西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

明治11年の軍用水筒 Military canteen from 1878

明治11年の軍用水筒 に関する記録を掲げる。

C04028260200「明治十一年自三月十九日至五月十日 大日記 自第二百七十二号至第五百三十六号 乾各鎭臺 第五局第八課」防衛研究所蔵0094~0097

 第二百八十八号

 安乙第二百四拾二号ヲ以武力面桶及水飲蓋之義ニ付御照會之趣致承知候右者御臺於而

 修理応用相成度候修理費及ヒ但書ハ御異見之通ニ而可▢候此段及御回答候也

(※分かり易く言い換えてみる。「安乙第242号でブリキ製弁当箱と水筒の蓋について問い合わせがあったことは了解しました。これはそちらの鎮台で修理してください。修理費と但し書きはあなたの御異見の通りです。この件について御回答いたします。」)

 

  明治十一年三月廿日

         第五局長代理

          二等副監督小池正文

   東京鎮臺司令庁長官

    陸軍少将野津鎮雄殿

 武力面桶及水飲器之両品客歳戦役出發之際受領致各隊ヘ相渡候分別紙表面之通

 此頃各隊ゟ返収候處戦地ニ於テ破損紛失等為致候趣ニテ即今回着現数如此ニ有

 之然ルニ該器ニアツテハ今後行軍或ハ野営演習等ニ使用候器ニ付修理應用見込

 之分當台ニ於而修繕相要候哉又ハ更ニ御交換可相成候哉若シ当臺ニ而直ニ修理

 相加候儀ニ候ハ﹅被報表外金之内ヲ以支償致度候間依而何分之御報答有之此段

 表面相副及御照会候也

(ブリキ製弁当箱と水筒の両品は去年西南戦争に出発する際、受領し各隊に渡しましたが別添の表のとおりです。この頃各隊から返納されましたが、戦地で破損したり紛失などしたことについては、その数値はこのようなものです。しかし、これらの品は今後行軍や野営演習などで使う器であり、修理して使用する見込みの品は自分たちの鎮台で修繕する必要があるのか、または交換してくれるのですか?もし、自分の鎮台で直ちに修理するのであれば表に示した代金で行いたいので、表を添えて何らかのお答えを待つのでお答えください。)

 但別表廃毀見込之分ハ派出営▢之検査ヲ経賣却之處分ニ致可然哉此段モ為念申副候也

(ただし表で廃棄の見込みとしたものについて、検査を経た後で売却処分すべきなのか、これについても念のために言い添えておきます。)

十一年三月十五日 東京鎮台司令長官

          陸軍少将野津鎭雄

   第五局御中

 行軍及野営演習用面桶水飲器存破取調表

 品 目   適應     修理應用    廃毀   計

 武力面桶  千九百零六個 三千百弍拾四個 百弍拾個

(ブリキ製弁当箱 使用可能1906個 修理すれば使えるもの3124個)

 仝水飲器  三百五拾九個 弐千百三拾個

(ブリキ製水筒 使用可能359個 修理すれば使えるもの2130個)

 硝子水飲器 百二拾弐個  四拾八個    四拾弐個

(ガラス製水筒 使用可能122個 修理すれば使えるもの48個 廃棄42個)

 備 考    表中面桶水飲器ノ両品同数ナラサルハ各隊戦地ニ於テ破壊或ハ

             紛失スル故ニ其差異ナルモノニシテ即今各隊ヨリ返収分ヲ揚ク

        ルノミナリ

 陸軍第五局からの問い合わせに対する東京鎮台からの回答と質問である。出征に際して受領したブリキ製の面桶(弁当箱と解釈した)とブリキ製水筒・ガラス製水筒について、東京鎮台所属の各隊から鎮台本部が回収した戦後段階の数量が記されている。ただし本来の受領数は分からない。

 数値を足すとブリキ製面桶は5,150個、ブリキ製水筒は2,489個、ガラス製水筒は212個である。適応や修理応用という言葉の意味は明確でないが、適応は使用可能、修理応用は修理すれば使用できると解釈可能だろう。備考欄では面桶と水筒の数量は本来一致すべきだが、戦地で破壊・紛失したため一致しないという。ブリキ製面桶は5,150個だが他に戦地で破壊・紛失ものも不明数あった。個人装備品だから本来水筒も同数だったことになるが、東京に戻ってきたときには面桶のほぼ半分の2,485 個に減少している。残存した水筒の比率はブリキ製(92,2%)とガラス製(7,8%)で、破損の比率が同率と仮定すれば受給時もほぼ同様に圧倒的多数はブリキ製だっただろう。

