西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

竹田市鏡東部の戦跡

「戦地取調書」に官薩両軍の陣地があると記録のある竹田市鏡の東部に行ってみた。数年前に自動車専用道が新設され、問題の地域を切り開いて横断しており、もっと早く気付くべきだった。台場跡の可能性があるものを見つけたので作成した図面を原図のまま掲げる。

 原図が見づらい。破線が通過場所。尾根を断ち割る新道の上をコンクリート橋がつないでいる。それを車で渡って、突き当りに駐車し、そこからU字形に急傾斜の路面を登るとそこにあるコンクリート吹付面を登って原地形の尾根にたどり着く。下はグーグルマップ3D。

 なだらかな尾根の水平部分を過ぎて登りきると平面三角の頂上が現れる。頂上は8m×5.5mの平地で、南東側に削り出した地形を確認。規模は東西5.5m、南北4m。台場ならあるはずの土塁部分はないが、可能性があるとして図化。背後を削り、前面にその土を移動させたような形。高い方から下側に向けて撮ったのがこれ。

 逆方向の下から撮ったのがこれ。森の様子ぐらいしか伝わらないが。

 ここから18m北側に長さ1.7m×1.1mのものあり。東部は少し土塁状で、内側は10㎝くぼむ。鉄棒を突き刺すとさらに25㎝~40㎝床まであることが分かる。規模が小さいので台場跡とは断定できない。頂上付近には4、5か所鹿の寝床があった。一番明確なものを図示したが長さ130cm,幅110㎝で斜面下方向に掘りのけた腐葉土がたまっており、内側は20㎝弱なだらかに窪む。この山では鹿の糞もあちこちで見かけた。

 ここは地表面は火山灰層であり、川向のようにすぐに凝灰岩になっている、ということはなかった。

 帰りに新道の南側から北方向を撮ったのがこれ。向こう側の山では台場跡は確認できなかった。(※「史部の部」さんが☆を付けてくれるのでついつい踏査をしてしまうし、蛇が出る前に歩いておきたくて最近足しげく山を歩いてしまった。)

 

竹田市川向の戦跡

 先日竹田市西光寺の北東側背後の凝灰岩丘陵地帯を歩いてみたが、今回はその続きです。時々引用する「戦地取調書」に薩軍の陣地があったと記録があるので確認に行ったわけです。

 ちょっと見にくい地図だが画面右半分、川の北側に青い破線で示したのが歩いた軌跡。竹田市役所一帯は原地形が削られ、平地が造成されている。平坦地の南西部から山に登り、尾根筋を台場跡を求めて歩いてみた。そして台場跡2基を確認した。山に入った場所から台場跡を確認したところまでは西南戦争当時の地形が残っているのは、人工的な平坦面や削った場所がないので明らかだった。清書する前の図面を掲げる。

 二つの遺構を貫くように巻き尺を張り、直角に1m毎に上端・下端を計測してゆく。等高線は付近で最高所を0mとし(大抵は土塁部上面がそれである)、1mずつ低いところを直角方向に測り、下ってゆく。それを何か所かで行い、線を結ぶ。今回は図の下側は垂直の凝灰岩の崖面になっていたので、崖のそばまで近寄らなかった。崖下には民家があるが、屋根が下の方に見えたので、崖の高さは10mくらいはありそうだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 前後するが、初めに竹田市遠矢に行ってみた。高鼻公園の北側にあり、間に谷を挟んで向かい合う尾根筋にある。高城から東に続く所です。5月20日熊本県高森から進んだ官軍が恵良原えらばる・高城に布陣した際、竹田市街地方向から薩軍が襲撃して結局撃退され下峠という場所不明のところに退却している。下峠がどここにあるのか分からないが高城の東側に標高410mの高い場所があり、ここに台場跡がないか気になったからです。台場跡があればここが下峠と呼ばれたとみられるからです。東側から登り、縦走してもう一つ続きの小さい高まりにも行ってみたが、どちらも何もなし。三角点から写真を撮っただけ。

