山嶺ヲ伝フテ攻撃甚急ナリ、味方暫ク

  防戦スト雖衆寡敵シ難ク終ニ敗軍トナリ、数町引退ケリ、此ニオヒテ我隊モ本道ヲ

  守ル事能ハス、三町余兵ヲ引テ又防戦ヲ為ス、其時本営辺見十郎太乱軍ヲ集メ自ラ

  進ム、其驍勇ニ励マサレ各隊返戦憤闘、大ニ官軍ヲ破リ始ノ諸塁ヲ乗取ル、官軍ノ

  死骸三十四五名アリ、我隊ノ負傷六七名ナリ、又四五日防戦ス、或夜半官軍ノ各隊

  卒爾ニ虚発ヲ放ツテ我軍ヲ驚カス、其後二三日ヲ経(※6月13日)官軍ヨリ進擊数

  刻、或ハ退キ或ハ進ミ午后四時頃ニ至リ遂ニ味方敗走、官軍尾撃数町ニ及フ、我隊

  ハ久木野ニ出テ又祝小路ニ至リ宿陣ス、翌日塁ヲ築キ守禦二日、然ルニ水俣本道石

  坂ノ戦ヒ味方敗軍ノ報ニヨリ、我隊半隊ヲ分ツテ忽チニ該地ニ出張スト雖戦止ムニ

  ヨリ宿陣ス、翌日仁礼新左衛門ノ指揮ニヨリ塁ヲ築キ守防ヲ構フノ処、官軍亥ノ嶽

  ヨリ大挙襲来各隊ノ塁ヲ突ク、我隊ハ大境ヲ守ツテ接戦憤闘数刻ニ及フ、時ニ官軍

  我隊ノ横面ニ突出シテ烈シク攻撃ス、且左翼ニ有ル味方敗シテ官軍我後面ニ出ルニ

  依リ守ヲ撤テ退キ、且戦ヒ漸ク味方ニ達スルヲ得、時ニ味方本道ニ止戦大ニ振フ、

  又祝小路ニアル味方来ツテ横撃シ屡官軍ヲ追撃ス、暫ニシテ又官軍辺戦、抜刀接戦

  各隊ニ迫ルニ依リ遂ニ味方ノ敗軍トナリ山野迄引揚タリ、時ニ我隊ノ負傷十余名ナ

  リ、翌日石小路(※石井川内)ニ守禦ヲ構フ、滞陣一週間位ニシテ官軍進撃我塁ニ迫

  ル、午前六時ヨリ午后四時頃ニ至ル迄接戦甚烈シ、其時辺見来ツテ自ラ指揮シ大ニ

  衆ヲ励マス、我小隊長前田弥一郎手ヲ負、其余死傷十余名ナリ、時ニ本道ノ味方撃

  破セラレ敗走スルニ依リ我隊モ又退ヒテ大口ノ内木ノ内ニ至リ、又本道ニ出テ

  ス、其時官軍川ヲ隔テ我隊ヲ横撃ス、依之我隊川ヲ渡リ進撃、直ニ抜刀接戦大ニ官

  軍ヲ破リ追撃五六町、生捕壱名、五六名ヲ斃シ銃器・弾薬許多ヲ分捕ス、其他生捕

  十名余・分捕許多各隊ニ得タリ、我隊ハ辺見ノ指揮ニ依リ郡山村ニ守塁ヲ構フ、于

  時旧暦五月三四日ナリ、其時官軍大砲ヲ発シ三方ヨリ我軍ヲ打事終日ナリ、同十日

  (※6月20日未明官軍両(※雨)ヲ犯シ、ノ右翼髙隈山ニ在ル熊本隊ノ守場ヲ攻撃

  シ烈戦数刻、官軍尚迫リ、遂熊本隊ヲ破ツテ追撃ス、我隊モ又兵ヲ引大口ニ至

  ル、味方ノ諸軍散乱、備不全、此ニ於テ辺見十郎太雷激敗兵ヲ励マシ衆ニ先ツテ

  進ム、我隊ハ隊ヲ分ツテ本道ヨリ進ミ直チニ抜刀官軍ニ迫ル、忽三名ヲ斃シ尚進

  ム事町余、雖然右翼ノ味方進マサルヲ以テ暫止戦ス、其時両足ニ銃創ヲ負、則清

  水病院ニ入院シ、其間十余日ニシテ官軍我国分ニ進入ニヨリ暫ク難ヲケテ山中ヘ

  潜居シ、其后旧六月廿四五日頃遂ニ降伏仕候也

 亥ノ嶽とは地図では鬼岳とある標高734mの山らしい。ここから北北西2,2kmにある巧み通(工の通という三角点がある)という戦跡もよく出てくる地図にない戦跡である。正義四番中隊左小隊は水俣の深川まで攻め入っているが、右小隊は後に掲げるようにその北東側の大関山で守備していた。高熊山の戦いの前にいた郡山村は高熊山の南西麓の村である。

 ついでに、水俣の戦跡で国土地理院地図に記載がない所を前掲の「西南戦争警視隊戦記」から転載しておきたい。他で触れる予定がないので。

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 水俣における辺見十郎太の逸話を2017年に「水俣西南戦争史研究会」が発行した「水俣の戦い 戦跡ガイドマップ」(同会の松本博幸さんから頂いた)から紹介したい。

  ある日、深川本通りから少し奥まった農家の前で、着替えを取りに来た老婆に出く

  わした辺見は、すかさず「風呂はわいとっけ?」と聞きました。短気な辺見を怒ら

  せない方法を心得ていた老婆は「は、はい、よう沸いとります。はいんならんか」

  と答えました。すると、いつもなら「よかよか、あとで来るで」と機嫌よく立ち去

  る辺見が、その日に限って「ならば案内せい」と老婆のあとからついてくるではあ

  りませんか。老婆は凍る思いで庭まで来ると「あそこの柿のにきです」と指差し、

  納屋の陰から震えて見ておりました。すると、刀と衣類を柿の枝にひっかけ、素っ

  裸になった辺見は水風呂とは知らずにざんぶと飛び込み「うーん、よか風呂じゃ。

  よう沸いとる」と独り言をいいながら目を閉じ、しばらくすると衣服をつけ、隠れ

  ている老婆に向かって「ほんにええ気持ちじゃった。あいがとう」と礼を残し井良

  迫の本営に急いだといいます。

   それから深川周辺では「辺見どんは、ほんなこて偉か人」とますます敬愛された

  そうです。

 5月の水風呂に入れられて、なかなか言えない言葉ではある。

 正義四番中隊長だった林一郎の上申書を掲げる。 

林一郎・服部喜壽連署上申書pp.871~876「鹿児島県史料西南戦争第二巻」正義四番小隊左小隊長

  (山野の官軍を追って県境を越え、正義四番中隊の)自分左小隊ハ本道ニ防戦ス、右小隊ハ山

  神ト云聳ヘタル山径一筋アル頂キニ台場ヲ築キ此ニ守兵ス、同廿九日頃未明ヨリ官

  兵突然声ヲ発シテ来襲フ、互ニ銃ヲ放ツテ戦フト雖トモ遂ニ味方敗走、山ノ中腹ニ

  退ク此ニ自分隊半隊長服部喜之丞外ニ壱名戦死、然ル処午后五時頃味方ノ総軍旧地

  ヲ復セント烈シク戦フ、官兵辟易シテ敗走ス、直ニ味方ノ総軍進テ旧地ニ到リ防戦

  数日此ニ服部喜寿半隊長トナリ、時ニ六月十三日頃ナラン、官軍大ニ寄セ来リ勢ヒ

  烈ク遂ニ味方敗北此ニ自分隊死傷五名、各隊岩井河内ニ曳揚ケ此ニ守兵ス、同十八

  日頃猪ノ嶽方面ノ味方敗軍ニテ応援ノ報知アリ、半隊ヲ率テ大境ニ到レハ既ニ官軍

  曳退テ味方ノ軍モ亦兵ヲ纏メ台場ヲ築クノ央ナリ、自分隊ハ半隊長ニ譲リ岩井河

  ノ本隊ニ帰ル、翌日午前六時頃官軍福タ大境ニ襲来、味方不利ニシテ五町位退キタ

  ル報知アリ、然ルニ当地ノ各隊曳揚ケ、大境味方ノ戦地ニ到リ攻撃スルコト甚急ナ

  リ、官軍敗走ス、追撃スルコト僅ニ七八町、時ニ官兵要地ニ拠リ固守ス互ニ砲戦

  稍々三時間遂ニ又味方敗走シテ山野郷ニ退ク、分隊ハ右翼ノ山手ニ守兵ス、同廿

  六日頃未明ヨリ自分隊ノ正面ニ官軍来襲フ、互ニ銃ヲ発シ烈戦ノ処此ニ自分隊負傷

  二名、未タ勝敗決セサルニ左翼ノ味方敗軍ノ報知アリ、各隊曳揚ケ時分隊ハ本道ニ

  出ル、然ルニ官兵左翼ノ方川向ニ寄セ来リ、時ニ味方斉シク川ヲ渉リ抜刀声ヲ発シ

  テ駈込ミ、官兵二名ヲ斃シ追撃スルコト十四五町、銃五挺・弾薬二千五百発余分捕

  アリ、時ニ其場ハ外隊ヘ譲リ置キ大口郷ノ内西水流村ヘ到リ此ニ守兵ス、是時七月

  一日ナラン、未明ヨリ官軍大ニ寄セ来リ互ニ砲戦烈ク此ニ分隊傷四名、然ルニ

  右翼ノ味方敗走ノ報知アリ、総軍退テ湯之尾郷ニ到リ、自分隊ハ段山ヘ位地ヲ定メ

  台場ヲ築テ此ニ守兵ス、

 冒頭の山神は大関山である。猪ノ嶽は亥ノ岳、つまり鬼岳か。右小隊が大関山を守ったとある。6月13日に官軍が大関山を攻撃した際に守っていた薩軍側の一部隊の記録である。敗走して次に守りを付けた岩井河内とは山野村の北側にある石井川内だろうか。岩井河内という地名が他でもよく出てくる。

 

 「戰記稿」には6月14日・15日の第三旅団の記事がない。15日は人吉盆地東南部の湯前町と宮崎県西米良村への県境横谷峠付近で大砲も使用した戦いが薩軍と別働第二旅団との間であっただけだが、この音が60km離れた水俣に行く途中でも聞こえたのだろう、三浦少将が水俣から次の電報を出している。

C09084904300「第二号 自五月至六月來翰綴 第三旅團参謀部」0582

  發局水俣局 六月十五日第一時・着局仁王木局 出:水俣三浦少将 

  届:小河内イビタイサ(※揖斐大佐)

  ジウイチジハン。ミナマタヱチヤクセリ。コンヤハトウチニシシクセリ。トチウ

  ニオイテ。シキリニ。ホウセイヲキク。イジヤウハナキヤシキウホウチアルベシ。

  モヨウニヨレバヒキカエスベシコトウヲマツ

 漢字仮名混じりにすると。(十一時半。水俣ヘ着せり。今夜は当地に止宿せり。途中に於いて頻りに砲声を聞く。異常はなきや、至急報知あるべし。模様によれば引き返すべし。御答を待つ。)

 電報の着局は水俣市市渡瀬仁王木で、久木野川流域にあり久木野の3,2km下流である。仁王木から大口西部の小川内までは人力での伝達しかない。

 15日夜、薩軍は大口本営で山野村攻撃を決めた。

  十五日無事、此夜大口本營ニ會議シ薩肥各々三四中隊ヲ以テ野襲擊ノ事ヲ決ス

  十六日前四時各隊大口ヲ發シ坊主石山、髙熊兩山ノ間ヨリ深山ヲ迂回シ繞テ山野敵

  營ノ脊ニ出テント欲ス行ク里許、相待ツ約ノ如シ獨リ伊集院来リ他ノ薩隊期ヲ誤テ

  至ラズ天明クルニ會テ果サズ乃チ轉シテ正面ヨリ三四髙阜ヲ越ヘ深谷ヲ隔テ射擊ス

  互ニ勝敗ナシ既ニシテ敵兵繞テ坊主石山上ニ出ルノ狀アリ乃チ兵ヲ引テ髙熊守線ニ

  還ル。   (「佐々友房戰袍日記全」)

 16日時点では薩軍の配置は左翼を鳥神岡、中央は高熊山 、右翼を坊主石山の状態であった。官軍はこの日は攻撃計画はなく、各地で守備についていたが、午前8時、第三旅団右翼の小木原村に敵軍が襲来し、午後4時頃に敗走した。この日の戦闘報告表があるので掲げる。

C09084794800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0238・0239 

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木直

  戦闘月日:十年六月十六日 戦闘地名:山野村右翼山上 我軍総員:八十七人 

  戦闘ノ次第概畧:午前第九時頃ヨリ賊復我軍防禦線ノ右翼ニ襲来ス是ニ依テ我隊賊

  ノ側面ニ向ヒ是ヲ狙撃ス賊終ニ進ム能ハスシテ午后第四時頃退却 

 佐々木隊は前回、13日の戦闘には加わらなかったらしく、部署表にも登場せず戦闘報告表もないので、大関山か久木野付近の背後を守っていたのだろう。この日は山野村右翼山上というから、大口盆地中央部の羽月川の右岸山地に展開していたのだろう。

C09084798300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0308・0309

  第三旅團大阪鎮臺豫備砲兵第二大隊第一小隊 陸軍少尉杉田豐實㊞

  戦闘月日:六月十六日 戦闘地名:鹿児嶋縣下薩摩國伊佐郡セメンノ丘 

  戦闘ノ次第概畧:山砲一門午前第七時小河内村ヲ発シ内藤少佐ノ営舎ニ至リ砲車ノ

  地利ヲ定ム將ニ登山ノ際雨頻ニ降リ因テ平出水村ニ當リ午後第五時軍議ニ依テ法清

  寺山ニ登リ露営ス午后第八時徒歩砲兵護衛ト乄兼備共ニ露営ス十六日午前第六時ヨ

  リトカメ丘ニ向ツテ発射ヲ始ム賊應セス同第八時頃濃霧遽ニ懸リ展望スル能ハス因

  テ發射ヲ止メ休息ス然ル処賊急ニ右傍ヨリ襲ヒ来ル内藤少佐ノ指揮ニ由リ平出水村

  ニ下リ向ヒ野ノ丘ニ於テ亦発射ヲ始ム午后第四時平山野村ニ帰ル

  我軍総員:三拾三名 内十五名砲ノ護兵  傷者:軍属 壱名

 法清寺は法満寺か。20日の部分で報告表に登場する。

C09084794900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0240・0241 

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:十年六月十六日 戦闘地名:山上村邊 我軍総員:九十五名 

  傷者:下士卒三名 敵軍総員:凡五十名斗リ 死者:二名 傷者:不詳

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第八時頃ヨリ賊我カ正面谷ノ森林ニ屯集シ直ニ襲来ス故  

  ニ塹壕ヨリ専ラ狙擊シ對戦スルヿ既ニ三時間ニシテ彼レ突進スル能ハス遂ニ方向ヲ

  変シ我カ右谷ヨリ我カ側面ヲ目擊シテ突入ヲ謀ラントス茲ニ於テ速ニ右方ヘ散兵ヲ

  配置シテ復タ對戦セシムト𧈧ノモ彼レ目的ヲ達スル能ハス遂ニ散乱逃走ス于時同日午

  后三時ナリ 

 前回13日の報告では矢上隊は大境経路らしい菖蒲ノ本の敵を追い、山野村ニ至リ命ニ依リ大哨兵ヲ布ケリという状態で終えていたが、大哨兵の具体的な場所は分からない。

C09084795000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0242・0243 

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:十年六月十六日 戦闘地名:鹿児島縣薩摩国大口掛黒岩 我軍総員:百

  四名 傷者:下士卒壹名  敵軍総員:凡五十名斗リ 死者:二名 傷者:不詳

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時十五分鹿児島縣薩摩國大口掛リ黒岩ニ於テ大哨兵ヲ布

  置歩哨勤務中彼ヨリ進擊ノ處之ヲ擊拂   備考我軍(※負傷者名略)

 平山隊も13日の報告表はなく、その前の戦闘では3日に大関山南西側のゴットン石を占領している。16日は黒岩を守備中に薩軍から攻撃されたが撃退している。黒岩は大口の中心部の西側、羽月川左岸にもあることが判明した。奈良文化財研究所の全国の遺跡発掘調査報告書を見ていたら、鹿児島県の報告書の中に載っていた。

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C09084795100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0244・0245 

  第三旅團近衛歩兵第三聯隊第一大隊第二中隊 陸軍中尉横地 剛

  戦闘月日:十年六月十六日 戦闘地名:黒岩峠 我軍総員:將校以下百貳十一名

  傷者:下士一名 兵卒一名 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第六時頃俄ニ敵襲来頻リニ右翼ニ迂回セントス依テ當隊

  直ニ一半隊ヲ分遣シ之ヲ禦キ留ム   備考我軍(※負傷者名を略す)

 前回13日の報告表では横地隊は本日未明ヨリ當隊小河内本道ヨ里攻擊午后第二時頃ニ至リ賊堡塁ヲ棄テ大ニ敗走ス當隊尾擊終ニ黒岩峠ニ歩哨線ヲ定ムとある。13日以来黒岩峠の守備を続けていたのである。薩摩と肥後を結ぶ小川内本道から進んで黒岩峠に着いて哨兵を置いたのだから、黒岩峠は鹿児島県内に入った場所の峠である。黒岩は平山隊報告で大口町の西側、羽月川左岸にあると考えた同じ場所である。戦闘開始時間は他の報告よりもニ時間位早い時間を記している。

 この16日の「戰記稿」も戦闘報告表を基に執筆したようである。上に掲げた諸報告を次のように纏めている。

  是時ニ當テヤ連日ノ戰、賊皆敗レ悉ク要地ヲ失ヒ唯〃厪ニ大口ヲ固守スルノミ然レ

  ノモ猶ホ鳥神岳坊主石山高熊山等ノ險ニ據リ必死防戰ノ術ヲ講シ是日午前八時第三旅

  團ノ右翼山上村正面小木原村ノ森林中ヨリ襲來セリ是ニ於テ矢上大尉ノ一中隊ハ其

  正面ヨリ佐々木大尉ノ一中隊ハ側面ヨリ壘ニ據テ狙擊シ黑岩邊ノ守線ニ在ル平山大

  尉横地中尉ノ隊モ共ニ之ヲ撃ツ十一時ニ至リ賊忽チ方向ヲ轉シ右翼ノ溪谷ヨリ遶リ

  却テ我側面ヲ突撃セントス乃チ矢上ノ一中隊ト横地ノ一半隊ヲシテ速ニ撒兵ト爲リ

  之ヲ邀撃セシム賊進ム能ハス午後三時遂ニ大ニ敗走ス是日我中央及ヒ左翼モ亦賊ノ

  襲撃ヲ受ケシカ皆之ヲ撃却ケタリ是戰我軍傷ク者下士一名兵卒三名ノミ(以下略)

 良くまとまっているが地図と共に説明されていないので、分かったような分からないような読後感が生じる。

 6月16日の件を薩軍側の記録から見ておきたい。「薩南血涙史」は簡単に記す。

  六月十六日

  靑木村の雷擊八番中隊(綾部直景)雷擊九番中隊(隊長未詳)は此日昧爽羽月の官

  軍を進擊す、敵險に據り善く拒ぎ激戰終日勝敗を决せず夜に入り兵を収めて靑木村

  に還る、此日前山國寧雷擊八番中隊左小隊長となる。

 

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    16日、第三旅団は17日に高熊山を攻撃を予定すると共に、人吉方面にいる別働第二旅団にもその東側にある坊主石山を攻撃するよう依頼した。そして17日に別働第二旅団は坊主石山と高熊山を攻撃したが第三旅団が攻撃しないので、退却して砲撃のみに切り替えた。この件に関して「征西戰記稿」は淡々と事実経過のみを記しているが同書の材料となった別働第二旅団の記録を掲げる。ただし、下記の部分は「戰記稿」には記載されていない。

  仝十七日早暁諸隊ニ哨線ヲ発セシメ第三旅團ノ開戦ヲ俟ツニ天已ニ明ケテ猶一丸ヲ

  モ発セス甚タ之ヲ怪ムノ際我カ左翼兵第廿一第廿二第廿三ノ三中隊開戦防主石山ニ

  向フ右翼兵第廿八第三十ノ両中隊モ亦開戦ス是ニ至リテ日已ニ髙シ而シテ第三旅團

  猶戦ヲ始メス依テ窃カニ之ヲ疑ヒ恐クハ同團俄カニ他故ヲ生シ為メニ約ニ違ヒシカ

  若クハ十七日トアリシハ十八日ノ誤字ナリシカト察シ我カ兵ノ未タ深入セサルニ際

  シ順次ニ旧線ニ復セシム(此傷者下士一卒一)(發射砲丸五十四個)已ニシテ將ニ其事由

  ヲ第三旅團ニ質問セントスル時午前第十一時頃同團ヨリ渡邉中尉揖斐大佐ノ傳令ト

  シテ来リ本日ノ攻擊嘗テ約スル所アリト𧈧モ明十八日ニ変換セシト云フ則チ其所以

  ヲ尋ヌルニ曰ク賊河泉山ニ線ヲ張リ出シタルヲ以テ該山ノ賊ヲ掃ヒタル上ニ猶髙熊

  山ヲ攻擊スルハ極メテ 難キカ故ナリト髙嶌少佐答曰ク河泉山ノ賊退キタルヲ第三旅

  團ニテハ知ラヌト云フ賊縦令線ヲ河泉山ニ伸張シタルニ於テハ髙熊山ノ攻擊少シク

  難キニモセヨ為メニ全團ノ進擊ヲ延日スヘキ如クナル者ニハ非ルナリ況ンヤ当方面

  ノ兵黒萩山ニ臨ミ河泉山ノ賊線ノ右横ニ出タルヿハ貴團ノ知ル所加ルニ今暁攻進延

  期ノ事ヲ目今ニ及ンテ通報セラレテハ時機ニ後ルヽ固ヨリニシテ貴團ノ兵一丸ヲモ

  発セス措テ顧ミサルカ如クナリシヲ以テ賊兵ハ我カ前面ニ増加シ若シ早ク旧線ニ復

  セサリセハ当方面ノ兵其危キヿ言フ可ラス然レノモ今之ヲ細論スルノ時ニアラサルヲ

  以テ之ヲ他日ニ譲ラント中尉帰リ去ル

 第三旅団と別働第二旅団の間に内紛があったことは第三旅団は記録しなかったが、不満を抱いた別働第二旅団は記録をしていたわけである。

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 17日、実際に進軍した別働第二旅団の活字になったことがない報告がある。使用した罫紙は同隊が別二に合併する前の別働第四旅団の名前が入ったものである。報告者三好少佐はこの日進撃した2個中隊の指揮官であり、まとめて概要を報告している。 

C09086074400「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1237・1238別働隊第四旅團罫紙

  六月十七日第三旅團ノ兵高隈山ノ賊塁攻撃ニ際シ應援シテ坊主山ノ賊塁ヲ攻撃スヘ

  キ旨ヲ命セラレ第廿八中隊ヲ山畑村ニ潜伏シ第二九中隊ヲ坊主山ノ半腹ニ蔭シ髙隈

  山ノ攻撃始マルヲ待テ共ニ虚撃ヲ行ヒ機ヲ見テ実撃ニ移ル可ヲ命ス午前第二時三十

  分黒矧山ノ哨所ヲ発シ各〃部署ニ着ク已ニ黎明其機ニ至ト𧈧モ戦端未タ開ケス賊兵

  已ニ我兵ノ潜伏スルヲ伺ヒ知リ発射スル事頻リナリ故ニ我兵不得止遙カニ之ニ應ス

  第廿八中隊(※第二中隊の二を消して廿八を上書きしている)ノ兵モ亦山畑村ノ樹陰ニ在テ

  地物ニ占拠シ虚撃ヲ行フ少焉(※しばらく)シテ尚未タ開戦ノ况景ヲ不見就中引揚ノ

  命アリ依テ左翼第弐聯隊第二大隊ノ兵ト連絡ヲ保持シ徐々ニ兵ヲ収メテ各隊哨所ニ

  還ル

  此日死傷ナシ右戦状報告仕候也

  十年六月廿七日  遊撃歩兵第壱大隊長

            陸軍少佐三好成行

  陸軍少佐高嶋信茂殿

 「戰記稿」では戦闘せずに撤退したとあるが、実際は薩軍側に発見され射撃を受けたので、撃ち返している。しかし、退却の命令を受けたので途中で切り上げたのである。これとは別に実際に進軍した中隊長が三好少佐に提出した報告もあるので掲げる。

C09086074500「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1239・1240別働隊第四旅團罫紙

  今十七日早朝第三旅團ヨリ高隈山賊塁攻撃ニ付當中隊ハ山下ニアリテ虚撃ヲナシ機

  ヲ見テ進撃スヘキ命ヲ蒙リ黎明兵ヲ山下ニ散布シ徐々ニ放火ヲナサシメタルニ第三

  旅團兵ハ更ニ進撃ノ景况之レナク續テ引揚ケノ命アリ依テ兵ヲ率テ黒矧山ニ帰ル

  此日ノ戦状右ノ通ニ候間此段御届申候也

        第二十八中隊長(※二を消して二十八をこれも横に書いている)

  十年六月十七日   陸軍大尉井野好侑

 

   陸軍少佐三好成行殿

 文中、放火とあるのは射撃を意味する。

C09086074600「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1241・1242

        坊主山攻撃報告

  六月十七日拂暁ヲ期シ第三旅團ニ於テ高隈山賊塁ヲ攻撃セルニ付當隊ハ坊主山賊塁

  ニ遙ニ虚撃シ機ヲ見テ実撃スヘキ命ヲ受ケ午前第二時黒萩山ヲ降リ坊主山ノ左側山

  ニ登リ一半隊ヲ以テ援隊トナシ後方ニ備ヘ他半隊ヲ撒布シ以テ賊塁ノ左正面ニ逼リ

  第三時四十分頃ヨリ射撃ス戦フヿ時許ニ至ルト𧈧ノモ第三旅團ニ於テハ敢テ戦ヲ開カ

  ズ故ニ賊我カ右方ニ迂回センヿヲ慮リ先キニ後方ニ残セル半隊ヲ以テ右方大口街道

  左側山ニ備ヘ尚戦フ内引揚前ノ哨所ニ☐ルヘキ命アルヲ以則チ引揚ケ罷帰リ候間此

  段御届申候也

  十年六月廿四日   第三十中隊長心得(※十は小さく横に入れる)

             陸軍少尉平井信義

 

    陸軍少佐三好成行殿

 28中隊とか30中隊とかに上書きして訂正しているのは、戦争中の途中で番号が変わったのだろう。平井隊も射撃している。ただ両隊は敵に接近する前に撤退命令を受けたのである。これらの報告では坊主石山ではなく、坊主山としているので思うのだが、当時は樹木が繁茂していなかったのだろうか。さらに坊主石山であれば、岩が遠くからも見える状態だったのだろう。

 その前に6月15日、三浦少将は八代にいる山縣参軍に呼ばれたのでこの日は水俣に到着し、16日は海路で出発し夜半頃山縣の宿舎に着いた。17日には各旅団長が会して軍議を行ったが、三浦が川路を攻撃し、川路が反論して激論になり、山田の仲裁で収まっている。

 会議では以下の軍略が決まった。

  一別働第二旅團ハ方向ヲ斜メニ左ニ轉シ小林ヲ拔キ漸次都城ニ向フヲ期シ進軍スヘ

   シ

  一第三旅団ハ兵員寡少ニシテ未タ大口ヲ拔クヿ能ハサルヲ以テ第二旅團ヲシテ第三

   旅團ト別働第二旅團ノ中間ニ出テ第三旅團ト連合セシメ因テ此兩旅團ハ先ツ大口

   ヲ奪ヒ漸次栗野横川ヲ經テ加治木國分ニ出ルヲ期シ進軍スベシ

  一別働第三旅團ハ本軍ヲ以テ紫尾山ヲ越エ宮城ヲ拔キ進テ鹿兒島ニ連絡シ其支軍ヲ

   以テ海岸路ヨリ漸次ニ進行シ本軍ニ合スルヲ期シ而シテ後本支軍共ニ加治木國分

   ニ出テ第二第三兩旅團ト會スヘシ

  大體ヲ定ムル是ノ如シト雖モ賊情ノ變換ニ因テハ我モ亦機ニ應シテ變ニ處スルノ策

  ヲ出サ﹅ルヘカラス但シ各旅團互ニ氣脈ヲ通シ救援宜ニ随ヒ唯賊巣ヲ覆スヲ期スヘ

  シ

 この会議で三好重臣少将の第二旅団の一部を第三旅団方面に派遣することが決まったので、三浦はそれを川路旅団との間に置こうと考えたが三好は拒否し、三浦と山田の中間に配置することになったのである。(「西南戰袍誌」pp.77~79)

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   18日、第三旅団は高熊山を取ろうと、また大口中心部に入ろうと部署した。その進路は本道(司令官内藤少佐:3個中隊・2小隊)・鳥神岳(司令官大島少佐:2個中隊※栗栖には隊数の記入がないが、戦闘報告表があるので1個中隊とした)・正面及鳥神岳(司令官古田少佐:6個中隊。安満中隊を含む)・高熊山(司令官川村少:5個中隊)・村外(司令官友田少佐:5個中隊)である。

 次に各隊の戦闘報告表を掲げる。

C09084795200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0246・0247 

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:十年六月十八日 戦闘地名:鳶ノ巣岡 我軍総員:百二十八名 傷者:

  下士卒三名 敵軍総員:凡五十名斗リ 死者:二名 傷者:不詳

  戦闘ノ次第概畧:午前三時援隊トシテ鳶ノ巣ノ山ノ西方ヨリ正面潮村ニ進ミ開戦午

  後鳶ノ巣山ニ防禦ス

  備考我軍:(※死傷者名を略す) 敵軍備考:正面臺塲三四ヶ所人員五六十名斗リ 一

  死者僅☐ニ見届ク助ケ去レリ

 潮村は牛尾村。

C09084795300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0248・0249 

   第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長陸軍大尉斎藤徳明㊞

   戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:髙熊山 我軍総員:百三拾七名 死者

  :下士卒六名 傷者:将校一名 下士卒拾六名 

     戦闘ノ次第概畧:十七日午前第五時ジツソウ山出発金山岡ニ兵ヲ潜伏セシメ同十八

  日午前第零時十五分出発同第三時三十分髙熊山ニ至リ敵兵ヨリ放火セラレ直ニ開戦

  同第七時退却シ山ノ半服小山ニ防禦線ヲ定メ守備ス 備考敵軍:午前第零時十五

  金山岡出発險ヲ越ヘ閑行シテ髙熊山ノ麓ニ至リ兵ヲ部署シ山ニ攀登シ登ルヿ凡ソ半

  余時既ニ天明賊ノ哨兵ニ発見セラル依テ急ニ兵ヲ進メ堡塁ノ前方凡ソ四十間ノ所ニ

  至リシ時彼猛烈ニ放火シ或ハ石ヲ投シ防禦ス然レモ我兵屈セス銃鎗ヲ以テ突進シ先

  登スル者ハ賊塁ノ前面三間乃至五間ノ所ニ到リ過半ハ銃丸或ハ投石ノ為メニ死傷シ

  兵寡且險ニシテ進ム能ハス故ニ堡塁ノ前面二十間余ノ所ニ至リ互ニ放火シ喇叭ヲ吹

  奏シ且ツ大聲ヲ発シ戦フヿ数時間ニシテ弾丸殆尽キ且死傷多クシテ突入スル目的ナ

  キカ故ニ不得止退却シテ山ノ半腹小山ニ防禦線ヲ定メ守備ス

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 齋藤隊が退却して守備した小山の場所は二つ考えられる。一つは高熊山頂上の北側にある広い峰である。南西から谷が入り込んでいて、高熊山頂上がある部分と地形の面で区別できる。もう一つはそこから北東側に続く小さな高まり部分である。一晩、小山で過ごしたのだから台場跡があるかも知れない。

