satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 6月 ※未完成です。少しずつ補強します。

 5月25日以来戦闘記録のなかった第三旅団だが、6月1日には薩軍の状態を探るため久木野へ向け一分隊を偵察に出し、さらに大関山の敵状を観察しようと試しに砲撃した。

C09084893800「第二号 自五月至六月來翰綴 第三旅團参謀部」0368

     第七百七十五号

  今朝第七時頃ゟ大西大尉之中隊一分隊攻襲偵察トシテ久木野ヘ向ケ発遣其

  後大砲壱門ヲ以上木塲口正面ノ賊状ヲ探ランカ為メ七八発程試放為致候處

  各賊塁ニ五六名宛顕レ出テ我放火ヲ見分ス且我ゟモ時々為探小銃放火ヲ為

  ス是以テ考ル時ハ彼ゟ攻襲ノ勢ヒナシト𧈧ノモ現在依然トシテ旧ニ異ナル事

  ナシ就而ハ現今ノ處ニテハ我ヨリ攻撃スルノ目的相立兼候尚大西大尉斥候

  帰陣之上賊状詳細ヲ得ハ重而上申可仕候得共不取敢此段申進候也 

 

     六月一日  厚東陸軍中佐

  三浦陸軍少将殿

 三浦は5月上旬以来、佐敷に本営を構えていた。この日、6月1日、山田顕義率いる別働第二旅団は人吉市街に北・北東から突入し、市街地中央を西流する球磨川の北岸を占領した。佐敷および球磨川下流から進んでいた旧別働第四旅団(5月13日に別働第二旅団に合併し、名称は消滅していた)も球磨川下流域から人吉盆地に入った。薩軍球磨川の南側に退き、数日後には下図のような状態となった。赤字が官軍、黒字が薩軍である。やがて薩軍は鹿児島県大口盆地やその東側えびの市に入るものと、人吉盆地南東部の山地に進むものとに分かれることになる。

f:id:goldenempire:20210716145828j:plain

 6月2日、三浦少将は別働第三旅団の川路少将に水俣方面の敵状を問い合わせたところ変化がないという返答だったので、第三旅団から行動を起こすことにした。3日、旅団の揖斐大佐は古道村に出張本営を移し、大島・内藤・友田各少佐と中隊長達を集めて次のように攻撃部署を伝えた(「戰記稿」)。3日に攻撃しているので実際は前日には命令していたはずである。攻撃目標:右翼は城山(久木野の北西の山)を大島少佐の6個中隊(佐々木・瀧本・大西・矢上・井上)、(おそらく中央の)長左衛門釜を内藤少佐の3個中隊(安満・栗栖・岡)、大関山を同じく3個中隊(平山・下村・武田)、左翼の大関山と国見山を友田少佐の4個中隊と工兵2分隊(栗林・弘中・堀部・沓屋・内藤・石川)、その他若干(林・南・山村・町田)である。

 次に当日3日の戦闘報告表を掲げる。 

C09084789200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0126・0127

   第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉堀部久勝㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:肥後国芦北郡 我軍総員:一百ニ十六人

  傷者下士卒1 賊軍死者1

  戦闘ノ次第概畧:六月三日午前第五時三十分開戦大関山ヲ攻擊援隊トシテ

  出戦十文字口ヨリ進入攻擊隊戦ヒ始ルヤ兵ヲ撒布シ山ノ神右方ニ増加シ進

  ム大関山ノ賊塁ヲ棄テ西南ノ焼野字ゴツトンニ走ル于時午後一時前ナリ

 攻撃隊の出発地と十文字口が分からない。大関山頂上にあったと思われる山ノ神神社(当時は石室を祀る簡単な祭祀場だったかも知れない)の右に攻撃の重点を置いたところ、薩軍は頂上の南西に続く尾根にあるゴットン石(野原にあり、上に乗って動くと揺れる岩)の方に移動した。

C09084789300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0128・0129

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長 陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:大関山 山ノ神山 我軍総員:百四拾六人

    死者下士卒1 傷者下士卒2 

  戦闘ノ次第概畧:三日午前第拾二時嘉門越口ヲ発シ三時四拾分四本杉ニ至

  ル第六時山ノ神山下ニ於テ開戦同三拾分同處ヲ取

  備考我軍:(略)放チシ處ノ弾薬六百發

 大関山頂上から続く尾根上で北約1.2kmに四本杉台場跡がある。沓屋隊は前回、5月24日の戦闘報告表では嘉門山を乗り取っており、今回も嘉門越を出発しているので、そこでずっと守備についていたのだろう(嘉門越は各隊の戦闘報告表の中で色々な字が充てられているが、同じ地名である)。そして、3日は北側から大関山目指して尾根を進んだのである。山ノ神山を取ることが大関山を取ること、と理解できる。戦闘地名欄に二つの山を併記している意味が分からない。

C09084789400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0130・0131

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:芦北郡大関山 国見山 我軍総員:百二十

  二名 死者下士卒1 傷者下士卒3 敵軍総員:大関山ニ五十名斗 国見山ニ

  八十名余 敵軍死者3 傷者不詳 我軍ニ獲ル者:弾薬三箱

  戦闘ノ次第概畧:午前五時四十分大関山進撃即時追拂同六時比ヨリ国見山

  江大斥候ヲ挙進擊九時頃国見山ノ賊ヲ追拂ヒ大関山ヨリ国見山ニ續キ防禦

  ヲ設ケ固守ス

    大関山と国見山の薩軍の人数を記す唯一の記録である。薩軍大関山に50人・国見山に80人余に対し攻撃側は926人であり、人数で圧倒しすぐに決着がついたのである。

C09084789500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0132・33

  第三旅團工兵第二大隊 陸軍少尉内藤冨五郎㊞陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:芦北郡大関山 我軍総員:三拾三名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時長嵜村ヲ出発大関山ニ至リ全員ヲ二分シ一ハ

  右翼ニ一ハ左翼ニ進ミ敵火ニ對シ塹溝數拾箇處ヲ築キ午后第十一時長嵜村

  ニ引揚

  工兵隊である。「戰記稿」では2分隊と表記されている。死傷なし。工兵隊は大関山に着いて台場類を数十基築造している。弘中報告では午前6時前には大関山を占領しているので、その後夜11時に長﨑 村に帰り着く前は長時間築造作業をしている。大関山の薩軍に対して築いたものもあり、占領後、久木野方向に築いたものもあっただろう。

C09084789600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0134・0135

  第三旅團歩兵十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉来栖毅太郎㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:大関山 長左衛門釜 我軍総員:四拾六人 

  死者:下士卒1・傷者:下士卒4

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時石間伏村出発十文字ヨリ道ヲ右方ニ取リ進軍

  突然賊塁ノ右翼ニ出ツ茲ニ於テ大ニ鯨波ヲ發シ開戦ス此時五時半頃ナリ賊

  塁ニ據リ且ツ戦ヒ且ツ退キ進ンテ長☐釜ニ逼ル賊兵塁ノ右翼及ヒ背後ヨリ

  攻撃ヲ受クルヲ以テ終ニ支ユル能ハス数塁ヲ余テ奔ル同第十時頃命☐退去

  ス

 石間伏村を出発して十文字で右折して進んだら長左衛門釜に至るのである。長左衛門釜にいた薩軍にとって塁の右翼・背後から攻撃される状態になったという。長左衛門釜は細長い尾根の先端近くにでもあるのだろうか。5時半頃に攻撃を開始したという。弘中報告の午前5時40分とほぼ同じである。

C09084789700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0136・0137

  戰闘報告表:明治十年六月四日歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長  

  第三旅團  陸軍大尉安満伸愛㊞  

  戦闘月日:六月三日 戰闘地名:長左衛門釜

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分長左エ門釜賊ニ向テ突進賊塁悉ク打拂

  ☐ラ山ヲ占領シ大哨兵ヲ配布セリ

  我軍総員:九十名 死者:下士卒壱名 傷者:下士卒三名

  備考:我軍:一下士卒死スル者壱名第九聯隊第三大隊第四中隊一等卒矢田

  他壱郎ナリ

  一傷者下士卒十三名ハ第九聯隊第三大隊第四中隊軍曹角田義定仝一等卒池

   上吉次郎仝二等卒宮崎宇之助ナリ

  〇本日費耗ノ弾数四千発ナリ

 一人約44発を発射している。 

C09084789800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0138

  第三旅團大阪鎮台豫備砲兵聯隊第二大隊第一小隊長 陸軍大尉村井忠和㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:熊本縣下肥後國芦北郡上木塲村 我軍総

  員:六拾貳人 

  戦闘ノ次第概畧:兵員ヲ区分シテ二トシ一ヲ砲車付トシ少尉杦田豊実之レ

  ヲ率ヒ一ヲ護衛兵トシ少尉野間駒之ヲ率ヒ午前一時三十分古田村ヲ発シ同

  三時卅分三十挺阪上砲臺ニ着直チニ山砲二門ヲ備ヘ仝五時丗分左翼開戦ニ

  因リ放射ヲ始ム同九時頃ニ至リ賊軍逡巡故ニ益射撃ヲ盛ンニス而乄九時卅

  分歩兵ノ進軍号音ニ應シ放射ヲ止メ護衛兵転シテ歩兵ト共ニ前進シ本道及

  同左側山上ニ於テ銃戦ス午后賊軍敗走止戦ニ因リ上木塲近傍ニ舎営ス

 三十挺阪の左上方向に敵がいて、5時30分に左翼が開戦したというのは、来栖隊が長左衛門釜を攻撃し始めた時間である。三十挺阪の上に築いていた砲台から左翼にあたる位置にある長左衛門釜を砲撃したのである。

C09084789900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0140・0141

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第壱大隊第二中隊長  陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:大関山ヨリゴツトンノ野迠 我軍総員:

  八拾七人  傷者:兵卒二名

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月三日午前第三時管ノ本出発大入道ヨリ登尾

  ヲ攀チ大関山ノ右方ニ向ケテ攻擊賊塁数ヶ所ヲ奪ヒ猶進テ大関山ノ内「ゴ

  ットン」ノ野ニ出ルノキ賊又胸壁ニ依テ固守ス故ニ我兵益奮進賊兵遂ニ守リ

  ヲ捨テ悉ク敗走ス依テ第九時頃休戦ス此日費ス処ノ弾數凡ソ三千発ナリ

 管ノ本も大入道も場所不明。前回5月24日の報告表では石間伏村を出発して大関山を攻撃した後、平山隊と合併して第二防禦線に引き揚げている。では平山隊の報告ではどうかというと、24日の報告表は存在せず、翌25日のものがある。それは「午前第二時三十分肥後國芦北郡古石村ノ内大入道ニ於テ大哨兵ヲ布シ歩哨勤務中」である。

 つまり古石村に大入道という所があり、大哨兵を配布しているのである。6月3日の下村隊の「管ノ本出発大入道ヨリ登尾ヲ攀チ大関山ノ右方ニ向ケテ攻擊」を参考にすると、どちらの隊も大入道を経由して大関山に向かっていることが分かる。24日に下村隊が出発した石間伏は三十挺坂の東側の尾根の東側の谷間に位置し、古石村の東隣である。この日の下村報告によると、大入道から伸びた尾根は大関山の右の方に続いているらしい。以上のことを考えると、三十挺坂の両側のどちらかの尾根、おそらく東側の尾根を通って進撃したものと思われる。薩軍の数塁を奪ってゴットンの野に出ているからである。

 小銃弾使用は平均43発強だった。ゴットンは野原で樹木が繁茂していなかったという点は他の報告と重なる。同所を奪ったのは午前9時頃だったと記している。

C09084790000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0142・0143

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 換之㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:熊本縣下長左衛門釜 我軍総員:百二拾

  五人  傷者:兵卒一名

  戦闘ノ次第概畧:午前第十二時三十分石間伏ヲ発シ仝三時三十分開戦長左 

  衛門釜ニ援隊トシテ進ミ同所ニ於テ一半隊攻擊隊ト共ニ突喊賊塁ヲ拔ク、

  又一半隊攻擊隊ノ右翼ニ増加シテ進擊賊辟易敗走スルニ及ンデ要所ヲ占メ

  命ヲ待ツニ南大尉ノ隊ト大哨兵交換ノ命アリ依テ茲ニ占ム

  備考:(略)本日費耗ノ弾数凡千発ナリ

  来栖隊が午前1時に石間伏を出発する30分前に岡隊は出発し、3時半に長左衛門釜を攻撃している。来栖隊は5時半頃開戦したのと時間差があるのはなぜか。 小銃弾使用は平均8発だった。

C09084790100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0144・0145

  第三旅團名古屋鎭臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:肥後國芦北郡古石村ノ内大関山 我軍総

  員:百貳拾八名 死者:下士卒二名 傷者:将校一名 下士卒十三名

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時肥後国芦北郡古石村ノ内大入道ヨリ進軍午前

  第三時三十分開戦一舉ニシテ大関山及長左衛門釜等各処ノ臺塲ヲ乗リ取リ

  我兵奮闘以テゴットン石ノ賊兵ヲ悉ク追拂ヒ午后第三時三十分同処ニ大哨

  兵ヲ備フ 我軍ニ獲ル者:ヱンピール銃八挺 弾薬:スナヒドル二千三百

  発 ヱンピール三千発 器械:小籏 壱本 刀 九本 貨:金四円貳拾銭

  備考:我軍 (略)◦本日費耗ノ弾数六千発ナリ

  敵軍  ◦大関山及ヒ長左衛門釜ゴットン石等ノ賊ヲ追拂フ節銃八挺スナヒド

  ル彈二千三百発ヱンピール彈三千発簱壱本刀九本紙幣四円貳拾四銭ヲ獲ル

  ヱンピール銃及弾薬ハ叓急ニシテ引揚ル難ク且用ヒザルヲ以テ墔折シ地中

  ニ埋ム獲ル処ノスナヒドル弾薬ハ我軍ニ配與ス 

には付箋があったと思うが存在しない。大入道を出発し、予定時間通りに午前3時半に攻撃を始めて、大関山・長左衛門釜などを一挙に奪い、引き続き南西側のゴットン石の薩軍を追い払って午後3時半に哨兵を布いた。小銃弾は平均46発強を使用した。 

C09084790200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0146・0147

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉武田信賢㊞ 戦闘月

  日:六月三日 戦闘地名:熊本縣芦北郡ゴットン石 我軍総員:百三十九名 

  戦闘ノ次第概畧:午前二時石間渕ヲ発シ援隊ニテ大入道ヘ到リ戦地ゴット

  ン石ヘ斥候トシテ二分隊ヲ出シ續テ之レヲ防禦隊トナシ深林ニ配布ス十時

  本隊ヲ同処ヘ繰込ミ午后設塁防禦ヲ巌ス

  我軍ニ獲ル者:俘虜一

  備考:我軍 一本日弾玉ヲ費凡五十発

f:id:goldenempire:20210720211146j:plain

 石間渕は石間伏と同じだろう。ここよりも大入道の方が戦地に近いことが分かる。ゴットン石を占領して守備を設けている。一人平均0,4発の小銃弾を使用し、死傷者はいない。

C09084790300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0148・0149

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:上木葉及ヒ大関山辺 我軍総員:八十壹名 

  戦闘ノ次第概畧:正面攻撃ノ命ヲ受ケ午前八時過三十丁阪大哨兵ノ位置ヲ

  発シ悉ク賊塁ヲ陥レ猶進テ久木野本道ノ山頂ニ至リ大哨兵

 矢上隊は久木野村の北西側にある城山が攻撃目標だった。久木野本道の山頂が城山か。城山は中世山城跡であり、尾根の付け根には堀切があり、上面には曲輪の平坦面があり、台場跡が縁辺に築かれているのを見たことがある。

C09084790400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0150・0151  

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第一中隊長 大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:上木塲 我軍総員:百十九人 ※死傷なし

  戦闘ノ次第概畧:援隊トシテ午前第二時上木塲発シ右翼ヨリ久木野ヘ進撃

  城山ニ於テ発砲午后第六時岩音山エ引揚大哨兵ヲ務ム

 瀧本隊も上木場から南下して城山方面を攻撃したのである。岩音山は初出地名で場所不明だが、後出の佐々木隊の報告でも登場しており、そこでは上木場村の南にある地獄谷の北側だろうと推定した。

C09084790500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0152・0153

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉 井上親

  忠㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:肥後國芦北郡上木塲村 我軍総員:五拾

  六名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時比正面攻擊シ仝第九時比終ニ大關山ヲ占領ス

 本来は大関山が攻撃目標ではないが、実際は大関山を占領している。

C09084790600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0154・0155

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉大西 恒㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:上木塲本道 我軍総員:百貳十貳人 

  戦闘ノ次第概畧:本日未明ヨリ大関山并長左衛門釜攻擊之處賊敗走直ニ當

  隊上木塲本道ヨリ久木野村入口迠進入大勝利 備考:本日死傷無シ

 本来の攻撃目標は城山だったので、大関山と長左衛門釜は他の部隊が攻撃したという意味だろう。大西隊は久木野村入口に進んだのである。

C09084790700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0156

  第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊附属同聯隊第二大隊第四中隊一小

  隊 中隊長大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:長左衛門釜 我軍総員:三拾八名

  戦闘ノ次第概畧:六月三日攻撃総援隊ノ命アリ上木塲山上ノ砲台エ交換整

  頓防禦シ在タリキ午前第八時大関山々上ノ戦ヒ蘭ナラントスルノキニ當リ長

  左衛門釜ノ賊掃擾ノ急命アリ直ニ左一小隊ヲ同處ニ向ケ開戦シタリ賊終ニ

  防戦スル不能散乱☐走追撃シテ午后一時狐嶺ノ前面山上ニ於テ右一小隊ト

  合併夫レヨリ久木野本道ノ援隊トナリ而後復タ右一小隊ハ不能山々上ノ援

  隊ニ分遣シタリ此日死傷ナシ于時午后第三時ナリ

 攻撃目標は割り当てられていない援隊だったが、途中から長左衛門釜攻撃に参加している。

C09084790900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0160・0161

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:(※空白) 我軍総員:八十七名 傷者

  :下士卒壹人 

  戦闘ノ次第概畧:午前一時三十分熊ノケ倉整列岩音村ヲ経地獄谷ノ上ニ至

  リ是ヨリ順路木田師ニ潜伏大関山ノ開戦ヲ待ツ雨リ六時三十分大関山ノ開

  戦ヲ聞キ城山並ニ久木野道ヲ狙撃ス賊塁ニ依テ固守敢テ退去ノ色ナシ因テ

  益々放火ヲ盛ニス十時大関山ノ大勝利ヲ見ルヤ直ニ城山並ニ久木野☐☐越

  突貫賊塁三ヶ所ヲ拔キ廠舎ニ火ヲ放チ進テ久木野ノ上ニ至ル然トモ本道ノ

  賊☐未タ不去故ニ拔能ハサルヲ以テ遂ニ久木野ニ至◦

 ◦に対応する貼紙なし。熊ケ倉は上木場の北側の山の北側麓の村である。地獄谷は大関山の南西に発生した谷で、上木場と城山の間にある。岩音村が地獄谷の北側にあるらしいと分かる。佐々木隊は部署計画では城山が攻撃目標の右翼部隊である。

f:id:goldenempire:20210722082357j:plain

C09084791000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0162・0163

  第三旅團工兵第一大隊第一小隊附 陸軍少尉林庸雄㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:熊本縣下芦北郡上木塲村近傍 我軍総員

  :四拾名 

  戦闘ノ次第概畧:午前四時当隊ヲ折半シ古道村ヲ発シ一ツハ上木塲口他ハ

  石間伏口ニ至ル仝九時比賊軍ノ右翼敗レ退却スルニ依リ直チ進ミ久木野村

  近傍我防禦線ニ至リ塹溝築設ニ着手ス凡数拾箇并ニ鹿柴等ヲ築設翼五日午

  前第六時比皈営ス

 工兵隊だから戦闘には携わらず、久木野村付近で台場類を数十基と、伐採した木を並べる鹿柴などを設置している。「仝九時賊軍ノ右翼敗レ」とあるのは下村隊の報告でゴットンまで奪った時間が9時頃とあるのに符号する。だから、ここで「賊軍ノ右翼敗レ」とあるのはゴットンを含んでいる。 

C09084791200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0166・0167

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長 陸軍大尉斎藤徳明㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:国見山 我軍総員:八拾五名 傷者:下

  士卒一名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時「ヲンダラケ瀬戸出発同第七時国見山麓ニ至

  リ賊兵ヲ見ル直ニ開戦同第八時十五分国見山ヲ乗取午后第三時ヲンダラガ

  瀬戸ニ引揚直ニ大哨兵ヲ配布ス

  備考敵軍:午前第五時一小隊ヲ率ヒ「ヲンダラガ瀬戸」出発一半隊ヲ以テ

  久木野村ニ通スル間道ニ潜伏セシメ賊兵ノ迂廻ヲ禦キ且ツ滝本村ヨリ碁盤

  石ヲ経テ久木野村ニ進撃之官軍将ニ戦端ヲ開カハ直ニ是ニ應シテ賊兵ノ左

  側面ヲ討ニ備ヘ他ノ一小隊ヲ率ヒ前面ニ進ム道路甚狭廣キ所ニシテ僅ニ三

  名ヲ進ムベシ行ク凡ソ十丁余ニシテ国見山ノ背後ニ至ル時ニ午前第七時ナ

  リ我カ先捜兵敵ノ哨兵線前ニ至リ賊兵ヲ見ル直ニ開戦烈射スルヿ甚タ急ナ

  リ然リト𧈧ノモ賊兵險ニ據リ防禦スルヿ殊ニ勉ムルヲ以テ我兵進入スル能ハ

  ス不得止放火ヲ薄クシ正面大関山ヨリ進ム官軍ノ景况ヲ窺ヒ好機械ニ乗シ

  進ント欲シ喇叭ヲ吹奏シ只振旋スル而已既ニシテ忽チ敵兵退却ノ兆有ルヲ

  察シ魚貫シテ進ム賊兵支フル能ハス守地ヲ捨テ敗走ス我兵山上ニ攀登ス全

  ク国見山ヲ乗取時ニ午前第八時十五分ナリ是ニ於テ兵ヲニ分シ一半隊ハ大

  関山之官軍ト連絡ヲ保タンガ為メ右ニ進ミ他ノ一半隊ハ歩々喇叭ヲ吹奏シ

  賊兵ヲ追撃シ進ンテ南床村ノ嶺字新名ニ至リ直ニ寺床及ヒ大河内村ニ斥候

  ヲ発遣シ賊ノ踪跡探索シ午后第三時他ノ中隊ト交換シ「ヲンタラカ瀬戸」

  ニ帰リ最前ノ守地ニ據リ守備ス

 斎藤隊は前回、5月22日に札松峠を奪ったときに東側にある鏡山を占領した部隊である。ヲンダラケ瀬戸がどこにあるか分からないが、鏡山の付近だろうか。国見山から大関山までほぼ1,000mである。弘中隊は「九時頃国見山ノ賊ヲ追拂」ったとあるが、この斎藤隊は8時15分としている。大関山の占領を待って国見山を攻撃して占領した。その後、山の南側麓の寺床と大河内村に斥候を出して探索し、朝出発した所の守備を再開している。寺床は久木野の東の谷間にあり、直線距離で4kmある。南側に大川という場所があるがこれが大河内か。

 この3日の攻撃は、「戰記稿」では午前3時半に攻撃開始としているが戦闘報告表の報告ではバラバラである。官軍側の6月3日の死傷者は「戰記稿」(18個中隊と1分隊:死11人・傷43人)・「西南戰袍誌」(歩兵9個中隊と工兵3分隊と砲兵1小隊:同前)・戦闘報告表集成(歩兵15個中隊と1小隊、砲兵1小隊、工兵3分隊:死6人・傷31人)である。死傷者数は前二つは同じだが、戦闘報告表は死者も負傷者も少ない。下記史料のように後日死亡した場合もあり、戦闘当日に近い頃作成された戦闘報告表で死者数が少ないのである。負傷者が少ないのは表作成時には把握しきれなかったのだろう。