 三角点から北側を見た状態。九重連山

 南側。宮崎県境の尾根。中景の左部分に桜が一直線に咲いているのが高鼻公園です。遠矢の道の南側の民家で訊いたら「遠矢とは高鼻公園まで弓を射たこと」にちなむということだった。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 再び川向。台場跡があるのは尾根が東西に走る場所で、略図で説明すると1号の東側から登ってきて台場跡を確認した。尾根筋の中軸よりも片側に偏った位置に存在する。土塁部分は通路として踏み均らされていて東半分は小径のようになっている。台場跡全体の長さは4.2m位で、幅は2.1m。内側の窪みは長さ2.1m、幅1.1mで、特異な点は凝灰岩が地表間際まであるので鉄棒を差し込むと本来の床面が確実に分かる。南部の壁は垂直に立ち、凝灰岩のきれいな面が残っている。内側の深さは南側の地面から30㎝くぼむが、鉄棒はさらに70㎝突き刺さる。つまり深さは100㎝あることになる。長い銃を持って二人が入るのは動きにくかったとみられる。

 ここから西側8mにもう一つ窪みがある。土塁状部分はなく、窪みの長さは2.0m、幅は1.1mで、内部は地表から38㎝まで埋まっている。鉄棒を指すとさらに28㎝床面が深いことが分かる。したがって内側の深さは66㎝である。これも凝灰岩に彫り込まれており、規模からみて台場跡である。2号台場跡とする。

 図の南側は崖面であり、続きの南東部は両側が垂直に切り立った幅狭い橋のような地形であり、さらに5m位先では細くなって終わる。図の南側下の方には民家がある。2号のそばに古い壊れたテレビ用のアンテナが二個転がっている。

 川向の台場跡の特徴は小型であること、凝灰岩に掘り込まれているので本来の深さが分かることである。別の報告する竹田市鏡南東部の台場跡かな、とした2号に似た規模である。

 以前、ここから北東の方向にある法師山戦跡の報告をしたときに、周辺の台場跡も掲げているので、今回のも含めいつかまとめておきたい。まだまだ竹田市街のそばに未知の台場跡がありそうなのだが、全く・・・という感じがする。

 

 

 

 

 

高鼻公園の台場跡  

 先日の小富士山踏査のところで触れた竹田市荻町高鼻公園の台場跡略図を作成したので投稿します。西南戦争時のものです。下は南側から遠景写真を撮ったもの。地図の矢印の位置から。

 左奥の崖の上に戦跡があります。

 高鼻公園の突端から北東方向を写したもの。遠景中央の屋島のような山が古城です。その右奥に薄く見えるのが法師山です。この山では初め大分市方面から来るであろう官軍を警戒して薩軍が台場を築き、その後官軍が多数の台場を築きました。 法師山以外は阿蘇山から9万年前に流れてきたものが埋めています。高鼻公園もそうです。古城も薩軍が拠点とした場所であり、別のところで紹介するつもりです。

 上の写真はグーグルマップで北から見た高鼻公園の状態。観音像の北側に尾根の一つが突出し、その中腹に旧道跡かもしれない路線が破線のようにあったが正確には見ていない。昔、ここは馬瀬野峠といわれていたというが、路線の位置については記録がないようです。路線が突出した先に台場があってもよさそうな場所があるが、その場所には展望台が築かれており、遺構の有無は不明。高鼻公園の台地上に攻め上ろうとする場合、この北側に下る細尾根を上るのが正攻法です。当然官軍もこの弱点を理解して尾根筋の途中や上部に台場を築いていたと考えられますが残念ながら確認できません。

 公園の東端に展望施設があり、その南西に石塔が一つ立っている。銘文は「地神塔」、裏面下部に石刻云々と刻んでいる。銃弾の痕がないかと見たがなかった。

 1号が最初に見つけたもの。その後で一番高い平坦面で藤棚のまわりに4号?・5号?を確認し、さらに2号・3号?を見つけた。土塁部分が残るのは1号と2号であり、3号から5号は土塁部分が存在しないので、台場跡であるとは断言できないが可能性があるものと考えている。ここは公園として元の地形に手が加えられているので、そう考えた。赤線を加えた下の図はもし土塁跡が残っていたとしたらこのようなものだっただろう、という推定図です。

