西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

キオビエダシャク

 今年になって羽を広げると円い紋様になる黒色と橙色の蝶々が飛ぶようになった。昨日の大分県内のニュースでそれが最近大分県にも現れた蛾(が)であると知ったので、写真機を持って庭に出て探した。すぐに飛んでいるのを見つけ、追いかけると欅(けやき)の葉にとまったので撮影できた。

◎チャットにいつから九州にいるのかと訊くと「キオビエダシャクが九州(特に鹿児島)で定着したのは2000年代初頭です。その後、2010年頃までに宮崎県南部へ分布を広げ、現在は熊本・大分まで北上しています。」とのこと。

◎同じ質問をGeminiにすると次のように答えた。

キオビエダシャク(イヌマキなどの葉を食べる外来種のガ)が九州本島に現れた時期には、「昭和中期(1950年代)」「平成12年(2000年)以降」という2つの大きな波(記録)があります。

歴史的な流れを整理すると以下のようになります。

1. 最初の記録:1950年代(昭和中期)

九州本島(主に鹿児島県や宮崎県などの南九州)では、1950年代に一度大発生した記録が残っています。しかし、この時は数年ほどで一度終息し、その後は長い間姿を消していました(空白期間)。

2. 定着・本格的な拡大:2000年(平成12年)以降

現在につながる本格的な発生と定着が確認されたのは、2000年(平成12年)以降です。 鹿児島県や宮崎県で再び目撃・被害が相次ぐようになり、そこから徐々に生息域を北上させていきました。

近年の状況(北上傾向)

近年は地球温暖化による冬期の気温上昇や、人の移動(苗木の移動など)に伴ってさらに北へ広がっています。

  • 2025年(令和7年)夏以降: それまで被害が少なかった大分県(佐伯市や臼杵市など)でも目撃情報や生息が相次いで確認され、自治体が注意を呼びかける事態になっています。

もともとはインドやマレー半島、日本では沖縄などの温暖な地域にいた昆虫ですが、ここ20年ほどで九州南部へ完全に定着し、現在進行形で九州北部へと生息エリアを広げています。

 geminはチャットよりも詳しくてよい。こんなのが増えると悪いのでスズメバチをやっつける液体を吹き付けて退治した。

「知られざる古代出雲紀行」をいただきました

 創元社から今月20日付で刊行された平野芳英さんの本です。出雲の古代の信仰や民間信仰について紹介しています。2,500円。全239頁。 

 内容は、「第1部 出雲の石神と神社・第2部 出雲・隠岐の磐座と庶民生活の関わり 第3部 青銅器祭祀をめぐって 第4部 民間信仰いろいろ」です。

 巨岩を信仰対象とした信仰対象地や神社の写真が多数掲載されている。興味深かったのは巨岩の周辺で発見された多数の破片となった銅鐸の紹介でした、知らなかったので。

 

私学校の石垣移設

  以前、鹿児島市にある私学校跡の石垣は道路拡張のために西側に移動していると書いたが、旧状を残しつつ移動工事を行ったことが分かったのでお知らせします。

 それは鹿児島市のセンテラス天文館図書館での「鹿児島市の戦災と復興資料・写真展」です。鹿児島の某🐸さんから転送して頂きました。それによると昭和31年(1956)に現国道10号の拡幅工事の際、西側に移設したとのことです。長さ200mの石垣に碁盤の目のように30㎝方眼の線を引き、各石に番号をつけて13m移動したそうです。熊本城の石垣復元のようにやったわけです。正確には熊本城の石垣復元は私学校石垣工事のようにやったわけです。昔の状態をなるべく残そうとした当時の人達の誠意が示されています。 

 となれば石垣面の銃弾痕も御楼門石垣(発掘調査報告書が出ているので、奈良文化財研究所の全国文化財総覧でネット閲覧できます)のように詳しく分布状態を知りたいと思いました。

発掘で出土した遺物展示会の絵    ※人物名を記入しました

以前描いた絵です。現説(発掘現場説明会と勘違いしていたが、建物内で行う展示会でした)これを下地にしてポスターを作製しました。登場人物に色んな人を入れました。愛犬のクルタ・谷・大久保・山縣・野津・川路・西郷・篠原・桐野・・など。

 

三重市(みえいち)敗走直後の官軍    続く

はじめに

 西南戦争時、軍隊は移動して宿営する度に周囲を警戒する必要があった。5月31日の大分県三重市東側の戦い後の官軍について述べたい。

 

