西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

臼杵の西南戦争と姫岳・陣山 ※つづく

 臼杵史談会で話す機会を頂いたので最近、話の原稿をパワポで作成している。自分にとってこの数年で西南戦争についてよかった点は「西南戦地取調書 豊後」を入手できたことである。これは明治10年西南戦争のあと、明治 16年に参謀本部員が関係各県を回り、県を窓口として今でいう市町村に戦地の記録を作成させ、その後県が取りまとめて提出した原本である。おそらくポツダム宣言受諾直後に焼却される間際に外部に持ち出されたものと考えられ、今は自分が所有している。

 パワポにはこの原本を部分的に使用したり、最近積み重ねてきた戦跡分布調査の成果(ほとんどはブログで公開してきた)を取り入れ作成している。井村山の1基以外は自分で発見した台場跡である。大迫山の1基は第二次大戦頃の砲台跡だと思われていたが。

 まあ、誰も問題にしないことだが、臼杵西南戦争に対する従来の説明で間違っていた点を見つけたと思っている。それは姫岳と陣山に関する従来の記述である。この事について「西南戦地取調書」などを用いて検討してみたい。

 

十日右翼兵ハ大迂回ヲ爲シ臼杵ノ賊ヲ夾擊セン爲メ姫嶽ニ露營シ天明ヲ待ツ

午前五時左翼及ヒ中央ハ正面ヲ攻擊シ海軍ハ警固屋村ノ港ヨリ之ヲ砲射ス

戰ヒ酣ナル比ニ右翼果シテ賊背ニ突出シ高處ヨリ瞰射ス

賊前後ノ猛擊ヲ受ケ拒守スル能ハス退路モ亦斷ヘ宭急甚タ極リ火ヲ平淸水臼杵ノ市街ニ放チ其烟焔ヲ以テ退路ヲ蔽ヒ海岸ノ間道ヨリ津久見峠ニ向テ遁ル時ニ午前七時ナリ(「征西戰記稿」巻四十二臼杵戰記)

 臼杵が6月1日に薩軍に占領され、奪い返すために北・西方向から進んだ官軍と戦闘が始まったのは6月8日だった。官軍左翼と中央は9日までには薩軍を市街地と周辺に追い詰める状態になった時、突然薩軍の背後、南から攻めたのが熊本鎮台林少佐が率いる右翼軍である。右翼軍はその前に臼杵最高峰の姫岳に野営したと「戦記稿」が記すので、今まで誰も疑問を差しはさんだ人はいない。「戦記稿」では具体的に陣山という名前はないが、一般的には10日朝、市街地の南西にある陣山というところを奇襲したとされ、そのため背後を衝かれた薩軍臼杵を守ることが不可能になり、南側の津久見に退却せざるを得なくなった。

 誰も問題にしないがここで取り上げたいのは、果たして姫岳に官軍は露営したのか、果たして奇襲したのは陣山なのか、という点である。

姫岳に露営したのか

 「西南戦地取調書 豊後」の野田村が提出した報告によると、7月10日官軍右翼の迂回部隊は午前四時頃ヨリ官軍二百名余リ野田村一木ヨリ仝郡望月村ヲ通リ仝村字立石ヘ上リ此處ヨリ野田村字谷山ノ峰通リニテ仝郡福良村ノ内字山菴ヘ着此時午前七時頃ナリ該所ヨリ直ニ野田村ノ内字甲嵜ナル薩軍ノ臺場へ向テ進撃した。ここには「戦記稿」にある姫岳に露営したとの記述がないばかりか、10日午前4時に野田村一木という不明場所を出発し、午前7時頃山菴に進み、そこから甲嵜にある薩軍の台場に向けて直ちに進撃したとする。おそらく地元民が地理案内をして官軍を導いた筈であり、野田村の報告を信用しておきたい。出発から攻撃まで3時間しかなく、これでは野営などできなかっただろう。まして、姫岳には露営しなかっただろう。

 谷山ノ峰通リから南下し、姫岳と山菴を結ぶ尾根筋に直角にぶつかる地点から、右折して姫岳まではほぼ2㎞もあり、そこから折り返して山菴に進むその距離は無駄だろう。

 山菴とは市街地の南側に聳える標高536mの鎮南山頂上の西側にある寺の事で、下図の寺院記号の場所にある。山庵、山南、さんなんとも呼ばれる。

 甲嵜ナル薩軍ノ臺場へ向ケ進撃ス薩軍台場は下図の甲﨑山に薩軍が築いた9基のことである。

 甲﨑山に9基あった台場のうち残っているのは南端の一基だけであるが(下図)、これによって絵図に描かれた甲﨑山の台場群の位置が確実になった(図が多くなるが、話が分かり易いと思う)。甲﨑山1号台場跡は土塁部分が南向きに突出し、内側に明確なくぼ地はない。三枚前の絵図の上部、一番右に描かれている台場が同じ特徴をもつ。現在地図と比べてみても、発見した南向き台場跡が絵図のものと断定可能である。

 「西南戦地取調書 豊後」野田村報告文を下に活字化して示すが、山菴へ着此時午前七時頃ナリ該所ヨリ直ニ野田村ノ内字甲嵜ナル薩軍ノ臺場へ向テ進撃スにある薩軍台場こそ発見した1号台場跡と消滅した台場群の事である。下図に示すように迂回した官軍は山菴から北西に続く尾根を下り甲﨑山を攻撃したのである。×印を加えた東側の尾根を進んで行ったものもあったかも知れないが、主な進路は甲﨑山だったと思う。7日からの戦闘で甲﨑山や手前の台地上にに薩軍がいることは知っていた筈だし、迂回部隊を構想したのも甲﨑山の薩軍を奇襲しようと考えたためだろう。

          諏訪山の仏舎利塔から見た姫岳・甲﨑山

北側から川ナシ峠に行く途中、後ろを振り返って撮影。先日は家野からツルガ山⇒荒田峠を歩いた。

 上図は1938年の久多羅木儀一郎によるものである。彼は戦前に臼杵西南戦争に関する報告をいくつか執筆した人であり、この分野の代表的な存在だった。図の対峙状況や進路は現地を調べたのではなく、言い伝えや書物を参考に推定したものらしい。

 下部には右翼迂回部隊(林少佐が率いた)の進路を示しているが、左端の中尾付近から一直線に東進したようになっているのは正しくない。実際は中央付近の野村からもっと南に尾根を進み、姫岳と鎮南山を結ぶ尾根にぶつかり、そこで左折して今度は北上したとすべきだ。野村の東に長方形の空白枠があるのが甲﨑山であり、そこを南から奇襲したとすべきだった。

臼杵隊員6月1日から10日の目撃談

 官軍迂回部隊の目撃談、あるいは伝承から検討する。

 陶山直良氏の記録

久多羅木儀一郎の「西南役と臼杵および臼杵關係のこと」1997年『臼杵史談』第88号(1938年「臼杵史談」第26号の復刻)に陶山直良の日記という項がある。彼は1924年に83歳で亡くなった人で、それは西南戦争後47年にあたる。臼杵隊二番隊員だった。日記の内から部分的に抜き出して紹介しているのだが、全体で3頁しかないし面白いので全体を引用しておきたい。

 西南役薩軍来襲記                     陶山直良

明治十年五月

薩軍臼杵ニ乱入ノ聞アルヲ以テ、臼杵ノ為メ士族協議ヲ以テ小隊編成、二番隊ニ列シ昼夜市中巡ラ、二十七日津久見峠出張、野陣。

同年六月一日

薩軍野津地方ヨリ我臼杵ヘ侵入ノ聞ヘアルヲ以テ、二番隊先鋒トシテ、今日日ノ出ヨリ南津留へ出張、家野、馬代、荒田辺ニ潜伏、伍列三上信淸、野村勝辰、首藤忠蔵、宮崎文次郎ト共ニ、家野台馬神ニ潜伏、此ノ時薩軍ハ掻懐台上ニ屯ス。時ニ敵ノ斥候ト思シキ者一人、風呂敷ヲ背ニ負ヒ杖ヲ突キ、籠ノ瀬橋ヲ渡リ来ル。野村氏云フ、捕ヘテ実否ヲ糺サント。一人進ンデ川ヲ渡リ、路傍ノ芦蔭ニ伏シテ待ツ。彼ノ者之ヲ見テ、道ヲ反シテ遁グ。果シテソノ斥候ナルヲ知リ、三上、首藤、宮崎ト共ニ、筒ヲ揃エテ狙撃スレドモ当ラズ。此ヲ見テ掻懐ノ薩軍、我ガ伍列ヲ散々ニ砲擊ス。衆寡敵セザルヲ知リ、溝ニ伏シテ免カル。時ニ午前十時、即チ臼杵役ノ開戦ナリ。

※風呂敷を背負い、杖を突いた斥候らしい人物が籠ノ瀬橋を渡ってくるのを目撃し、五人の内、野村が橋の手前の芦の陰に伏せて待つように動くと、杖の者は引き返して逃げ出した。それを見た残りの四人は家野の台地上から一斉に発砲したが当たらなかった。すると掻懐の台地にいた薩軍も五人に向かって散々に銃撃し始めたので、二番隊の野村以外の四人は溝に伏せて逃げることができた。

 籠ノ瀬橋は当時どこにあったのか。今は付近に二つの橋が架かっているが当時は別の場所に架かっていたかも知れない。臼杵西南戦争開戦の碑があってもいいと思ったが、別の記録では掻懐に現れた薩軍はその前に陣坂という所で臼杵隊に遭遇し、これが開戦となったのだが陶山は知らなかった。

 確認に行ったところ、知らなかった西側の橋が「南中学校橋」、東のが「家野橋」だった。「南中学校橋」は中学校ができたときに新造されたのだろう。川の北側にほとんど学校以外は平地が無いので民家も少ない。したがって橋も昔はなかったと思う。東側の「家野橋」の北側には家野集落があるので、現在の場所でなくても付近に昔も架けられていたと思う。名前が変わったという事だろうか。

 掻懐の台地から対岸の写真を撮ろうと縁辺部に行ってみたが草木の為に遮られ駄目だった。しかし、キリシタン墓というのがあったので見てきた。

 キリシタン墓は屋根の下にあるが、その左外に江戸時代の墓地がある。全体である家の墓地だろうか。向こうには神社がある。

此ノ砲声ヲ聞キ、荒田山ノ薩軍、抜刀シテ鐘皷ヲ鳴ラシ、鯨波ヲ作リ山ヲ下ル。野村氏ノ生氏(死)詳カナラザルモ、稍々炮声ノ粗ナルヲ見テ、走セテ禹王塔ニ遁レ、退イテ望月天神社ニ屯ス。薩軍進ンデ禹王塔ニ来リ、道ヲ隔テテ炮戦ス。我ガ兵傷ク者多シ。薩軍烈シク逼ルヲ以テ、我ガ兵マタ野村ニ走ル。薩軍勝ニ乗ジ散々ニ追撃ス。野村ニ到リ後藤利由、負傷シテ遁ルルニ遇ヒ、構ヲ設ケテ待ツ。此ノ時薩軍ハ、甲崎天神社ニ陣スルトコロノ我ガ兵ヲ追ヒ、漸次ニ進ムヲ以テ、頻リニ炮戦スル内、薩軍ノ先鋒ハ南風ヶ鼻、南第七居宅ノ前ニ進ムヲ以テ、走セテ福良台小畑庄治ノ前ニ出デ、徐歩シテ児玉慎哉ノ門前ニ至ル。時ニ後ヨリ発砲スル者アリ。驚キ見ルニ薩軍数名、筒ヲ揃エテ狙撃ス。伍列首藤忠蔵薩軍ノ丸ニ中ツテ■ル。吾輩途ヲ失シ散々ニ走ル。此ノ時宮崎、三上ノ両子、何地へ遁レシヲ詳カニセズ。独リ走リテ愛宕堂ノ下ヨリ薬師堂ノ下ヲ過ギ、井樋ノ口専想寺庵ニ至ルニ、一人ノ味方ヲ見ズ。薩軍丸雨ノ如シ。本田町ヲ走セテ見星寺ノ前ニ出デ、町家ヲ楯ニ大橋寺ノ薩軍ヲ撃ツ。時ニ伊吹永堅来リ引イテ籠城ヲ促ガス。諾シテ切通シヨリ下二王座通リ、善法寺門前ニ至ル比ホヒ、薩軍、法音寺裏門前ニ逼リ、隊長ト覚シキ者、ヲ颯ト聞キテ指揮シ、吾ヲ散々ニ狙撃ス。急走シテ後、城ニ入ラムトテ後藤利由ノ門前ニ至ル二、旧城ニ在ル味方ヨリ打チ出ストコロノ砲丸繁クシテ、城ニ入ルコトヲ得ズ。止ムナク河村兼居宅ニ駆ケ込ミ、化粧ノ間ニ潜ム。時ニ大雷沛雨盆ヲ傾クルガ如シ。時已ニ五時、砲声未ダ収マラズ。海軍ノ大砲雷ノ落ツルニ等シ。

 銃声を聞いて背後の山から抜刀した薩軍が鉦や太鼓を鳴らし、鬨の声を揚げて下って来た。鐘皷ヲ鳴ラシて進撃したとの記録は他では読んだ記憶がない。戦国時代さながらというべきである。斥候をとらえようとして一人離れていた野村氏の生死は不明だが銃声が疎らになったので家野台地の東端にある禹王塔まで逃れ、さらに臼杵川の対岸望月天神社に退却した。薩軍は禹王塔まで来ており臼杵川(道)を隔てて交戦し、臼杵側の負傷が多くなった。他の隊もここまで退却し集まっていたらしい。薩軍が迫ってくるのでさらに北東の野村まで退却した。