 個々の説明。

 1号の背後、南側にある高まりは台場跡の内側に植樹した際の排土です。2号の西側は10m位先で谷に落ち込むが北側が断崖になっているのに比べれば緩やかな谷の傾斜です。2号内で守る立場で言えば、右手の北側は10m以上垂直に切り立った凝灰岩の崖面だから敵が来る恐れはない状態です。守る場合、3号?は不要といえます。でも下を通る敵を射撃するには適当な場所です。1号の南側は段差があり、2mほど高くなっています。この段差が西南戦争時にあったのかは不明ですが、おそらくあったんだろうなと思います。

 これらの他、東側には4号?・5号?のような楕円形のくぼ地6~8号?が台地の北縁に沿って並んでいます。これらは土塁部分がなく、内側の窪みも浅い状態でその気にならなければ見逃すところでした。密接して断続的に続く状態です(下の2枚。上は東から・下は西から)。

 白い棒の位置が6号?の西端で、右奥に向かって7号?・8号?が浅いくぼみとして残る。

8号から東に43mで観音像のある半円形の構築物が南に開いてある。東から撮った上の写真、巻き尺の始まり付近右側に8号?台場跡があり、谷を見下ろす位置にあることが分かると思います。向こうに見えるのは4号?と5号?の中間にある藤棚です。

 観音像。

まとめ

 高鼻公園で確実な台場跡は1号と2号の2基だけです。土塁部分がなく台場跡と断定できないものを含めても台場跡は東西に長い尾根の西部にだけ分布しています。東部は当時の地形が削られて平坦になったり、展望台が造られたりして台場跡がなくなったと考えられます。発掘調査をすればもしかしたら内側の窪みが検出できるかも知れません。

 高鼻公園の地形は南から東は崖面になっており、守備を薄くしてもよい状態です。北東側に尾根が突出する部分は、敵が攻撃しやすい部分です。その西側、つまり北部は再び崖面であり、その西側は北から谷が入り込むが比較的下から攻めやすい地形です。上面東部の南部にある石塔に銃弾の痕跡がないのは、敵が北から攻めてきたことを示すのではないかと思います。 

 

 

 

 

三笠宮崇人親王の帯広視察写真

 帯広で撮られた集合写真に三笠宮が写っているのを実家で見たことがある。高松宮の日記は出版されているが三笠宮の日記がなく、どういう状態で撮影されたものなのか分からないままだったが、「三笠宮崇人親王」が出版されたことを知った。大分県立図書館にはなかったので宮崎県立図書館から借りだしてもらった。読んでみるとこれは高松宮のような日々の詳細な日記本文はみられず、第三者が編集したもので伝記に近いものだった。

 紹介するのは横27.8㎝の写真である。 

三笠宮崇仁親王伝記刊行委員会2022.12.2「三笠宮崇仁親王吉川弘文館 全1323頁から1944年(昭和19年)8月末から9月の関係部分を掲げる。※引用はpp.391~392 ※は高橋が記入。

 

八月三一日 午前九時四〇分所沢飛行場御発、午後零時半札幌御着。三井倶楽部御泊。(日記)※空路埼玉県所沢から札幌へ。

九月一日 札幌神社御参拝。北部軍司令部、第七七司令部(北海道帝国大学内)他を御視察。この日より四日まで、札幌御滞在、御視察。(日記)

九月四日 午前九時三五分札幌御発、同一一時一七分豊原御着。王子クラブにて御昼食。樺太神社、護国神社を御参拝。この日より六日まで、豊原御滞在、御視察。(日記)※豊原付近に王子クラブ・樺太神社・護国神社があることを見ると、豊原は樺太南部の現ユジノサハリンスクのことである。この日の移動も飛行機移動だった。

九月六日 午前九時

一七分豊原駅御発、午後七時敷香駅御着。王子クラブ御泊。この日より八日まで、敷香御滞在、御視察。(日記)

九月九日 午前八時半内路御発、同一〇時五〇分計根別御着。同一一時二〇分計根別御発、午後零時二〇分帯広御着。藤川温泉ホテル御泊。(日記)※内路は樺太庁敷香郡にあった内路(うちろ。現ガステロ)のこと。内路から計根別までは飛行機移動。

