satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

次回からは名古屋鎮台のある大隊の戦闘日記を読み進めます。

次回から数回に分けて、アジ歴にあるC13080000200「歩兵第七聯隊第一大隊 西南戦記綴」を読んでみます。原文はインクで書かれた読みやすい記録なので、ほとんど原文は貼り付けずに活字化していこうと思います。先回りして読んでもらっても構いません。

野村忍介の和歌「命ならて外に・・」

 野村忍介の掛け軸を紹介する。軸装の結果、表面に現れた本紙の大きさは縦149.7㎝、横62.3㎝である。

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南洲翁を手向奉流歌

 命ならて外爾手向む物无那し袖者なミた能時雨のミして 忍

 (南洲翁を手向け奉る歌   命ならで 外に手向けん 物もなし 袖は涙の 時雨のみして)

 同じ歌を書いたものが世の中に他に存在するので区別するため、これを作品イとする。高野和人「西南戦争 戰袍日記写真集」には同じ歌を記した野村の短冊、作品ロが掲載されている。この短冊は熊本隊士松村勝三の子孫・松村英昌氏蔵である。「明治十一年九月二十四日、西郷隆盛の一回忌に際して、市ヶ谷監獄に服役中の元奇兵連隊長野村忍介は、追悼の歌を詠んでその霊を弔った」とし、

  南洲先生の一回忌にあたりて 命ならて外に手向けんものもなし 

  袖は涙の時雨のみして 忍

と紹介している。1877年9月24日、鹿児島市城山で西南戦争は決着がつき、その一年後に野村は収容された東京の市ヶ谷監獄で西郷を偲んで詠んだのである。

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    初めの詞書はイとロは異なるが、作品イが西郷の一回忌追悼の歌だと分かる。参考のために、前回紹介した短冊の署名も最初の写真左下に掲げている。3点は似ているとはいい難いが、先に紹介した月照の「忍介」と比べれば、野村の忍は似ている。

※これも大津祐司さんに難解字を教えて頂いた。

私学校の石垣は移動しているのを知っていますか?

 下段に載せたのは鹿児島市にある私学校跡東南部から鶴丸城跡(今の黎明館)にかけての石垣が写った作製年不明のハガキです。現状の私学校跡石垣は1955年(昭和30年)に国道10号が拡幅された際に西側に13m移設されたとの事。何年か前に地元の前迫亮一さんに教えてもらうまで、昔のままだと思っていたので、意外だった。この写真は移設前の状態か?東面石垣は移設できただろうが、それに接続する南面の石垣は東部が13m撤去されたんじゃなかろうか?北面石垣の東部も。ハガキには鳥打帽に和服の男と旧制高等学校生徒らしき人が写っているが、戦前の写真だろうか?。この写真と同じ方向・同じ位置で撮影して確認してみたいと思うこの頃。

 鶴丸城跡に建つ瓦葺建物は第七高等学校造士館だろう。第七高等学校校舎群は1945年6月の空襲で全焼している。11月に出水郡高尾野町の出水海軍第二航空隊の旧施設に一時移転し、1947年9月に旧校地に復帰した。戦前の複数年の校舎内配置図をいくつか国会図書館デジタルで見たことがある。

 

 

 

 

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昔のはがき

慰労金証書

 これは西南戦争に従軍応募し無事生還した人に慰労金を与えるとの証書である。縦21.4㎝・横27.9㎝の和紙に木版印刷されたもので、個人情報と月日は毛筆で追記している。