 禹王塔は文久年間に雨乞いの為に造られたもので台地の北東端部にあり、川のある南東側から参道石段が登っており、末端に鳥居が立つ。さらに燈籠が二基あり、禹王塔があるが、手前右に銘文を刻んだ薄い石材が建っている。銃弾痕を探したが明確なものはなかった。塔の部分は低い石垣で囲まれた方形の高まりで、緑色の布で覆われた状態だった。塔自体は存在しないようだった。燈籠の笠には傷があるが、銃弾痕ではなくおそらく地震などで倒壊した際のものらしい。

 この地形は台地が続く西側以外は周囲を見渡せる高台状態となっている。薩軍はここから望月天満社付近の臼杵隊・警視隊に銃撃している。

 望月天満社は禹王塔の南東方向にある神社の事か、逃げる最中だから北東にある神社の方が相応しいのだが。その後さらに東に移動して見星寺(けんしょうじ)・大橋寺・法音寺・善法寺など今もある寺院が登場する。城に逃げ込もうとしたが、城内から激しい射撃を受け、入ることができないため、知人の家に向かう。

 甲崎天神社は現在の神崎天神社だろう。追撃する薩軍が具体的にどこを通過していったのか不明だが、集落背後の山の低い部分を越えて行ったと仮定して図示する。

 南風ヶ鼻は場所不明、南第七は人名だろう。この辺りから市街地に近づいたらしい。愛宕堂・薬師堂・井樋ノ口専想寺庵も不明。本田町は田町に本が付いたと理解すれば田町周辺となる。

暫クアリテ砲声静マルヲ以テ、黄昏ヲ待チ身ヲ脱セムト、在ルトコロノ端書郵書ヲ以テ、脱避ノ時限トスルニ、今夜十二時ノ占ヲ得たり。是ニ於テ銃器を廃シ、鉢巻抜刀、軽身ノ粧ヲナシ、持ツトコロノ丸飯ヲ喫シ、支度十分ニ調へ、脱身ノ時刻ヲ待ツ内、薩軍分捕リノ為メ捜索ニ来ルコト三度、幸ヒニ薩軍ノ眼ニ触レズ。今夜蚊ノ夥シキ、譬フルニ物ナシ。然レドモ数日閉目セス、身体疲労スルヲ以テ、故ニ不図一睡セリ。覚メテ十二時ノ報ヲ得テ、草鞋ヲ脱シテ泥砂ヲ踏ミ抜刀ヲ提ゲテ帰ル。(当時我ガ家ハ原山ニ在リ)途ニ大野良悟居宅ノ傍ラニ薩軍アリ。怪ンデ石橋ノ下ニ潜ミ窺ヘドモ動カズ、進ンデ之ヲ視ルニ、塀墻大雨ノ為メニ破損セリ。一笑シテ家ニ帰リ、初メテ英気ヲ養フ志アリ。食堂ニ就テ、飯櫃及ヒ鶏卵三ヲ得テ、土蔵ニ籠リ土戸ヲシメ、揩ヲ上リ梯ヲ引キ、畳ヲ以テ楯トナシ、皿鉢及茶碗ヲ以テ矢石ニ換ヘ、薩軍来ラバ之ヲ投ジ、梯ヲ以テ一戦シ、矢種尽キナバ北窓ヲ下リ、藪ヲクグリテ石橋ノ下ニ潜マント、先ニ得ルトコロ

ノ食ヲ喫シ、抜刀ヲ枕シテ臥ス。幸ヒニ一ノ蚊ナク熟睡朝ニ至ル。窓ノ隙ヨリ窺フニ、寂寥タルコト譬フルニ物ナク、適々鶏犬ノ声ヲ聞クノミ。実ニ寸虫ノ足声ヲ覚ユ。時ニ藪下ニ声アリ。怪ンデ伺フニ、隣家竹林新助夫婦ナリ。就テ薩軍ノ模様ヲ聞ク二、薩軍皆町家ニ出デ、食ニ就ケリト。又帰リテ潜ム。暫ラクアリテ新助ノ妻、煎茶一碗ヲ恤レム。初メテ蘇生ノ思アリ。午前十時頃、薩軍追々来リ什器ヲ持チ去リ、隣家高田常彦方薩軍声恟々、到底免身ノ難キヲ知リ、筆ヲ執リテ遺書ヲ認ム。惟フニ死後数日ヲ経ルトキㇵ、氏名ヲ詳カニセズ、且ツソノ志操ヲ逞フセント、合印ノ白布ヲ脱シ「臼杵勤皇士陶山直良」ノ文字ヲ大書シ、幅広ニ背負ヒ、薩軍ノ来ルヲ待ツ。良久シクシテ日昏レ、午後八時ニ垂ントス。時ニ戸ヲ叩クモノアリ。抜刀ヲ後ニシテ伺フニ、新助ノ妻、平野寿昌、三上信清ノ両子ヲ誘ヒ来ル二遇ヒ、仔細ヲ尋ヌル二、稲川成門居宅ニ潜ミ、危難ヲ免カレ辛フジテ此ニ来ルト、大ニ力ヲ得タリ。是ニ於テ今夜暗ニ乗ジ、山ヲ越ヘ青江村ニ達シ、舟シテ県庁ニ赴カント約シ、間道ヲ経テ太平壱軒家ニ至ルニ、此ノ家即チ薩軍ノ巣窟トナレリ。裏ヨリ入リ戸主由吉ニ会シ、荷籠裏ニ匿クシ、馬背ニテ津久見峠ヲ攀ンコトヲ謀ルニ、由吉曰ク、薩軍四方ニ見張リシテ寸地ヲ得ズ。若シ嫌疑ヲ受クルトキㇵ危ラン。寧ロ厩室ノ二階ニ潜メ、我ガ言ノ如セバ薩軍ノ隙ヲ窺ヒ、丸飯ヲ投ジ、誓ツテ一命ヲ救ハント。即チ主人ノ意ニ従ヒ、厩室ニ潜ム。此ノ時三上氏ハ福良村ニ縁故アルヲ以テ、彼ノ地ニ避ク。薩軍次第ニ集マリ、四方敵ナラザルナク、寸時モ安逸ノ期ナシ。厩室ノ辛苦比スルニ物ナク、刈麦ノ上ニ坐シ、蚊食ヲ恣ニスルモ制スル能ハズ、寝息ヲ高クシテ薩軍ニ漏レンコトヲ惧レ、互ニ誡メ互ニ慎ミ、唯ダ速カニ官軍ノ襲ハンコトヲ祈ルノミ。

 陶山直良の家は上に掲げた地図の部分らしい。6月2日、仲間たちが密かに訪ねて来たので今後の事を話し合った結果、自宅を出て南側の山を越えて津久見の青江村に脱出し、次いで舟で県庁に行こうという事になった。間道を通り太平壱軒家というところに着いたが、その家は薩軍の巣窟になっており、裏口から入った。その家の主に馬で津久見峠を越えて脱出したいと言うと、彼が言うには危険だからうちの厩に隠れなさい、握り飯を与えるのでと。同行した平野寿昌と共にそれに従うことにし、10日までそこにいた。

同月十日

黎明西北ノ方二炮声起リ、擔下ヨリ窺フニ、官軍ニ方二起リ、一ハ水ヶ城、一ハ諏訪山、其ノ進撃尖クシテ、両山ノ薩軍一時ニ潰エテ、走ツテ東北畷ニ屯ス。是ノ時水ヶ城ノ官軍ハ、薩軍ノ遁ルヲ追ヒ、山ヲ下リ戸室原ニテ接戦ス。数時ニシテ薩軍亦遁レ走ル。此ノ体ヲ見テ、殿ヶ波江内ニ控ヘタル軍艦、大砲ノ筒先ヲ揃ヘ、東北畷ノ薩軍ヲ討ツ。薩軍散々ニ遁レ、引イテ天満寺ニ屯ス。陸軍進ンデ戸室台ヨリ大砲ヲ放ツコト数声、猶ホ進ンデ市浜高田屋ニ陣シ、橋ヲ隔テヽ攻撃スルコト終日終夜、時に官軍隊ヲ分チ、夜ニ乗ジテ川上ヲ渡シ、十一日払暁、陣山ノ絶頂ニ廻リ、薩軍ノ背後ニ出デ、散々ニ進撃ス。是ニ於テ薩軍三ヶ所ニ火ヲ放チ戍ヲ捨テヽ走ル、官軍勝ニ乗ジテ追撃ス。薩軍悉ク潰エ、谷ヲ越ヘ山ヲ下リ、終ニ佐伯ニ引上グ。同日十二時頃、薩軍稍々遠ザカルヲ待チ、厩室ヲ下リ窓ヲ開キ、平臥シテ莨ヲ喫シ、主人由吉ニ乞ヒ酒ヲ賈ハシメ、互ニ無事ヲ祝シテ数杯ヲ傾ケシニ、十日間ノ鬱一時ニ散ジ、初メテ人心ヲ覚ユ。午后二時山ヲ下リテ帰宅ス。

 この日記では10日に水ヶ城と諏訪山の薩軍が潰走したというが、水ヶ城を官軍が占領したのは8日であり、諏訪山から薩軍が退却したのは9日である。これから考えると、この日記は後日推敲して記述したとみられる。年月が経過していたので日時の誤りが生じたのだろう。東北畷は記述の前後関係からして台地である戸室原の下位にある平地らしい。

 殿ヶ波江の場所は不明だが、はえとは海の浅瀬或いは岩礁の意味である。市浜高田屋のうち、市浜は臼杵川の左岸水田地帯である。橋ヲ隔テヽの橋は臼杵川の中州に架かる松島橋か上流の万里橋だろう。

 十一日払暁、陣山ノ絶頂ニ廻リ、薩軍ノ背後ニ出デ、散々ニ進撃スは10日が正しい。また、具体的には甲﨑山の背後から進撃した、の間違いではないかと思う。当日陶山がいた具体的な場所は不明だが、直接目撃できる位置関係ではないのではないか。まして彼は厩に閉じ籠っていたから目撃できないだろう。

 それはとにかくとして、敗走中の様子やその後の臼杵隊士の潜伏状況が分かる珍しい記録である。

 高橋篤一氏の記録

 次に同じ「臼杵史談」第88号に一番隊員だった父親から聞いた伝承が載っているので掲げる。当時生後六ヶ月だった高橋篤一は父から聞いた西南戦争の話を記録した。父は当時五十才で臼杵隊として従軍し、戦後子供に思い出話を伝えた。ただし、陣山については記述がない。

 5月31日、薩軍が三重から臼杵に向かう様子があるので、臼杵隊は西に向かって三重街道を進んで行った。小銃を装備しているのは一番・二番小隊だけであり、他は時代遅れの刀槍を持っていた。家野・深田まで行き、敵を待ったが姿が見えないので市街地西部の光蓮寺まで引き返し宿泊したという。この寺は大橋寺の西隣にある。これだけを読むと、臼杵隊が台場を築いたとは思えないし、他県の場合と比べると疑問を感じる行動である。他県ならこれ幸いと陣地の補強に努めたと思う。

 6月1日は二番隊が先鋒となって南津留まで進んだ。武山の陣坂で薩軍と銃火を交えたのが臼杵の開戦となった。一番隊員だった父親は門前から家野に出て、街道を進んで来るであろう薩軍を北側の家野台地にから、二番隊は南から挟み撃ちにするつもりだったが、早くも二番隊は後退してしまった。先に引用した一番隊の陶山直良等が籠ノ瀬橋を渡ってくる薩軍の斥候を確認しようとして銃撃戦になったのはこの直後だろう。驚いていると、一番隊の背後には東方の水ヶ城から続く山脈があるが、山上から薩軍が襲来したため、一番隊は荒田・門前を越え、市浜の呑碧どんぺきで反撃した。すると薩軍は水ヶ城山の尾根続きで西方1.5㎞にある標高345mの羽衣山から戸室台へと進んできた。そこで隊は解散し自由行動となり、父親は熊崎川を泳いで諏訪にたどり着くことができ、実家のある芝尾に帰り着いた。そこで以降の戦闘を観察した。

 6月8日、芝尾台のおそらく南側の谷にある田の畔塗り(田植え前に水が漏出するのを防ぐため、水田の内側の畔に泥土を塗る作業。ちょうど田植えの季節だった)に出かけると、南側の山、下山古墳がある所で薩軍の守備隊員が話しているのが聞こえた。官軍の熊本鎮台奥保鞏やすかた少佐は一里松・井村・江無田と進み、芝尾部落に入り、南側の諏訪山攻撃を始めた。

 仏舎利塔が建っているのが諏訪山の南部頂上である。ほぼ同じ高度で尾根が北部に延びているが、この端部に薩軍の台場が築かれたと推定するが、残念ながら50年前頃に墓地造成で原地形は破壊された。

 6月9日、芝尾部落の官軍と諏訪山の薩軍は芝尾台を間にして銃火を交えた。午後になると芝尾の官軍は芝尾台に進み、やがて諏訪山から薩軍が退去し熊崎川を渡るようになったので芝尾台の官軍は諏訪山を占領した。当時諏訪山では生い茂った一面の松の大木に銃弾が撃ち込まれた跡があり、地面には薬莢が落ちていた。

 6月10日については詳しく記述していない。 

 同書によれば臼杵藩の戦歴といえば、維新の頃、「臼杵藩士で戦場に出た経験のある者は鳥羽伏見の戦の際藩主に従つて大阪にあつた僅かの人々のみで、この人々とても亦銃丸の飛び交う中に戦つたのではなく、戦の終わつた翌日新戦場を視察すると淀川堤の竹やぶの中には徳川方の死傷者が多く横たわり、密生した竹や木の皮まで弾できずがつき、物凄かつたと話していました」という状態だったので、戦いに慣れていなかったのである。

 

 

 