九月一〇日 午前一〇時一五分帯広御発、同一一時一〇分沼ノ端御着。午後二時半室蘭防衛司令部御着、御昼食、状況御聴取。同五時一五分登別グランドホテル御着。(日記)

九月一一日 御視察の後、午後一時半敷生御発、同四時半所沢御着、御帰邸。(日記)

九月一二日 午前九時半、東久邇宮殿下が黒崎貞明陸軍少佐とともに御来邸、御対面。三笠宮殿下は阿南惟幾陸軍大将を教育総監に推薦することに御賛成で、すでに梅津美治郎参謀総長にその旨を話したと御話になる。午後、梨本宮邸に御参。(東)(日記)

九月一三日 明治神宮御参拝。御出勤、北部軍御出張の御報告。大宮御所に御参。御参内、天皇皇后両陛下と御一緒に映画「若き東亜」等を御覧。終わって茶菓を賜る。(昭)(日記)

 

 以上で引用を終わる。三笠宮は陸大卒業後は「若杉参謀」(秘匿名)として南京の支那派遣軍総司令部参謀に赴任、現地の実情に衝撃を受ける。航空総軍参謀として敗戦をむかえたのは、満二九歳のときであった。

 伝記には三笠宮が帯広に行った目的が記されていないが、帰京後の9月13日に「北部軍御出張の御報告」とあるように天皇に陸軍視察の結果を報告している。北部軍とは1940年12月2日に創設され、以下のように1944年3月に第五方面軍の編成により廃止されているので、この場合は第五方面軍とすべきである。

 C13071240800「大本営陸軍統帥記録 昭和21年12月~27年9月」(防衛省防衛研究所蔵)

北方軍の統帥組織を作戦軍的性格に變更するの必要を認め北方軍を第五方面軍と改稱して東部軍との防衛担任地境を概ね津輕海峡とすることに變更し又千島方面防衛の為第二十七軍司令部を新設して第一飛行師団と共に第五方面軍司令官の隷下に入るることとなり乃ち三月中旬大本營は第七師団に動員を下令し第五方面軍、第二十七軍の戦闘序列を令すると共に左の要旨の命令を下達せり(略)

 帯広の写真舘が撮影しているのでこの写真は帯広で撮られたのはほぼ間違いない。前列中央に三笠宮、他に14人が写り、後列に13人が写っている。詳しく調べれば数人は判明するのだろうが、三笠宮の右に第一飛行師団長原田 宇一郎中将がおり、この人は特徴的な顔立ちなので分かった。前列左から二人目が第一飛行師団参謀西村守雄少佐かな?とみられるほか、後列に父が写っている他は判明しない。下に掲げるように第一飛行師団参謀長成田貢大佐の写真が別にあるので、この中に並んでいるはずだが指摘できない。

 下は左半分。背後に迷彩塗装の双発機が写っている。尾翼の紋様は不明。

 次は右半分。

 背後に三枚プロペラの戦闘機が二機写っている。次は成田貢大佐と西村守雄少佐?などが写った1944年8月14日に帯広で撮影したものである。後列右端の山下肇さんが「中央公論」(1995年1127号)に投稿した写真である。

 成田大佐は三笠宮の集合写真に入っているはずだが、これと指摘できない。似たような人が複数いて断定できない。

行 程

 三笠宮の北海道・樺太方面視察の行程図を示す。

 埼玉県所沢から空路札幌に飛び、再び空路で樺太の豊原に移動。そこから北の内路までは鉄道を利用しているが、内路から北海道東部の計根別までは飛行機で移動し、以後は飛行機移動で最終的に所沢に帰着している。樺太で鉄道を使ったのは悪天候で飛行機を利用できなかった可能性がある。豊原と内路には飛行場があったのだから天気が良ければ空路で行ったはずである。

 

 集合写真の背後に写った飛行機は何だろうか。

 左の双発機は操縦席の風防は天井中軸を左右に分けて開閉し、その片側は四分割されている。操縦席と重なる状態で垂直方向に棒が写る。操縦席と垂直尾翼との中間に機銃座らしき半球形の突起物がある。

