はじめに
西南戦争時、軍隊は移動して宿営する度に周囲を警戒する必要があった。5月31日の大分県三重市東側の戦い後の官軍について述べたい。
1877年5月12日、延岡から大分県佐伯市重岡に侵入した薩軍は翌13日竹田に進んで戦うことなく占領した。当時大分県内には殆ど政府側の部隊が居なかったので、この状態をほうっておくと「竹田城ノ存亡ハ大ニ我カ全軍ノ利害ニ關スルヲ以テ山縣參軍ハ急ニ熊本鎭臺兵若干ヲ此口ニ發遣シ更ニ指揮官ヲ撰拔シテ野津大佐ヲ以テ之ニ充テ足タリ(「征西戰記稿」巻三十六豐後口戰記)pp.12」。5月20日、阿蘇方面から熊本鎮台が西方から竹田に進んだ。丁度この前後に警視隊も出動していた。「警視隊ハ是ヨリ先、五月十八日萩原三等大警部貞固巡査七百餘名ヲ率テ東京ヲ發シ之ヲ六小隊ト爲シ池田二等少警部九十郎日高三等少警部重晴平田武雄中澤直亮末永齋介高倉義光ノ五少警部各三等ヲシテ各隊ニ長タラシメ二十二日大分ニ抵リ稱シテ豐後口警視徴募隊ト曰(同上pp.16)」った。5月25日から始まった警視隊を含む官軍の攻撃により29日に決着がつき、薩軍は竹田から東側に退却し、一部は三重市(三重町)に、一部は重岡方面に移動した。三重市に進んできた薩軍を迎え撃とうと大分市方面から進んだ奥安鞏(やすかた)少佐が率いる官軍だったが、官軍は三重町に入ったのは少数の薩軍だと判断を誤っていた。実は重岡に一旦退却した薩軍数百人が三重町に集まり、総数は千人前後に膨れ上がっていた。大分方面から進んだ官軍は5月31日、三重市郊外東部で戦い、予想外の敵の多さに圧倒され、包囲挟撃されて多数の死傷者を出して大分市方面に敗走してしまった。初めは犬飼町大寒まで次いで戸次に退いた。「戰記稿」の該当部分を掲げる。
(※5月31日)是日午前四時小倉枝隊ハ大寒ヲ發シ六時三重市ノ東ニ開戰シ山中ノ壘ヲ拔キ直チニ三重市ニ入ル三重市ノ賊ハ初メ數十名ニ過キス我軍諜シテ之ヲ知リ乃チ一蹴之ヲ穰ハント欲シテ進入セリ然ルニ昨夜ニ至リ竹田ヨリ退クノ賊數百人皆來テ此ニ在リ伏ヲ設ケテ前後ヨリ我ヲ擊ツ我兵其包圍ニ陥リ戰ヒ最モ苦ム遂ニ一方ヲ突貫シ正午大寒ニ退キ更ニ戸次ニ轉シテ守備ス
奥少佐引率の小倉枝隊には別働遊撃隊が加わっていた。5月15日記事を掲げる。
十五日賊既ニ豐後ニ侵入セルヲ以テ熊本鎭臺山根少佐ヲシテ二中隊第十四聯隊第二大隊第二第三中隊ヲ率テ百貫石沖ヨリ汽船豐島丸ニ搭シ小倉ニ赴カシメ奥少佐ヲシテ士官下士若干名ト共ニ陸路叉小倉ニ向ヒ且ツ馬關屯在之別働遊擊第一中隊及ヒ小倉方面之諸兵ヲ指揮セシメ在大津町ノ一中隊第六聯隊ヲ内牧ニ進メ槇峠大尉盛敏ヲシテ之ヲ管セシメ叉八代ニ分遣セシ二中隊第六聯隊第一大隊第一第三中隊ヲ熊本ニ収ム
これとは別に薩軍を竹田から追い出した阿蘇から来た熊本鎮台もこの日西方から進んで来たが、小戦の後、退却している。三重市東部の戦いでは官軍の戦死31人、負傷12人が発生した。次に引用する戦記では死傷者数が「戰記稿」と異なるが、それは自分たちの部隊についてだけ記しているからである。 あ12行前の戸次ニ轉シテ守備スの部分が気になっている。それ以上の記述が無いので守備の具体的な様子が分からない。戸次集落の中の道路を守備したのだろうか。多数の死傷者を出して敗走し、やっと戸次まで辿り着き、安心して哨兵を配置することもなく休憩したのだろうか。そんなはずはないだろう。