つづく

1877年8月の第十聯隊第三大隊第二中隊 ※8月14日から。

(8月)十四日午前第二時過キ篝火ヲ消滅シテ松明ニ変シ土人ヲ🔲シテ此地ヲ発シ山谷ヲ蝸🔲ノ如ク行進シ曲折シタル谷川ニ出タリ此両岸ハ峩々タル巌石聳ヘ樹木ハ日光ヲ覆ヒ粛然トシテ人ノ入ルヘキ地ニ在ラサレハ各人ハ茫然トシテ一言ヲ発スル者ナシ亦此川中ニ數株大小ノ岩石稠密シテ凸凹ナラサル処ナク是ヲ右ニ渉リ或ハ左リニ越ヘ大木ノ倒レタル上部ヲ通過スレハ亦渓ニ入リ丘ニ登レハ深淵ヲ渡ル其數敢テ枚挙スルニ遑アラスト虽モ概子(※おおむね)北越千曲川ニ彷彿タリト亦草ハ伸長シテ全身ヲ覆フカ如ク亦何者ノ此叢ラニ伏臥セシヤ各処ニ三尺余円形ニ草ノ倒レタルヲ見亦足趾ノ各処ニ有ルヲ視メタルカ遁賊ノ此間道ヲ経過スル際倦労シテ如斯ナセシナランカト想像セリ亦此川西岸ニ朽木數十並列シ其長サ六七尺アリテ口経七八寸ノ物多クアレハ案内者ニ之ヲ尋スルニ椎茸ヲ取ルヘキ木ナリト斯クテ亦數丁ヲ進ミ此谷川ヲ冒シタレハ日光始メ人目ヲ射リ炎熱全身ヲ苦メ各々艱苦ノ状ヲ顕シタルカ停止休憩スヘキ地ニ非サルカ故ニ亦數丁ヲ進ム此処ヨリ遥カ前方ニ人家一二ヲ発見シタレハ彼地ニ休憩セント欲シ尖兵ヲ彼ノ家ニ遣ル此兵既ニ該家ニ達セントスル際數賊狼狽遁逃其后方ノ山上ニ攀ツ此賊抜刀スル者多ク銃ヲ携ク者ハ僅カニ三名ニシテ己レカ荷物ハ悉ク途上ニ捨テ顧ミサルカ如ク予カ隊ハ之ヲ追撃セントシテ駆歩該山ニ登リ或ハ髙聲ヲ発シテ降伏ヲ促カスト虽モ彼レ彌々遠ク遁走シテ遂ニ其踪跡ヲ見失ヒ漸ク三四名ノ賊ヲ捕ヘ兵器ヲ奪ヒタリ予ハ此家ニ入リ其景状ヲ見ルニ男女三四名居住シテ予輩カ此家ニ入ルトキ敢テ驚キタル体モナケレハ予ハ其主人ニ問テ曰ク此処ハ何村ナルヤ彼レ答テ曰ク此処ハ確乎タル村名ハナシト虽モ俗ニ山門ト称シ延岡ヨリ派出スル人民ニシテ此椎茸(ナバ)山ヲ統治シ年々之ヲ彼地ニ送致スルヲ任務トス亦今暁薩人吾家ニ来リ湯茶ヲ所望シ亦極テ疲労シタレハ暫時休憩ヲ依頼セシカ今官軍ノ到着ヲ見テ斯ノ如ク荷物ヲ捨テ遁去リリ亦彼レ予ニ尋子テ曰ク此処ニ進入ノ官軍ハ何レノ処ヲ通過セシヤト予答ルニ其経過スル途上ヲ以テセリ彼レ驚愕シテ曰ク此地方ハ道トスヘキ物ニ非ラス春時土人等草木ヲ苅ント欲スルノキ數人協議シテ此山ニ入リ傍ラ猶獣ノ害ヲ防ク斯ノ如クスル僅カ年内両三度ニシテ自余ハ樵リモ恐レ入ルヿナシ斯クノ如キ山谷ヲ行進スルハ官軍ノ外曽テ有ルへカラス賊モ此行進ノ難キヲ知リ此家ニ潜伏セシニ官軍意外ノ処ヨリ進入ニ依リ今ノ狼狽ヲ為シタリト予ハ此処ヲ発シ山間ヲ行進セシカ此途上ハ一條ノ道アリテ両側ハ山髙シト虽モ樹木繁生セス大イニ各人モ疲労ヲ忘レタレハ行進モ意外ニ疾ク亦谷一ケ処ヲ渉リテ丘陵上ニ出タリ此地北東ノ眺望殊ニ能ク斜メ左リ前方ニ延岡ノ市街遥カニ見ヘ亦西北ヨリ一条ノ川東南ニ流レ三輪村ハ此地西北ニ位シテ予輩カ眼下ニ見ヘ各村落モ許多アリシカ其村名ヲ知ラス亦極テ各人愉快ノ意ヲ顕シタルハ延岡東方一面ノ蒼海距离ノ遠キニ随テ髙ク浪上ヲ見一二ノ軍艦ハ標旗ヲ風ニ翻シテ黒烟ヲ空中ニ散乱セシム景况ハ水股以降曽テ見サル処ナレハナリ斯クテ此丘ヲ下リ三輪ニ進入シタルカ各軍街ニ充満シテ漸次延岡ニ進入スレハ予カ隊モ直チニ出発セント欲シ本道ノ傍ラニ在ル神社社内杉ノ村立タル処ニ暫時休憩セシメ更ニ此地ヲ発シテ大瀬川ニ沿フテ前進セリ此大瀬川ノ水ハ極テ清良ニシテ其深淵ナル処ト雖モ其水底ヲ見ルヿヲ得亦川中処々ニ柵杭ヲ振リ水ヲ留メ各地ニ分水シ其水一層激流トナリ山腹等ニ沿フテ各地ニ行ク如クナリシカ其処ハ何レニ落チ何レニ合流スルヤ予ハ之ヲ知ラズ亦此途上ノ右ハ峩々タル山連絡シテ海濱ニ接シ此山下ヲ數丁前進シタルカ此地ハ既ニ延岡ノ南部ニシテ人家稠密シ旧士族邸モ許多アリ亦農商ノ家ニハ紙ヲ製造スル物多キヤ張リ板ヲ許多並列シ其近傍ニハ帋ノ裁チ切髪敷散乱セリ亦士族邸ハ杉垣ヲ以テ周囲ヲ囲メ或ハ笹(笹?)竹藪ヲ以テ其境界トスル者多ク家屋ハ悉ク廉悪ナリ亦大瀬川ニハ木橋ヲ架シ之ヲ通過スレハ市街縦横に在リテ人家ハ此両側ニ羅列シ其家最モ廉悪ニシテ覧ルニ不潔ナルカ是ハ此地ノミニ限ラス戦地ハ総テ此形状ナレハ此地ノミヲ誹謗スルニ非ラス亦此近傍數丁以内ハ平坦ノ地ニシテ纔カノ凹凸ハ在ルト雖モ敢テ丘陵ノ名ヲ授クル処ナシ然リト虽モ此平地中ヨリ円錐形ノ山突出其周囲二三丁ニシテ其頂キヲ開拓シテ平地トナシ僅カ一二ノ美麗ナル家屋アリ此山ニ沿フテ 纔カノ丘陵アリ鹿是レ旧藩頃ノ城地ナリト聞キタリ斯クテ予カ隊ハ此橋南ノ人家二三ヲ借リ休憩シタルカ薄暮頃傳令騎兵来リ予カ隊ハ小峯村ニ進入シ同処前面山上ヲ守ル近衛隊ト交換セヨトノ書面ヲ出シタレハ予ハ之ヲ隊中ニ達シ午后第八時三十分此地ヲ発シ松明ニ火ヲ點シ大瀬川ノ橋ヲ渡リ延岡ノ市街ヲ北ヘ通過シ五ヶ瀬川ヲ渡リ左折數丁ヲ進ミ小峯村ニ進入セリ亦此途中某隊ノ副官中尉某ニ遭遇セリ該官予ニ告テ曰ク右翼山上守線ハ此処ヨリ左折スヘシト予ハ方面司令ト其守地ノ相違スルヲ告ケテ此処ヲ通過シ小峯村前面守線ヲ巡視スルニ極テ少巨离ナレハ之ニ一小隊ニ充テ自余麓ニ休憩セシム

 最初の方の文章を読む限り、前日哨兵線をおいた山並みの北にはまだ山がつづいたようである。烏帽子岳という山が北部にあるが、推定したように前日の高い山は茶屋ノ木でいいのでは。

 

 水野隊が通過した難路がどこか分からない。山門という地の手前にあたるのだが。彼らは延岡城址の南に架る橋を渡ったのだろう。上図の中島状の地形の東部に城山とあるのが延岡城跡である。その後進んだ小峯村の周辺にも台場跡が残っているかもしれない。

(8月)十五日黎明髙平山ノ守線ニ到リ地形ヲ偵察スルニ左右共ニ山脉重リ行縢山ハ殊ニ峩然トシ各処ノ山々ニハ白煙ノ風ニ靡キアルハ是将ニ官軍ノ守線ナリト想像セリ亦前面ハ數尋ノ渓谷ニシテ此渓中ニ僅カノ田地見ヘ右ニ曲折シテ何レニ通スルヤ計ル能ハス亦田末ニ一二ノ茅屋アリト雖モ絶ヘテ人ノ緋徊(二字とも糸偏の誤字)スルヲ見ス右山上ハ官軍守線連絡シテ延岡ニ至ルト聞シカ其線ハ一目瞭然ナラス予ハ暫ク此山上ニ安坐シテ草煙ヲ吸ヒ其眺望ヲ愛シ茫然トシテ居タル際后方ヨリ近衛兵三中隊余此山ニ登リ来レハ予ハ該隊士官ニ就テ何レニ進ムヘキト尋問セシニ彼官答テ曰ク熊田攻撃ノ部署定マリ其先鋒トシテ檜ノ谷ヨリ可愛嶽方位ニ進入スト予ハ之ヲ聞キ亦予カ隊ノ先鋒ニ加ヱラレサルト頗ル憤怒ニ堪ヘスト虽モ未タ何等ノ命ナケレハ暫ク之ヲ待チタルカ漸次進発ノ時機ノ後ルヽニ堪ヘス山ヲ下リ方面司令ノ宿陣ニ到リ予カ隊ハ數日后軍ニ列スレハ各兵ハ休戦ニ倦ミ曽テ勇威ヲ成シ予輩於テモ之ヲ患ル久シ素ヨリ予カ隊ノ柔弱ニシテ先鋒ノ任ニ適セストモ同シ徴兵中ナレハ格外優劣モ有ルヘカラス是等ハ予カ責ニシテ各兵ノ知ル処ニ非ラスト其概畧ヲ陳述セント欲シタルカ軍令侵スヘカラス今亦之ヲ述ルモ無益ノ辨ヲ費ス而已ト思ヒ更ニ本日ノ攻撃部署及ヒ予カ隊ノ進退ヲ尋子タレハ予カ隊ハ后軍タレハ正午守線ヲ発シ檜ノ谷方位ニ進入スヘシト亦方面司令モ倶ニ前進スレハ守地ニ於テ之ヲ待ツヘシト予ハ直チニ守地ニ歸リ其凖備ヲ為サシム正午過キ司令到着シタレハ各隊ト共ニ此地ヲ発シ前面谷ヲ下リ曩ニ遠望セシ田野ニ沿フテ桑平(カヒラ)村ヲ経過ス此村内ニハ賊ノ患者許多拘留シタルヲ見タルカ先鋒隊ノ近衛兵カ守衛スルニ非ラス鎮台兵之ヲ守リタレハ何團兵ナルヤ之ヲ知ラス亦此地ヲ左折シ大野村ニ到着シタルカ此東南ニ祝子川曲折東南ノ角ニ流レ此水殊ニ清良ト虽モ賊地ヨリ来ル物ナレハ飲料ニ供セス薄暮過キ桑平山ニ進入ノ命アレハ第十時前此地ヲ発シ祝子ニ着ス予ハ司令ト共ニ進行スヘキヲ約シタレハ該官ノ宿営ニ行キ深夜此宿ヲ発シ祝子ニ到リ予カ隊ヲ引卒シテ桑平山ニ到着此ノキ既ニ日ハ東山ヲ离レントシ全ク整列ス

 「征西戦記稿」では水野隊についての記述は他の隊と共に部署表が一つあるだけで、「第二旅團ハ午後大哨ヲ排布樞スル左ノ如シ」の次に数行の一覧表があり、排哨地松山村に伊藤大尉と島野中尉の二個中隊、小峯村に水野大尉と師岡大尉の二個中隊と工兵二個分隊が示されている。したがってこの日誌により当日の詳細を知ることができる。

 15日、第二旅団の大部分は祝子川を北に渡り熊田を目指し可愛岳周辺の山間部に進入している。先鋒四個中隊、援隊五個中隊、水野隊を含む守線兵三個中隊、延岡警備兵四個中隊である。この日第二旅団は桑平村から背後の小幡山に登る途中、午後一時頃山頂の手前で薩軍と遭遇し戦闘になった。時間から推測して彼らは和田越で敗れた後に六首山を経由して小幡山を降りようとしていたらしい。和田越で勝った官軍の背後を衝こうとしたと考えられる。第二旅団は小幡山を取り、引き続き可愛岳手前の六首山の薩軍を破って占領している。日誌では水野隊は16日朝日が昇ろうとする頃に桑平山に到着し哨兵を配布したことになる。「戦記稿」では第二旅団の大部分が東方の小幡山・六首山に布陣していたのだが。

spring-8見学

 6月25日兵庫県の山の中にあるX線で研究する大規模な施設を見学した。案内の人が分かり易く簡単に説明してくれた。彼の声がイヤホーンから聞こえる仕組みが気に入った。概略説明の後、バスで見学に出かけたが広い敷地内に緑の植物が広がり、野生のシカが何頭も草を食んでいた。緑の草に混じる鹿の茶色がきれいだった。誰も邪魔をしないらしく、鹿は安心して現れるらしい。