 エンジンは主翼左右に一基ずつあり、右エンジン部の状態からプロペラは三枚であろう。一枚が下に下がり、一枚が右上に向かっているようにも見える。これは薄すぎて判然としないが。機体尾部は垂直尾翼下端から少し突出し、縦方向に断ち割った形は円形で小さい。機体の側面、主翼の付近には窓はない。機首にはガラス窓がないように見える。後部の車輪を出すときの扉が写っていないので、飛行中には格納しないらしい。

 この双発機の機種についていろいろな写真集で比べてみたが全く同じものは確認できなかった。父の写した第一飛行師団と考えられる別の写真に機首に濃い帯状の塗装をした三枚プロペラ双発機がある(下)。

 同様塗装の飛行機写真がある(「日本軍用機写真総集」月刊「丸」編集部編1970年pp.136)。これは一〇〇式輸送機(キー57)であり、「九七式重爆から発達した三菱輸送機MC-20と同型の陸軍の主力輸送機で日華事変末期から太平洋戦争の全期間を使用され、落下傘部隊輸送機としても使われた。」という。

 

 昭和otaku画報(gahoh.net)というネット情報でよく似た飛行機を見つけた。記述説明がないので想像すると、1937年制式の九七式重爆撃機(三菱キ―21)を改造したものと考えられる。図に見えるように機体尾部に突出しているのは機銃ではないかとみられるが、帯広での写真ではこれを撤去しているようである。九七式重爆撃機を改造したものに1940年制式の一〇〇式輸送機(三菱キ―57)があるが、それは機体末尾に機銃はなく、尖った形である。

 参考までに九七式重爆撃機は下図のような飛行機である。

 尾部の機銃部分の形や垂直尾翼の形等が昭和otaku画報(gahoh.net)のⅡ乙機とそっくりである。ただし、集合写真の双発機は尾部と機体上部の機銃を外しているように見える。また、垂直尾翼に描かれた紋様の意味は不明である。

まとめ

 三笠宮のこの視察は基本的に飛行機を利用していた。帯広の集合写真に写った双発機は九七式重爆撃機を改造した多数の同型飛行機のうちの一機であり、尾翼の紋様の意味するところが分からないので皇族専用機だったのか断定できない。皇族専用機はあったとしても公開していなかったかも知れず、そうであればこの集合写真の背後に写っているのは貴重だろう。2機の戦闘機は陸軍の代表的な戦闘機だった一式戦闘機(隼)のようであり、9月の視察飛行を護衛して行動したのかもしれない。これら3機も視察に関係した飛行機であることを記念して一緒に写したのではないだろうか。

 なお、帯広の自衛隊に勤務していた兄(昭武)によると、集合写真雄背後に写る三棟の建物は原存しているとのことである。

 

 

臼杵市 三角台を守る会のTシャツ

今日、西南戦争時の官軍台場跡をいくつも確認済の臼杵市諏訪の山間部で活動している「三角台を守る会」の村上中造さんからTシャツをいただいた。

臼杵湾北側に臼杵市総合運動公園があり、その背後の低い山に歩道を造り、看板・遊具を設置し、身近な山歩きができるように活動している人たちが「三角台を守る会」である。

勝海舟が見た米国サンフランシスコの要塞

 コロナの前年、サンフランシスコに行った。1860年、咸臨丸でサンフランシスコに着いた勝海舟が港の入口にある要塞を見学したことがあると書いていたのを思い出し、現地で「地球の歩き方」を開いてそれがどこにあるのか検討し、Fort Point(要所要塞)とアルカトラズ島に行くことにした。

 勝の文章が何に書いていたのか思い出せなかったが、今日、たまたまそれが「勝海舟全集」だったことが分かったので、この二ヶ所について現地でもらった説明書や海舟全集の該当部分を紹介したい。

勝海舟全集12』勝部真長・松本三之介・大口勇次郎編1978 頸草書房

「海軍歴史 巻の八」 本文引用部分はpp.212~213。※は高橋の記入。

 咸臨艦米国渡航の中

1 地勢見聞雑記(※サンフランシスコについての記述だが略す)