 金山岡・金岡山・キン山や類似の地名がこれ以外にも戦闘報告表に出てくるので検討したい。伊佐市には世界有数の産出高を誇る菱刈金山がある。すこし西側には江戸時代17世紀に発見された金山があり、鉱脈の西部を大口金山といい、東部を牛尾金山といった。正確な場所は図示できなかったが、上図の楕円で囲った付近が金山らしい。東側の山には金山という三角点があるが、第三旅団の報告に出てくるのは楕円周辺らしい。この他、先日の戦記に登場していた山野の北側にある布計にも金山があったということであり、広範囲に金が分布しているのであろう。

C09084795400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0250・0251 

  第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉久徳宗義㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:潮村上ノ原及ヒ左翼山上ニ於テ 我軍総員:四

  拾五名 

  戦闘ノ次第概畧:午前五時半ヨリ潮村上ノ原ニ於テ山砲壱門ヲ備ヘ前面ノ賊塁ヲ射

  撃シ午后四時ニ至テ止ム仝所ヨリ左翼山上ニ於テ午后十二時半ヨリ山砲一門ヲ備ヘ

  高熊山ノ賊塁ヲ射擊シ仝五時ニ至テ止

 紛らわしいが、大砲は2門だったとしておきたい。

C09084795500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0252・0253 

  第三旅團工兵第二大隊第壱小隊第壱分隊 陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鳶ノ巣岡 我軍総員:拾四名 

  戦闘ノ次第概畧:朝第弐時山野村出発髙熊山ニ向キ進ミ午后第三時頃ヨリ鳶ノ巣

  岡及ヒ牛尾山ニ数十個ノ塹溝ヲ築キ翼朝第一時半山野村ニ引揚ク

C09084795600戦闘報告表「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0254・0255 

  第三旅團 大坂鎮臺砲兵第四大隊第一小隊長 陸軍大尉花形勝則㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:薩摩国潮村上ノ原并ニ同所後方山上ニ於テ 我

  軍総員:百二十七名  死者:下士三名 兵卒三名 傷者:将校三名 下士五名

  兵卒九名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時整列同第三時左砲車ハ潮村上ノ原ニ於テ前面ノ賊塁ヲ

  砲擊シ右砲車ハ同所後方山上ニ於テ放発シ同第九時都合ニヨリ一旦山野ノ丘ニ引揚

  ケ午后第一時亦同所ヘ進擊シ砲戦最モ勉ム同第四時退軍ス

  備考我軍:右分隊ハ山砲二門三宅中尉之ヲ率ヒ中央左ノ二分隊ハ徒歩小銃隊ニ編制

  スルヲ以テ居藤少尉之ヲ引卒シ砲ノ護衛ヲ為ス

 潮村は牛尾村。鳶巢丘の東側に牛尾村はあり、左砲車を置いた上ノ原は推定するにその北東部の小高い平地で、右砲車を置いたのは北側の山、金岡山と推定した山に置いたのか。

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C09084795700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0256・0257

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊 中隊長代理中尉松田是友㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:髙熊山 我軍総員:百二十四名 死者下士

  名 兵卒三名 傷者:将校三名 下士五名 兵卒九名 

  戦闘ノ次第概畧:十七日午前第五時山野十曽山防禦線ヲ出発同夜金岡山ニ兵ヲ潜伏

  セシメ同十八日午前第零時十五分仝地出発仝第三時三十分髙熊山賊塁凡十米突ヲ隔

  テ敵ヲ発見シ直ニ開戦嶮ニ憑リ兵ヲ増シ放火猛烈ナルヲ以テ畢ニ目的ヲ達セス第七

  時少シク退却シ山ノ中腹ニ防禦線ヲ定メ昼夜戦ヤマス

 備考欄に死傷者名がある。この日、中隊長町田大尉が負傷したので中隊長代理松田中尉が報告表を作成している。出発地が十曽山で金岡山に潜伏待機したこと、攻撃目標と時間は斎藤隊と同じである。

C09084795800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」(防衛省防衛研究所)0258・0259

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第二中隊陸軍大尉福島庸知㊞

  戦闘月日:六月十八日

  戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分頃髙熊山中腹ニ於テ開戦第五時前新防禦線ニ繰

  上ク   我軍:総員:九十五

C09084795900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0260・0261

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊 中隊長陸軍大尉竹田實行

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:髙熊山 我軍総員:百三拾八名 

  戦闘ノ次第概畧:六月十八日髙熊山攻撃ノ援隊トシテ午前第一時三十分山野村大哨

  兵ヲ発シ鳶ノ巣山ニ兵ヲ散布シ第三時三十分開戦午后第一時命ニ依リ同所ヲ引揚ケ

  髙熊山ノ左翼ニ進ミ大哨兵ノ凖備ヲナス 

 援隊として鳶巢丘に配置について午後1時に戦うことなく高熊山左翼、おそらく他の隊の近くに守備をしたのだろう。

C09084796000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0262・0263

  第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊 陸軍大尉沖田元廉㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿兒嶋縣下大隅国髙熊山 我軍総員:九拾三名

  傷者:下士卒五名  軍属三名 

  戦闘ノ次第概畧:十七日午后十一時三十分防禦出發十八日午前第三時髙熊山着直ニ

  配布シ援助之処攻撃隊苦戦ニ付前進邀撃ス同第四時半頃号音ニテ髙熊山迠退線該處

  ニ於テ☐ヒ放火ス

C09084796100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0264・0265

  第三旅團工兵第二大隊第一小隊第二分隊 陸軍少尉横地重直㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:髙熊山 我軍総員:貳拾名 死者:下士卒一人

  傷者:将校一人 下士卒七人 軍属一人 

  戦闘ノ次第概畧:十七日午后第九時キン山ノ岳ヲ潜行同夜同山ノ麓ニ潜伏シ今暁髙

  熊山頂ノ戦ヒ如何ヲ望ムト𧈧モ霧深ク唯砲声ノ聲ユル而已ナルヲ以テ進テ同山ノ半

  腹ニ至リ賊塁未ダ拔ケザル故ニ防禦線此地ニ决定セラルト因テ塹溝十有余ヶ所ヲ造

  築シ午后第十時終テ山下ナル牛尾村ノ民家ニ宿陣ス 

 キン山ノ岳を潜行し麓で待機したというが、この金山岡には多くの部隊が潜伏していたらしい。相互に接近した戦場で戦闘中に築造したので、工兵隊員は半数近くが負傷している。

C09084796200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0266・0267

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊 陸軍中尉嶋 良忠㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:薩摩国牛山郡栗山村 我軍総員:百拾五人 死

  者:下士卒一人 傷者:将校一人 下士卒七人 軍属一人 

  戦闘ノ次第概畧:六月十八日午前第二時牛山之守地ヲ発シ小木原村ヲ経過栗山村

  ノ平原ニ兵ヲ撒布シ三時三十分左翼ノ開戦スルヤ直ニ猛烈ニ放火前進シテ小カミ岡

  ノ賊堡ヲ距ル二百乃至五百米突ニ至テ對戦シ塹壕ヲ築キ陸續猛射セリ然レノモ賊固守

  遂ニ不能拔後引揚ノ命アルヤ薄暮繰引シ牛山村ノ新防禦線ニ至テ大哨兵ヲ張レリ 

  (※備考欄の死傷者を略す)

 この日、中隊長堀部大尉が負傷したので嶋中尉が戦闘報告表を作成した。これまでの戦闘報告表と違い、堀部隊は右翼の平地に進んでいる。

C09084796300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0268・0269

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長 陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鳶巢 我軍総員:百四十六名 傷者:下士卒二  

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時山野尾ヲ出発三時鳶巢ニ至リ即時開戦午后第五時三拾

  分臺塲ヲ築テ伏禦ス   備考我軍傷者:(※記述を略す)

 鳶巣丘は高熊山の北北西1,5kmにある標高384mの山である。薩軍はそこにはいなかった筈だから、鳶巢丘から高熊山を射撃したのだろう。 

C09084796400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0270・0271

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊長 陸軍大尉本城幾馬㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡☐☐老寺村 我軍総員:九拾七名

  内不戦七名 傷者:下士卒三  

  戦闘ノ次第概畧:六月十八日午前第二時山野村ノ大哨兵ヲ引揚ケ☐☐老寺村ニ於テ

  仝三時開戦仝午后五時三十分迠仝処ニ相戦フ司令官ノ命ニ依リ防禦線ニ據リ固守ス

  此時彈藥六千発☐☐   備考我軍:(※傷者を略す)

 銃弾は一人66発強を使用している。

C09084796500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団0272・0273 

  第三旅團工兵第二大隊第二小隊第二分隊 陸軍少尉内藤冨五郎㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:山野村 我軍総員:貳拾貳名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時山野村出発同第六時ヨリ本道筋ヘ架橋一ヶ所築造午後

  第四時小木原村迠繰込同第六時新防禦線内江架橋一ヶ所築造同夜同村ニ宿陣翌十九

  日午前九時山野村迠引揚

 第三旅団の工兵隊に関しては「戰記稿」の部署表に載っておらず、戦闘報告表だけが活動の痕跡を記録している。

C09084796600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0274・0275 

  第三旅團大阪鎮台豫備砲兵第二大隊第一小隊 陸軍少尉杉田豊實㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿児嶋縣下薩摩国伊佐郡トカメ丘 

  我軍総員:四十五員 内十五名砲護兵 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時山砲二門山野尾ノ上村ヲ發シ第四時向ヒ野ノ丘ニ於テ

  發射ヲ始ム歩兵進軍スルニ従ヒ平出水村ニ進ンテ陸続發射ス同第八時頃一門ヲ転シ

  テ法満寺山ニ登リトガメ丘ニ上ッテ発射ス午后第四時兩砲車トモ平出水村ニ帰リ宿

  ス☐歩兵ハ法満寺山ニ上リ賊ノ左翼ヲ狙撃ス午后第四時共ニ平出水村ニ宿ス

 尾ノ上は山野村の中心部の北西にあり、距離は700m位しか離れていない。石井川内から続く低い尾根に立地する村である。杉田隊は四斤山砲2

門を使用した。そこを出発し羽月川の右岸にある向井野で(おそらく平出水村方面に)砲撃を始め、歩兵が同村に進軍したので砲兵もそこに進み、どこかに向かって砲撃したという。トガメ丘は鳥神岡である。法満寺という寺院は現在伊佐市にはないので、同名の山もどこにあるのか分からない。その後、大砲一門は法満寺山に登らせて鳥神岡を砲撃した。平出水村中心部から鳥神丘までは約2kmであり、射程2,6kmの四斤山砲榴弾なら使える距離である。平出水村に進んだのは同村を攻撃するためらしいが、先日占領したのではなかったのか。

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C09084796700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0276・0277

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壱大隊第二中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿児嶋縣薩摩国大口掛ノ内浦岩トシク木ノ界

  我軍総員:五拾九名 内十五名砲護兵 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時ヨリ攻襲偵察トシテ壱小隊ヲ出シ鹿児嶋縣薩摩国大口

  掛ノ内浦岩瀬シクキノ界ニ至リ臺塲二ヶ所ヲ乗取リ夕六時頃ニ引揚ク

 いくつかの地名がどこのことか分からない。

C09084796800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0278・0279

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:山上村山頂 我軍総員:三十三名 内十五名砲護

  兵 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前三時三十分ヨリ一小隊ヲ援ヒ攻擊偵察トシテ山上村ノ近

  傍ニ至ル時ニ暁霧未タ霽レス賊ノ哨兵目下ニ我カ兵ノ至ルヲ知ラス是ニ於テ乎吶喊

  急擊遂ニ二塁ヲ略取シ直チニ進テ前山ニ據ル賊ノ複塁巌ニアリ彼レ防戦酷タ務ム

  我カ兵攻擊時ヲ移ス遂ニ進ミ得ス午后四時ニ至リ奉命シテ本線ニ☐皈還ス ※岔(山という意味)は上下逆に書いている。

C09084796900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0280・0281

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:山ノ村右翼山上 我軍総員:四十三名

  内十五名砲護兵 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時三十分壹小隊ヲ以テ攻襲偵察トナシ賊據有スル所ノ近

  傍ニ至リ其舉動ヲ偵フニ堡塁ヲ數ヶ所ニ連子固守スル者ノ如シ依テ擊手ヲシテ狙撃

  セシムルニ賊之ニ應シ射戦数刻ナリ遂ニ進取ノ利非ルヲ察各中隊ト共ニ徐ニ旧線ニ

  復シタリ

 文中、數ヶ所ニ連子は数ヶ所に連ねと読む。

C09084797000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0282・0283

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:薩摩国大口郡腰山 我軍総員:二拾七名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時三十分頃岩塚岡ヲ発シ腰山ノ敵堡ヲ攻襲偵察シ仝第五

  時三十分頃開戦ス彼堡障ヲ出テ麓ニ兵ヲ配布ス遂ニ正攻ニ移リ要地ヨリ突進ス彼レ

  能ク防戰ス依テ午后第五時頃引揚ケタリ

 岩塚岡と腰山が場所不明。

C09084797100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0284・0285

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊長陸軍中尉横地 剛㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:斧研峠 我軍総員:將校以下百二十名 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第三時ノ開戦ニテ當隊一小隊攻擊隊トシ余一小隊ヲ援隊

  トシ賊ノ右翼攻襲奮擊スト𧈧地景嶮難ニシテ終ニ午后第三時半茲ヲ引揚ク  

  備考我軍:本日死傷ナシ

 斧研峠の場所は不明。薩軍の右翼で、攻める際に地形が険しかったのだから山間部だろう。

C09084797200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0286・0287

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長 大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:向野岡 我軍総員:百十八人

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時開戦我兵各臺塲ヲ厳重ニ守備シ烈敷発砲ス賊ハ千貫園

  ノ堡塁ヨリ発砲互ニ進退ナシ

 千貫園というのが場所不明。

C09084797300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0288・0289

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊長  陸軍大尉栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:モシ山   我軍総員:八拾貳人

  戦闘ノ次第概畧:本日左右翼進撃都合ニ拠リ攻撃スヘキノ命アリ既ニシテ午前第三

  時三十分左翼開戦直ニ我兵モ塁内ヨリ猛烈ニ發射シ屡〃進軍ノ喇叭ヲ奏シ或ハ若干

  兵ヲ進メ或ハ鯨波ヲ發シテ突出ノ状勢ヲ占メス暫クシテ賊兵大ニ増加其右翼ニ擴張

  ス同六時頃増加ノ賊ハ悉ク退去ス我兵モ又射撃緩メテ第十時頃止戦ス

 モシ山が場所不明。したがって、さっぱり理解できない。

C09084797400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅團 0290・0291

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊    陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿児嶋縣ハツ郡平泉村  我軍総員:百三十二

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分ヨリ右翼軍隊進擊ニ付同時ヨリ兵ヲ防禦線ニ配

  布シ賊軍ヲ虚撃シ日没テ止ム

 

C09084797500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0292・0293

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:ソンダ山 我軍総員:九拾三名 傷者

  :下士卒二名

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月十八日午前第四時平出水村ヨリソンダ山ニ

  向ケ攻撃賊塁四ヶ所ヲ落シ午前第七時頃休戦此日費ス処之弾数凡ソ七百発

  余 備考我軍(※負傷者名略)

 ソンダは園田である。

C09084797600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0294・0295

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡煥之㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿児嶋縣下小木原邨前方 我軍総員:

  百二拾五人 傷者:下士卒二名

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時山野村防禦線ヲ発シ仝第三時開戦小木原邨前

  方迄攻撃シ午后第五時頃引揚ノ命ニ依テ右翼ヨリ順序小木原邨ニ引揚ケ茲

  ニ大哨兵線ヲ占ム  備考我軍:死傷ナシ此日費ス所ノ弾薬七千発

 ※七百発?

C09084797700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0296・0297

  第三旅團歩兵第八聯隊第大隊第三中隊附属同聯隊第貳大隊第四中隊一小

  隊中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:※空白 我軍総員:三拾八名 

  戦闘ノ次第概畧:援隊トナリ午前第一時三十分平村ニ整列即時右一小隊平

  出水村進軍ノ援隊ニ発ス左一小隊ハ本道ノ砲台内ニ整頓休止暫時有テ左右

  翼ノ開戦ニ乗シ小木原村ニ進入先鋒緩急ノ命有ルヲ待ツ平出水ノ右一小隊

  ハ於同處同断

 平村は場所不明。同日の南報告はもう一つあり、総員が異なるのみ。

C09084797800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0298・0299

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名※空白 我軍総員:九拾三名 戦闘ノ

  次第概畧:援隊トナリ午前第一時三十分平村ニ整列即時右一小隊ハ平出水

  村進軍ノ援隊ニ発ス左一小隊ハ本道ノ砲台内ニ整頓休止暫時有テ左右翼ノ

  開戦ニ乗シ小木原村ニ進入先鋒緩急ノ命有ルヲ待ツ平出水ノ右一小隊ハ於

  同處同断

 0298と人数が違うのはなぜか。

C09084797900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0300・0301

  明治十年六月十九日歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 第三旅團  陸軍

  大尉安満伸愛㊞ 戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:渕辺村 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時賊防守スル所ノ淵辺山ヲ乗取尚進テソンダ山

  ノ賊ト闘戦午后第六時淵辺村前方ニ大哨兵ヲ布ケリ

  我軍総員:八十八人 備考:一死傷異情ナシ費ス所ノ弾数五千發ナリ

小銃弾薬一人平均56発強を使用している。

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C09084798000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0302・0303

  第三旅團第十聯隊第三大隊第三中隊 大尉山村政久㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿児嶋縣山野村ノ内渕辺村 

  戦闘ノ次第概畧:六月十八日午前第一時山野村哨線ヲ出同三時敵ノ臺塲ニ向ヒ開戦

    暫時トシテ彼レカ臺塲ヲ取リ同所ニ大哨兵ノ線ヲ張ル

  我軍総員:百四拾七人 傷者 兵卒壱人

 以上、28件の戦闘報告書が防衛研究所に蔵されており、同所に行かずとも閲覧することができる。大口盆地の中央を南に流れる羽月川の右岸では、山野村付近から出発した官軍第三旅団が淵辺村・園田村・平出水村・鳥神岡西側の小丘などで戦って奪い占領している。これを右翼と呼ぶことにすると、右翼軍は砲兵1部隊(杉田)と歩兵8部隊(栗栖・瀧本・武田・下村・南・安満・山村・横地)であり、工兵はなかった。他に歩兵の本城隊が村外に部署していたが、左右どちらか分からない。

 反面、左岸地域では羽月川左岸からきた支流の牛尾川を挟んで戦闘が開始され、川向こうの鳶巢丘・金山などは第三旅団が奪ったが、最大の目的だった高熊山は頂上を奪うことができず、薩軍からそう離れていない山腹や背後の小山で夜を明かすことになった。これらは工兵3部隊(石川・横地・内藤)と砲兵2部隊(久徳・花形)、歩兵13部隊(弘中・斎藤・町田・竹田・沖田・堀部・福島・岡・沓屋・平山・矢上・佐々木・井上)である。

 高熊山などを攻撃した左翼の総員は1,491人で、戦死22人、負傷82人(軍属5人を含む)であり、右翼は総員825人で、戦死0人、負傷5人であった。四斤山砲は左翼が4門、右翼が2門である。兵数と砲数から見て明らかに左翼に力点が置かれていたが、死傷者数からも左翼が苦戦したことは明らかである。

 18日の第三旅団の攻撃は左翼では目的を達せず、右翼はほぼ計画通りとなった。

  防禦線ヲ髙熊山ノ西北山腹ニ定メ正面即チ大口本道ノ兵ト連絡ヲ保ツ〇是日正面ハ

  小木原村右ハ鳥神岳ノ東ニ在ル小丘ヲ占領シタリ(「戰記稿」)

 これとは別に第三旅団の東側では黒萩山や芝立山・坊主石山などで別働第二旅団が戦っていた。別働第二旅団独自に作成した戦記を掲げる。

C09085506000「大口攻撃ノ記」『自明治十年五月至九月 イ第三号 戦記稿 別働隊第二旅団第五方』0668 ・0669

  十六日早朝髙嶋少佐田野ヲ発シ黒萩山ニ至リ展望スルニ我兵ノ前面千米突許ノ髙熊

  山坊主石山及ヒ其山ノ近傍ニ賊塁壁数箇ヲ築キ以西ハ第三旅團河流ヲ阻シ彼我ノ防

  守ヲ畫シ而シテ同團左翼ハ遥カニ黒萩山ノ西ニアリテ連絡通セサルノミナラス其間

  ニアル河泉山ニ賊兵百余名登リ来ル是ニ於テ我ノ防禦線ヲ変換シ右翼黒萩山ヨリ田

  野越道ヲ挟ミ左翼芝立山ニ至ル已ニシテ右翼兵黒萩山ノ端ニ臨ムニ賊横擊セラレン

  ヿヲ恐レシニヤ引退キタリ此日午后第四時第三旅團参謀陸軍少佐牧野毅ヨリ書翰来

  ル曰ク明十七日晴雨ヲ論セス拂暁必開戦髙熊山ヲ攻擊スヘキニ付其手ニテ防主石山

  ヲ攻擊アランヿヲ乞フト抑防主石山ハ我哨線ノ前面ニ当リテ其距离モ亦甚タ近ク我

  兵之ヲ取リ第三旅團髙熊山ヲ取ルノキハ我哨線収縮シテ防禦頗ル易キニ至ル且我兵ノ

  進退ニ依リ第三旅團攻擊ノ難易ニ關スル少ナカラス而シテ今同團乞フ所アリ且我前

  面及ヒ総テ賊ト屹對シ面シテ兵ヲ収メテ之ヲ傍視スル恐クハ事理ニ背乖セン𧈧然此

  口攻擊ハ未タ長官命令ヲ得ルニ非ス唯事急遽ニ出テ加フルニ長官ノアル所ト遠隔ニ

  シ其指揮俟ツニ暇ナキヲ以テ應援ノ為虚擊ヲナシ第三旅團進軍ノ機ヲ見テ実擊ニ変

  スヘシト其畧ヲ隊長ニ授ク(※ 以下は先に引用した第三旅団が17日に攻撃しなかった件である

   )仝十七日

 別働第二旅団の高島信茂少佐は16日に田野から県境を越えて黒萩山に進んだが、次々と出てくる坊主石山・黒萩山・河泉山・芝立山とはどこにあるのだろうか。別働第二旅団の山田少将はこの18日は八代に滞在しており、高島少佐は旅団長の許可なしに攻撃することを躊躇ったが、結局攻撃している。その頃、17日の八代会議で別働第二は大口ではなく東方の宮崎県小林方面への進軍が決まったため、高島率いる部隊を人吉に呼び戻そうと使いを発していた。使者は17日午後6時に黒萩山に着いたのだが、すでに高熊山への攻撃は着手されており、戦闘を放棄して人吉に移動すれば空白域が生じることになるため高熊山を奪ってから移動することになった。

 実は上記の文書は相互の位置関係の記録としては詳しい方である。黒萩山の前面千メートル位に高熊山と坊主石山があり、第三旅団は黒萩山の西に在って、両者の中間には河泉山がある。また、黒萩山を官軍右翼とすると左翼には芝立山が位置し、両山の中間に田野越道が通っている。この道は高熊山東麓の木之氏村から人吉の田野に通じており、現在は県境付近の久七峠を通る車道があるが、当時はおそらく人馬が通る山道が田野越と呼ばれたと思われ、それは車道とは微妙に位置が異なるのかも知れない。

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 上図は仮に三角点金山付近に黒萩山があると想定してそこを中心に半径1km・2kmの円を描いたものである。残念ながら、高熊山までは2km強もあるが、必ずしも高島少佐の距離感を金科玉条のように尊重する必要はないと思う。この「大口攻撃之記」『自明治十年五月至九月 イ第三号 戦記稿 別働隊第二旅団第五方面』の末尾近くには戦地の地図が一枚付いており、上記諸山の台場位置・大砲の砲台位置・山名が描かれている。これで位置関係は解決しそうである。

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 画面が小さいので詳細が見えないので分割して示したい。

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 上図右側の台場群と砲台3基は官軍のもので、その左下の4基は後半段階の官軍のもの。16日別働第二旅団は黒萩山に四斤山砲2門、ブロードウェル砲2門を置いている。次は坊主石山の図。

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 坊主石山とその東側の尾根、それらの北側にある芝立山での状況を「別働第二旅團戰記 巻之四」から見ておきたい。

  時ニ少佐宮城彦八ハ第二十一第二十二中隊ヲ率テ芝立山ノ哨所ヲ發シ盛ンニ喊聲ヲ

  發シ喇叭ヲ吹奏シテ進ミ賊兵ノ動揺スルニ乗シテ山ヲ下リ馳突シテ直ニ坊主石山ノ

  麓及ヒ其東ナル山脈ニ拒守シタル賊壘ニ迫リ一戰之ヲ破テ數壘ヲ拔ク同時ニ我黑萩

  山ノ砲兵ハ坊主石山ヲ連射ス山上ノ賊兵大ニ挫折シ且其東麓已ビ破レシヲ以テ我兵

  ノ爲メニ背後ヲ斷レンヿヲ恐レ山ヲ棄テヽ退ク第二十二中隊及ヒ第二十一中隊ノ一

  小隊先ツ進ンテ之ヲ取ル第二十三中隊芝立山ノ半腹ニ在テ援隊タルモノ亦進ンテ之

  ニ登ル時ニ午前第七時ヲ過ク

 これによると宮城少佐が二個中隊で芝立山から東西二つの尾根、西側の坊主石山と東側の尾根を奪ったのである。しかし、高熊山にとって東側の坊主石山等を奪われたのは大きな不利となるため、薩軍は反撃に出た。上の引用文の少し後から掲げる。

  我兵已ニ大口ノ右手ナル坊主石山ヲ截斷ス故ニ左手ナル髙隈山モ亦保チ難キノ勢ア

  リ賊乃チ敗兵ヲ収メ來テ坊主石山ヲ恢復セント要シ東南二面ヨリ烈シク砲銃ヲ射擊

  シ午時ヲ過キテ賊兵益〃加ハリ勢ヒ甚タ猖獗ナリ第二十二第二十三中隊邀ヘ戰フヿ

  之ニ久フシテ兵ノ寡ナキヲ患フ諸將校使ヲ黑萩山ニ馳セテ増兵ヲ乞フ信茂乃チ三好

  成行ニ令シ兵ヲ割テ坊主石山ヲ援ケシ

 一つ前の図には芝立山という字があるのを改めて明記したが、芝立山から尾根が南に二つ派生し、西側のが坊主石山である。ここにある台場の内、細い青色が最初の段階の薩軍の台場群で、北を向いて造られている。対する官軍は山の北部端に南を向いて並んでいる。同じ図の中に次の段階、官軍が進んで、薩軍が後退した状態が描かれている。官軍は西側の高熊山を砲撃するため砲台を山の西縁に並べ、南側の薩軍台場に対峙する台場群も築いてL字形に配置している。東側の尾根に西向きに並ぶのは官軍のものかとも思ったが、官軍にとっては不必要な方向であり、薩軍は坊主石山を奪われようとした時点でそこを守っていたと「戦記稿」にあるので、これを薩軍のものと改める。多色刷りなら悩まないでもよかったのだが。

 

 「薩南血涙史」には坊主石山がというか、高熊山の東側の薩軍についての記述がない。坊主石山については官軍側か熊本隊の記録を見るしかない。

 高熊山を図化したときに立ち寄ったが、台場跡は発見できなかったが、下図は鹿児島県埋蔵文化財センターによる坊主石山の戦跡分布図である。向く方向から考えると全て官軍側のものである。

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 この図では高熊山の頂上片側には台場7基が弧状に配置したように描かれている。

 この数年、鹿児島県埋蔵文化財センターが西南戦争戦跡や官軍墓地を調査し始めたが、今春発行した報告書では高熊山も掲載されている(高橋も調査にほんの少し参加させていただいた)

 

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 こちらは奈良文化財研究所の全国遺跡発掘総覧で検索して閲覧できる。上図には遺物の分布状態も示されているのに加え、分かり易く加筆した。銃弾が図の右半分上部に集中して出土したことから、この場所では北と東から官軍が攻撃したことを反映している。官軍のエンフィールド銃弾断面は基部に行くにつれ厚さが尖るようになる形だと理解しており、鉛製である。報告書では金属は鉛とされているが、高熊山で出土したのは時期的にみて錫と鉛の合金ではないかと思う。また、形からは薩軍のものと考えられるエンフィールド銃弾が最北端の台場跡の土塁部分外側に5点集中しているのはなぜだろうか。熊本隊士が取り落としたのだろうか。

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 スナイドル銃の薬莢が北部の岩の下、岩陰で1点出土しているのは、頂上に迫る官軍兵士がここから岩を楯に射撃したのだとみられる。この他にもスナイドル薬莢が台場跡の所から出土しているが、ここを守っていた熊本隊がスナイドル銃を持っていなかったとは言えず、どちらが発射したか判断できない。官軍が頂上まで進出し、台場の陰から至近距離で攻撃した時、20日早朝まだ暗い時間に急襲し決着がついている。その際、官軍が台場の傍や中に入って射撃しただろうし、その際の薬莢かも知れない。本来なら多数の銃弾・薬莢が散乱しているはずだが、採集や盗掘のために残った遺物はほとんどなくなっているらしい。そのため、事態の復元は困難になっている。

 ドライゼ(あるいはツンナール)銃弾が1点東部の台場跡土塁から出土している。ドライゼ銃を装備していたのは旧別働第四旅団である。彼らは5月段階に別働第二旅団に合併し、下記のように高熊山攻撃に参加している。下記の「戰記稿」では18日にドライゼ銃を装備していた三好少佐・宮城少佐の部隊が登場し、坊主石山の東の山に薩軍が守っていたことや、官軍がそれを奪い次いで坊主石山を占領したことも記されている。