 

 西南戦争中の東京鎮台の人数に付いて「征西戰記稿」附録では、士官147人・下士624人・卒4,701人の計5,472人となっている。他に東京鎮台予備砲兵第一大隊148人・同騎兵第一大隊24人・同工兵第一大隊134人・同輜重兵第一小隊62人がある。これらすべてを足すと5,840人である。東京鎮台の一部は明治7年の台湾出兵にも動員されており、当時製作が始められていたブリキ製水筒の他、すでに輸入されていたプロシアから輸入したガラス水筒も持参したのではないかと思う。出兵後、今回と同様に鎮台が回収し、西南戦争に際して再支給したのだろう。もしかすると台湾出兵した鎮台は比較的にガラス製水筒携帯率が高いのかもしれない。

 

高熊山の岩 ※「年刊 田原坂」追加

 Xを見ていたら鹿児島県伊佐市高熊山頂上にある岩の写真を載せて、弾痕がついているとあった。これは従来言われているとおりです。しかし、この山の斜面にもいくつも同様の岩があり、なぜこの頂上の岩だけを強調するのか疑問です。

 皆さんもここを訪問する機会があったら、前後左右や上から観察してみてください。また、周辺の岩も。

 

  今日(2024.4.19)、熊本の岡本真也さんから次の冊子が送られてきた。

 田原坂西南戦争資料館の展示案内「年刊 田原坂」2024年3月第1版に担当者が調査・実見したものを集成した西南戦争の弾痕」調査報告が載っている。熊本県内48ヶ所・大分県内1ヶ所・宮崎県内2ヶ所・鹿児島県内2ヶ所である。この冊子の中に「コラム「高熊山の弾痕」は弾痕か?」というのがあり、該当部分を貼り付けておきます。

 下をクリックすると回してみることができます。

scaniverse.com

明治9年の軍用水筒 Military canteen from 1876

明治9(1876)年の軍用水筒に関する記事から。

 

C07060070600「明治九年四月 大日記 諸黌教導團裁判所之部

防衛 陸軍省第一局」防衛研究所蔵0727・0728

 同六日

 学第百八十九号 肆第九百四十四号

  一水筒        弐百拾個

  一食噐菜入付「ガソール 弐百拾個

  一輸車         参  輌

 右ハ行軍演習施行之儀御許可相成候ハヽ前書之通演習中御渡相成度此段相伺候也

(右は行軍演習しこうの儀、ご許可あいなりそうらはば、前書のとおり演習中にお渡しあいなりたくこの段あい伺いそうろうなり)

    九年三月廿七日

      士官学校長代理

         中佐長阪昭徳(※西南戦争中に書いたこの人の字は難読字です)

     卿代理

      鳥尾大輔殿

   伺之通

      四月六日 五局ヘ相達ス

 明治9年3月以降に士官学校で行軍演習を行うので水筒210個その他を渡して欲しいとの伺い。ガソールは意味不明。弁当箱か。行軍の目的地は次の史料で分かる。

 次はこの行軍演習の目的地が下野の国(現在の栃木県)日光あたりであることなどが判明する。 

C07060072700「明治九年四月 大日記 諸黌教導團裁判所之部 金 陸軍省第一局」防衛研究所蔵0775~0777

 学二百十一号         肆九百二十四号

 当校学生戦地行軍演習トシテ来四月中旬ヨリ二週以上三週内ノ日数ヲ以テ下野日光邉

 迄差遣申度御許可ニ相成候上ハ昭徳并ニ左ノ人員同行致度尤教師ノ儀ハ首長へ御達相

 成度此段相伺候也

   三月廿七日    戸山学校長代理   

                 中佐長坂昭徳

        卿代理 

          鳥尾大輔殿

 遂テ御許可相成候ハヽ別紙ノ文意ヲ以テ地方府縣ヘ御達相成度尤御達濟ノ上其写御沙

(おってご許可あいなりそうらはば、別紙の文意をもって地方府県へお達しあいなりたく、もっともお達し済の上、そのうつしごさ)