2 砲台

 港の入口、右に礟(※砲)台有り、大礟数十を架す(※Fort Point 要所要塞のこと)。その製悉く磚造(※煉瓦造り)、銃眼を以て三層にうがつ。上面平端、小礟を置くべく、全長六、七十間ばかり、幅これに応ず。外望するに、後面衛兵を容るに足るべし。また左方山腹に常火灯有り、出入の船舶、以て標的とす。入る時はこの山下に沿い鍼を取るべし。港口大川の水を流出すること甚だ急なり。故に風良ならざれば、潮候をまちて入るに便あり。

 港内右方、礟台をへだつること一里ばかり、山腹に兵卒舎あり。総将これを司る。これこの地の衛兵なるべし。また左方港内小島(※アルカトラズ島)に礟台あり。磚造と石造なるもの二座、皆大礟数十を備う。山上に礟卒舎、指揮官並びに士官の舎有り。この礟台は街市と斜に対し、入港せし船舶を擊つに便にす。これより以内は銃備なし。街市の港岸は、ことごとく大材数千をもって大棧を架す。貨物を揚ぐるに便す。故に大小の商船皆ここにつなぎて、端舟を用いることなく貨物を陸揚げす。

 この地の気候たいていわが邦と等しく、少しく温気を覚ゆ。唯、その欠けしところは清水乏しきに在り。故に居人みなその屋上雨水を取り、これを家下の窖に貯え日用に供す。

 聞く、この地昔時(二十年前)は一僻地にて、人口寡少、樹木繁茂し、野猪狐狸の巣栖たりしと。

測量船将貌魯古云う、吾、十五、六年前この地の到りし時は、人口未だ少なく、一日山腹に出でて猟せしことありしに、終日にして野猪十二、三頭を得たり。今、その猟せし地を想うに、当今街市の中央なるべし、と。当時人口およそ六万二千余、金銀鉱を検出の後よりして諸国の人種群集し、終に一繁昌の部落と変ぜしなり。今ここに来りてその居人を見るに、多くは永住の体少なく、広大美麗の家屋たりとも上、中、下層を区別し、一家一主の居宅少なく借家体をなし、あるいは一家を分隔し、夜間の人口に比すれば婦女少なく、人気厚利をむさぼり、物価最もたかし。しかのみならず金銀夥多なるを以て、物価わが邦に比すべからず(※以下略)。

 次に3から22、「咸臨艦米国渡航の下」があるが略す。海舟は時には数値を羅列し、ゆく先々で熱心に記録している。

3 在港官吏の定員  4 市街の景況  5 飛脚船  6 瓦斯灯  7 病院 8 貨幣鋳造局  9 活 板  10 防火器  11 馬車  12 舞踏  13 劇場  14 撃剣  15 造船局  16 総督の官舎を訪う  17 風車  18 機械製造所  19 修船場の装置  20 咸臨丸の修繕  21 甲比丹マッキ氏の注意

 22 火丹号着港(以下、咸臨艦米国渡航の下)

 

 要所要塞(Fort Point)

 ケーブルカーは観光客でにぎわっていた。市街は凹凸のある山や谷の地形を無視して、碁盤の目状に直線道路が交差している(グーグルマップ使用)。地図を一見したのでは分らないが、平坦な京都の碁盤の目道路とは全然違う。斜面に強いケーブルカーが必要だったわけが分かる。

それを利用し市街地の北部に移動し、海岸部で昼食した。空に異常にゆっくり行ったり来たりする軽飛行機があった。後ろの方に長方形の旗のような保険の広告を靡かせていた。「カネを節約するのは好きですか?」

  

日本では見たことがない宣伝飛行機だった。面白かった。

下の写真は金門橋とその下にある要所要塞。橋は1933年から1937年に建設されているので要塞が作られた当時はもちろん橋などなかった。要塞の建物は橋を造るときには作業員の宿泊所になっている。

狭い海峡の両側に要塞を築き、後年そこに橋がかけられるのは明石海峡と同じである。兵庫県舞子台場は勝海舟設計、弟子の佐藤与之助が現場を担当して1863年から1865年に築造した石造の台場である。勝は数年前に見たサンフランシスコの要塞を思い出しながら設計したのだろう。