  1877年5月12日、延岡から大分県佐伯市重岡に侵入した薩軍は翌13日竹田に進んで戦うことなく占領した。当時大分県内には殆ど政府側の部隊が居なかったので、この状態をほうっておくと「竹田城ノ存亡ハ大ニ我カ全軍ノ利害ニ關スルヲ以テ山縣參軍ハ急ニ熊本鎭臺兵若干ヲ此口ニ發遣シ更ニ指揮官ヲ撰拔シテ野津大佐ヲ以テ之ニ充テ足タリ(「征西戰記稿」巻三十六豐後口戰記)pp.12」。5月20日、阿蘇方面から熊本鎮台が西方から竹田に進んだ。丁度この前後に警視隊も出動していた。「警視隊ハ是ヨリ先、五月十八日萩原三等大警部貞固巡査七百餘名ヲ率テ東京ヲ發シ之ヲ六小隊ト爲シ池田二等少警部九十郎日高三等少警部重晴平田武雄中澤直亮末永齋介高倉義光ノ五少警部各三等ヲシテ各隊ニ長タラシメ二十二日大分ニ抵リ稱シテ豐後口警視徴募隊ト曰(同上pp.16)」った。5月25日から始まった警視隊を含む官軍の攻撃により29日に決着がつき、薩軍は竹田から東側に退却し、一部は三重市(三重町)に、一部は重岡方面に移動した。三重市に進んできた薩軍を迎え撃とうと大分市方面から進んだ奥安鞏(やすかた)少佐が率いる官軍だったが、官軍は三重町に入ったのは少数の薩軍だと判断を誤っていた。実は重岡に一旦退却した薩軍数百人が三重町に集まり、総数は千人前後に膨れ上がっていた。大分方面から進んだ官軍は5月31日、三重市郊外東部で戦い、予想外の敵の多さに圧倒され、包囲挟撃されて多数の死傷者を出して大分市方面に敗走してしまった。初めは犬飼町大寒まで次いで戸次に退いた。「戰記稿」の該当部分を掲げる。

(※5月31日)是日午前四時小倉枝隊ハ大寒ヲ發シ六時三重市ノ東ニ開戰シ山中ノ壘ヲ拔キ直チニ三重市ニ入ル三重市ノ賊ハ初メ數十名ニ過キス我軍諜シテ之ヲ知リ乃チ一蹴之ヲ穰ハント欲シテ進入セリ然ルニ昨夜ニ至リ竹田ヨリ退クノ賊數百人皆來テ此ニ在リ伏ヲ設ケテ前後ヨリ我ヲ擊ツ我兵其包圍ニ陥リ戰ヒ最モ苦ム遂ニ一方ヲ突貫シ正午大寒ニ退キ更ニ戸次ニ轉シテ守備ス

 奥少佐引率の小倉枝隊には別働遊撃隊が加わっていた。5月15日記事を掲げる。

十五日賊既ニ豐後ニ侵入セルヲ以テ熊本鎭臺山根少佐ヲシテ二中隊第十四聯隊第二大隊第二第三中隊ヲ率テ百貫石沖ヨリ汽船豐島丸ニ搭シ小倉ニ赴カシメ奥少佐ヲシテ士官下士若干名ト共ニ陸路叉小倉ニ向ヒ且ツ馬關屯在之別働遊擊第一中隊及ヒ小倉方面之諸兵ヲ指揮セシメ在大津町ノ一中隊第六聯隊ヲ内牧ニ進メ槇峠大尉盛敏ヲシテ之ヲ管セシメ叉八代ニ分遣セシ二中隊第六聯隊第一大隊第一第三中隊ヲ熊本ニ収ム

 これとは別に薩軍を竹田から追い出した阿蘇から来た熊本鎮台もこの日西方から進んで来たが、小戦の後、退却している。三重市東部の戦いでは官軍の戦死31人、負傷12人が発生した。次に引用する戦記では死傷者数が「戰記稿」と異なるが、それは自分たちの部隊についてだけ記しているからである。                       12行前の戸次ニ轉シテ守備スの部分が気になっている。それ以上の記述が無いので守備の具体的な様子が分からない。戸次集落の中の道路を守備したのだろうか。多数の死傷者を出して敗走し、やっと戸次まで辿り着き、安心して哨兵を配置することもなく休憩したのだろうか。そんなはずはないだろう。