  別働第二旅團ノ第五方面兵ハ第三旅團ノ高熊山ヲ攻ムルニ應シテ三好少佐二中隊

    廿八第三十ヲ率ヰ黒萩山ノ哨所ヲ發シ髙熊坊主石両山間ノ地物ニ據リ髙熊山麓ノ賊ヲ

  射擊シ以テ戰機ノ熟スルヲ窺フ既ニシテ第三旅團兵高熊山ニ迫リ激戰數刻終ニ拔ク

  ヿ能ハスシテ退ク賊兵山頂ヨリ盛ニ射撃シ我兵死傷甚タ多シ三好少佐之ヲ見テ其兵

  ノ半ヲ割キ右轉シテ山腹ニ登リ山上ノ賊ヲ横擊シ以テ其厄ヲ救フ第三旅團乃チ其兵

  ヲ収ムルヲ得タリ是時宮城少佐ハ二中隊第廿一第廿二ヲ率テ芝立山ノ哨所ヨリ盛ニ喊

  聲ヲ發シ喇叭ヲ吹奏シ賊ノ動揺スルニ乗シテ山ヲ下リ馳突シテ直チニ坊主石山ノ麓

  及ヒ其東ナル山脉ニ拒守シタル賊壘ニ迫リ一戰之ヲ破リテ數壘ヲ拔ク同時ニ我黑萩

  山ノ砲兵ハ坊主石山ヲ連射ス山上ノ賊兵大ニ挫折シ且ツ其東麓已ニ破レシヲ以テ我

  兵ノ爲メニ背後ヲ斷レンヿヲ恐レ山ヲ棄テ退ク(「戰記稿」)

 別働第二の第28中隊と第30中隊が高熊山を攻撃しているが、三好少佐の報告と各中隊長の報告を掲げる。

C09086074700「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1243~1245

  六月十八日拂暁第三旅團高隈山ノ絶頂ニ在ル賊塁ヲ攻撃ス當隊ハ該地面ニ應援シ坊

  主山ヲ不顧直チニ此山ノ半腹ニ在ル賊塁ヲ衝クヘキヲ被命第二中(※二を消して廿八

    を加える)及ヒ第四中隊(※四を消して三十を加える)ヲ引率シテ午前第三時黒矧山ヲ発シ

  山畑村ニ潜行ス第三旅團ノ兵山ノ半腹ニ攀登シ正面ヨリ吶喊シテ已ニ戦端ヲ開ケリ

  遇々濃霧咫尺ヲ不辯彼我ノ砲声漸ク相接スルヲ聞キ忽々進ンテ山腹ノ賊塁ヲ衝ント

  シテ山麓ヲ経過ス此時山上ヨリ射撃スル賊ノ弾丸頻リニ我兵ニ達スルヲ以テ正面ノ

  攻撃不利ナルヲ察シ更ニ方向ヲ轉シテ髙隈山ノ山腹ヨリ攻撃ヲ謀ラントス已ニ達ス

  ル頃方ヒ果シテ該團ノ兵目的ヲ不達引揚ノ際ナリ之ニ依テ其左翼ニ添テ退軍シ山畑

  村ノ北方ノ丘阜ニ拠テ哨兵線ヲ定ム曩ニ髙隈山ノ戦端開クルヤ坊主山ノ賊猛烈ナル

  大砲火ヲ受ケ加之左右ノ攻撃甚急ナルヲ以テ遂ニ山ヲ捨テ走ル第二聯隊ノ兵直ニ登

  テ之ヲ扼ス少焉シテ賊恢復ヲ謀リ来リ襲フ其勢尤又劇シ第一聯隊兵寡少且ツ弾薬殆

  ント盡ントスルヲ以テ援兵ヲ我哨兵線ニ求ム又タ髙島少佐ヨリ速カニ可救ノ命アリ

  事急ナルヲ以テ哨兵線ヲ悉ク第三旅團ニ托シ八分隊ヲ遣テ聯隊ノ兵ト力ヲ戮テ之ヲ

  固守シ又タ四分隊ヲ遣テ援隊トナス余兵ヲ以テ黒矧山ヲ固守ス此日死傷別紙ノ通リ

 下図は上記の原文。

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 高熊山の半腹ニ在ル賊塁の言葉から頂上以外に熊本隊の塁があったと理解できる。戦記に山畑村が登場するのはここだけである。その存在に気が付かなかったが、高熊山の北東麓に今も存在する集落である。次は第28中隊長の18日の報告。

C09086074800「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1247・1248

  今十八日第三旅團兵高隈山賊塁攻撃ニ付當中隊第(三十)中隊ト共ニ山下ニアリテ

  虚撃シ機ヲ見テ進撃スヘキ命ヲ被リ黎明黒ハギ山ヲ下リ殆ント山下ニ至ルノキ忽チ髙

  熊山上ノ戦声ヲ聞ク依テ其山下ヲ迫リ賊ノ退路ヲ攻撃セントシ急ニ兵ヲ進メテ山上

  ノ景况ヲ偵フニ測ラズ第三旅團兵攻撃ヲ被リ之カ為メ賊ノ火力山下ニアル我散兵ニ

  及フ甚シ依テ已ヲ得ズ方向ヲ轉シ髙熊山賊塁ノ前方ニアル山頂ニ登リ賊塁ヲ狙撃セ

  シムルヿ凡ソ二時間ニシテ引揚ケノ命アリ依テ兵ヲ集テ黒矧山ニ帰ル

  本日ノ戦状右之通リニ候間此段御届申候也

           第(廿八)中隊長 ※二段書きできないので()に入れた。

   十年六月十八日    陸軍大尉井野好脩

     陸軍少佐三好成行殿

 内容は三好報告とほぼ同じである。方向を転じて進んだ「髙熊山賊塁ノ前方ニアル山頂」はどこか?標高412mの高熊山頂上の北西側にある標高370m等高線の廻る周辺が可能性がある。

C09086074900「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1249・1250

  六月十八日拂暁ヨリ第三旅團ニ於テ髙隈山賊塁攻撃セルニ付我隊ヘ第(※この

   ブログではワードの樣には小文字のニ段表記ができない。二を消し二十八を脇に)ト共ニ同山後口

  麓ナル賊塁ヲ攻撃スヘキ命ヲ受ケ午前第二時黒萩山哨所ヲ下リ髙隈山麓ニ進ス頃同

  山上ニ戦端ヲ開ケリ依テ速ニ賊塁ニ進襲シ戦フヿ暫クアツテ山上ニ戦フ第三旅團之

  兵追〃退ク勢ナルヲ以テ我兵深ク賊塁ニ迫ル不能然ニ兵員ヲ右方丘阜ニ倚ヤ賊塁

  ヲ射撃ス而シテ第三旅團ノ山上ニアル兵員全ク退キタルヲ以テ命アリ後方ノ丘阜ニ

  新線ヲ取リ漸時引揚ヘシト則チ命ノ如ク後方ニ守線ヲ保持セシ處不計モ左方坊主山

  ノ賊散乱之体ニ付方向ヲ彼レニ変シテ進撃シ同山下ニ至ルニ賊全ク山ヲ捨テ退却シ

  同山ハ第二聯隊ノ乗取ル處トナレリ■■命アリ我兵ハ黒萩ノ麓山ニ新哨ヲ設クヘシ

  ト依テ同處ニ引揚アル内賊兵亦坊主山ニ襲撃シ来ルヲ以我兵ノ二分隊ヲ第二聯隊

  ノ援兵ニ差遣シ余ハ旧ノ哨處ニ引揚ベシト別命ノ如ク引揚罷帰リ候間此段御届申候

  

           第三十中隊長心得

  十年六月廿四日   陸軍少尉平井信義

 

    陸軍少佐三好成行殿

   追テ当日戦鬥中負傷セシモノ軽☐合シテ七名有之候ニ付此段為御届申添候也

 この日、平井少尉の第30中隊は井野大尉の第8中隊と一緒に行動する場合が多かったが、最後の方は別行動である。坊主石山方面にも参戦したことは、三好報告には触れていない。自然ニ兵員ヲ右方丘阜ニ倚ヤ賊塁ヲ射撃スの右方の丘はどこか?その後、第三旅團兵が退却したので後方ノ丘阜ニ新線ヲ取ったのは最初の右方の丘とは別だろう。その後、坊主石山を別二が占領したので移動して黒萩ノ麓山ニ新哨ヲ設けており、この日だけで次々に三ヶ所を拠点にしたことになる。山畑村背後の低い山に守備を置かず、黒萩山に戻った様である。読めない字や不確かな部分もあるので原文を掲げる。

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 三好・井野報告を図化してみた。

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 高熊山の頂上近くまで攻め込んだのは第三旅団だけであり、三好少佐指揮の別働第二旅団は高熊山頂上の東側斜面や頂上よりも北側にある部分で戦ったのでないだろうか。間違いないとは考えていないが推定図を示す

 次は別働第二旅団(旧別働第四旅団)曹長の従軍日記である。隊長は前出の三好成行少佐だった。先ず17日の記述からである。

  十七日午前鈴萩野に到る。道路は山間或いは往各にして、殆と困苦を極む。鈴萩野

  は一の山脈にして、前面には嚝野あり。四周髙山巍立して黒萩山は西に横り、弁天

  山其北にあり。嚝野に突出す。而して黒萩山と尾を傳へ前方に一小山あり。遠巨离

  内にて之を見れは恰も孤立せし者の如く、弁天の突出したる処と相対す。之を髙

  隈山と云ふ。此又前方に千代川あり。此先を大口町とす。賊は髙隈山に塁を築き、

  尾に従ひ川に沿て哨兵を配布す。其左は弁天山にあり。黒萩山より右方源野に沿て

  本軍(※別働)二旅團あり。此日各線進撃然れども賊鋒尤も鋭く、遂に拔く克は

  す。併し弁天山は第二旅團之を取る。故に賊の右方は大に凹凸をなし、髙隈山は恰

  も孤立する如く僅に大口町よりして一小路を保つのみと雖も依然として後方を顧み

  す。以て其大口は賊の死守する処たるを知るへし。

 これは北方の人吉方面から大口方面に進もうとする別働第二旅団から南側を見た記述である。戦記に登場する山々相互の位置関係の部分に注目したい。「黒萩山と尾を傳へ前方に一小山あり」、とあるのが高熊山である。黒萩山の尾根続きに高熊山があるという。先の高島少佐の地図で黒萩山の前方に高熊山が描かれている点を裏付ける記述である。高熊山は「弁天山の突出したる処と相対」しているが、弁天山の突出したる処は坊主石山である。なお、先の高島の文と地図では芝立山は別名弁天山と書かれていた。高熊山の前方に見える千代川は「ちよかわ」ではなく、せんだいがわ(川内川)である。

 これに直接続く部分を掲げる。 

  十八日再へ攻撃に付、余は半隊を率へて第二中隊の援隊となり髙隈山を挟撃すへき

  命を受く。午前第四時哨所を発す。于時陰霧朦朧として咫尺を弁せす。然れども各

  自奮て進み、山下に迫て一時に吶喊す。賊も之に応し互に砲撃す。一時大小砲の轟

  声山谷を鳴動し、数千の雷一時に墜落するか如く互に生死を顧るに暇なく、甲殪れ

  は乙進み、切磋以て之を拔かんと欲すれども如何せん。賊は充分の要処に拠り胸壁

  に依て我を下射し、我は塁の拠るへきなく仰て山上を見る如し。故に進んては斃

  れ、進退共に窮り恰も賊的に逢ふか如し。漸く間を得て後山に退き、厳石に拠て對

  戦す。午后一時に至て拔く能はす。遂に黒萩山に退く。実に此日は非常の烈戦なり

  し。高橋信武2020「西南征討日誌(別働第四旅団岩尾惇正従軍日記)」『歴史玉名』第92号玉名歴史研究会

 後山に退き、さらに黒萩山に退いたとあるので、後山というのは高熊山山塊の北部だろう。戦闘は20日まで続いているので、戦跡の比定についてはまた後で触れたい。

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 上図は西南戦争を通じて両軍が使用した小銃弾を材料の変遷を加味して図示したものである。左欄の官軍エンフィールド銃弾は全期間を通して鉛製で、断面の下部が薄くなっている。発射時に爆発力で銃弾の裾が広がり銃身に密着して爆発力を推進力に替える工夫である。

 ちょっと考えると鉄の方が堅くて銃弾に向いていると思うかもしれないが、比重が違う。比重とは簡単に言うと摂氏4度の水1立方㎝の重さを1とした場合の比較値である。鉛は11.4、鉄は7.8で、軽い鉄は遠くに飛ばないから銃弾には向いていない。現在の銃弾も表面は鉛以外の金属で被覆しているが多くは内部に鉛を詰めている。

 官軍は当初の吉次峠や横平山、田原坂、山鹿等の戦いではエンフィールド銃は基本的に使わなかった。スナイドル銃を重用していたが、スナイドル弾を著しく消耗したため、熊本城解放前後からはエンフィールド銃の使用を奨励した。その為、上記の戦場では官軍のエンフィールド銃弾はほぼ見られない。勘違いした解釈はまま見受けるが。

 自分も以前高熊山の台場跡を略図化したことがある(高橋信武・遠部 慎2005「高熊山ヘ」『西南戦争之記録』第3号)。以下は蛇足だが、2004年2月に国分市(今は霧島市)で行われた九州縄文研究会に参加するため夜明け前に大分を出発し、長崎から出発した遠部氏と人吉の高速出口で合流して駆け足で高熊山頂上を図化し、国分に行ったのを思い出す。その時は8基を図化した。ついでに鳥神岡の西方も歩いて台場跡を1基図化した。どちらも初めて訪ねたところだった。高橋・遠部の略図と報告書の測量図を参考までに掲げる。画板に方眼紙をクリップで止め、磁石と巻き尺とシャープペンシルで描いた略図も捨てたものではないナと自図自賛。

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  この18日、熊本県境の青木越に薩軍が来襲したので、黒萩山から一部を割いて応援した。この薩軍は坊主石山を奪われたため、官軍の力を削いで坊主石山を奪い返そうとしたものだと解釈されている(「別働第二旅團戰記」巻之四 三十一)。18日に坊主石山を奪った別働第二に対し、薩軍は東西二面から臼砲2門で射撃を加え、19日朝まで対戦は続いた。その時点で高熊山に対する攻撃を第三旅団が行わないので、坊主石山に対する薩軍の攻撃を少しでも弱めたいと考えた別働第二は第三旅団に高熊山を急擊するよう依頼している。それに対し第三旅団は明日の朝、高熊山を占領しようと計画しており、本日は黒萩山から大砲8門で攻撃するし、隙があれば同山に突撃して占領するというものだった。結局、第三旅団の19日の戦闘報告表は砲兵の3件だけだったが、坊主石山に対する薩軍の攻撃は目に見えて減少した。

C09084798100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0304・0305

  第三旅團大坂鎮臺砲兵第四大隊第壱小隊右分隊長 陸軍中尉三宅敏徳㊞

  戦闘月日:六月十九日 戦闘地名:薩摩國小木原村并ニ仝所山上ニ於テ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第七時整列同第八時左砲車ハ小木原村ニ於テ前面ノ賊塁ヲ射

  擊シ右砲車ハ仝所後方ノ山上ニ於テ発放終日砲戦最モ勉ム午后第七時日西山ニ傾キ

  照準スル能ハス依テ退軍ス   我軍総員:六十壱名

 左砲車は小木原村の中から、右砲車は十曽川右岸の低い山から高熊山を砲撃したらしい。

C09084798200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0306・0307

  第三旅團大阪鎮臺豫備砲兵第二大隊第一小隊 陸軍少尉杉田豐實㊞

  戦闘月日:六月十九日 戦闘地名:鹿児嶋縣下薩摩國伊佐郡セメンノ丘 

  戦闘ノ次第概畧:午前第十一時山砲一門命令ニ依テ右翼司令官竹下中佐ノ本営ニ至

  リ午后第一時セメン野丘ニ備ヱ髙熊山ニ向テ陸續發射ス午後第五時山野ノ尾ノ上村

  ニ帰ル   我軍総員:拾七  傷者:軍属 壱名

 四斤山砲1門を場所不明のセメンノ丘に据え高熊山を午後1時から5時まで砲擊している。

 6月20日、第三旅団は21個中隊と5小隊で右翼軍・左翼軍に分かれて午前3時開戦することにした。安満隊は右翼軍で、正面及び鳥神岳左方の攻撃部署である。戦闘報告表があるので掲げる。

C09084798400明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0310・0311

  第三旅團工兵第二大隊第二小隊第二分隊 陸軍少尉内藤冨五郎㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:小木原村 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時山野村出発同第五時小木原村迠繰込同第七時ヨリ本道

  筋江架橋一ヶ所ヘ築造同第十一時大口迠繰込同夜同所ニ宿陣翌二十一日午前第十一

  時羽月麓村迠繰込   我軍総員:貳拾貳名 

 C09084798500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0312・0313

  第三旅團大阪鎮台砲兵第二大隊第一小隊第二分隊 陸軍々曹佐野貞㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣下薩摩國伊佐郡大口村 

  戦闘ノ次第概畧:村井大尉ノ命ニ依リ砲一門ヲ率ヒ午前三時ニ十分山野尾ノ上村ヲ

  發シ本道ヨリ大口川ニ進メハ戦闘ナリ此ニ於テ放発シ賊ノ敗北ニ従ヒ追射スルヿ両

  三回同八時ニ至ツテ歩兵トトモニ大口村ニ入リ止戦ニ因テ同村ニ舎営ス  

  我軍総員:拾貳名 

 出発場所である山野尾ノ上村とは山野村の一部である尾ノ上村という意味である。大口川とは羽月川だろう。

C09084798600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0314・0315

  第三旅團大阪鎮台徒歩砲兵第二小隊 陸軍中尉石川髙宗㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣下薩摩國伊佐郡 

  戦闘ノ次第概畧:六月十九日午后六時ヨリ平出水村前面防禦線ヲ守備シ同二十四日

  午前三時開戦我軍攻撃盛ニ乄終ニ賊徒各塁ヲ捨テ奔走ス此ニ於テ厚東中佐ノ命ニ依

  リ武田大尉ノ隊トノモニ向野丘ヲ経テ鍋岩谷ニ至リ瀧本大尉ノ隊ト合シ金摺村ノ防禦

  線ヲ守備ス   我軍総員:二拾三名

 向野丘というのは平出水村の東側にある向井野付近の山だろう。平出水村の近くで戦闘後に向井野に移動しており、戦場は両者の中間だろう。鍋岩谷は不明。金摺村というのがいかにも金鉱山の村らしい。

C09084798700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0316・0317

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:千貫岡 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時四十分向野岡ヲ発シ千貫岡ノ賊ヲ攻撃同第三時四十分

  頃開戦我隊向フ処ノ賊塁五ヶ処アリ防禦嚴重我兵一時苦シム深霧賊塁ノ左右翼ニ出

  テ烈敷劔撃進突ス此勢ニ賊逃迯ノ色ヲ顕シ是レニ乗シ烈敷発砲終ニ塁ヲ捨テ走ル我

  兵速ニ守備ヲナシ小隊交換シテ走ル賊ヲ漸々羽月村マテ追撃ス

  我軍総員:百十八人 死者:下士卒一等卒太田萬吉 二等卒西濱  傷者:※12人

   あるが略す

 向野岡は向井野村の山あるいは岡だろう。千貫岡は向野岡の隣位か。石川隊は鍋岩谷で瀧本隊と合流したとするが、瀧本報告にはない。また、石川隊が最終的に守備した金摺村の防禦線は、合流した瀧本隊の最後に出ている羽月村付近だろう。羽月村は場所不明だが、大口街西側か。

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C0908479800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0319・0320

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:古志山 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時半出水村山上ノ哨處ヲ發シトカメ岡右方賊塁ノ正面ニ

  進軍ス此時☐霧深咫尺ヲ弁セス依テ一齊ニ鯨波ヲ發シ銃槍ヲ振ツテ堡内ニ突入ス賊

  兵大ニ狼狽塁外ニ出テ拒戦ス我兵憤戦猛烈ニ發射スルニ依リ遂ニ道ヲ西南ニ取リ潰

  走ス此ニ於テ北クルヲ逐フテ☐村葉月麓ヲ経ヘ堂崎村ニ到リ止戦ス

  我軍総員:八拾人 傷者:下士卒 一   備考我軍※略す

 葉月麓は羽月麓だろう。堂崎は大口街の南南西2.2km付近である。

C09084798900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0321・0322

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍中尉横地 剛㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:トガミ山脉右方  

  戦闘ノ次第概畧:本日午前開戦ニ付昨夜第十二時當線ヲ発シ竊賊塁ニ近接ナル森林

  ニ伏兵シ而期ヲ待リ時ニ暴風実ニ咫尺ヲ辯セス當隊此機ニ乗シ吐喊直ニ賊塁ニ突入

  シ賊ノ堡塁數ヶ所ヲ乗取ル賊狼狽出ル處ヲ失ス當隊憤進尾擊終ニ大口ノ近傍善寺塚

  ニ歩哨線ヲ定ム   我軍総員:百十六將校以下百十六名

C09084799000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0323・0324

  第三旅團名古屋鎮臺第二聯隊第壱大隊第二中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:鹿児嶋縣薩摩國羽月郷ケナシムタ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時ヨリ鹿児嶋縣薩摩國伊佐郡羽月村ケナシムタニ於テ戦

  ヲ初メ賊ヲ追テソーキ郷シモドノ村至リ命令ニ依リ羽月郷善寺塚ニ引揚ケ大哨兵ヲ

  張ル 我軍総員:將校百十六名 我軍ニ獲ル者:銃 元込銃 壱挺 弾薬 ヱンピ

  ール銃弾藥壱箱  器械 鑄形并刀各壱個宛

  備考敵軍:小銃壱挺刀壱本羽月郷ケナシムタニ於テ得ル

       ヱンピール銃弾藥壱箱鑄形壱個同所ニ於テ得ル

  我軍総員:百貳拾参名 

 シモドノ村は下殿村で、羽月川と川内川の合流点の少し北にある。元込銃はスナイドル銃である可能性がある。

C09084799100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0325・0326

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:薩摩国大口郡腰山上 

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時三十分頃岩塚岡ヲ発シ仝第四時頃腰山ノ麓ニ至リ雲霧

  ニ乗シ側面及ヒ正面ヨリ銃鎗突感直ニ山上ノ數壘ヲ陥ル賊敗走尾擊シテ終ニ善十塚

  ノ岡迠占領ス次ニ午前第七時ナリ   我軍総員:六拾壱名

 分からない地名ばかりが出てくる。善十塚は善寺塚か。ゼンジ塚がゼンジュ塚と聞こえたのか。

C09084799200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0327・0328

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:十年六月廿日 戦闘地名:観音谷 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前一時大哨兵ノ位置出発観音谷ノ山頂ニ達スレハ東方既ニ

  白ク我兵ヲシテ右側ニ当ラシム賊ノ弾丸射ルヿ雨ノ如シ我カ兵奮擊鼓譟シテ進ム遂

  ニ賊塁数十ヶ所ヲ拔ク尚オ逃ルヲ遂テ岳南ニ赴ク時ニ午前第五時ナリ 

  我軍総員:九十五名

 観音谷とはどこか。

C09084799300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0329・0330

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:觀音谷 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分各隊賊塁ノ左正面ヨリ侵襲ス賊早クモ之ヲシリ

  速クニ各隊ニ向テ乱射ス此時我隊第壹半隊ヲ賊塁ノ背後ニ迂回セシメ放火壹回直ニ

  突進ス賊之ヲ知ルヤ大ニ狼狽シ守地ヲ捨テ四方ニ散乱シタリ 我軍総員:八十七人

 C09084799400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0331・0332

  第三旅團第十聯隊第三大隊第三中隊大尉山村政久㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児縣大口郡土山 

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日午前第三時淵辺村ノ山ヲ出第三時土山ノ敵塁ニ向ヒ開

  戦直チニ臺塲ヲ乗取夫レヨリ間道本庄万出村ニ至リ大哨兵ヲ布ケリ  

  我軍総員:百四拾五人 俘虜:未詳一人 備考敵軍:一敵ノ人夫体ノ者壱人ヲ縛ス

  直チニ本営エ送ル

 土山と本庄万出村が場所不明。我軍備考は薄くて読めない 傷者下士卒も薄くて読めない。

C09084799500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0333・0334

  明治十年六月廿二日歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 第三旅団    

  陸軍大尉安満伸愛㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:大口 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分ソンダ山ノ賊ヲ打拂ヒ続テ河邊ノ賊壘数多ヲ取

  リ尚進テ大口本道守賊ノ左翼ヲ猛擊ス彼敗兵ヲ留メ必死ノ形勢ニ移リシト𧈧豈ニ保

  ツ可ンヤ遂ニ又敗ス尾撃シテ大口旧城ニ到リ兵ヲ留ム再攻撃ノ命ニ依リ進テケ子山

  ニ到ル爰ニ於テ固守ノ命ヲ拝シ大哨ヲ布ケリ  我軍総員:八十七人 備考:一

  死傷異情ナシ 一糧十四俵花北村ニ於テ獲タリ 一此日費ス所ノ弾数三千八百発ナ

  リ

 ソンダ山は羽月川右岸の園田村背後の山という意味である。ケ子山は、かね山と読むかも知れない。大口町の東側に金山があったということか。付近の菱刈金山は1981年発見である。

 戦闘報告表には記載がないがこの日、安満大尉は薩軍所持の白米と玄米を分捕っており、23日までに厚東中佐に届け出ている。

C09084912200第二号 自五月至六月 來翰綴 第三旅團参謀部 

去ル廿日攻撃之際賊徒諸事之白米拾俵玄米四表分捕候旨安満大尉ゟ届出候間即大口村出張糧食分配處ヘ引渡方可取斗旨該隊ヘ相達置候間此段御届ニ及置候也

  六月廿三日厚東陸軍中佐

   第三旅本營

       御中

 それらを官軍が消費したかどうかは分からない。

C09084799600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0335・0336

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊附属同聯隊第貳大隊第四中隊一小

  隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:大田村 

  戦闘ノ次第概畧:此日攻撃隊トナリ午前第二時小木原村砲台エ整列直ニ對向ノ地エ

  散布俄カニ急進突戦ノ譜合ヲ吹奏シ正面左右トガメガ丘左ノ諸塁瞬間ニ乗取續テ連

  突セシ折賊ノ背后ヲ絶ツナランカ正面左ヘ突出シタリ依テ我軍一時混乱ヲ醸シ甚

  戦ナレ共肉薄是ヲ攻メタリ賊手ノ舞ヒ足ノ踏處不覺シテ散乱敗走北クルヲ逐テ大口

  街ヲ經テ花北山々上マテ追撃止陣シタリ   我軍総員:三拾八名

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 上図は南報告に出ている地名を示したものである。小木原村を出発し大田で羽月川を渡り、鳥神岡の麓で戦ったのだろう。この朝、鳥神岡の麓の丘陵、ソンダ山で戦った別の隊の報告もあるので、南隊も同所で戦ったのだろう。その後大口街を通り抜けて花北山で留まっている。花北は平野部にあり、付近の山に登って守備したのだろう。具体的にはどこであるかは不明。図の下部には辺見十郎太の涙松跡がある。ウィキペディイアから説明文を引用する。「明治10年6月20日、西南戦争の高熊山の戦いで敗走した辺見は、現在の鹿児島県伊佐市菱刈市山にあった松並木で馬を止め「死を堵して固守すること四句余の山塁、いまこの要害の地 (高熊山)を糞鎮(政府軍)に奪わる。あぁ、吾が事終った。今は鹿児島に帰って死に就かんのみである。」と嘆き、涙を流したと伝えられている。」 南隊は前もそうだったが報告を二種類作成している。

C09084799700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0337・0338

  第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:大田村 

  戦闘ノ次第概畧:此日攻撃隊トナリ午前第二時小木原村砲台エ整列直ニ對向ノ地エ

  散布俄カニ急進突戦ノ譜合ヲ吹奏シ正面左右トガメガ丘左ノ諸塁瞬間ニ乗取續テ連

  突セシ折賊ノ背后ヲ絶ツナランカ正面左ヘ突出シタリ依テ我軍一時混乱ヲ醸シ甚

  戦ナレ共肉薄是ヲ攻メタリ賊手ノ舞ヒ足ノ踏處不覺シテ散乱敗走北クルヲ逐テ大口

  街ヲ經テ花北山々上マテ追撃止陣シタ 我軍総員:九拾三名 傷者:下士卒壱名

 対向の地は羽月川の対岸らしい。淵辺や園田の集落がある辺りか。人数が異なるだけである。

C09084799800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0339・0340

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 煥之㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣下小木原村前方 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時援隊トシテ小木原邨ヲ発シ本道ヨリ進ム然ルニ第六時

  頃本道ノ味方殆ト敗ルヽノ勢アリ依テ古田少佐ノ命アリ援隊ヲ道ノ左右ニ配布シ

  攻撃當方遂ニ賊大口ヲ捨テ走ルニ付又攻線ヲ攻撃隊ニ譲リ隊ヲ集メ援隊トナリ☐ヒ

  本庄ノ下出村☐☐江至リ茲ニ大哨ヲ占ム

  我軍総員:百二拾五名  備考:死傷ナシ此日費ス所ノ弾薬五千発

 岡隊は本道を進んだので小木原村から大口中心部に直線的に移動したらしい。本庄ノ下出村は場所不明。小銃弾は平均40発発射している。

C09084799900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0341・0342

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長 陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:ソンダ山 

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月廿日午前第三時トカメ丘左方ソンダ山之賊塁ニ向ケ

  攻撃于時大雨且ツ濃霧ニ乗シ潜テ賊ノ左方ニ出テ突然彼カ側面ヲ撃ツ賊兵狼狽一時

  烈シク防戦スト𧈧モ我兵奮進遂ニ賊塁九ヶ所乗取彼大ニ敗走逃ルヲ追テ羽月ニ至テ

  休戦ス此日費ス所ノ弾数凡ソ千二百余発   我軍総員:九拾三名

 前にも出てきたが鳥神岡の東側に園田村がある。ソンダ村と聞こえたので漢字が分からず、聞こえたとおりに書いたのだろう。バンバデーラと聞いたら馬場平とは思わないようなものである。昔の発音を標準語化するのが流行っていて、ウエンバイが国指定史跡上野原ウエノハラになったのと同じである。下村隊は一人13発弱の小銃弾を発射しているのでそれ程の激戦ではなかった。

C09084800000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0343・0344

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿兒嶋縣ハツ郡千貫ヶ山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時平泉村ノ防禦線ヲ發シ援隊ニテスワノヽ山ニ至ル処第

  三時先鋒隊開戦ニ付直ニ之レニ応ス暫時ニシテ賊兵ヲ敗走セシム而シテ進ンテスワ

  ノヽ山ニ至リ第十一時茲ニ防禦線ヲ占ム

  我軍総員:百三十二 傷者:下士卒一

  我軍ニ穫ル者:銃:二 器械:刀二

  備考我軍:一傷者一名ハ一等卒根本末吉スワノヽ山ニテ傷ク

  備考敵軍:一銃二挺ハスナイドル 一刀ハ破損物 右スワノヽ山ニテ得ル

 スワノヽ山は場所不明。平泉村つまり平出水村を出発しているので、羽月川の右岸を進んだのだろうか。スワノ前遺跡というのが左岸の坊主石山の南東にあるのを参考までに掲げておきたい。結論は保留する。分捕り品にはスナイドル銃2挺がある。

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C09084800100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0345・0346

  第三旅團大坂鎮臺砲兵第四大隊第一小隊右分隊長 陸軍中尉三宅敏徳㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国大口驛