 安満隊の負傷者や病人に関する記録があるので掲げる。

C09081003800「明治十年従五月 送達書元稿 大坂 征討陸軍事務所」0289防衛研究所

  大阪鎭臺歩兵第九聨隊第三大隊第四中隊

         陸軍々曹角田義定

  右者本年六月三日肥後国上木場村ニ於テ左下脚貫通骨折銃創ヲ受ケ入院加

  療候處膿熱ニ因テ今三十日午前第八時死去候条此段御届申候也

        長嵜軍團病院

        第十四舎檐任医官

   明治十年六月三十日   陸軍々医補溝上秀休㊞

 6月3日に上木場村で銃創を受けた内容が分かる。上木場村での負傷者の中には長崎の軍団病院に送られていた者もいたのである。

C09081004400「明治十年従五月☐ 送達書元稿 大坂征討陸軍事務所」防衛研究所蔵0301

  死亡診断書

       第三旅團

       歩兵第九聨隊第三大隊第四中隊

           兵 卒  中山吉之助

  右者明治十年六月五日於小野山泰襄土症ニ罹リ六月十三日八代軍團支病院

  ヱ入院施療候處漸次衰弱七月一日午後第二時三十分終ニ致死亡候也

          八代支病院長

   明治十年七月一日    陸軍二等軍医正菊池篤忠㊞

            主任医官

             陸軍々医正井上元章㊞

 読み間違いがあるかもしれないが、泰襄土症というのが分からない。マダニにでも噛まれたのだろうか。

 八代に軍団支病院が開設されたのは3月20日で、8月21日まで存在した。それとは別に大繃帯所というおそらく応急処置を行う施設も設けられ、付近では八代(五月18日)・佐敷(5月20日)・水俣(6月1日)が開設されている(陸軍軍醫團1912年「明治十年西南戰役衛生小史」)。さらに小繃帯所もあるので、こちらは数も多く、より戦地に近かっただろう。

 6月7日、第三旅団が大口に向かって動き出す。  

C09084791600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0174・0175

  第三旅團近衛第二聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉大西 恒㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:久木野ゟ河内村 我軍総員:將校以下百

  ニ十二名  

  戦闘ノ次第概畧:本日午后二時頃俄然賊軍退散ノ景况ヲ催スニ付當隊直ニ

  久木野本道ヘ向ケ攻襲斥候トシテ進入ル賊塁数ヶ所ヲ乗取賊ノ廠舎ヲ焼拂

  フ賊大口ヲ指シ敗走ス當隊追撃終ニ鹿児島国界ニ歩哨線ヲ定ム大勝利

  備考我軍:本日死傷無シ

 攻襲偵察として久木野から河内村に進軍したところ、薩軍は退散していたので県境に哨兵線を定めた。河内村が場所不明。

 

C09084791700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0176・0177

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:久木野ヨリ岩井河内村 我軍総員:八十

  三名 

  戦闘ノ次第概畧:午后一時頃右翼警視隊ノ攻撃ニ依リ我主面山頂ノ賊等退

  軍ノ况景アルヤ突然攻撃ノ命アリ依テ兵ニ進乄賊塁ニ逼ル賊之ヲ捨テヽ逃

  走ス猶逆撃シテ肥後薩摩ノ國境ニ至リ大哨兵 

 岩井河内が場所不明。大西隊の河内と同じか。

C09084791900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0180・0181

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:薩肥国境 我軍総員:貳拾四名 

  戦闘ノ次第概畧:六月七日正午一半隊ヲ攻襲偵察トシ城山ヲ下リ平野尾山

  及ヒ二ノ坂ニ至レハ賊逃走進撃シテ長嵜山ニ出テヒシガヒ街道鬼神山辺

  酣ナルヲ見テ榎谷村ニ下リ平石村ニ登レハ日ハ西山ニ沒シ山嶺凹凸ノ地難

  辯故ニ鬼神山南方ヨリ縣堺ニ沿フヲ平石村ニ道シ哨兵連絡ヲ保ツ此日大勝

  利

 不明地名が多い。城山は久木野の北西側の山城跡である。

C09084791800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0178・0179

  第三旅團歩兵第拾聯隊第三大隊第壱中隊長陸軍大尉滝本美輝㊞

  戦闘月日:六月八日 戦闘地名:小河内村 我軍総員:百十九人 

  戦闘ノ次第概畧:午前第九時攻襲偵察トシテ大堺哨兵処ヲ発シ小河内村

  テ進軍終ニ小河内村ニ進入村内ヲ捜索スルニ賊モ人民壱人トシテナシ此日

  深霧曽テ遠望不能漸ク正午第十二時頃ニ至リ聊カ霧ヲ散シ大凡同処ヨリ六

  七百米突前面ノ山上ニ賊塁ヲ設ケ防守スルヲ認ム彼我共砲火盛ニス彼レ大

  砲ヲ発ス午後第二時頃引揚ノ命ニ依テ従前ノ地ニ復ス

  我軍ニ獲ル者:弾薬 スナイードル 五百発入 壱箱

 後日、大口の山野村に官軍が進軍した際も住民は隠れていて誰もいなかった。村から薩軍に従軍した者もあり、官軍に罰せられることを恐れたのである。

C09084792000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0182・0183

  第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月八日 戦闘地名:薩肥国境 我軍総員:九拾三名 

  戦闘ノ次第概畧:六月八日久木野城山砲台ヨリ薩肥国境マテ攻撃ノ命アリ

  直ニ進軍賊前日ノ敗レヲ以大口ノ要路ヲ指シ潰走ス依テ道路遮キル者ナシ

  午前第八時三十分於同所前日発程ノ攻襲偵察ノ一隊ト合併夫レヨリ歩哨配

  賦連絡防禦シタリ

  備考我軍:此日死傷ナシ

  

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 5月 ※少しずつ筆を加えて絵を完成させていく感じです。片隅から描くことができないので。

  5月5日、第三旅団は直前に第四旅団の一部を吸収合併していたが、その26個中隊は本拠を馬見原(厚東中佐)に置き、新町(古田少佐)・高森町(大島少佐)・上色見村(坂本大尉)・黒川村と大津町と下市村と村山村(友田少佐)・下色見村(川村少佐)に部署を割り振った。4月19日時点では安満隊は川村少佐に属していたので、そのままだとすれば安満隊は下色見村が配置先であろう。色見村は阿蘇五岳の一つ、高岳の南東麓にあり高森町の北側に位置する。

 5月6日薩軍熊本県南部の人吉や熊本県境に近い宮崎県江代に移動してしまったことが判明し、三浦は総督本営に建議した。

  方今一旅團ノ兵員ヲ舉ケテ高森地方ニ置クト雖モ曾テ攻守ノ用ヲ成サス且

  ツ三田井口ノ如キハ既ニ熊本鎭臺ノ分屯アリ更ニ向フ所ヲ定メ賊衝ヲ突ク

  ニハ若カス

 本営もこれを認め、三浦は「高森地方ノ諸兵ヲ収テ熊本ヨリ八代ニ至ルヘシ馬見原ノ分遣兵ハ便路八代ニ至レト」命令し、第三旅団は東向きの進軍方向を南西方向に変換することとなる。7日、軍団本営は夏略衣について雛形を示して通達している(「西南戰袍誌」pp.56)。

 8日時点の新たな守地は熊本県宇土半島基部付近の隈庄・宇土町・松橋である。安満隊は大島少佐に属して他の6個中隊と共に宇土町に配備された。

 5月9日、八代の牙営で別働第二旅団の山田顕義少将、別働第三旅団の川路利良少将と会議したが、その際、川路が水俣口の戦況不利を語り、翌10日、三浦・山田は再度協議し、第三旅団の10個中隊を水俣口救援の先鋒として翌朝派遣することを決めた。この日、第三旅団の兵卒以上の人数は3,460人だった。11日第三旅団先鋒を乗せ、汽船貫効丸は八代を投錨し水俣に向かった。

 貫効丸は1869年英国で製造した318トンの木造蒸気船である。1時間に24kmの速度を出せた(単行書・処蕃類纂・会計 単00786100アジ歴)

f:id:goldenempire:20210629180427j:plain

  過刻御面該之後只今寛功丸水俣ゟ到着第三旅團士官帰来承候得共別動第三

  旅團ゟ山野江差出有之候兵隊も昨朝賊ゟ襲来セラレ遂ニ石坂迠引揚其後陸

  續襲来此度者余程多分之賊勢ト相見申候都合ニ依而者出水江出張之兵も引

  揚可申支議通報有之然而者先刻弐中隊丈ケハ水俣近傍ニ残置候様可相達ト

  申上直ニ其侭相達候得共右之仕合ニ付弐中隊ヲ水俣ヘ残置候得者必☐出水

  ハ引揚可申ト存候何分一且官軍之入込候地ヲ容易ニ賊有トな須樣ニ而者大

  ニ人心之帰向ニ関係シ自カラ威令も不相行樣可相成と存候間兎ニ角出水ハ

  固守致様申遣進候ニ付御地滞在兵之中今弐大隊至急彼方江出張相成候様御

  指揮可被下候之此段申進候也

  五月十一日       三浦少将

             山田少将 (※ニ段表示できない)

  山縣参軍殿

 

    第三旅団はこのあと佐敷・水俣にまたがる大関山周辺に一ヶ月前後展開し、ここを舞台に薩軍と戦闘を繰り返すのだが、第三旅団が現れる前の大関山の状態を振り返っておきたい。

 5月3日、川路少将の別働第三旅団は一小隊を大関山に配置したのを始め、石坂口・大河内と古里・寒川村の八切嶺・猩々坂・久木野村に部隊を展開した。大口方面の出入りを抑えたのである。4日、大口西部の山野村などの薩軍を襲って占領し、5日後続部隊も山野に進んだ。6日、大口に向かって進軍したが牛尾川で薩軍が迎え撃ち、官軍は山野村に下がって守備をした。8日、薩軍大関山・八切峠・大河内村に来襲し、官軍は日当野に退却して守備を配置した。10日、官軍先鋒の山野村が襲われ、官軍は水俣市深川村の高岳・金毘羅山・中尾山に退却した。11日、高岳・深川街道・深渡瀬・金毘羅山・矢代山などが襲われ16日まで戦闘が続いた。その間の12日、大関山から北に延びた尾根の東側にある大野村を本営とした薩軍佐敷町まで襲来した。この時点で薩軍大関山と北側に続く約10kmの尾根(掃部越・札松峠等)を占領していた。

 上記の文書は、薩軍の攻勢が続くので、5月11日、第三旅団の三浦少将と別働第二旅団の山田少将が陸軍の山縣参軍に二大隊の出兵を要請したものである。上記の報告は一例だが、このような書面が頻繁に行き来したのである。幸いに今、これらを見ることができるが、ネットやデジタル時代の現在の情報が将来どれほど残るのか心配になる。

 水俣に第三旅團5個中隊を運んだ貫効丸は11日午後もしくは12日に八代に帰り着き、その日の午前3時三浦以下はこれに搭乗して八代と水俣の中間にある佐敷に移動した。この12日朝、佐敷東方の鉾野峠や佐敷中心部に向かって薩軍の襲撃があった。その薩軍は人吉方向からではなく、南東側から出発している。背後には後々戦闘がある札松峠や大関山、国見山がある。第三旅団は到着したばかりだったが、古田中佐の2個中隊が佐敷駐屯の別働第四旅団に加勢し撃退に成功した。

 「戰記稿」によると、この12日の薩軍の攻撃は鵬翼隊約300人が鉾野峠南東3,8kmの祝坂方面から三方向に分かれて官軍を襲撃したものだった。一手は桑原・田川の哨兵線を、二手目は兼丸山を襲いこれらが佐敷の町中に迫ったのである。兼丸山の位置は同名の中世山城跡から推定すると、宮浦川と佐敷川の合流地点の北東側に突き出た尾根の先端付近であろう。もう一手は塩汲山の麓から松生峠という恐らく鉾野峠の東側であろう場所を襲い、続いて鉾野峠に襲い掛かった。この日、薩軍は明け方の暗いうちに出発し、戦いは午前8時に薩軍の退却により終わった。この方面攻撃の薩軍は本拠を祝坂の南1kmの大野村を根拠地にしていた。

f:id:goldenempire:20210630073410j:plain    12日、大口から水俣に川路の旅団が退却してきたので、水俣は約二千の兵となり第三旅団の存在は過剰に思えたので佐敷に退いて水俣と佐敷の中間の空虚を埋めることにした。

 第三旅団の水俣派遣兵を佐敷に引き揚げる命令を水俣に派遣されていた揖斐大佐に伝えるため亀岡少尉試補が12日、水俣に着き、川路少将に伝達している。しかし、鹿児島県大口から水俣に退却してきた川路旅団は弱々しかった。

  水俣の景況は警視隊一たび山野に敗れし以來畏縮振はず、既に深川村も奪

  れ現に水俣背後の矢筈彌次郎兩山に在て僅かに敵を支へ、陣町の如きは往

  々彈丸の達する距離に敵あり恟々とし輜重糧食の如きは汽船に積載し一歩

  を誤らば悉く海に投せんとする勢なり、故に強て警視隊の請求に依り先着

  近衛、鎭臺兵の若干を防禦線に出だして援助せしむ警察官の云ふ所は我等

  既に賊の悔慢する所となり、如何ともする能はず只黄帽鎭臺兵を指すの影を

  視するのみにて足れり赤帽兵の如きは望外の賜ものにして實に蘇生の思ひ

  あり或は・・(「西南戰袍誌」pp.59・60)

という状態だった。川路は揖斐が佐敷に帰るのを強いて止め、その説明の使いを三浦のもとに遣っている。

   16日の第三旅団守線は以下のようである。右翼(津奈木川ヨリ中尾村ヲ經テ上木塲ニ至ル)・中央(上木塲ヨリ石間伏ヲ經テ豊澤ニ至ル)・左翼(桑原ヨリ鋒野峠異体字山ヲ内線トシ大尼村ノ岐路ニ至ル) 

 当時、第三旅団は歩兵19個中隊・工兵4分隊・砲兵2分隊があり、この内から内藤少佐を司令官として4個中隊を上木場に配置している。中央の豊澤(後出の「熊本県の地名」では、1875年に長崎村と豊尺村・楮ヶ迫村が合併し丸山村になっている。豊尺のことか。下図の大関山の北北西約5km付近だろう)と中尾村が場所不明で大尼村は大尼田村である。右翼は川路の別働第三旅団と連続していた。

f:id:goldenempire:20210630105531j:plain

 5月18日、薩軍が上木場を襲撃した。

  午前十時久木野ノ賊凡ソ二百餘砲二門ヲ以テ第三旅團上木塲ノ守線ヲ襲フ

  我兵直チニ應戰ス賊更ニ兵ヲ增シ來リ迫ル乃チ若干ヲシテ大關山ニ迂回セ

  シメ賊ノ側面ヲ擊ツ午後七時彼レ少シク退ク我兵追擊夜ニ入テ兵ヲ収ム

 第三旅団は芦北町上木場に進み、南側下方の水俣市久木野を臨んで守線を張っていたのである。久木野は大口と水俣市街を結ぶ水俣川支流域の集落である。明治時代の地図平凡社の「鹿児島県の地名」『日本歴史地名大系』附録地図)を見ると久木野を通る北西から南東へ続く山道が主要道路となっているようであるが、この道は戦国時代や安土桃山時代にも使われている(「上井覚兼日記」)。後日出てくることになるが、第三旅団は小川内を通り鹿児島県の山野村に進軍しているのである。上木場集落は左に大関山を控え、後方には三十丁坂の要所があり、右には水俣の諸山と対峙する重要な場所の集落である。

f:id:goldenempire:20210727163321j:plain

この時は官軍守備範囲には大関山は入っておらず、西側の上木場集落が襲われた。この戦闘にかかわったのは歩兵5個中隊で494人だった。戦死2人・負傷17人。再び翌19日午前10時、上木場は正面からというから南側から襲われ午後6時官軍は三十丁坂に退却した。地図では三十挺坂とある。

f:id:goldenempire:20210706121722j:plain

 この19日の安満隊の戦闘報告表が存在する。表は下図だが、抜き出して記述内容を掲げておきたい。

   C09084784000「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」0017・0018

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸愛 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:長左エ門釜

  戦闘ノ次第概畧:士官壱名三分隊ヲ引ヒ分進シ長左門釜ニ至リ其地勢タル

  ヤ前後渓谷ニ樹木繁茂更ニ展望ナク一線ノ道路ナルアル而已時ニ午前第十

  時賊兵凡ソ三百余突然前面左翼ヨリ襲来ス遂ニ我隊利アラスシテ退却ス

  我軍総員:四十三人 死者:下士卒貳名 傷者:下士卒三名 

  生死未明:下士卒壱名

 43人は三分隊の人数である。

f:id:goldenempire:20210630220825j:plain

f:id:goldenempire:20210630220933j:plain

 19日の戦闘報告表は他にもあるので掲げる。

C09084784100「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0019・0020

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第一大隊第三中隊長心得 井上親忠㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡上木塲村 我軍

  総員:73 傷者将校1 下士卒7

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時頃賊兵進擊ス因テ死力ヲ尽シ之ヲ防クト𧈧モ

  衆寡支エ難ク終ニ午後第五時頃上木塲村ノ后方ノ山ニ引揚ケ之ヲ防ク

 

C09084784200「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0021・0022

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 矢上義芳 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:上木葉村出ノ山 我軍総員:95 傷者 

  下士卒5 生死未明 下士卒2

  戦闘ノ次第概畧:十九日賊大ニ兵員ヲ増加シ左翼ニ在ル諸中隊ヲ衝突シ后

  チ敗走賊益進撃我隊ノ背后ニ出テ挟撃ス我隊防戦之ヲ務ムト𧈧モ勢ヒ支フ

  ヿ能ハス三十丁坂ニ退キ防戦

 

C09084784300「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0023・0024

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:肥後國芦北郡古石村ノ内境石 我軍総

  員:105 

  戦闘ノ次第概畧:午前第十一時安満大尉ノ隊ヘ援隊トシテ肥後國芦北郡古

  石村ノ内長左衛門釜ヘ進発大ニ苦戦午后五時三十分境石ヘ退却同處ニ於テ

  留戦直ニ大哨兵ヲ備フ (※境石は場所不明)

C09084784400「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0025・0026

  第三旅團近衛歩兵第貳連隊第壱大隊第三中隊長 陸軍大尉大西 恒㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:上木塲長左衛門釜 我軍総員:147 

  死者:兵卒4 傷者:将校1 伍長1 兵卒14 生死未明:伍長2 兵卒6 

  人夫2

  戦闘ノ次第概畧:五月十九日午前第五時発裡ニ而當中隊山田中尉引卆ニ而

  為大斥候上木塲ヘ出張然ル所長左門釜敗走ノ越(※趣のつもり)ニ而直ニ為

  援隊出張午後第四時過迠防禦終ニ戦破ス亦直ニ上木塲ヲ防禦ス

 長左衛門釜の場所は不明。「戰記稿」の19日の記述から検討する。

  十九日午前十時賊又上木塲ヲ侵シ正面左翼ヲ猛擊ス我兵奮激必死格鬪スレ

  ノモ彼益〃兵員ヲ增シ勢頗ル猖獗我兵最モ苦戰シ午後六時遂ニ退テ三十丁阪

  ノ上ニ據リ力ヲ竭シテ之ヲ拒ク(※この日の戦死14人・負傷59人)

 

C09084784500「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0027・0028

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第四中隊 曹長神尾一信㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:大関山 我軍総員:95 死者:下士1 

  兵卒7 傷者:中尉1 少尉2 下士9 兵卒13 生死未明:下士1 兵卒3

  戦闘ノ次第概畧:午前第十時頃ヨリ賊我撒兵線ニ向テ襲来ス我隊賊ノ☐☐

  翼ヲ撃チ大ニ戦ヒシカ后ニ至リ賊ノ勢ヲ増依テ必死防戦ノ術ヲ尽ストノモ遂

  ニ防守スル能ハスシテ上木塲村ニ退却ス三十峠ニ防禦線ヲ定ム

 5月19日午前十時に開戦し、正面(前面)左翼からの攻撃を受けたことは安満・神尾の戦闘報告表と同じである。分かっている登場場所は上木場や三十丁坂である。その他不明場所も周辺にあるらしく、また大関山の西側地域のようである。

 平山隊は午前11時に長左衛門釜に応援に駆け付けているので、途中から参戦したのだろう。しかし、午後6時に退却し三十丁坂の上で防戦したことは安満の戦闘報告表にはなく、長左衛門釜と三十丁坂がそれほど離れた場所ではないのだろう。「戰記稿」は官軍が退いた先が三十丁阪の上だとしている点、長左衛門釜はそれよりも高所の尾根続きか。

 神尾隊は三十峠に退いているが三十丁坂の上り切った辺りだろうか。井上隊は上木場村背後の山で防いでおり、隊によって別の場所に分散して薩軍を防ぎとめたのである。他の隊の最終位置は分からない。下図にこの日の戦いに関する推定場所を示す。

f:id:goldenempire:20210707224549j:plain

 この件に関する薩軍側の記述を見ておきたい。「薩南血涙史」では5月20日の久木野の戦いとしているが、官軍の記録には20日に該当するものがないので、日付の間違いであろう。

  五月二十日

  官軍別働第三旅團の兵久木野に進入するの報あり、是に於て大野本營淵邊

  群平諸將を會し之を襲撃するに决し、兵を分ちてニとなし一は山路より一

  は正面よりす山手の先鋒は干城八番中隊(禰寝重邦)正面の先鋒は干城三番

  中隊(成尾)たり干城四番中隊(岩切)は山路の後軍たり、諸隊(諸隊の數明

    を欠く)薺く久木野に向かつて進發す、行々斥候を發して敵狀を偵察せしむ

  、斥候還り報じて曰く「敵合既に近し且つ山際に守壘あり」と、禰寝隊因

  て潜に兵を進め左右の山間に兵を伏せ漸く敵壘に近づくや一薺の發銃を期

  とし三面一時に衝入せしかば官兵一支にも及ばず塁を棄てヽ潰走す山路の

  切隊尋で又逼り共に追擊し進みて官軍の營を斬る、官兵兵仗を委棄して

  走る、此時正面の成尾隊及び其他の諸隊(隊號未詳)亦敵を敗りて來り會

  す此戰ひ僅々一時間餘にして大勝を得、銃器彈藥其他の物品夥多を獲たり

  、然れども此地守備の要地にあらざるを以て日暮大野に歸陣せり、

 5月19日(20日は間違い)、大野村には淵辺群平がいて官軍が久木野に進入したことを知り、久木野を攻撃することにした。この官軍は第三旅団である。戦場になったのは上木場や長左衛門釜であり、大関山の南麓にある久木野では戦いはなかった。薩軍は大野村から久木野村経由で大関山方面に向かったということである。

 官軍は上木場の本営を捨て、多量の武器弾薬が奪われたというが、戦闘報告表には奪われた記録は見られない。おそらく本営に集積していたものが奪われたのであり、各隊が戦闘中に奪われたのではないので、それぞれの戦闘報告表には記されなかったのだろうか。22日に戦況観察に来た第二旅団の報告があるが(後出)、それによれば死傷者の銃・弾薬が奪われたとある。「戰記稿」によると、この戦いで官軍側は死者13人、負傷者59人、失踪15人が生じている。「西南戰袍誌」によると官軍は歩兵6個中隊と3分隊、砲兵1分隊(山砲1門・臼砲2門)で計691人だった。他の諸隊(隊號未詳)とあるが、遊撃ニ番小隊の妹尾包道と財部實治の上申書に、この戦いに参加したとある。財部の該当箇所を掲げる。

  未明ヨリ大野村ヲ発シ上木場ニ着ス、双方台場ヲ築キテ互ニ応炮ス、因テ

  險山ヲ経テ官軍ノ横合ニ突出、縦横奮戦五六町追撃仕候処、官軍要害ヲ取

  リ一足モ退カス激戦時ヲ移ス、然ル処応援相続キ一層力ヲ得、其上小高キ

  岡ヨリ大炮ヲ連発スルニヨリ官軍防ク事能ハズ、台場ヲ捨テ引退ク、此日

  小隊長江口盛一戦死ス、外ニ手負数名、其夜野陣ヲ張リ翌日大野村ヘ帰陣

  ス (「財部實治上申書」pp.11~14『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』)

