西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

田原坂西南戦争資料館の水筒調査

 2024.3.9。田原坂で展示中の水筒(これは前回の3点とは別の人、作田鈴夫さん寄贈)を実測に行った。6時半に大分市を出発し、それなりの時間がかかって到着した。今回は岡本真也さんも合流。調査依頼文の提出などで美濃口雅朗さんに、また現物の観察には作田徹さんにお世話になった。

 

 写真は室内で撮影すると色が不自然になったので外で撮影した際のもの。

 下は今日観察した水筒。ブリキ製。錆びて穴が沢山あいている。下部はない。注ぎ口を覗くとコルク栓の癒着した部分が少しあり、それは最大の厚さ3㎜程。錆びて穴が沢山あるので、山野にある程度転がっていたのを発見・採集したものだろう。栓の残存状態からして栓をした状態で転がっていたらしい。寄贈した作田氏は田原坂の住人だった。作田姓の家が複数今もある。胴部の横断形は碁石の断面に似る。片面の縁辺を折り曲げて反対側のブリキ板を覆っている。接着はハンダ付け。他の3点に見られた漆による塗装痕は認めなかった。相変わらず画像をくるくる回すのは不完全だが。scaniverse.com

 水筒胴部の片側にそれぞれ四ヶ所の直線的な切れ込みがあり、平板な板を丸くするための工夫だ。これと同じ特徴の水筒が熊本城飯田丸跡の発掘調査でも出土している。

 その後、玉名市の骨董屋に立ち寄った後、阿蘇山カルデラ西部縁辺部にある二重峠の台場跡を見に行った。これは岡本さんが

を読んで台場跡があるらしいと知り、一緒に行こうと誘ってくれたためだ。

 植木町から二重峠へ向かったが、東端の峠付近で高度を稼ぐためにくるくる回る道がある他はほとんど一直線であり、右折も左折も必要なかった。何回か通ったことがあるが、朝通った57号に比べて通行量が少なく、短時間で行けるのでこの道はいい。

 彼は2万5千図に以前に発見した台場跡やいくつもの情報を記入したのを持参していた。好天気で寒からず暑からず、爽快だった。

 ネットには景色写真が載っているので彼の推定通りの場所に台場跡が1基あった。地点はあえて言わないが、付近には太陽光発電装置があり、残念ながらそこでは台場跡は見つからないだろう。野焼き直後のため、靴が煤けたが、地表観察は容易だった。

 上の写真は東を向いて撮った。標高800m以上の草地。カルデラ内の阿蘇五岳とその左部分に中岳の白い噴煙が写っている。岡本さんが指さしているのが台場跡の土塁部分で、この台場跡の現状は直線的な低い土塁と内側の浅い窪みからなる。長さ20m弱。北向きに造られているので二重峠付近を守った薩軍のものだろう。

  反対側から。 遠景最高所は鞍岳1118mか。内側の窪みの南縁に立つ。土塁はその右側にある。

  台場跡の東端に立って。左側に土塁があるのが分かる?遠景左の上が平たく見える尾根は牧場として原地形が削られており、もしあったとしても台場跡は削り取られている筈だ。

 二重峠の西南戦争は戦記を読んでも地理関係がよくわからなかったが、初めてこの辺りで台場跡を見た。戦跡の分布調査が進行すればより理解しやすくなるだろう。

豊後口征討之内臼杵福聚寺戦記 ※復元図

 「豊後口征討之内」臼杵福聚寺戦記という木版錦絵。全ての錦絵を調べたわけじゃないから、こういう題名の錦絵があったかも知れないし、なかったかも知れない。もしあったなら、こんな絵柄じゃなかったか、という一案で描きます。

 復元図の作成過程を掲げます。鉛筆描きなので薄くて見にくい。

次は俵を使った台場図の途中。柵列の築造途中に戦闘になったので、作業員は材料・道具をほったらかして消えてしまった図。少しずつ変化していく画面が楽しい、と思ってください。

大分県臼杵市福聚寺(ふくじゅうじ)の石垣に残る銃弾痕

               東から見た福聚寺

 自分の生まれ育った家(臼杵市井村)の背後に臨済宗妙心寺派の福聚寺がある。石垣に西南戦争時の銃弾痕があると宗順住職(写真に写る人)から聞いていたのだが、今回再びその場所を教えていただき撮影した。下の写真は北から南を向いて撮影し、遠景中央の山は臼杵で一番高い姫岳619mである。  