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時整列同第七時山野村出立直チニ大口ニ進入ス敵退去ス

  ルニ依テ該地ニ宿陳ス 我軍総員:六拾壱名

  我軍ニ穫ル者:砲:壱門外ニ車臺二輛 銃:小銃三挺 弾薬:大砲彈三百三十四個

  外ニ箱入七個小銃彈五百外ニ五箱 器械:具足一領 鎗三十九本 刀七本 銃劔十

  二本 喇叭三管

 三宅隊は山野村を出発し戦うことなく大口街に直進したようである。分捕った砲弾334個と箱入り7個は5月上旬に山野の戦いで別働第三旅団から分捕ったアームストロング砲弾もあるかも知れない。

C09084800200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0347・0348

  第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊 大尉沖田元康廉㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前一時整列直ニ出発髙熊山下ニ至リ卒ニ令シ賊塁ニ達セスンバ

  発火ヲ禁ス凖備已ニ終テ兵ヲ潜メ山頂ノ賊塁ヲ指シテ攀躋塁ヲ巨ル纔カニ五六米突

  時已ニ三時我全兵大声銃鎗ヲ揮テ突入賊狼狽或ハ放火スルモ弾着髙ク或ハ降雨ノ為

  メ雷管鳴ヲ傳火ヲ得ス漸時ニシテ賊ノ三塁ヲ奪フ直ニ廠舎ニ火シ更ニ追テ又数塁ヲ

  陥ル是ニ於テ兵ヲ半月ニ布キ猛烈火擊夜ノ明ルヲ竢ツ天明ケ全山ヲ掠シ猶山下ノ残

  賊ヲ尾擊シ此夜鳥越ノ右側ニ於テ守線ス   我軍総員:八十九名 失器械:銃剣

  三挺 我軍ニ穫ル者:

  俘虜:下士卒一名 銃:十二挺 弾薬:四箱外大砲弾三個

  備考我軍:〇銃剣三挺髙熊山ニ於テ衝突ノ侭発火ノ砌紛失

  備考敵軍:〇俘虜鹿児嶋士族一佐弥右衛門〇ヱンヒール十挺シニーデル二挺〇弾薬

  ハヱンヒールノミ此銃及ヒ弾薬ト凡テ髙熊山ノ賊塁ニ於テ分捕

 午前1時に出発して、高熊山の下に到着して密かに登り、薩軍の台場から5mか6mの近くまで忍び寄り、開戦は午前3時だった。雷管鳴ヲ傳火ヲ得スは「雷管、鳴るを伝うる火を得ず」だろう。この日は雨だったので、金属薬莢実包を使わない前装銃・管打銃は筒先から粉火薬を入れるため、雨に濡れて発火しなかった、ということ。シニーデルはスナイドル。スナイドル銃は金属薬莢を使用し、官軍の多くが装備していた。

C09084800300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0349・0350

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第二中隊長 陸軍大尉福島庸知㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時防禦線ヲ発シ同第三時髙熊山ノ塁壁ヲ襲ヘ一時ニ賊兵

  ヲ追拂ヘ全ク髙熊山ヲ占領テ斥候ヲ出シ賊ヲ追躡シ大口邉ニ入ル賊退キ去ル 

  我軍総員:九十五 傷者:下士卒 三 我軍ニ穫ル者:銃 十二

 午前2時に防禦線を出発し、午前3時に高熊山を攻撃している。攻撃が3時からというのは直前の沖田報告と同じである。一気に片が付いた。

C09084800400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0351・0352

  第三旅團工兵第二大隊第一小隊第二分隊陸軍少尉横地重直㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時塹溝造築ノ爲メ髙熊山ノ麓ヲ発シ頂上ニ登レバ賊等敗

  走スルヿ数里漸ク進テ大口村ヲ過キ馬越街道ナル田中村ニ至レバ既ニ☐☐テ本夜同

  村ノ民家ニ宿陣ス   我軍総員:拾九名

 高熊山の戦いが始まった時間の午前3時に麓を出発し、頂上に到着したときには薩軍(熊本隊)は数里も先に敗走していた。それで築造作業はせず馬越街道の田中村に宿陣している。

C09084800500 「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0353・0354

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊 中隊長代理中尉松田是友㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時三十分髙熊山出発嶮ヲ不厭山上ノ賊塁ヲ攻撃我隊ヲ

  シテ先鋒賊ヲ突刺候処賊アハテサヽユル者ナク敗走及依テナンナク数塁ヲ攻落シ右

  小隊ヲシテ走賊ヲ遂擊ス左小隊ヲシテ山ノ口山辺ノ賊ヲ追打数塁ヲ落シ入夫ゟ馬越

  山ヘ防禦線ヲ定 

  我軍総員:九十八名 我軍ニ穫ル者:俘虜:未詳 一名

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 山ノ口は坊主石山の南東側麓の村であり、その名で呼ばれた山は坊主石山の南西部分か、もしくは村の東側の山だろう。その後進んだ馬越街道の路線は分からないが、中世の馬越城跡が上図左下にある。付近の山が馬越山だろうか。

C09084800600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0355・0356

  第三旅團近衛歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊 中隊長陸軍大尉竹田實行㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日髙熊山攻撃ノ為メ午前第二時大哨兵ヲ発シ同山左ノ麓

  ニ兵ヲ散布シ第三時銃鎗進撃シテ山上ノ賊塁ヲ乗取リ爰ニ防禦ノ凖備ヲナシ夫ヨリ

  馬越街道稲荷山ニ進軍シテ大哨兵ノ凖備ヲナス 

  我軍総員:百三拾八名 傷者:下士卒壱名 

  我軍ニ穫ル者:銃:ヱンヒール短銃 二挺 弾薬:仝 五百発入 壱箱

 稲荷山は他の戦闘報告表にも出てくる。馬越城跡の東か北東だろう。

C09084800700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0357・0358

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長陸軍大尉斎藤徳明㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時髙熊山防禦線出発同第三時攻擊隊ノ進ヲ見直ニ髙熊山

  ニ攀登シ一分隊ヲ以テ斥候出シ后チ一半隊ヲ攻擊隊ノ援隊ニ発遣セシメ賊兵ヲ長駆

  シテ徳兵衛村ノ臺ニ防禦線ヲ定メ守備ス 

  我軍総員:百拾四名 

  我軍ニ穫ル者:ヱンヒール銃二挺 スナイドル銃 壱挺

  備考敵軍:午前第二時出発髙熊山麓森林中ニ兵ヲ潜伏セシメ同第三時攻擊隊ノ進ヲ

  見直ニ兵ヲ二分シ一ハ髙熊山横面堡壘ノ右翼ニ進ミ一ハ左翼ニ進ミ山ニ攀登シ直ニ

  散兵ニ配布シ一分隊ヲ以テ山下ノ村落ニ斥候ヲ出セシ時賊ノ敗兵返テ我カ兵ニ抗ス

  故ニ戦フ須臾ナリ又一半隊ヲ出シ攻撃隊ノ援隊タラシメ遂ニ進テ徳兵衛村ノ臺防禦

  線ヲ定メ守備ス

 徳兵衛村は場所不明だが、伊佐市役所の南東約5,6kmに徳辺(とくべ)がある。 

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C09084800800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0359・0360

  第三旅團砲兵第四大隊第壹小隊分隊長 陸軍少尉居藤髙次郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:朝第二時半山野村出発鳶ノ巣岡ニ向ケ進ミ髙熊山ヲ超過シ小苗代

  村ニ繰込馬越臺ニ至テ数十個ノ塹溝ヲ築キ夜第十二時重冨村ニ引揚ク 

  我軍総員:拾五名

 重冨村は徳辺から2kmほど高熊山寄りにある。小苗代村は地図には載っていない。検索すると「薩摩旧跡巡礼」というブログに「今回は伊佐市菱刈市山にある小苗代薬師堂跡です。十三世紀頃には存在していたという、歴史ある薬師堂であったそうです。」という記事を見つけた。今は松原神社といい、辺見十郎太の涙松跡から南東200ⅿ付近にある。当時その村名が存在したかどうかは兎も角、戦闘報告表ではこの辺りを小苗代村と呼んだのである。

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C09084800900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0361・0362

  第三旅團工兵第二大隊第壱小隊第一分隊 陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣於大口郡小木原村

  戦闘ノ次第概畧:大口丑山小木原村防禦線ヲ固守シ遂ニ進テ孫子下村ニ達シ同所大

  哨兵線ニ守備ス 我軍総員:五十三人   備考我軍:当小隊ノ内徒歩編製ノ隊

  丑山は牛尾の山、工兵隊だから攻撃には参加せず、小木原村の防禦線にいて、その後、馬越村で大哨兵の守備についている。孫子下村はマゴシ村、あるいはマゴシタ村つまり馬越村のこと。

C09084801000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0363・0364

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊 陸軍少尉小倉信恭㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡栗山村

  戦闘ノ次第概畧:六月廿日午前第二時三十分左翼開戦スルヤ我隊栗山ノ賊塁ニ對戦

  シ同所賊壘ヲ乗取リ左翼賊軍ノ火ノ挙ルヲ見ルヤ一層猛烈ニ進入スル処賊遂ニ悉ク

  胸壁ヲ棄テ隣奔リ之ニ乗シ里村迠追撃ス然レノモ同所ニ於テ賊戦シ勢ヒ盛ナリ故ニ苦

  戦ニ及ヒ我兵稍退歩シテ猛射スレバ賊終ニ大敗シ奔リ稲荷山迠尾撃シ仙臺川ヲ隔テ

  茲ニ大哨兵ヲ張ル 

  我軍総員:百八人 傷者:將校二人 下士卒四人 

  我軍ニ穫ル者:銃 和銃三挺 備考我軍:※傷者名を略す

 栗山は不明。これも園田村がソンダ村と表記されたように郡山のことかも知れない。南隊報告0335部分に掲げた地図に郡山を示した。高熊山の南西で、小木原村の南東側に位置する。コオリ山がコリ山とかクリ山に聞こえたので栗山と書いたのだろう。栗山を奪った後に進んだ里村は郡山から水田地帯を1.7㎞南下した所、大口の町の中心の西部、羽月川沿いにあり地理上の関係は矛盾しない。

 仙臺川は東流して大口中心部から南西4,6km付近で羽月川に合流する川内川のことである。稲荷山がまた出てきたが、記述から川内川の手前、大口側にあると分かる。

C09084801100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0365・0366

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長代理 陸軍中尉中村 覺㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:高隈山

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第二時三十分髙熊山ノ麓ニ向テ進撃同シク第三時開戦忽 

  チ大喊ヲ作ツテ賊塁ニ驅ケ入ル賊皆ナ支スシテ走ル尾擊シテ大口ノ臺ニ至ル頃賊又

  返リ戦フ此時我兵ヲ左ニ大迂廻セシメテ賊ノ側面ヲ撃ツ賊畢ニ死体ヲ棄テ走ル追撃

  シテ「マゴシ」ノ臺ニ至ル戦止ム時ニ午后第四時三十分頃也費ス処ノ弾丸大七千發

  我軍総員:将校以下百三拾貳名 死者:将校一 下士卒一 傷者:下士一 

  我軍ニ穫ル者:銃 火縄銃一挺及ヒ刀三本 備考我軍:※死傷者名を略す

 小銃弾は一人平均53発を使用している。

C09084801200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0367・0368

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊等陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:十年六月廿日 戦闘地名:薩摩国大口村城山

  戦闘ノ次第概畧:午前四時大口進撃援隊トシテ進軍髙熊山ノ左翼前方ニテ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦直チニ城山ヲ落シ入レ大口村ニ進入續テ馬越村ノ上ノ山ニ追撃ス

  我軍総員:百二十五名 死者:下士卒一名 傷者:下士卒一名 敵軍総員

  :二百人余 死者:三名斗 傷者:不詳 我軍ニ穫ル者:弾薬 若干 糧

  二十四俵 備考我軍:傷者一名二等兵卒☐原熊吉也午前四時頃開戦大口ヲ

  落シ入レ同十二時頃馬越村ノ山上迠追撃防禦線ヲ同所ニ着ク 

  備考敵軍:死傷若干見請ルト𧈧モ助ケ去二三名戦地ニ死体ヲ残セリ 一弾

  薬若干ハ破捨セリ 一粮米ハ粮食課ニ送ル

 伊佐市(大口)中心部、市街地に接して北西部に大口城跡がある。これが城山だろう。

C09084801300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0369・0370

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊 陸軍大尉本城幾馬㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡大口町

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日午前二時開戦仝午后三時ニ至ル

  我軍総員:八十七名 死者:下士卒一 傷者:下士卒五 我軍ニ穫ル者:

  俘虜 下士卒一 備考我軍:明治十年六月二十日午前第三時小野木原ノ大

  哨兵ヲ引拂シ大口ニ向ヒ進撃仝第三時半發戦直ニ胸壁數十ヲ乗取リ大口村

  迠追撃同處ニ於テ賊俄ニ拔刀突入一時苦戰終ニ討拂ヒ尚尾撃スル叓三里余

  已ニ馬川内村ニ至ル時賊遠ク迯ケ去ルヲ以テ同所ニ於テ大哨兵ヲ布ク此時

  彈藥壱万発ヲ放ツ傷者伍長田邉正則仝下村保輔兵卒中嶌捨治郎川口與吉坂

  本留吉死者兵卒嶌田辯藏

  我軍ニ穫ル者:器械:大砲玉七拾五個 小銃玉壱箱 鉛壱俵 劔八本 糧

  :米貳拾弐俵

  小野木原は小木原だろう。馬川内村はウマゴシ村、つまり馬越村である。中世の馬越城跡を北側背後にもつ集落が馬越村だろうか。小銃弾は一人平均115発を使用している。普通は百発所持していたので、補給を受けなければ危険な状態になっただろう。

C09084801400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0371・0372

  第三旅團歩兵第拾貳聯隊第貳大隊第二中隊長陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡大口町

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時鳶巣ヲ出発シ二時四十分髙熊山下ニ至テ隠匿

  シ三時五拾分開戦即時臺塲畧取直ニ進撃午后第四時馬越ニ至テ防禦ス

  我軍総員:百四十二名 備考我軍:傷者壱名ハ二等卒淺井忠次放ツ所ノ弾

  数四千五百發  

 鳶巣丘を午前2時に出発し、40分かかって高熊山の下に到着し、3時50分に開戦したという。他の隊は3時に攻撃を始めたのとは異なる。一人31発強の銃弾を発射。

 

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 5月 ※少しずつ筆を加えて絵を完成させていく感じです。片隅から描くことができないので。

  5月5日、第三旅団は直前に第四旅団の一部を吸収合併していたが、その26個中隊は本拠を馬見原(厚東中佐)に置き、新町(古田少佐)・高森町(大島少佐)・上色見村(坂本大尉)・黒川村と大津町と下市村と村山村(友田少佐)・下色見村(川村少佐)に部署を割り振った。4月19日時点では安満隊は川村少佐に属していたので、そのままだとすれば安満隊は下色見村が配置先であろう。色見村は阿蘇五岳の一つ、高岳の南東麓にあり高森町の北側に位置する。

 5月6日薩軍熊本県南部の人吉や熊本県境に近い宮崎県江代に移動してしまったことが判明し、三浦は総督本営に建議した。

  方今一旅團ノ兵員ヲ舉ケテ高森地方ニ置クト雖モ曾テ攻守ノ用ヲ成サス且ツ三田井

  口ノ如キハ既ニ熊本鎭臺ノ分屯アリ更ニ向フ所ヲ定メ賊衝ヲ突クニハ若カス

 本営もこれを認め、三浦は「高森地方ノ諸兵ヲ収テ熊本ヨリ八代ニ至ルヘシ馬見原ノ分遣兵ハ便路八代ニ至レト」命令し、第三旅団は東向きの進軍方向を南西方向に変換することとなる。7日、軍団本営は夏略衣について雛形を示して通達している(「西南戰袍誌」pp.56)。

 8日時点の新たな守地は熊本県宇土半島基部付近の隈庄・宇土町・松橋である。安満隊は大島少佐に属して他の6個中隊と共に宇土町に配備された。

 5月9日、八代の牙営で別働第二旅団の山田顕義少将、別働第三旅団の川路利良少将と会議したが、その際、川路が水俣口の戦況不利を語り、翌10日、三浦・山田は再度協議し、第三旅団の10個中隊を水俣口救援の先鋒として翌朝派遣することを決めた。この日、第三旅団の兵卒以上の人数は3,460人だった。11日第三旅団先鋒を乗せ、汽船貫効丸は八代を投錨し水俣に向かった。

 貫効丸は1869年英国で製造した318トンの木造蒸気船である。1時間に24kmの速度を出せた(単行書・処蕃類纂・会計 単00786100アジ歴)

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  過刻御面該之後只今寛功丸水俣ゟ到着第三旅團士官帰来承候得共別動第三旅團ゟ山

  野江差出有之候兵隊も昨朝賊ゟ襲来セラレ遂ニ石坂迠引揚其後陸續襲来此度者余程

  多分之賊勢ト相見申候都合ニ依而者出水江出張之兵も引揚可申支議通報有之然而者

  先刻弐中隊丈ケハ水俣近傍ニ残置候様可相達ト申上直ニ其侭相達候得共右之仕合ニ

  付弐中隊ヲ水俣ヘ残置候得者必☐出水ハ引揚可申ト存候何分一且官軍之入込候地ヲ

  容易ニ賊有トな須樣ニ而者大ニ人心之帰向ニ関係シ自カラ威令も不相行樣可相成と

  存候間兎ニ角出水ハ固守致様申遣進候ニ付御地滞在兵之中今弐大隊至急彼方江出張

  相成候様御指揮可被下候之此段申進候也

  五月十一日       三浦少将

             山田少将 (※ニ段表示できない)

  山縣参軍殿

 

    第三旅団はこのあと佐敷・水俣にまたがる大関山周辺に一ヶ月前後展開し、ここを舞台に薩軍と戦闘を繰り返すのだが、第三旅団が現れる前の大関山の状態を振り返っておきたい。

 5月3日、川路少将の別働第三旅団は一小隊を大関山に配置したのを始め、石坂口・大河内と古里・寒川村の八切嶺・猩々坂・久木野村に部隊を展開した。大口方面の出入りを抑えたのである。4日、大口西部の山野村などの薩軍を襲って占領し、5日後続部隊も山野に進んだ。6日、大口に向かって進軍したが牛尾川で薩軍が迎え撃ち、官軍は山野村に下がって守備をした。8日、薩軍大関山・八切峠・大河内村に来襲し、官軍は日当野に退却して守備を配置した。10日、官軍先鋒の山野村が襲われ、官軍は水俣市深川村の高岳・金毘羅山・中尾山に退却した。11日、高岳・深川街道・深渡瀬・金毘羅山・矢代山などが襲われ16日まで戦闘が続いた。その間の12日、大関山から北に延びた尾根の東側にある大野村を本営とした薩軍佐敷町まで襲来した。この時点で薩軍大関山と北側に続く約10kmの尾根(掃部越・札松峠等)を占領していた。

 上記の文書は、薩軍の攻勢が続くので、5月11日、第三旅団の三浦少将と別働第二旅団の山田少将が陸軍の山縣参軍に二大隊の出兵を要請したものである。上記の報告は一例だが、このような書面が頻繁に行き来したのである。幸いに今、これらを見ることができるが、ネットやデジタル時代の現在の情報が将来どれほど残るのか心配になる。

 水俣に第三旅團5個中隊を運んだ貫効丸は11日午後もしくは12日に八代に帰り着き、その日の午前3時三浦以下はこれに搭乗して八代と水俣の中間にある佐敷に移動した。この12日朝、佐敷東方の鉾野峠や佐敷中心部に向かって薩軍の襲撃があった。その薩軍は人吉方向からではなく、南東側から出発している。背後には後々戦闘がある札松峠や大関山、国見山がある。第三旅団は到着したばかりだったが、古田中佐の2個中隊が佐敷駐屯の別働第四旅団に加勢し撃退に成功した。

 「戰記稿」によると、この12日の薩軍の攻撃は鵬翼隊約300人が鉾野峠南東3,8kmの祝坂方面から三方向に分かれて官軍を襲撃したものだった。一手は桑原・田川の哨兵線を、二手目は兼丸山を襲いこれらが佐敷の町中に迫ったのである。兼丸山の位置は同名の中世山城跡から推定すると、宮浦川と佐敷川の合流地点の北東側に突き出た尾根の先端付近であろう。もう一手は塩汲山の麓から松生峠という恐らく鉾野峠の東側であろう場所を襲い、続いて鉾野峠に襲い掛かった。この日、薩軍は明け方の暗いうちに出発し、戦いは午前8時に薩軍の退却により終わった。この方面攻撃の薩軍は本拠を祝坂の南1kmの大野村を根拠地にしていた。

f:id:goldenempire:20210630073410j:plain    12日、大口から水俣に川路の旅団が退却してきたので、水俣は約二千の兵となり第三旅団の存在は過剰に思えたので佐敷に退いて水俣と佐敷の中間の空虚を埋めることにした。

 第三旅団の水俣派遣兵を佐敷に引き揚げる命令を水俣に派遣されていた揖斐大佐に伝えるため亀岡少尉試補が12日、水俣に着き、川路少将に伝達している。しかし、鹿児島県大口から水俣に退却してきた川路旅団は弱々しかった。

  水俣の景況は警視隊一たび山野に敗れし以來畏縮振はず、既に深川村も奪れ現に水

  俣背後の矢筈彌次郎兩山に在て僅かに敵を支へ、陣町の如きは往々彈丸の達する距

  離に敵あり恟々とし輜重糧食の如きは汽船に積載し一歩を誤らば悉く海に投せんと

  する勢なり、故に強て警視隊の請求に依り先着近衛、鎭臺兵の若干を防禦線に出だ

  して援助せしむ警察官の云ふ所は我等既に賊の悔慢する所となり、如何ともする能

  はず只黄帽鎭臺兵を指すの影を視するのみにて足れり赤帽兵の如きは望外の賜ものに

  して實に蘇生の思ひあり或は・・(「西南戰袍誌」pp.59・60)

という状態だった。川路は揖斐が佐敷に帰るのを強いて止め、その説明の使いを三浦のもとに遣っている。

   16日の第三旅団守線は以下のようである。右翼(津奈木川ヨリ中尾村ヲ經テ上木塲ニ至ル)・中央(上木塲ヨリ石間伏ヲ經テ豊澤ニ至ル)・左翼(桑原ヨリ鋒野峠異体字山ヲ内線トシ大尼村ノ岐路ニ至ル) 

 当時、第三旅団は歩兵19個中隊・工兵4分隊・砲兵2分隊があり、この内から内藤少佐を司令官として4個中隊を上木場に配置している。中央の豊澤(後出の「熊本県の地名」では、1875年に長崎村と豊尺村・楮ヶ迫村が合併し丸山村になっている。豊尺のことか。下図の大関山の北北西約5km付近だろう)と中尾村が場所不明で大尼村は大尼田村である。右翼は川路の別働第三旅団と連続していた。

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 5月18日、薩軍が上木場を襲撃した。

  午前十時久木野ノ賊凡ソ二百餘砲二門ヲ以テ第三旅團上木塲ノ守線ヲ襲フ我兵直チ

  ニ應戰ス賊更ニ兵ヲ增シ來リ迫ル乃チ若干ヲシテ大關山ニ迂回セシメ賊ノ側面ヲ擊

  ツ午後七時彼レ少シク退ク我兵追擊夜ニ入テ兵ヲ収ム

 第三旅団は芦北町上木場に進み、南側下方の水俣市久木野を臨んで守線を張っていたのである。久木野は大口と水俣市街を結ぶ水俣川支流域の集落である。明治時代の地図平凡社の「鹿児島県の地名」『日本歴史地名大系』附録地図)を見ると久木野を通る北西から南東へ続く山道が主要道路となっているようであるが、この道は戦国時代や安土桃山時代にも使われている(「上井覚兼日記」)。後日出てくることになるが、第三旅団は小川内を通り鹿児島県の山野村に進軍しているのである。上木場集落は左に大関山を控え、後方には三十丁坂の要所があり、右には水俣の諸山と対峙する重要な場所の集落である。

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この時は官軍守備範囲には大関山は入っておらず、西側の上木場集落が襲われた。この戦闘にかかわったのは歩兵5個中隊で494人だった。戦死2人・負傷17人。再び翌19日午前10時、上木場は正面からというから南側から襲われ午後6時官軍は三十丁坂に退却した。地図では三十挺坂とある。

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 この19日の安満隊の戦闘報告表が存在する。表は下図だが、抜き出して記述内容を掲げておきたい。

   C09084784000「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」0017・0018

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸愛 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:長左エ門釜

  戦闘ノ次第概畧:士官壱名三分隊ヲ引ヒ分進シ長左門釜ニ至リ其地勢タルヤ前後渓

  谷ニ樹木繁茂更ニ展望ナク一線ノ道路ナルアル而已時ニ午前第十時賊兵凡ソ三百余

  突然前面左翼ヨリ襲来ス遂ニ我隊利アラスシテ退却ス

  我軍総員:四十三人 死者:下士卒貳名 傷者:下士卒三名 

  生死未明:下士卒壱名

 43人は三分隊の人数である。

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 19日の戦闘報告表は他にもあるので掲げる。

C09084784100「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0019・0020

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第一大隊第三中隊長心得 井上親忠㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡上木塲村 我軍総員:73

  傷者将校1 下士卒7

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時頃賊兵進擊ス因テ死力ヲ尽シ之ヲ防クト𧈧モ衆寡支エ

  難ク終ニ午後第五時頃上木塲村ノ后方ノ山ニ引揚ケ之ヲ防ク

C09084784200「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0021・0022

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 矢上義芳 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:上木葉村出ノ山 我軍総員:95 傷者 下士卒5

  生死未明 下士卒2

  戦闘ノ次第概畧:十九日賊大ニ兵員ヲ増加シ左翼ニ在ル諸中隊ヲ衝突シ后チ敗走賊

  益進撃我隊ノ背后ニ出テ挟撃ス我隊防戦之ヲ務ムト𧈧モ勢ヒ支フヿ能ハス三十丁坂

  ニ退キ防戦

C09084784300「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0023・0024

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:肥後國芦北郡古石村ノ内境石 我軍総員:105 

  戦闘ノ次第概畧:午前第十一時安満大尉ノ隊ヘ援隊トシテ肥後國芦北郡古石村ノ内

  長左衛門釜ヘ進発大ニ苦戦午后五時三十分境石ヘ退却同處ニ於テ留戦直ニ大哨兵ヲ

  備フ (※境石は場所不明)

C09084784400「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0025・0026

  第三旅團近衛歩兵第貳連隊第壱大隊第三中隊長 陸軍大尉大西 恒㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:上木塲長左衛門釜 我軍総員:147 死者:兵

  卒4 傷者:将校1 伍長1 兵卒14 生死未明:伍長2 兵卒6 人夫2

  戦闘ノ次第概畧:五月十九日午前第五時発裡ニ而當中隊山田中尉引卆ニ而為大斥候

  上木塲ヘ出張然ル所長左門釜敗走ノ越(※趣のつもり)ニ而直ニ為援隊出張午後第四

  時過迠防禦終ニ戦破ス亦直ニ上木塲ヲ防禦ス

 長左衛門釜の場所は不明。「戰記稿」の19日の記述から検討する。

  十九日午前十時賊又上木塲ヲ侵シ正面左翼ヲ猛擊ス我兵奮激必死格鬪スレノモ彼益〃

  兵員ヲ增シ勢頗ル猖獗我兵最モ苦戰シ午後六時遂ニ退テ三十丁阪ノ上ニ據リ力ヲ竭

  シテ之ヲ拒ク(※この日の戦死14人・負傷59人)

C09084784500「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0027・0028

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第四中隊 曹長神尾一信㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:大関山 我軍総員:95 死者:下士1 兵卒7

  傷者:中尉1 少尉2 下士9 兵卒13 生死未明:下士1 兵卒3

  戦闘ノ次第概畧:午前第十時頃ヨリ賊我撒兵線ニ向テ襲来ス我隊賊ノ☐☐翼ヲ撃チ

  大ニ戦ヒシカ后ニ至リ賊ノ勢ヲ増依テ必死防戦ノ術ヲ尽ストノモ遂ニ防守スル能ハス

  シテ上木塲村ニ退却ス三十峠ニ防禦線ヲ定ム

 5月19日午前十時に開戦し、正面(前面)左翼からの攻撃を受けたことは安満・神尾の戦闘報告表と同じである。分かっている登場場所は上木場や三十丁坂である。その他不明場所も周辺にあるらしく、また大関山の西側地域のようである。

 平山隊は午前11時に長左衛門釜に応援に駆け付けているので、途中から参戦したのだろう。しかし、午後6時に退却し三十丁坂の上で防戦したことは安満の戦闘報告表にはなく、長左衛門釜と三十丁坂がそれほど離れた場所ではないのだろう。「戰記稿」は官軍が退いた先が三十丁阪の上だとしている点、長左衛門釜はそれよりも高所の尾根続きか。

 神尾隊は三十峠に退いているが三十丁坂の上り切った辺りだろうか。井上隊は上木場村背後の山で防いでおり、隊によって別の場所に分散して薩軍を防ぎとめたのである。他の隊の最終位置は分からない。下図にこの日の戦いに関する推定場所を示す。

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 この件に関する薩軍側の記述を見ておきたい。「薩南血涙史」では5月20日の久木野の戦いとしているが、官軍の記録には20日に該当するものがないので、日付の間違いであろう。

  五月二十日

  官軍別働第三旅團の兵久木野に進入するの報あり、是に於て大野本營淵邊群平諸將

  を會し之を襲撃するに决し、兵を分ちてニとなし一は山路より一は正面よりす山手

  の先鋒は干城八番中隊(禰寝重邦)正面の先鋒は干城三番中隊(成尾)たり干城四番中

  隊(岩切)は山路の後軍たり、諸隊(諸隊の數明を欠く)薺く久木野に向かつて進發す、

  行々斥候を發して敵狀を偵察せしむ、斥候還り報じて曰く「敵合既に近し且つ山際

  に守壘あり」と、禰寝隊因て潜に兵を進め左右の山間に兵を伏せ漸く敵壘に近づく

  や一薺の發銃を期とし三面一時に衝入せしかば官兵一支にも及ばず塁を棄てヽ潰走

  す山路の切隊尋で又逼り共に追擊し進みて官軍の營を斬る、官兵兵仗を委棄して

  走る、此時正面の成尾隊及び其他の諸隊(隊號未詳)亦敵を敗りて來り會す此戰ひ

  僅々一時間餘にして大勝を得、銃器彈藥其他の物品夥多を獲たり、然れども此地守

  備の要地にあらざるを以て日暮大野に歸陣せり、

 5月19日(20日は間違い)、大野村には淵辺群平がいて官軍が久木野に進入したことを知り、久木野を攻撃することにした。この官軍は第三旅団である。戦場になったのは上木場や長左衛門釜であり、大関山の南麓にある久木野では戦いはなかった。薩軍は大野村から久木野村経由で大関山方面に向かったということである。官軍は上木場の本営を捨て、多量の武器弾薬が奪われたというが、戦闘報告表には奪われた記録は見られない。おそらく本営に集積していたものが奪われたのであり、各隊が戦闘中に奪われたのではないので、それぞれの戦闘報告表には記されなかったのだろうか。  