 18日に薩軍が大砲2門を使ったと「戰記稿」にある。大砲を使ったことは「薩南血涙史」にも載っているが、三日後の久木野の戦いの部分である。三日後も同所で戦いがあったというのは何かの間違いらしい。上申書では双方が台場を築いたとある。午前10時頃から午後5時頃まで7時間くらい続いた戦闘中にも台場を築いたのである。戦跡が残っているなら具体的な両軍の進撃場所が分かると思う。戦闘中の台場築造といえば、観音山大分県佐伯市と宮崎県延岡市では10時間くらいの戦闘があったが、攻めた側の官軍が進撃した尾根に、敵のいる方向を意識した台場を点々と残していて、官軍がどの尾根から登ってきたのかが判明したことがある(高橋2002「宗太郎越え周辺のできごと」pp.110~135『西南戦争之記録』第1号)

 西南戦争の戦跡を調査すると台場跡・休憩所跡の平場削り出し部などの遺構のほか、銃弾や薬莢・砲弾などが出土するのが一般的な在り方である。たとえば、大分県佐伯市椎葉山戦跡は薩軍が守っていた複数の台場を築いて守っていた陣地を官軍が一度だけ攻撃し、官軍が敗退した戦跡である。大分県埋蔵文化財センターが台場跡を測量し、周辺をあまり広くではなかったが金属探知機を使って遺物の分布状態を1点1点記録したところ、官軍が進撃した経路や、薩軍が台場群の前方に構築していた柵列の位置が浮かび上がってきた。戦記の記述を裏付ける具体的な調査例となったのである。

 椎葉山例を持ち出してきたのは以下の理由である。今後、考古学的な立場で金属探知機を使用し広範囲を調査すれば、大関山・国見山・長左衛門釜や上木場・掃部越・札松峠等々集中的に戦跡が分布する地域でも同様以上の成果が期待できると思われるからである。

 f:id:goldenempire:20210726194502j:plain

 大関山周辺で戦闘が行われた5月から6月以降は、薩軍が小銃弾として最適の鉛不足状態になっており、鉛に錫を混合した銃弾や、錫だけの銃弾を使い始めた段階である(高橋2017「西南戦争の考古学的研究」吉川弘文館

f:id:goldenempire:20210726195933j:plain

 広範囲に遺物分布を調べれば、官軍や薩軍の遺物が尾根の中で分かれて分布する状態が確認でき、戦闘経過を戦記と比較検討できるようになるかも知れない。ただ単に台場跡だけが戦跡ではないことを認識していただきたい。

 5月20日、上木場に対する薩軍の攻撃が盛んなので三浦梧楼少将は敵の勢いを分散させようとして大関山の北方にあるらしい札松越の攻撃を計画した。数年前、岡本真也さんと大関山や中尾山・久木野を歩いたことがある(岡本さんに問い合わせたところ、それは2017年5月27日であり、その際高橋が作製の四本杉台場跡位置図を持参していたことを思い出させてくれた)。ほとんど車で横付けできたのだが。頂上北半分は人手の入った木々に覆われ(自然林ではないということ)見通しが悪く、南半分は伐採されて空き地が広がっていた。広い上面には中継塔2基・大関神社・石室などあり。石室にはサザエと大型巻貝が奉納されていた。木々の間に北向きの長さ10mの台場跡が浅い細谷の谷頭にそれぞれ4基、別に東端に長さ32mの一直線の台場跡が一基あり、これの土塁部の高さは内部の床から50cmあった。大関山の頂上(どこが頂上か分からないくらい広い)には簡略な地図看板があり、札松峠や嘉門越の位置が描かれていた。絵地図のようなもので、およその位置が分かる程度である。札松峠は大関山から北に延びた尾根の先端近く、5km程先、市野瀬・祝坂の西側背後にあるとしていた。

f:id:goldenempire:20210707081912j:plain

    しかし、国土地理院の基準点検索によれば標高539.4mの三等三角点の地名が札松である。大関山頂上からほぼ北に3,5kmの地点である。ここからさらに北に4,5kmの付近が大関山の看板にある札松であり、本当はどうなのだろうか。昔の地名を調べるのに参考にしたことがある平凡社の「日本歴史地名大系」の『熊本県の地名』附図を見ると札松嶺があった(下図左)。

f:id:goldenempire:20210701230120j:plain

 地図の精度が違うので正確には比較できないが、ほぼ大関山の看板と同じ位置に札松がある。国土地理院の負けであろう。同書にはいくつか面白い記述もある。三十丁坂というのは豊臣秀吉が薩摩征伐の際通行した古道であり、彼が鉄砲30挺を並べて鹿狩りをしたことに由来するという。確かに坂の長さは1,1km程度しかなく、三キロ坂というには短すぎる。また、「かもん越」というのは1592年の梅北の乱朝鮮出兵の際に佐敷城を薩摩の梅北某が隙を衝いて攻め、結局失敗した事件)に際し、「何ノ掃部トカ云ル者」がここで討取られたため名付けられたという。同書にはまた、掃部越は長崎村から大野村方面へ抜ける間道があり、その大野側を「かもん越」と呼ぶ、としている。

 5月20日、「戰記稿」で久しぶりに安満隊が確認できる。

f:id:goldenempire:20210710213330j:plain

  廿日札松越攻擊ノ兵ヲ部署スル左ノ如シ

として15個中隊があるうちに、内藤少佐に属して安満の隊は粟屋中尉・弘中大尉の隊と共に交代予備兵となっている。

 部署表の侵略点(※攻撃目標)は札松峠掃部越である。攻撃兵の進路は「大關山右翼ヨリ迂回(※隊長は矢上・平山・大西・林・安滿・粟屋・弘中)」・「小平山ヨリ掃部越ヘ進ム(※弘中・堀部・横地・武田・沓屋)」・「梶ケ迫ヨリ野間越(※栗栖)」・「小平越ヨリ(※沖田・久徳)」・「矢筈山(※竹田・山村)」・「札松峠(※瀧本)」・「鋒ノ峠(※隊長名の記載なし)」の七つに分かれていた。不明地名は小平山・野間越・鋒ノ峠・矢筈山である。次は20日の「戰記稿」。

  午前三時四十分開戰賊壘數所ヲ陷レ札松峠茂リ越ノ要地ヲ占領ス已ニシテ

  賊又兵ヲ增シ來ル我兵奮擊再ヒ之ヲ郤ケ對壘砲射夜ニ入テ止マス

  茂リ越という場所不明の地名が出てくるが、後で触れる。この日の戦死は5人、負傷は27人だった。上記の各中隊には20日の戦闘報告表を残しているものがあるので、不明地名の解明を目指して見ておこう。 

f:id:goldenempire:20210702122143j:plain

 

    C09084784800「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所)0033・0034

  第十二聯隊第二大隊第二中隊長陸軍大尉沓屋貞諒㊞ 戦闘月日五月二十

  日 戦闘地名:丸山内獅迫  我軍総員:百五拾七人(※一人平均弾薬6,4発を発

     射した) 

       戦闘ノ次第概畧五月二十日午前第三時野津

  村ヲ出発シ即時矢筈山ニ至リ午前第七時歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊

  ノ應援トシテ半隊ヲ分派シ丸山内獅迫ニ進ミテ即時開戦午后第四時当所ヲ

  引揚ケ小平山ニ至ル而シテ費ス處ノ弾薬千発

 場所不明の野津村→矢筈山(虎石山か)→丸山内獅迫に進み開戦し、そこを引き挙げて小平山に至った。丸山内獅迫で応援したのは栗栖隊に対してである。同じ戦闘でも登場する地名が異なるいい例である。弾薬消耗も少なく、死傷者もいない戦闘だった。部署表の進路では梶ケ迫より野間越となっており、現在の地図には楮ケ迫と丸山が確認できる。矢筈山に到着後、丸山内獅迫で戦闘しているので、矢筈山には薩軍がいなかったと分かる。小平山も同様である。 

 もう一つ横地少尉(「戰記稿」では中尉)の戦闘報告表を見てみよう。小平山より掃部越へ進むと部署表にある工兵隊である。

f:id:goldenempire:20210702132154j:plain

     C09084784700「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」0031・0032

  工兵第二大隊第一小隊第貳分隊 少尉横地重直㊞ 戦闘月日:五月二十日 

  戦闘地名:虎石山 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時城迫村ヲ発シ第三時四十分百木川内村ヘ着シ

  夫ヨリ分隊ヲ半折シ一ツハ百木山ニ於テ塹溝并ニ鹿柴等數ヶ所ヲ所〃造築

  ス一ツハ虎石山ニ於テ塹溝ヲ築キ午後第九時比(※頃)百木川内村ヘ引揚ク

  我軍総員:将校以下二十名

f:id:goldenempire:20210705190512j:plain

 出発した城迫(虎石山の北西2km)から百木村まで谷間低地の2km弱だから40分は順調な経過時間である。そこで分隊を半分に分けて、一は百木山という背後の山だろう所に塹壕と鹿柴などを数ヶ所に築き、残りは百木村から北東に直線距離1,4kmの虎石山に塹壕を築いて百木川内村へ引き上げたという。百木山と目される尾根は大関山から長く伸びており、どの範囲に築造したのかは現地踏査が必要である。台場類を築いたのだから当然攻撃部隊がそこに進んだ訳である。

   大関山一帯の戦いは6月3日までのようである。25日からが明確でない。多数の中隊が参加し、それだけ多くの戦闘報告書を作製しているので、場所不明地名の考察は20日時点の史料で決め付けないでおこう。以下では戦闘報告表全体を掲げるのは数点にとどめ、戦闘地名や戦闘の概略などの基本的な部分だけを列挙して進めたい。確認したい人は出典を示すのでそちらを覗いていただきたい。

f:id:goldenempire:20210705163645j:plain

    5月20日の戦闘報告表、残りの物を続けて掲げる。総員の数字は現代風に改めた。

 C09084785000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0037・0038

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長 大尉瀧本美輝㊞ 戦闘月日:

  五月二十日 戦闘地名:布田松峠 我軍総員:126 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時半牛渕村ヲ発シ野々本ヲ経テ布田松峠ニ向ヒ

  進軍峠ヨリ凡ソ四百米突ノ山上ニ出ツ賊二三輩アレ共皆迯去セリ想像スル

  ニ展望兵ナラン☐アツテ賊発砲ス我兵モ之レニ應シ直ニ塹濠ヲ築塁警戒嚴

  ニス終日賊発砲不止 

 牛渕は5月12日に薩軍が襲った佐敷中心部の東方、八幡の南側600mくらいにあり、田川川の下流域である。野々本は不明だが、牛渕から上流に向かって細長い水田地帯があり、これを3,4kmほど遡り札松山の西方尾根から銃撃したものと思う。札松峠が標高327mの付近なら西側の尾根の適度の場所、標高289m地点からの距離は800mくらいある。そこからもう少し高い根元の方なら距離は600m弱である。現地踏査をして戦跡分布調査が必須だ。

f:id:goldenempire:20210705225618j:plain

   C09084785400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0046・0047

  第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉久徳宗義㊞ 

  戦闘月日:五月二十日 戦闘地名:矢筈山ニ於テ 我軍総員:28 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時四十五分山砲壱門ヲ頂上ニ備ヘ札松峠ニ在ル

  賊塁ニ對シテ射擊シ午后五時ニ至テ止ム 

 矢筈山という場所は大砲を置いて札松峠を砲撃できる環境、直視できる場所である。札松峠の南方から西方のどこかにあるのだろう。前出の瀧本報告にある札松から400m離れた山が候補地の可能性がある。

 次も5月20日の戦闘報告表である。栗栖は5月21日・22日、6月3日にも表がある。

   C309084785500「明治十年自五月至七月 戦闘告表 第三旅団」0047~0049

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第弐中隊長栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:五月廿日 戦闘地名:谷木塲山 我軍総員:104 死者:下士

  卒5 傷者:下士卒12

  戦闘ノ次第概畧:午前一時城迫村ヲ発シ兵ヲ☐メテ谷木塲山ニ攀☐三時四

  十分一薺ニ鯨波ヲ発シ賊塁ノ左翼ヨリ攻撃ス賊狼狽☐☐ヲ知ラス塁及ヒ廠

  舎数箇ヲ捨テ走ル我兵三方ニ向ヒ賊壘ノ側面ヲ射撃ス札松越ノ賊下射ヲ受

  クルヲ以テ射巨离内ノ塁悉ク捨テ迯ル我兵寡ナルヲ以テ穂平山ヲ尾撃セス

  同六時☐賊兵大ニ増加屡襲来ス我兵憤戦最モ勉ム彼レ遂ニ志ヲ得ス保平山

  (※穂平山)ニ退ク後チ互ニ塁ヲ築キテ防戦ス 

 城迫村は前日に瀧本隊が出発点とした牛渕村よりも3,7km谷底平地を南下し、薩軍に近づいた場所である。薩軍が占拠していないと判明し、滞在地を前進させていたのである。「戰記稿」では出張本陣とある。20日、栗栖隊は札松峠を占領したと記すが、他の報告には占領したとは記していない。札松峠は長い尾根全体を指す言葉で、その一部を栗栖隊が奪っただけという可能性もある。谷木場山という地名は栗栖だけが使っている。穂平山はすぐ後に出ている保平山と同じだろう。薩軍は札松越で上から射撃されたという。峠の一部でのことだろうか。官軍はそれを見下ろす山、谷木場山で留まったらしい。

 

 21日の「戰記稿」は「廿一日午前三時三十分大野村ノ賊又札松峠ノ栗栖大尉ノ守線ニ來襲シ刀ヲ揮テ我壘ヲ斫リ勢ヒ頗ル猛烈我兵奮戰半時間纔ニ之ヲ郤ク」と死傷者の表だけである。下記はその栗栖隊の戦闘報告表である。 

 C09084785600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0050・0051

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊長栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:五月廿一日 戦闘地名:谷木塲山 我軍総員:80 傷者:下士

  卒8 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時半頃賊徒急ニ火擊シ我堡内ニモ刃ヲ振フテ突

  入ス我兵憤戦屈セサルヲ以テ賊志ヲ得ス遂ニ四時頃退去後チ互ニ塁内ニ在

  ツテ射撃ス

  分捕:兵糧嚢   五箇  

C09084785700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0052.0053

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長瀧本美輝㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:布田松峠 我軍総員:百二十六人 

  傷者:二等卒西光藏

  戦闘ノ次第概畧:前日ヨリ賊ト對向シ昼夜発砲不止互ニ進退ナシ 

C09084785800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0054・0055

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長心得井上親忠㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:肥後國芦北郡上木場村 我軍総員:

  69 傷者:1

  戦闘ノ次第概畧:午後☐五時頃防禦線ニ在リ敵ノ流玉ニ中ル 

C09084785900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0056・0057

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第壱大隊第二中隊陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:肥後國芦北郡古石村 我軍総員:17 

  傷者:下士卒1

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時肥後国芦北郡古石村大哨兵中前面江斥候トシ

  テ壱隊差出ス 

C09084786000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0058・0059

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊左一小隊 中隊長大尉南小四郎㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:和久道石 我軍総員:四拾五名 死

  者:下士卒3・傷者:下士卒1

  戦闘ノ次第概畧:和久道山上ノ砲台防戦中午前四時ニ十分賊月ノ山影ニ入

  ルヲ幸トシ潜行突戦スルヲ拒攻撃遂ニ其賊ヲ走ラス然カレ𧈧ノモ我カ砲台ト

  賊塁ハ水平面髙尖ノ地理ヲ以菫カニ傷ヲ受クル者アリ  

C09084786100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0060・0061

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:熊本縣佐敷郡虎石山 我軍総員:

  139 傷者:下士卒4

  戦闘ノ次第概畧:昨二十日ヨリ引續キ對戦ス此日敵ノ切込ミヲ受クルト𧈧

  ノモ敵兵人少ナルヲ以テ瞬時ニ彼レヲ退却セシメ而シテ昼夜對塁シテ戦フ 

 「戰記稿」では死者が下士1・卒2で、傷者が下士3・卒11で、21日の戦闘報告表の死傷者の数を足すとその通りである。

 先日から官軍は札松峠周辺を集中的に攻撃している。上木場村の負傷者は攻撃時ではなく、流れ弾に当たっている。 

 5月22日の「戰記稿」にある部署表は次の五ヶ所である。掃部越ノ山續・掃部越山下長崎村邊ヨリ・札松峠ノ右翼・札松峠ノ左翼・矢筈山。どれも札松峠の南側か、南西側に位置している。この日の結果は次の通り。

  午前四時諸口薺ク進ミ右翼大關山ヨリ掃部越茂リ越アンノ峠札松峠牧士峠

  祝坂ニ至ル其延長三里餘賊ノ要壘數百所ヲ拔ク賊大ニ狼狽死屍兵器輜重ヲ

  委棄シテ去ル遂ニ進テ大野ノ賊巢ヲ覆シ尚ホ進ンテ鏡山ノ要地ヲ占領ス

 攻撃部隊の右翼の位置が大関山、そこから順にすでに場所の判明した掃部越・位置不明の茂リ越・アンノ峠(掃部越の西方に庵の山という地名があるのでこの付近だろう)・牧士峠・祝坂となっている。鏡山の要地を占領した件については下記の斎藤大尉の報告表に詳しい。

C09084786200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0062・0063

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第壱中隊長 陸軍大尉齋藤徳明㊞

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:(※空白) 我軍総員:145 

  戦闘ノ次第概畧:午前第七時城山ノ賊徒同山ヲ降リ襲来セリ直ニ開戦防禦

  ス賊徒再ヒ城山ヘ退去午后第六時休戦

  備考敵軍:廿二日午前第八時梅ノ木村出発午后第壱時鏡山着直ニ大哨兵ヲ

  配布ス同第五時津毛村ヨリ賊徒三百余各城山江出兵致セシ由土人ヨリ急報

  セリ爰ニ於テ鏡山ヘ配賦セシ大哨兵ノ半員ヲ引揚鏡山左翼後ノ小山江配兵

  城山ノ賊徒ニ備然レノモ兵員寡少ナルヲ以テ散兵ニ配布シ賊徒襲来ノ防禦線

  トス翌廿三日午前第七時城山ノ賊徒同山ヲ降リ我隊占據セシ鏡山左翼後ノ

  小山ニ發射(※?)シツヽ攀シ来ル故ニ直ニ之ニ應シ賊兵ヲ下射スル数十分

  間ニ乄賊徒退去シテ再ヒ城山ニ登リ同山ヨリ追々小山ヲ経テ大野村ニ迂廻

  セントスルノ勢アリ故ニ之レヲ防射スル甚シキヲ以テ賊徒其志ヲ達スル能

  ハス城山及ヒ近傍小山ヘ塹壕ヲ築キ防禦ノ備ヲナセリ午后第六時休戦同第

  十二時防禦線ヲ他隊ヘ譲リ鏡山ヘ引揚

 斎藤隊は22日午前8時、場所不明の梅ノ木村を出発し午後1時に鏡山に到着して大哨兵を配布した。その後、午後5時に地元民から薩軍約300人が城山に入ったとの知らせがあったので鏡山の哨兵半分を割いて鏡山左翼後ろの小山に配置した。鏡山の後方には尾根が続くだけであり、独立した峯は認めがたい。人吉に向かい山の北側を左翼とすれば、標高569m・547m・582mなどの小山が見られる。23日午前7時、城山にいた薩軍が移動して先の小山によじ登りながら射撃してきたが撃退した。しかし、薩軍はこの小山を経て大野村に迂回しようとしたが果たせず、また城山に帰って城山と付近の小山に塹壕を築いて防禦の備えをしたという。

 城山に該当しそうな山城跡を「熊本県の中世城跡」から探すと鏡山頂上から2,7km北側の標高421mに高尾城跡(芦北町大字告)という鏡山と尾根続きの山城跡があり、これが最も該当しそうである。鏡山左翼の小山も踏査して戦跡が見つかれば確定できそうだ。

f:id:goldenempire:20210709191422j:plain

 

f:id:goldenempire:20210709193410j:plain

C09084786300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0064・65

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊長大尉南小四郎

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:繁リ越口 我軍総員:四拾名 死者:

  下士卒壱名 ・下士卒壱名

  戦闘ノ次第概畧:午前三時和久道ノ砲台ニ整列隊ヲ四分シ開戦ノ期ヲ約シ

  直ニ繁リ越口ノ賊塁ニ向ヒ夜ノ明クルヲ潜ミ疾足突入開戦彼レハ不意ニ在

  テ狼狽ス我レ初発スル所山上二三ノ砲塁ハ瞬時ニ捨テ札松本道ノ大塁エ走

  ル賊踵ヲ跪テ肉薄疾戦殺傷相當リ終ニ諸塁ヲ我カ有トスル時既ニ五時三十

  分ナリ

 

C09084786400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0066・67

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊長大尉南小四郎㊞

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:繁リ越口 我軍総員:九拾五名 死

  者:下士卒壱名 ・下士卒壱名

  戦闘ノ次第概畧:午前三時和久道ノ砲台ニ整列隊ヲ四分シ開戦ノ期ヲ約シ

  直ニ繁リ越口ノ賊塁ニ向ヒ夜ノ明クルヲ潜ミ疾走突入開戦彼レハ不意ニ在

  テ狼狽ス我レ初発スル所山上二三ノ砲塁ハ瞬時ニ捨テ札松本道ノ大塁エ走

  ル賊踵ヲ跪テ肉薄疾戦殺傷相當リ終ニ諸塁ヲ我カ有トスル時即チ五時三十

  分ナリ

 南隊は和久道から出発し、繁リ越の敵を攻撃すると、敵は札松本道の大塁に逃げ込んだという。この順番に南から北へ続くのだろう。

C09084786600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0071・0072

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉甼田実賢㊞

  戦闘月日:五月二十貳日 

  戦闘地名:札枩峠 我軍総員:九十二名 

  戦闘ノ次第概畧:当日援隊トシテ札枩峠ノ賊塁ヲ攻撃ス同日手負戦死等一

  名モナシ

C09084786500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0069~70

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:五月二十二日 

  戦闘地名:加門越 我軍総員:百三十七 敵軍死者:四 ・傷者不詳

  戦闘ノ次第概畧:加門越ノ賊塁ヲ落スヘキ命ニ依テ午前第三時我中隊ヲ三

  分シ一ツヲ先頭トシ残ル二部ヲ援隊トナシ各銃劔ヲ装シ虎石山ノ塁ヲ越ヘ

  密ニ前進ス月ハ没シテ暗昏我彼ノ弾玉ハ頭上ヲ飛行シ荊棘(※棘は異体字

  ハ軍衣ニ纏テ行進ヲ害ス止テハ物音ヲ聞キ或ハ匍匐シテ進ミ又渓谷ヲ攀チ

  テ未明逆賊ノ首塁外部ニ接着猛声ヲ同発起立シテ塁内ニ突入連々放火ス援

  隊續ヒテ之レニ合ス賊兵狼狽塁ヲ捨テ走テ右翼ノ山背ニ據リ頻ニ発火スト

  𧈧ノモ保ツ能ハス忽チ敗走ス于時天漸ク明ケ我隊絶テ尾撃セス茲ニ於テ警備

  ヲ整フ

 かもん越を守っていた薩軍は台場を捨て右翼の山に移って反撃したという。谷間にかもん越があるという推定が正しいかも知れない。

 

C09084786700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0073・0074

  第三旅團工兵第二大隊第二小隊第二分隊 陸軍少尉藤冨五郎㊞

  戦闘月日:五月二十二日 

  戦闘地名:加門越 我軍総員:貳拾壱名 内十名不戦 敵軍: 凡三百名

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時百木河内村出発加門越山上ニ至リ防禦線。塹

  溝數十箇所ヲ築キ午后第六時長嵜村ニ止陣ス

    かもん越の山上とは、谷間を後ろにして防禦線は張らないだろうからかもん越の北側にある尾根に築造したのだろう。敵がいた方にも多数の遺構が残っているかも知れない。

C09084786800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0075~77

  第三旅團 大坂鎭臺歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊 陸軍中尉松居吉統㊞

  戦闘月日:五月二十二日 

  戦闘地名:肥後国足北郡平ノ山 我軍総員:九拾二名 内十名不戦 敵軍 凡

    三百名

  戦闘ノ次第概畧:明治十年五月二十二日午前第一時三十分穂木山ノ大哨兵

  ヲ引揚ケ長﨑村ノ山下ヨリ嘉門峠ノ右方平ノ山ニ向テ午前三時五拾分吶喊

  攻擊直ニ此ノ塁ヲ乗取リ尋テ笠木山ノ残賊ヲ逐擊同山ノ塁ヲ奪フ而乄従是

  大野泥メキノ両村江斥候ヲ出シ賊情ヲ探偵セシムルニ賊兵遠ク迯遁シ一人

  ノアルナキヲ還報ス於爰仮ニ哨兵線ヲ定メ命令ヲ俟ツ暫アツテ友田少佐来

  リ哨線改定サルヽニ付其位置ニ據リ塹濠ヲ設ケ固守ス此時弾藥五百余ヲ放

  分捕:銃三・弾薬千・糧拾四石三斗五舛

 