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本文は次の通り。

      元二等巡査心得

           福 島 縣

             關根多利五郎

  曩ニ西南騒擾ノ際ニ方リ能ク報國ノ義務ヲ辯シ速ニ應募出京引續従軍候段

  奇特ノ事ニ候依テ為慰勞金貳拾圓下賜候事

   但慰勞金ノ儀ハ歸郷ノ上縣廳ヨリ可下渡事

  明治十年十一月十二日

     警視局

 警視局の字が巨大で、暗に権威の大きさを匂わせているかのようである。

 佐倉桜香氏によると、西南戦争時の政府による募兵は一般の陸軍部隊と警察部隊に分かれていた。後者は2月下旬から開始した巡査第一号召募では、東北4県の士族を対象に3,800人が集められ警視徴募隊を編成している。さらに4月上旬開始の第二号召募では関東・東北諸県の士族を対象にした結果、10,833人の応募者があり彼らを新撰旅団に編成した。新撰旅団には福島県出身者が720人いた(佐倉桜香2020「新訂征西戦記稿別冊「西南戦役における募兵―壮兵召募と巡査召募―」)。

 本資料の関根氏が警視徴募隊あるいは新撰旅団のどちらに属したかは分からない。

野村忍介自叙傳写本について

西南戦争之記録」第2号に全文を活字化していることを広告しときます。同書を読まない人は知らないようだから。2003年です。※何かここを「つぶやき」のように使っている気がする。そういえば以前、表作成に便利なエクセルでポスター画像を作ったことがあったっけ。

篠原国幹の短冊

 篠原国幹の短冊を紹介する。

 篠原は西南戦争薩軍では桐野利秋と共に西郷に次ぐ立場であったが、開戦初期3月4日に熊本県玉名郡玉東町吉次峠の傍で戦死した。「薩南血涙史」からその状況を引用する。

  薩の亞將篠原國幹、村田新八相謀りて曰く「須らく左右兩翼を張り掩擊し

  て敵を殄(つく)すべし」と、共に倶に新鋭を部勒し一隊をして半高山の

  絶巓より進み、一隊をして三の岳の半腹より進み、以て大に兩翼を張らし

  む。時に篠原身に陰面緋色の外套を被り手に烏金装飾の大刀を提げ始終

  線に挺立して自ら率先風勵す英姿颯爽遠近目を屬す、薩の部將石橋淸八(

  五番大隊八番小隊長)諫めて曰く「今日に在りて公の命其の重きこと山嶽

  も啻(ただ)ならず徒らに卒伍と身命を同ふすべからず速に安全の地に移

  るべし」と、篠原微笑して曰く「余は素と戰鬪に來れり子儻(も)し之を

  危まば宜しく自ら去るべし」と、石橋敢て復た言はず。

  官將少佐江田某嘗て篠原を識れり良射手をして之を狙擊せしむ(傳説に據

  れば後の陸軍少將村田經芳なりと云)篠原遂に之が爲めに斃る、時に天色

  黯澹細雨霏々斯の名將の死を哭して萬斛の涙を濺(そそ)ぐものに似たり

※( )難しい字には読み仮名を入れた。 

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 彼の書は珍しいと思う。歌は次の通りである。

  曲水や今日者名にをふ身の冥加

 (曲水や 今日は 名に負う 身の冥加)

 冥加とは幸運に恵まれることという意味もある。曲水の宴の流れのように曲折のある人生だが今は幸運に恵まれている、明日はどうなるかわからないが、と解釈したい。

 裏側には「篠原國幹筆」とある。

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野村忍介の短冊

 いくつかの短冊や掛け軸、剥がしたものを紹介していこうと思う、何回かに分けて。読めない字があったので、またしても大津祐司さんのお世話になったことをまとめて付記しておきたい。

   今回は野村忍介の短冊である。 西南戦争後、懲役10年の刑を受けた野村は東京の市ヶ谷監獄に投獄され、明治14年釈放されている。

 司法の獄に在り介る頃

 さ九ら炭起さ須とても冬な可良花の古﹅路盤長閑なり遣り 忍

 (司法の獄に在りける頃   桜炭 起こさずとても 冬ながら 花の心は のどかなりけり)

 桜炭とは千葉県佐倉地方の橡で作る良質の炭で、桜は当て字。在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」は有名だから、野村もこの歌が心のどこかにあっただろう。これは獄中で詠んだ歌を、出所後に書いたのである。

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 右の短冊は忍介とあるが、野村ではなく月照のことである。末尾の舞は「む」と読む。彼には忍向という号もある。