それ以上あまり考えなかったのだが、見過ごしていた次の記録に気が付いたので前後の部分も一緒に掲げる。 「乃木大将所蔵 西南戦争従軍日誌 第十四聯隊第二大隊」1950 下関文書館史料叢書25
五月二十八日
第一中隊第一小隊府内ヲ発シ大分縣下戸次驛ニ出張ス午后大寒駅出張ノ別働遊撃第一中隊村田大尉へ為牒合上原曹長ヲ遣ハス且ツ川登リ地方へ探偵ヲ出ス 府内ヲ発スルヤ隊中費用ノ金ニ乏シキヲ以テ縣廰ニ依頼シ前途粮食支給ノ事ヲ託ス縣廰ヨリ十等属小野惟一郎ヲ従属セシム 第二中隊ハ中津ヲ発シ立石驛ニ宿陣ス
5月28日、第二大隊第一中隊の半分第一小隊は府内を出て下戸次(しもへつぎ)に進んだ。(大野川の上流12,5㎞南側の)大寒(おおそう)にいる別働遊撃第一中隊の村田大尉と打ち合わせるため上原曹長を派遣すると共に、(大寒の南東8,5㎞にあり、野津川流域の)川登地方に探偵を出した。野津川沿い路線は佐伯に通じているので、その方面も警戒したのである。

五月二十九日
第一中隊第二小隊ハ本月廿七日中津ヲ発シ本日戸次驛ニ着ス同中隊恒冨軍曹復隊喇叭卒大庭勝次郎誤テ喇叭卒米原清太郎銃創ヲ負ハス 第二中隊立石驛ヲ発シ大分城下ニ宿陣ス
第一中隊の残り半分が27日中津を出発し、この日戸次に到着した。第二中隊は前日中津から山香町立石に移動していたが、29日に立石を出発し大分城下に到着した。
五月三十日
第一中隊戸次驛出発大寒驛ニ進軍午后該駅ニ至リ別働遊撃第一中隊ニ會ス同隊銃卒山本長十病ニ罹リ入院第二中隊ハ大分城下ニ滞陣ス
前日戸次で全隊が揃った第一中隊は大寒集落に着き、別働遊撃第一中隊に会った。第二中隊は昨日来、大分城下に滞陣中である。
五月三十一日 第一中隊三重市進撃第三時大寒驛ヲ発シ前駆別働遊撃第一中隊村田大尉引率之ヲ三分シ一ツヲ本道ヨリシテ一ツヲ翼撃一ツヲ迂回ノ兵ニ充ツ以テ三道ヨリ進ム援隊ハ當中隊ノ第二小隊小畑中尉引率本道ヨリ進ム同第五時前市ヲ距ル五丁余ノ處ニシテ塁ヲ築キ賊三四十名斗リニテ防戦ス我先捜兵討ツテ之ヲ抜キ進テ市ヲ距ル一二丁ノ前ニテ援隊ヲ二分シ一ヲ安部井少尉引率右方ヨリ迂回シ一ヲ小畑中尉引率本道ヨリ進ミ前駆遊撃一中隊本道ヨリスルノ兵左翼丘山ニ因リ攀躋スルニ当テ賊兵更ニ五六百名余ヲ市ヨリ繰出シ正面左右三手ニ分レ疾駆シテ来ル我前駆兵末タ山頂ニ在リ我兵ノ横背ニ向ヒ発射スル事飛霰ノ如シ加フルニ前面ニ受クル所ノ賊鋭ク襲ヒ来リ勢ヒ當ル可ラス左翼山腹ニ在ル遊撃隊ノ一手力尽キ地ヲ背后ニ占ントス賊愈勢ヒ倍徒(※草冠)シ縦横衝突ヲ受ケ衆寡敵セス遂ニ亦包圍ニ陥リ事玆ニ谷レリ于時奥少佐ヨリハ右方丘山ニ引揚地利ニ拠リテ防禦セン事ヲ命ス依テ我兵半ハ右方山腹ニ引キ喇叭卒山本丈六後藤佐市銃卒末次三次郎等ヲシテ火力ヲ盛ンニシ防禦ノ際賊已ニ左右迂回ノ兵ヲ馳セ従横左右急撃ニ罹リ百方尽スト雖トモ利アラス終ニ小畑中尉村田大尉ト左右ニ分レ僅々残兵ヲ収メ負傷者ヲ助ケ奥少佐ニ随ヒ大寒駅ニ引揚于時午前第十時ナリ安部井少尉ノ引率スル一隊ハ退路苦難賊ノ掩阻ニ陥リ僅ニ銃卒四名辛フシテ退帰スルノ外悉ク戦死ス 