 もう一つ薩軍側の記録を掲げる。5月12日の佐敷攻撃部分から、19日以後についても引用する。

  同十三日頃我隊外二中隊ヲ以テ佐敷駅ヘ進撃ス、官兵固守シテ連射ス、我兵斉ク進

  ムト雖トモ銃丸雨注ニシテ官ノ柵ヘ近ツクコト不能、遂ニ大野村ヘ退キ旧地ヲ守

  ル、同十九日頃久木野村ヘ官軍寄セ来ルトノ報知アリ、依テ我隊外五六中隊ヲ以テ

  進撃セントシテ同所ヲ発シ第午前十一時頃ヨリ交戦ス、数時間ヲ過スト雖トモ進撃

  ノ詮全ク不見得シテ、一同奮発シ烈撃スル処、午后五時頃ニ至リ終ニ官兵敗走ス、

  銃器・弾薬等数多分捕ス、我兵該地ヲ守ル、同二十四日未明ヨリ官軍我守兵ヲ襲

  フ、我兵防クコト不能テ弐三丁退キ暫時防戦シ、我兵再ヒ奮撃シテ官兵ヲ走ラ

  ス、此時自分ニモ銃創ヲ負ヒ鹿兒島県大口郷病院之様護送セラレ療養ヲ受ケ(以

  下略)            (「堀内只治上申書」pp.895・896『鹿児島県史料 西南戦争第二巻』)

 佐敷町攻撃は5月12日である。18日と19日の戦闘開始時間がほぼ同じ10時頃で、終わったのは午後5時頃だったと後掲の官軍側戦闘報告表は記す。この上申書で19日とあるのは18日の可能性もある。これも分捕り品が多かったと記す。薩軍側の状況の一端を窺うことができる。

 22日に戦況観察に来た第二旅団の報告があるが(後出)、それによれば死傷者の銃・弾薬が奪われたとある。「戰記稿」によると、この戦いで官軍側は死者13人、負傷者59人、失踪15人が生じている。「西南戰袍誌」によると官軍は歩兵6個中隊と3分隊、砲兵1分隊(山砲1門・臼砲2門)で計691人だった。他の諸隊(隊號未詳)とあるが、遊撃ニ番小隊の妹尾包道と財部實治の上申書に、この戦いに参加したとある。財部の該当箇所を掲げる。

  未明ヨリ大野村ヲ発シ上木場ニ着ス、双方台場ヲ築キテ互ニ応炮ス、因テ險山ヲ経

  テ官軍ノ横合ニ突出、縦横奮戦五六町追撃仕候処、官軍要害ヲ取リ一足モ退カス激

  戦時ヲ移ス、然ル処応援相続キ一層力ヲ得、其上小高キ岡ヨリ大炮ヲ連発スルニヨ

  リ官軍防ク事能ハズ、台場ヲ捨テ引退ク、此日小隊長江口盛一戦死ス、外ニ手負数

  名、其夜野陣ヲ張リ翌日大野村ヘ帰陣ス (「財部實治上申書」pp.11~14『鹿児島県史料

    西南戦争 第二巻』)

 18日に薩軍が大砲2門を使ったと「戰記稿」にある。大砲を使ったことは「薩南血涙史」にも載っているが、三日後の久木野の戦いの部分である。三日後も同所で戦いがあったというのは何かの間違いらしい。上申書では双方が台場を築いたとある。午前10時頃から午後5時頃まで7時間くらい続いた戦闘中にも台場を築いたのである。戦跡が残っているなら具体的な両軍の進撃場所が分かると思う。戦闘中の台場築造といえば、観音山大分県佐伯市と宮崎県延岡市では10時間くらいの戦闘があったが、攻めた側の官軍が進撃した尾根に、敵のいる方向を意識した台場を点々と残していて、官軍がどの尾根から登ってきたのかが判明したことがある(高橋2002「宗太郎越え周辺のできごと」pp.110~135『西南戦争之記録』第1号)

 西南戦争の戦跡を調査すると台場跡・休憩所跡の平場削り出し部などの遺構のほか、銃弾や薬莢・砲弾などが出土するのが一般的な在り方である。たとえば、大分県佐伯市椎葉山戦跡は薩軍が守っていた複数の台場を築いて守っていた陣地を官軍が一度だけ攻撃し、官軍が敗退した戦跡である。大分県埋蔵文化財センターが台場跡を測量し、周辺をあまり広くではなかったが金属探知機を使って遺物の分布状態を1点1点記録したところ、官軍が進撃した経路や、薩軍が台場群の前方に構築していた柵列の位置が浮かび上がってきた。戦記の記述を裏付ける具体的な調査例となったのである。

 椎葉山例を持ち出してきたのは以下の理由である。今後、考古学的な立場で金属探知機を使用し広範囲を調査すれば、大関山・国見山・長左衛門釜や上木場・掃部越・札松峠等々集中的に戦跡が分布する地域でも同様以上の成果が期待できると思われるからである。

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 大関山周辺で戦闘が行われた5月から6月以降は、薩軍が小銃弾として最適の鉛不足状態になっており、鉛に錫を混合した銃弾や、錫だけの銃弾を使い始めた段階である(高橋2017「西南戦争の考古学的研究」吉川弘文館。比重の重い鉛は火縄銃段階から銃弾として重宝されてきた。西南戦争では鉛や錫・銅が手に入りにくくなった7月段階に、銃弾としては軽すぎて不適な鉄製品が登場している。これは薩軍側の話であり、官軍は終始鉛製銃弾を使っていたので、5月からの戦跡では両軍の発射した銃弾を判別しやすい。

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 広範囲に遺物分布を調べれば、官軍や薩軍の遺物が尾根の中で分かれて分布する状態が確認でき、戦闘経過を戦記と比較検討できるようになるかも知れない。ただ単に台場跡だけが戦跡ではないことを認識していただきたい。

 5月20日、上木場に対する薩軍の攻撃が盛んなので三浦梧楼少将は敵の勢いを分散させようとして大関山の北方にあるらしい札松越の攻撃を計画した。数年前、岡本真也さんと大関山や中尾山・久木野を歩いたことがある(岡本さんに問い合わせたところ、それは2017年5月27日であり、その際高橋が作製の四本杉台場跡位置図を持参していたことを思い出させてくれた)。ほとんど車で横付けできたのだが。頂上北半分は人手の入った木々に覆われ(自然林ではないということ)見通しが悪く、南半分は伐採されて空き地が広がっていた。広い上面には中継塔2基・大関神社・石室などあり。石室にはサザエと大型巻貝が奉納されていた。木々の間に北向きの長さ10mの台場跡が浅い細谷の谷頭にそれぞれ4基、別に東端に長さ32mの一直線の台場跡が一基あり、これの土塁部の高さは内部の床から50cmあった。大関山の頂上(どこが頂上か分からないくらい広い)には簡略な地図看板があり、札松峠や嘉門越の位置が描かれていた。絵地図のようなもので、およその位置が分かる程度である。札松峠は大関山から北に延びた尾根の先端近く、5km程先、市野瀬・祝坂の西側背後にあるとしていた。

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    しかし、国土地理院の基準点検索によれば標高539.4mの三等三角点の地名が札松である。大関山頂上からほぼ北に3,5kmの地点である。ここからさらに北に4,5kmの付近が大関山の看板にある札松であり、本当はどうなのだろうか。昔の地名を調べるのに参考にしたことがある平凡社の「日本歴史地名大系」の『熊本県の地名』附図を見ると札松嶺があった(下図左)。

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 地図の精度が違うので正確には比較できないが、ほぼ大関山の看板と同じ位置に札松がある。国土地理院の負けであろう。同書にはいくつか面白い記述もある。三十丁坂というのは豊臣秀吉が薩摩征伐の際通行した古道であり、彼が鉄砲30挺を並べて鹿狩りをしたことに由来するという。確かに坂の長さは1,1km程度しかなく、三キロ坂というには短すぎる。また、「かもん越」というのは1592年の梅北の乱朝鮮出兵の際に佐敷城を薩摩の梅北某が隙を衝いて攻め、結局失敗した事件)に際し、「何ノ掃部トカ云ル者」がここで討取られたため名付けられたという。同書にはまた、掃部越は長崎村から大野村方面へ抜ける間道があり、その大野側を「かもん越」と呼ぶ、としている。

 札松峠については、後藤正義著「西南戦争 警視隊戦記」の挿図で「札松嶺」が示されており、今までの想定と合致する。f:id:goldenempire:20210813192006j:plain

 5月20日、「戰記稿」で久しぶりに安満隊が確認できる。

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  廿日札松越攻擊ノ兵ヲ部署スル左ノ如シ

として15個中隊があるうちに、内藤少佐に属して安満の隊は粟屋中尉・弘中大尉の隊と共に交代予備兵となっている。

 部署表の侵略点(※攻撃目標)は札松峠掃部越である。攻撃兵の進路は「大關山右翼ヨリ迂回(※隊長は矢上・平山・大西・林・安滿・粟屋・弘中)」・「小平山ヨリ掃部越ヘ進ム(※弘中・堀部・横地・武田・沓屋)」・「梶ケ迫ヨリ野間越(※栗栖)」・「小平越ヨリ(※沖田・久徳)」・「矢筈山(※竹田・山村)」・「札松峠(※瀧本)」・「鋒ノ峠(※隊長名の記載なし)」の七つに分かれていた。不明地名は小平山・野間越・鋒ノ峠・矢筈山である。次は20日の「戰記稿」。

  午前三時四十分開戰賊壘數所ヲ陷レ札松峠茂リ越ノ要地ヲ占領ス已ニシテ

  賊又兵ヲ增シ來ル我兵奮擊再ヒ之ヲ郤ケ對壘砲射夜ニ入テ止マス

  茂リ越という場所不明の地名が出てくるが、後で触れる。この日の戦死は5人、負傷は27人だった。上記の各中隊には20日の戦闘報告表を残しているものがあるので、不明地名の解明を目指して見ておこう。 

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    C09084784800「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所)0033・0034

  第十二聯隊第二大隊第二中隊長陸軍大尉沓屋貞諒㊞ 戦闘月日五月二十日 

  戦闘地名:丸山内獅迫  我軍総員:百五拾七人(※一人平均弾薬6,4発を発射した) 

       戦闘ノ次第概畧五月二十日午前第三時野津村ヲ出発シ即時矢筈山ニ至リ午前第七

  時歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊ノ應援トシテ半隊ヲ分派シ丸山内獅迫ニ進ミテ

  即時開戦午后第四時当所ヲ引揚ケ小平山ニ至ル而シテ費ス處ノ弾薬千発

 場所不明の野津村→矢筈山(虎石山か)→丸山内獅迫に進み開戦し、そこを引き挙げて小平山に至った。丸山内獅迫で応援したのは栗栖隊に対してである。同じ戦闘でも登場する地名が異なるいい例である。弾薬消耗も少なく、死傷者もいない戦闘だった。部署表の進路では梶ケ迫より野間越となっており、現在の地図には楮ケ迫と丸山が確認できる。矢筈山に到着後、丸山内獅迫で戦闘しているので、矢筈山には薩軍がいなかったと分かる。小平山も同様である。 

 もう一つ横地少尉(「戰記稿」では中尉)の戦闘報告表を見てみよう。小平山より掃部越へ進むと部署表にある工兵隊である。

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     C09084784700「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」0031・0032

  工兵第二大隊第一小隊第貳分隊 少尉横地重直㊞ 戦闘月日:五月二十日 

  戦闘地名:虎石山 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時城迫村ヲ発シ第三時四十分百木川内村ヘ着シ夫ヨリ分

  隊ヲ半折シ一ツハ百木山ニ於テ塹溝并ニ鹿柴等數ヶ所ヲ所〃造築ス一ツハ虎石山ニ

  於テ塹溝ヲ築キ午後第九時比(※頃)百木川内村ヘ引揚ク

  我軍総員:将校以下二十名

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 出発した城迫(虎石山の北西2km)から百木村まで谷間低地の2km弱だから40分は順調な経過時間である。そこで分隊を半分に分けて、一は百木山という背後の山だろう所に塹壕と鹿柴などを数ヶ所に築き、残りは百木村から北東に直線距離1,4kmの虎石山に塹壕を築いて百木川内村へ引き上げたという。百木山と目される尾根は大関山から長く伸びており、どの範囲に築造したのかは現地踏査が必要である。台場類を築いたのだから当然攻撃部隊がそこに進んだ訳である。

   大関山一帯の戦いは6月3日までのようである。25日からが明確でない。多数の中隊が参加し、それだけ多くの戦闘報告書を作製しているので、場所不明地名の考察は20日時点の史料で決め付けないでおこう。以下では戦闘報告表全体を掲げるのは数点にとどめ、戦闘地名や戦闘の概略などの基本的な部分だけを列挙して進めたい。確認したい人は出典を示すのでそちらを覗いていただきたい。

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    5月20日の戦闘報告表、残りの物を続けて掲げる。総員の数字は現代風に改めた。

 C09084785000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0037・0038

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長 大尉瀧本美輝㊞ 戦闘月日:

  五月二十日 戦闘地名:布田松峠 我軍総員:126 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時半牛渕村ヲ発シ野々本ヲ経テ布田松峠ニ向ヒ進軍峠ヨ

  リ凡ソ四百米突ノ山上ニ出ツ賊二三輩アレ共皆迯去セリ想像スルニ展望兵ナラン☐

  アツテ賊発砲ス我兵モ之レニ應シ直ニ塹濠ヲ築塁警戒嚴ニス終日賊発砲不止 

 牛渕は5月12日に薩軍が襲った佐敷中心部の東方、八幡の南側600mくらいにあり、田川川の下流域である。野々本は不明だが、牛渕から上流に向かって細長い水田地帯があり、これを3,4kmほど遡り札松山の西方尾根から銃撃したものと思う。札松峠が標高327mの付近なら西側の尾根の適度の場所、標高289m地点からの距離は800mくらいある。そこからもう少し高い根元の方なら距離は600m弱である。現地踏査をして戦跡分布調査が必須だ。

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   C09084785400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0046・0047

  第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉久徳宗義㊞ 

  戦闘月日:五月二十日 戦闘地名:矢筈山ニ於テ 我軍総員:28 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時四十五分山砲壱門ヲ頂上ニ備ヘ札松峠ニ在ル賊塁ニ對

  シテ射擊シ午后五時ニ至テ止ム 

 矢筈山という場所は大砲を置いて札松峠を砲撃できる環境、直視できる場所である。札松峠の南方から西方のどこかにあるのだろう。前出の瀧本報告にある札松から400m離れた山が候補地の可能性がある。

 次も5月20日の戦闘報告表である。栗栖は5月21日・22日、6月3日にも表がある。

   C309084785500「明治十年自五月至七月 戦闘告表 第三旅団」0047~0049

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第弐中隊長栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:五月廿日 戦闘地名:谷木塲山 我軍総員:104 死者:下士卒5 傷

  者:下士卒12

  戦闘ノ次第概畧:午前一時城迫村ヲ発シ兵ヲ☐メテ谷木塲山ニ攀☐三時四十分一薺

  ニ鯨波ヲ発シ賊塁ノ左翼ヨリ攻撃ス賊狼狽☐☐ヲ知ラス塁及ヒ廠舎数箇ヲ捨テ走ル

  我兵三方ニ向ヒ賊壘ノ側面ヲ射撃ス札松越ノ賊下射ヲ受クルヲ以テ射巨离内ノ塁悉

  ク捨テ迯ル我兵寡ナルヲ以テ穂平山ヲ尾撃セス同六時☐賊兵大ニ増加屡襲来ス我兵

  憤戦最モ勉ム彼レ遂ニ志ヲ得ス保平山(※穂平山)ニ退ク後チ互ニ塁ヲ築キテ防戦ス 

 城迫村は前日に瀧本隊が出発点とした牛渕村よりも3,7km谷底平地を南下し、薩軍に近づいた場所である。薩軍が占拠していないと判明し、滞在地を前進させていたのである。「戰記稿」では出張本陣とある。20日、栗栖隊は札松峠を占領したと記すが、他の報告には占領したとは記していない。札松峠は長い尾根全体を指す言葉で、その一部を栗栖隊が奪っただけという可能性もある。谷木場山という地名は栗栖だけが使っている。穂平山はすぐ後に出ている保平山と同じだろう。薩軍は札松越で上から射撃されたという。峠の一部でのことだろうか。官軍はそれを見下ろす山、谷木場山で留まったらしい。

 

 21日の「戰記稿」は「廿一日午前三時三十分大野村ノ賊又札松峠ノ栗栖大尉ノ守線ニ來襲シ刀ヲ揮テ我壘ヲ斫リ勢ヒ頗ル猛烈我兵奮戰半時間纔ニ之ヲ郤ク」と死傷者の表だけである。下記はその栗栖隊の戦闘報告表である。 

 C09084785600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0050・0051

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊長栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:五月廿一日 戦闘地名:谷木塲山 我軍総員:80 傷者:下士卒8 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時半頃賊徒急ニ火擊シ我堡内ニモ刃ヲ振フテ突入ス我兵

  憤戦屈セサルヲ以テ賊志ヲ得ス遂ニ四時頃退去後チ互ニ塁内ニ在ツテ射撃ス

  分捕:兵糧嚢   五箇  

C09084785700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0052.0053

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長瀧本美輝㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:布田松峠 我軍総員:百二十六人 傷者:二

  等卒西光藏

  戦闘ノ次第概畧:前日ヨリ賊ト對向シ昼夜発砲不止互ニ進退ナシ 

C09084785800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0054・0055

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長心得井上親忠㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:肥後國芦北郡上木場村 我軍総員:69 傷

  者:1

  戦闘ノ次第概畧:午後☐五時頃防禦線ニ在リ敵ノ流玉ニ中ル 

C09084785900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0056・0057

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第壱大隊第二中隊陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:肥後國芦北郡古石村 我軍総員:17  傷

  者:下士卒1

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時肥後国芦北郡古石村大哨兵中前面江斥候トシテ壱隊差

  出ス 

C09084786000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0058・0059

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊左一小隊 中隊長大尉南小四郎㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:和久道石 我軍総員:四拾五名 死者:下士

  卒3・傷者:下士卒1

  戦闘ノ次第概畧:和久道山上ノ砲台防戦中午前四時ニ十分賊月ノ山影ニ入ルヲ幸ト

  シ潜行突戦スルヲ拒攻撃遂ニ其賊ヲ走ラス然カレ𧈧ノモ我カ砲台ト賊塁ハ水平面髙尖

  ノ地理ヲ以菫カニ傷ヲ受クル者アリ  

C09084786100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0060・0061

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:熊本縣佐敷郡虎石山 我軍総員:139 傷

  者:下士卒4

  戦闘ノ次第概畧:昨二十日ヨリ引續キ對戦ス此日敵ノ切込ミヲ受クルト𧈧ノモ敵兵人

  少ナルヲ以テ瞬時ニ彼レヲ退却セシメ而シテ昼夜對塁シテ戦フ 

 「戰記稿」では死者が下士1・卒2で、傷者が下士3・卒11で、21日の戦闘報告表の死傷者の数を足すとその通りである。

 先日から官軍は札松峠周辺を集中的に攻撃している。上木場村の負傷者は攻撃時ではなく、流れ弾に当たっている。 

 5月22日の「戰記稿」にある部署表は次の五ヶ所である。掃部越ノ山續・掃部越山下長崎村邊ヨリ・札松峠ノ右翼・札松峠ノ左翼・矢筈山。どれも札松峠の南側か、南西側に位置している。この日の結果は次の通り。

  午前四時諸口薺ク進ミ右翼大關山ヨリ掃部越茂リ越アンノ峠札松峠牧士峠祝坂ニ至

  ル其延長三里餘賊ノ要壘數百所ヲ拔ク賊大ニ狼狽死屍兵器輜重ヲ委棄シテ去ル遂ニ

  進テ大野ノ賊巢ヲ覆シ尚ホ進ンテ鏡山ノ要地ヲ占領ス

 攻撃部隊の右翼の位置が大関山、そこから順にすでに場所の判明した掃部越・位置不明の茂リ越・アンノ峠(掃部越の西方に庵の山という地名があるのでこの付近だろう)・牧士峠・祝坂となっている。鏡山の要地を占領した件については下記の斎藤大尉の報告表に詳しい。

C09084786200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0062・0063

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第壱中隊長 陸軍大尉齋藤徳明㊞

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:(※空白) 我軍総員:145 

  戦闘ノ次第概畧:午前第七時城山ノ賊徒同山ヲ降リ襲来セリ直ニ開戦防禦ス賊徒再

  ヒ城山ヘ退去午后第六時休戦

  備考敵軍:廿二日午前第八時梅ノ木村出発午后第壱時鏡山着直ニ大哨兵ヲ配布ス同

  第五時津毛村ヨリ賊徒三百余各城山江出兵致セシ由土人ヨリ急報セリ爰ニ於テ鏡山

  ヘ配賦セシ大哨兵ノ半員ヲ引揚鏡山左翼後ノ小山江配兵城山ノ賊徒ニ備然レノモ兵員

  寡少ナルヲ以テ散兵ニ配布シ賊徒襲来ノ防禦線トス翌廿三日午前第七時城山ノ賊徒

  同山ヲ降リ我隊占據セシ鏡山左翼後ノ小山ニ發射(※?)シツヽ攀シ来ル故ニ直ニ之

  ニ應シ賊兵ヲ下射スル数十分間ニ乄賊徒退去シテ再ヒ城山ニ登リ同山ヨリ追々小山

  ヲ経テ大野村ニ迂廻セントスルノ勢アリ故ニ之レヲ防射スル甚シキヲ以テ賊徒其志

  ヲ達スル能ハス城山及ヒ近傍小山ヘ塹壕ヲ築キ防禦ノ備ヲナセリ午后第六時休戦同

  第十二時防禦線ヲ他隊ヘ譲リ鏡山ヘ引揚

 斎藤隊は22日午前8時、場所不明の梅ノ木村を出発し午後1時に鏡山に到着して大哨兵を配布した。その後、午後5時に地元民から薩軍約300人が城山に入ったとの知らせがあったので鏡山の哨兵半分を割いて鏡山左翼後ろの小山に配置した。鏡山の後方には尾根が続くだけであり、独立した峯は認めがたい。人吉に向かい山の北側を左翼とすれば、標高569m・547m・582mなどの小山が見られる。23日午前7時、城山にいた薩軍が移動して先の小山によじ登りながら射撃してきたが撃退した。しかし、薩軍はこの小山を経て大野村に迂回しようとしたが果たせず、また城山に帰って城山と付近の小山に塹壕を築いて防禦の備えをしたという。

 城山に該当しそうな山城跡を「熊本県の中世城跡」から探すと鏡山頂上から2,7km北側の標高421mに高尾城跡(芦北町大字告)という鏡山と尾根続きの山城跡があり、これが最も該当しそうである。鏡山左翼の小山も踏査して戦跡が見つかれば確定できそうだ。

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C09084786300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0064・65

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊長大尉南小四郎

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:繁リ越口 我軍総員:四拾名 死者:下士卒壱

  名 ・下士卒壱名

  戦闘ノ次第概畧:午前三時和久道ノ砲台ニ整列隊ヲ四分シ開戦ノ期ヲ約シ直ニ繁リ

  越口ノ賊塁ニ向ヒ夜ノ明クルヲ潜ミ疾足突入開戦彼レハ不意ニ在テ狼狽ス我レ初発

  スル所山上二三ノ砲塁ハ瞬時ニ捨テ札松本道ノ大塁エ走ル賊踵ヲ跪テ肉薄疾戦殺傷

  相當リ終ニ諸塁ヲ我カ有トスル時既ニ五時三十分ナリ

 

C09084786400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0066・67

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊長大尉南小四郎㊞

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:繁リ越口 我軍総員:九拾五名 死者:下士

  卒壱名 ・下士卒壱名

  戦闘ノ次第概畧:午前三時和久道ノ砲台ニ整列隊ヲ四分シ開戦ノ期ヲ約シ直ニ繁リ

  越口ノ賊塁ニ向ヒ夜ノ明クルヲ潜ミ疾走突入開戦彼レハ不意ニ在テ狼狽ス我レ初発

  スル所山上二三ノ砲塁ハ瞬時ニ捨テ札松本道ノ大塁エ走ル賊踵ヲ跪テ肉薄疾戦殺傷

  相當リ終ニ諸塁ヲ我カ有トスル時即チ五時三十分ナリ

 南隊は和久道から出発し、繁リ越の敵を攻撃すると、敵は札松本道の大塁に逃げ込んだという。この順番に南から北へ続くのだろう。

C09084786600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0071・0072

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉甼田実賢㊞

  戦闘月日:五月二十貳日 

  戦闘地名:札枩峠 我軍総員:九十二名 

  戦闘ノ次第概畧:当日援隊トシテ札枩峠ノ賊塁ヲ攻撃ス同日手負戦死等一名モナシ

C09084786500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0069~70

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:五月二十二日 

  戦闘地名:加門越 我軍総員:百三十七 敵軍死者:四 ・傷者不詳

  戦闘ノ次第概畧:加門越ノ賊塁ヲ落スヘキ命ニ依テ午前第三時我中隊ヲ三分シ一ツ

  ヲ先頭トシ残ル二部ヲ援隊トナシ各銃劔ヲ装シ虎石山ノ塁ヲ越ヘ密ニ前進ス月ハ没

  シテ暗昏我彼ノ弾玉ハ頭上ヲ飛行シ荊棘(※棘は異体字ハ軍衣ニ纏テ行進ヲ害ス止

  テハ物音ヲ聞キ或ハ匍匐シテ進ミ又渓谷ヲ攀チテ未明逆賊ノ首塁外部ニ接着猛声ヲ

  同発起立シテ塁内ニ突入連々放火ス援隊續ヒテ之レニ合ス賊兵狼狽塁ヲ捨テ走テ右

  翼ノ山背ニ據リ頻ニ発火スト𧈧ノモ保ツ能ハス忽チ敗走ス于時天漸ク明ケ我隊絶テ尾

  撃セス茲ニ於テ警備ヲ整フ

 かもん越を守っていた薩軍は台場を捨て右翼の山に移って反撃したという。谷間にかもん越があるという推定が正しいかも知れない。

 

C09084786700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0073・0074

  第三旅團工兵第二大隊第二小隊第二分隊 陸軍少尉藤冨五郎㊞

  戦闘月日:五月二十二日 

  戦闘地名:加門越 我軍総員:貳拾壱名 内十名不戦 敵軍: 凡三百名

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時百木河内村出発加門越山上ニ至リ防禦線。塹溝數十箇

  所ヲ築キ午后第六時長嵜村ニ止陣ス

    かもん越の山上とは、谷間を後ろにして防禦線は張らないだろうからかもん越の北側にある尾根に築造したのだろう。敵がいた方にも多数の遺構が残っているかも知れない。

C09084786800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0075~77

  第三旅團 大坂鎭臺歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊 陸軍中尉松居吉統㊞

  戦闘月日:五月二十二日 

  戦闘地名:肥後国足北郡平ノ山 我軍総員:九拾二名 内十名不戦  敵軍 凡三百名

  戦闘ノ次第概畧:明治十年五月二十二日午前第一時三十分穂木山ノ大哨兵ヲ引揚ケ

  長﨑村ノ山下ヨリ嘉門峠ノ右方平ノ山ニ向テ午前三時五拾分吶喊攻擊直ニ此ノ塁ヲ

  乗取リ尋テ笠木山ノ残賊ヲ逐擊同山ノ塁ヲ奪フ而乄従是大野泥メキノ両村江斥候ヲ

  出シ賊情ヲ探偵セシムルニ賊兵遠ク迯遁シ一人ノアルナキヲ還報ス於爰仮ニ哨兵線

  ヲ定メ命令ヲ俟ツ暫アツテ友田少佐来リ哨線改定サルヽニ付其位置ニ據リ塹濠ヲ設

  ケ固守ス此時弾藥五百余ヲ放分捕:銃三・弾薬千・糧拾四石三斗五舛

 

C09084786900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0078

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉堀部久勝

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:肥後国珠磨郡 我軍総員:百三十二名 

  戦闘ノ次第概畧:五月二十二日午前第三時三十分嘉門及ヒ小比良札松山ノ賊塁進擊

  ニ付我軍ノ右翼ヲ守備シ且ツ百木☐(焼?)上ケ山上ノ賊塁ニ対シ虚擊ノ命アリ之

  ニ依テ午前三時三十分兵ヲ分ケ山腹ニ伏セ諸口ノ闘ヒ始マルヤ火擊ス暫ラクニシテ

  賊塁ヲ捨テ去ルノ勢ヒアリ依テ捜索兵ヲ出シ續テ山上ニ攀登シ進ム賊塁ヲ捨テ走ル

 

C09084787000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0080・81

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:肥後国百木河内 小平山辻野 我軍総員:百二

  十名 敵軍:一小隊斗リ

  戦闘ノ次第概畧:本日午前三時三十分ヨリ小平山ノ上辻野ノ臺塲ニ向ヒ進擊五時比

  賊ノ臺塲二ヶ所ヲ乗取直ニ大関山ニ對シ防禦線ヲ定ム  備考:敵軍・大関山又ハ

  鏡山ノ右ヘ敗走

 

C09084787100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0082・83

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:多門越口 我軍総員:百五拾人

  戦闘ノ次第概畧:五月二十二日午前第十二時小平山ヲ出発シ仝一時四十分嘉門山ニ

  至リ当所半服ニ隠匿シ午前第四時開戦即時嘉門山ヲ乗取ル

  我軍ニ穫ル者:弾薬三

  備考:放ツ處ノ弾薬五百發 分捕:一銃壱挺ハ短銃 弾薬五箱ハヱンピール弾藥二百

  七拾発入箱ハ ミニーヒル弾藥五百発入

 多門越口はカモン越口だろう。小平山から嘉門山まで中間では戦闘がなかったので、隣り合った位置関係であろう。到着するのに一時間40分もかかっているのは、単純に距離を反映するとすれば2km位離れているのだろうか。官軍の攻撃開始時間は午前3時半(弘中隊→小平山ノ上辻野ノ臺塲に向かう・堀部隊はこの時間に兵を伏せて諸隊の攻撃を待った→百木☐上ケ山上ノ賊塁)・午前3時50分(松居隊→嘉門峠ノ右方平ノ山)・午前4時(沓屋隊→嘉門山攻撃)・未明(武田隊→嘉門越)とほぼ午前4時前後を記録している。したがって掃部越攻撃は午前4時前後に始まっており、その他の隊もこの攻撃に合わせて開戦するよう計画されていたのだろう。なお、「戰記稿」の部署表には弘中隊の記載はない。未明ないし午前5時半(南隊)頃には戦闘は終了し、弘中によれば薩軍大関山又ハ鏡山ノ右ヘ敗走したとあるが、鏡山の方に敗走したのだろう。  

C09084787200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0084・85

  第三旅團歩兵第八連隊第一大隊第二中隊 陸軍大尉沖田

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:矢筈山 我軍総員:八十七名

  戦闘ノ次第概畧:午前三時三十分ヨリ援隊トシテ矢筈山ヲ出発大野越ノ右方髙岳ニ

  至リ兵ヲニ分シ山上ニ配布シ一ハ大野村ニ向ハシメ一ノ髙処ニ兵ヲ停メ更ニ若干ノ

  斥候ヲ大野村ニ派出ス午後一時部署定リ塩浸村ニ至ル

 午後1時に到着した塩浸村は佐敷川の右岸にあり、札松峠などは左岸である。大関山から続く尾根全体から薩軍を追い払ったということである。佐敷川右岸の薩軍は驚いて浮足立っただろう。 