 それ以上あまり考えなかったのだが、見過ごしていた次の記録に気が付いたので前後の部分も一緒に掲げる。                              「乃木大将所蔵 西南戦争従軍日誌 第十四聯隊第二大隊」1950 下関文書館史料叢書25

五月二十八日

第一中隊第一小隊府内ヲ発シ大分縣下戸次驛ニ出張ス午后大寒駅出張ノ別働遊撃第一中隊村田大尉へ為牒合上原曹長ヲ遣ハス且ツ川登リ地方へ探偵ヲ出ス         府内ヲ発スルヤ隊中費用ノ金ニ乏シキヲ以テ縣廰ニ依頼シ前途粮食支給ノ事ヲ託ス縣廰ヨリ十等属小野惟一郎ヲ従属セシム                             第二中隊ハ中津ヲ発シ立石驛ニ宿陣ス

 5月28日、第二大隊第一中隊の半分第一小隊は府内を出て下戸次(しもへつぎ)に進んだ。(大野川の上流12,5㎞南側の)大寒(おおそう)にいる別働遊撃第一中隊の村田大尉と打ち合わせるため上原曹長を派遣すると共に、(大寒の南東8,5㎞にあり、野津川流域の)川登地方に探偵を出した。野津川沿い路線は佐伯に通じているので、その方面も警戒したのである。 

 五月二十九日

第一中隊第二小隊ハ本月廿七日中津ヲ発シ本日戸次驛ニ着ス同中隊恒冨軍曹復隊喇叭卒大庭勝次郎誤テ喇叭卒米原清太郎銃創ヲ負ハス                    第二中隊立石驛ヲ発シ大分城下ニ宿陣ス 

 第一中隊の残り半分が27日中津を出発し、この日戸次に到着した。第二中隊は前日中津から山香町立石に移動していたが、29日に立石を出発し大分城下に到着した。

  五月三十日

第一中隊戸次驛出発大寒驛ニ進軍午后該駅ニ至リ別働遊撃第一中隊ニ會ス同隊銃卒山本長十病ニ罹リ入院第二中隊ハ大分城下ニ滞陣ス

 前日戸次で全隊が揃った第一中隊は大寒集落に着き、別働遊撃第一中隊に会った。第二中隊は昨日来、大分城下に滞陣中である。

  五月三十一日                                  第一中隊三重市進撃第三時大寒驛ヲ発シ前駆別働遊撃第一中隊村田大尉引率之ヲ三分シ一ツヲ本道ヨリシテ一ツヲ翼撃一ツヲ迂回ノ兵ニ充ツ以テ三道ヨリ進ム援隊ハ當中隊ノ第二小隊小畑中尉引率本道ヨリ進ム同第五時前市ヲ距ル五丁余ノ處ニシテ塁ヲ築キ賊三四十名斗リニテ防戦ス我先捜兵討ツテ之ヲ抜キ進テ市ヲ距ル一二丁ノ前ニテ援隊ヲ二分シ一ヲ安部井少尉引率右方ヨリ迂回シ一ヲ小畑中尉引率本道ヨリ進ミ前駆遊撃一中隊本道ヨリスルノ兵左翼丘山ニ因リ攀躋スルニ当テ賊兵更ニ五六百名余ヲ市ヨリ繰出シ正面左右三手ニ分レ疾駆シテ来ル我前駆兵末タ山頂ニ在リ我兵ノ横背ニ向ヒ発射スル事飛霰ノ如シ加フルニ前面ニ受クル所ノ賊鋭ク襲ヒ来リ勢ヒ當ル可ラス左翼山腹ニ在ル遊撃隊ノ一手力尽キ地ヲ背后ニ占ントス賊愈勢ヒ倍徒(※草冠)シ縦横衝突ヲ受ケ衆寡敵セス遂ニ亦包圍ニ陥リ事玆ニ谷レリ于時奥少佐ヨリハ右方丘山ニ引揚地利ニ拠リテ防禦セン事ヲ命ス依テ我兵半ハ右方山腹ニ引キ喇叭卒山本丈六後藤佐市銃卒末次三次郎等ヲシテ火力ヲ盛ンニシ防禦ノ際賊已ニ左右迂回ノ兵ヲ馳セ従横左右急撃ニ罹リ百方尽スト雖トモ利アラス終ニ小畑中尉村田大尉ト左右ニ分レ僅々残兵ヲ収メ負傷者ヲ助ケ奥少佐ニ随ヒ大寒駅ニ引揚于時午前第十時ナリ安部井少尉ノ引率スル一隊ハ退路苦難賊ノ掩阻ニ陥リ僅ニ銃卒四名辛フシテ退帰スルノ外悉ク戦死ス                     第二中隊ハ大分城下ヲ発シ戸次村ヨリ進ミ凡二十丁許ニシテ三重市ニ戦フ処ノモノ利アラスシテ退却スルニ遇フ故ニ戸次ニ退キ防禦地ヲ撰ムト雖モ其比隣地形皆弁ナラサルヲ以テ半田村ニ退キ要地ヲ占メ防禦線ヲ布ク                      本日死傷左ノ通リ