 ここでは世界一細いx線(最小の物質、原子よりも細いのでそれを透視できるということだった)を放射する放射口が60か所前後あり、それぞれを利用したいと手を挙げた研究者の内、合格した者が利用できるという。外国からも来ると。

 こういうのがあるのも知らなかったが、どんどん金を掛けたらいいと思う。二番じゃだめだと思う。最高の精度があるから、最先端の研究が可能になる。二番じゃ、できないだろう。

1877年8月の第十聯隊第三大隊第二中隊 ※8月13日まで。

 アジア歴史資料センター(アジ歴)史料を眺めていて、これまで存在に気付かなかった史料を見つけたので紹介したい。 8月上旬宮崎県内の美々津川の戦いから中旬の可愛岳の戦いまでを中心に、かつて「西南戦争之記録」や「西南戦争の考古学的研究」で述べたことと重複する部分もあるが内容を読んで新たな情報がないか検討したい。

C09084159300「明治十年 戰鬪景况  戰鬪日誌 第二旅團」1691~防衛省防衛研究所蔵 ※隊長は水野慎大尉

「大阪鎮台歩兵第十聯隊第三大隊第二中隊西南征討日誌」

    記述は2月13日から始まるが、今回は8月3日からの部分を紹介する。読み易くするため日付の頭に(8月)を入れることにする。

 

(8月)三日中尉某ニ兵若干ヲ附シ前面ノ賊情ヲ偵察セシム歸リ報テ曰ク賊前面丘陵ニ塁ヲ設ケ嚴重ニ守備スレハ之ニ近接スル能ハサレハ川ノ深浅ヲ測リ其渡渉スヘキ地ヲ探リ得タリト亦午前第十時頃下士一名ニ兵四名ヲ附シ斥候ニ遣リ歸リ報シテ曰ク前面賊塁ニ近接シ其景状ヲ見ルニ斥候ノ如キ者屡ヽ徘徊セルアリ其服装賊ニ非ラスシテ官兵ナリト思想セシカ川ヲ渉ルヲ得サレハ其近接スル能ハス故ニ確実タルヿヲ申告スル能ハスト

 当時、薩軍は冨髙新町(日向市)の南側を東西に流れる美々津川(耳川)の北岸で当時高鍋付近(美々津川の南20㎞強)にいて北上し追撃してくる官軍諸団を食い止めようとしていた。それに対し官軍各旅団はそれぞれの担当地域を決め、東西に並んだ状態で北上することにしていた。水野の属する第二旅団の右には第三旅団が進み、翌日美々津川河口右岸にある美々津町に進むと伝えてきた。左は別働第二旅団である。

(8月)四日午前第一時頃冨髙新丁ノ攻撃部署書到来シタレハ予ハ之ヲ閲スルニ予カ隊ハ此后軍ニシテ本日午前第四時髙鍋川原ニ整列スヘシトアレハ第三時四十分此地ヲ発シ整列塲ニ到着ス此前面ニ仮橋ヲ架シタリト聞キ亦各隊及ヒ司令モ悉クハ整列セサレハ予ハ此橋際ニ到リ其景状ヲ見ルニ川中凡ソ三四米突ハ岩石許多ヲ積ミ其外部ハ大石ヲ積テ円錐形ト為シ或ハ堡籃ノ大ナル物ヲ二三個集メテ蔦ヲ以テ其周囲ニハ編ミ又ハ両側ニ杭ヲ打テ或ハ木ヲ横ニ綴リ各上部ハ強厚ノ板ノ両端ニ些少ノ穴ヲ穿チ之ニ鬘或ハ縄ヲ通シテ該石堡籃及ヒ杭ニ結ヒ付ケテ以テ動揺ヲ防キタリ既ニシテ各隊行進ヲ起スヤ悉ク此橋ヲ渡ルト雖モ乗馬及ヒ駄馬或ハ多量ナル荷ヲ🔲ク人夫ハ川中ヲ渡渉セシカ水ノ最モ深キ処ハ馬ノ腹ヲ浸スニ至レリ亦予輩ハ此処ヲ通過シ僅カノ丘ニ登リタルカ此処ハ既ニ髙城ノ駅口ニシテ両側共ニ廉悪ノ人家並列シ此家屋ニハ別働第二旅團兵充満シ亦極テ茅屋二三軒ニ賊ノ患者戸板及ヒ竹ヲ以テ製シタル患者ノ如キ物ニ伏臥セシ侭官兵ニ守護セラレタル者ヲ見タリシカ行軍中ノヿナレハ其人品及ヒ員數ヲ聞カス亦此処ヲ通過シ四五丁ヲ直行シ左折スレハ僅カノ田野アリテ之ニ沿フテ東南ニ激流スル小川アリシカ其水殊ニ清良ニシテ藍色ヲ滯ヒ更ニ濁リナケレハ各人ハ面ヲ洗ヒ或ハ口濯ク者許多アリタルカ此川遂ニ髙鍋川ニ合流スト聞タリ亦此川ヲ越ヘ斜左ニ進ミ一層髙キ丘ニ登リタレハ一條ノ大道アリテ其両側ハ松ノ大樹並列シ其外方ハ廣原ニシテ各処ニ村落散点シ亦処々ニ開拓セシ地ヲ見タリ亦此地ヲ僅カ直進スレハ大通十字盡ヲナシ両側ノ老松ハ其村ヲ路上ニ垂レテ交叉スルカ如シ亦是ヨリ左手ハ漸次山野混同シテ其何ㇾニ通スルヤ則ル能ハス亦右ハ丘中ノ廣原ニシテ遂ニ海岸ニ至ルト亦此通ヲ北スル數十丁ニシテ右折シタルカ是ヨリ途上屡云々曲折シ其道幅モ狭隘ナレハ各人モ頗ル困苦ノ状ヲ顕シ亦此通數十丁ヲ進ンテ僅カノ人家アル処ニ到リシカ此処ロハ右翼本道ニ沿フ村落ニシテ該通ヨリハ官兵夥多行進シ来リ之ニ混同シテ巨砲數門ヲ引キ来レハ其雑沓容易ナラス亦各兵ハ何團ノ部中ナルヤ明瞭ナラスト雖モ新募兵其多キニ居レリ亦本道ハ美々津街道ナリト聞キタレハ予カ隊モ該兵等ノ中間ヲ行進シ各貫川ヲ渡リ丘陵平地ヲ昇降シテ都濃ニ進入セリ此地ハ尋常ノ人家両側ニ軒ヲ並へ右方ハ既ニ海濱ニ接シ左リハ山原多ク亦此路上ハ五米突余ノ幅アリテ悉ク砂礫ナリ亦予カ隊ハ此后何レノ地ニ進入スルヤ其命ヲ受 サレハ各兵ヲ此人家ニ入レ休憩シタリト雖モ各軍此町ニ充満シテ実錐立ノ地モナケレハ其混雑ハ予輩其雑沓部中ニ在ツテ耳ヲ驚シタリ此際暴雨強降シテ一層混雑ヲ生シタルカ各軍漸次此地ヲ発シ美々津ノ方位進ミタレハ聊カ静謐ニナリタルカ予カ隊モ征矢原ニ進入ノ命ヲ受ケタレハ此地ヲ発シ本道ヲ北スル五六丁ニシテ左則老松ニ第二旅團兵進路ト白紙ニ七字ヲ記載シ糊シタレハ是ヨリ左折シ斜ニ右ヘ進行セリ此途上ハ山亦山ニシテ屡々曲折シ大樹ハ更ニ無クシテ藁ラ殊ニ深ク強雨ノ為メ路上ノ埴土錯乱シテ行進ヲ妨ケタリシカ漸ク二三ノ谷ヲ昇降シテ山ノ中腹ニ出是ヨリ此山ノ腰ニ沿フテ二三丁ヲ進ミ狭隘ナル阪上ニ到レリ此地ハ樹木殊ニ繁茂シ其枝頭上ヲ覆ヒ同下途上ヲ修繕セシニヤ黒土泥ト変シ其深キ処ハ踵ヲ埋ムルノミナラス膝節モ将ニ埋マントシ一歩ヲ進ム毎ニ一尺余ヲ前方ニ辷リ其困難不一形各兵竹或ハ木枝ヲ切リ之ヲ杖トナシ予モ□竿ニ助ケラレテ此阪ヲ下リ一条ノ谷川ノ淵ニ到レリ此近傍ハ総テ峩々タル山岳ニシテ各方面ヲ展望スル能ハス亦此谷川ハ嚴石上ヲ傳ヒテ向岸ニ達シ其前面ニ山ノ中腹ヲ回リテ三四丁ヲ進ミタルカ玆ニ征矢原ノ人家丘陵或ハ山下ニ散点シテ其中央ヲ突貫シテ谷川南ニ流レ近傍ハ竹木殊ニ繁茂シテ其枝中ハ途上及ヒ谷川ヲ覆ヒタリ爰ニ予カ隊ヲ休憩セシメ予ハ近傍ノ地形ヲ巡視セシニ右諸山ヲ見ルノミニシテ敢テ記載スルヿナシ亦賊ハ美々津川ヲ界トシテ防禦スト聞ク

 

 

 高鍋の川に架けられた橋は工兵隊が築造したものだろう。橋脚部分は通常は主に堡藍という籃を使って作るのだろうが、川中凡ソ三四米突ハ岩石許多ヲ積ミ其外部ハ大石ヲ積テ円錐形ト為シ或ハ堡籃ノ大ナル物ヲ二三個集メテ蔦ヲ以テ其周囲ニハ編ミ又ハ両側ニ杭ヲ打テ或ハ木ヲ横ニ綴リ各上部ハ強厚ノ板ノ両端ニ些少ノ穴ヲ穿チ之ニ鬘或ハ縄ヲ通シテ該石堡籃及ヒ杭ニ結ヒ付ケテ以テ動揺ヲ防キタリとあるように、沢山の岩石も併用している。工兵隊の架橋に関する観察記録である。

 4日、第二旅団の配置状態は「戦記稿」によると先鋒は田之原に三個中隊と砲兵・工兵、援隊は水野隊を含む四個中隊と砲兵・工兵、大援隊は六個中隊と砲兵である。旅団本営は征矢原(そやばる)、出張本営を田ノ原に置いていた。征矢原は下の地図にあるように北西から南東に川が流れており、集落の間を川が流れる景観は当時に近い。出張本営のある田ノ原は北方約2㎞に位置する。

(8月)五日午前第四時宇津木近傍へ斥候ヲ遣ルヘキ命アレハ少尉某ニ一半隊ヲ附シ出発セシム第九時残余ノ兵ヲ率ヒ田ノ原ニ進入ノ命アレハ直チニ発途該地ニ到レリ此地モ亦山中ニシテ前面ニ谷川アリ人家ハ山腹ヨリ川岸ニ至ル粗平坦阪形ノ地ニ散点シ此后方則チ賊ニ對スル地ハ峩々タル山左右ニ連絡シ其首尾何ㇾノ地ニ止マルヤ之ヲ詳ニ知る能ハス亦予カ隊ヲ以テ此山岳中ノ一部ヲ守備スヘキ命アレハ直チニ該山ニ到リ塁ヲ三処ニ築キ各兵ヲ配布ス此際曩ニ遣リタル斥候歸リ報シテ曰ク賊ハ美々津川ニ沿フテ塁ヲ設ケ山陰福瀬及ヒ横瀬川ノ名前ヲ守レリト亦此山上塁沿ニ廠舎ヲ設立セシト藁及ヒ竹木ヲ山上ニ運搬シ予モ彼処ニ在リテ其指揮ヲ為シタルカ此際黒雲天ヲ覆ヒ強雨盆ヲ傾ルカ如ク暴風地上ヲ侵シテ廠舎ヲ倒シ各人ノ軍装ハ悉ク雨ニ浸レ外套モ其功ヲ失ヒ自然ト水中ニ□立スルニ異ラス加之日ハ西山ニ傾キ将ニ暮ントスレハ舎前ニ篝火ヲ燃サン藁草ニ火ヲ點スレトモ風雨ノ為メ忽チ消滅シ亦如何共スル能ハス実ニ各人ノ艱難ハ憫然ノ極ナリト雖モ予ハ幸ヒニシテ方面司令ノ許ニ歸リ軍装ハ焚火ヲ以テ之ヲ乾シタレハ敢テ窮セス休憩シタリ

 5日、征矢原から田の原に移動し、背後の山に3個の塁を築いた。暴風雨のため仮設廠舎は倒れ、焚火を燃やすこともできず、全員びしょぬれだった。

(8月)六日黎明雨全ク止ムト雖モ大小ノ川溝ハ水膨漲シテ途上ヲ経過シ此近傍ハ湖水ノ状ヲ為シ諸運搬上ニ障碍ヲナシ亦各廠舎ハ泥水進入シテ地上ヲ浸シタレハ各兵ハ藁菰或ハ青々タル萩ヲ土上厚ク敷テ水気ノ蒸発ヲ防キタリ午后第二時明日山陰攻撃ノ部署書来レハ予ハ之ヲ閲スルニ予カ隊ハ之ノ先鋒隊ニシテ長嵜ヨリ進軍トアリ亦其里程多キカ故ニ速時出発スヘシトノ指揮アレハ直チニ其凖備ヲ為シ第六時此地ヲ発シ途ヲ左リノ山腹ニ取リ狭隘山谷ノ途ヲ曲折シテ數十丁ヲ前進セリ此途上ハ草木共ニ繁茂シテ左右共一層展望ル能ハス日ハ既ニ暮レ雨ハ再ヒ強降シテ咫尺ヲ辨セス故ニ豫メ備ユ置タル松▢數本ヲ択▢シテ數丁前進シテ谷川ノ岸ニ出タルカ此近傍ハ人家絶テ無ク橋梁ノ設ケモ素ヨリ無シ激水ノ岩ヲ突テ之ノ吐走ル聲へ山岳ニ響キテ実ニ蕭然タリシカ各兵迭ヒ相分ケテ此川ヲ渉リ向岸ニ聊カ休憩セリ