C09084787500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0090・91

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:谷木塲・穂平山 我軍総員:七拾六人

  戦闘ノ次第概畧:昨来塁内ニ在テ連戦屡賊ノ襲来ヲ防ク午前三時頃攻撃隊ハ我塁内

  ヨリ道ヲ分ツテ穂平及ヒ札松越ニ進軍ス我兵此ノ攻撃隊ヲシテ安全ニ敵塁ニ近接セ

  シメンヿヲ謀ル賊発射スルヿ他日異ナラス機ニシテ開戦我兵先一小隊ヲ出シテ之レ

  ニ連絡ヲ保ス先是一薺ニ鯨波ヲ発シ大ニ虚勢ヲ示ス賊遂ニ諸塁ヲ捨テ迯ル依テ穂平

  山ヲ占メ西ニ連絡ヲ保テ塁ヲ築キテ防守ス

 谷木場があって、その北側の左右どちらかに穂平山があるということか。谷木場は栗栖以外使用しない地名である。もしかすると他の人は別の名で呼んだのかも知れない。そうであれば、同じ場所に名前が二つあることになる。 

C09084787600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0092・0093

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長陸軍大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:布田松峠 我軍総員:百二十五人 

  傷者:将校1・下士卒5

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分前日滞陣ノ山上ヲ発シ布田松峠ニ向ヒ進軍賊街

  道ノ左右髙処要地ニ大小塁八個ヲ構ヘ一層嚴重警備ス我軍欲☐ノ銃ニ劔ヲ附シ中隊

  ヲニ分シ左右塁ノ際ニ潜寄リ塁ニ至リ皆一同ニ発擊銃劔ヲ以テ突入ル十分間ニシテ

  彼レ塁ヲ捨テ敗走セリ我軍左右ニ分レ賊ヲ逐フヿ凡ソ三町ニシテ散兵線ノ侭彼レノ

  復襲ヲ防禦セン為メ警戒ス 

  我軍ニ穫ル者:ヱンピール銃五挺・ヱンピール弾薬箱共 三箱

 前日の瀧本隊の位置は記録がないが、その前日20日は「布田松峠ニ向ヒ進軍峠ヨリ凡ソ四百米突ノ山上」にいたので、そこにとどまっていたのだろう。札松峠を攻めるにあたり中隊を二分し進んでいる点は直前史料の栗栖隊に似ている。

 5月19日から22日までの第三旅団の状況を調査に来た第二旅団作成の報告がある。開戦当初から一緒に行動していた第一旅団と第二旅団は5月5日、第一は熊本市神水に、第二は同じく砂取町に本営を移し以後別行動をとることになった。第二旅団は5月18日に八代に進み、次の史料は状況把握のため各地に将校を派遣していたその報告である。

C09084554000「雜書 明治十年五月中 第貳旅團」1062・1063

  廿二日☐☐傳令下士持帰ル

  五月二十二日

  第三旅團本営出張湯浦(佐敷よ里一里半)ニアリ之レヨリ南方古田村ト飛松村ノ問ニ

  高岡村湯浦ヨリ一里十丁)アリ同村ニ厚東中佐出張不在ニ付書記ヨリ十九日以来ノ况

  景大略尋問左ニ記ス

  本月十九日午前第四時三十分頃上木塲近傍ノ山頂ヘ各兵配賦シ水俣ヨリ進軍ノ巡査

  ニ連絡ヲ定ム

  同日第十二時頃上木塲辺ヨリ賊兵拔釼襲来防戦スル不能古道村前方マテ退却直ニ隊

  整進撃スト雖モ前防禦線ニ進ムヲ下得退却直ニ一丁斗進ミ爰ニ防禦線ヲ定ム(古田村

    ヨリ貳里斗)現今山頂ニヨリ對塁ス然レノモ本日午後良地ヲ撰シ壹防禦線ノ変換アル由

  賊襲来之際死傷士官三名下士已下七拾六名ナリ

  同時山砲一門手臼砲一門小銃スナイドル六拾挺斗弾薬三箱奪レタル由小銃ハ豫備ニ

  アラス死傷ノ者ノ由ナリ去ル廿日午前第三旅團惣進擊ノ筈ナレノモ右翼前日賊襲来リ

  為ニ進擊ナシ百木川内村出張ノ友田少佐ニ就テ尋問且ツ戦地目擊ノ件左ニ

  川村少佐内藤少佐(古道村)友田少佐(百木川内)古田少佐各一邉ノ指揮官タ一昨日

  拂暁友田少佐ノ手大進擊アリ今村ヨリ梶ガ迫シヽ迫迠進メリ左翼尤モ進ミタリ同所

  對塁此日友田ノ手死傷三十三名即死三名賊ノ弾薬貳箱小銃二挺分取シタリ大野村ハ

  賊根拠粮食ノ分配モ此ニアリ我戦列ヨリ目下ニアリ追々退クヘシ

  昨廿一日拂暁拔劔襲来リ南大尉ノ左小隊少シク退ケリ即死三名負傷一名官軍少シク

  狼狽ニ出ツルヨシ追々旧線ニ復シタリ

  一昨日以来賊鏡山ニ拠リ塁ヲ築キ人員モ多分ニ見エタリ

  三旅團ノ左翼ヤハズ山ナリ四旅團ノ右翼才ノ尾峠ナリ

  佐敷ヨリ戦列迠巨离ヤハズ迠壹里半余シシヽ迫迠貳里余上木塲迠四里半余ナリ

    十年

     五月廿二日      陸軍少尉佐藤当可※第八聯隊第三大隊第二中隊

                陸軍少尉試補岩根常重※第八聯隊第三隊第四中隊

 鏡山には19日から多くの薩軍がいて築塁していたとある。次は第二旅団の将校が第三旅団の厚東中佐から聞き取った情報である。

C09084554300「雜書 明治十年五月中 第貳旅團」1082

  五月廿二日

   厚東陸軍中佐ニ就テ尋問景况書

  一本日古田少佐友田少佐引率ノ隊ヲ以テ加門越札松峠進撃ノ目的ナリ午前第三時五

  十分進撃大関山ヨリ小平山加門越シゲリ越アンノ越札松峠牧士峠及ヒ祝坂ニ至ル迠

  其延長三里余ニシテ賊塁数ヶ所悉ク之レヲ取リ夫レカ為メ賊兵大ニ敗走ス進軍途上

  ニ賊ノ尸数十及ヒ銃器弾薬ヲ捨テ人吉ニ逃ル由尚又進軍大野村(賊ノ本営アリ)ニ突

  入シ大小銃ノ弾薬四箱粮米八十俵余其他銃器等ヲ分捕更ニ進テ鏡山ヲ畧シ分遣隊ヲ

  派出シ同山ニテ賊ト相對ス進擊ノ際官軍死傷士官以下四十名程ノ由同日右翼内藤少

  佐ノ持塲進擊ナシ去ル十九日以来異条ナシ

 大関山ヨリ小平山・加門越・シゲリ越・アンノ越・札松峠・牧士峠及ヒ祝坂の順に南から北に並べているのか。場所不明なのは小平山とアンノ越、延長三里余とは13km位。地図上で大関山から祝坂まで尾根筋を辿っていくと10,5kmであり、ほぼ正しい。アンノ越は次にも述べるが庵の山という地名がかもん越の西側にあるので、この付近だろう。牧士峠の次に祝坂を並べているので、祝坂の手前にある尾根筋が牧士峠だろう。まきし峠と読むのではないと示す史料がある。

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陸軍軍用電信「五月廿二日午前六時廿五分発」山田少将殿・三好少将殿:左敷三浦少将

 電文を漢字仮名混じりにしてみる。

今朝大野口進撃。右翼は大関山よりコヒラ山、掃部越、シゲリ越、庵ノ越(※庵の山というのが虎石山の北にある)、札松峠、マキ侍峠、祝坂に至るまで。その延長三里余にして賊塁数百ヶ所悉くこれを略取し賊大いに敗走す。屍数十及び銃器弾薬を捨てて逃る。なお進んで大野の本営に突入し大小砲の弾薬輜重等を取る。更に進んで鏡山を略し、分遣隊を置く。この段、御報知に及ぶ。    報知依頼 

 牧士峠は「まきざむらい峠」だった。賊塁数百なら今でもかなり残っているだろう。

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 札松峠は5月22日に奪い、以後戦闘報告表に登場しない。札松峠や大野村から薩軍が撤退した件は、北西側で佐敷から人吉を目指していた別働第二旅団の戦線に少なからず影響を与えることになった。薩軍幹部の河野主一郎は生き残ったので懲役刑を受けた際に上申書を残している。「五月三十日大瀬村ニ退キ哨兵線ヲ張ル、蓋シ我左翼ニ連絡セル大野口敗レタルヲ以テナリ、」(「河野主一郎上申書pp.222~ 239」『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』)。日付は間違えているかも知れない。白木村・才木村の薩軍は背後を第三旅団に占領されたため、東側3km前後にある告(つげ)村に移動し、球磨川南岸の要地である屋敷野・箙瀬(えびらせ)薩軍も人吉側に移動し、別働第二旅団は人吉に向け戦うことなく若干前進した。  

  5月23日の動向を「戰記稿」から掲げる。

  廿三日上木塲口第三旅團ノ一部兵ハ守線ノ延長ニシテ兵寡キ(五中隊)ヒ明朝奮

  擊シテ前面ノ賊ヲ攘ヒ然ル後其方位ヲ固守セント欲シ竹下中佐ハ各隊長ヲ會シ其五

  中隊ヲ以テ線内ニ在テ徐ニ射擊ヲ行フ午後賊モ大砲數發ヲ放ツ賊ハ二十二日第三旅

  團ノ爲メニ大野ノ牙營ヲ陷レラレシヨリ專ラ力ヲ久木野ニ盡シ又兵ヲ分テ一ハ別働

  第三旅團ヲ中鶴ニ防キ一ハ山野大口ヲ扼守シテ第三旅團上木塲ノ兵ニ備ヘタリ(賊

    將邉見十郎太池邊吉十郎是陣ニ在リテ指揮セリト云フ)

 23日の戦闘報告表は存在しない。この日第二旅団が派遣した将校が第三旅団の哨兵線を目撃し報告している。

C09084554400「雜書 明治十年五月中 第貳旅團」1083

  第三旅團持塲左右翼戦闘線目撃ノ件

  右翼三十丁坂右ニ八連隊第一大隊佐々木大尉一中隊ナリ之レ右方警視隊ト連絡全ク

  絶ユルヲ以テ厚東中佐ヨリ水俣本営何ノ処迠進ミタルヤヲ尋問中ノ由ナリ三十丁坂

  之左ニ近衛隊一中隊其左ニ八連隊第一大隊矢上大尉ノ隊大関山ト相對シ(麓ナル由)

  夫レヨリ左長左エ門カマ山六連隊第二大隊石井中尉ノ隊ヲ以テ連絡ス続テ左方大嶋

  少佐友田少佐古田少佐ノ手ニ至ル古田少佐ノ左翼ハ第六連隊第三大隊栗林大尉ノ一

  中隊ト遊撃隊三好少佐并髙嶌少佐ノ手ヲ以テ連絡セリ右処山頂ニ拠リ堡壘ヲ築キ防

  守ス

    十年

     五月廿三日           武田中尉

    波多野少佐殿           佐藤少尉

    中𦊆大尉殿            岩根少尉試補                            

 佐々木大尉は右翼三十丁坂に、三十丁坂の左に近衛隊一中隊、その左に矢上大尉の隊が大関山と対す。それより左の長左衛門釜に石井中尉隊、その左に大嶋・友田・古田。古田の左翼は第六聯隊第三大隊栗林大尉の一中隊がいて、別働第二旅団の三好少佐・高嶌少佐の隊と連絡を付けた状態である。

 これから地理的関係を推定することが可能である。東ないし南東に向かい右から三十丁坂、その左におそらく尾根、さらに左にこれも尾根があり、大関山に正対しているらしい。その左に長左衛門釜があり、さらに大嶋、友田、古田の各隊が位置につき、第三旅団の最左翼に栗林隊がいたのである。これらを地図上に落としてみる。

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 あまり自信がある配置状態の推定図ではない。5月19日の部分で考えた際は長左衛門釜をもっと西側の尾根に推定したのだが、今回とは異なってしまった。

 薩軍は官軍が大口に進軍するのを防ぐという消極策に方針変換せざるを得なかった。しかし、大関山やその東側の国見山からは薩軍が去ったわけではない。

    5月24日、第三旅団は本来の目的地である鹿児島県大口山野に向けて動き出したが、薩軍にさえぎられてしまう。「戰記稿」を掲げる。

  廿四日第三旅團ハ山野大口ノ賊焰ヲ撲滅セント午前三時開戰シ勇ヲ鼓シテ大關山ニ

  向ヒ直チニ長左衛門釜狐岩等ノ諸壘ヲ取ル頃クアリテ賊又反擊シ來リ池邊吉十郎ノ

  拔刀隊最モ善ク戰フ我兵モ亦善ク之ヲ拒クト雖モ新鋭ノ賊ニ敵シ難ク遂ニ略取ノ地

  ヲ退キ三十丁坂ノ舊線ニ據ル

 そして24日の戦闘報告表である。

C09084787800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0096・0097

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:五月二十四日 戦闘地名:肥後国芦北郡上木場村 我軍総員:65 傷

  者:下士卒3

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分頃攻撃隊山上ノ賊壘ヲ陥ル因テ我正面ノ賊塹濠

  ヲ保ツ能ハス退走ス直ニ尾擊要地ヲ占領ス然リト𧈧モ残賊猶左翼ヲ襲ヒ我兵利ナク

  終ニ午后第六時三十分比舊防禦線迠引揚ケタリ

  我軍ニ穫ル者:俘虜・下士卒一、銃一(協同隊兵卒)

 どこで戦ったのかわからない報告であるが、「戰記稿」からすると三十丁坂を出発し、長左衛門釜と大関山頂上を奪ったものの、薩軍の逆襲を受けて元の場所に退却したのである。 

C09084787900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0098・99

  第三旅團歩兵第八連隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳

  戦闘月日:四月廿四日(※五月) 戦闘地名:上木塲辺 我軍総員:87 傷者:下士

  卒3・軍属1

  戦闘ノ次第概畧:左翼ノ諸隊大関山及ヒ長左衛門釜攻撃ノ命ヲ蒙リ午前七時頃遂ニ

  目的ノ地ヲ占領ス依テ右翼ノ諸隊モ進テ曩ニ建築スル処ノ諸塁ヲ占ム然ルニ午后五

  時過キ賊兵進ミ長左衛門釜ヲ突ク我兵支ユル能ハス終ニ乱レ再ヒ三十丁阪ニ退キ防

  戦ス

 

C09084788000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0100・0101

  第三旅團近衛第二聯隊第一大隊第四中隊 中隊長代理中尉粟屋充藏㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:狐山 我軍総員:36

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時頃賊軍ノ右翼我軍ノ為メ敗走ス依テ我隊ヲシテ狐山上

  ノ賊ヲ進擊ス賊塁ヲ捨テ﹅久木野街道ニ退散シタリ是ニ於テ我隊ヲ賊塁ノ左翼ニ向

  ハシメ塁ヲ隔ツル凡三百メートルノ巨离ヲシテ防禦線ヲ定メ賊ヲ狙擊ス午后第五時

  頃ヨリ我軍ノ左翼ニ襲来ス我軍☐☐☐又我軍ノ正面ニ向テ襲来我隊賊ノ側面ヲ乱射

  シ賊☐☐☐

 狐山という場所は薩軍の 左翼に当たるらしいと推定できる。大関山の頂上から南西に延びた尾根にゴットン石という名所がある。人が上に乗って移動するとゆっくり動いてゴットンとかすかな音がする岩がある。これを狐山と呼んだのかとも思ったが、後出の海軍本営探偵報告では狐岩という場所があり、両者が離れている絵図があるので、後で検討する。

 

C09084788100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0102・103

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長 陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:明治十年五月廿四日 戦闘地名:国見山・大関山両所 我軍総員:103

     死者:下士1・傷者:将校1・下士2・卒11

  戦闘ノ次第概畧:明治十年五月廿四日午后第十一時石間伏村出発翌進擊第四時ヲガ

  ノ又村ヨリ国見山ニ向ケ進擊第四時三十分ヨリ開戦賊兵頗ル要害ノ嶮ニ據テ烈シク

  防禦スルヲ以テ速ニ進ムヿ不能依テ正午十二時頃ヲガノ又村ヘ引揚ケ再ヒ午后二時

  頃道ヲ轉シテ直ニ大関山ニ進入平山大尉隊ト合併防戦午后八時頃ヨリ漸々第二防禦

  線迠引揚ク

 ヲガノ又村は大野村の6km上流、大関山の北東2km、国見山の北北東2kmにある。ヲガノ又は大木を伐採するときに使う大きな鋸に由来し、山仕事が生業だったので村の名になったようだ。もう一つの国見山が大関山の尾根続きで南南東5.6kmにあり、はたしてどちらが戦記に出てくる国見山かわからなかったが、この記述により大関山に近い方がこの国見山だと確定した。 

C09084788200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0104・0105 

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:長左エ門釜 我軍総員:118 戦死:将校1・下

  士卒9・傷者:下士卒9・不明:下士卒3

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分長左門釜ニ突入賊徒散乱堡塁悉ク占領ス依テ兵

  ヲ纏メ防禦ノ法ヲ立ント欲スル際賊徒突然我隊ノ中間ヲ絶チ頗ル苦戦午后第六時ニ

  旧臺ニ引揚

 戦死した将校は古川治義中尉である。

C09084788300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0106・0107

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:五月二十四日 戦闘地名:肥後国芦北郡大関

  我軍総員:142 戦死:下士卒3 傷者:下士卒8生死未明:下士卒1

  戦闘ノ次第概畧:午前第十二時肥後国芦北郡古石村発軍同郡大入道ニ至ル午前第三

  時三十分開戦一舉ニシテ大関山ヲ乗リ取リ長左衛門釜等ノ賊ヲ☐☐追拂ヒ即大関

  ヲ占領シ直ニ大哨兵ヲ備フ俄然トシテ賊兵再ヒ同処ニ迫ル我兵奮闘以テ漸退却セシ

  ム午後第七時三十分本営ヨリ同処ヲ引揚大入道ノ臺塲ヲ固守スルノ命アリ依テ同時

  命ノ如クス 失銃:二挺・失器械:帯皮胴乱

  我軍ニ穫ル者:降人下士卒1・銃:ヱンピール三挺 弾薬:ヱンピール千発・器

  械:刀三本

 12時古石村発、大入道へ。15時30分開戦し一挙に大関山を奪い大哨兵を置くが逆襲により19時30分大入道に帰り台場を固守。大体は他の隊と同じである。 

C09084788400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0108・0109

  第三旅團工兵隊陸軍少尉 林 庸雄㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡上木塲近傍

  我軍総員:40

  戦闘ノ次第概畧:午前四時古道村ヲ發シ上木塲口ニ進ム仝七時比賊軍ノ右翼敗ルヽ

  ヲ見テ直ニ進撃シ賊塁三個ヲ乗取リ之ニ依テ守防ス仝十一時比歩兵隊ト交換シ塁ヲ

  退キ塹溝築設ニ着手シ凡十余個ヲ築ク午后六時比ニ仝處歩兵隊ノ退却スルヲ見テ仝

  ク退却ヲナセリ

 

C09084788500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0110・0111

  第三旅團大阪鎮臺豫備砲兵第二大隊第一小隊中央分隊長陸軍少尉野間駒㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡上木塲 我軍総員:15

  戦闘ノ次第概畧:山砲壱門午前一時三十分古田村ヲ発シ同三時三十分三十挺山着曩

  ニ建築ノ肩墻ニ侑ヘ仝四時ニ十分大島少佐ノ命ニ依リ放射ヲ始メ仝六時歩兵進軍ニ

  付仝官ノ命ヲ以テ放射ヲ止メ午后四時厚東中佐ノ命ニ依リ砲車ヲ退ク

 

C09084788600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0112・0113

  第三旅團近衛歩兵第貳連隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉 大西 恒㊞

  戦闘月日:五月二十四日 戦闘地名:長左衛門釜谷 我軍総員:122 死者:下士

  卒4 傷者:下士卒13 生死未明:兵卒1

  戦闘ノ次第概畧:明治十年五月二十四日午后第三時古道村ヲ発長左衛門釜谷攻進同

  二十四日午前第五時頃開戦ス直ニ臺塲攻取ス敵勢放走ス狐岩迠追討ス我軍大勝利然

  ル后チ長左衛釜谷ニテ防禦スト𧈧モ人少ニテ左翼迠連線行届兼終ニ敵勢突進シ☐不

  得止引揚引続キ上木塲ニテ防禦ス

 午前3時古道村出発、午前5時頃長左衛門釜谷で開戦。敵の台場を乗取り狐岩まで追いかけて大勝利。その後は長左衛門釜谷で防禦したが少数のため左翼まで守備できず敵が突進し上木場に引き揚げた。 

 久木野には狐岩の伝承がある。ただし、大関山付近のものではなく、久木野川沿いのきつね岩だが紹介したい。昼間多くの狐がその岩の上に寛ぎ、夜は畑を荒らしていたのである男が杉の葉で岩の周りを山のように覆い、水をかけて火を着けた。辺りは煙で覆われ、八日目にやっと消えた時、親狐が子狐を抱くようにして死んでいたので村人は可哀そうに思いお稲荷さんを祀り、毎月食べ物を備えた、ということである(久木野の文化を守る会「久木野の伝承」)。大関山の狐岩も似たような言い伝えがあり、祀られていたのかも知れない。

C09084788700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0114~0116

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊長 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:大関山 我軍総員:105 傷者:将校2下士

  16 生死未明:下士卒2

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分大関山ノ麓登尾ヨリ進ム諸兵静粛深林幽谷ヲ渉

  リ稍クニシテ敵ノ堡塁ヲ見タリ諸兵一勢ニ鯨聲ヲ發シ直ニ銃鎗ヲ以テ突進ス賊辟易

  塁ヲ捨テ脱ル尚進テ堡塁数ヶ所ヲ奪ヒ勢ニ乗テ大関山ノ嶺ニ至ル賊兵退散爰ニ於テ

  諸兵ヲ整頓シ防禦ノ策ヲ為サントス偶賊敗兵ヲ集メ必死右翼ヲ衝右翼ノ兵潰散スル

  ヤ直ニ我隊ノ正面ヲ襲テ諸兵奮戦賊兵ヲ左右ノ谷ヨリ進メ左右側ヲ挟撃ス然レ共一

  歩モ退ス防戦ス遂ニ弾尽キ援散スルヲ以テ已ヲ得ス退テ背後林中ニ入ル日没迠防戦

  シ命ヲ得テ退却旧防禦線ニ就ク

  24日の戦況はどれも似た内容で、初めは官軍が調子よく薩軍の陣地を奪ったが、反撃されて出発地に退却したというもので、官軍の人数は戦闘報告表からは833人だったとわかる。死者18人(19人)・傷者68人(62人)・行方不明7人(0人)である。()の数字は「戰記稿による。

 24日の戦いには逸見十郎太・池辺吉十郎が陣頭に立っていたという両軍の記録がある。

  廿四日第三旅團ハ山野大口ノ賊焔ヲ撲滅セント午前三時開戰シ勇ヲ皷シテ大關山ニ

  向ヒ直チニ長左衛門釜狐岩等ノ諸壘ヲ取ル頃クアリテ賊又反擊シ來リ池邊吉十郎ノ

  拔刀隊最モ善ク戰フ我兵モ亦善ク之ヲ拒クト雖モ新鋭ノ賊ニ敵シ難ク遂ニ略取ノ地

  ヲ退キ三十丁坂ノ舊線ニ據ル (「戰記稿」)

 池辺の隊は反撃時に登場しているが、池辺がいたとは断定できない。逸見は見られない。

  此日の戰に賊將逸見十郎太池邊吉十郎陣頭に立ち部下を鼓舞督勵して大に努めたり

  と云ふ。 (「西南戰袍誌」pp.68)

  これも亀岡が目撃したわけではない。

  人吉方面ニ下ル途中江白ト云フ所ニ一泊シテ、人吉ノ鍛冶町ニ五日位滞在シ、田野

  越ヲ通リテ大口ニ達シ、大口ヨリ肥後ノ久木野ニテ丘ヲ挟ンデ辺見氏ノ指揮シ従ッ

  テ官軍ト相戦ヒ、始メ我兵二十名位附近ノ絶頂ニ登リ官軍ヲ見下シテ之ト互ニ相戦

  ヒタルモ再ヒ逆襲サレ丘ヲ下ルトキ、余ハ官軍ノ小銃ノ為メ足ヲ傷キ匍匐シテ漸ク

  丘下ノ民家ニ倒ル。

          (「西牟田休之進ノ談」『維新戰役従軍記』川内市史料集4 1974年pp.161・162)

 初め薩軍は20人位だったので退却し、反撃時に辺見が指揮したのであろう。記述が簡略で、池辺については触れていない。官軍の戦闘報告表を長々と掲げたので、「薩南血涙史」の5月24日の記述も掲げておこう。

    官軍大舉して久木野、山の神協同体(渕上幾)左小隊の壘を攻撃擊す、壘險なるを

  恃み守兵少し左小隊必死防戰スト雖も衆寡敵せず遂に敗る、右小隊來り援け左小隊

  亦辺戰し奮戰之を恢復せんと欲し戰ひ甚だ努む、敵間遠きもの五六間近きものは數

  歩に過ぎず戰ひ益々激烈に至り彈丸雨注砲聲山壑に震動す而して勝敗未だ决せず此

  地深林鬱蒼として全軍の景狀を知らず、既にして忽ち聞く周圍に喇叭の聲の起る

  を、協同隊大に驚き乃ち斥候を發して之を窺はしむるに曰く「諸壘皆敗れて官軍盡

  く此塁に集まる」と、是に於て矢竭き道窮まり援兵亦至らず兵士死傷するもの相踵

  き餘す所四十餘人に過ぎず、然れども衆皆進死の榮たるを知り死を决して一呼正面

  の敵を衝き之を擊破し四方を展望すれば官軍の重圍恰も蜘網の如く其層なるを知ら

  ず、衆相顧みて曰く「天吾輩を亡ぼせり」と、又死を冒して再び戰ひ本道を望めば

  一陣の塵埃起り一隊の兵殺到するを見る衆皆な曰く「敵又來る」と、漸く近づけば

  是れ乃ち熊本ニ番中隊(北村盛純)の來り援くるなり衆大に喜び初めて再生の思ひを

  爲し、相携へて本道に出づ、此時正義三番中隊(森元休五郎)破竹三番中隊(橋口龜

    助)は猪の嶽近傍に在りしが官軍久木野本營を襲ふの報を得倶に共に疾驅して之に

  赴き久木野の砲隊(坂元吉)又後装砲を以て救援せり斯くて邊見此敗報を聞くや大

  に憤り怒髪帽を衝き呼聲雷の如く四尺有餘の野太刀(此太刀は新納忠元祠に納めありし者

    といふを提げ自ら縦横に奔走し敗兵を整理し以て舊壘を恢復せんとし、砲三發を以

  て進擊を約し正義三番隊は背面より破竹三番隊其他の諸隊は正面より激しく進擊し

  奮鬪接戰して失ふ所の堡壘盡く之を恢復せり、此役協同隊最も苦戰勇鬪し令名益々

  盛なり死傷も亦協同隊に多し官軍の死屍三十餘を見、銃器彈藥若干を獲たり、兩軍

  死傷未詳。

 前にも述べたが大関山頂上には山の神神社がある。熊本の協同隊はその付近を守っていたのである。池辺率いる熊本隊も21日には山崎定平が率いて協同隊一中隊と共に久木野方面の守備をしていた記録がある(佐々友房「戰袍日記」pp.145)。同書24日の記述には

  廿四日池邊氏、深野、余、鳥居等各隊長ヲ率ヰ雉山ヲ出テ地形ヲ巡視シ遂ニ矢筈嶽

  ニ登ル云々

とあり、池辺は水俣方面にいたとあり、この日大関山にはいなかった可能性が強い。5月上旬から6月上旬に大関山の戦いに加わっていた薩軍正義隊某中隊長林一郎と分隊長服部喜壽の上申書がある(「林 一郎・服部喜壽連署上申書」『鹿児島県史料西南戦争第二巻』pp.871~876)。これもまた監獄で自分と仲間の記憶をもとに書いたので日付は間違えている。第三旅団が佐敷に来る前、大関山には警視隊が配置についていたが、5月8日大口方面から進んだ薩軍に襲われて放棄していた。引用する上申書はこの時点からの記録である。林らは大関山の南西側の深川付近にいた。

  然ルニ当方面ヨリ人吉ニ通融スル久木野村ノ脈道ヲ断テ官軍固守ス、時ニ五月廿三

  日頃ナラン、速カニ彼地ヘ繰出シ候様本営ヨリ報知アリ、即隊ヲ率テ久木野村ヘ到

  ル、是時味方ノ各隊モ追々繰込ミ翌日午前七時頃ヨリ進擊、自分隊ハ左翼ヨリ進テ

  本道ニ到レハ官軍要地数ヶ所ニ台場ヲ築キ固守ス、味方ノ総軍銃ヲ発シ互ニ烈戦時

  刻ヲ移シテ勝敗決セス、午后六時頃ニ至リ味方一同奮激突出シ、遂ニ官軍敗走、台

  場ヲ奪フテ味方ノ軍ヲ構ヘ、銃器・弾薬分捕夥シ此ニ自分隊死傷十一名、時ニ自分左小

  隊ハ本道ニ防戦ス、右小隊ハ山神ト云聳ヘタル山径一筋アル頂キニ台場ヲ築キ此ニ

  守兵ス、同廿九日頃未明ヨリ官兵突然声ヲ発シテ来襲フ、互ニ銃ヲ放ツテ戦フト雖

  トモ遂ニ味方敗走、山ノ半腹ニ退ク此ニ自分隊半隊長服部喜之丞外ニ壱名戦死、然ル処午后

  五時頃味方ノ総軍旧地ヲ復セント烈シク戦フ、官兵辟易シテ敗走ス、直ニ味方ノ総  

  軍進テ旧地ニ到リ防戦数日此ニ服部喜寿半隊長トナリ、時ニ六月十三日頃ナラン、官軍

  大ニ寄セ来リ勢ヒ烈ク遂ニ味方敗北此ニ自分隊死傷五名各隊岩井河内ニ曳揚ケ此ニ守

  兵ス、

 5月8日以後の大関山の戦いは19日・24日・6月3日だから、ここで廿三日頃ナランというのは19日であり、廿九日頃というのは24日である。そして最後が6月3日である。19日の戦い後に左小隊は本道に、右小隊は山の神に台場を築いて守ったという。本道とは山神ト云聳ヘタル山径一筋アル頂に続くその道であろう。薩軍は西側を向いた状態の台場を築いたらしい。

 海軍参軍の川村純義中将の本営に各地の探偵報告がもたらされている中に5月24日前後の佐敷・水俣方面のものがある。その中に大関山や札松越周辺を横から見た略図二枚が添えられており、記述内容もだが地名比定の参考にもなるので掲げる。小文字部分は原文では二行書きである。