C09084786900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0078

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉堀部久勝

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:肥後国珠磨郡 我軍総員:百三十二

  名 

  戦闘ノ次第概畧:五月二十二日午前第三時三十分嘉門及ヒ小比良札松山ノ

  賊塁進擊ニ付我軍ノ右翼ヲ守備シ且ツ百木☐(焼?)上ケ山上ノ賊塁ニ対

  シ虚擊ノ命アリ之ニ依テ午前三時三十分兵ヲ分ケ山腹ニ伏セ諸口ノ闘ヒ始

  マルヤ火擊ス暫ラクニシテ賊塁ヲ捨テ去ルノ勢ヒアリ依テ捜索兵ヲ出シ續

  テ山上ニ攀登シ進ム賊塁ヲ捨テ走ル

 

C09084787000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0080・81

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠

  見

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:肥後国百木河内 小平山辻野 我軍総

  員:百二十名 敵軍:一小隊斗リ

  戦闘ノ次第概畧:本日午前三時三十分ヨリ小平山ノ上辻野ノ臺塲ニ向ヒ進

  擊五時比賊ノ臺塲二ヶ所ヲ乗取直ニ大関山ニ對シ防禦線ヲ定ム

  備考:敵軍・大関山又ハ鏡山ノ右ヘ敗走

 

C09084787100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0082・83

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:多門越口 我軍総員:百五拾人

  戦闘ノ次第概畧:五月二十二日午前第十二時小平山ヲ出発シ仝一時四十分

  嘉門山ニ至リ当所半服ニ隠匿シ午前第四時開戦即時嘉門山ヲ乗取ル我軍ニ

  獲ル者:弾薬三

  備考:放ツ處ノ弾薬五百發 分捕:一銃壱挺ハ短銃 弾薬五箱ハヱンピール

  弾藥 二百七拾発入箱ハミニーヒル弾藥五百発入

 多門越口はカモン越口だろう。小平山から嘉門山まで中間では戦闘がなかったので、隣り合った位置関係であろう。到着するのに一時間40分もかかっているのは、単純に距離を反映するとすれば2km位離れているのだろうか。官軍の攻撃開始時間は午前3時半(弘中隊→小平山ノ上辻野ノ臺塲に向かう・堀部隊はこの時間に兵を伏せて諸隊の攻撃を待った→百木☐上ケ山上ノ賊塁)・午前3時50分(松居隊→嘉門峠ノ右方平ノ山)・午前4時(沓屋隊→嘉門山攻撃)・未明(武田隊→嘉門越)とほぼ午前4時前後を記録している。したがって掃部越攻撃は午前4時前後に始まっており、その他の隊もこの攻撃に合わせて開戦するよう計画されていたのだろう。なお、「戰記稿」の部署表には弘中隊の記載はない。未明ないし午前5時半(南隊)頃には戦闘は終了し、弘中によれば薩軍大関山又ハ鏡山ノ右ヘ敗走したとあるが、鏡山の方に敗走したのだろう。  

C09084787200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0084・85

  第三旅團歩兵第八連隊第一大隊第二中隊 陸軍大尉沖田

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:矢筈山 我軍総員:八十七名

  戦闘ノ次第概畧:午前三時三十分ヨリ援隊トシテ矢筈山ヲ出発大野越ノ右

  方髙岳ニ至リ兵ヲニ分シ山上ニ配布シ一ハ大野村ニ向ハシメ一ノ髙処ニ兵

  ヲ停メ更ニ若干ノ斥候ヲ大野村ニ派出ス午後一時部署定リ塩浸村ニ至ル

 午後1時に到着した塩浸村は佐敷川の右岸にあり、札松峠などは左岸である。大関山から続く尾根全体から薩軍を追い払ったということである。佐敷川右岸の薩軍は驚いて浮足立っただろう。 

C09084787500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0090・91

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:谷木塲・穂平山 我軍総員:七拾六人

  戦闘ノ次第概畧:昨来塁内ニ在テ連戦屡賊ノ襲来ヲ防ク午前三時頃攻撃隊  

  ハ我塁内ヨリ道ヲ分ツテ穂平及ヒ札松越ニ進軍ス我兵此ノ攻撃隊ヲシテ安

  全ニ敵塁ニ近接セシメンヿヲ謀ル賊発射スルヿ他日異ナラス機ニシテ開戦

  我兵先一小隊ヲ出シテ之レニ連絡ヲ保ス先是一薺ニ鯨波ヲ発シ大ニ虚勢ヲ

  示ス賊遂ニ諸塁ヲ捨テ迯ル依テ穂平山ヲ占メ西ニ連絡ヲ保テ塁ヲ築キテ防

  守ス

 谷木場があって、その北側の左右どちらかに穂平山があるということか。谷木場は栗栖以外使用しない地名である。もしかすると他の人は別の名で呼んだのかも知れない。そうであれば、同じ場所に名前が二つあることになる。 

C09084787600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0092・0093

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長陸軍大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:布田松峠 我軍総員:百二十五人 

  傷者:将校1・下士卒5

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分前日滞陣ノ山上ヲ発シ布田松峠ニ向ヒ

  進軍賊街道ノ左右髙処要地ニ大小塁八個ヲ構ヘ一層嚴重警備ス我軍欲☐ノ

  銃ニ劔ヲ附シ中隊ヲニ分シ左右塁ノ際ニ潜寄リ塁ニ至リ皆一同ニ発擊銃劔

  ヲ以テ突入ル十分間ニシテ彼レ塁ヲ捨テ敗走セリ我軍左右ニ分レ賊ヲ逐フ

  ヿ凡ソ三町ニシテ散兵線ノ侭彼レノ復襲ヲ防禦セン為メ警戒ス 

  我軍ニ獲ル者:ヱンピール銃五挺・ヱンピール弾薬箱共 三箱

 前日の瀧本隊の位置は記録がないが、その前日20日は「布田松峠ニ向ヒ進軍峠ヨリ凡ソ四百米突ノ山上」にいたので、そこにとどまっていたのだろう。札松峠を攻めるにあたり中隊を二分し進んでいる点は直前史料の栗栖隊に似ている。

 5月19日から22日までの第三旅団の状況を調査に来た第二旅団作成の報告がある。開戦当初から一緒に行動していた第一旅団と第二旅団は5月5日、第一は熊本市神水に、第二は同じく砂取町に本営を移し以後別行動をとることになった。第二旅団は5月18日に八代に進み、次の史料は状況把握のため各地に将校を派遣していたその報告である。

C09084554000「雜書 明治十年五月中 第貳旅團」1062・1063

  廿二日☐☐傳令下士持帰ル

  五月二十二日

  第三旅團本営出張湯浦(佐敷よ里一里半)ニアリ之レヨリ南方古田村ト飛松

  村ノ問ニ高岡村湯浦ヨリ一里十丁)アリ同村ニ厚東中佐出張不在ニ付書記ヨ

  リ十九日以来ノ况景大略尋問左ニ記ス

  本月十九日午前第四時三十分頃上木塲近傍ノ山頂ヘ各兵配賦シ水俣ヨリ進

  軍ノ巡査ニ連絡ヲ定ム

  同日第十二時頃上木塲辺ヨリ賊兵拔釼襲来防戦スル不能古道村前方マテ退

  却直ニ隊整進撃スト雖モ前防禦線ニ進ムヲ下得退却直ニ一丁斗進ミ爰ニ防

  禦線ヲ定ム(古田村ヨリ貳里斗)現今山頂ニヨリ對塁ス然レノモ本日午後良地ヲ

  撰シ壹防禦線ノ変換アル由賊襲来之際死傷士官三名下士已下七拾六名ナリ

  同時山砲一門手臼砲一門小銃スナイドル六拾挺斗弾薬三箱奪レタル由小銃

  ハ豫備ニアラス死傷ノ者ノ由ナリ去ル廿日午前第三旅團惣進擊ノ筈ナレノモ

  右翼前日賊襲来リ為ニ進擊ナシ百木川内村出張ノ友田少佐ニ就テ尋問且ツ

  戦地目擊ノ件左ニ

  川村少佐内藤少佐(古道村)友田少佐(百木川内)古田少佐各一邉ノ指揮官タ

  リ一昨日拂暁友田少佐ノ手大進擊アリ今村ヨリ梶ガ迫シヽ迫迠進メリ左翼

  尤モ進ミタリ同所對塁此日友田ノ手死傷三十三名即死三名賊ノ弾薬貳箱小

  銃二挺分取シタリ

  大野村ハ賊根拠粮食ノ分配モ此ニアリ我戦列ヨリ目下ニアリ追々退クヘシ

  昨廿一日拂暁拔劔襲来リ南大尉ノ左小隊少シク退ケリ即死三名負傷一名官

  軍少シク狼狽ニ出ツルヨシ追々旧線ニ復シタリ

  一昨日以来賊鏡山ニ拠リ塁ヲ築キ人員モ多分ニ見エタリ

  三旅團ノ左翼ヤハズ山ナリ四旅團ノ右翼才ノ尾峠ナリ

  佐敷ヨリ戦列迠巨离ヤハズ迠壹里半余シシヽ迫迠貳里余上木塲迠四里半余

  ナリ

    十年

     五月廿二日      陸軍少尉佐藤当可※第八聯隊第三大隊第二中隊

                陸軍少尉試補岩根常重※第八聯隊第三隊第四中隊

 鏡山には19日から多くの薩軍がいて築塁していたとある。次は第二旅団の将校が第三旅団の厚東中佐から聞き取った情報である。

C09084554300「雜書 明治十年五月中 第貳旅團」1082

  五月廿二日

   厚東陸軍中佐ニ就テ尋問景况書

  一本日古田少佐友田少佐引率ノ隊ヲ以テ加門越札松峠進撃ノ目的ナリ午前

  第三時五十分進撃大関山ヨリ小平山加門越シゲリ越アンノ越札松峠牧士峠

  及ヒ祝坂ニ至ル迠其延長三里余ニシテ賊塁数ヶ所悉ク之レヲ取リ夫レカ為

  メ賊兵大ニ敗走ス進軍途上ニ賊ノ尸数十及ヒ銃器弾薬ヲ捨テ人吉ニ逃ル由

  尚又進軍大野村(営アリ(賊ノ本))ニ突入シ大小銃ノ弾薬四箱粮米八十俵

  余其他銃器等ヲ分捕更ニ進テ鏡山ヲ畧シ分遣隊ヲ派出シ同山ニテ賊ト相對

  ス進擊ノ際官軍死傷士官以下四十名程ノ由

  同日右翼内藤少佐ノ持塲進擊ナシ去ル十九日以来異条ナシ

 大関山ヨリ小平山・加門越・シゲリ越・アンノ越・札松峠・牧士峠及ヒ祝坂の順に南から北に並べているのか。場所不明なのは小平山とアンノ越、延長三里余とは13km位。地図上で大関山から祝坂まで尾根筋を辿っていくと10,5kmであり、ほぼ正しい。アンノ越は次にも述べるが庵の山という地名がかもん越の西側にあるので、この付近だろう。牧士峠の次に祝坂を並べているので、祝坂の手前にある尾根筋が牧士峠だろう。まきし峠と読むのではないと示す史料がある。

f:id:goldenempire:20210710103645j:plain

陸軍軍用電信「五月廿二日午前六時廿五分発」山田少将殿・三好少将殿:左敷三浦少将

 電文を漢字仮名混じりにしてみる。

今朝大野口進撃。右翼は大関山よりコヒラ山、掃部越、シゲリ越、庵ノ越(※庵の山というのが虎石山の北にある)、札松峠、マキ侍峠、祝坂に至るまで。その延長三里余にして賊塁数百ヶ所悉くこれを略取し賊大いに敗走す。屍数十及び銃器弾薬を捨てて逃る。なお進んで大野の本営に突入し大小砲の弾薬輜重等を取る。更に進んで鏡山を略し、分遣隊を置く。この段、御報知に及ぶ。    報知依頼 

 牧士峠は「まきざむらい峠」だった。賊塁数百なら今でもかなり残っているだろう。

f:id:goldenempire:20210710131306j:plain

 札松峠は5月22日に奪い、以後戦闘報告表に登場しない。札松峠や大野村から薩軍が撤退した件は、北西側で佐敷から人吉を目指していた別働第二旅団の戦線に少なからず影響を与えることになった。薩軍幹部の河野主一郎は生き残ったので懲役刑を受けた際に上申書を残している。「五月三十日大瀬村ニ退キ哨兵線ヲ張ル、蓋シ我左翼ニ連絡セル大野口敗レタルヲ以テナリ、」(「河野主一郎上申書pp.222~ 239」『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』)。日付は間違えているかも知れない。白木村・才木村の薩軍は背後を第三旅団に占領されたため、東側3km前後にある告(つげ)村に移動し、球磨川南岸の要地である屋敷野・箙瀬(えびらせ)薩軍も人吉側に移動し、別働第二旅団は人吉に向け戦うことなく若干前進した。  

  5月23日の動向を「戰記稿」から掲げる。

  廿三日上木塲口第三旅團ノ一部兵ハ守線ノ延長ニシテ兵寡キ(五中隊)

  ヒ明朝奮擊シテ前面ノ賊ヲ攘ヒ然ル後其方位ヲ固守セント欲シ竹下中佐ハ

  各隊長ヲ會シ其五中隊ヲ以テ線内ニ在テ徐ニ射擊ヲ行フ午後賊モ大砲數發

  ヲ放ツ

  賊ハ二十二日第三旅團ノ爲メニ大野ノ牙營ヲ陷レラレシヨリ專ラ力ヲ久木

  野ニ盡シ又兵ヲ分テ一ハ別働第三旅團ヲ中鶴ニ防キ一ハ山野大口ヲ扼守シ

  テ第三旅團上木塲ノ兵ニ備ヘタリ(賊將邉見十郎太池邊吉十郎是陣ニ在リテ指揮セ

   リト云フ)

 23日の戦闘報告表は存在しない。この日第二旅団が派遣した将校が第三旅団の哨兵線を目撃し報告している。

C09084554400「雜書 明治十年五月中 第貳旅團」1083

  第三旅團持塲左右翼戦闘線目撃ノ件

  右翼三十丁坂右ニ八連隊第一大隊佐々木大尉一中隊ナリ之レ右方警視隊ト

  連絡全ク絶ユルヲ以テ厚東中佐ヨリ水俣本営何ノ処迠進ミタルヤヲ尋問中

  ノ由ナリ三十丁坂之左ニ近衛隊一中隊其左ニ八連隊第一大隊矢上大尉ノ隊

  大関山ト相對シ(麓ナル由)夫レヨリ左長左エ門カマ山六連隊第二大隊石井

  中尉ノ隊ヲ以テ連絡ス続テ左方大嶋少佐友田少佐古田少佐ノ手ニ至ル古田

  少佐ノ左翼ハ第六連隊第三大隊栗林大尉ノ一中隊ト遊撃隊三好少佐并髙嶌

  少佐ノ手ヲ以テ連絡セリ右処山頂ニ拠リ堡壘ヲ築キ防守ス

    十年

     五月廿三日           武田中尉

    波多野少佐殿           佐藤少尉

    中𦊆大尉殿            岩根少尉試補                            

 佐々木大尉は右翼三十丁坂に、三十丁坂の左に近衛隊一中隊、その左に矢上大尉の隊が大関山と対す。それより左の長左衛門釜に石井中尉隊、その左に大嶋・友田・古田。古田の左翼は第六聯隊第三大隊栗林大尉の一中隊がいて、別働第二旅団の三好少佐・高嶌少佐の隊と連絡を付けた状態である。

 これから地理的関係を推定することが可能である。東ないし南東に向かい右から三十丁坂、その左におそらく尾根、さらに左にこれも尾根があり、大関山に正対しているらしい。その左に長左衛門釜があり、さらに大嶋、友田、古田の各隊が位置につき、第三旅団の最左翼に栗林隊がいたのである。これらを地図上に落としてみる。

f:id:goldenempire:20210713090951j:plain

 あまり自信がある配置状態の推定図ではない。5月19日の部分で考えた際は長左衛門釜をもっと西側の尾根に推定したのだが、今回とは異なってしまった。

 薩軍は官軍が大口に進軍するのを防ぐという消極策に方針変換せざるを得なかった。しかし、大関山やその東側の国見山からは薩軍が去ったわけではない。

    5月24日、第三旅団は本来の目的地である鹿児島県大口山野に向けて動き出したが、薩軍にさえぎられてしまう。「戰記稿」を掲げる。

  廿四日第三旅團ハ山野大口ノ賊焰ヲ撲滅セント午前三時開戰シ勇ヲ鼓シテ

  大關山ニ向ヒ直チニ長左衛門釜狐岩等ノ諸壘ヲ取ル頃クアリテ賊又反擊シ

  來リ池邊吉十郎ノ拔刀隊最モ善ク戰フ我兵モ亦善ク之ヲ拒クト雖モ新鋭ノ

  賊ニ敵シ難ク遂ニ略取ノ地ヲ退キ三十丁坂ノ舊線ニ據ル

 そして24日の戦闘報告表である。

C09084787800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0096・0097

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:五月二十四日 戦闘地名:肥後国芦北郡上木場村 我軍総員:

  65 傷者:下士卒3

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分頃攻撃隊山上ノ賊壘ヲ陥ル因テ我正面

  ノ賊塹濠ヲ保ツ能ハス退走ス直ニ尾擊要地ヲ占領ス然リト𧈧モ残賊猶左翼

  ヲ襲ヒ我兵利ナク終ニ午后第六時三十分比舊防禦線迠引揚ケタリ

  我軍ニ獲ル者:俘虜・下士卒一、銃一(協同隊兵卒)

 どこで戦ったのかわからない報告であるが、「戰記稿」からすると三十丁坂を出発し、長左衛門釜と大関山頂上を奪ったものの、薩軍の逆襲を受けて元の場所に退却したのである。 

C09084787900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0098・99

  第三旅團歩兵第八連隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳

  戦闘月日:四月廿四日(※五月) 戦闘地名:上木塲辺 我軍総員:87 

  傷者:下士卒3・軍属1

  戦闘ノ次第概畧:左翼ノ諸隊大関山及ヒ長左衛門釜攻撃ノ命ヲ蒙リ午前七

  時頃遂ニ目的ノ地ヲ占領ス依テ右翼ノ諸隊モ進テ曩ニ建築スル処ノ諸塁ヲ

  占ム然ルニ午后五時過キ賊兵進ミ長左衛門釜ヲ突ク我兵支ユル能ハス終ニ

  乱レ再ヒ三十丁阪ニ退キ防戦ス

 

C09084788000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0100・0101

  第三旅團近衛第二聯隊第一大隊第四中隊 中隊長代理中尉粟屋充藏㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:狐山 我軍総員:36

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時頃賊軍ノ右翼我軍ノ為メ敗走ス依テ我隊ヲシ

  テ狐山上ノ賊ヲ進擊ス賊塁ヲ捨テ﹅久木野街道ニ退散シタリ是ニ於テ我隊

  ヲ賊塁ノ左翼ニ向ハシメ塁ヲ隔ツル凡三百メートルノ巨离ヲシテ防禦線ヲ

  定メ賊ヲ狙擊ス午后第五時頃ヨリ我軍ノ左翼ニ襲来ス我軍☐☐☐又我軍ノ

  正面ニ向テ襲来我隊賊ノ側面ヲ乱射シ賊☐☐☐

 狐山という場所は薩軍の 左翼に当たるらしいと推定できる。大関山の頂上から南西に延びた尾根にゴットン石という名所がある。人が上に乗って移動するとゆっくり動いてゴットンとかすかな音がする岩がある。これを狐山と呼んだのかとも思ったが、後出の海軍本営探偵報告では狐岩という場所があり、両者が離れている絵図があるので、後で検討する。

 

C09084788100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0102・103

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長 陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:明治十年五月廿四日 戦闘地名:国見山・大関山両所 我軍総

  員:103 死者:下士1・傷者:将校1・下士2・卒11

  戦闘ノ次第概畧:明治十年五月廿四日午后第十一時石間伏村出発翌進擊第

  四時ヲガノ又村ヨリ国見山ニ向ケ進擊第四時三十分ヨリ開戦賊兵頗ル要害

  ノ嶮ニ據テ烈シク防禦スルヲ以テ速ニ進ムヿ不能依テ正午十二時頃ヲガノ

  又村ヘ引揚ケ再ヒ午后二時頃道ヲ轉シテ直ニ大関山ニ進入平山大尉隊ト合

  併防戦午后八時頃ヨリ漸々第二防禦線迠引揚ク

 ヲガノ又村は大野村の6km上流、大関山の北東2km、国見山の北北東2kmにある。ヲガノ又は大木を伐採するときに使う大きな鋸に由来し、山仕事が生業だったので村の名になったようだ。もう一つの国見山が大関山の尾根続きで南南東5.6kmにあり、はたしてどちらが戦記に出てくる国見山かわからなかったが、この記述により大関山に近い方がこの国見山だと確定した。 

C09084788200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0104・0105 

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:長左エ門釜 我軍総員:118 戦死:

  将校1・下士卒9・傷者:下士卒9・不明:下士卒3

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分長左門釜ニ突入賊徒散乱堡塁悉ク占領

  ス依テ兵ヲ纏メ防禦ノ法ヲ立ント欲スル際賊徒突然我隊ノ中間ヲ絶チ頗ル

  苦戦午后第六時ニ旧臺ニ引揚

 戦死した将校は古川治義中尉である。

C09084788300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0106・0107

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:五月二十四日 戦闘地名:肥後国芦北郡大関

  我軍総員:142 戦死:下士卒3 傷者:下士卒8生死未明:下士卒1

  戦闘ノ次第概畧:午前第十二時肥後国芦北郡古石村発軍同郡大入道ニ至ル

  午前第三時三十分開戦一舉ニシテ大関山ヲ乗リ取リ長左衛門釜等ノ賊ヲ☐

  ☐追拂ヒ即大関山ヲ占領シ直ニ大哨兵ヲ備フ俄然トシテ賊兵再ヒ同処ニ迫

  ル我兵奮闘以テ漸退却セシム午後第七時三十分本営ヨリ同処ヲ引揚大入道

  ノ臺塲ヲ固守スルノ命アリ依テ同時命ノ如クス 失銃:二挺・失器械:帯

  皮胴乱

  我軍ニ獲ル者:降人下士卒1・銃:ヱンピール三挺 弾薬:ヱンピール千

  発・器械:刀三本

 12時古石村発、大入道へ。15時30分開戦し一挙に大関山を奪い大哨兵を置くが逆襲により19時30分大入道に帰り台場を固守。大体は他の隊と同じである。 

C09084788400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0108・0109

  第三旅團工兵隊陸軍少尉 林 庸雄㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡上木塲近傍

  我軍総員:40

  戦闘ノ次第概畧:午前四時古道村ヲ發シ上木塲口ニ進ム仝七時比賊軍ノ右

  翼敗ルヽヲ見テ直ニ進撃シ賊塁三個ヲ乗取リ之ニ依テ守防ス仝十一時比歩

  兵隊ト交換シ塁ヲ退キ塹溝築設ニ着手シ凡十余個ヲ築ク午后六時比ニ仝處

  歩兵隊ノ退却スルヲ見テ仝ク退却ヲナセリ

 

C09084788500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0110・0111

  第三旅團大阪鎮臺豫備砲兵第二大隊第一小隊中央分隊長陸軍少尉野間駒㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡上木塲 我軍総

  員:15

  戦闘ノ次第概畧:山砲壱門午前一時三十分古田村ヲ発シ同三時三十分三十

  挺山着曩ニ建築ノ肩墻ニ侑ヘ仝四時ニ十分大島少佐ノ命ニ依リ放射ヲ始メ

  仝六時歩兵進軍ニ付仝官ノ命ヲ以テ放射ヲ止メ午后四時厚東中佐ノ命ニ依

  リ砲車ヲ退ク

 