 汰渡相成度此段申添候也(た渡しあいなりたくこの段、申し添え候なり)

 伺之趣聞届候条入費取調可申出事(うかがいのおもむき、聞き届けそうろうじょう、入費取り調べ申し出るべきこと)

   但出發日限取究メ可申出事(ただし出発にちげん、取り決め申し出るべきこと)

        四月廿一日㊞

 肆第千百四十一号

 学二百十二号        □千百四十一号

   「スニーデル」銃用空薬包御渡之儀ニ付伺

 一「スニーデル」銃用空薬包 貮萬四千發

 右者兼テ伺出置候學生行軍演習之儀御許可相成候ハヽ第一期学生行軍演習ニ凖シ壹名(右は、かねて伺い出置き候学生行軍演習の儀、ご許可あいなりそうらわば、第一期学生行軍演習に準じ一名)

 壱百貮拾發宛総員教官下士并學生共凡貮百名へ演習用トシテ前書之通御渡相成度此段(一百二十発ずつ総員、教官・下士・ならびに学生ともおよそ二百名へ演習用として前書のとおり、お渡しあいなりたく、このだん)

 相伺候也(あい伺いそうろうなり)

            戸山學校長代理

     明治九年四月十八日  中佐長坂昭徳

  山縣陸軍卿殿 

 24000発を一人120発で割ると200人となる。総員は教官下士(ならびに)學生であり、少尉・大尉・少佐などの教官と曹長・軍曹などの下士官、それに学生で、当然学生数は200人以下である。

 広田照幸1979「陸軍将校の教育社会史 立身出世と天皇制」世織書房全491頁により、士官学校についてみておきたい。

 陸軍の士官を養成する幼年学校発足が1872年、士官学校開校は1874年である。広田によると「一八七二~七六年の時期の士官学校は、まだ本格的な将校養成に踏みだしていなかった。むしろ、教導団出身の生徒から選抜されたり、各隊から選抜されたりした者を、変則生として受け入れ、速成教育によって士官に養成する役割を果たしていたからである。七五年に開校した正規の士官学校が、卒業生をだすようになったのはようやく西南戦争後になってからである(pp.80)」という。

 また、1875年は士官生徒第1期・第2期の合計数が309人で、翌76年(明治9年)は零人、西南戦争のあった1877年は100人だった(同pp.85)。これから見ると行軍演習に参加した士官学校生徒は1875年に在校した309人のうち、約三分の二未満となる。主な参加者が第1期生だったのか第2期生だったのかこの起案からは分からない。

 ウィキペディアから明治9年前後の陸軍士官学校について引用する。

 この修業期間は兵科によって異なっていた。歩兵・騎兵は当初2年であったが、

   1876明治9年)に3年に変更された。砲兵と工兵は当初3年であったが、

 1876年(明治9年)に4年、1881年明治14年)に5年へと延長された。砲兵と

 工兵は在校期間が長く、少尉に任官した後も在校した。これを生徒少尉と称し

 た。士官生徒制度は第11期生までで終わった(士官生徒卒業生は1285名[23])。

 学習内容は1学年では幾何学代数学力学理学・化学・地学。2学年で軍政

 学・・築城学・鉄道通信学などを学ぶ

 これによると第1期生が入学したのは明治8年2月で、授業内容は1学年は幾何学代数学・力学・理学・化学・地学であり、第2学年になると軍政学・兵学・築城学・鉄道通信学などを学ぶとある。したがって、第1学年は机上の学習、第2学年になると現地で学習することもあったのだろう。つまり、明治9年4月の行軍演習は二年目を迎える生徒、つまり第1期生を対象としたのだろう。

 続きがあって、後日、演習期間は三週以上、四週以下に再度届け出て許可されている。また、弾丸がない状態のスナイドル弾薬を一人に付き120発ずつを渡してほしい、とのこと。この時点では水筒の製造が十分でなく、士官学校に水筒が行き渡っていなかったことになる。

 

 

明治8年の軍用水筒 Military canteen from 1875

 