C09082320300「明治十年五月以后 探偵書 海 参軍本營」0263~0269

      十年五月廿四日報知

  午前四時頃ヨリ第十三大區八小區内上木塲村ト申所ニテ同村ヲ挟ミ双方野山ナリ進

  擊賊兵破レテ後之山手ニ迯走ス此山萱立ニテ八名生捕官軍進テ賊ノ台塲ヲ取リ此ニ於テ

  交戦午后六時頃迠勝敗不决官軍死傷二十名程賊ノ死傷不御嶽望坂ノ賊未タ退ス官

  兵巧ミ通シ中尾山濱ノ町ヨリ二里位ニ進ミ泉ト云処ヘ賊胸壁ヲ築キ和銃ヲ携エ固メ居

  ル官兵陣坂ニ進ム久木野ノ賊仁五木村江出張ス官兵深渡瀬ニ進ミ矢ハズ山ノ賊未タ

  退カス官兵長﨑村ニ進ミ廿三日ヨリ休戦此日東京巡査千百人到着丸島ニ陳ス 

 以下原文では見え消しで訂正している部分は、そう表記できないので(   )に入れる。5行目から4行は水俣の戦況である。以下5行は球磨川沿岸地域のこと。

  一本月廿二日夜官軍心服(箙)瀬及神之瀬ニ進ム賊火ヲ放ツテ大瀬ニ走ル神ノ瀬ノ

   賊ハタカソ及大瀬ニ二分シテ去ル賊(凡)千人内三百位ハ熊本士族也ト云フ同

   廿三日朝タカソ山ニ進軍一時間程戦争賊即死一名生捕一名互ニ勝敗ナシ此日官軍

   上蔀ノ本陣ヲ心服(箙)瀬ニ移ス神ノ瀬ニ連(絡)セリ山地中佐ハ神之瀬ニア

   リ

  一人吉市中ニハ賊ノ屯集少シ纔ノ兵徘徊スルヲ見ルノミ市中モ平穏ナリシカ去ル廿

   三日頃ヨリ少々同様家物ヲ運フモノ多シ

  一五木越ニ戦争アリテ多數ノ手負ヲ人吉ヘ輸来大ニ混雑ノ体ナリ病院ハ寺又ハ町家

   ニ二軒アリ

  一廿三日人吉ノ帰路渡村ヲ過クルノキ賊百五十名計人吉ニ退ク此ヨリ告村ニ賊二百名

   計屯ス玉薬雷管ハ人吉九日町五日町ニ五ヶ所製造所ヲ設ケテ拵ヘ居レリ

  一八代間道球磨川筋清正公山ニ砲壘ヲ築キ二ヶ所一ヶ所ハ既ニ砲ヲ備フ又川下湊口

   ニ同断之亦砲ヲ備フ

  一大瀬村ニ賊丗名屯

  一一舛地ニ賊合議本陣ヲ爰ニ据ント此兵ハ大野神ノ瀬ヨリ退キタルモノナラン

  一告村ト川ヲ隔惣見山アリ賊百名屯ス此絶頂ニハ民戸十一軒アリ

    但惣見山ハ髙山ニシテ告村ヲ見下シ尤險要ノ地ナリ

  一米穀ハ鹿児島ヨリ人吉ニ運フ甚タシ

  一廿一日賊布達ヲ廻シ同所ノ士族元足軽ニ至ル迠呼出新ニ兵ヲ募ル銃ハ火縄筒ナリ

  一神ノ瀬口ニアル賊兵ハ肩ニ赤色ノ章ヲ附ス新募兵ナリ半ハ銃ナシ

      五月廿日報知

  一本月十八日五木谷椿村ヲ略取上(平)瀬ニ進ム賊走ツテトヲシニ止ル官兵死一

   人傷四人賊ハ死五人生捕二人十九日休戦

  一十八日十九日大河内村本陣箙瀬口ハ休戦

  一十八日十九日水俣口ハ深川ト深渡瀬トニテ對戦止マス

  一佐敷口ハ今朝開戦

      五月廿一日報知

  一本日午前五時頃虎石麓在屯之官軍江穂木平ノ賊渓間ヨリ五十名程拔刀ヲ以テ襲撃

   防戦直ニ賊敗レ穂木平ヘ走ル依テ官軍ハ虎石山絶頂ヘ進ミ同九時頃山頂ヨリ麓迠

   臺塲ヲ築キ穂木平並シゲリ之賊江向ケ砲撃其昨日動揺官軍ハ頻ニ発砲賊ハ稀ニ砲

   発ス

  一水俣口ハ久木野ノ賊四百名計井良之迫ト申所ヘ若干屯シ仁王木村ヘ硝兵ヲ出セリ

   十九日官軍之レヲ陥レ進テ其跡ニ硝兵ヲ散布シ同廿日中尾野近邉屯在ノ賊ヲ鬼ケ

   嶽ヲ進撃櫻之馬塲江進ンテ對陣 ※以下は蒲生隊の降伏文書

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  21日の記述は虎石山・穂木平・シゲリなどの戦闘報告表にも登場する地名である。穂木平は櫨木とも表記されるものと同一らしく、漢字が難しかったのが原因か。この場所の国見山(大関山の東に同じ名の山が二つある)というのは他では見たことがない名前で、この図図から考えて掃部越の谷筋の北側にある標高324mの山だろうか。西斜面に庵の山とある山である。

 下図もこの史料の一部である。上木場背後の山から眺めた状態であろう。下木場というのは現在の地図にはないが、上木場の南西約1kmに陳越という地名が、谷川の西側にあるがこの付近に当時は集落があったのだろうか。図には守備線が三列見られ、手前のが官軍、他が薩軍と考えた。現地踏査すれば痕跡が見つかるかもしれないが推奨はしない。マムシ・マダニ・スズメバチに噛まれたり、迷って帰れなくなることもあり得るから。鹿・猪・アナグマ大関山とその東側の国見山の中間で目撃した)には遇うかもしれないが。

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 5月24日の大関山の戦いを南西方向から見ていた記録がある。別働第三旅団の巡査喜多平四郎の「征西従軍日誌 一巡査の西南戦争(佐々 克監修2001講談社学術文庫である。

  同二十四日 天気

   我が内匠通より左、東の方遙かに眺望する所の高山は、人吉城の裏手に当たる大

  関山という。そこの山腹の広原に、我が陸軍賊軍と相峙せり。この所今早朝より烈

  しく砲戦するを眺望するの所、官軍忽ち賊塁を落としたりと見えて、賊線の位置々

  に数個の烟煙揚がるを見る。砲声は殊に盛んなり。賊軍の位置、谷を越えて却きた

  りと見えて、少しく低き方に大砲一門を引いて発射するの煙を見る。夕刻に至り、

  それより高き方の山腹に大砲二門を備え、山上の方に向けて頻りに防射連発す。そ

  の破裂丸の煙によって遠望し、これを察するに、官軍大関山の山上、樹木の生茂し

  たる方に迂回したるものと見えて、賊軍は即ち二門の大砲をもって山上の方を斜め

  に仰いで発砲する事頻りなり。暮れ方に至り、その破裂丸、山の低き方に至り、距

  離従って遠く破裂するを見る。これにおいてこれを察するに、山上の方に迂回せし

  官軍、彼の防射厳重なるによって進む事あたわずして、却きたるものと見受けた

  り。翌日聞く所によれば、この戦い早朝より官軍大勝利にて、賊軍の戦線を破り、

  胸壁数ヵ所を落としたり。賊軍却きて防ぐ、官軍山上の樹間に迂回し、賊軍を臨み

  これを撃つ。賊兵二百ばかり抜刀、決死切り込み来たりしによって、官軍敗走して

  早朝より夕刻までに攻落したる芝居を捨て、また元の位置に帰り固守せりとなり。

 大関山南西尾根にあるゴットン石付近の植生について、堀部隊報告は西南ノ焼野字ゴツトンニ走ル、下村隊報告は「ゴットン」ノ野と呼んで他と区別していることから、大関山頂上は樹木が繁茂していたらしいと推測できるが、喜多の記述も大関山の山上、樹木の生茂したる方とあり、少なくとも頂上の一部は樹木が繁茂する状態だったようである。前掲の海軍の報告にある挿図も大関山頂上一帯は樹木が描かれているが、周辺はそれがない。

 現在、大分宮崎県境の陸地峠付近のように鬱蒼とした戦跡でも当時は萱野だった場所があるのは、生業が当時と今とでは全く異なり、萱のような草を利用し、小枝を頻繁に拾って燃料にする生活だったからである。戦場の一部が野原だったため、南西側の石坂からも戦況がよく見えたことが分かる。

 24日、佐敷本営に山縣参軍・三好少将(第二旅団)が来て協議した(「西南戰袍誌」pp.68)。

 25日は第三旅団は左翼を球磨川南岸の一勝地村に延ばし、別働第二旅団と連絡を保つようにした。

 C09084788800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0117・0118

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊長 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:五月二十五日 戦闘地名:肥後国芦北郡古石村大入道 我軍総員:130 

  傷者:下士卒1 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時三十分肥後國芦北郡古石村ノ内大入道ニ於テ大哨兵ヲ

  布シ歩哨勤務中

 26日、第三旅団は左翼を鏡山口とし、右翼を上木場口と定めている。団の進路は大口方面であり、人吉ではない。

 この日、5月26日に長州出身の木戸孝允が病死した。当日午後2時5分、木戸孝允の死去を知らせる電報を熊本の山縣は佐敷の三浦に発している。漢字片仮名混じり文「木戸孝允今朝死去セリト山尾杉両人ヨリ報知アリ此段御報知申ス」を併記した陸軍軍用電信用紙が綴じられているが、意外にも電文にはキドタカスケとある。どういうことだろうか。タカヨシではないのか。山縣が自身で作文した電文であれば、そのままタカスケが正しいと思う。当時の人は一般にタカヨシと呼んでいて、それが現在に至ったのかも知れないが、木戸は山縣よりも4歳年長、三浦よりも11歳年長の同じ長州藩出身で互いに若く有名でない頃からの知合いである。実は出世する前はタカスケで、同じ藩の周りの者はタカスケと呼んでいた可能性もある。

 木戸は万延元年(1860)に水戸藩士と議諚書を作成しており、署名は桂小五郎の左に孝允と併記しているので、この頃までには孝允と名乗っていたと分かる(木戸公傳記編纂所1927「松菊木戸公傳 上」pp.73)。タカスケでは軽いと思いタカヨシと呼んだり、コウインと読んだりしたのだろうか。伊藤俊輔改め春輔が明治になると博文などと称えだしたので、木戸本人もその気になって途中からタカヨシと称したのかも知れない。しかし、山縣は三浦に対してはあえて昔の呼び名を電報に使ったのである。

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 その後、5月28日三浦は熊本に行き(C09084891000)、29日午後八代着、31日佐敷に帰った(C09084891100・「西南戰袍誌」pp.70)。第三旅団は5月24日の大関山攻撃を最後にしばらく積極的に動かなかった。その訳は水俣で戦っている別働第三旅団の進軍状況に連動することと共に、別働第二旅団が人吉を奪った後に薩軍が鹿児島県内に退却するのを待っていたためと考えられる。別働第二の山田少将と頻繁に情報交換をしており、別働第三の川路少将からも逐次情報を得ており、あえてしばらく前進を止めていたようである。

 28日に5月24日の戦闘で行方不明になっていた安満隊の兵士が二人帰ってきたので、上官に報告している。

C09084811100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0567

  過日安満大尉ゟ戦闘報告表差出候後死生未明之者別紙届出書之通帰隊候条此段及御

  届候也

 

  五月廿八日   内藤少佐

  當口司令官殿

   参謀官御中

 

       二等卒 竹川民藏

       仝   森下源右衛門

  右二名昨廿七日午前帰隊候也

 

  拾年五月廿八日  陸軍大尉安満伸愛

 

   陸軍内藤少佐殿 

 5月24日不明になった3人のうちの2人である。残る一人はどうなったのだろうか。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 4月 

 4月3日、第三旅団は先日攻撃に失敗した鳥巣をまた攻撃する計画を作成した。

  第三旅團ハ有泉村ヨリ鳥栖村ニ進入ノ目的ヲ達スルヲ得サルヲ以テ四月三日参謀佐

  尉官ヲ各所ニ派遣シ攻擊ノ方略ヲ考按セシムルニ先鳥栖村ノ本道北田島村ノ臺地

  ヲ占領シ此處ヨリ正面攻擊ヲ盛ニシ而シテ後左右側ヨリ突入スルニ若カスト因テ三

  浦少將北田島村ニ進入ノ議ヲ决シ部署ヲ定メ方略ヲ授クル左ノ如シ(「戰記稿」)

 北田島口には安満中尉の第四中隊を含む5個中隊、援隊が9個中隊、別に山鹿駐在が4個中隊という割り当てを決定し、翌4日の攻撃計画は整った。        

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4日、当初の部署により「田島口ニ向テ進軍シ已ニ岡山ノ臺ヲ領シ次ニ北田島村ノ賊ヲ掃攘シ方ニ南田島村ニ至ラントス」る。

  第十四聯隊日記ニ曰ク我カ第一大隊ノ右半大隊ハ久ク休戰連日諸衛兵ヲ爲スニ過キ

  サリシカ本日南田島進擊ノ令出テ午前一時山鹿ヲ發シ第一中隊ハ岡山ニ進ミ散兵ヲ

  左翼高江出分並ニ久米等ノ諸村ニ配布シ高江出分兩村ノ賊壘ヲ攻擊シ漸次進テ河ヲ

  渉リ力戰スレノモ賊壘高地ノ絶壁ニ據テ甚タ堅固加フルニ我カ進線平坦廣獏ニシテ占

  據スヘキノ地物ナク終日對戰終ニ目的ヲ達スル能ハス第二中隊ハ北田島ノ岡山ニ在

  テ一般ノ援隊タリ夜ニ入リ大哨ヲ岡山ノ左方ニ布ケリト(戰記稿)

 高所の南田島からの射撃を避ける術がなく、官軍は退却するしかなく、岡山の台に守線を布くだけで終わる。関係地図に等高線を強調して示す。岡山の台というのは田島(戦記では北田島として出てくるが)の背後に岡という地名があるところだろう。神社があるのでもしかすると戦跡が残っているかも知れない。高江という村の北岸に高江出分という村があるのは、高江の人が分村したのだろう。低い場所への定住は遅い。

 しかし、実際は南側の水田地帯にも歩兵が分布していた。

  防禦線を右翼寶田村より、左翼高井村の間に定め明暁を待て南田島を略し鳥の巣に

  入らんことを期す、(略)此とき、近衛砲兵は北田島に砲列を敷き砲擊するに、其

  彈丸屡味方の散兵線上近くに落下し、危險名狀す可らざるを以て予は馬を馳せ砲列

  に至り注意せしに、小隊長曰く表尺は御覧の如く伸長すれども彈丸動もすれば其手

  前に落下するを遺憾とすと、是れ全く平常演習に使用せし火砲を携帯せしを以て、

  砲腔自然に膨張せし所以に因るならん(「西南戰袍誌」pp.39)

 宝田村は前図左部分にある。背後の岡山の台地から放たれた砲弾が、前面水田地帯に展開する歩兵の上で炸裂していたのである。青銅製の砲身は使い込まれると内側が削り取られて内径が大きくなり、砲弾が当初のようには遠くに飛ばなくなったのである。

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 当時の小銃弾は1,000m位は飛んだし、300m弱位は狙って命中したので南田島の高い場所から射撃されれば中間の水田地帯を攻めていくのは明らかに不利である。それでこの日4月4日は岡山の台の左方、つまり東側に哨兵を配置することになった。

  五日第三旅團ハ昨日ノ戰既ニ北田島村ヲ占領スト雖モ賊尚ホ南田島村及ヒ佐野村ノ

  臺ニ據リ壁ヲ堅フシ溝ヲ深フシ遥ニ鳥栖村ノ本據ヲ護シ容易ク進ムヲ得サラシム而

  シテ南田島村及ヒ佐野村ノ臺タルヤ岡山村ノ臺ト對峙シ中間北田島村ノ凹處アリ地

  勢頗ル嶮惡此間凸道一二條ノ通スルアルノミ其左右ハ斷岸ニシテ攀援スヘカラス故

  ニ三浦少將諸將校ニ告ケテ曰ク之ヲ攻ルハ朝霧ニ乗シ壘下ニ達シ急遽吶喊銃槍戰ヲ

  爲スニ若カスト是ニ於テ進擊隊ノ順序ヲ定ムル左ノ如クシ午前四時三十分開戰ヲ命

  ス

 「戰記稿」の部署計画によると、右翼の進路は佐野台(南田島の西側)に向かい、左翼は援隊にあて、安満隊他一個中隊は中央隊で南田島の台に向かうとある。5日の攻撃は予定通り行われ、薩軍は不意を打たれて2km程南側の鳥巣の方に敗走した。安満の隊は当初南田島の台に向かう、という部署だったが、順調にいったので鳥巣まで攻め込んだものと考えられる。官軍は南田島から追いかけて鳥巣の本営を奪ったが、薩軍は村の東南端に踏みとどまった。その位置は二子山石器製作遺跡を含むかも知れない。台場跡を示す図を再掲しておきたい。

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 4月4日、5日の戦いを薩軍側の記録で確認しておきたい。「野村忍介外四名(奇兵隊連署上申書」(「鹿児島県史料 西南戦争 第二巻」)pp.928~967当初からは山鹿方面を担当した野村等が戦後、監獄で書いたものであり、月日の記録は記憶に基づいているので間違いはあり得る。下記の前半は隈府についてだが、田島・鳥巣と連動しているので掲げる。

  二十三日田島ノ軍転シテ鳥ノ巢ヲ守ル、二十四日熊本々営ノ使高井(※高江のこと)

  ニ来リ令ヲ伝ヘテ曰ク、隈府ハ枢要ノ地タリ、今ニシテ取ラスンハ敵将サニ我ニ先

  ントス、敵若シ之ニ拠リ二重峠・大津ヲ控扼セハ我軍進退ノ障碍タラン、速ニ之ヲ

  拠守セヨト、乃、伊東・伊地知二中隊及ヒ中原五十郎・大山誠之介・佐土原藤吾・

  本田早苗・永井半之丞各小隊、熊本協同隊一分隊隈府ニ転シテ守備ヲ設ク、三十日

  近衛鎮台凡ソ二大隊ナル可シ来リテ隈府ヲ攻メ、一ハ背面ノ山上ヨリシ、一ハ新町

  街道ヨリス、我兵拒キ戦フコト数刻、佐土原隊袈裟尾原ニ在リ、地広ク兵寡ク塁間

  空疎百歩或ハ五十歩ヲ隔テ兵士五名或ハ七名ヲ以テ守ル、是ニ於テ官兵ニ囲マレ太

  タ苦戦タリ、佐土原曰ク、寡兵以テ大敵ニ当ル可ラス、然レトモ難ヲ見テ逃ルヽハ

  丈夫ニ非サルナリ、諸子努力セヨト、奮闘砲丸ニ中リテ死ス、半隊長阿萬南八郎亦

  尋テ斃ル、此時救応ニ備ヘタル伊東ノ一小隊官軍ノ右翼ヨリ進テ横撃之ヲ走ラス、

  山上ノ官軍之ヲ見テ退軍ス、此日中隊長伊地知彌兵衛奮戦亦砲丸ニ中テ死ス、二十

  七日官兵鳥巢ヲ攻ム、我岡上ノ塁ニ在リテ之ヲ瞰射ス、已ニ十時ニ及フ頃突然岡ノ

  下ニ迫リ火ヲ民家ニ放ツテ去ル、日熊本々営ヨリ野村忍介ニ命シ出張本営ヲ設ケ

  之カ長トナリ各隊進退ノ事ヲ司ラシム、翌日官兵暁霧ニ乗シ復鳥巢ヲ襲フ、正面ノ

  官兵平野・神宮司両隊ノ間ヲ衝突シ進テ最高ノ地ヲ占メ両隊ノ背後ヲ乱射ス、両隊

  ハ不意ヲ襲ハレ力ラ支フル能ハス、死傷ヲ顧ルニ暇アラス先ヲ争テ敗走ス、是ニ

  テ正面ヲ守リタル各隊モ一戦ニ及ハスシテ散乱ス、官兵勢ニ乗シ益進ミ直チニ我本

  営ヲ乗リ取ル、時ニ野村・別府ハ本営ニ在リ、総軍ノ大敗ヲ見テ鳥巢ノ左翼植木守

  線ノ隊ニ馳セ、山口隊右小隊(小隊長徳尾源左衛門※この場合ニ段書きできないのでカッコに入

    れ小文字にするのは、前出例と同じ)ノ半隊・救応隊小隊長大牟田佐太郎)ノ半隊・別府隊ノ

  左小隊(小隊長松元直之丞)・重久雄七隊ノ右小隊ヲ引率シテ旧塁ヲ恢復シテ雪ント、

  直ニ鳥巢ニ向テ進ミ民家ニ迫ル、官兵崖上ノ樹間ニ隠見シテ発銃拒戦シ飛丸霰ノ如

  シ、我兵激戦既ニ☐ヲ移セトモ勝敗決スルノ色ナキヲ見ヤ、抜刀大呼肉薄シテ之ニ

  迫ル、長崎道義・瀬ノ口才蔵・鎌田左一郎・山下宗信各一分隊ヲ率ヒテ植木ヨリ来

  リ援ク、救応隊小隊長大牟田某・半隊長今村某身ヲ衆ニ先テ刀ヲ閃カシテ奮戦ス、

  此際ニ当リ縦横交闘両軍相弁スル能ハス接戦最励シ、官兵支ル能ハス一散ニ敗走

  ス、是ニ於テ総軍益々押詰メ先ヲ争テ進ミタルニ、中隊長平野正介・川久保十次・

  水間新七等敗兵ヲ集メ本道ニ在リテ激戦スルニ会シ、半ハ其正面ヨリ半ハ官兵ノ背

  後ヲ遮リ、平野等ニ力ヲ協セテ攻撃ス、官兵窮迫出ル処ヲ知ラス亦一時ニ敗レテ走

  ル、我軍愈勢ヲ得北クルヲ追フ凡ソ半里余、官兵止リ戦フ、時ニ神宮司半隊ヲ率ヒ

  植木ヨリ来リテ官兵ノ左翼ヲ衝ク、官ノ援隊亦来リ戦復猛烈ナリ、野村・別府策ヲ

  廻ラシ兵士二百名ヲ分テ二隊トナシ、両翼ヲ遶テ敵ノ中服ヲ衝カント、右翼ニハ徳

  尾源左衛門・吉村五郎兵衛一隊ヲ率ヒテ進ミ山口十藏・ 重久雄七之ヲ指揮ス、左翼

  ニハ竹添節・松本直之丞一隊ヲ率ヒテ進ム、川久保ハ此機ニ乗シテ中心ニ衝入ラン

  ト正面ノ兵ヲ励シ、挺前銃丸ニ中リテ深手ヲ負フ、時ニ日方ニ暮ル、両軍交モ塁ニ

  拠リ終宵砲戦ス、本日役一敗一勝頗ル快戦ニシテ官兵斃ルヽ者途ニ満チ、我軍小荷

  駄ヲ奪ハレ死傷二十余人ニ及ヘリ、

 3月27日のこととしているが、鳥巣が官軍に奪われ、同じ日に薩軍が取り返したのは4月5日の戦いしかない。薩軍は植木方面に援軍を要請し、官軍に逆襲して成功した。上申書の記述が4月5日のことだとすると、この日の薩軍の対応状況が詳しく分かる。

 安満の部隊はこの後しばらく登場しないが、「戰記稿」から第三旅団の動向を簡単に追いかけておこう。

 4月6日、南田島を占領したので、鳥巣に向かう手前の村を一つずつ奪いながら前進することにし、古閑村・上生(わぶ)村を取り、植木口との連絡を強化した。

 4月7日、南田島の北西側に位置する平井村と宝田村から古閑村を攻めて取り、古閑村の前面に防禦線を設けた。

 4月8日、第三旅団牙営を南田島村に移す。

 4月9日、鳥巣西側の石川村を奪おうとしたが、暗夜に道を迷って集合場所に来ない部隊があり、攻撃は中止となった。東側の菊池市では市街地隈府町を第三旅団の佐久間中佐(大津口)が率いる部隊が翌朝までかかって占領し、追い出された薩軍は半分は隈府の南西約3kmの広瀬村に、半分は南東約11kmの大津町に移動した。

 明治17年に「明治十年戦地事情書」という書類が野々島村から県令に提出されている。

               合志郡

                  野々島村

   明治十年三月十九日夜、賊軍ノ隊長(村田某或ハ別府某トモ申候)凡弐千余ノ兵

  士ヲ率シテ、当野々島村エ入込ミ滞留仕候。尤山鹿方ヨリ来リ同四月十五日午前四

  時比直ニ木山町ノ方エ引取申候。同二十日当村字西原・巡り・八反田エ出兵仕、何

  方モ数日炮戦御坐候エ共、勝敗ハ相分リ不申候。同四月五日未明ヨリ、官軍御進撃

  ニ相成賊軍敗走シ、大鳥居村ノ方エ引揚ゲ候ニ付、賊ノ兵器等官ヨリ御分取有之内

  賊軍直ニ獲カエシ切込ミ候ニ付、官軍一手ハ南田島ノ方エ、一手ハ山本郡古閑村

  方エ御引揚ゲニ相成、此日ノ戦イ官軍数十人御打死御坐候。賊軍ノ戦死モ有之タル

  由ニ御坐候エ共、実否相分不申候。且又火ハ官ヨリ御軍用ノタメ御掛ケ仕成候由、

  戦時間ハ未明ヨリ十時比迄ニテ御坐候。

   三月十九日ヨリ同四月十五日迄、野々島村字八ツ丸内ニテ、玉薬製造場一ヶ所、

  病院一ヶ所、炊出場九ヶ所、ニノ大小荷駄一ヶ所、四ノ大小荷駄一ヶ所、本営一ヶ

  所、元北村内ニ炊場二ヶ所、元東村エ五ヶ所、此分ニテ御坐候。前条ノ通、四月十

  五日午前第四時比賊軍木山町ノ方ニ引払イ申候由。当今ニ至リ年月相隔リ委敷儀ハ

  相分リ不申候エ共取調候処前条ノ通ニ御坐候。此段上申候也

               合志郡野々島村

   明治十七年四月二十五日 人民惣代 勝 田 茂三郎㊞

               人民惣代 中 光 正 時㊞

               右戸長  中 山 守 善㊞

   熊本県令富岡敬明殿  (pp.604)

 野々島村には薩軍本営が八ツ丸(八通丸)にあり、その他病院や弾薬製造所、炊き出し場、輜重担当などが置かれていたのである。

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 上図は「西合志(こうし)町史」にある西南戦争図で、地名・道・両軍の陣地分布などが示されているので、現在の地図に陣地跡を写そうと思うが、地名の比較が難航しできない。地図の北部には両軍の台場がいくつも描かれているが、かつて台場跡を確認した二子山石器製作遺跡には陣地の印がない。下図は戦争図の主要な東西・南北の道筋を現在地図に落としてみたもの。大体こんなものか。八通丸にあったという薩軍本営は寺を利用したのだろうか。

f:id:goldenempire:20210621142604j:plain   上図の左は町史に描き写した地名・字境・台場・戦場だが、薩軍の台場は描き洩らしている

 4月10日、官軍は前日中止した石川村を再び攻撃したが失敗し、攻撃隊は古閑村と有泉村に退いた。石川方面攻撃の官軍は戦死36人・負傷80人だった。植木方面からも鳥巣を第一・二旅団が攻撃し、こちらは戦死8人・負傷21人だった。安満の第九聯隊第三大隊第四中隊は3月30日以降戦闘に参加していないのは、北田島での惨敗の影響が続いていたのだろうか、と思ったが実は守備線についていた。第三旅団本営附の少尉亀岡泰辰「西南戰袍誌」に「予は本日本營の留守居に當りしが午前十時頃に至り賊我空虚に乗じ板井弘生倉邊に來襲せんとする情報あり引續き弘生臺の安滿伸愛大尉の持場に襲來せりと報ず、此地は我背後に當り樞要の地點なるを以て司令長官大に憂慮し予に視察を命じ且つ極力防止に努むべく守備隊長に傳へよと命ず、直に馬を馳驅して戰場に至るに戰將に酣にして彈丸雨注さい乗馬して奔走する能はず、下馬して馬を攻擊反對側の樹蔭に繋ぎ、徒歩して高井出分に至り大尉坂本基柱少尉渡邊當次共に本營の派遣員等に協力して兵を督勵し防戰に盡力す、此地若し敗るれば本營の退路を遮斷せられ其危殆なる寒心に堪へざるものあり、幸にして防禦其効を奏し十二時頃に至り敵は徐々に退却ス、後ち聞く所に依れは隈府の敗兵其退路の安全を保たんが爲め一時之地を押へたるものなり云ふ然れども其攻擊の狀況猛烈にして唯一時の抑留策とは認め難きものあり安滿大尉は予の至るを見て切に應援の兵を出さんことを乞ふ、然れども予の受けし長官の命を傳ヘ且つ本營の近傍には僅かに本營を守護するに足る一二中隊あるのみなるを以て今應援を請求ふも到底不可能なるを以て獨立必死防戰あらんことを勸誘して請に應ぜず、・・」とある。この時点では中隊ごとの戦闘報告表は第三旅団には存在しないようである。

 4月11日に安満隊の記録がある(原文は「熊本県公文類纂七-一七四」で猪飼隆明・地元委員協力1994「西合志町史」の近現代pp.615・616に収録)