C09084788600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0112・0113

  第三旅團近衛歩兵第貳連隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉 大西 恒㊞

  戦闘月日:五月二十四日 戦闘地名:長左衛門釜谷 我軍総員:122 死

  者:下士卒4 傷者:下士卒13 生死未明:兵卒1

  戦闘ノ次第概畧:明治十年五月二十四日午后第三時古道村ヲ発長左衛門釜

  谷攻進同二十四日午前第五時頃開戦ス直ニ臺塲攻取ス敵勢放走ス狐岩迠追

  討ス我軍大勝利然ル后チ長左衛釜谷ニテ防禦スト𧈧モ人少ニテ左翼迠連線

  行届兼終ニ敵勢突進シ☐不得止引揚引続キ上木塲ニテ防禦ス

 午前3時古道村出発、午前5時頃長左衛門釜谷で開戦。敵の台場を乗取り狐岩まで追いかけて大勝利。その後は長左衛門釜谷で防禦したが少数のため左翼まで守備できず敵が突進し上木場に引き揚げた。 

 久木野には狐岩の伝承がある。ただし、大関山付近のものではなく、久木野川沿いのきつね岩だが紹介したい。昼間多くの狐がその岩の上に寛ぎ、夜は畑を荒らしていたのである男が杉の葉で岩の周りを山のように覆い、水をかけて火を着けた。辺りは煙で覆われ、八日目にやっと消えた時、親狐が子狐を抱くようにして死んでいたので村人は可哀そうに思いお稲荷さんを祀り、毎月食べ物を備えた、ということである(久木野の文化を守る会「久木野の伝承」)。大関山の狐岩も似たような言い伝えがあり、祀られていたのかも知れない。

C09084788700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0114~0116

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊長 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:大関山 我軍総員:105 傷者:将校2

  ・下士卒16 生死未明:下士卒2

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分大関山ノ麓登尾ヨリ進ム諸兵静粛深林

  幽谷ヲ渉リ稍クニシテ敵ノ堡塁ヲ見タリ諸兵一勢ニ鯨聲ヲ發シ直ニ銃鎗ヲ

  以テ突進ス賊辟易塁ヲ捨テ脱ル尚進テ堡塁数ヶ所ヲ奪ヒ勢ニ乗テ大関山ノ

  嶺ニ至ル賊兵退散爰ニ於テ諸兵ヲ整頓シ防禦ノ策ヲ為サントス偶賊敗兵ヲ

  集メ必死右翼ヲ衝右翼ノ兵潰散スルヤ直ニ我隊ノ正面ヲ襲テ諸兵奮戦賊兵

  ヲ左右ノ谷ヨリ進メ左右側ヲ挟撃ス然レ共一歩モ退ス防戦ス遂ニ弾尽キ援

  散スルヲ以テ已ヲ得ス退テ背後林中ニ入ル日没迠防戦シ命ヲ得テ退却旧防

  禦線ニ就ク

  24日の戦況はどれも似た内容で、初めは官軍が調子よく薩軍の陣地を奪ったが、反撃されて出発地に退却したというもので、官軍の人数は戦闘報告表からは833人だったとわかる。死者18人(19人)・傷者68人(62人)・行方不明7人(0人)である。()の数字は「戰記稿による。

 24日の戦いには逸見十郎太・池辺吉十郎が陣頭に立っていたという両軍の記録がある。

  廿四日第三旅團ハ山野大口ノ賊焔ヲ撲滅セント午前三時開戰シ勇ヲ皷シテ

  大關山ニ向ヒ直チニ長左衛門釜狐岩等ノ諸壘ヲ取ル頃クアリテ賊又反擊シ

  來リ池邊吉十郎ノ拔刀隊最モ善ク戰フ我兵モ亦善ク之ヲ拒クト雖モ新鋭ノ

  賊ニ敵シ難ク遂ニ略取ノ地ヲ退キ三十丁坂ノ舊線ニ據ル (「戰記稿」)

 池辺の隊は反撃時に登場しているが、池辺がいたとは断定できない。逸見は見られない。

  此日の戰に賊將逸見十郎太池邊吉十郎陣頭に立ち部下を鼓舞督勵して大に

       努めたりと云ふ。 (「西南戰袍誌」pp.68)

  これも亀岡が目撃したわけではない。

  人吉方面ニ下ル途中江白ト云フ所ニ一泊シテ、人吉ノ鍛冶町ニ五日位滞在

  シ、田野越ヲ通リテ大口ニ達シ、大口ヨリ肥後ノ久木野ニテ丘ヲ挟ンデ辺

  見氏ノ指揮シ従ッテ官軍ト相戦ヒ、始メ我兵二十名位附近ノ絶頂ニ登リ官

  軍ヲ見下シテ之ト互ニ相戦ヒタルモ再ヒ逆襲サレ丘ヲ下ルトキ、余ハ官軍

  ノ小銃ノ為メ足ヲ傷キ匍匐シテ漸ク丘下ノ民家ニ倒ル。 (「西牟田休之進ノ談」『維新戰役従軍記』川内市史料集4 1974年pp.161・162)

 初め薩軍は20人位だったので退却し、反撃時に辺見が指揮したのであろう。記述が簡略で、池辺については触れていない。官軍の戦闘報告表を長々と掲げたので、「薩南血涙史」の5月24日の記述も掲げておこう。

    官軍大舉して久木野、山の神協同体(渕上幾)左小隊の壘を攻撃擊す、壘

     險なるを恃み守兵少し左小隊必死防戰スト雖も衆寡敵せず遂に敗る、右小

  隊來り援け左小隊亦辺戰し奮戰之を恢復せんと欲し戰ひ甚だ努む、敵間遠

  きもの五六間近きものは數歩に過ぎず戰ひ益々激烈に至り彈丸雨注砲聲山

  壑に震動す而して勝敗未だ决せず此地深林鬱蒼として全軍の景狀を知らず

  、既にして忽ち聞く周圍に喇叭の聲の起るを、協同隊大に驚き乃ち斥候を

  發して之を窺はしむるに曰く「諸壘皆敗れて官軍盡く此塁に集まる」と、

  是に於て矢竭き道窮まり援兵亦至らず兵士死傷するもの相踵き餘す所四十

  餘人に過ぎず、然れども衆皆進死の榮たるを知り死を决して一呼正面の敵

  を衝き之を擊破し四方を展望すれば官軍の重圍恰も蜘網の如く其層なるを

  知らず、衆相顧みて曰く「天吾輩を亡ぼせり」と、又死を冒して再び戰ひ

  本道を望めば一陣の塵埃起り一隊の兵殺到するを見る衆皆な曰く「敵又來

  る」と、漸く近づけば是れ乃ち熊本ニ番中隊(北村盛純)の來り援くるなり

  衆大に喜び初めて再生の思ひを爲し、相携へて本道に出づ、此時正義三番

  中隊(森元休五郎)破竹三番中隊(橋口龜助)は猪の嶽近傍に在りしが官軍

  久木野本營を襲ふの報を得倶に共に疾驅して之に赴き久木野の砲隊(坂元

    盛吉)又後装砲を以て救援せり斯くて邊見此敗報を聞くや大に憤り怒髪帽

  を衝き呼聲雷の如く四尺有餘の野太刀(此太刀は新納忠元祠に納めありし者といふ

   )を提げ自ら縦横に奔走し敗兵を整理し以て舊壘を恢復せんとし、砲三

  發を以て進擊を約し正義三番隊は背面より破竹三番隊其他の諸隊は正面よ

  り激しく進擊し奮鬪接戰して失ふ所の堡壘盡く之を恢復せり、此役協同隊

  最も苦戰勇鬪し令名益々盛なり死傷も亦協同隊に多し官軍の死屍三十餘を

  見、銃器彈藥若干を獲たり、兩軍死傷未詳。

 前にも述べたが大関山頂上には山の神神社がある。熊本の協同隊はその付近を守っていたのである。池辺率いる熊本隊も21日には山崎定平が率いて協同隊一中隊と共に久木野方面の守備をしていた記録がある(佐々友房「戰袍日記」pp.145)。同書24日の記述には

  廿四日池邊氏、深野、余、鳥居等各隊長ヲ率ヰ雉山ヲ出テ地形ヲ巡視シ遂

  ニ矢筈嶽ニ登ル云々

とあり、池辺は水俣方面にいたとあり、この日大関山にはいなかった可能性が強い。5月上旬から6月上旬に大関山の戦いに加わっていた薩軍正義隊某中隊長林一郎と分隊長服部喜壽の上申書がある(「林 一郎・服部喜壽連署上申書」『鹿児島県史料西南戦争第二巻』pp.871~876)。これもまた監獄で自分と仲間の記憶をもとに書いたので日付は間違えている。第三旅団が佐敷に来る前、大関山には警視隊が配置についていたが、5月8日大口方面から進んだ薩軍に襲われて放棄していた。引用する上申書はこの時点からの記録である。林らは大関山の南西側の深川付近にいた。

  然ルニ当方面ヨリ人吉ニ通融スル久木野村ノ脈道ヲ断テ官軍固守ス、時ニ

  五月廿三日頃ナラン、速カニ彼地ヘ繰出シ候様本営ヨリ報知アリ、即隊ヲ

  率テ久木野村ヘ到ル、是時味方ノ各隊モ追々繰込ミ翌日午前七時頃ヨリ進

  擊、自分隊ハ左翼ヨリ進テ本道ニ到レハ官軍要地数ヶ所ニ台場ヲ築キ固守

  ス、味方ノ総軍銃ヲ発シ互ニ烈戦時刻ヲ移シテ勝敗決セス、午后六時頃ニ

  至リ味方一同奮激突出シ、遂ニ官軍敗走、台場ヲ奪フテ味方ノ軍ヲ構ヘ、

  銃器・弾薬分捕夥シ此ニ自分隊死傷十一名、時ニ自分左小隊ハ本道ニ防戦ス、

  右小隊ハ山神ト云聳ヘタル山径一筋アル頂キニ台場ヲ築キ此ニ守兵ス、同

  廿九日頃未明ヨリ官兵突然声ヲ発シテ来襲フ、互ニ銃ヲ放ツテ戦フト雖ト

  モ遂ニ味方敗走、山ノ半腹ニ退ク此ニ自分隊半隊長服部喜之丞外ニ壱名戦死、然ル

  処午后五時頃味方ノ総軍旧地ヲ復セント烈シク戦フ、官兵辟易シテ敗走ス、

  直ニ味方ノ総軍進テ旧地ニ到リ防戦数日此ニ服部喜寿半隊長トナリ、時ニ六月

  十三日頃ナラン、官軍大ニ寄セ来リ勢ヒ烈ク遂ニ味方敗北此ニ自分隊死傷五名

  各隊岩井河内ニ曳揚ケ此ニ守兵ス、

 5月8日以後の大関山の戦いは19日・24日・6月3日だから、ここで廿三日頃ナランというのは19日であり、廿九日頃というのは24日である。そして最後が6月3日である。19日の戦い後に左小隊は本道に、右小隊は山の神に台場を築いて守ったという。本道とは山神ト云聳ヘタル山径一筋アル頂に続くその道であろう。薩軍は西側を向いた状態の台場を築いたらしい。

 海軍参軍の川村純義中将の本営に各地の探偵報告がもたらされている中に5月24日前後の佐敷・水俣方面のものがある。その中に大関山や札松越周辺を横から見た略図二枚が添えられており、記述内容もだが地名比定の参考にもなるので掲げる。小文字部分は原文では二行書きである。

C09082320300「明治十年五月以后 探偵書 海 参軍本營」0263~0269

      十年五月廿四日報知

  午前四時頃ヨリ第十三大區八小區内上木塲村ト申所ニテ同村ヲ挟ミ双方野

  山ナリ進擊賊兵破レテ後之山手ニ迯走ス此山萱立ニテ八名生捕官軍進テ賊ノ台

  塲ヲ取リ此ニ於テ交戦午后六時頃迠勝敗不决官軍死傷二十名程賊ノ死傷不

  詳御嶽望坂ノ賊未タ退ス官兵巧ミ通シ中尾山濱ノ町ヨリ二里位ニ進ミ泉ト云

  処ヘ賊胸壁ヲ築キ和銃ヲ携エ固メ居ル官兵陣坂ニ進ム久木野ノ賊仁五木村

  江出張ス官兵深渡瀬ニ進ミ矢ハズ山ノ賊未タ退カス官兵長﨑村ニ進ミ廿三

  日ヨリ休戦此日東京巡査千百人到着丸島ニ陳ス 

 以下原文では見え消しで訂正している部分は、そう表記できないので(   )に入れる。5行目から4行は水俣の戦況である。以下5行は球磨川沿岸地域のこと。

  一本月廿二日夜官軍心服(箙)瀬及神之瀬ニ進ム賊火ヲ放ツテ大瀬ニ走ル

   神ノ瀬ノ賊ハタカソ及大瀬ニ二分シテ去ル賊(凡)千人内三百位ハ熊

   本士族也ト云フ同廿三日朝タカソ山ニ進軍一時間程戦争賊即死一名生捕

   一名互ニ勝敗ナシ此日官軍上蔀ノ本陣ヲ心服(箙)瀬ニ移ス神ノ瀬ニ連

    給(絡)セリ山地中佐ハ神之瀬ニアリ

  一人吉市中ニハ賊ノ屯集少シ纔ノ兵徘徊スルヲ見ルノミ市中モ平穏ナリシ

   カ去ル廿三日頃ヨリ少々同様家物ヲ運フモノ多シ

  一五木越ニ戦争アリテ多數ノ手負ヲ人吉ヘ輸来大ニ混雑ノ体ナリ病院ハ寺

   又ハ町家ニ二軒アリ

  一廿三日人吉ノ帰路渡村ヲ過クルノキ賊百五十名計人吉ニ退ク此ヨリ告村ニ

   賊二百名計屯ス玉薬雷管ハ人吉九日町五日町ニ五ヶ所製造所ヲ設ケテ拵

   ヘ居レリ

  一八代間道球磨川筋清正公山ニ砲壘ヲ築キ二ヶ所一ヶ所ハ既ニ砲ヲ備フ又

   川下湊口ニ同断之亦砲ヲ備フ

  一大瀬村ニ賊丗名屯

  一一舛地ニ賊合議本陣ヲ爰ニ据ント此兵ハ大野神ノ瀬ヨリ退キタルモノナ

   ラン

  一告村ト川ヲ隔惣見山アリ賊百名屯ス此絶頂ニハ民戸十一軒アリ

    但惣見山ハ髙山ニシテ告村ヲ見下シ尤險要ノ地ナリ

  一米穀ハ鹿児島ヨリ人吉ニ運フ甚タシ

  一廿一日賊布達ヲ廻シ同所ノ士族元足軽ニ至ル迠呼出新ニ兵ヲ募ル銃ハ火

   縄筒ナリ

  一神ノ瀬口ニアル賊兵ハ肩ニ赤色ノ章ヲ附ス新募兵ナリ半ハ銃ナシ

      五月廿日報知

  一本月十八日五木谷椿村ヲ略取上(平)瀬ニ進ム賊走ツテトヲシニ止ル

   官兵死一人傷四人賊ハ死五人生捕二人十九日休戦

  一十八日十九日大河内村本陣箙瀬口ハ休戦

  一十八日十九日水俣口ハ深川ト深渡瀬トニテ對戦止マス

  一佐敷口ハ今朝開戦

      五月廿一日報知

  一本日午前五時頃虎石麓在屯之官軍江穂木平ノ賊渓間ヨリ五十名程拔刀ヲ

   以テ襲撃防戦直ニ賊敗レ穂木平ヘ走ル依テ官軍ハ虎石山絶頂ヘ進ミ同九

   時頃山頂ヨリ麓迠臺塲ヲ築キ穂木平並シゲリ之賊江向ケ砲撃其昨日動揺

   官軍ハ頻ニ発砲賊ハ稀ニ砲発ス

  一水俣口ハ久木野ノ賊四百名計井良之迫ト申所ヘ若干屯シ仁王木村ヘ硝兵

   ヲ出セリ十九日官軍之レヲ陥レ進テ其跡ニ硝兵ヲ散布シ同廿日中尾野近

   邉屯在ノ賊ヲ鬼ケ嶽ヲ進撃櫻之馬塲江進ンテ對陣 ※以下は蒲生隊の降伏文書

f:id:goldenempire:20210718231050j:plain

  21日の記述は虎石山・穂木平・シゲリなどの戦闘報告表にも登場する地名である。穂木平は櫨木とも表記されるものと同一らしく、漢字が難しかったのが原因か。この場所の国見山(大関山の東に同じ名の山が二つある)というのは他では見たことがない名前で、この図図から考えて掃部越の谷筋の北側にある標高324mの山だろうか。西斜面に庵の山とある山である。

 下図もこの史料の一部である。上木場背後の山から眺めた状態であろう。下木場というのは現在の地図にはないが、上木場の南西約1kmに陳越という地名が、谷川の西側にあるがこの付近に当時は集落があったのだろうか。図には守備線が三列見られ、手前のが官軍、他が薩軍と考えた。現地踏査すれば痕跡が見つかるかもしれないが推奨はしない。マムシ・マダニ・スズメバチに噛まれたり、迷って帰れなくなることもあり得るから。鹿・猪・アナグマ大関山とその東側の国見山の中間で目撃した)には遇うかもしれないが。

f:id:goldenempire:20210718232538j:plain

f:id:goldenempire:20210719105114j:plain

 24日、佐敷本営に山縣参軍・三好少将(第二旅団)が来て協議した(「西南戰袍誌」pp.68)。

 25日は第三旅団は左翼を球磨川南岸の一勝地村に延ばし、別働第二旅団と連絡を保つようにした。

 C09084788800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0117・0118

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊長 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:五月二十五日 戦闘地名:肥後国芦北郡古石村大入道 我軍総

  員:130 傷者:下士卒1 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時三十分肥後國芦北郡古石村ノ内大入道ニ於テ

  大哨兵ヲ布シ歩哨勤務中

 26日、第三旅団は左翼を鏡山口とし、右翼を上木場口と定めている。団の進路は大口方面であり、人吉ではない。

 この日、5月26日に長州出身の木戸孝允が病死した。当日午後2時5分、木戸孝允の死去を知らせる電報を熊本の山縣は佐敷の三浦に発している。漢字片仮名混じり文「木戸孝允今朝死去セリト山尾杉両人ヨリ報知アリ此段御報知申ス」を併記した陸軍軍用電信用紙が綴じられているが、意外にも電文にはキドタカスケとある。どういうことだろうか。タカヨシではないのか。山縣が自身で作文した電文であれば、そのままタカスケが正しいと思う。当時の人は一般にタカヨシと呼んでいて、それが現在に至ったのかも知れないが、木戸は山縣よりも4歳年長、三浦よりも11歳年長の同じ長州藩出身で互いに若く有名でない頃からの知合いである。実は出世する前はタカスケで、同じ藩の周りの者はタカスケと呼んでいた可能性もある。

 木戸は万延元年(1860)に水戸藩士と議諚書を作成しており、署名は桂小五郎の左に孝允と併記しているので、この頃までには孝允と名乗っていたと分かる(木戸公傳記編纂所1927「松菊木戸公傳 上」pp.73)。タカスケでは軽いと思いタカヨシと呼んだり、コウインと読んだりしたのだろうか。伊藤俊輔改め春輔が明治になると博文などと称えだしたので、木戸本人もその気になって途中からタカヨシと称したのかも知れない。しかし、山縣は三浦に対してはあえて昔の呼び名を電報に使ったのである。

f:id:goldenempire:20210712065437j:plain

 その後、5月28日三浦は熊本に行き(C09084891000)、29日午後八代着、31日佐敷に帰った(C09084891100・「西南戰袍誌」pp.70)。第三旅団は5月24日の大関山攻撃を最後にしばらく積極的に動かなかった。その訳は水俣で戦っている別働第三旅団の進軍状況に連動することと共に、別働第二旅団が人吉を奪った後に薩軍が鹿児島県内に退却するのを待っていたためと考えられる。別働第二の山田少将と頻繁に情報交換をしており、別働第三の川路少将からも逐次情報を得ており、あえてしばらく前進を止めていたようである。

 28日に5月24日の戦闘で行方不明になっていた安満隊の兵士が二人帰ってきたので、上官に報告している。

C09084811100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0567

  過日安満大尉ゟ戦闘報告表差出候後死生未明之者別紙届出書之通帰隊候条

  此段及御届候也

 

  五月廿八日   内藤少佐

  當口司令官殿

   参謀官御中

 

       二等卒 竹川民藏

       仝   森下源右衛門

  右二名昨廿七日午前帰隊候也

 

  拾年五月廿八日  陸軍大尉安満伸愛

 

   陸軍内藤少佐殿 

 5月24日不明になった3人のうちの2人である。残る一人はどうなったのだろうか。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 4月 

 4月3日、第三旅団は先日攻撃に失敗した鳥巣をまた攻撃する計画を作成した。

  第三旅團ハ有泉村ヨリ鳥栖村ニ進入ノ目的ヲ達スルヲ得サルヲ以テ四月三

       日参謀佐尉官ヲ各所ニ派遣シ攻擊ノ方略ヲ考按セシムルニ先鳥栖村ノ本

  道北田島村ノ臺地ヲ占領シ此處ヨリ正面攻擊ヲ盛ニシ而シテ後左右側ヨリ

  突入スルニ若カスト因テ三浦少將北田島村ニ進入ノ議ヲ决シ部署ヲ定メ方

  略ヲ授クル左ノ如シ(「戰記稿」)

 北田島口には安満中尉の第四中隊を含む5個中隊、援隊が9個中隊、別に山鹿駐在が4個中隊という割り当てを決定し、翌4日の攻撃計画は整った。        

f:id:goldenempire:20210621090434j:plain

4日、当初の部署により「田島口ニ向テ進軍シ已ニ岡山ノ臺ヲ領シ次ニ北田島村ノ賊ヲ掃攘シ方ニ南田島村ニ至ラントス」る。

  第十四聯隊日記ニ曰ク我カ第一大隊ノ右半大隊ハ久ク休戰連日諸衛兵ヲ爲  

  スニ過キサリシカ本日南田島進擊ノ令出テ午前一時山鹿ヲ發シ第一中隊ハ

  岡山ニ進ミ散兵ヲ左翼高江出分並ニ久米等ノ諸村ニ配布シ高江出分兩村ノ

  賊壘ヲ攻擊シ漸次進テ河ヲ渉リ力戰スレノモ賊壘高地ノ絶壁ニ據テ甚タ堅固

  加フルニ我カ進線平坦廣獏ニシテ占據スヘキノ地物ナク終日對戰終ニ目的

  ヲ達スル能ハス第二中隊ハ北田島ノ岡山ニ在テ一般ノ援隊タリ夜ニ入リ大

  哨ヲ岡山ノ左方ニ布ケリト(戰記稿)

 高所の南田島からの射撃を避ける術がなく、官軍は退却するしかなく、岡山の台に守線を布くだけで終わる。関係地図に等高線を強調して示す。岡山の台というのは田島(戦記では北田島として出てくるが)の背後に岡という地名があるところだろう。神社があるのでもしかすると戦跡が残っているかも知れない。高江という村の北岸に高江出分という村があるのは、高江の人が分村したのだろう。低い場所への定住は遅い。

 しかし、実際は南側の水田地帯にも歩兵が分布していた。

  防禦線を右翼寶田村より、左翼高井村の間に定め明暁を待て南田島を略し

  鳥の巣に入らんことを期す、(略)此とき、近衛砲兵は北田島に砲列を敷

  き砲擊するに、其彈丸屡味方の散兵線上近くに落下し、危險名狀す可らざ

  るを以て予は馬を馳せ砲列に至り注意せしに、小隊長曰く表尺は御覧の如

  く伸長すれども彈丸動もすれば其手前に落下するを遺憾とすと、是れ全く

  平常演習に使用せし火砲を携帯せしを以て、砲腔自然に膨張せし所以に因

  るならん(「西南戰袍誌」pp.39)

 宝田村は前図左部分にある。背後の岡山の台地から放たれた砲弾が、前面水田地帯に展開する歩兵の上で炸裂していたのである。青銅製の砲身は使い込まれると内側が削り取られて内径が大きくなり、砲弾が当初のようには遠くに飛ばなくなったのである。

f:id:goldenempire:20210618185310j:plain

 当時の小銃弾は1,000m位は飛んだし、300m弱位は狙って命中したので南田島の高い場所から射撃されれば中間の水田地帯を攻めていくのは明らかに不利である。それでこの日4月4日は岡山の台の左方、つまり東側に哨兵を配置することになった。