  第一中隊                 

  死       少 尉    安部井 香 木

  死       軍 曹    平 松 徳 次

  死       伍 長    吉 田 記太郎

  死       伍 長    岡田 兵右ヱ門

  死       銃 卒    市 川 戌三郎

  死       銃 卒    山 崎 孫 平

  死       銃 卒    江 崎 久 吉

  死       銃 卒    横 尾 又 吉

  死       銃 卒    江 口 庄 蔵

  死       銃 卒    高 司 幸太郎

  死       銃 卒    玉 井 正 記

  死       銃 卒    四 宮   桂

  死       喇叭卒    石 川 清四郎

  傷       曹 長    上 原 尚 英

  傷       銃 卒    高 口 丑太郎

  傷       銃 卒    本 多 喜十郎

  傷       銃 卒    稲 原 庄太郎

 

此日大寒駅ニ引揚クルヤ此地要害ニ乏シク加之間道四違防禦ニ便ナラス且賊臼杵街道ニ紆回スルノ報アルヲ以テ早ク戸次駅ヲ守ルニ如カスト奥少佐ノ命ニ依リ第一中隊ハ全軍大寒駅ヲ発シ戸次驛ニ引揚ケ別働遊撃隊ヲシテ要区ニ大哨兵ヲ配布シ第一中隊ハ犬飼川ヲ隔テ光永村ニ布陣ス

 熊本鎮台第二大隊第一中隊と別働遊撃第一中隊は午前3時に大寒から三重市(みえいち)攻撃に出発した。遊撃隊は本道・その外側(翼撃はよく分からない)・敵の迂回に備える者に分かれて進んだ。援隊は当中隊の第二小隊であり、小畑少尉が率いて本道を進んだ。午前五時前、三重市手前500m余の所に薩軍が塁を築いて3、40人で防戦していた。我軍の先頭の兵が攻撃して奪い、進んで市街の100mから200m手前で援隊を二分し、一つを安部井少尉が率いて右方から迂回し、残り半分を小畑中尉が率いて本道から進んだ。前駆の遊撃一中隊で本道を進むものは左翼にある丘に登る際、市街地から敵が正面左右の三方向に分かれて500人から600人が駆け足でやって来た。遊撃隊がまだ山頂にいる段階で彼らの横背中に向かい銃弾が霰のように降り注いできた。加えて前面からも鋭く襲い掛かり当たるべからざる勢いだったので、左翼山腹にいた遊撃隊の一手は力尽き地ヲ背后ニ占ントス賊愈勢ヒ倍徒シ縦横衝突ヲ受ケ衆寡敵セス遂ニ亦包圍ニ陥リ事玆ニ谷レリ時に奥少佐が右方の丘に引き揚げ地の利を得た状態で防禦せよと命じるので、我々官軍の半分は右の方の山腹に退きラッパ卒山本丈六・後藤佐市、銃卒末次三次郎らに銃撃させて射撃を盛んにおこなった。この防禦の際、敵は四方から攻撃してくるので官軍に利が無く、小畑中尉と村田大尉は残った少数の部下と負傷者を伴い奥少佐と午前10時大寒集落まで引上げた。本道右側から攻撃した安部井少尉の隊(第二小隊の半分)は退却時に敵に囲まれ僅かに銃卒4人だけが生還し、他は戦死した。       死傷者一覧を略すが、「戰記稿」では第十四聯隊第二大隊の第一中隊が負傷1、第三中隊が死13・負傷3となっている。                          この日、大寒集落に引き揚げてきたが、この場所は要害が少なく、道が四方に通じており防禦に不便だった。しかも薩軍が南東側の臼杵街道に迂回しているという情報があるので、早く戸次集落で守るのがよいと奥少佐の命で第一中隊全員は戸次集落に引き揚げ、別働遊撃隊を必要な場所に全員哨兵として配置し、第一中隊は犬飼川の西側、光永村に守備を布いた。