第二中隊ハ大分城下ヲ発シ戸次村ヨリ進ミ凡二十丁許ニシテ三重市ニ戦フ処ノモノ利アラスシテ退却スルニ遇フ故ニ戸次ニ退キ防禦地ヲ撰ムト雖モ其比隣地形皆弁ナラサルヲ以テ半田村ニ退キ要地ヲ占メ防禦線ヲ布ク 本日死傷左ノ通リ
第一中隊
死 少 尉 安部井 香 木
死 軍 曹 平 松 徳 次
死 伍 長 吉 田 記太郎
死 伍 長 岡田 兵右ヱ門
死 銃 卒 市 川 戌三郎
死 銃 卒 山 崎 孫 平
死 銃 卒 江 崎 久 吉
死 銃 卒 横 尾 又 吉
死 銃 卒 江 口 庄 蔵
死 銃 卒 高 司 幸太郎
死 銃 卒 玉 井 正 記
死 銃 卒 四 宮 桂
死 喇叭卒 石 川 清四郎
傷 曹 長 上 原 尚 英
傷 銃 卒 高 口 丑太郎
傷 銃 卒 本 多 喜十郎
傷 銃 卒 稲 原 庄太郎
此日大寒駅ニ引揚クルヤ此地要害ニ乏シク加之間道四違防禦ニ便ナラス且賊臼杵街道ニ紆回スルノ報アルヲ以テ早ク戸次駅ヲ守ルニ如カスト奥少佐ノ命ニ依リ第一中隊ハ全軍大寒駅ヲ発シ戸次驛ニ引揚ケ別働遊撃隊ヲシテ要区ニ大哨兵ヲ配布シ第一中隊ハ犬飼川ヲ隔テ光永村ニ布陣ス
熊本鎮台第二大隊第一中隊と別働遊撃第一中隊は午前3時に大寒から三重市(みえいち)攻撃に出発した。遊撃隊は本道・その外側(翼撃はよく分からない)・敵の迂回に備える者に分かれて進んだ。援隊は当中隊の第二小隊であり、小畑少尉が率いて本道を進んだ。午前五時前、三重市手前500m余の所に薩軍が塁を築いて3、40人で防戦していた。我軍の先頭の兵が攻撃して奪い、進んで市街の100mから200m手前で援隊を二分し、一つを安部井少尉が率いて右方から迂回し、残り半分を小畑中尉が率いて本道から進んだ。前駆の遊撃一中隊で本道を進むものは左翼にある丘に登る際、市街地から敵が正面左右の三方向に分かれて500人から600人が駆け足でやって来た。遊撃隊がまだ山頂にいる段階で彼らの横背中に向かい銃弾が霰のように降り注いできた。加えて前面からも鋭く襲い掛かり当たるべからざる勢いだったので、左翼山腹にいた遊撃隊の一手は力尽き地ヲ背后ニ占ントス賊愈勢ヒ倍徒シ縦横衝突ヲ受ケ衆寡敵セス遂ニ亦包圍ニ陥リ事玆ニ谷レリ時に奥少佐が右方の丘に引き揚げ地の利を得た状態で防禦せよと命じるので、我々官軍の半分は右の方の山腹に退きラッパ卒山本丈六・後藤佐市、銃卒末次三次郎らに銃撃させて射撃を盛んにおこなった。この防禦の際、敵は四方から攻撃してくるので官軍に利が無く、小畑中尉と村田大尉は残った少数の部下と負傷者を伴い奥少佐と午前10時大寒集落まで引上げた。本道右側から攻撃した安部井少尉の隊(第二小隊の半分)は退却時に敵に囲まれ僅かに銃卒4人だけが生還し、他は戦死した。 あ死傷者一覧を略すが、「戰記稿」では第十四聯隊第二大隊の第一中隊が負傷1、第三中隊が死13・負傷3となっている。 あこの日、大寒集落に引き揚げてきたが、この場所は要害が少なく、道が四方に通じており防禦に不便だった。しかも薩軍が南東側の臼杵街道に迂回しているという情報があるので、早く戸次集落で守るのがよいと奥少佐の命で第一中隊全員は戸次集落に引き揚げ、別働遊撃隊を必要な場所に全員哨兵として配置し、第一中隊は犬飼川の西側、光永村に守備を布いた。