  五日第三旅團ハ昨日ノ戰既ニ北田島村ヲ占領スト雖モ賊尚ホ南田島村及ヒ

  佐野村ノ臺ニ據リ壁ヲ堅フシ溝ヲ深フシ遥ニ鳥栖村ノ本據ヲ護シ容易ク進

  ムヲ得サラシム而シテ南田島村及ヒ佐野村ノ臺タルヤ岡山村ノ臺ト對峙シ

  中間北田島村ノ凹處アリ地勢頗ル嶮惡此間凸道一二條ノ通スルアルノミ其

  左右ハ斷岸ニシテ攀援スヘカラス故ニ三浦少將諸將校ニ告ケテ曰ク之ヲ攻

  ルハ朝霧ニ乗シ壘下ニ達シ急遽吶喊銃槍戰ヲ爲スニ若カスト是ニ於テ進擊

  隊ノ順序ヲ定ムル左ノ如クシ午前四時三十分開戰ヲ命ス

 「戰記稿」の部署計画によると、右翼の進路は佐野台(南田島の西側)に向かい、左翼は援隊にあて、安満隊他一個中隊は中央隊で南田島の台に向かうとある。5日の攻撃は予定通り行われ、薩軍は不意を打たれて2km程南側の鳥巣の方に敗走した。安満の隊は当初南田島の台に向かう、という部署だったが、順調にいったので鳥巣まで攻め込んだものと考えられる。官軍は南田島から追いかけて鳥巣の本営を奪ったが、薩軍は村の東南端に踏みとどまった。その位置は二子山石器製作遺跡を含むかも知れない。台場跡を示す図を再掲しておきたい。

f:id:goldenempire:20210617154437j:plain

 4月4日、5日の戦いを薩軍側の記録で確認しておきたい。「野村忍介外四名(奇兵隊連署上申書」(「鹿児島県史料 西南戦争 第二巻」)pp.928~967当初からは山鹿方面を担当した野村等が戦後、監獄で書いたものであり、月日の記録は記憶に基づいているので間違いはあり得る。下記の前半は隈府についてだが、田島・鳥巣と連動しているので掲げる。

  二十三日田島ノ軍転シテ鳥ノ巢ヲ守ル、二十四日熊本々営ノ使高井(※高江

    のこと)ニ来リ令ヲ伝ヘテ曰ク、隈府ハ枢要ノ地タリ、今ニシテ取ラスンハ

  敵将サニ我ニ先ントス、敵若シ之ニ拠リ二重峠・大津ヲ控扼セハ我軍進退

  ノ障碍タラン、速ニ之ヲ拠守セヨト、乃、伊東・伊地知二中隊及ヒ中原五

  十郎・大山誠之介・佐土原藤吾・本田早苗・永井半之丞各小隊、熊本協同

  隊一分隊隈府ニ転シテ守備ヲ設ク、三十日近衛鎮台凡ソ二大隊ナル可シ来

  リテ隈府ヲ攻メ、一ハ背面ノ山上ヨリシ、一ハ新町街道ヨリス、我兵拒キ

  戦フコト数刻、佐土原隊袈裟尾原ニ在リ、地広ク兵寡ク塁間空疎百歩或ハ

  五十歩ヲ隔テ兵士五名或ハ七名ヲ以テ守ル、是ニ於テ官兵ニ囲マレ太タ苦

  戦タリ、佐土原曰ク、寡兵以テ大敵ニ当ル可ラス、然レトモ難ヲ見テ逃ル

  ヽハ丈夫ニ非サルナリ、諸子努力セヨト、奮闘砲丸ニ中リテ死ス、半隊長

  阿萬南八郎亦尋テ斃ル、此時救応ニ備ヘタル伊東ノ一小隊官軍ノ右翼ヨリ

  進テ横撃之ヲ走ラス、山上ノ官軍之ヲ見テ退軍ス、此日中隊長伊地知彌兵

  衛奮戦亦砲丸ニ中テ死ス、二十七日官兵鳥巢ヲ攻ム、我岡上ノ塁ニ在リテ

  之ヲ瞰射ス、已ニ十時ニ及フ頃突然岡ノ下ニ迫リ火ヲ民家ニ放ツテ去ル、

  本日熊本々営ヨリ野村忍介ニ命シ出張本営ヲ設ケ之カ長トナリ各隊進退ノ

  事ヲ司ラシム、翌日官兵暁霧ニ乗シ復鳥巢ヲ襲フ、正面ノ官兵平野・神宮

  司両隊ノ間ヲ衝突シ進テ最高ノ地ヲ占メ両隊ノ背後ヲ乱射ス、両隊ハ不意

  ヲ襲ハレ力ラ支フル能ハス、死傷ヲ顧ルニ暇アラス先ヲ争テ敗走ス、是ニ

  由テ正面ヲ守リタル各隊モ一戦ニ及ハスシテ散乱ス、官兵勢ニ乗シ益進ミ

  直チニ我本営ヲ乗リ取ル、時ニ野村・別府ハ本営ニ在リ、総軍ノ大敗ヲ見

  テ鳥巢ノ左翼植木守線ノ隊ニ馳セ、山口隊右小隊(小隊長徳尾源左衛門※この場

    合ニ段書きできないのでカッコに入れ小文字にするのは、前出例と同じ)ノ半隊・救応隊

  (小隊長大牟田佐太郎)ノ半隊・別府隊ノ左小隊(小隊長松元直之丞)・重久雄七

  隊ノ右小隊ヲ引率シテ旧塁ヲ恢復シテ雪ント、直ニ鳥巢ニ向テ進ミ民家ニ

  迫ル、官兵崖上ノ樹間ニ隠見シテ発銃拒戦シ飛丸霰ノ如シ、我兵激戦既ニ

  ☐ヲ移セトモ勝敗決スルノ色ナキヲ見ヤ、抜刀大呼肉薄シテ之ニ迫ル、長

  崎道義・瀬ノ口才蔵・鎌田左一郎・山下宗信各一分隊ヲ率ヒテ植木ヨリ来

  リ援ク、救応隊小隊長大牟田某・半隊長今村某身ヲ衆ニ先テ刀ヲ閃カシテ

  奮戦ス、此際ニ当リ縦横交闘両軍相弁スル能ハス接戦最励シ、官兵支ル能

  ハス一散ニ敗走ス、是ニ於テ総軍益々押詰メ先ヲ争テ進ミタルニ、中隊長

  平野正介・川久保十次・水間新七等敗兵ヲ集メ本道ニ在リテ激戦スルニ会

  シ、半ハ其正面ヨリ半ハ官兵ノ背後ヲ遮リ、平野等ニ力ヲ協セテ攻撃ス、

  官兵窮迫出ル処ヲ知ラス亦一時ニ敗レテ走ル、我軍愈勢ヲ得北クルヲ追フ

  凡ソ半里余、官兵止リ戦フ、時ニ神宮司半隊ヲ率ヒ植木ヨリ来リテ官兵ノ

  左翼ヲ衝ク、官ノ援隊亦来リ戦復猛烈ナリ、野村・別府策ヲ廻ラシ兵士二

  百名ヲ分テ二隊トナシ、両翼ヲ遶テ敵ノ中服ヲ衝カント、右翼ニハ徳尾源

  左衛門・吉村五郎兵衛一隊ヲ率ヒテ進ミ山口十藏・ 重久雄七之ヲ指揮ス、

  左翼ニハ竹添節・松本直之丞一隊ヲ率ヒテ進ム、川久保ハ此機ニ乗シテ中

  心ニ衝入ラント正面ノ兵ヲ励シ、挺前銃丸ニ中リテ深手ヲ負フ、時ニ日方

  ニ暮ル、両軍交モ塁ニ拠リ終宵砲戦ス、本日役一敗一勝頗ル快戦ニシテ官

  兵斃ルヽ者途ニ満チ、我軍小荷駄ヲ奪ハレ死傷二十余人ニ及ヘリ、

 3月27日のこととしているが、鳥巣が官軍に奪われ、同じ日に薩軍が取り返したのは4月5日の戦いしかない。薩軍は植木方面に援軍を要請し、官軍に逆襲して成功した。上申書の記述が4月5日のことだとすると、この日の薩軍の対応状況が詳しく分かる。

 安満の部隊はこの後しばらく登場しないが、「戰記稿」から第三旅団の動向を簡単に追いかけておこう。

 4月6日、南田島を占領したので、鳥巣に向かう手前の村を一つずつ奪いながら前進することにし、古閑村・上生(わぶ)村を取り、植木口との連絡を強化した。

 4月7日、南田島の北西側に位置する平井村と宝田村から古閑村を攻めて取り、古閑村の前面に防禦線を設けた。

 4月8日、第三旅団牙営を南田島村に移す。

 4月9日、鳥巣西側の石川村を奪おうとしたが、暗夜に道を迷って集合場所に来ない部隊があり、攻撃は中止となった。東側の菊池市では市街地隈府町を第三旅団の佐久間中佐(大津口)が率いる部隊が翌朝までかかって占領し、追い出された薩軍は半分は隈府の南西約3kmの広瀬村に、半分は南東約11kmの大津町に移動した。

 明治17年に「明治十年戦地事情書」という書類が野々島村から県令に提出されている。

               合志郡

                  野々島村

   明治十年三月十九日夜、賊軍ノ隊長(村田某或ハ別府某トモ申候)凡弐

  千余ノ兵士ヲ率シテ、当野々島村エ入込ミ滞留仕候。尤山鹿方ヨリ来リ同

  四月十五日午前四時比直ニ木山町ノ方エ引取申候。

  同二十日当村字西原・巡り・八反田エ出兵仕、何方モ数日炮戦御坐候エ共

  、勝敗ハ相分リ不申候。同四月五日未明ヨリ、官軍御進撃ニ相成賊軍敗走

  シ、大鳥居村ノ方エ引揚ゲ候ニ付、賊ノ兵器等官ヨリ御分取有之内賊軍直

  ニ獲カエシ切込ミ候ニ付、官軍一手ハ南田島ノ方エ、一手ハ山本郡古閑村

  ノ方エ御引揚ゲニ相成、此日ノ戦イ官軍数十人御打死御坐候。賊軍ノ戦死

  モ有之タル由ニ御坐候エ共、実否相分不申候。且又火ハ官ヨリ御軍用ノタ

  メ御掛ケ仕成候由、戦時間ハ未明ヨリ十時比迄ニテ御坐候。

   三月十九日ヨリ同四月十五日迄、野々島村字八ツ丸内ニテ、玉薬製造場

  一ヶ所、病院一ヶ所、炊出場九ヶ所、ニノ大小荷駄一ヶ所、四ノ大小荷駄

  一ヶ所、本営一ヶ所、元北村内ニ炊場二ヶ所、元東村エ五ヶ所、此分ニテ

  御坐候。前条ノ通、四月十五日午前第四時比賊軍木山町ノ方ニ引払イ申候

  由。当今ニ至リ年月相隔リ委敷儀ハ相分リ不申候エ共取調候処前条ノ通ニ

  御坐候。此段上申候也

               合志郡野々島村

   明治十七年四月二十五日 人民惣代 勝 田 茂三郎㊞

               人民惣代 中 光 正 時㊞

               右戸長  中 山 守 善㊞

   熊本県令富岡敬明殿  (pp.604)

 野々島村には薩軍本営が八ツ丸(八通丸)にあり、その他病院や弾薬製造所、炊き出し場、輜重担当などが置かれていたのである。

f:id:goldenempire:20210621135956j:plain

 上図は「西合志(こうし)町史」にある西南戦争図で、地名・道・両軍の陣地分布などが示されているので、現在の地図に陣地跡を写そうと思うが、地名の比較が難航しできない。地図の北部には両軍の台場がいくつも描かれているが、かつて台場跡を確認した二子山石器製作遺跡には陣地の印がない。下図は戦争図の主要な東西・南北の道筋を現在地図に落としてみたもの。大体こんなものか。八通丸にあったという薩軍本営は寺を利用したのだろうか。

f:id:goldenempire:20210621142604j:plain   上図の左は町史に描き写した地名・字境・台場・戦場だが、薩軍の台場は描き洩らしている

 4月10日、官軍は前日中止した石川村を再び攻撃したが失敗し、攻撃隊は古閑村と有泉村に退いた。石川方面攻撃の官軍は戦死36人・負傷80人だった。植木方面からも鳥巣を第一・二旅団が攻撃し、こちらは戦死8人・負傷21人だった。安満の第九聯隊第三大隊第四中隊は3月30日以降戦闘に参加していないのは、北田島での惨敗の影響が続いていたのだろうか、と思ったが実は守備線についていた。第三旅団本営附の少尉亀岡泰辰「西南戰袍誌」に「予は本日本營の留守居に當りしが午前十時頃に至り賊我空虚に乗じ板井弘生倉邊に來襲せんとする情報あり引續き弘生臺の安滿伸愛大尉の持場に襲來せりと報ず、此地は我背後に當り樞要の地點なるを以て司令長官大に憂慮し予に視察を命じ且つ極力防止に努むべく守備隊長に傳へよと命ず、直に馬を馳驅して戰場に至るに戰將に酣にして彈丸雨注さい乗馬して奔走する能はず、下馬して馬を攻擊反對側の樹蔭に繋ぎ、徒歩して高井出分に至り大尉坂本基柱少尉渡邊當次共に本營の派遣員等に協力して兵を督勵し防戰に盡力す、此地若し敗るれば本營の退路を遮斷せられ其危殆なる寒心に堪へざるものあり、幸にして防禦其効を奏し十二時頃に至り敵は徐々に退却ス、後ち聞く所に依れは隈府の敗兵其退路の安全を保たんが爲め一時之地を押へたるものなり云ふ然れども其攻擊の狀況猛烈にして唯一時の抑留策とは認め難きものあり安滿大尉は予の至るを見て切に應援の兵を出さんことを乞ふ、然れども予の受けし長官の命を傳ヘ且つ本營の近傍には僅かに本營を守護するに足る一二中隊あるのみなるを以て今應援を請求ふも到底不可能なるを以て獨立必死防戰あらんことを勸誘して請に應ぜず、・・」とある。この時点では中隊ごとの戦闘報告表は第三旅団には存在しないようである。

 4月11日に安満隊の記録がある(原文は「熊本県公文類纂七-一七四」で猪飼隆明・地元委員協力1994「西合志町史」の近現代pp.615・616に収録)

  客歳鹿児島賊徒御征討ノ際官軍ヘ随従尽力ノ始末御問合ニ付有筋左ニ上伸

  仕候

  私儀第五大区五小区合志郡合生村九百六拾七番地住、士族緒方二三ト申モ

  ノニテ、客歳三月鹿児島賊徒本県ヘ闖入ノ際、官軍第九聯隊第三大隊第四

  中隊ニ被召仕台場建築ノ夫使、其他烽火ノ周旋、或進軍ノ先導、各地ノ探

  偵等ニ至ル迄、隊長ノ指揮ニ応シ各位ト共ニ尽力セシハ、各位ノ親シク目

  撃スル所也。然ルニ四月十一日午前七時頃、賊将鋭を尽シ隈府街道ヨリ襲

  来ノ報ヲ得、安光大尉ノ内諭ヲ以テ、直チニ該大区六小区富出分村神社接

  近ノ地マテ潜行シ、窃ニ社内ヲ窺フニ果シテ賊兵屯集シ、隊長ト認ベキモ

  ノ弐拾名許、他兵卒五拾名余、且薬師小屋ニ百名、福本神社ニ百名、高江

  村ニ百名、凡三百六、七拾名ト認、迅速帰営、之ヲ安光大尉及ヒ古川・花

  田ノ両中尉ニ報ス。則安光大尉慰労金三円ヲ給与セラレタリ。感泣恩ヲ謝

  シ坐未タ久カラス、将ニ十時ナラントシ、賊兵果シテ風雨ニ乗シ、該村神

  社西面ノ小径ニ傍以(※「添い=カ」の注記あり)、進テ各所ノ竹林・桑園ヲ

  侵シ、直チニ官軍ノ台場ニセマリ、激戦時ヲ移シ砲声天ニ轟キ硝煙空ヲ蔽

  イ、弾丸雨注、実ニ万死一生ノ際ニ臨ミ、隊長ノ指揮ニ応シ断然身命ヲ抛

  チ、台場守衛罷有候中、山肩日已ニ没シ、各所烽火起リ賊兵遂ニ敗、兵ヲ

  野々島及ヒ黒松・大池ニ退ク。是ニ於テ翌十二日官軍兵ヲ小合志原ニ進ム。

  自分儀モ前同様従軍、胸壁建築ノ周旋ヲナセリ。賊兵遂ニ拒可ラサルヲ覚

  リ、壁ヲ捨テ走ル。是ニ於テ同十五日官軍兵ヲ熊本ニ進ム。前同様従軍、

  龍田山ニ到初メテ暇ヲ賜フ。同十七日該村滞陣以降ノ諸調等アリ。安光大

  尉・古川・花田ノ両中尉、浅井曹長、大庭・田口ノ両給養掛及ヒ各位自分

  ト共ニ九名ニテ、万般無遺漏計算等皆済退去セリ。然ルニ、同月某日内藤

  大隊長・安光大尉両度謁ヲ賜ヒ、万般忠誠ヲ尽シ奇特ノ至リ、尚一層忠勤

  ヲ励ス樣親シク言賞アリ。依テ更ニ別紙写ノ通リ御辞令一葉下シ賜リ、難

  有拝戴仕置候。前記ノ通有筋始末書ヲ以テ奉上申候事。

          第五大区五小区合志郡合生村

          九百六拾七番地住士族

  明治十二年卯一月廿日        緒 方 二 三㊞

   村用掛

    工藤五七郎殿

    緒方喜三郎殿

 

  内藤・安光・古川ノ三将校ヨリ下シ賜リ候御辞令文意ノ概略写

        記

                  緒 方 二 三

  其方儀是迄不肖ノ筋モ無之、依テ第九連隊軍事用向筋申付候事

  右ノ通ニ御座候事

f:id:goldenempire:20210621134030j:plain

 文中の内藤は参謀部の内藤之厚少佐である。安光大尉とは安満のことである。彼が何時大尉に昇進したのかは分からない。古川は第四中隊の古川治義中尉のこと、花田も第四中隊の花田耕作中尉である。安満の中隊は「戰記稿」に記載がなくとも依然として前線にいたことが分かる。緒方の住所、合生(あいおい)は二子山石器製作遺跡の北東側の川の東側の地域にある。この4月11日の戦闘は「戰記稿」には記載がない。その後、4月14日、官軍のある部隊の本営が緒方の家に置かれた。

  昨十二日御達ニ依リ取調差出候兵卒ゟ伍長ニ伍長ゟ軍曹ニ撰拳可致者ハ現

  今當口出張之安満井上栗屋之三中隊ニ配リ該隊下士捕欠相成候上残余之者

  ハ他隊ニ御附相成候而も不苦候旨申出候条此段及御廻答候也

 

    第四月十四日  内藤少佐 参謀部御中

  追而本文之義遅刻致候ハ防禦線付換ニ取懸リ只今☐候仕合ニ有之候并ニ左

  翼本営ヲ相生村緒方二三方ヘ轉 移候条此段御届候也

  但相生村緒方二三ナル者ハ元弘生村大酒造家ナリ

  (C09084868000「第一号自三月十日至四月卅日 来翰綴 第三旅團参謀部」1364・5)

  脇道にそれるが緒方の情報を掲げる。

 明治33年に熊本県士族緒方二三が加藤高明外務大臣義和団事件処分に関する建白書を提出している(B04011153000義和団事変ニ付帝国ノ利権獲得ニ関スル建言雑件 第一巻(1-7-10-5_001)(外務省外交史料館)」)。また、緒方二三と同名の人物(熊本県益城郡杉谷村杉島千四百四十七)が明治37年に陸軍大本営付の中国語通訳になっている(C09122000300、明治37年自2月至5月 大日記 副臨人号 自第1号至第212号 共4冊(防衛省防衛研究所蔵0357~)西南戦争に登場する人物と同じ人だろう。

  4月12日、第三旅団の14個中隊は石川村・鳥巣村の略取を期して攻撃したが、退却している。山鹿市の南東に位置する菊池市(隈府わいふ口)は第三旅団の佐久間中佐が担当し、薩軍と交戦しつつ次第に第三旅団牙営から遠ざかっていった。この後16日、佐久間が負傷したため厚東中佐が代理を務めることになる。

 その後数日間は第九聯隊第三大隊第四中隊の記録はないが、4月14日に熊本城の籠城が解放されると、正面軍や山鹿口の官軍が対峙していた薩軍は鳥巣や植木・木留周辺から一斉に撤退し大津方面や熊本平野に移動した。第三旅団もすべて大津口進撃隊に合流している。鳥巣は戦闘で奪ったのではなく、薩軍は自発的に撤退したのである。

 4月19日、大津口第三旅団は他の官軍と連携し南は御船町から熊本市健軍、大津市に連なる延長30km前後の戦線を構えて薩軍を圧迫した。

  十九日第三旅團漸次諸隊ヲ進メ一團舉テ大津ニ向ヒ是日牙營ヲ伊萩村ニ移

  シ防禦線ヲ定ムル左ノ如シ(「戰記稿」) 

 安満大尉は川村景明少佐が司令官の右翼7個中隊の一つとして岩迫村を端にして旅団右翼の配置についた。別に援隊は古閑原と小林に屯在し、左翼援隊は湯舟村や鞍ヶ岳に派遣された。また、遊軍は伊萩村・片川瀬村と妻越村に屯在。隈府分遣は小川原村、砲廠部は湯舟村。以上で大津町に前進する計画である。第三旅団の右翼には大津口第一・二旅団(右翼・中央は御領・出分村、左翼は鳥越・岩迫谷、援軍は右翼が群山その他、予備隊が二子・豊岡・鶴田・羽田)が進んだ。大津町の西側が第三旅団の右翼だった。

 4月20日、城東会戦といわれる両軍初の会戦が行われ、官軍の勝利に終わったが、官軍の死傷者は700人に上った。この内、第三旅団は戦死14人・負傷35人である。この時の第九聯隊第三大隊第四中隊の具体的な動向は記録されていないが次の史料で一端が窺える。

C09081000400「明治十年従五月 送達書元稿 大坂征討軍☐?0207征討総督本営罫紙※欄外上部に「安満」

  九連隊第三大隊第四中隊

   第三             二等兵 生駒半兵衛 

  右四月廿一日竹宮進擊之際左上脾射入銃創兼骨傷ヲ負ヒ即日入院治療ヲ加

  候処百治無功本月五日頃ヨリ膿毒症ヲ発シ悪寒慄冷汗淋漓嘔吐下痢食思欠

  損等ノ諸症ヲ発シ漸々衰弱ニ陷リ遂ニ本月十五日午前三時死亡候也

 

   明治十年五月十五日    陸軍々醫中泉 正㊞

 これは治療に当たった軍医の報告書である。中泉正軍医は2月21日に野津・三好両少将の文では当地に着しているが、当地とはどこか(C0908290110「十年二月廿一日~三月三日 来柬録 征討総督本営)。別の記録には4月17日には高瀬軍団病院(玉名市)に勤務している(C09080996900「明治十年従五月 送達書元稿 大坂征討軍?」)ので当地とは高瀬を含んだ地域である。熊本平野での負傷者は高瀬で治療したと分かる。

 第九聯隊第三第田第四中隊の二等卒が4月21日に竹宮進撃の際に負傷したという。竹宮は熊本市東部の水前寺公園周辺の健軍地区の事。城東会戦の激戦地である。第四中隊がこの付近の戦闘に参加していたのだろうか? 城東会戦は20日一日で終わったと思っていたが、そうではないようだ。20日の第三旅団を「戰記稿」から見ておこう。