  客歳鹿児島賊徒御征討ノ際官軍ヘ随従尽力ノ始末御問合ニ付有筋左ニ上伸仕候

  私儀第五大区五小区合志郡合生村九百六拾七番地住、士族緒方二三ト申モノニテ、

  客歳三月鹿児島賊徒本県ヘ闖入ノ際、官軍第九聯隊第三大隊第四中隊ニ被召仕台場

  建築ノ夫使、其他烽火ノ周旋、或進軍ノ先導、各地ノ探偵等ニ至ル迄、隊長ノ指揮

  ニ応シ各位ト共ニ尽力セシハ、各位ノ親シク目撃スル所也。然ルニ四月十一日午前

  七時頃、賊将鋭を尽シ隈府街道ヨリ襲来ノ報ヲ得、安光大尉ノ内諭ヲ以テ、直チニ

  該大区六小区富出分村神社接近ノ地マテ潜行シ、窃ニ社内ヲ窺フニ果シテ賊兵屯集

  シ、隊長ト認ベキモノ弐拾名許、他兵卒五拾名余、且薬師小屋ニ百名、福本神社ニ

  百名、高江村ニ百名、凡三百六、七拾名ト認、迅速帰営、之ヲ安光大尉及ヒ古川・

  花田ノ両中尉ニ報ス。則安光大尉慰労金三円ヲ給与セラレタリ。感泣恩ヲ謝シ坐未

  タ久カラス、将ニ十時ナラントシ、賊兵果シテ風雨ニ乗シ、該村神社西面ノ小径ニ

  傍以(※「添い=カ」の注記あり)、進テ各所ノ竹林・桑園ヲ侵シ、直チニ官軍ノ台場ニ

  セマリ、激戦時ヲ移シ砲声天ニ轟キ硝煙空ヲ蔽イ、弾丸雨注、実ニ万死一生ノ際ニ

  臨ミ、隊長ノ指揮ニ応シ断然身命ヲ抛チ、台場守衛罷有候中、山肩日已ニ没シ、各

  所烽火起リ賊兵遂ニ敗、兵ヲ野々島及ヒ黒松・大池ニ退ク。是ニ於テ翌十二日官軍

  兵ヲ小合志原ニ進ム。

  自分儀モ前同様従軍、胸壁建築ノ周旋ヲナセリ。賊兵遂ニ拒可ラサルヲ覚リ、壁ヲ

  捨テ走ル。是ニ於テ同十五日官軍兵ヲ熊本ニ進ム。前同様従軍、龍田山ニ到初メテ

  暇ヲ賜フ。同十七日該村滞陣以降ノ諸調等アリ。安光大尉・古川・花田ノ両中尉、

  浅井曹長、大庭・田口ノ両給養掛及ヒ各位自分ト共ニ九名ニテ、万般無遺漏計算等

  皆済退去セリ。然ルニ、同月某日内藤大隊長・安光大尉両度謁ヲ賜ヒ、万般忠誠ヲ

  尽シ奇特ノ至リ、尚一層忠勤ヲ励ス樣親シク言賞アリ。依テ更ニ別紙写ノ通リ御辞

  令一葉下シ賜リ、難有拝戴仕置候。前記ノ通有筋始末書ヲ以テ奉上申候事。

          第五大区五小区合志郡合生村

          九百六拾七番地住士族

  明治十二年卯一月廿日        緒 方 二 三㊞

   村用掛

    工藤五七郎殿

    緒方喜三郎殿

 

  内藤・安光・古川ノ三将校ヨリ下シ賜リ候御辞令文意ノ概略写

        記

                  緒 方 二 三

  其方儀是迄不肖ノ筋モ無之、依テ第九連隊軍事用向筋申付候事

  右ノ通ニ御座候事

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 文中の内藤は参謀部の内藤之厚少佐である。安光大尉とは安満のことである。彼が何時大尉に昇進したのかは分からない。古川は第四中隊の古川治義中尉のこと、花田も第四中隊の花田耕作中尉である。安満の中隊は「戰記稿」に記載がなくとも依然として前線にいたことが分かる。緒方の住所、合生(あいおい)は二子山石器製作遺跡の北東側の川の東側の地域にある。この4月11日の戦闘は「戰記稿」には記載がない。その後、4月14日、官軍のある部隊の本営が緒方の家に置かれた。

  昨十二日御達ニ依リ取調差出候兵卒ゟ伍長ニ伍長ゟ軍曹ニ撰拳可致者ハ現今當口出

  張之安満井上栗屋之三中隊ニ配リ該隊下士捕欠相成候上残余之者ハ他隊ニ御附相成

  候而も不苦候旨申出候条此段及御廻答候也

 

    第四月十四日  内藤少佐 参謀部御中

  追而本文之義遅刻致候ハ防禦線付換ニ取懸リ只今☐候仕合ニ有之候并ニ左翼本営ヲ

  相生村緒方二三方ヘ轉 移候条此段御届候也

  但相生村緒方二三ナル者ハ元弘生村大酒造家ナリ

  (C09084868000「第一号自三月十日至四月卅日 来翰綴 第三旅團参謀部」1364・5)

  脇道にそれるが緒方の情報を掲げる。

 明治33年に熊本県士族緒方二三が加藤高明外務大臣義和団事件処分に関する建白書を提出している(B04011153000義和団事変ニ付帝国ノ利権獲得ニ関スル建言雑件 第一巻(1-7-10-5_001)(外務省外交史料館)」)。また、緒方二三と同名の人物(熊本県益城郡杉谷村杉島千四百四十七)が明治37年に陸軍大本営付の中国語通訳になっている(C09122000300、明治37年自2月至5月 大日記 副臨人号 自第1号至第212号 共4冊(防衛省防衛研究所蔵0357~)西南戦争に登場する人物と同じ人だろう。

  4月12日、第三旅団の14個中隊は石川村・鳥巣村の略取を期して攻撃したが、退却している。山鹿市の南東に位置する菊池市(隈府わいふ口)は第三旅団の佐久間中佐が担当し、薩軍と交戦しつつ次第に第三旅団牙営から遠ざかっていった。この後16日、佐久間が負傷したため厚東中佐が代理を務めることになる。

 その後数日間は第九聯隊第三大隊第四中隊の記録はないが、4月14日に熊本城の籠城が解放されると、正面軍や山鹿口の官軍が対峙していた薩軍は鳥巣や植木・木留周辺から一斉に撤退し大津方面や熊本平野に移動した。第三旅団もすべて大津口進撃隊に合流している。鳥巣は戦闘で奪ったのではなく、薩軍は自発的に撤退したのである。

 4月19日、大津口第三旅団は他の官軍と連携し南は御船町から熊本市健軍、大津市に連なる延長30km前後の戦線を構えて薩軍を圧迫した。

  十九日第三旅團漸次諸隊ヲ進メ一團舉テ大津ニ向ヒ是日牙營ヲ伊萩村ニ移シ防禦線

  ヲ定ムル左ノ如シ(「戰記稿」) 

 安満大尉は川村景明少佐が司令官の右翼7個中隊の一つとして岩迫村を端にして旅団右翼の配置についた。別に援隊は古閑原と小林に屯在し、左翼援隊は湯舟村や鞍ヶ岳に派遣された。また、遊軍は伊萩村・片川瀬村と妻越村に屯在。隈府分遣は小川原村、砲廠部は湯舟村。以上で大津町に前進する計画である。第三旅団の右翼には大津口第一・二旅団(右翼・中央は御領・出分村、左翼は鳥越・岩迫谷、援軍は右翼が群山その他、予備隊が二子・豊岡・鶴田・羽田)が進んだ。大津町の西側が第三旅団の右翼だった。

 4月20日、城東会戦といわれる両軍初の会戦が行われ、官軍の勝利に終わったが、官軍の死傷者は700人に上った。この内、第三旅団は戦死14人・負傷35人である。この時の第九聯隊第三大隊第四中隊の具体的な動向は記録されていないが次の史料で一端が窺える。

C09081000400「明治十年従五月 送達書元稿 大坂征討軍☐?0207征討総督本営罫紙※欄外上部に「安満」

  九連隊第三大隊第四中隊

   第三             二等兵 生駒半兵衛 

  右四月廿一日竹宮進擊之際左上脾射入銃創兼骨傷ヲ負ヒ即日入院治療ヲ加候処百治

  無功本月五日頃ヨリ膿毒症ヲ発シ悪寒慄冷汗淋漓嘔吐下痢食思欠損等ノ諸症ヲ発シ

  漸々衰弱ニ陷リ遂ニ本月十五日午前三時死亡候也

 

   明治十年五月十五日    陸軍々醫中泉 正㊞

 これは治療に当たった軍医の報告書である。中泉正軍医は2月21日に野津・三好両少将の文では当地に着しているが、当地とはどこか(C0908290110「十年二月廿一日~三月三日 来柬録 征討総督本営)。別の記録には4月17日には高瀬軍団病院(玉名市)に勤務している(C09080996900「明治十年従五月 送達書元稿 大坂征討軍?」)ので当地とは高瀬を含んだ地域である。熊本平野での負傷者は高瀬で治療したと分かる。

 第九聯隊第三第田第四中隊の二等卒が4月21日に竹宮進撃の際に負傷したという。竹宮は熊本市東部の水前寺公園周辺の健軍地区の事。城東会戦の激戦地である。第四中隊がこの付近の戦闘に参加していたのだろうか? 城東会戦は20日一日で終わったと思っていたが、そうではないようだ。20日の第三旅団を「戰記稿」から見ておこう。

  右翼第三旅團ハ牙營ヲ下中久保田村ニ移シ昨日議定セシ如ク午前五時諸隊進テ大津

  町ノ臺上ニ登リ銃砲ヲ劇射シテ賊壘ニ迫ル賊兵堅ク守テ動カス我右翼ノ兵最モ奮進

  勇鬪遂ニ其第一線ノ數壘ヲ拔ク然レノモ賊退テ猶ホ第二線ヲ死守ス是ヲ以テ我兵容易

  ニ大津町ニ侵入スルヲ得ス(略)詰朝大舉シテ大津町ヲ略取センヿヲ期セリ

 20日薩軍の抵抗が強く、大津町を占領できなかった。第三旅団の右には第一・第二旅団が並んでいた。彼らは21日は熊本空港の南東3kmの川原村の薩軍を攻撃したが、逆襲を受けて現熊本空港のある高遊村まで退いている。その後、大津口から第三旅団古田少佐隊が来たので共に川原村を占領したとある。診断書にある竹宮から高遊村までは11km、その付近で21日に戦いがあったことは記録されていない。「征西戰記稿」がすべてを網羅して記しているのではないということか、診断書が正しくないかだろう。

 4月22日、第三旅団は大津市街の南側を西流する白川を渡り、牙営を外牧村に置き、阿蘇外輪山南斜面の矢部浜町(ここに全

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薩軍終結しつつあった)に向けて警備し、敵情を探るため斥候を各所に出している。また、前日戦った河原(川原)村・日向キ村・布田村・鳥ノ子村・外牧二(※ニは?)・内牧村に厚東中佐と河村少佐の11個中隊が、阿蘇カルデラの西部の入口の黒川村に友田少佐の一分隊が、鳥ノ子村・錦野村・布田村・瀬田村に内藤少佐の8個中隊が、他に大津町・鞍岳・二重峠(中津隊が薩軍に合流したときに登ってきた峠。古来肥後・豊後の官道)・隈府町・外牧村に6個中隊がそれぞれ守備線を構えた。この内、安満隊が属したとみられるのは内藤少佐である。上の地図のもっと北側に二重峠・鞍岳がある。なお、第一・第二旅団は第三旅団の右にいた。

    阿蘇カルデラの東端に位置する坂梨には3月上旬から桧垣警視の警視隊が大分から進んで、カルデラの西端の二重峠方面を警戒して警備についていた。薩軍も植木付近で官軍正面軍と戦っているとき、既に大分方面から官軍が進入してくることを警戒し二重峠を守備していた。警視隊隊長桧垣の動きは遅く、やっと18日になって黒川・二重峠に進んで戦いを挑んだが、佐川大警部(官兵衛)他33人の戦死者、34人の負傷者を出して坂梨に退却していた。

 その警視隊は4月24日、山縣参軍から熊本に進めとの命を受け、25日第三旅団の目の前を通って大津町に、26日には御船に移動し別働第三旅団に編入し第五大隊と称することになった。それまでは大分側にいた警視隊が消えたので、第三旅団が前面に出る形となった。三浦少将は山縣に掛け合って曰、黒川以東の広範囲の警備は第三旅団では出来かねる、他の旅団を派遣して空白を埋めるか、さもなくば第三旅団が移動して埋め、現今の防禦線を他の旅団に譲るかの二つしかないので採決を仰ぐと。

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 横平山・田原坂方面を担当した第一・第二旅団の各中隊は日毎に戦闘報告表に記入しているが、第三旅団の場合は5月18日からしか確認できない。

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 岩村・鳥巣・大津などの戦闘報告表を探したが見つからなかったので、ついでに各旅団の戦闘報告表を比べてみたら必ずしも全て同じ様式を使っていたのではないと分かった。事例掲示は略すが、第一・二・四旅団と別働第一旅団は同じ木版で印刷したものを使用し、これらは外枠が太い一本線である。別働第二旅団は外枠が太細の二重線、別働第三旅団は前記の版が「戰鬪」である部分は「戰鬥」になっている。以上は、裏面が備考欄になっているが、表面だけに記入する型が第三旅団・別働第五旅団と新撰旅団である。但し、新撰旅団の報告例は少なく、それらは木版ではなく、直角に交わるべき線が斜めになっていたり、突き抜けていたり統一性がなく手書きしたような感じである。上図で理解しやすいと思うが、各旅団の編制月日が異なるし、それも当初から持参していなかった旅団もありそうで、複数回にわたり戦闘報告表が供給された記録がある。 

 4月24日、山縣参軍は現熊本県庁東側約8kmの木山東部灰塚に諸旅団長を集めて各進撃の方面を決定した。この時、薩軍は矢部浜町に集まっており、直後に人吉あるいは宮崎県に向かって移動を始める。薩軍は人吉に入ると、大口・佐敷・人吉北方山間部・延岡・大分など人吉盆地の四方に部隊を進ませ官軍の侵攻を防ごうとした。この前後、官軍の追撃はなぜか緩やかに見える。後日、山縣は次のようなことを述べている。「灰塚の軍議に手間取らずに薩軍を急追していたなら、もしかしたら一撃で薩軍を粉砕することができたかも知れない。西南戦争に関してこのことだけが気にかかる点である」(「戰記稿」)

 灰塚会議の結果、

  御船ヨリ飯田山及ヒ船底山マテ別働第二旅團〇船底山ノ麓ヨリ南田代及ヒ淺ノ藪マ

  テ熊本鎭臺兵〇淺ノ藪ヨリ川原マテ第一旅團〇川原ヨリ田原山マテ第二旅團〇田原

  山ヨリ黑川マテ第三旅團   (「戰記稿」)

と決定した。このうち船底山とは船野山のことであり、田原山とは灰塚の北東2.2kmの田原付近の山であろう。浅ノ藪は標高480mの城山の南東1.6kmにある。この結果、熊本鎮台が正面攻撃の本軍となり、第三旅団は左翼攻撃本軍、第一・第二旅団は少し下がった第二線の位置となり、別働第二旅団は人吉北部方面からの通路である那須口に備えることになった。

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    熊本鎮台は4月26日、薩軍が去った直後の浜町に入り、28日には一部が馬見原に進んだ。三浦はここでも山縣に提案し認めさせている。

  熊本鎭臺ヲシテ獨リ濱町馬見原ヲ守備セシムルモ固ヨリ其防禦十分堅固ナリトスル

  ヲ得ス故ニ分守ノ法ヲナシ臺兵ハ專ラ濱町ヲ守備シ本團ハ位置ヲ轉シテ馬見原一方

  ヲ守備シ臺兵ト相連絡シテ大野越ニ及ホシ本陣ヲ高森ニ移サハ第一第二旅團及本團

  ノ矢部口ニ備フル所ノ第二線守備ハ之ヲ撤曾テ危殆ノ憂ナク(略) (「戰記稿」)

 4月30日から5月3日にかけて第三旅団はカルデラの南部にある高森に進んだ。馬見原の地を熊本鎮台から譲り受けることになったためである。30日作成の第三旅団部署表には安満の第四中隊は「五月二日安滿粟屋堀部ハ高森ニ瀧本沖田平山ハ下市村ニ到リ命ヲ待タシム」とある。

  いつの時点か分からないが三浦梧楼のいたずらの話がある。彼の回顧録「観樹将軍回顧録」による。

   この戦争中、山県の事について面白い話がある。一体山県は極めて注意深い男

  で、とかく極度に干渉して困る。それで山県が来ると、いつもがんがん喧ましく言

  うから、皆毛虫のように嫌っている。それ来たというと、参謀などは皆逃げ出すと

  いう始末である。

   ある時山県がまたやって来た。我輩の本部の前にいるので、参謀などは皆弱り切

  っている。

  「よしよし、乃公が一つ追っ払ってやるから安心しておれ」

  と言っている所へ、山県が出掛けて来た。そこで昼飯を饗応したが、その給仕役に

  出したのが二、三人の捕虜である。何しろ鹿児島を出る時、湯に入った切りだ。櫛

  風沐雨に何カ月というもの曝されて来たのである。その汚ないことおびただしい。

  さすがの山県もこれには驚いた。ジロジロと様子を見ておったが、

  「三浦、これは賊じゃないか」

  「賊だ、生捕った奴だ」

  「ひどいことをするじゃないか」

  「いや何でもない。夜分蚊が出て仕方がないから、蚊燻しをやらせておる。心配は

  ない」 

  「もし火薬庫に火でも点けられたらどうする」

  「なに大丈夫だ。気遣いない」

  「大丈夫か、気遣いないか。剣呑だぜ。」

  と言っておったが、気味が悪いか、すぐさまここを立って往った。

  「さあ皆安心しろ、山県を追っ払ってやった」

  とて、大笑いであった。山県は我輩のいたずらを真に受けたのである。

 蚊が出るというから梅雨明け後の季節で、山鹿・阿蘇よりも後のことだろう。藩時代からの知り合いだから山県も怒れなかったのだろう。

 

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 2月・3月 ※少しずつ追加します。

はじめに

 西南戦争時に編成された第三旅団の一部隊、第九聯隊第三大隊第四中隊の行動を跡付けてみたい。可愛岳の周辺で戦跡踏査を何度か行ったことがあるが、この部隊はその戦場に登場しており、そこに至るまでとその後の部隊の足跡を見ておきたくなった。

 西南戦争時陸軍には、全国に仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本に鎮台が、東京には近衛兵も置かれていた。戦場には鎮台毎に出動したのではなく、臨時的に各地の部隊の一部を抜き出して組み合わせて旅団という名称で送り出した(佐倉桜香2020)。また、別に警視隊を四期に分けて募集して送り出している。初めは第一旅団・第二旅団、遅れて第三旅団が加わり包囲された熊本鎮台を解放するために熊本県北部に進んだが(これらを正面軍と呼んだ)、一ヶ月近く経っても熊本城解放の目途が立たなかった。それで熊本城の南方の八代沿岸に新たに編成した別働旅団を投入した(衝背軍と呼んだ)。当初は別働旅団(第一から第五)の名称が短期間に変更され、分かりにくい状態が生じたが、それも間もなく解消された。また、3月14日に第四旅団が、7月中旬に新撰旅団が編成された。

 ※佐倉桜香2020「新訂征西戦記考別冊 西南戦役における募兵-壮兵召募と巡査召募-」

第三旅団の戦歴概要

 ここで扱う第三旅団は当初の2月から4月前半は山鹿方面を担当した。司令長官は3月10日に任命された三浦梧楼少将で、同日部隊は熊本県玉名郡和水(なごみ)町岩(戦記では岩村として出てくる)に進出し、牙営(旅団本営)を光行寺に置いた。南西側で横平山や吉次峠田原坂で戦闘が続いているときに第三旅団は山鹿方面に進んで戦ったのである。

 4月14日の熊本城解放後は東方の阿蘇方向に進んで、大津から熊本市北東方面を短期間担当した。4月下旬に薩軍阿蘇外輪山南西の矢部・浜町、さらに人吉方向に移動するとその方面からの来襲を警戒し、大津から阿蘇カルデラ内付近に布陣した。その後は熊本県南部の海岸部にある佐敷町に移動し札松峠や大関山などで戦った後、水俣市から鹿児島県北西部の伊佐市に入り、高熊山の戦闘に参加している。さらに県北部を横断して宮崎県都城から日向灘沿岸を北上し、延岡で折り返して鹿児島市に着いて9月24日の終戦を迎えている。

 第三旅団の牙営の移動状況を現在の郡市町村名と共に記すと以下のようである。旅団の司令長官三浦梧楼少将の本営の移動状況が分かる。玉名郡和水町岩(3月10日・3月11日時点の兵数は小使・従僕・馬丁を除いて3,908人である。山鹿市の中心部から北西約4km)・山鹿町(3月31日)・菊池市七城町橋田村(4月4日※小使・従僕・馬丁・傭夫を除いて3,864人。山鹿市中心部から南東約8km)・素崎村(4月5日。橋田の南南東約1.5kmの七城町に蘇崎がある)・岡村(4月6日。蘇崎の南約3.2km、ここでいう北田島の北西側に岡がある)・菊池市泗水町南田島村(4月8日)・石坂村(4月15日。南田島の東約8.5kmに伊坂がある)・菊池市旭志伊萩村(4月19日)・大津市?下中久保田村(4月20日)・阿蘇郡高森(5月3日)・蘇陽町馬見原(5月5日)・大津町(5月7日)・八代(5月9日※5月10日時点の第三旅団の人数は小使・職工・従僕・馬丁・夫卒を除いて3.460人である。この日、水俣方面の戦状が不利との報告により10個中隊を海路派遣することになった。)葦北郡佐敷(5月12日)・水俣市久木野村(6月10日)・伊佐市大口(6月22日)・霧島市横川村(7月2日)・霧島市国分(7月11日)・霧島市田ノ口村(7月23日)・都城市庄内(7月24日)・高城(7月28日)・宮崎市倉岡(7月30日)・佐土原(8月2日)・高鍋(8月3日)・高松村(8月4日)・都濃町(8月5日)・美々津町(8月9日)・新町(8月11日)・富高新町(8月12日)・日向市日知屋(8月13日)・延岡(8月15日)・美々津(8月29日)・高鍋(8月30日)・本城(8月31日)・鹿児島田ノ浦(9月5日)・下荒田村騎射場(9月6日※戦争終結まで)。

第四中隊の出征

 第九聯隊第三大隊第四中隊は大阪鎮台大津営所所在の部隊である。「征西戰記稿」(以下では戰記稿と略す)の旅団編制表では第四中隊の人数は分からないが、第三中隊と第四中隊の兵数は合わせて264人となっており、半分とすると132人である。  

 大阪鎮台には第八・九・十聯隊があり、このうち3月10日までに第一旅団・第二旅団に分散して戦地に出張していたのを第九聯隊に限定して掲げる。第九聯隊第一大隊の全四中隊、第二大隊第二中隊・第四中隊、第三大隊第三中隊である(「戰記稿」)。第三大隊については次の史料がある。

  第六十六号

  大坂鎮臺

  其臺歩兵第九聨隊第三大隊及ヒ第十聨隊之中一大隊ヲ大坂ニ繰上可申此旨相達候事

   但京都御警衛之義ハ大津在屯兵之中ゟ二中隊可差出事     

   明治十年二月二十六日

      陸軍中将鳥尾小彌太  

  (C09081692500「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸陸軍参謀部」)

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 第九聯隊第三大隊のうち第三中隊だけは2月27日にすでに戦地出張中である。上記は残りの三個中隊の内の二個中隊に対する命令だろう。ここで扱う第四中隊を含んでいるのかは分からない。第九聯隊は3月8日になって別働第二旅団に編入されている。

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  第二百五十二号

  歩兵第九聨隊

  第三大隊

  別働隊第二旅團江編入申付候事

    明治十年三月八日

    征討総督本営

     (「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸陸軍参謀部」防衛研究所蔵)0189・0190

 

  第二百八十四号 

  一昨夜当地出帆ノ隊ハ第九聯隊第三大隊ニテ太平丸ニ乗組出帆セリ三月十日午後四

  時三十分着ス(C09081708500「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸

陸軍参謀部」防衛研究所蔵)0215・0216

 一昨夜出帆というから3月8日夜出港か。別働第二旅団に編入が決まり、即日出発したのである。2月27日には第三大隊第三中隊は戦闘中だから残りの第一・二・四中隊のどれか。先日投稿した第七聯隊の事例から考えて、神戸から博多まで直行したとすれば35時間くらいである。早ければ10日中には福岡の博多港に着いたはずである。実際その通りに博多に着いたが、上陸できないような海面の状態だったと次の記録が示す。 

  第二百七十四号

  第九聯隊第三大隊昨夕到着舩之處風波ニ付未タ上陸セス上陸次第南ノ關へ繰込筈ナ

  リ

   三月十一日午前十時十分福岡発

         〃十時三十七分着

            小 澤 大 佐

   鳥尾中将殿 (C09081806000「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸陸軍参謀部」防衛研究所蔵0200)

 第九聯隊第三大隊は3月10日夕方博多に着いたが、風波のため直ぐには上陸できなかったが、11日中には上陸しただろう。

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     大阪鎭臺第九聯隊第三大隊第三第四中隊

  出征第三旅團編入更ニ申付候事

   明治十年三月十四日 征討総督本營(C09084850200「第一号自三月十日至四月卅日 來翰綴 第三旅団参謀部」防衛研究所蔵)

 3月14日の「戰記稿」には「十四日第三旅團ニ編入セラレシ兵左ノ如シ」として第九聯隊第三大隊第四中隊中尉安滿伸愛(やすみつ のぶえ)の他二つの隊があり、その中の一中隊は山鹿市岩村の部署が割り当てられているが安満の隊はまだ割り当てられていない。この日現在の第三旅団の隊数は、歩兵22中隊・砲兵1小隊と2分隊・工兵3分隊である。

 安満中隊が派遣された山鹿方面は、3月10日以前には熊本鎮台第十四聯隊や第一・第二旅団の一部が派遣されるに留まり、この方面の司令長官は任命されていなかった。10日、第三旅団司令長官三浦梧楼少将が三個大隊を率いて福岡県南端から熊本県北部の玉名郡南関から山鹿の北西側に位置する玉名郡和水町(なごみまち)平山の岩(岩村として登場)に牙営を置き、3月12日には南東3km弱の鍋谷・城村に進撃している。山鹿市街地の西側手前である。

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 田原坂が陥落した3月20日には薩軍山鹿市街を去り、21日には市街地西側の志々岐を取り、牙営を山鹿市街に移した。22日植木口の官軍と連絡を通じたが、まだ東方の隈府(菊池市中心部)、南東側の田島・鳥巣は薩軍の占領地域だった。

 3月25日、この日山縣参軍からに西隣の植木口にいる野津鎭雄第一旅団長・大山巌第二旅団長(三好重臣旅団長負傷のため臨時兼務)の手紙が第三旅団三浦少将に届いた。それは、植木の東方に当たる鳥栖(現在の地図では鳥巣)村には薩軍が増加していると聞くが、第三旅団から二中隊を出して警備を付けた方がいいのではないか、という注文だった。三浦少将は26日に不愉快そうな返事を出して言うには、廣町味取町ノ中間連絡ノ爲メ更ニ二中隊出兵ノ儀縷ゝ御申聞ノ趣承知仕候然ル處當所ノ儀ハ一昨夜來申出候通防禦線六七里ニ亘リ當時ノ兵ヲ以テ配當候ノキハ既ニ三ヶ所ノ要路ニ可差出兵無之因テ南關ノ兵ヲ引揚候様達置候位ノ儀ニ有之迚モ出兵難爲致候若シ(第三旅団防禦線は六七里の長さがあり寡兵のために鳥栖には出せないので、後方の抑えとして置いていた南関の兵を引揚げるよう命令しました。)又山鹿新町ノ防禦ヲ手薄ニ致シ出兵爲致可然儀ニ候ハヽ新町ヲ棄テ唯孤立ノ山鹿ヲ守リ可然儀ニ候哉若シ果シテ然ラハ當所ハ迚モ守備可致見込無之竟ニ全軍ノ勝敗ニモ關係可致ト存候間此邊篤ト御熟考御指揮被下度元來圖面ト實地トハ自カラ景况ヲ異ニシ現地上防禦困難ノ事モ有之候間願クハ實地御巡回ノ上御指揮ヲ仰キ候(山鹿新町の防禦を手薄にしてよいなら山鹿だけを守れということですか、それなら山鹿も守備を全うできる見込みがないし、そうなったら全軍の勝敗にも影響しますよ。じっくり考えて下さい。図上と現実とは異なるので現地を見てください。)書き進めるうちに次第に調子が乗ってくる三浦の怒りが伝わる返事である。

 28日の「戰記稿」には「是日大坂鎭臺歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊(大尉本城幾馬)ハ高瀬ヨリ同第四中隊(安満中尉)ハ南關ヨリ山鹿町ヘ至レリ」とあり、安満の隊は直前には山鹿口の後方の抑えとしてか熊本県北端の玉名郡南関町にいたのである(「戰記稿」)3月28日付の安満による届出がある。

C09084856200、来翰綴 第1号1149~

  来第百四十五号

  當中隊壱分隊坂下分遣中往来人夫別紙之品〃所持通行候ニ付取調候處途中ニ於テ拾

  揚候段届出候間現品相添此段御届申候也

 

   明治十年三月廿九日

      歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長心得

          陸軍中尉安満伸愛㊞

 

    第三旅團

      参謀部

        御中

 

          記

  一毛布          拾枚

  一込矢          弐拾本

  一外套          弐枚

  一畧袴          壱枚

  一陣中嚢         三個

  一胴乱          壱個

  一畧帽          壱個

     計七品

      外ニ

  一日本刀         壱本

   右ハ福岡縣第八大区六小区春吉村平民早田☐太郎ト申人夫去ル廿五日坂下通行之

   際携帯致居候ニ付取調候處人夫小頭山部業太郎ノ所有品ニ而有候段申立候得共

   其証無之ニ付右山部業太郎通行迠預リ之☐處昨廿八日坂下分遣隊引揚相成候ニ付

   而ハ同所警察所等も無之ニ付無☐當所ヘ持越候事

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 文中に坂下分遣中とある坂下は南に行けば玉名市街地(高瀬)、南東に行けば山鹿に通じる南関町南部の主要路線上にあり、哨兵として第四中隊が配置についていたということだろう。25日に不審者を発見確保しているので、それ以前から配置についていたとみられる。

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   3月30日の「戰記稿」に第四中隊の記録がある

  是日鳥栖口最モ劇戦シテ賊ノ堡壘數十ヲ略取ス安滿中尉ノ一中隊ハ太タ苦戰賊ノ壘

  下ニ在テ進ム能ハス退ント欲スレハ賊ノ狙擊ヲ奈トモスルナク相對スル十米突ノ距

  離ニシテ朝ヨリ暮ニ至ルマテ田畔ニ在リテ戰ヘリ〇是日大雨終日泥濘脚ヲ沒シ進退

  意ノ如クナラス諸兵ノ困難前後其比ヲ見ス然レ共遂ニ鳥栖村ニ入ルヲ得ス午後八時

  兵ヲ味取町ニ収メ山鹿ノ兵ハ山鹿町ニ歸ル

 

 

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 地図の下部にある二子山石器製作遺跡は縄文時代の打製石鍬の石材産地であり、古墳時代の円墳もある。墳上に台場跡が北・東を向いて造られている。周辺には数十基あったはずだが今は不明。

 分捕り品は小銃48・弾薬1,030発・刀剣28本だった(同)。第四中隊の戦死20人・戦傷49人(同)かと思ったが、間違い。この方面の第三旅団の死傷者だった。当日、鳥巣(とんのす)で負傷した第4中隊兵士の記録があるので掲げる(C09082110200「戰鬪履歴 軍團事務所」0482)

         診断書

         大坂鎭臺歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊

               一等歩卒 堀内松之助

  右者本年三月三十日肥後國鳥巣ニ於テ負傷左下脚外踝ヨリ一寸許下部ニ於テ銃丸射

  入内部ヲ通過シ足踵ニ貫通現今全治足踵ヲシテ十全地ニ附スル能ハス依之追テ傷項

  策定候迠帰郷療養為致可然者ト及診断候也

    明治十年十一月廿七日

            大坂鎭臺病院長

              陸軍一等軍醫正堀内利國

              主任醫官

              陸軍々醫  用吉左久馬 

 負傷者の中には治療し完治しても隊に復帰できそうもない者もいたのである。

 

次回はある中隊の動向を追いかけてみようと思います。

上記はもう少し先延ばし。今は第七聯隊の追加作業中です。以前の投稿にも思いついたら追加修正しているので、御注意!