  六月一日                                    

賊臼杵ヲ襲撃シ該地出張ノ警視隊及ヒ士族一同防戦スト雖モ遂ニ不利ニシテ臼杵ノ賊ノ有トナリタル報知アリ                               爰ニ於テ議アリ当方面地形悪シク孤軍ニシテ兵寡ク臼杵ヲ攻ルモ難ク此地ヲ守ルモ便ナラス此際若シ勢ニ乗シ臼杵本道ヨリ大分縣廰ヲ襲フトキハ腹背敵地トナリ且大分城僅ノ警視隊ヲ以テ拒守シ得ル難シ万一此事アルニ於テハ府内以北警備ノ兵アラス賊勢延蔓スルニ至テハ其害容易ナラス実ニ危急ノ大事ナリ速カニ大分城ニ拠テ防禦ノ策ヲ立テ各方面ノ諸隊へ諜合スルニ如スト奥少佐ノ指揮ニ依リ翌二日城ニ入ルノ用意ヲナス    第二中隊ハ守地ヲ警視隊ニ譲リ戸次ヨリ佐柳村ニ進ミ防禦線ヲ布ク此時ニ当リ三重市ノ賊臼杵ニ亘リ其勢頗ル猖獗且戸次ニアル処ノ官軍僅ニ三百人ニ過キス之ヲ以テ各処ヲ拒ム実ニ難シトス是ニ於テ大分城ニ入ル守防之策ヲ決ス               本日山根少佐司令長官ノ命ニ依リ熊本ヲ発シ豊后国竹田地方へ出張賊        臼杵ヲ襲撃シ該地出張ノ警視隊及ヒ士族一同防戦スト雖モ遂ニ不利ニシテ臼杵ノ賊ノ有トナリタル報知アリ                               爰ニ於テ議アリ当方面地形悪シク孤軍ニシテ兵寡ク臼杵ヲ攻ルモ難ク此地ヲ守ルモ便ナラス此際若シ勢ニ乗シ臼杵本道ヨリ大分縣廰ヲ襲フトキハ腹背敵地トナリ且大分城僅ノ警視隊ヲ以テ拒守シ得ル難シ万一此事アルニ於テハ府内以北警備ノ兵アラス賊勢延蔓スルニ至テハ其害容易ナラス実ニ危急ノ大事ナリ速カニ大分城ニ拠テ防禦ノ策ヲ立テ各方面ノ諸隊へ諜合スルニ如スト奥少佐ノ指揮ニ依リ翌二日城ニ入ルノ用意ヲナス    第二中隊ハ守地ヲ警視隊ニ譲リ戸次ヨリ佐柳村ニ進ミ防禦線ヲ布ク此時ニ当リ三重市ノ賊臼杵ニ亘リ其勢頗ル猖獗且戸次ニアル処ノ官軍僅ニ三百人ニ過キス之ヲ以テ各処ヲ拒ム実ニ難シトス是ニ於テ大分城ニ入ル守防之策ヲ決ス                      本日山根少佐司令長官ノ命ニ依リ熊本ヲ発シ豊后国竹田地方へ出張

 敵が臼杵を襲撃しそこに出張していた警視隊と地元士族は防戦したが結局占領されたとの報知があった。戸次方面は地形が悪く他に仲間もなく少数の兵しかいない状態であり単独で臼杵を攻撃するのも困難である。敵が臼杵から白木峠・広内村を通る路線を進んで大分県庁を襲う場合、戸次にいては正面も背後も敵地となり、しかも大分城にはわずかの警視隊しかいないので敵を防ぎきれないだろう。万一そうなれば大分市以北には官軍が居ないので、敵の占領地域が広がってしまいその悪影響は計り知れないだろう。速やかに大分城に入って防禦の準備をした方がいいとして奥少佐の指揮で翌日の入城の準備を行った。第二中隊は前日の敗走後に判田村(半田村ニ退キ要地ヲ占メ防禦線ヲ布ク)にいたのだが、6月1 日、持場を警視隊に譲って戸次東側の佐柳村に防禦線を設けた。臼杵方向を警戒したのである。