  右翼第三旅團ハ牙營ヲ下中久保田村ニ移シ昨日議定セシ如ク午前五時諸隊

  進テ大津町ノ臺上ニ登リ銃砲ヲ劇射シテ賊壘ニ迫ル賊兵堅ク守テ動カス我

  右翼ノ兵最モ奮進勇鬪遂ニ其第一線ノ數壘ヲ拔ク然レノモ賊退テ猶ホ第二線

  ヲ死守ス是ヲ以テ我兵容易ニ大津町ニ侵入スルヲ得ス(略)詰朝大舉シテ

  大津町ヲ略取センヿヲ期セリ

 20日薩軍の抵抗が強く、大津町を占領できなかった。第三旅団の右には第一・第二旅団が並んでいた。彼らは21日は熊本空港の南東3kmの川原村の薩軍を攻撃したが、逆襲を受けて現熊本空港のある高遊村まで退いている。その後、大津口から第三旅団古田少佐隊が来たので共に川原村を占領したとある。診断書にある竹宮から高遊村までは11km、その付近で21日に戦いがあったことは記録されていない。「征西戰記稿」がすべてを網羅して記しているのではないということか、診断書が正しくないかだろう。

 4月22日、第三旅団は大津市街の南側を西流する白川を渡り、牙営を外牧村に置き、阿蘇外輪山南斜面の矢部浜町(ここに全

f:id:goldenempire:20210624204753j:plain

薩軍終結しつつあった)に向けて警備し、敵情を探るため斥候を各所に出している。また、前日戦った河原(川原)村・日向キ村・布田村・鳥ノ子村・外牧二(※ニは?)・内牧村に厚東中佐と河村少佐の11個中隊が、阿蘇カルデラの西部の入口の黒川村に友田少佐の一分隊が、鳥ノ子村・錦野村・布田村・瀬田村に内藤少佐の8個中隊が、他に大津町・鞍岳・二重峠(中津隊が薩軍に合流したときに登ってきた峠。古来肥後・豊後の官道)・隈府町・外牧村に6個中隊がそれぞれ守備線を構えた。この内、安満隊が属したとみられるのは内藤少佐である。上の地図のもっと北側に二重峠・鞍岳がある。なお、第一・第二旅団は第三旅団の右にいた。

    阿蘇カルデラの東端に位置する坂梨には3月上旬から桧垣警視の警視隊が大分から進んで、カルデラの西端の二重峠方面を警戒して警備についていた。薩軍も植木付近で官軍正面軍と戦っているとき、既に大分方面から官軍が進入してくることを警戒し二重峠を守備していた。警視隊隊長桧垣の動きは遅く、やっと18日になって黒川・二重峠に進んで戦いを挑んだが、佐川大警部(官兵衛)他33人の戦死者、34人の負傷者を出して坂梨に退却していた。

 その警視隊は4月24日、山縣参軍から熊本に進めとの命を受け、25日第三旅団の目の前を通って大津町に、26日には御船に移動し別働第三旅団に編入し第五大隊と称することになった。それまでは大分側にいた警視隊が消えたので、第三旅団が前面に出る形となった。三浦少将は山縣に掛け合って曰、黒川以東の広範囲の警備は第三旅団では出来かねる、他の旅団を派遣して空白を埋めるか、さもなくば第三旅団が移動して埋め、現今の防禦線を他の旅団に譲るかの二つしかないので採決を仰ぐと。

f:id:goldenempire:20210626111209j:plain

 横平山・田原坂方面を担当した第一・第二旅団の各中隊は日毎に戦闘報告表に記入しているが、第三旅団の場合は5月18日からしか確認できない。

f:id:goldenempire:20210626102211j:plain

 岩村・鳥巣・大津などの戦闘報告表を探したが見つからなかったので、ついでに各旅団の戦闘報告表を比べてみたら必ずしも全て同じ様式を使っていたのではないと分かった。事例掲示は略すが、第一・二・四旅団と別働第一旅団は同じ木版で印刷したものを使用し、これらは外枠が太い一本線である。別働第二旅団は外枠が太細の二重線、別働第三旅団は前記の版が「戰鬪」である部分は「戰鬥」になっている。以上は、裏面が備考欄になっているが、表面だけに記入する型が第三旅団・別働第五旅団と新撰旅団である。但し、新撰旅団の報告例は少なく、それらは木版ではなく、直角に交わるべき線が斜めになっていたり、突き抜けていたり統一性がなく手書きしたような感じである。上図で理解しやすいと思うが、各旅団の編制月日が異なるし、それも当初から持参していなかった旅団もありそうで、複数回にわたり戦闘報告表が供給された記録がある。 

 4月24日、山縣参軍は現熊本県庁東側約8kmの木山東部灰塚に諸旅団長を集めて各進撃の方面を決定した。この時、薩軍は矢部浜町に集まっており、直後に人吉あるいは宮崎県に向かって移動を始める。薩軍は人吉に入ると、大口・佐敷・人吉北方山間部・延岡・大分など人吉盆地の四方に部隊を進ませ官軍の侵攻を防ごうとした。この前後、官軍の追撃はなぜか緩やかに見える。後日、山縣は次のようなことを述べている。「灰塚の軍議に手間取らずに薩軍を急追していたなら、もしかしたら一撃で薩軍を粉砕することができたかも知れない。西南戦争に関してこのことだけが気にかかる点である」(「戰記稿」)

 灰塚会議の結果、

  御船ヨリ飯田山及ヒ船底山マテ別働第二旅團〇船底山ノ麓ヨリ南田代及ヒ

  淺ノ藪マテ熊本鎭臺兵〇淺ノ藪ヨリ川原マテ第一旅團〇川原ヨリ田原山マ

  テ第二旅團〇田原山ヨリ黑川マテ第三旅團   (「戰記稿」)

と決定した。このうち船底山とは船野山のことであり、田原山とは灰塚の北東2.2kmの田原付近の山であろう。浅ノ藪は標高480mの城山の南東1.6kmにある。この結果、熊本鎮台が正面攻撃の本軍となり、第三旅団は左翼攻撃本軍、第一・第二旅団は少し下がった第二線の位置となり、別働第二旅団は人吉北部方面からの通路である那須口に備えることになった。

f:id:goldenempire:20210628010422j:plain

    熊本鎮台は4月26日、薩軍が去った直後の浜町に入り、28日には一部が馬見原に進んだ。三浦はここでも山縣に提案し認めさせている。

  熊本鎭臺ヲシテ獨リ濱町馬見原ヲ守備セシムルモ固ヨリ其防禦十分堅固ナ

  リトスルヲ得ス故ニ分守ノ法ヲナシ臺兵ハ專ラ濱町ヲ守備シ本團ハ位置ヲ

  轉シテ馬見原一方ヲ守備シ臺兵ト相連絡シテ大野越ニ及ホシ本陣ヲ高森ニ

  移サハ第一第二旅團及本團ノ矢部口ニ備フル所ノ第二線守備ハ之ヲ撤曾テ

  危殆ノ憂ナク(略)    (「戰記稿」)

 4月30日から5月3日にかけて第三旅団はカルデラの南部にある高森に進んだ。馬見原の地を熊本鎮台から譲り受けることになったためである。30日作成の第三旅団部署表には安満の第四中隊は「五月二日安滿粟屋堀部ハ高森ニ瀧本沖田平山ハ下市村ニ到リ命ヲ待タシム」とある。

  いつの時点か分からないが三浦梧楼のいたずらの話がある。彼の回顧録「観樹将軍回顧録」による。

   この戦争中、山県の事について面白い話がある。一体山県は極めて注意

  深い男で、とかく極度に干渉して困る。それで山県が来ると、いつもがん

  がん喧ましく言うから、皆毛虫のように嫌っている。それ来たというと、

  参謀などは皆逃げ出すという始末である。

   ある時山県がまたやって来た。我輩の本部の前にいるので、参謀などは

  皆弱り切っている。

  「よしよし、乃公が一つ追っ払ってやるから安心しておれ」

  と言っている所へ、山県が出掛けて来た。そこで昼飯を饗応したが、その

  給仕役に出したのが二、三人の捕虜である。何しろ鹿児島を出る時、湯に

  入った切りだ。櫛風沐雨に何カ月というもの曝されて来たのである。その

  汚ないことおびただしい。さすがの山県もこれには驚いた。ジロジロと様

  子を見ておったが、

  「三浦、これは賊じゃないか」

  「賊だ、生捕った奴だ」

  「ひどいことをするじゃないか」

  「いや何でもない。夜分蚊が出て仕方がないから、蚊燻しをやらせておる

  。心配はない」 

  「もし火薬庫に火でも点けられたらどうする」

  「なに大丈夫だ。気遣いない」

  「大丈夫か、気遣いないか。剣呑だぜ。」

  と言っておったが、気味が悪いか、すぐさまここを立って往った。

  「さあ皆安心しろ、山県を追っ払ってやった」

  とて、大笑いであった。山県は我輩のいたずらを真に受けたのである。

 蚊が出るというから梅雨明け後の季節で、山鹿・阿蘇よりも後のことだろう。藩時代からの知り合いだから山県も怒れなかったのだろう。

 

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 2月・3月 ※少しずつ追加します。

はじめに

 西南戦争時に編成された第三旅団の一部隊、第九聯隊第三大隊第四中隊の行動を跡付けてみたい。可愛岳の周辺で戦跡踏査を何度か行ったことがあるが、この部隊はその戦場に登場しており、そこに至るまでとその後の部隊の足跡を見ておきたくなった。

 西南戦争時陸軍には、全国に仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本に鎮台が、東京には近衛兵も置かれていた。戦場には鎮台毎に出動したのではなく、臨時的に各地の部隊の一部を抜き出して組み合わせて旅団という名称で送り出した(佐倉桜香2020)。また、別に警視隊を四期に分けて募集して送り出している。初めは第一旅団・第二旅団、遅れて第三旅団が加わり包囲された熊本鎮台を解放するために熊本県北部に進んだが(これらを正面軍と呼んだ)、一ヶ月近く経っても熊本城解放の目途が立たなかった。それで熊本城の南方の八代沿岸に新たに編成した別働旅団を投入した(衝背軍と呼んだ)。当初は別働旅団(第一から第五)の名称が短期間に変更され、分かりにくい状態が生じたが、それも間もなく解消された。また、3月14日に第四旅団が、7月中旬に新撰旅団が編成された。

 ※佐倉桜香2020「新訂征西戦記考別冊 西南戦役における募兵-壮兵召募と巡査召募-」

第三旅団の戦歴概要

 ここで扱う第三旅団は当初の2月から4月前半は山鹿方面を担当した。司令長官は3月10日に任命された三浦梧楼少将で、同日部隊は熊本県玉名郡和水(なごみ)町岩(戦記では岩村として出てくる)に進出し、牙営(旅団本営)を光行寺に置いた。南西側で横平山や吉次峠田原坂で戦闘が続いているときに第三旅団は山鹿方面に進んで戦ったのである。

 4月14日の熊本城解放後は東方の阿蘇方向に進んで、大津から熊本市北東方面を短期間担当した。4月下旬に薩軍阿蘇外輪山南西の矢部・浜町、さらに人吉方向に移動するとその方面からの来襲を警戒し、大津から阿蘇カルデラ内付近に布陣した。その後は熊本県南部の海岸部にある佐敷町に移動し札松峠や大関山などで戦った後、水俣市から鹿児島県北西部の伊佐市に入り、高熊山の戦闘に参加している。さらに県北部を横断して宮崎県都城から日向灘沿岸を北上し、延岡で折り返して鹿児島市に着いて9月24日の終戦を迎えている。

 第三旅団の牙営の移動状況を現在の郡市町村名と共に記すと以下のようである。旅団の司令長官三浦梧楼少将の本営の移動状況が分かる。玉名郡和水町岩(3月10日・3月11日時点の兵数は小使・従僕・馬丁を除いて3,908人である。山鹿市の中心部から北西約4km)・山鹿町(3月31日)・菊池市七城町橋田村(4月4日※小使・従僕・馬丁・傭夫を除いて3,864人。山鹿市中心部から南東約8km)・素崎村(4月5日。橋田の南南東約1.5kmの七城町に蘇崎がある)・岡村(4月6日。蘇崎の南約3.2km、ここでいう北田島の北西側に岡がある)・菊池市泗水町南田島村(4月8日)・石坂村(4月15日。南田島の東約8.5kmに伊坂がある)・菊池市旭志伊萩村(4月19日)・大津市?下中久保田村(4月20日)・阿蘇郡高森(5月3日)・蘇陽町馬見原(5月5日)・大津町(5月7日)・八代(5月9日※5月10日時点の第三旅団の人数は小使・職工・従僕・馬丁・夫卒を除いて3.460人である。この日、水俣方面の戦状が不利との報告により10個中隊を海路派遣することになった。)葦北郡佐敷(5月12日)・水俣市久木野村(6月10日)・伊佐市大口(6月22日)・霧島市横川村(7月2日)・霧島市国分(7月11日)・霧島市田ノ口村(7月23日)・都城市庄内(7月24日)・高城(7月28日)・宮崎市倉岡(7月30日)・佐土原(8月2日)・高鍋(8月3日)・高松村(8月4日)・都濃町(8月5日)・美々津町(8月9日)・新町(8月11日)・富高新町(8月12日)・日向市日知屋(8月13日)・延岡(8月15日)・美々津(8月29日)・高鍋(8月30日)・本城(8月31日)・鹿児島田ノ浦(9月5日)・下荒田村騎射場(9月6日※戦争終結まで)。

第四中隊の出征

 第九聯隊第三大隊第四中隊は大阪鎮台大津営所所在の部隊である。「征西戰記稿」(以下では戰記稿と略す)の旅団編制表では第四中隊の人数は分からないが、第三中隊と第四中隊の兵数は合わせて264人となっており、半分とすると132人である。  

 大阪鎮台には第八・九・十聯隊があり、このうち3月10日までに第一旅団・第二旅団に分散して戦地に出張していたのを第九聯隊に限定して掲げる。第九聯隊第一大隊の全四中隊、第二大隊第二中隊・第四中隊、第三大隊第三中隊である(「戰記稿」)。第三大隊については次の史料がある。

  第六十六号

  大坂鎮臺

  其臺歩兵第九聨隊第三大隊及ヒ第十聨隊之中一大隊ヲ大坂ニ繰上可申此旨

  相達候事

  但京都御警衛之義ハ大津在屯兵之中ゟ二中隊可差出事     

  明治十年二月二十六日

  陸軍中将鳥尾小彌太  

  (C09081692500「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸陸軍参謀部」)

f:id:goldenempire:20210617080440j:plain

 第九聯隊第三大隊のうち第三中隊だけは2月27日にすでに戦地出張中である。上記は残りの三個中隊の内の二個中隊に対する命令だろう。ここで扱う第四中隊を含んでいるのかは分からない。第九聯隊は3月8日になって別働第二旅団に編入されている。

f:id:goldenempire:20210616184939j:plain

  第二百五十二号

  歩兵第九聨隊

  第三大隊

  別働隊第二旅團江編入申付候事

    明治十年三月八日

    征討総督本営

     (「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸陸軍参謀部」防衛研究所蔵)0189・0190

 

  第二百八十四号 

  一昨夜当地出帆ノ隊ハ第九聯隊第三大隊ニテ太平丸ニ乗組出帆セリ

  三月十日午後四時三十分着ス(C09081708500「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸

陸軍参謀部」防衛研究所蔵)0215・0216

 一昨夜出帆というから3月8日夜出港か。別働第二旅団に編入が決まり、即日出発したのである。2月27日には第三大隊第三中隊は戦闘中だから残りの第一・二・四中隊のどれか。先日投稿した第七聯隊の事例から考えて、神戸から博多まで直行したとすれば35時間くらいである。早ければ10日中には福岡の博多港に着いたはずである。実際その通りに博多に着いたが、上陸できないような海面の状態だったと次の記録が示す。 

  第二百七十四号

  第九聯隊第三大隊昨夕到着舩之處風波ニ付未タ上陸セス上陸次第南ノ關へ

  繰込筈ナリ

   三月十一日午前十時十分福岡発

         〃十時三十七分着

            小 澤 大 佐

   鳥尾中将殿 (C09081806000「明治十年自二月至五月 發翰日記 神戸陸軍参謀部」防衛研究所蔵0200)

 第九聯隊第三大隊は3月10日夕方博多に着いたが、風波のため直ぐには上陸できなかったが、11日中には上陸しただろう。

f:id:goldenempire:20210616223842j:plain

     大阪鎭臺第九聯隊第三大隊第三第四中隊

  出征第三旅團編入更ニ申付候事

   明治十年三月十四日 征討総督本營(C09084850200「第一号自三月十日至四月卅日 來翰綴 第三旅団参謀部」防衛研究所蔵)

 3月14日の「戰記稿」には「十四日第三旅團ニ編入セラレシ兵左ノ如シ」として第九聯隊第三大隊第四中隊中尉安滿伸愛(やすみつ のぶえ)の他二つの隊があり、その中の一中隊は山鹿市岩村の部署が割り当てられているが安満の隊はまだ割り当てられていない。この日現在の第三旅団の隊数は、歩兵22中隊・砲兵1小隊と2分隊・工兵3分隊である。

 安満中隊が派遣された山鹿方面は、3月10日以前には熊本鎮台第十四聯隊や第一・第二旅団の一部が派遣されるに留まり、この方面の司令長官は任命されていなかった。10日、第三旅団司令長官三浦梧楼少将が三個大隊を率いて福岡県南端から熊本県北部の玉名郡南関から山鹿の北西側に位置する玉名郡和水町(なごみまち)平山の岩(岩村として登場)に牙営を置き、3月12日には南東3km弱の鍋谷・城村に進撃している。山鹿市街地の西側手前である。

f:id:goldenempire:20210720213132j:plain

田原坂が陥落した3月20日には薩軍山鹿市街を去り、21日には市街地西側の志々岐を取り、牙営を山鹿市街に移した。22日植木口の官軍と連絡を通じたが、まだ東方の隈府(菊池市中心部)、南東側の田島・鳥巣は薩軍の占領地域だった。

 3月25日、この日山縣参軍からに西隣の植木口にいる野津鎭雄第一旅団長・大山巌第二旅団長(三好重臣旅団長負傷のため臨時兼務)の手紙が第三旅団三浦少将に届いた。それは、植木の東方に当たる鳥栖(現在の地図では鳥巣)村には薩軍が増加していると聞くが、第三旅団から二中隊を出して警備を付けた方がいいのではないか、という注文だった。三浦少将は26日に不愉快そうな返事を出して言うには、廣町味取町ノ中間連絡ノ爲メ更ニ二中隊出兵ノ儀縷ゝ御申聞ノ趣承知仕候然ル處當所ノ儀ハ一昨夜來申出候通防禦線六七里ニ亘リ當時ノ兵ヲ以テ配當候ノキハ既ニ三ヶ所ノ要路ニ可差出兵無之因テ南關ノ兵ヲ引揚候様達置候位ノ儀ニ有之迚モ出兵難爲致候若シ(第三旅団防禦線は六七里の長さがあり寡兵のために鳥栖には出せないので、後方の抑えとして置いていた南関の兵を引揚げるよう命令しました。)又山鹿新町ノ防禦ヲ手薄ニ致シ出兵爲致可然儀ニ候ハヽ新町ヲ棄テ唯孤立ノ山鹿ヲ守リ可然儀ニ候哉若シ果シテ然ラハ當所ハ迚モ守備可致見込無之竟ニ全軍ノ勝敗ニモ關係可致ト存候間此邊篤ト御熟考御指揮被下度元來圖面ト實地トハ自カラ景况ヲ異ニシ現地上防禦困難ノ事モ有之候間願クハ實地御巡回ノ上御指揮ヲ仰キ候(山鹿新町の防禦を手薄にしてよいなら山鹿だけを守れということですか、それなら山鹿も守備を全うできる見込みがないし、そうなったら全軍の勝敗にも影響しますよ。じっくり考えて下さい。図上と現実とは異なるので現地を見てください。)書き進めるうちに次第に調子が乗ってくる三浦の怒りが伝わる返事である。

 28日の「戰記稿」には「是日大坂鎭臺歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊(大尉本城幾馬)ハ高瀬ヨリ同第四中隊(安満中尉)ハ南關ヨリ山鹿町ヘ至レリ」とあり、安満の隊は直前には山鹿口の後方の抑えとしてか熊本県北端の玉名郡南関町にいたのである(「戰記稿」)3月28日付の安満による届出がある。

C09084856200、来翰綴 第1号1149~

  来第百四十五号

  當中隊壱分隊坂下分遣中往来人夫別紙之品〃所持通行候ニ付取調候處途中

  ニ於テ拾揚候段届出候間現品相添此段御届申候也

 

   明治十年三月廿九日

      歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長心得

          陸軍中尉安満伸愛㊞

 

    第三旅團

      参謀部

        御中

 

          記

  一毛布          拾枚

  一込矢          弐拾本

  一外套          弐枚

  一畧袴          壱枚

  一陣中嚢         三個

  一胴乱          壱個

  一畧帽          壱個

     計七品

      外ニ

  一日本刀         壱本

   右ハ福岡縣第八大区六小区春吉村平民早田☐太郎ト申人夫去ル廿五日坂

   下通行之際携帯致居候ニ付取調候處人夫小頭山部業太郎ノ所有品ニ而有

   之候段申立候得共其証無之ニ付右山部業太郎通行迠預リ之☐處昨廿八日

   坂下分遣隊引揚相成候ニ付而ハ同所警察所等も無之ニ付無☐當所ヘ持越

   候事

f:id:goldenempire:20210623112220j:plain

 文中に坂下分遣中とある坂下は南に行けば玉名市街地(高瀬)、南東に行けば山鹿に通じる南関町南部の主要路線上にあり、哨兵として第四中隊が配置についていたということだろう。25日に不審者を発見確保しているので、それ以前から配置についていたとみられる。

f:id:goldenempire:20210623104734j:plain

 

f:id:goldenempire:20210618100332j:plain

   3月30日の「戰記稿」に第四中隊の記録がある

  是日鳥栖口最モ劇戦シテ賊ノ堡壘數十ヲ略取ス安滿中尉ノ一中隊ハ太タ苦

  戰賊ノ壘下ニ在テ進ム能ハス退ント欲スレハ賊ノ狙擊ヲ奈トモスルナク相

  對スル十米突ノ距離ニシテ朝ヨリ暮ニ至ルマテ田畔ニ在リテ戰ヘリ〇是日

  大雨終日泥濘脚ヲ沒シ進退意ノ如クナラス諸兵ノ困難前後其比ヲ見ス然レ

  共遂ニ鳥栖村ニ入ルヲ得ス午後八時兵ヲ味取町ニ収メ山鹿ノ兵ハ山鹿町ニ

  歸ル

 

 

f:id:goldenempire:20210617154437j:plain

 地図の下部にある二子山石器製作遺跡は縄文時代の打製石鍬の石材産地であり、古墳時代の円墳もある。墳上に台場跡が北・東を向いて造られている。周辺には数十基あったはずだが今は不明。

 分捕り品は小銃48・弾薬1,030発・刀剣28本だった(同)。第四中隊の戦死20人・戦傷49人(同)かと思ったが、間違い。この方面の第三旅団の死傷者だった。当日、鳥巣(とんのす)で負傷した第4中隊兵士の記録があるので掲げる(C09082110200「戰鬪履歴 軍團事務所」0482)

         診断書

         大坂鎭臺歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊

               一等歩卒 堀内松之助

  右者本年三月三十日肥後國鳥巣ニ於テ負傷左下脚外踝ヨリ一寸許下部ニ於

  テ銃丸射入内部ヲ通過シ足踵ニ貫通現今全治足踵ヲシテ十全地ニ附スル能

  ハス依之追テ傷項策定候迠帰郷療養為致可然者ト及診断候也

    明治十年十一月廿七日

            大坂鎭臺病院長

              陸軍一等軍醫正堀内利國

              主任醫官

              陸軍々醫  用吉左久馬 

 負傷者の中には治療し完治しても隊に復帰できそうもない者もいたのである。

 

次回はある中隊の動向を追いかけてみようと思います。

上記はもう少し先延ばし。今は第七聯隊の追加作業中です。以前の投稿にも思いついたら追加修正しているので、御注意!