 最近本堂を建て直して規模としてはやや拡げ東側に廊下幅を一間伸ばしたとのこと。本堂の東側地面に今はないが大きな松があり、戦時中に航空燃料として松油を採ろうと表面に溝状の切込が櫛の歯で引いたように並んでいたのを思い出す。写っている門は戦争当時はこの位置になかった。漆喰塀は新たに造ったもので、昔はなかったように思う。戦争当時もなかっただろう。

 銃弾痕は門よりも北側の石垣面に4個ある。写真の白丸

ざっと見まわしたがそこよりも南側の石垣・階段には銃弾痕はない。上は弾痕の右側に100円玉を置いて写した。

 弾痕の右に100円玉。これの周辺拡大が下。

 銃弾痕は寺の東面の石垣、門よりも北側にだけ確認できる。石垣は9万年前に阿蘇山から流れてきて臼杵一帯の麓を埋めた溶結凝灰岩を切り出したものである。弾痕のある場所の南側、階段や石垣面を見まわしたがこれ以上は確認できない、と思っていたが後日(2024.3.3)見直したら一段下の低い石垣に一ヶ所弾痕を見つけた。なぜ階段周辺にないのだろうか。それは当時の記録を見て納得した。

        この弾痕は上段の石垣弾痕よりも少し北側にある。

 福聚寺が登場する戦記がある。葉山耕三郎1942年「勤皇『臼杵隊』餘聞集」から、西南戦争当時13歳だった木下千次郎という人が後日記した観戦記部分を引用する。

 六月八日。午前七時半頃、水ケ城より砲聲殷々、臼杵湾の淺間、孟春二艦よりも霰彈飛來せり。賊徒と官軍との大戰争が開始せられたるなり。余は、八時半頃、熊崎に歸り、里餘の臼杵市街の砲聲を聞きて、只管、官軍の勝利を心に祈るのみなり。斯くて、水ケ城の官軍と田篠原の賊徒は、終日砲擊を交へたり。夕近く雨。賊の一隊、雨中を突きて、熊崎三島神社附近に、喊聲を擧げて來襲せり。何の故なるかを知らず。

 夜、十時過ぎ頃。三島氏宅の裏なる竹藪中に、賊徒來りて壘壁を築き、井村臺の官軍と対陣せり。官軍の砲彈飛來して、余等の潜伏せる屋上に當り、危嶮極り無し。故に、十畳一間に集り、古畳三十餘枚を以て壁と成し、其下に蟄居す。或は、銃丸その畳に當りて響を立つ。漸くにして戰止む。午前一時過ぎなり。即ち、賊徒の聲なく退散せるものの如し。

 6月1日に臼杵薩軍に占領されていた。6月8日は官軍の攻撃が始まった日である。大分市吉野方面に前夜野営した官軍の一部は西から進んで市街地の北西側にある水ケ城を奪い、東麓江無田(田篠原)の薩軍と交戦が続いた。

 中世の臼杵を治めた臼杵氏の館は江無田の台地上にあり、その城は西側の水ケ城にあった。戦国時代も西南戦争時も臼杵を守るには江無田と水ケ城が重要だった。時代が異なっても防御側が同じような場所を守っていた。初めて臼杵に来た薩軍は一帯の地形を見てすぐにここが要所だと判断したのだろう。

 夕近く、江無田の薩軍の一部は井村台を避けるように北上して、井村の北東側にある三島神社の裏の竹藪に台場を築き南側の井村台の官軍と交戦した。三島神社も福聚寺も溶結凝灰岩の台地上にある。木下千次郎少年がいた熊崎は両者の中間の沖積地、溶結凝灰岩が侵食を受けて地表からなくなった水田地帯にある。銃弾が家の上を飛び交った。彼等は家の一間に集まり、畳30数枚を立てかけて弾除けにした。翌日の午前1時過ぎに銃声は止んだ。