 前日風に倒された廠舎は出来上がっていたようである。午後2時、山陰(やまげ)行きを命ぜられ、午後6時におそらく田ノ原を出発したがこの日のうちに辿り着くことはできなかった。鵜戸木から北に続く谷を通ったのだろう。両側は山が迫り、真っ暗な夜にまともな地図もなく、初めての地にいて、初めての地に行くのだから大変である。6日の内に長﨑に到着できず歩き続けた。

 
 

(8月)七日午前第零時此谷川ニ沿フテ右ニ前進シ亦左折シテ丘ノ傍ラニ出タレハ遥カ前方ニ點火二三ヲ見視スルハ案内者ニ就テ其地方ヲ尋問セシニ則チ長﨑(石並川河口から直線で6.3㎞)ナリト答へタレハ各人モ其近接スルヲ祝ヒ尚進行シテ長﨑ニ到着セリ玆ニ於テ予ハ民舎二三ヲ借ント各家ノ入リ口ニ到リ見ルニ同台中ノ兵等舎営シテ他ニ明キタル家ナケレハ止ムヲ得ス予カ隊兵ハ各家ノ軒下ニ停立シ或ハ疲労シタル者ハ土上ニ僅カノ藁ヲ敷キ伏臥睡眠スル者許多ナレハ予ハ其健康ニ害アルヲ察シ東西ニ奔走シ或リ下士ニ命シテ之ヲ制止シタルカ遂ニ予カ思慮程ニ注意ノ行届カサルヤ実ニ遺憾ニ堪ヘス此際日ハ既ニ東山ヲ离レント欲シ聊カ温氣ヲ発スト雖モ雨ハ尚止マス各兵ハ泥垢ニ染シテ顔ニ□膚ノ本道ナク半胸ノ状ヲ為シテ直立シタルハ実ニ艱難中ニ一笑ヲ加ヱタリ亦発軍時機ヲ過リ其目的ヲ失ハンヿヲ恐レ山陰ニ発セント欲スレトモ方面司令亦来ラス進路確定セサレハ尚休憩シテハ西海道ノ地圖ニ依テ其地形及ヒ其方位ヲ探ラント欲レトモ遂ニ其詳細ヲ知ル能ハス亦土人ニ就テ聊カ方向及ヒ嶮悪ノ地ヲ聞クト雖モ許多ノ山谷各処ニ在リテ更ニ其確実ヲ知ル能ハス▢ニ第六時過キ司令到着セシト聞キタレハ速時其舎営ニ到リシニ司令予等ニ語テ曰ク本日ノ攻撃ヲ横瀬后方山上ニ守線ヲ進ムニ决セリト

※長﨑では先に到着している他の隊が民家を占めており、水野隊は軒下に立って雨を避けるしかなかった。朝を迎えても雨は止まず、早く出発したいがそれもできず方面司令の到着を待っていた。

爰ニ於テ各兵ヲ纏メ此地ヲ発シ宇津木東郷町山陰乙に鵜戸木という地名有)ニ到着ス此村ハ人家殊ニ寡少ニシテ並列スル家屋ハ纔カニ三軒ニシテ自余ハ悉ク散点シ▢凡ソ山腰ニ拠ル亦田畑ハ極メテ少ク僅カノ丘アレハ其前面ニ石垣ヲ設ケ上部ヲ平ラニシテ田地ト為ス亦此村ヨリ前面ニ通スル一条ノ道ハ宮原横瀬ニ至リ左リハ間道アリテ柳瀬ノ后方ニ到ルト予カ隊ハ此間道ヲ進ム近衛兵之ニ次キ各隊案内者ヲ▢シ此山上ヲ數回昇降シテ峩々タル山岳ノ頂キニ攀チタリ此途上ハ殊ニ狭隘ニシテ一列行ヲ為スモ其行進ヲ速ニスル能ハス遂ニ三時行程時ヲ費シテ二里ヲ進ミタリ亦此山上ハ展望殊ニ能キ地ナリト思想スレトモ連日ノ強雨カ為メ雲未タ散セス雨ハ屡々降来リテ山谷ヲ浸シ前面横瀬后方山上ニ到ラント欲スレトモ道ハ此山ニ跡ヲ絶チテ案内者モ誘導ニ苦ミ亦暫時此山ニ停止シテ近傍ノ景状ヲ探ルヿニ决シタレハ予ハ各兵ヲ休メ己レ一人左翼ノ方位ニ到リシニ其前方ニ當テ頻リニ砲聲ノ聞ヘ亦此際西風起リテ白雲ヲ散シ之ヲ散スレハ亦谷中ヨリ雲ヲ起シ千変萬化其景形ヲ異ニシ衆人ノ目ヲ喜ハスルノ景色トナレリ予ハ双眼鏡ヲ執リ左翼方位ヲ見ルニ別働第二旅團兵攻撃ヲ始メタル景况ニシテ各人東奔西走シテ其勝敗ハ判然セスト雖モ既ニ小舟ノ東岸ニ棹スヲ見タレハ賊ハ遁走セシト想像セシカ其確実ヲ知ラス亦右翼山上及ヒ美々津川ノ水路ヲ遠望スルニ山ハ幾重トナク連リ川ノ向岸福瀬(現在、福瀬大橋がある)后方諸山ニハ賊塁數カ処アリテ福瀬鳥川等ノ家屋ハ木間ニ僅カ顕ハレ美々津川ハ白布ヲ風ニ翻シ動揺スルニ斉シク曲折セリ此等ノ山岳河川各村ハ白雲ノ為メ予カ双眼鏡中ニ或ハ顕レ或ハ隠レ実ニ□化ノ景色ヲ視ノ聊カ愉快ノ念ヲ発シタルカ本日ハ目的如何ヲ决セサレハ尚前方ノ山ヲ攀チ別働隊ノ戦ヲ遠望スル隊后方山上ヨリ大聲以テ予ヲ呼フ者アレハ予ハ該方ヲ顧ルニ其言語更ニ分明ナラスト雖モ頻リニ手ヲ揚ケテ招キ亦近衛兵及ヒ予カ隊ハ運動ヲ起シ右方山下ニ進ム景况ナレハ予ハ該隊進路ノ途中ニ出ント欲シ急ニ山ヲ下リ少シク道ヲ變シテ山谷ヲ疾走シテ漸ク各隊ニ追付其叓由ヲ聞クニ予カ隊及ヒ近衛隊ト二中隊ヲ宮原(鵜戸木の北3㎞にこの名の三角点がある。標高465m。目的地はこの山の東麓だろう)ニ進メ賊ノ氣動ニ應シテ福瀬ヲ攻撃スヘキ命ナリト則チ予カ隊ハ此先鋒ト為リ前進ス此行進ヤ道ナキ山谷ヲ行ク者ニシテ巌石木根各処ニ突出シ一歩ヲ進メハ一歩ハ左折シ或ハ右ニ旋リ或ハ左リニ障害セラレ亦茅萩伸長シテ各人ノ首部ニ達ス之ヲ他方ヨリ見ル時(半角のノキの合体字)ハ許多ノ帽ノミ叢林中ヲ行進スルカト疑レ茸ノ集中シタルヲ見ルニ彷彿タラント想像セリ斯クテ此山ヲ曲折數丁前進シテ一條ノ谷川ニ入タルカ如谷水殊ニ激流ナリト雖モ其深キ処ハ水ハ膝ヲ浸スニ至ラス故ニ此川中ヲ數丁進ミシカ谷中ニハ大小円錐形ノ厳石散点シ過テ之ヲ踏ム時(ノキ)ハ軽重ノ痛ヲ生シ各兵非常ノ苦ミヲ為シタレトモ各々忍耐シテ漸ク美々津川ノ本道ニ出タリ此川岸ヲ左折スレハ右ハ美々津川ノ激水南ニ流レ左リハ峩々タル厳石羅列シテ人ノ攀ル能ハス向岸ハ深山幽谷連絡シテ其頂キ各処ハ大樹繁茂シ青々タル芝生散点シ其近傍ニ賊塁二三カ処ヲ視メタルカ更ニ影ヲ見ス亦此道數丁ヲ前進セシニ聊カ平坦ノ地トナリテ宮原ニ接近シ左リノ山モ纔カニ登ルヲ得ル処トナリ村落ハ丘陵ノ上下ニ散点或ハ並列シタル家アリテ他村ニ比較スレハ聊カ美麗ナリト雖モ其數甚タ寡少ニシテ人民モ悉ク遁逃シテ其所在ノ知レサレハ不辨ヲ爰ニ極ム亦此向岸ハ判然賊塁ヲ見スト雖モ岸ニ沿フテ藪間竹柵ヲ植ヘ其内部ニ小舟三四艘ヲ繋キ其岸上ニ廉要ナル廠舎ヲ設ケ藁ヲ以テ其上部ヲ覆ヒ其景状恰モ舟守小屋ニ異ラス亦此舎中ニ農夫体ノ者一名安坐シアルヲ視メタレハ予ハ試ニ小銃二三発ヲ放タシメシニ該農忽チ起立シ其傍ラニ又一名ノ者顕レ小銃連発以テ之ニ應シタレハ双方ノ砲聲山谷ニ鳴動シ既ニ開戦ノ緒ニ垂ンタリ此際近衛隊モ后方川岸ニ来リ将ニ砲聲ヲ為サントスル際四五十名ノ賊向岸ニ顕レ厳敷射撃ヲ為シタレハ予ハ各兵ヲ散布シ天然地物ニ拠テ暫時砲戰ヲ為シ傍ラ築塁ニ着手シ人家ニ進入シテ畳或ハ強厚ナル板亦ハ木臼等ヲ舁キ出シ仮ニ一塁ヲ設クル際豈計ヤ向岸ニ突出セル小山(下図の〇)

 

 

頂上樹木繁茂ノ内ヨリ夥多射撃ヲ為シ其弾子余輩以下ノ頭上ニ降リ之ヲ避ント欲スレトモ地物ハ素ヨリ其之ヲ防クヘキ器械ナケレハ直立スル大樹二三ニ拠テ之ヲ防キ其進退ニ不辨ヲ極ムト雖モ尚厳敷発火ヲ為サシメ亦一分隊ヲ后方山上ニ登ラセ向岸山上ノ賊ヲ狙撃セシム此際近衛隊付大尉来リ語テ曰ク賊ハ山上ヨリ斯ノ如ク乱射シ官兵ハ此山下ニ在テ此弾子ヲ避クル地物ナク川ヲ渡渉セント欲スレトモ舟ナクシテ之ヲ施ス能ハス玆ニ官兵ノ負傷者ヲ増加スルノキ実ニ無益ナレハ一度ヒ此地ヲ去リ然テ后チ良策ヲ凝ラスモ敢テ後レタルニ非サレハ或ハ是ヨリ退却セント欲スト予モ之ト同意シ各兵ヲ纏ム此時近衛隊既ニ退キタレハ予カ隊ハ此ノ殿リシテ二三丁ヲ退キタル際参謀某及ヒ方 面司令モ此処ニ来リ其景状ヲ尋問シ命シテ曰ク此西側山上ニ兵ヲ攀チラセ嚴敷放射シ然ル后チ宇津木ニ歸ルヘ シト則チ予カ隊ハ左リ近衛兵ハ右ノ山々ヲ攀射撃ヲ為シ本道ヨリ宇津木ニ歸ル此途中ニハ官兵既ニ守線ヲ設ケタレハ之ヲ通過セシカ其山ハ両翼數丁ニ連ナリ守線ニハ最上ノ地ト想像セリ此日午后第七時頃ヨリハ強雨盆ヲ傾ルカ如クナリシカ予ハ隊ハ此夜休憩ヲ命セサレ之ニ浹洽セラレサリシカハ前日以降ノ疲労ヲ慰スルヲ得タリ亦明日福瀬攻撃予カ隊ハ此先鋒タレハ之ヲ隊中ニ達シ其凖備ヲ為サシム

 水野大尉が提出した8月7日のこの中隊の戦闘報告表がある。当日の総員は114人で、死傷者は生じていない。戦闘景况の文は次の通り。

八月七日福瀬村賊攻撃先鋒ノ命ニ依リ午前一時田ノ原ノ守線ヲ引揚長﨑村ニ行テ諸隊ノ到ルヲ待ツ適マ命アリ本日ノ攻撃ヲ止メ守線ヲ横瀬村ニ進メシム午前六時三十分長﨑村ヲ發シ樵路ヲ取り横瀬背後ノ山上ニ至リ仮リニ守備ヲ為ス大久保大尉ノ隊亦續テ到ル暫之瀧下村ノ方位ニ當リ大小砲声頻リニ聞ユ山顛ヨリ之ヲ觀ルニ別働第二進撃遂ニ美々津川ヲ渡ル賊軍敗退ス時ニ今井中佐来リ到ル此景况ヲ視當隊及山縣大尉ノ隊即大久保大尉ノ合併隊ナリニ合シ宮ケ原村ニ行キ賊ノ景况ニ依リ河ヲ渡リ宮ケ原村ニ進マシム直ニ山ヲ下リ或ハ荊棘ヲ排開シ或ハ□谷ヲ跋渉シ遂ニ宮ケ原ニ到ル賊軍俄カニ發射ス道ヲ河ヲ渡ラントスルモ數日ノ連雨河水大ニ増シ渡渉スヘカラス塁ヲ築テ之ヲ守ラントスルモ山顛ノ賊塁該村ヲ瞰射ス実ニ難シ命ヲ俟ツ午后三時命ニ依リ宇都木村ニ行テ舎営ス