第七聯隊第一大隊西南戦記綴(6月)

六月一日天晴ル大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊ヲシテ援隊タラシム

六月二日天晴大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム先キニ在東京将校ヨリ慰労ト乄送ラルヽ處ノ酒肴ヲ分チ各中隊ニ配與シテ積日ノ軍労ヲ慰ス

六月三日天晴ル大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊ヲシテ援隊タラシム大隊本部ヲ髙見馬塲ニ移シテ緩急叓ニ應スルノ便ヲナス

六月四日天晴大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム此ノ日神代淸之進永田政義被任陸軍中尉島村友直陸軍少尉ニ折笠清雄江橋亮陸軍少尉試補ニ任セラル其他下士官十八名各凡テ昇級ス

六月五日雨ル大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊援隊タリ

六月六日午前雨午後晴大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊援隊タリ

六月七日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊援隊タリ此ノ日拂暁ヨリ賊大砲ヲ発スルヿ頻リナリ官軍又之ニ應ス午後九時ニ至リ戦始メテ罷ム吉弘鑑徳出勤ス

六月八日天雨降ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊援隊タリ此日賊又午前九時比ヨリ大砲ヲ発ス従テ官軍之ニ應ス終日ニシテ罷ム

六月九日天雨降大哨兵第二中隊第三中隊シテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊援隊タリ賊亦午前第九時比ヨリ大砲ヲ発ス暫時ニシテ休ム

六月十日雨ス大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊援隊タリ内山少尉病症ヲ発シ病院ニ入テ治療ス吉弘鑑徳被任陸軍少尉下士又昇級アリ賊又大砲ヲ発スルヿ前日ノ如シ

六月十一日風雨最モ烈シ大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊援隊タリ此日(アルムスロトニリラ)砲ヲ西田𣘺砲塁ニ備ヘ賊塁ヲ砲擊ス其ノ命中頗ル妙ナリ此日ニ於テ賊大ニ恐怖ノ色アリ我第一中隊軍曹賊ノ破烈弾ノ為ニ右股ヲ傷ク而乄直ニ病院ニ入ル

※(アルムスロトニリラ)の部分が誤読したかも知れないので、原文を示す。

f:id:goldenempire:20210530082228j:plain

六月十四日天晴大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊 第三中隊援隊タリ此日賊大砲ヲ発スルヿ前日ニ仝

六月十五日天曇大哨兵第二中隊第三中隊ヲ交代ナサシメ第二中隊第四中隊援隊タリ此日砲戦ナシ

六月十六日天晴大哨兵第一中隊第四中隊ヲ交代ナサシメ第二中隊第三中隊援隊タリ此日砲戦少シナリ然レノモ賊数日来研究セシヤ甚タ適度ヲ得我兵ヲシテ一時擾騒ナラシム

六月十七日午前曇午後天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊援隊タリ此ノ日砲戦尤モ烈シ終日ニシテ罷ム

六月十八日天晴大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊援隊タリ此日砲戦少々ナリ

六月十九日午前雨午後晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊援隊タリ

六月二十日雨午後晴大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊援隊タリ此ノ日第四旅團進擊部署定リ暗ニ乗シ海路ヨリ重冨ノ賊ヲ擊ツ此ノ時我カ第二大隊ヲ以テ之レカ應援トナシ俱ニ海路ヨリ進ム

六月二十一日天晴大哨兵第二中隊第四中隊ヲシテ勤メシム此ノ日午前第八時第三中隊其ノ半隊ヲ遣シテ賊ノ方面ヨリ脅シ而乄賊ノ虚実ヲ探カシ午後七時ニシテ帰ル

六月二十二日大哨兵第一中隊第三ノ両中隊ヲシテ勤ム此ノ日第四旅團ヨリ一大隊ヲシテ海路ヨリ進重冨吉野ノ賊巢ヲ襲ヒ之レヲ攘ントスルノ檄令ヲ傳リ此ニ於テ我第四中隊其ノ一小隊及第一中隊ノ一分隊ヲシテ各其向フ處ヲ定メ賊ノ方面ニ出テ賊ヲシテ緩急應援ノ気ヲ☐☐セシメ或ハ賊ノ虚実或ハ幾夛兵擁スルノ形况ヲ察知スル為メニ我兵ヲシテ頻リニ射擊ヲナサシメ而シテ畧其ノ実ヲ探リ以テ帰隊ス時既ニ八時三十分ナリキ午后又第三中隊其三分隊ヲシテ西田橋ヨリ賊ノ方面ニ出テ亦賊ヲ脅カシテ其虚実ヲ探ラシム而シテ帰ル時殆ント第六時ニ垂ンタリ

    読めなかった☐☐の部分の原文を示す。手書きの場合、勝手に造字できる。

f:id:goldenempire:20210602130614j:plain

六月二十三日天晴此ヨリ先第四旅團援隊ト乄遣ル所ノ第二大隊已ニ還ルニ及ンテ我第一中隊仝第二中隊舊線ニ復ス而乄我聯隊ノ如キモ又明旦ヲ待テ我方面☐(※竹偏に村)田村ノ賊ヲ擊タントスルノ命令アリ既ニシテ而乄各大隊其ノ向フ所ノ部署ヲ定メ我第一大隊及ヒ上野大尉率ユル処ノ大隊ヲシテ賊ノ正面ニ当ラシム此ニ於テ萬期定マリ而乄此夜第七時大隊ヲ軍門ニ勒シテ之ヲ閲スルニ兵士勇氣凛々ト乄恰モ一ツ百ニ当ル者ノ如キ勢アリ昔南宋ノ秋キニ當テ中原大ニ乱レ金人勢益猖獗既ニ金宋ヲ呑マントスルノ勢ナリシカ幸ニ宋澤岳飛韓世忠等ノ如キ英雄俊潔ノ士輩出セルニ及ンテ金人大ニ恐レ百戦百敗舌ヲ捲テ遁ル金主百万ノ衆ヲ擁シ常ニ歎シテ曰ク嗟呼山岳ヲ憾スハ易ク岳家ノ軍ニ憾スハ難シト今日我一大隊ノ隊勢ノ如キハ所謂岳家ノ軍ニ愧チサルヘシト假想スルモ決シテ疑サル所ナリキ

(※24日)此ニ於テ凖備全ク整ヒ而乄戦鑑ニ乗シ第八時ヲ以テ鹿児島港ヲ発シ夫ヨリ進ンテ脇田村ニ達ス時ニ翌二十四日午前第四時ナリ夫レヨリ経舸ニ乗シ兵士ヲ海岸ニ運ヒ既ニシテ天将ニ明トス進ム賊哨我兵ノ岸ニ達スルヲ望見シ射擊スルヿ雨注ノ如シ我兵彈ヲ冒シテ斉シク進ム賊兵支ユル能ハサルヲ知リ戍ヲ撤シテ遁ル我兵追躡スルヿ甚タ急ナリ行々賊ヲ破リテ二本松ニ至リ背後ヨリ之ヲ擊ツ賊又敗走ス此ニ於テ戰稍々罷ム大哨兵ノ部署ヲ定メテ各其要領ヲ守ル以テ賊ノ返襲ニ備フ此時天俄カニ暗黒雨頻リニ降リ身体洗フカ如シ兵卒労苦又思フヘシ時ニ大明神ヶ岳ノ戰将ニ酣ナリ我第一第二中隊ヲシテ應援ヲナサシム賊必死ヲ極メ防戦最モ勉ム夜ニ及ンテ賊始メテ遁ル官軍死傷百ヲ以テ数フ賊又之ニ倍ス亦此ニ大哨兵ニ布テ賊ノ夜襲ニ備フ

    下は6月24日の防衛研究所蔵の戦闘報告表(C09085082400戦闘報告原稿)。表の裏面には死傷者名があるが割愛した。戦死者は第一大隊が3人、第二大隊が22人で、負傷者は合わせて60人で、これらは金沢営所部隊としては記録的な多さだった。

f:id:goldenempire:20210601121246j:plain

 海岸から脇田に上陸し、二本松に進んでいる。脇田は指宿枕崎線宇宿駅周辺である。二本松と武岡とか武山と呼ばれた場所については、甲突川右岸について書いた際の地図を再度掲げる。大明神丘という場所は武の山の東端にある大明神神社の山である。

f:id:goldenempire:20210414183742j:plain六月二十五日雨降右半大隊大明神岳ニ於テ大哨兵而乄左半大隊其村ニ於テ大哨兵大隊本部ヲ二本松ニ移ス

六月二十六日雨左右大隊仝断

六月二十七日天晴此日我第一中隊第二中隊近郷巡邏ノ命アリ此ニ哨兵線ノ交代ヲ得午前第八時西田町ニ整列シ先ツ発ス第十時横井村ニ至リ休憩ヲナシ夫ヨリ又進テ午后第四時十七分伊集院ニ次ス大哨兵ヲ布キ我第一中隊ノ半隊ヲシテ斥候ト乄近郷ニ遣シ賊ノ處在ヲ探リテ仝第九時四十分帰隊ス

 横井村は西田町の北西にあり直線距離で7km。到着まで二時間かかっている。さらに5kmで伊集院だが、こちらは経路が曲がりくねっているので時間がかかったらしい。

六月二十八日天晴午前第七時伊集院出発午後零時十五分市来村ニ達ス此ニ於テ大哨兵ヲ布キ猶賊ノ所在ヲ探リ既ニシテ我第三中隊應援ノ為メ此ノ日伊集院院ニ来ルト少尉試補折笠晴雄ヲ遣シテ其旨報ス

 市来の西部は東シナ海に面している。ここまでくれば薩摩半島を横断したことになる。

六月二十九日天晴此日我第一旅團大隅ニ進軍ノ議决セリト而乄又我第一第二中隊引上タリ急命ヲ傳ルアリ此ニ於テ午前第四時市来ヲ発シ第八時伊集院ニ至リ我第三中隊ニ會遇シ倶ニ共ニ鹿児島ニ帰ル時ニ午後第六時三十分ナリ而乄大隅進軍ノ命ヲ報ス

 部隊は終戦まで戦っているが「第七聯隊第一大隊戦記綴」は以上で終っている。鹿児島着後の行動は先に投稿した「甲突川右岸山地・・」と重なる内容であり、それほど説明の必要性を感じない。

第七聯隊第一大隊西南戦記綴(5月)

(戦記は5月4日から月日を本文の頭に書くように変更になっており、転写の間違いではありません。少しずつ説明を加えていきます。印刷の場合、印刷してしまえば補正できないが、この場合は何度でも訂正・追加できるのがいい、という考えでやっています。)

    五月一日

夜間第二大隊ノ哨線右翼ノ方ヘ援隊トシテ第一中隊ヲ出ス人民稍荷檐遁鼠スルヲ見ル

 鹿児島市内は5月3日までに「居民ハ妄リニ疑懼ヲ懷キ或ハ兵線燹ニ罹ルヲ怖レ四方ニ逃遁スル者日ニ幾千人市街忽チ人跡ヲ絶ツ」(「戰記稿」)状態となった。

    五月二日

大哨兵ヘ第三中隊ヲ出ス(右翼ノ方ヲ受持)夜間ハ第二中隊ヲ援隊トス

午後十二時三十分第四中隊ヲ西田町通リ横井近傍マテ行軍セシム帰路ハ適冝迂路ヲ取リ帰ル異状ナシ

午後第九時戒厳ノ命アリ左ノ如シ

加治木ヘ千人蒲生ヘ二百人程賊入込ノ報アリ故ニ軍艦ヲ差向ケラレ海路ヨリ動声ヲ窺ハシメラル

賊若シ襲来スルトモ今夕ノ方策ハ現ニ保守スルトコロノ胸壁五ヲ嬰守スヘキヲ以テ展眸ト乄出シタル甲突川端ノ兵ハ啻ニ本軍ノ凖備スベキ時間ヲ支ヘ引揚ベキナリ

哨線内ヘ潜行巡察ヲ出ス

人民ノ遁去スルモノ既ニ夛シ嶋津家ヘハ賊ヨリ立遁キヲ言入タリト云

    五月三日

大哨兵ヘ第壱中隊ヲ出ス夜間ハ第四中隊ヲ援隊トナス

此日中尉石川昌世ヲ大尉ニ少尉試補内山功林従順ヲ少尉ニ任ス中尉岡千仞ヲ副官ニ課セラル

 第四旅団(2日時点の総員は3,414人)が鹿児島に到着し、4日から城山の岩崎谷から多賀山・鳥越から海岸までの守備を始めた。

五月四日天曇之ヨリ先キ諸道ノ官軍既ニ熊城ノ囲ミヲ解キ軍勢大ニ振又賊等頻リニ破レ官軍追擊スルヿ甚タ急ナリト賊亦官軍ノ鹿児島ニ入ルヲ聞テ師ヲ班シ将サニ来リ囲マントスルノ報ヲ得既ニシテ而乄賊ノ先鋒近郷ニ達スト則チ本日午前第九時三十分第三中隊ヲ斥候トシテ敵状ヲ探ラシム稍々アリテ帰リ其ノ異状ナキヲ報ス而乄正午十二時第二中隊ヲ大哨兵ニ第三中隊ヲ援隊タラシメ然リ而テ哨兵線地形悪シキヲ以テ急ニ哨兵線ヲ甲突キ河ノ川岸ニ側フテ伸張シ第三中隊ヲ増加シテ益備ヲ嚴ニシテ守ル而乄亦第四中隊ヲ援隊トナシ之ニ随テ大隊本部ヲ仙石馬塲ニ轉移ス

 仙石馬場は千石馬場のことで、西田橋に隣接する東側の地域。5月6日部分に地図を示すので参照して頂きたい。

五月五日天曇此ノ日午前第四時頃賊暁霧ニ乗シ我左方隣線ヘ襲来ル砲声最モ烈シク殊ニ喊聲雷ノ如キヲ聞キ之ニ應シテ益守リヲ嚴ニシ戦数時ニシテ賊敗走ス既ニシテ而乄賊数十名許我前面田畝ノ間ニ出沒スルヲ發見シ我兵ヲシテ射擊セシム然レ共巨離甚タ遠クシテ敢ヒテ功ナシ此ニ於テ各部隊持受ケノ部署定マリ神勘𣘺(※新上橋)ヨリシテ下西田𣘺マテ右半大隊定例二十四時間ヲ以テ各中隊交代ヲナシ其假番ノ部隊ヲ以テ援隊トナシ而テ大隊本部ヲ神馬塲ヨリ通リニ移シテ以テ緩急之ニ應スルノ便ヲナス

 鹿児島に来て初めて薩軍の攻撃を受けたが、これは別働第一旅団ではあるが、茨木の持場ではなく隣の守備隊の持場であった。薩軍が攻めたのは新昌院谷と草牟田の両方からだった。

五月六日天晴ル本日右翼第二中隊左翼第三中隊ヲシテ交代セシム第一第四中隊左右援隊タリ先キ我使フ処ノ課(※諜)者帰リ来テ賊状ヲ報ス明暁ヲ待テ襲来スト此ニ於テ益警戒ヲ嚴ニシテ之ヲ守ル既ニシテ賊襲来セス

f:id:goldenempire:20210602151413j:plain

    上図は5月6日段階の官軍による鹿児島防禦図。部分拡大して下に示す。

f:id:goldenempire:20210602151700j:plain

 城山の西半分は守備範囲外になっている。私学校の右下に細長いのは琉球館。

五月七日天晴ル右翼第一中隊左翼第四中隊ヲシテ交代セシム第二第三中隊援隊タリ此ノ日輜重及ヒ小繃帯所ヲ天神𣘺ニ移ス

 本戦記には記載がないが、4月27日に旅団に合流した独立第一・第二大隊の甲突川の持場に薩軍600人程が襲来したが撃退している。

五月八日天晴ル此ノ日右翼第一中隊左翼第四中隊ヲシテ交代セシム第二第三左右援隊タリ之ヨリ先キ第四中隊長児玉通良肥后國松𣘺戰争ノ際銃創ヲ被リ爾来病院ニ入テ治療シ創疾既ニ癒本日帰隊ス

五月九日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊援隊タリ之ヨリ先キ第四中隊二等兵卒原與作四月十七日肥後国八代ニ 於テ古麓村進擊ノ際軍人ノ態度ヲ失ヒ處スル所アラントシ口供ヲ取テ聯隊ヘ護送ス此ノ時仝中隊軍曹中島修藏仝兵卒石川京松ナル者原與作ノ所為ニ関渉スルヿアルモ敢ヘテ其罪ナキヲ以テ呵許セラル第一中隊伍長稲田忠行第四中隊兵卒敦賀才次郎先キニ肥後路ニ於テ戰争ノ際銃創ヲ被リ爾来病院ニ入テ治療セシム創痍既ニ癒ヘテ此日帰隊ス

五月十日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊援隊タリ第二中隊伍長(黒塗り)第四中隊伍長(黒塗り)去ル明治九年中軍律ヲ犯シテ☐等セラル然レ共爾来大ニ悟ル所アリテ專ラ職務ヲ體認シ何レノ日ヲ立功償罪ノ念夙ニ脳裏ニ侵入シ幸ニシテ今日ノ役ニ投シ十年憤怒一劔ニ漏シ終ニ其ノ積志ヲ達シ功ヲ以テ其罪一等ヲ减セラルヽヿヲ得第三中隊兵卒歩哨勤務中軍人ノ職掌ヲ誤失シ故ニ口供ヲ取テ聯隊ヘ何分ノ處置伺ヒタリ此夜援隊トシテ少尉吉松直枝一小隊ヲ率ヒ来リ而シテ賊夜ニ乗シテ進擊ノ勢アリト之レニ依テ應スルノ凖備ヲナセリ

五月十一日天晴本日大哨兵交代時限更ニ午前第十時ト定メラル大哨兵第一中隊第四中隊援隊第二中隊第三中隊タリ此日旅團本陣ヨリ酒肴送ラレ之ヲ哨線ニ配與シテ累日ノ戦労ヲ慰サム

五月十二日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊援隊タリ爾来大哨兵交代更ニ午前第八時ト定メラル之ヨリ先第二中隊兵卒(黒塗り)第四中隊兵卒(黒塗り)軍人ノ體度ヲ失ヒ犯罪ノ作業其罪遁レ難キヲ以テ裁判課ヘ逓送セラル

五月十三日天曇此ノ日大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代セシム第二第三中隊左右援隊タリ而シテ大隊本部ヲシテ鍛屋町通天神馬塲ニ轉シ緩急叓ニ應スルノ便ヲナシ第二中隊兵卒(黒塗り)先キニ裁判課ヘ送致セラレ其犯罪ノ處業軍律ニ當ラサルヲ以テ本隊ニ於テ停住申付ラル 

五月十四日雨降ル大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ヲナサシム第一中隊第四中隊援隊タリ第三中隊兵卒(黒塗り)先キニ犯罪アルヲ以テ裁判課ヘ護送セシム而シテ此日第壱中隊ヲ斥候ト乄谷山村ニ遣ハシ敵状ヲ探ラシム路上僅カニシテ谷山村ニ至ラントシ賊先キニ之レヲ望見シ火ヲ民家ニ放チ戦ハスシテ遁レ去ル帰報時既ニ午後六時三十分ナリ

五月十五日天曇大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシム第二第三中隊援隊タリ

五月十六日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシム第一第四中隊援隊タリ此ノ日第二中隊兵卒(黒塗り)猥リニ人民ノ所有金ヲ私シ加之人部等ノ如キ賤夫ト賻奕スルノ科ニ依リ一等懲罰ニ處セラル皆戴罪服務タリ

五月十七日天雨大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシム第二中隊第三中隊援隊タリ此ノ日酒肴ヲ配與シテ数日ノ軍務ヲ慰サム

 この酒肴とは、前日に勅使東久世侍従が各旅団に慰問として配ったものである。

五月十八日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代セシム第一中隊第四中隊援隊タリ開戦以降死傷ノ人員簿ヲ聯隊ヘ致シ先キニ第三中隊兵卒群立ヲ犯スノ科ニ依リ除隊ノ上徒刑三年ニ處セラレタリ此ニ於テ各兵卒大ニ軍人ノ名誉ヲ害スル最モ懼ルヽ處アリテカ其奮勵前日ニ比スレハ実ニ百倍ヲ加フト恐クハ夫レ必シモ大ニ悟ル処アルナルヘシ嗟☐隆恩ナルカナ苟モ人臣トナツテノ危難ノ間ニ處シ誰カ天皇陛下ノ為メニ死力ヲ致シテ逆賊ヲ討セサル者アランヤ況ヤ如此ノ賜ヲ受ル者ニ於テヲヤ此ノ日賊頻リニ大砲ヲ放チ官軍亦之ニ應ス砲戦数時ニシテ休ム

 この日薩軍は鹿児島在陣の官軍の周囲を囲み、巨砲数門を武大明神の丘、二本松、タンタトウの上に置き各所を砲撃している。

五月十九日天晴大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシム第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム

五月二十日天曇大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ヲナサシメ第一中隊第四中隊ヲシテ援隊タラシム既ニシテ児玉大尉先キニ傷処ノ銃創再ヒ発シテ病院ニ入ル

五月二十一日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム此ノ日ヨリ援隊ノ半ヲ健康保護ノ為メ散歩ヲ許サル

五月二十二日天晴ル大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一第四中隊ヲシテ援隊タラシム先キニ島津氏後代ノ寶刀紛失シタト此ニ於テ各中隊詮議取調ノ命下ル

五月二十三日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム

五月二十四日天晴ル此ノ日第二中隊長大川矩文等竹村進擊ノ命ヲ奉シ此ニ於テ午前第二時兵ヲ軍門ニ勒シ凖備整テ而シテ先ツ発ス時ニ夜甚タ暗黒ニシテ道路咫尺ヲ辨セス諸兵牧ヲ含テ間道ヲ進ム既ニシテ賊ノ塁下ニ迫リ火ヲ民家ニ放チ不意ニ乗シテ仰テ攻ム烟々空ヲ蔽ヒ勢雷電ヲ覆ス賊守ヲ撤シテ山上ニ遁ル而シテ賊亦急ニ散兵ヲ以テ之レヲ拒ク飛弾雨注ノ如ク我兵輙スク攀チ登ルヿ能ハス而乄亦官軍遥ニ大砲ヲ発シテ我軍勢ヲ援ク然レ共賊頗ル要領ヲ得テ敢テ退屈セス益々兵ヲ増シテ我道路ヲ絶ントスルノ勢アリ官軍最悪シ矩文等又兵ヲ引テ帰ル時ニ午后第四時ナリ此ニ於テ酒ヲ営前ニ縦テ戦労ヲ慰サム

 最後の行にある矩文は第七聯隊第一大隊第二中隊長大川矩文大尉のことである。しばしばこのように姓ではなく名が出てくるので、本戦記は各中隊長の戦記をそっくり含んだ部分が多いに違いない。「戰記稿」では「午前三時五十分諸道一薺ニ進ム」とあり、本戦記に登場する部隊に限ると、第二中隊は右翼が西田橋より本道、中央が高麗橋より武岡の麓に進路を定めていた。砲隊は高麗橋と武橋の各大砲が応援の射撃を行った。最終的には武村背後の山を麓から進撃しようとしたが薩軍の猛烈な射撃を受けて退却しており、別働第一旅団の戦死は永田少佐を合わせ32人だった。

 この日の戦闘は午前7時までだったとあり、戦記の記述とは異なる。

五月二十五日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム午前第三時第四中隊其ノ一小隊ヲ遣シテ賊状ヲ探リシム仝四時三十分帰隊ス

五月二十六日天晴ル大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊ヲシテ援隊タラシム

 官軍は台場の修繕のため付近の山から竹を伐採していた。

  別働第一旅團ハ胸壁修繕ノ爲メ午前九時若干兵ヲ涙橋近傍ニ出シ竹ヲ伐ラ

  シム時ニ賊突然歸路ヲ遮ル我兵寡少ニシテ頗ル危シ急ニ若干兵ヲ出シ赴援

  セシム賊復タ戰ハス蹤ヲ晦シテ去ル我下士卒二名輕傷ヲ受ケ小銃九口ヲ失

  フ(「戰記稿」)

五月二十七日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム小繃帯所ヲ仙石馬塲通リヘ轉ス

五月二十八日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊ヲシテ援隊タラシム

五月二十九日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム

五月三十日天晴大哨兵第二中隊第三中隊ヲシテ交代ナサシメ第一中隊第四中隊ヲシテ援隊タラシム此ヨリ先キ第四中隊附島村少尉試補三月二十八日肥後ノ国松𣘺ニ於テ戦争ノ際銃創ヲ被リ爾来長﨑病院ニ於テ創痍ヲ治セシカ創痍既ニ癒テ此日帰隊ス

五月三十一日天晴ル大哨兵第一中隊第四中隊ヲシテ交代ナサシメ第二中隊第三中隊ヲシテ援隊タラシム