  六月二日

第一第二中隊共ニ城中ニ入リ防禦ノ準備ヲナシ賊襲フヲ待ツ賊来ラス        第一中隊将校以下八十二名第二中隊同八十名別働遊撃隊百三名警視隊百七十名地方巡査五十名惣計四百八十余名                            小畑中尉命ニ依リ竹田方面へ出張

 第一第二中隊は大分城に入り防禦の準備をしたが、敵は来なかった。第一中隊82人・第二中隊80人・別働遊撃隊103人・警視隊170人・地元巡査50人の計485人。

    小畑中尉は竹田方面へ出張した。前日佐柳村に配置についた警視隊がこの日大分城に入ったのかは不明。

 以上のように「戰記稿」は31日の敗走後に戸次に退却し守備したとだけ記すが、「乃木大将所蔵 西南戦争従軍日誌 第十四聯隊第二大隊」ではどこで守備したのかもっと詳しく書いている。別働遊撃隊ヲシテ要区ニ大哨兵ヲ配布、第一中隊ハ犬飼川ヲ隔テ光永村ニ布陣し、第二中隊は半田村ニ退キ要地ヲ占メ防禦線ヲ布いたのである。やはり戦争中の軍隊だから無防備で戸次集落に宿をとり休憩したのではなかった。翌6月1日、薩軍が臼杵を占領したことを知り、前日判田村に防禦線を構えていた第二中隊ハ守地ヲ警視隊ニ譲リ戸次ヨリ佐柳村ニ進ミ防禦線ヲ布き替えていている。大分川の西側地域の警備を撤収し、臼杵に近い戸次の東側に警備地域を変更したのである。とすれば前日は三重市方面から薩軍が追撃してくることに備えたのだろう。薩軍が戸次を無視して東方の臼杵に向かったことを知らなかったのである。

戦跡

 ここで気になるのが現地に今でも警備線・哨兵線の痕跡が残っているかである。数年前、臼杵市・大分市境界地帯の戦跡分布状態を調べまわり、ついでに戸次の東側の佐柳付近の丘や山を調べたことがあったが、現在の地図を見れば分かるように戸次付近は人工の手が加わった場所が多く、台場跡や塹壕跡は確認できなかった。今回、光永村や判田村に防禦線を配置したことが分かったので現地を確認しようと地図を見た。住宅団地開発のため旧地形が損なわれた場所が多い。山は削られ谷は埋められている。台場を築きそうな付近の最高所は殆ど消滅しているが、わずかに可能性がありそうなところに行ってみた。 

  緑・青・赤の順で歩いたが戦跡はなかった。                                    光永村は現在の地図には存在しないが、二番目に示す地図に光永と貼り付けた付近がそれである。戦跡を平地で探しても無駄なので、北東側の山に探しに出かけた。京が丘南団地の南西側に旧地形が少し残っている部分である。小牧山古墳群駐車場に駐車して歩き始める。初めは団地の南外側の森に入った。細尾根が続き、台場跡はない。

 

 下は細尾根の一つの高まり。

   帰りがけに南東方向遠景を撮影。峠城跡は数年前に台場跡探しの際に自分が発見した中世の山城跡。鶴賀城一帯では1587年頃に島津軍が大友方を破る戦いがあり、峠城はその頃使われたらしい。霞んで見える武山は最近何回も登った城跡で、同じ時の戦いで落城している。西南戦争の台場跡もある。