(8月)八日午前第四時此地ヲ発シ宮原ニ到ル賊ハ既ニ遁逃ノ景况ナレハ暫ク此地ニ休憩シ方面司令ノ来着ヲ待ツ亦分隊モ漸次進入シタレハ官兵村内ニ充満シテ一時雑沓ヲ極メタルカ参謀及ヒ司令モ到着シ暫時協議セシカ前面美々津川ヲ渡リ福瀬ヲ経テ平岩(耳川河口から4.2㎞北の海岸部)ニ進入スルヿニ决シ向岸ニ繋ケル小舟ハ工兵隊之ヲ取リ来リ渡舟スヘシト聞キタレハ予ハ其凖備ヲ為シ渡舟塲ノ落成ヲ待ツ第二時ナリ該塲落成セリト聞キ直チニ其処ニ到リシカ彼ノ舟未タ此地ニ来ラサレ此地ヲ発スル何時ナルヤ其目途立サレハ各隊ハ茫然トシテ此岸ニ停立スルノミ暫時アリテ司令予ニ示シテ曰ク大兵此処ヨリ渡ルノキㇵ數時ヲ費スノミナラス曽テ攻撃ノ機ヲ失スレハ予カ隊ニハ此上流數丁ノ処ニ渡舟塲アレハ彼ノ地ニ到リ渡舟以テ平岩ニ進入スヘシト予ハ先鋒隊ニ有リテ此地ノ先進ヲ為サ﹅ルハ甚タ不🔲ト雖モ之ヲ拒ムノ權ヲ有セラレハ止ムヲ得ス此処ヲ発シ川ニ沿フテ前進スル叓三丁余爰ニ於テ道ハ全ク絶ヘ森林中ヲ行クカ如ク右ハ美々津川ノ激流東南ニ流レ左リハ峩々タル巌石各処ニ聳ヘ數個ノ谷水ハ瀧ノ如ク此川ニ落チ樹木ノ枝ハ垂レテ該川上ヲ覆ヒ此処ヲ通過スル際ハ全ノ此垂レ枝ノ上部ヲ傳フ者ヲシテ梯子ヲ倒シテ其上ヲ歩スルヨリ危ク雨ハ車軸ヲ🔲ラスカ如ク降リ過テ先頭ノ兵ヲ見失ノキㇵ其方向ヲ失ヒ其危険最モ容易ナラス之カ為メ各兵ハ迭ニ大聲ヲ発シ相介ケ行進ス此途上ヲ経過スル際ハ士官ハ軍力ノ□□ニ支エラレ兵士ハ□鋭ニ障碍セラレ各々其進退ニ苦ミ雨ハ軍装ヲ浸シテ全身乾キタル処ナク此困難□□ノ景状ハ予カ筆ニ詳記スル能ハス斯クテ此行進□貮時行程ノ時間ヲ費シ横瀬ニ到着シタルカ各人不満ノ色ヲ顕ハス者ナク直チニ整列シタレハ速ニ此川ヲ渡リ福瀬ニ進入シ人家五六ケ処ヲ借リ火ヲ焚ヒテ僅カニ服装ヲ乾シタリ亦此近傍ハ地形宮原ニ彷彿タレハ之ヲ記セスト雖モ川ノ東西ニ有ル異ナリトス玆ニ土人来リ后方山上ニ數賊潜伏セリト報スレハ中尉某ニ一中隊ヲ附シ此土人ヲ教導トナシ該山ニ遣リ自余ハ不慮ニ備ヘ尚近傍ノ地ヲ探索セリ此際予ハ植木以来ノ戦状等ノ叓ヲ顧思シ計ラス一言ヲ吐発セリ曰ク甚哉此隊ノ不幸困難ナル哉戦地ノ疲労ト予カ隊ハ此日先鋒タレハ各隊ニ先進此日ノ進路ヲ行クハ論ヲ俟サルニ隔絶シタル此地ニ廻シ人ノ歩スヘカラサル巌石樹木上ヲ行進セシム亦時トシテハ散兵塁中ニ置キ一秒ノ休憩ヲ許サス是等ハ素ヨリ本日ニ始ムルニ非ラス開戦以来屡々ナリ然リト雖モ人情ノ然ラシムル所ト人員寡少ノ獨立隊ヲ以テ此動作ヲ為サレタルハ実ニ容易ナルカ故ナリト雖モ実ニ此□ニ當ル者ハ嘆息セサルヲ得ス然リト雖モ軍令ノ巌犯スヘカラサレハ注意セスンハ有ルヘカラス亦后来モ旧隊長ノ指揮スル処トナレハ斯ノ如キ苦情ヲ吐出スルニ至ラスト思ヒシカ今更之ヲ述ル者ニ非サレハ之ヲ悉ク捨テ置キタリ亦中尉某數賊ヲ捕シ来レハ予ハ之ニ賊情ヲ責問ス彼等答テ曰ク官軍ノ攻撃日々巌ナレハ遂ニ敗績其行ク所ヲ知ラス爰ニ及フ亦賊魁ハ延岡ニ退キタリト予ハ此賊ヲ獲リ平岩ニ進入セント欲ル際前面川岸ニ沿フテ官兵夥敷右ニ行進スレハ予ハ其向フ所ノ変ヒシヤト之ヲ尋問シタレハ果シテ此街道ヨリ冨髙新町ニ進入ノ差圖アレハ予ハ直チニ此地ヲ発シタリ此日前ニ述ル如ク強雨街路ヲ突キ水ハ膨漲シテ田野ヲ分タス為メニ嚮導ノ土人モ過テ深溝ニ落入叓屡々ナレハ自余ノ者モ亦之ニ亜ク此途上ハ概畧平坦ノ地ニ属シ山腹ヲ経過スルモ僅カノ阪ヲ昇降スルモノナリシカ強雨ノ為ニ障碍サレテ行進ヲ遅緩シ中村ニ到リテ各隊ノ先鋒トナリタリ此路上ニ於テ傳令騎兵来リテ曰ク捕獲人中ニ岩山宗春ナル者アレハ本営ニ送致セヨト予ハ既ニ之賊ヲ率ヒ居タレハ該本営ニ到リ渡スヘシト答へ途中予ハ此賊ニ問テ曰ク汝ノ生国ハ何レナルヤ答テ曰ク鹿児島縣下薩摩国ナリト又問フ住居処ハ何レナルヤ曰ク該縣下ノ則チ鹿児嶌旧城下ナリ亦吾ハ武人ニ非ラスト雖モ西郷ノ依頼ニ依リ止ムヲ得ス會計糧食ノ叓務ヲ助ケタリト問フ然ラハ官軍中ニモ亦知人夥多アルヘシト曰ク有リ〃〃何某何官某何長某ハ吾カ住処ノ近傍ナリト予ハ玆ニ於テ其姓名ノ疾ク貫徹セシ叓ヲ察知タレハ参謀官某ニ彼レヲ引渡スヘクト謀リタルカ冨髙ニ於テ受取ルヘシト答へタレハ遂ニ該地ニ護送セリ亦此近傍ハ雨殊ニ甚タシク更ニ各所ヲ展望スル能ハサレハ其地形如何ヲ細記スル能ハスト雖モ其通過スル処ハ山腹多ク僅カ平坦ノ地ハ塩見川東南ニ流レ此水膨漲シテ本道ノ通路ヲ絶チタレハ右翼丘陵ヲ降昇シテ再ヒ該川岸ニ出テ之ニ沿フテ財光寺村ニ着セリ此川向岸ハ冨髙新町ニシテ一条ノ木橋ヲ架シタルカ此橋北詰ヨリ円形ニ塁ヲ設ケ別働隊兵之ヲ守レり予ハ此橋ヲ経過シ新町ニ入リ各兵ヲ休メテ予ハ其近傍ヲ🔲遥スル廣原田野交混シテ其中央ヲ塩見川流レ亦新町ヨリ西北ニ有ル岩嵜村方位ヨリ一条ノ川流レ来リテ新町ノ西南至リ塩見川ニ合ス亦新町ハ是等ノ両川ヲ西南ニ置テ地ヲ占メ家屋ハ美麗ナル物其半ヲ過キ人民モ千ヲ以テ數フヘキ佳地ナルカ目下ハ遁走セシ者モ許多ナルヤ外面ヨリ見シヨリハ意外ニ不潔ナリ亦斜メ左リハ細嶌ノ小山二三ヲ見海岸ニ近接セシ処ナルカ故ニ蒼浪ノ岸□聲ヲ遥ニ聞タリ右ハ岩嵜塩見等ノ村田野中ニ散点北ハ丘陵多クシテ延岡ニ通スル一道アリ亦南ハ樹木繁茂シタル丘陵林等許多アリテ其近傍ニ財光寺以下ノ各村地ヲ占メ平岩ニ通スル街道此内ヲ突貫セリ予ハ亦宿営ニ歸リ此日捕獲セシ賊ノ潜伏セシ状ヲ聞ニ山上森林中或ハ山腹ニ楕円ノ洞穴ヲ穿チ其前面ハ煉瓦ヲ以テ之ヲ覆ヒ僅カノ入口ヲ設ケタル内ニ潜伏シ官兵之ニ近接強迫ノ状ヲ示セハ忽チ降伏人タルヲ🔲🔲セリト予モ此洞穴ヲ許多見タルカ素ヨリ新タニ築キ物ニ非ラス悉ク青々タル苔茂生シ其何タルハ明言スル能ハスト雖モ今之ヲ熟考スレハ元来此地ハ炭ヲ他邦ニ輸出スル許多ナレハ之必ス炭竈タルヘク想像シタルカ遂ニ之ヲ土人等ニ問ハス薄暮予カ隊ヲ二分シ一ツハ此地延岡街道ニ一ツハ塩見村ニ分遣シ各処共ニ各隊ト協議守備スヘシト玆ニ於テ中尉以下某分隊ヲ附シ本道及ヒ塩見村ニ遣セシカ此日予カ隊ハ連日ノ進軍ト強雨ニ浸サレ頗ル疲労ヲ極メ加之予カ隊ノ輜重洪水ニ支ラレテ未タ到着セサレハ草鞋足袋等乏シク之カ為メ中尉某以下ハ更ニ行進ノ難キヲ以テ迫リ予カ命ノミナラス重キ軍令ニ抗スル景况ナレトモ予ハ敢テ之ニ從ハス遂ニ守地ニ遣リ亦方面司令ト協議シテ足袋許多ヲ受取ルヿヲ約シタルカ此夜ハ遂ニ之ヲ渡サス此日ハ西山ニ没シ羣星将ニ顕レント欲シタルカ黒雲之ヲ覆ヒ雨ハ地上ヲ🔲キ街路ハ一条ノ川ト変シ暴風ハ斜メニ家屋ヲ浸シ棟アレトモ之ヲ凌クニ由ナク官兵ノ艱苦ハ実ニ人目ヲ驚カシタレハ予ハ守兵ノ苦情幾許ナルヤト思ヒ廠舎ノ用ニ供スヘキ諸品ヲ守線ニ送致スト雖モ尚之ヲ足レリトセス東奔西走之ヲ買収スル際中尉某来リ各兵ノ艱苦亦廠舎ヲ建設スヘキ諸品ノ不足トヲ述ヘタレハ予ハ其整備スルニ至ラスト雖モ軍人トシテ暴風雨ニ恐ルヽハ甚タ恥スル処ナレハ冝敷諭シテ守備ヲ巌ニ為サシムヘシ予モ亦之ヲ買収シ迅速其整備ヲ計ラント答タリ該官亦曰ク糧食甚タ廉悪ニシテ各人苦情ヲ述フ何隊ハ既ニ□者ヲ給シタリ某隊ハ芋ヲ給ス何隊ハ茄子汁ヲ給ス是ハ何彼レハ何ト甚タ不体裁ノ語ヲ述ヘタレトモ予モ此地ニ来ルヤ聊カ玆ニ注意シ支給セシ叓ニアレハ予ハ之ニ答テ曰ク食叓ノ事ニ至テハ官給品ヲ仰クノ外他ナシ其苦情ヲ述ル者ハ速ニ之ヲ罰セント后チ遂ニ此苦情ヲ唱ヘシ者来ラス該官又云フ各兵頗ル疲労セリ冝敷交換兵ノ来ルヲ計レト予ハ胸中ニ於テ熟考スルニ方面司令ニ就テ交換兵ノ来ルヲ促ストモ各隊ハ此□ニ支ヘラレテ此地ニ進入セサルハ予モ能ク知リ司令ニ於テモ良策ヲ施ス能ハス亦塩見村へ分遣セシ小隊ヲ此地ニ招カントスルモ途上湖水ニ斉シク此地ニ来ル能ハスト思想シタレハ答テ曰ク后チ方面司令ニ謀ルヘシ速ニ守地ニ歸ルヘシト諭シタレトモ不満ノ色満面ニ顕ハレ予カ不注意ナリト言ハサルヲ得サルノ景况ナレト遂ニ発言セサレハ予ハ度外ニ置キ敢テ應答セサレハ該官モ此所ヲ去リ守地ニ赴キタリ予ハ該官ノ後ロ姿ヲ見テ其云フ処極テ賤シク前后ノ思慮少シト思ヒ其言語ノ盛ンナルト部下ヲ愛顧スルノ厚キヲ嘆賞セリ此愚諭ハ疾ク措キ予ハ塩見村ニ赴カント川水膨漲シテ各地一円ニ湖水ノ形状ヲ為シ通路ヲ絶チタレハ止ムヲ得ス此地ニ止マリ延岡街道守兵ノ指揮ノミヲ為セリ