六月一日
賊臼杵ヲ襲撃シ該地出張ノ警視隊及ヒ士族一同防戦スト雖モ遂ニ不利ニシテ臼杵ノ賊ノ有トナリタル報知アリ 爰ニ於テ議アリ当方面地形悪シク孤軍ニシテ兵寡ク臼杵ヲ攻ルモ難ク此地ヲ守ルモ便ナラス此際若シ勢ニ乗シ臼杵本道ヨリ大分縣廰ヲ襲フトキハ腹背敵地トナリ且大分城僅ノ警視隊ヲ以テ拒守シ得ル難シ万一此事アルニ於テハ府内以北警備ノ兵アラス賊勢延蔓スルニ至テハ其害容易ナラス実ニ危急ノ大事ナリ速カニ大分城ニ拠テ防禦ノ策ヲ立テ各方面ノ諸隊へ諜合スルニ如スト奥少佐ノ指揮ニ依リ翌二日城ニ入ルノ用意ヲナス 第二中隊ハ守地ヲ警視隊ニ譲リ戸次ヨリ佐柳村ニ進ミ防禦線ヲ布ク此時ニ当リ三重市ノ賊臼杵ニ亘リ其勢頗ル猖獗且戸次ニアル処ノ官軍僅ニ三百人ニ過キス之ヲ以テ各処ヲ拒ム実ニ難シトス是ニ於テ大分城ニ入ル守防之策ヲ決ス 本日山根少佐司令長官ノ命ニ依リ熊本ヲ発シ豊后国竹田地方へ出張賊 臼杵ヲ襲撃シ該地出張ノ警視隊及ヒ士族一同防戦スト雖モ遂ニ不利ニシテ臼杵ノ賊ノ有トナリタル報知アリ 爰ニ於テ議アリ当方面地形悪シク孤軍ニシテ兵寡ク臼杵ヲ攻ルモ難ク此地ヲ守ルモ便ナラス此際若シ勢ニ乗シ臼杵本道ヨリ大分縣廰ヲ襲フトキハ腹背敵地トナリ且大分城僅ノ警視隊ヲ以テ拒守シ得ル難シ万一此事アルニ於テハ府内以北警備ノ兵アラス賊勢延蔓スルニ至テハ其害容易ナラス実ニ危急ノ大事ナリ速カニ大分城ニ拠テ防禦ノ策ヲ立テ各方面ノ諸隊へ諜合スルニ如スト奥少佐ノ指揮ニ依リ翌二日城ニ入ルノ用意ヲナス 第二中隊ハ守地ヲ警視隊ニ譲リ戸次ヨリ佐柳村ニ進ミ防禦線ヲ布ク此時ニ当リ三重市ノ賊臼杵ニ亘リ其勢頗ル猖獗且戸次ニアル処ノ官軍僅ニ三百人ニ過キス之ヲ以テ各処ヲ拒ム実ニ難シトス是ニ於テ大分城ニ入ル守防之策ヲ決ス 本日山根少佐司令長官ノ命ニ依リ熊本ヲ発シ豊后国竹田地方へ出張
敵が臼杵を襲撃しそこに出張していた警視隊と地元士族は防戦したが結局占領されたとの報知があった。戸次方面は地形が悪く他に仲間もなく少数の兵しかいない状態であり単独で臼杵を攻撃するのも困難である。敵が臼杵から白木峠・広内村を通る路線を進んで大分県庁を襲う場合、戸次にいては正面も背後も敵地となり、しかも大分城にはわずかの警視隊しかいないので敵を防ぎきれないだろう。万一そうなれば大分市以北には官軍が居ないので、敵の占領地域が広がってしまいその悪影響は計り知れないだろう。速やかに大分城に入って防禦の準備をした方がいいとして奥少佐の指揮で翌日の入城の準備を行った。第二中隊は前日の敗走後に判田村(半田村ニ退キ要地ヲ占メ防禦線ヲ布ク)にいたのだが、6月1 日、持場を警視隊に譲って戸次東側の佐柳村に防禦線を設けた。臼杵方向を警戒したのである。