 これまで軍用水筒について何回か書いてきたが、今回は防衛研究所の史料から明治8年の軍用水筒関係の記録を掲げる。前年は台湾出兵とそれに伴うと考えられる事前の野外演習が複数の部隊で行われたが、この年は水筒に関連する記録は少ない。

C04026560600「明治八年十又二月大日記 諸局参謀近衛病院軍馬教師之部 水 陸軍第一局」防衛研究所蔵1731 ※上記の中で「教師之部」の部は不確実。

 局二百六十二号 参二千四百六十九号

 今般雑司ヶ谷ニ於テ對抗運動

 天覧被為在候ニ付ブリツキ面桶及水筒各隊へ御渡シ相成度此段申出候也 指揮長官

   十二月廿五日                         東伏見嘉彰

     山縣有朋殿

 申出之通

  但各所管ゟ員数ヲ以第五局ニ而可受取候事

      十二月廿五日㊞

 冒頭の一行と後半の申出之通以下は薄色だが、朱書きかも知れない。対抗運動とは敵味方に分かれて行う模擬戦闘だろう。

 天覧被為在候ニ付ブリツキ面桶及水筒各隊へ御渡シ相成度此段申出候也は天覧あらせられそうろうにつき、ブリツキ面おけおよび水筒各隊へお渡しあいなりたく、このだん申し出そうろうなり

 天覧とは天皇がみること。天皇の字の上に他の字を置かない、わざと空白を設けているのがしきたりだった。

 明治8年には普段は水筒を所持してなかったらしい。この時は第五局からブリキ製を受けとったのであり、各隊ではいつもは所蔵していなかったのである

 

 次は防衛研究所の史料ではないが同年、村田経芳陸軍少佐が欧州研修に出張している。綿谷 雪編1971「村田銃発明談」『幕末明治実歴譚』(引用は1989年の復刻全422p;青蛇房)pp.278・279による。

 村田氏は、いったん倫敦に帰りて武器博覧会を見物に行きたり。ここには古代の武器をはじめとして、当今の武器まで陳列しありて、参考に資するもの少なからず。その中に就き村田氏は軍用水漉器械に注目して、その掛りの者にむかい、これはいずれの時に用いしやと尋ねしに、英国が亜弗利加(※アフリカ)を撃ちしときに用いし水漉(※みずこし)器械にて、また他の別種の水漉器械は埃及(※エジプト)を攻撃せしときに用いしものなり。亜弗利加、埃及の戦役の際、兵士の疫病にかかるもの少なからざりしが、その原因は飲料水の不良にあることを覚りたれば、この水漉器械を一兵卒毎に携帯せしめしに、それがため疫病を予防して、すこぶる好結果を得たりとのことなり。村田氏は市中にてその水漉器械を売りさばく家を聞き合わせ、これを買い求めて持ち帰りたり。

 何ゆえに村田氏はかく水漉器械に注意せしやというに、かねて支那地方は非常に飲料水の不良なる由を聞き及びたれば、一朝わが国が支那と隙を生じたるときは、必要の具と信じたれば、これが取り調べをなしたるなり。それより帰朝の後、戦地に携帯する水漉器械の必要を説きたれども、何人もその必要を感ぜざりしという。然るに村田氏の予想に違わず、かの二十七八年の日清戦争起りしかば、村田氏は英国より持ち帰りたる水漉器械に自己の考案を付し改造して、試験のためこれを戦地に送りたり。また自ら銃猟におもむくときも、これを携帯して山中にて渇をおぼゆるときは、川の瀦留水などをその器械にて漉して飲用せしが、一回も飲料水の害を受けしことなしという。

 後に明治31年式という水筒が製作されるが、村田の経験が生かされた可能性がある。

鬱金香(チューリップ )

鬱金香 赤桃黄色の 順に咲き

「根ずっち」(根津?)のように即座になぞかけができるのは、詩人に似ている。冒頭のは単に事実を述べただけ。集めて球根を植えておくと、全てが同時に咲くのではないと分かる。

紫のつつじ

数日前から紫のつつじが いちりんだけ咲いている。あけぼのつつじの名がある。葉が三枚なので、みつばツツジともいう。かつて宇目町の梓山北西尾根から帰りがけに桜の樹形に似た満開の花を見たのは5月下旬だった。その時一緒に行った槙島隆二さんといつか酒を飲みたい、などと一輪の花をみて思った。