 8月8日の戦闘報告表を掲げる。

八月八日福瀬村賊攻撃先鋒ノ命ニ依リ午前第五時宇都木村ヲ發シ宮ケ原ニ至リ賊勢ヲ觀ルニ賊軍已ニ遁ル直ニ河ヲ渡ラントス然レノモ連雨更ニ甚シク河水増大シ滔々天ニ漲ル舟筏無クンハ渡ルヘカラス時ニ工兵已ニ到リ對岸ノ舟ヲ採リ以テ渡川ノ策ヲ為サントス故ニ先ツ兵ヲ集メテ之ヲ俟ツ適々命アリ吾隊ヲシテ横瀬ヨリ渡ラシム是ニ於テ直ニ轉シテ横瀬ニ至リ遂ニ河ヲ渡テ福瀬村ニ到ル土人来報シテ曰ク残賊アリ三拾人許リ山中ニ潜伏ス先ツ兵ヲ遣リ□賊六名ヲ擒ニシ午前十一時頃該村ヲ發シ冨髙新町ニ赴ク午后二時仝邨ニ達ス第八時命アリ當中隊ヲ分チ左小隊ハ塩見村ノ守線吾小隊ハ栗栖大尉ノ隊ト延岡街道ノ守線ヲ保ス此日ノ生捕左ノ如シ

一賊  五 名    人夫  七 名

 8月8日宇都木(鵜津木)から宮ケ原に行くと川にぶつかった。宮ケ原という三角点が標高438mの冠岳の南南西740mにあり、この記述から三角点の東側に到着したのだろう。美々津川対岸を見ると敵は逃げ去っているようだった。連日の大雨で川水は激しく流れており、簡単に渡れそうになかった。そこで工兵が対岸の舟で渡れるように計画しているのでその完成を待っていた(舟橋を架けた史料をどこかに収納していたのだがpcを交換したためか行方不明になってしまった)。

 しかし、中隊は横瀬に移動しそこから福瀬村に渡河せよとの命令があり、方向を転じて横瀬に移動し川を渡って福瀬に到着した。横瀬がどこにあるのか分からないが、とにかく渡河したのである。その後、午後2時冨髙新町し到着し、さらに左小隊は塩見村へ、右小隊は第三旅団栗栖大尉の隊と延岡街道の守備線についている。この前後、官軍の配置は第二旅団の左に別働第二旅団、右に第三旅団、さらに新撰旅団、海岸部に第四旅団が一直線になり、別に第一旅団が左翼端部を北上していたのである。

(8月)九日午后雨止ミ日光始テ人目ヲ射ルニ至レリト雖モ要用アリテ塩見ニ到ラス予カ隊ノ輜重悉ク着シ炊事伍長ノ賊ニ遭遇シ其処置冝敷ヲ得シ顛末ヲ聞クニ此伍長輜重ヲ督シ官兵ニ後ル〃數丁ニシテ美々津川ヲ渡リ平岩ニ向テ通行シ金ケ濱ノ山上數回曲折シタル途上ニ於テ賊ノ抜刀隊ニ突然逢ヒタレハ軍夫ニ命シテ聲援ヲ為サシメ己レハ兵卒一人ト共ニ銃剣ヲ以テ之ニ抗シ亦偽テ本隊前進ノ相圖ヲ発セリ亦軍夫中ニ愉快ノ者アリテ數十ノ礫ヲ投シ亦虚聲ヲ屡々張リタレハ賊遂ニ遁走シタレハ伍長等ハ暫ク其処ニ止マリ他隊ノ来着セシ者ト共ニ彼地ヲ発シ諸品ヲ失ハスシテ予カ営ニ到着セリ故ニ予ハ聊カ慰撫シ置タリ

 この日の戦闘が無かったため戦闘報告表はないが、他の日も同様だが日誌でこの日のことが分かる。

 第二旅団の日記では翌9日に美々津川を渡ったとするが、それは全部に適用できない。同日払暁に工兵隊と共に下流で架橋した後、上流の宮ノ原から福瀬に渡ったことを記している。C09085250300「イ第二十四号 日記 別働第二旅團」防衛省防衛研究所

八月九日雨

拂暁ヨリ工兵分遣隊ト共ニ架橋午前九時落成直ニ同所ヲ発シ美々津川上ノ宮ノ原ニ到ルニ第二旅團之兵漸ク該川ヲ渉ル午後大雨福瀬村ニ宿陣

一神宮簡来陣因テ自今軍夫等ヨリ身分不相当ノ賈品等持参候節ハ直ニ警視分署へ通報シ本人不取逃様豫メ質店并古着渡世ノ者へ觸置候様相成旨相談ス之レハ進軍ノ際軍夫等猥リニ人家へ立入リ衣類等盗取当所へ持来リ賣リ拂候趣相聞候ニ付斯ク取計候〇糧食課ニ於テ土人ヨリ借入レ候鍬紛失候ニ付代價ニテ相渡ヘキ旨申聞候処餘リ過当ノ代價申出候ユヘ是亦同人へ相談ス降伏医西橋秀哉所在不分明ニ付是亦同段

 神宮簡は熊本県人吉出身であり、別働第二旅団附属の陸軍裁判中主理で、このころは県官だったらしい。C09082193700「明治十年探偵戦鬪報告 一 軍團本営」防衛研究所蔵0965

(8月)十日午前第四時塩見村ノ分遣隊ヲ援軍トシ平岩ニ遣ルヘキ命アレハ即時傳令卒ヲ彼地ニ遣ル此日モ途上乾カサレハ該隊ノ此地ニ来ルㇵ既ニ第九時三十分ニ垂ントシ此地ヲ発スルハ第十時ナレハ駆歩平岩ニ進入セ シム該隊途上ニ於テ先鋒隊ノ歸ルニ逢ヒ其地ヨリ退行セリト蓋シ殘賊共ニ踪跡ナキカ故ナリ玆ニ於テ暫時休憩ヲ命シ塩見ニ歸シタルカ自余ノ各兵モ彼地ニ到ルヘキ命ヲ受タレハ之ヲ隊中ニ達シ予ハ隊ニ先ンシ塩見ニ行タリ斯クテ予ハ旅團本営ニ要用アリテ同処ニ到リシカ同処ハ田野村落中ノ一部ニ円錐形ノ丘アリテ其上部ヲ平坦トナシ社寺二ケ処アリシカ此寺ヲ以テ本営トシ二ケ処二石段ヲ設ク本門ノ石垣下ニ白赤ノ旗ヲ風ニ翻シ本営ノ標旗トナシ通用門ニハ木札ヲ揚ケテ其到ル処ヲ示セリ又此近傍ハ丘陵平地混同シ西北ハ峩々タル山多ク連リ東南ハ平坦ノ地多ク東ハ冨髙ニ通スル路アリ亦哨兵此村ノ周囲ニ出シ予カ隊ハ此ニ三処ヲ守レリ

 水野の第十聯隊第三大隊第二中隊は第二旅団に属していた。旅団本営が第二旅団本営とすれば、旅団の担当地域は西側に離れて存在したことになる。地形から推定すると塩見川右岸の平野の中にある熊野神社のことか。

第二旅団本営?

 8月10日に諸旅団守備線の方面分担が次のように決定した。海岸部から述べると、第四旅団は細島ヨリ延岡街道ノ右側ニ至リ其最右側ト爲ル・新撰旅団は第四旅團ニ連リ街道左側ヨリ逓次左延・第三旅団は新撰旅團ノ左ニ連リ黑木村ニ至ルヲ限リトス・第二旅団は黑木村ヨリ宇納間ヲ限ル・別働第二旅団は宇納間ヨリ七山ニ至リ其最左翼第一旅團ニ連繫スである。これ以前の状態を引き続いていることになる。

(8月)十一日終日休憩シ各人疲労ヲ忘ルヽニ至レリ

(8月)十二日前日ノ如ク休憩セシカ各兵ハ此休息ニ倦ミ戦闘線ニ進入ヲ兾望セリ薄暮方面司令ノ許ニ到リ延岡攻撃ノ部署ヲ閲スルニ予カ隊ハ后軍ナレハ予ハ不満ト雖モ軍令抗スルヘカラサレハ之ヲ隊中ニ達ス

    8月12日付の水野大尉宛命令文書が残っているので掲げる。

克第八百五十六号 其隊ノ羲ハ明暁第四時三十分当地出発黒木村へ可操込此旨相逹候事 八月十二日 本営 水野大尉宛 

(その隊の義は明暁第四時三十分統治出発、黒木村へ繰り込むべし。この旨あい達しそうろうこと。)

 これにより水野隊は赤木・上井野(ここでは宇和井野)を経て黒木に向かうことになった。

(8月)十三日午前第四時此地ヲ発シ山間谷數十ヲ経過シ赤木ニ到着セリ此処ハ先鋒隊既ニ進入シ僅カノ人家ニ入テ湯茶ヲ求ル在リ或ハ樹木ノ陰ニ集合シテ草煙ヲ吸フ等其雑沓甚タシト雖モ混乱スルノ景状ナシ予ハ此処ヲ経過シ▢下ヲ進ミ谷川ノ傍リニ出テタルカ此川水清良ニシテ飲料ニ適スレハ此処ニ午食ヲ喫ス此川中及ヒ岸ニ許多ノ巌石アリタレハ之ニ🔲ヲ草煙ヲ吸ヒ其烟リヲ🔲中ニ散乱セシメ各兵快愉ノ状ヲ形シタ者数人ヲ見タルカ長ク休憩シ出発ノ期ヲ過ラン叓ヲ恐レ発途ノ令ヲ下シ整列ヲ為サシメタル際傳騎来リ曰ク方向ヲ変シ宇和井野ニ進入シ廣嶌大阪両鎮台兵ノ内二中隊別ニ進入スレハ共ニ協議シ彼地ヲ保セト予ハ則此地ヲ発シ叢林中ノ如キ細路ヲ進ミ門川ノ岸ニ着ス(※五十鈴川の南岸に到着。北岸に宇和井野つまり上井野がある。耳で聞いた地名を漢字で表すので誤字表記が頻出する)此岸ニハ小舟ヲ許多繋キ官兵着スルヤ水夫之ヲ棹シ向岸ニ渡ス予輩之ヲ渡ツテ向岸ノ丘ニ登リタルカ此丘上ハ則チ宇和井野ニ人家各処ニ散点シタレハ其内ニ四五ケ処ノ家ヲ借リ各人ヲ休メ予ハ他隊ノ到着ヲ待タス守線ヲ定メント此地形ヲ偵察スルニ門川此村ノ東南ヲ旋リ賊地ノ方位ハ峩々タル山數十連絡シ此村西北ハ殊ニ山嶮シク此西部ヨリ北ニ曲折シテ延岡ニ通スル間道アリト雖モ土人モ容易ニ此道ヲ通過シタル者ハ稀ナリト聞タレトモ賊巣ニ通スルノ道ハ確乎ト守備セスンハ有ヘカラスト予ハ之嶮ナル山ヲ攀チ頂上ニ至リシカ此山前面ニ一層髙キ山亦在リテ展望スル障碍タレハ亦彼ノ山ニ到リシカ尚是ト同等ノ山各処ヘ連絡シテ遂ニ十分ノ展望ヲ得ルノ地ナキ故ニ此山ヨリ右ニ連絡ヲ取リ右折シテ我シキ谷ヲ下リ麓ニ出テタルカ此処ハ僅カノ田畑アリ人家モ二三軒散居シ門川此処ヨリ東ニ流レテ之ニ沿フテ行クノキハ則チ門川駅ニ到ルト聞タリ玆ニ予ハ宿営ニ歸リ各兵ヲ守地ニ遣リ夜間ハ守線前面西北ニ有ル最モ髙キ山ニ篝火ヲ焚クヿヲ命シ其用意ヲ為サシム亦各守地ニハ人夫ヲ遣リ豫メ塁ヲ設ケ各他隊ノ来着スルニ随テ其線ヲ改良ニセント欲シタルカ該隊ノ更ニ到着セス(※これらの塁を築いた場所が分からない。この辺りで一番高い標高437mの茶屋ノ木やそれに連なる尾根筋だろうか、もっと北だろうか。)

一中隊寡少ノ兵ヲ以テ此遠大ノ地ヲ守ルノ難キヲ方面司令ニ申告スレトモ該官ハ隔絶ノ地ニ拠就シ其答モ曖昧タレハ予ハ断然己レカ隊ノミヲ以テ防御スヘク决シ薄暮前ヨリ軍夫數名ニ下士兵卒ヲ附シ柴薪ヲ許多費シ守地前面髙山各処ニ點火為スヘシト遣発セシメ予ハ夕食ヲ喫シ其箸予カ手ヲ未タ离レサル際曩ニ発遣シタル軍夫二三名駆ケ来リ報シテ曰ク數賊襲来セリト予ハ直チニ箸ヲ投シ士官ノ此処ニ来リ在ル者ヲ守地ニ遣リ予モ守兵七名ヲ引卒シテ守地ニ到リシカ敢テ賊襲ノ景况ナケレハ猶此線ヲ离レ數丁前進セルニ數賊前面ニ顕レタレハ直チニ射撃スヘキ状ヲ為シ大聲ヲ以テ其順逆ヲ示シ降伏ヲ乞フ者ハ寛典ノ処置ニ及フヘキヲ諭シタリ賊等之ヲ聞クヤ銃器刀槍ヲ悉ク前面ニ投シ地上ニ躓ヒテ降伏ノ意ヲ述ヘタレハ各兵ニ命シテ一纏トナシテ予カ宿営ニ歸レリ此囚人中ニ一部ノ長タル者アリト聞タレハ之ヲ巌敷責問シタルカ曖昧トシテ遂ニ其確実ヲ得サレハ其叓由ヲ記載シ分捕品ト共ニ黒木仮本営ニ送致セリ亦夜中ハ斥候ヲ発シ屡々前面ノ山谷ヲ捜索セシカ遂ニ賊ノ踪跡ヲ見ス亦明日此間道ヨリ三輪村ヲ経テ延岡ニ進入ノ命アレハ其凖備ヲ為スカタメ予ハ終夜睡眠セス頗ル疲労セリ亦大阪廣嶌両鎮台ノ兵遂ニ来ラサルㇵ亦如何ナルヤ之ヲ辨スル能ハス