六月九日。早暁、軍服に帯劔の官兵、劔着銃を携へ來りて云ふ。「余等は、熊本鎭臺兵なり。賊徒征討の爲來れり。安堵せよ。本日中に賊を掃去せしめむ。」と。溫言訓告、村民歓躍。初めて皇軍の恩惠に感ず。官兵、直ちに空俵數百俵を徴發して、福聚寺の門前、小高き處に土壘を築きたり。午後二時頃より、諏訪山方面にて大激戰ならんか銃聲砲音頻りに聞ゆ。余は好奇心を以て、母及親戚等の制止を聞かず、鬱蒼たる樟樹深山の如き三島神社の境内より、同所の醫師某と唯二人にて、臼杵市街及諏訪山の戰鬪を勸望せり。即ち一隊の賊徒、官兵に追はれて、江無田橋を經て退却するを、福聚寺門前の官兵、壘中より狙擊せり。程なく、賊の數十名、身に一物をも着けず赤褌の儘大刀を構へて突擊す(「赤褌隊」と稱せり)。官兵も亦、銃を捨て、軍刀を振つて接戰十數合、眞に亂戰亂鬪、喩ふるに物無し。賊徒の力戰優り、官兵及ばざるものの如し。戰疲れて、互に退却する時は、戰友の死體を背負ひて走れり。此の接戰を觀たるは終生忘れ得ざえう感激にして、臼杵人中之を觀望せるは、余と醫師某との二人のみならん乎。

             福聚寺から見た三島神社の森

 6月9日早暁、熊崎や三島神社、福聚寺にやってきたのは熊本鎮台兵だった。この時、三島神社から薩軍の姿は消えていた。官兵、直ちに空俵數百俵を徴發して、福聚寺の門前、小高き處に土壘を築きたりはどのように解釈できるか。福聚寺の門の前と小高い所に土塁を築いた、または門前の小高い所に土塁を築いた、かであろう。福聚寺の東側は寺よりも高くはないが、台地の縁辺にあり周囲を見渡せる地形である。門の周辺には弾痕がないので、少なくとも門の前、石段周辺に土を詰めた俵を積んで土塁状に形作り弾除けにしていたわけである。江無田橋を經て退却するを、福聚寺門前の官兵、壘中より狙擊せりからすると、台地の端に近い場所にも台場があった方が好都合である。

               福聚寺から南側の眺め

 空の俵に詰める土は土塁で囲まれた内側を掘って詰めたはずであり、歩兵は一段低い内側に隠れて射撃できた訳であり、つまり台場の完成である。これがあるため、土塁に着弾した銃弾は弾痕を石垣面に残さなかったのだろう。もしかすると内側の窪みは発掘調査すれば検出できるかも知れない。

 石垣面の弾痕をみるとほぼ正面から撃ち込まれたものが多いようである。三島神社方面からはこの角度で撃ち込まれないはずだから、薩軍が正面に近い方に回り込む状況があったのだろうか。引用した戦記によると、6月9日、福聚寺に陣取った熊本鎮台兵は東方の諏訪山から南側の江無田橋を越えて退却する薩軍を銃撃する場面を記している。諏訪山方面の一尾根にある下山古墳の後円部は西側に突出しており、ここから福聚寺の門までは690mしか離れておらず、当時の小銃弾の到達距離が1,200m強だったことから、弾痕は熊崎川の東側の下山古墳一帯を含む山地から撃ち込まれたものだろう。芝尾集落付近かも知れないし、仏舎利塔の山(下図の下側・下山古墳の南東)周辺からかも知れない。

 寺の傍の小高い所というのは東側だろう。ここにも土塁を築いて台場としたかも知れない。今は畑や墓地・住宅地になっている。分かり易くするために想像図を描こうと思うが、素描段階の絵を掲げる。門は今は石段の途中にあるが昔は絵の位置だっただろう。

 工兵隊が造るような素材(ほうらん)を並べてみたが、徴発した空俵數百俵を用いたはずであり、修正したい。

 福聚寺周辺に来た熊本鎮台がどの部隊だったのか明確ではない。以前のブログ「臼杵攻撃関係の戦記」でみた熊本鎮台の一部隊である「西南戦争従軍日誌 第十四聯隊第二大隊」の記述を再びみておきたい。

  六月六日

第一中隊横尾村ニ在リ ※第1中隊横尾

第二中隊古志中尉部隊ヲ引率シ白山峠ニ進ミ数ヶ所ニ堡塁ヲ築キ防御ノ準備ヲナス而シテ后同所ヲ第六聯隊ニ譲リ小在村ニ退ク ※第2中隊白山から小佐井へ。白山という山が九六位峠の東北方にある。

  六月七日

第一中隊第二小隊廣内村ヘ進軍廣内峠ヘ警備線ヲ張ル第二中隊ハ本日午后藤井大尉右小隊ヲ率ヒ横尾村ヲ発シ夜行シテ廣内峠ヲ赴ユルニ及ンテ拂暁ナリ ※第1中隊第2小広内へ、峠に警備線。第2中隊横尾から広内へ。広内峠は九六位峠の大分市側、あるいは峠そのものを指すらしい。