駐車場の看板。

 古墳群のある山も京が丘南団地の造成で消滅する筈だったが古墳があったおかげで工事範囲から除外された。


つづく

別府湾の南蛮船

別府湾の舟を写し、 geminiに「16世紀の南蛮船と南蛮人にして」と指示。

 何か分からんけど、それとなく良くできた。さらに「南蛮図屏風風にして」と指示。

「舩の先頭から二人目の人物を他の人と同じ大きさにして。遠景の要塞のような石造物を普通の石垣にして。」と指示。

船上の前から二人目が小さくなっていないのが不満だが、要塞のような向こう側の石造物は消されたので良かった。

球磨川流域の戦いの書状2

宮崎八郎

 薩軍背面軍と協同隊幹部宮崎八郎、桐野利秋の関係について「西南紀伝」は言う。  

已にして、官軍八代に上陸し、薩軍の背面に逼らんとするや、桐野、宮崎(※八郎)を招き、之に嘱して曰く、『今や、敵軍八代に上陸し、我背面を衝んとす。余聞く、其面を拒ぐは、其背に出るに若かずと。急に生兵三千を以て其背に出で、急に之に逼り、本隊と共に之を夾擊せば、必ず其捷利を得べし。請ふ足下、邊見、別府と共に之を圖れ』。宮崎曰く『諾』と。發するに臨み、同志に謂て曰く『勝敗は、天なり、逆じめ賭るべからずと雖ども、此行、若し南方の敵を擊退する能はずんば、誓て復生還せず』と。意色頗る決するものゝ如し。乃ち晝夜兼行して、人吉に至りしに、適ま邊見、別府の兩將、生兵一千五百を率ゐて來るに會し、共に進みて八代に向ひ、互に勝敗あり。四月上浣、軍議進擊に決し、大擧して八代を攻擊し、大に官軍を破り、衆、休息餐を傳ふ。時に官軍、間道より繞て背後に出で、突然之に逼りしかば、薩軍擾亂大に潰へ、宮崎、奮鬪して之に死し、別府傷き、邊見僅に身を以て免るゝことを得たり。實に十年四月六日なり。(「西南紀伝」下1 pp.58・pp.59)                            桐野は宮崎に対し、北からは永山弥一郎の部隊が攻撃するので背面軍は八代の官軍衝背軍を南から挟撃するように辺見十郎太や別府晋介と打ち合わせてくるように依頼したのである。依頼した日付は不明だが、戦闘地域を避けて行かねばならず、宮崎が人吉に着いた3月31日の二日位前だろう。 晝夜兼行して、人吉に至りしを鵜吞みにすれば30日になる。  

                                          あ  この前後の戦況を列記すると。                           3月19日 衝背軍日奈久上陸。                                                                              3月25・26日 鹿児島北部地域で背面軍1,500人募集なる。                          3月29日 別府・辺見の背面軍人吉着。                           3月31日 宮崎八郎が桐野の使いとして人吉着。                4月4日 球磨川流域の坂本村の官軍一個小隊が破られ、猫谷村に退却。                                                                   4月5日 宮崎は球磨川流域の坂本から別府晋介の手紙を持ち桐野・池上に渡すため熊本に帰ろうと砥用まで来たが、道路が官軍の為に塞がれているため農民の手を経て協同隊幹部の中根正胤に托して桐野に伝達した。                                4月13日、西郷は村田等と二本木から木山に移動した。衝背軍が熊本城に近づき、二本木薩軍本営が危うくなったためである。翌14日に衝背軍は入城している。

植村希美雄1984「宮﨑兄弟伝 日本篇上」葦書房pp.227・pp.228には4月3日付けで別府晋介が桐野・池上宛に書いた書状解読文がある。

 そのあくる日(※4月5日)、御船近傍犬塚にいた中根正胤は、突然八郎からの飛信に接した。彼はこの千載一遇の好機を人吉に徒費するに忍びず、かつ南方正面の永山軍 と最後の連絡を密にすべく、自ら本営への密使となって再び山路を越え単身砥用までたどりついたが、官兵途に充満するの状を見て土民にその旨をふくめ、この密書をもたらしたのである。中根が転送して薩軍本営へ伝えた別府の書状は、次のようなものであった。                                         以上の記述は「戰記稿」によるらしい。二度手間だがその「戰記稿」の4月5日を掲げる。                                                           

四月五日                                           此時に當り別府晋介、邊見十郎太、淵邊群平の指揮する背面軍は、人吉より阪元に進軍し將に八代の官軍を攻擊せんとす、偶ま協同隊首領宮﨑八郎、桐野の使命を以て來り阪元に在りしが此日別府より桐野池上に送付する書面を携へ自ら熊本に歸らんとし、「ともち」に至りしに、道路已に官軍の爲に梗塞せられたるを以て土民をして密使となし犬塚近傍に出張したる協同隊員中根正胤に轉書を發して此由を報じ且つ中根をして別府の書面を桐野に傳達せしめたり、別府の書翰に曰く、

  徳久氏へ御託之御書面委細承知仕候既に昨二日百八十人小隊五小隊丈頭治と申處迄繰出、今日坂元え進撃之上萩原迄襲賦邊見と決議し本人儀も昨日頭治迄出張相成候に付多分晝後には戰争に可及候間其許よりも必死を以て御進擊被成下度、今朝右応援之爲二小隊阪元え繰出申候間右坂元を打破次第當所より川船にて千五百餘名坂元え繰込邊見氏と合して八代を進擊するの議を約し申候間返すゝも御互に必死を以て進擊可仕三日間を不過して彌打拂不日御面談可仕候當所も掛念之塲所に付守兵五百名餘備置都合に取計置申候此節は兵士悉く必死と出先を爭事實に感心に御座候黑田、高島、山田、川路等之者も八代宮之原邊に相見得候に付是非生捕にせん事を兵士一同相樂居候間自ら不日拝眉之上餘は可奉盡、乍末筆右先生えは可然樣御依頼申上候也