 伝令騎兵が新たな命令をもたらしたので、上井野が目的地となった。ここは前日の12日に第三旅団が薩軍を攻撃して奪っていた。参考までに以前、このブログ「第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 8月」で使用した図を掲げる。丸で囲った所に台場を築いたかも知れない。

以前のブログで使用した図。当中隊とは第九聯隊第三大隊第四中隊のこと。

 

「安政七申年 聞書 三 勝氏米國航海紀行」(2) ※以前の続きをここから再開します。

貨幣造製官舎ハ市中ニ有至り見る尓金銀分析法ハ初め鑛石を以て細粉となし古れを洗ひ(貨幣造製官舎は市中にあり。至り見るに金銀分析法は初め鉱石を以て細粉となし、これを洗い)

王水或ハ猛水王水ハ硝石精ニ塩酸精を加へしもの猛水ハ則硝石精尓て能く阿らひ解可しめ銀盤王水あるいは猛王水は硝石精を加えしもの、猛水は硝石にてよく洗い、解かしめ、銀は)

塩水を注きて塩酸銀となす此塩酸銀となせしものハ水を入て稀弱セしめ後大桶▢▢行壱尺(塩水を注ぎて塩酸銀となす。この塩酸銀となせしものは水を入れて希弱せしめ、後、大桶▢▢行壱尺)

堅も同樣の中ニ集め水を注きて洗いて毎度もして塩氣の春るを見て大釜ニ入蒸気を用ひ

(竪ー縦のことーも同様の中に集め水を注ぎて洗いて何度もして塩気のするを見て大釜に入れ、蒸気を用い)

て蒸沸セしむ後熔壺経ハ九寸高壱尺斗ニ入連烈火ニ溶解セしめ銀を以て再大桶ニ水を入た

(て蒸沸せしむ。後、熔壺経は八九寸高さ壱尺ばかり)に入れ、烈火に熔解せしめ銀をもって再び大桶に水を入れた)

る中ニ投して粒銀として純銀ニならしむ此溶解銀を壺より汲み水中ニ注瀉春る尓恰も水

(る中に投じて粒銀をとして純銀にならしむ。この熔解銀を壺より汲み、水中に注瀉するに、あたかも水)

の如し試ニ掌を開きて斜ニ此銀を受る尓手ニ熱焼を覚恵須水と同し是工人此事をなして我等尓見せしめたり

(のごとし。試みにてのひらを開きて斜めにこの銀を受くるに手に熱焼を覚えず。水と同じ。これ工人この事をなして我等に見せしめたり)

金鑛も又大抵盤同様なり通例の悪金を以て純金と成須を見る尓其金を王水ニ投し壺ハ玻璃を用ゆ是を瓦斯燈の上ニ暖め其溶解春るを待つて其溶液を一大玻璃器ニ阿つめ此▢或ハ粉砕金となし沈降セしめ純金粉を収む其金銀貨幣を造るを見る尓今此精製セし金或盤銀を壺ニ入連ふた〃ひ

溶解セしめ是ニ銅或盤錫を加へて小竿状とな須是れをベルス則蒸気機尓て物を壓し平める器の名尓可けて細薄適宜のものとなし後正しく貨幣の厚さを得る時又壓鑿蒸気機尓て貨幣の形尓たち工人壱人ニ而毎日数千をたちきる事早し尤此機甚大装ニして最便ニ此▢形となしたる金貨を耳を春り秤を可けて其輕重を見て小秤を用ひる事▢る女の職なり大抵十四五人の女大机ニより革を以て膝を覆ひや春り数本并尓秤を▢て耳を春り物可りニて目方を改めかる起▢よけて又改造セしむ又外ニ老工壱人是を秤尓可けて改め宜敷を取集めて銭塊を上下し印記をなす装置尓て此銕塊の下面印記鑿を附たるもの其前尓銅筒あり此内ニ銭数十を入連操轉を起せしむる時ハ銭一枚自可ら印記器の下ニ入る入連盤印記下りて其銭を壓須おして昇連ハ其銭自ら轉して下の櫃尓入り一枚落れハ又一枚を送る如此して志盤ら具員▢数百枚を印起す其機関簡便精妙詳ら可す記すへ可ら須又小純金を鋳須熔壺ハ獣骨灰を以て造たる物也

古れを用て熔解セし金片を細薄片となし秤ニて改め

各所の金鑛を▢▢(「海軍歴史」では比較)交易す今其金を見る尓色沢光明あさや可なり

活板工ハ市中有爰尓て日〃新聞紙を製須其▢▢(「海軍歴史」では従属者)人日〃官舎を出入して議術諸巷説を筆記し是を撰て新聞紙を作る其活板ハ皆蒸気機を用ゆ種字板も同しく機関を用ゆ(「歴史」では次に14行ほどある)

製銕工所盤市中所〃尓有大銕槌大銕盤等ミな蒸気力を用ひて作る我長﨑飽の浦ニ有細工所と同し(「歴史」では次に20行ほどある)市内所〃尓非常出火尓用ゆるブランドスホイト我龍仕(※吐だが誤記)水之叓を置く官舎の門内中央尓四輪車ニ架す吸水筒あり官舎火消人足三拾四拾人皆屈強の壮者也出火ニ趣く時盤革兜を頂き皆一様の服也一手の指揮官壱員是尓附志た可う 此地の家屋失火盤大抵隣家尓及者須皆ぬり家な連盤其火唯一家のミ尓て他尓不及す我滞留中出火両三度見たり

乗車カリツと云盤二馬或盤一馬を用ひて引▢しむ大車ハ二馬を用ゆ其製我国俗のいふ御所車といふ尓等し皆美麗なる車なり(「歴史」では次に8行ほどある)

一夕此地のゼ子ラールヘヘンを訪ふ我至れハ彼れ戸外ニ出て導起家内尓入る入連ハ其妻女上座尓あり先是を拝し座尓附く彼可友数人皆其婦を伴ふて至れり悉く出て禮す其後一人の男子ビハノを弾てうたう是を聞て客者婦と手を握して立て舞ふ或盤数人手尓手を取りて舞ふ阿り又婦の肩腰を抱き舞ふミな其曲をうたと尓よる舞ふ手を阿げず只足尓て拍子をうつて廻り或盤つらなり或盤別連て遅速寛急悉く局尓寄津て品有絶て淫聲なく淫奔の躰なく大統領も来りし可同く婦の手握し舞ふ其慎めり我国宴席杯盤狼藉酔狂春る如く尓何ら須舞踏二三曲終連盤別室尓伴ひて銘酒数品を出して饗す二三盃を飲む先の室ニ至り舞ふ事先の如し終連盤各婦を伴ひ主人ニ禮し順を追ふて家尓帰る酒席尓氷或盤雪なとを以て杯中ニ盛り出須此氷カムシカツトカより来ると云夏時盤殊ニ可賞又氷を精尓して雪となし鶏卵及牛乳を和し赤色或盤黄色となしたるもの殊ニ美味なり氷の堅き事我国氷よりかたしシャンハン酒尓氷砕を入るもの尤美なり夏日此味盤我国人の志らさる所なり

一日貌魯古と同行して此地の可▢舞(この3字は「歴史」では歌舞)を見し尓其家戸外尓洋字を以て可▢と記したる燈あり入連盤階子を昇り棚の上尓出津前面舞臺を設け三面高くして舞臺を見る尓障りなし又舞臺の前面を低ふして楽器を置くヒハノ胡弓の類尓屋外

 

 

小林清親の版画「新聞 鹿児島水股風説」

 先日2月19日御届の版画を紹介したのに続き、20日御届の版画を掲げます。この絵の紹介は二回目です。

 2月20日はまだ本格的な戦いが始まらない段階でした。15日に鹿児島を出発した薩軍の一部が熊本市南方の川尻の町に到着し、熊本鎮台からは偵察部隊が接触し小戦が起こっています。 

 黄色い部分には次のように書かれています。

四海波静尓往返の舶乃希武りも高く萬代楽を謡ふ御代者鹿児島希ん下者士族の暴行なれと実地を水股の其風セつも信用なら春殊尓雷機の私報も止り希春尓士族のヱレキもくづれ是鎮静の近キを記春と云〃

 明治十年二月

 読み易くすると。

「四海、波静かに往返の舶のけむりも高く、万代楽をうたふ。御代は鹿児島けん下は士族の暴行なれど実地を水股のその風説も信用ならず。殊に雷機の私報も止りけ▢に、士族のエレキもくづれ、これ鎮静の近きを記すと云う」

 上記の内、希春尓士族の部分は解読が不確かです。絵は右に官軍とみられる部隊が山中を進行しており、海上には太平丸という外輪船が桜島方向に進んでいます。これらは海陸ふたつの方向から官軍が鹿児島に向かうのではないかと、勝手に予想して描いたのでしょうか。太平丸は三菱商会の船で、島はサクラジマです。

 中と左は鹿児島側と考えられる武装した5人が官軍の方を見ています。このうち、陸軍の服装らしき人物は陸軍を退職して鹿児島に帰京した人を表現しています。左下には方円清親と書かれていて、方円舎が小林清親の号でした。

 水股は熊本県南端にあり鹿児島県と接した場所にある水俣の事です。鹿児島県内に外部の人間が入ることは鹿児島側から制限されていたため、鹿児島の情報は水俣まで行って収集する必要があったのです。四人は県境を封鎖している状態でしょうか。戦闘も始まらず、情報も少ない状態にも拘わらず、作画を求められどんな絵を描くのか画家も困ったはずです。

 

臼杵市ツルガ山・三ツ頭踏査2024.6.1

 最近の課題だった標記の山を歩いてみた。結論は台場跡なし。

  山の入口です。鹿用の金網が山を取り巻き、山道の入口にそれぞれ扉がある。 

 最初はこんな感じで緩やかに進む。左上は墓地。

 測量で入る人が迷わないように巻いたのだろうか木に桃色テープが20m間隔位で続く。黄色や赤もあった。一部に先日の庚申塚手前で見たような幅1m位の平坦な尾根があった。山道はこの右下にある。

一直線で登ってきた尾根の一番上に着く。次の写真は尾根を見上げて。ツルガ山の頂上には神社があるが、尾根を左に曲がる先にある。

 200m位左に神社がある。正面は南向きで背の低い凝灰岩製の鳥居が前に建つ。裏側に銘文があるような、ないような。神社正面に向かって左側に別の山道がある。径の先の村が神社を管理しているのだろう。

 神社はコンクリート瓦葺きだが、付近には佐賀の関、細(ほそ)の瓦が散乱している。江戸時代後期から明治くらいだろうか。大分ではよくあるやつ。

 神社の北30mに弧状の台場跡らしいものがあったので図化した。内側の窪みに鉄棒を刺すと10㎝強しか刺さらない。土塁部分は高さ最大25㎝前後、北部の幅が大きい。背後の削り出しもやや北部が広い。帰りがけにこの北側にも同じ向きでよく似たのがあったが、風倒木痕のように見えたので、最初見つけたのも風倒木痕としておこう。無駄に時間を取ってしまった。官軍が築いたなら南を向いて造ると思うので、向きも不自然だ。尾根の北縁の木が南から吹く強風で倒れる方向なのだろう。

 台場跡ではなさそうなのでトレースしないままで見にくい。

 神社から北東に710mくらい一直線に進むと標高305mの峰に着く。この間は地図では高低差があまりないように見えたが、途中、もう305m峰かと勘違いするような高まりがあった。下は305m峰の手前で間違えそうになった峰。

 305m峰に標識があった。三ツ頭(みつがしら)

 三ツ頭は以前のブログで荒田峠と呼んだ山です。下は東側、臼杵川の対岸台地上から撮ったもの。西南戦争当時、官軍が荒田峠と呼んだのは三ツ頭と周辺の尾根筋だろう。水田地帯と背後の低い森は阿蘇溶結凝灰岩。今日歩いた山は砂岩でした。

 三ツ頭から続く下方の尾根に台場跡があるのではないかと期待していたが、なかった。ゴム長を履いていたし、マムシも見かけなかった。マダニも気づかなかった。最後の部分で鹿が人がいるから注意せよと鳴いていた。終始誰にも遭遇しなかった。平地に降りて、臼杵石仏の駐車場から今日上った山と尾根を撮影。気温26度。

 

 参考までに「西南戦地取調書」の絵地図と現在地図を比べてみたい

 神涼とあるのが今は三ツ頭の標識がある峰、長尾とあるのは水ケ城山から三ツ頭まで続く長い尾根のこと。絵図にある三ヶ所の池は今もそこにある。神社二つもそこにある。絵図の荒田堤防は神社2の下流にあるので現在の地図でも位置が分かる。臼杵川右岸の薩軍を攻撃した夜に官軍が後退して守った場所がここになる。

 次の写真は6月3日に神社2の南側、高速道路のすぐ南側の台地から撮った。点線の低い尾根を歩いたが遺構はなかった。この辺りの建物は和風が多い。

 神社背後に山に登る階段があり。階段の行き止まりにも神社建物がある。そこから南を撮ったのがこれ。中央一番高いのが姫岳。左の方で薄緑の分布するのが「王」の字を焚く立石山。その左下に三角形に尾根が削られた所のやや右上が甲﨑山1号台場跡の山。

 画面を左に移動。荒田堤防の上は道路になっている。