  六月八日

第一中隊ハ午前第四時廣内村ヲ発シ臼杵ヘ進軍末廣村ニ到ル賊臼杵ヲ距ル十四五丁江牟田川ニ沿ヒ各所ニ胸壁ヲ設ケテ本道ヲ拒守ス玆ニ於テ本道左傍ノ高丘森林ヲ捜索シ打越山ニ致テ警備ヲナス此トキ午前第九時ナリ而シテ線外ナル井村ニ軍曹矢嶋重政ヲ長トシ斥候ヲ出ス稍在ヲ賊百名余突然襲来スト雖モ敢テ劇戦ニ至ラス賊退去ス午后第五時頃ヨリ第二中隊及ヒ警視隊ヲ以テ功撃アリ勝敗決セス第七時頃ヨリ当隊打赴山ニ據テ守戦ス

第二中隊ハ藤井大尉部隊ヲ指揮シ白木峠ヨリ田ノ口村ニ向テ進ミ賊ノ所在ヲ偵察セシメンカ為メ柗尾軍曹ニ銃卒五名ヲ附シ進行セシム然ㇽニ賊大挙襲来スルニ遇フ是ニ於テ柗尾軍曹率ユル處ノ銃卒ヲシテ要地ヲ占メ奮激シテ之レヲ拒ム彼ㇾカ不意ニ出ツルヲ以テ賊先ツ退ク此報ヲ得ルヤ藤井大尉右小隊ヲ率ヒ進ンテ防御線ヲ占ムルニ際シ古志中尉左小隊ヲ率ヒ小在村ヨリ来リ合ス己ニシテ午后第二時ニ及ヒ賊再ヒ来襲互ニ進退決セス日暮ニ及ヒ天曇リ雨降ル賊漸ク退ク己ニシテ左方山頭ニ数人ノ渉ルアリ其装ヲ見レハ傘ヲ持シ或ハ笠蓑ヲ負ヘリ皆曰ク土民ノ遁逃スル者ナリト故ニ敢テ拒マス且クシテ亦タ加斯者ヲ見ル是ニ於テ之ヲ偵察センカ為メ古志中尉佐藤少尉及澤曹長澤軍曹進ンテ二三丁ニ及ヒ彼レ己ニ山林中ニ入リ発射スル事急ナリ之レニ因テ其装ヲ変スル者賊ノ計策タル事ヲ知リ路ヲ左側ノ山林ニ資リ退ク藤井大尉之ヲ見テ部隊ヲ率ヒテ左傍黒岩山ニ登リ賊ノ廻路ヲ塞キ奮激拒戦夜半ニ及ヒ部隊ノ戦面ニ来ル處ノ賊退ク故ニ部隊ヲ整頓シ其地ヲ警備ス

 第一中隊と第二中隊は向かう方向が微妙に違っていたことが示されている。第一中隊は南側の末広村に、第二中隊は白木峠ヨリ田ノ口村ニ向テ進ミとあるように北側に進んだのである。第一中隊は市街地に向かって左傍ノ高丘森林(井村山と呼んだ隊もある)やおそらく付近にあるらしい打越山という場所を守った。第二中隊には大分市小在村にいた左小隊が合流し、田ノ口村付近で戦ったが具体的にどこだったのかは分からない。末広の西方にある松原村で分れたのだろうか。

 寺の南部。左側の民家は当時なかったと思う。寺が周囲よりも高い場所にあることが分かる。南面はコンクリート壁である。南東部に立つ地蔵像には江戸時代の銘がある。

 寺の南辺はコンクリート壁となっている。古い石垣面を厚く覆っているので銃弾痕は観察できない。門よりも南側の石垣面を観察したが、銃弾痕はなかった。これからすると土俵土塁は東に面する門を中心にそこから南側の東面する石垣周辺全体に築かれたのだろう。

 今までは漠然と官軍が来ていたんだなと思っていただけだったが、当時の記録を参考にしたら福聚寺の門前や付近に官軍が台場を築いていたことや、銃弾痕の分布状態から門前の台場場所も想像することができた。現地に銃弾痕が残っていることはかつての歴史を留める貴重な痕跡だと思う。

 

これが本当の健康な空だ

ひとに指摘された改めて気づく。空がきれいだ。大分県臼杵市の朝。

 

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親戚がライブやるので観てください。上の写真は彼が散歩中に撮ったもの。しかし世の中には汚い空でも美しいと思う人がいる。・・・それは汚れた空ですよ・・・。Image