  四月三日                       別 府 拝

   桐 野 様

   池 上 様

 「宮﨑兄弟伝」の別府の書状と言うのは「西南紀伝」に写真で示されている桐野が池上・別府に宛てた書状(次図左)と内容がほとんど同じである。「宮﨑兄弟伝」の別府書状は原文の写真がなく漢字平仮名混じりで活字化されていて、誤写とみられるのが数文字ある。「兄弟伝」は引用文献が明示されておらず、何を根拠にしたのか分からない。ほぼ同文の書状を「西南紀伝」では桐野が池上・別府に宛て、「宮﨑兄弟伝 日本篇上」では別府が桐野・池上に宛てているというように組合せが異なる。内容から言うと、桐野が背面軍の現状を記したり、守兵という部分を二回重ねてその一つを消しているなどから判断して、桐野拝の書状は桐野本人が書いたものではないだろう。不日拝眉之上余ハ可奉尽候というなら、人吉から熊本に進軍中の別府の言葉であると解釈すべきである。   桐野の書状にある徳久氏は佐賀の乱に参加し逃亡中だった徳久幸次郎だと考えられるが、4月6日におそらく萩原堤付近で戦死している。3年前、佐賀の乱の末期に江藤新平は、腹心の石井竹之助と徳久幸次郎を伴い鹿児島に潜行して西郷隆盛に面談、決起を促したことがある。石井と徳久はそれ以来鹿児島で桐野に匿われていたのである。                続いて植村希美雄は次のように記述している。

 中根は同時に八郎からの使いが来たことを御船本営の永山(※弥一郎)へ報告している。                                           「只今久球(くま)より飛脚到来、別府氏より桐野・池上氏えの状、且宮崎より僕え一封、其次第は今日は先鋒山道を越え交戦の日積り、此節の兵は必死の兵にて三日を出さず快戦云々申来り候。桐野への書面は大至急に本営に走せ申候。先御心得の為め右迄及御報知候也。                                           四月五日                           中根 正胤

 永山弥一郎殿                                     尚々宮崎は『ともち』迄参り申候処、已に道をたたれ、土人を以て申来候(後略)。」

 現代風にしてみる。

只今球磨地方から飛脚が来て、別府氏より桐野・池上氏への書状と同時に宮崎八郎から僕(中根正胤)への書状をもたらされ、その内容は薩軍背面軍の先鋒は山道を越えて交戦する意図があり、今回の部隊は必死の兵隊であり三日以内に思う存分戦い云々と言ってきました。桐野への書面は大至急熊本の二本木本営に運ばせました。理解しておくべき事として右の出来事をお知らせします。

 扁額では宛名が桐野・池上になっているが、本文書状と宛名書き部分は別の紙であり混同すべきものではないと見られるので今や誰に宛てた書状なのかは宙に浮いていた。ここに書かれた宮崎八郎が中根宛に書いた僕え一封は「背面軍の先鋒は山道を越えて交戦する意図があり、今回の部隊は必死の兵隊であり三日以内に思う存分戦い云々」だという。これは扁額の本文と同じ内容ではないか。扁額本文が宮崎八郎が中根正胤に宛てた書状だと仮定すると文章表現に不自然な点がない。文末に「楽しい哉、たのしいかな」と書いても協同隊同志の中根が読むのであれば、馴れ馴れしすぎると思われないだろう。

 怪しい扁額だと思っていたが、意外にも協同隊の宮崎八郎の手になる書状本文である可能性が浮上した。諸員一層御奮励御周旋之程はこの後に戦死する場合も想定した彼の協同隊員への最後の言葉として記したのだろう。戦死する三日前、若者らしい快活な宮崎八郎の姿が思い浮かんでくる手紙である。本人の筆跡と比べれば分かるかも知れないが、適当なものが無いので今後の課題としたい。中根正胤は生き残り獄中で上申書(「鹿児島県史料 西南戦争」)を提出している。参考までに掲げるが、4月上旬前後の事は記していない。