六月二日
第一第二中隊共ニ城中ニ入リ防禦ノ準備ヲナシ賊襲フヲ待ツ賊来ラス 第一中隊将校以下八十二名第二中隊同八十名別働遊撃隊百三名警視隊百七十名地方巡査五十名惣計四百八十余名 小畑中尉命ニ依リ竹田方面へ出張
第一第二中隊は大分城に入り防禦の準備をしたが、敵は来なかった。第一中隊82人・第二中隊80人・別働遊撃隊103人・警視隊170人・地元巡査50人の計485人。
小畑中尉は竹田方面へ出張した。前日佐柳村に配置についた警視隊がこの日大分城に入ったのかは不明。
以上のように「戰記稿」は31日の敗走後に戸次に退却し守備したとだけ記すが、「乃木大将所蔵 西南戦争従軍日誌 第十四聯隊第二大隊」ではどこで守備したのかもっと詳しく書いている。別働遊撃隊ヲシテ要区ニ大哨兵ヲ配布し、第一中隊ハ犬飼川ヲ隔テ光永村ニ布陣し、第二中隊は半田村ニ退キ要地ヲ占メ防禦線ヲ布いたのである。やはり戦争中の軍隊だから無防備で戸次集落に宿をとり休憩したのではなかった。翌6月1日、薩軍が臼杵を占領したことを知り、前日判田村に防禦線を構えていた第二中隊ハ守地ヲ警視隊ニ譲リ戸次ヨリ佐柳村ニ進ミ防禦線ヲ布き替えていている。大分川の西側地域の警備を撤収し、臼杵に近い戸次の東側に警備地域を変更したのである。とすれば前日は三重市方面から薩軍が追撃してくることに備えたのだろう。薩軍が戸次を無視して東方の臼杵に向かったことを知らなかったのである。
戦跡
ここで気になるのが現地に今でも警備線・哨兵線の痕跡が残っているかである。数年前、臼杵市・大分市境界地帯の戦跡分布状態を調べまわり、ついでに戸次の東側の佐柳付近の丘や山を調べたことがあったが、現在の地図を見れば分かるように戸次付近は人工の手が加わった場所が多く、台場跡や塹壕跡は確認できなかった。今回、光永村や判田村に防禦線を配置したことが分かったので現地を確認しようと地図を見た。住宅団地開発のため旧地形が損なわれた場所が多い。山は削られ谷は埋められている。台場を築きそうな付近の最高所は殆ど消滅しているが、わずかに可能性がありそうなところに行ってみた。
あ緑・青・赤の順で歩いたが戦跡はなかった。 あ光永村は現在の地図には存在しないが、二番目に示す地図に光永と貼り付けた付近がそれである。戦跡を平地で探しても無駄なので、北東側の山に探しに出かけた。京が丘南団地の南西側に旧地形が少し残っている部分である。小牧山古墳群駐車場に駐車して歩き始める。初めは団地の南外側の森に入った。細尾根が続き、台場跡はない。
下は細尾根の一つの高まり。
あ帰りがけに南東方向遠景を撮影。峠城跡は数年前に台場跡探しの際に自分が発見した中世の山城跡。鶴賀城一帯では1587年頃に島津軍が大友方を破る戦いがあり、峠城はその頃使われたらしい。霞んで見える武山は最近何回も登った城跡で、同じ時の戦いで落城している。西南戦争の台場跡もある。

駐車場の看板。

あ古墳群のある山も京が丘南団地の造成で消滅する筈だったが古墳があったおかげで工事範囲から除外された。
つづく