舞子台場跡の写真はウィキペディア明石藩舞子台場跡)から転載。復元図では略されたようだが、陸側の石垣面には何か所か出入り口があり、そこから屋上に上り下りしたらしい。要所要塞の屋上のようになっていたのである。

下は要所要塞(フォート・ポイント)でもらった説明書の片面。要塞の絵の周りにある説明文を、DeepLを使い翻訳文を掲げてゆきたい。グーグル翻訳よりもずっと良くなっている。

 

1860年代の要所要塞

太平洋の憧れと誇り

1817年から1867年の間に、国の沿岸防衛体制は大西洋とメキシコ湾岸に約30の要塞を設置した。要所要塞は、この時代に西海岸で建設された唯一の要塞である。1857年の新聞記事には、この砦の「普通以上の芸術的な技術を持つ堅固な石組み...」と賞賛されている。太平洋の賞賛と誇りになるであろうことを、私たちはあえて予言する。

この図解では、その構造や理想的な使用方法など、さまざまな面を紹介している。砦を見学していると、この砦には何百人もの兵士が住んでいたことを思い出す。

要所要塞は、1812年の戦争後、米国の主要な港湾を守るために採用された第三体制沿岸要塞の優れた例である。下の図(※要塞の絵の左下にある小さな図)は、東側と西側の塁壁が追加される前に作成されたものである。要塞には、大砲を収納するケーズメイト(丸天井の部屋)が3段に分かれていた。バーベット層(※防御室と訳した)には追加の砲と、敵の大砲の砲撃の衝撃を吸収するための芝草被覆があった。入り口は鉄格子のついた出撃港だけだった。 1853年に工事が開始された。地元産の建築素材がほとんどなかったため、石材使用の考えをあきらめるまでは遠く中国から花崗岩が輸入されていた。近くの煉瓦工場では、約800万個の煉瓦が作られた。

完成すると同時に、要所要塞は改造を必要とした。南北戦争の東部での戦いで、石造りの要塞は施條砲に弱いことが証明された。1870年代には、南東の断崖絶壁の上にある大きな土塁、東砲台が、この地点の要塞を補った。

灯台

この灯台は、霧に覆われた海を航海する人々の道しるべとなるよう、自然の岬に建てられたもので、3基目である。最初のものは、1852年の建設直後に要所要塞の建設に伴い取り壊された。2つ目は岬の先端にある要塞の北側にあり、継続的に浸食され続けていた。現在の灯台1864年から1934年まで使用され、金門橋の土台がその光を遮るようになった。

大砲と配置

要所要塞は、予定された141門の大砲を搭載することはなかった。1861年10月までに、要塞とその周辺には24ポンド砲、32ポンド砲、42ポンド砲(右)の69門が設置されていた。戦後、陸軍は下部の小区画に強力な10インチのロッドマン砲を設置し、128ポンドの固体弾を2マイルにわたって発射することができた。最大時には102門の大砲を搭載していた。また、要塞には「加熱」炉があり、鉄の大砲玉を真っ赤に熱して大砲に装填し、木造船に向けて発射して燃え上がらせることができた。※当時の大砲は球形弾であり、水切りのように飛び跳ねて敵艦に衝突することを狙っていた。

稜堡と防潮堤

要所要塞の堡塁には、攻撃者が要塞を突破するのを阻止するために、それぞれ15門の小型の大砲が設置されていた。

堡塁は主構造物から突出しているため、防御者は胸墻から下を覗き込んで姿を見せるのではなく、自陣の壁に沿って守られた位置から射撃することができた。 陸からの攻撃から要塞を守るため、正面の小さい壁の西端に小さな大砲の砲台が設計された。建設はされたが、大砲は搭載されなかった。

要塞のある土地は海から15フィート以内まで削られていたため、防御のために護岸(右)が必要だった。全長1,500フィートのこの構造物は、印象的な土木工事の熱量である。花崗岩の石をはめ込み、その間は鉛の薄板で塞がれた。1869年に完成したこの壁は、100年以上にわたって金門の大波に耐えてきたが、1980年代に崩壊が始まった。 国立公園局はこの壁を再建し、波の力をそぐために海側に玉石を配置した。

駐屯部隊

南北戦争中は、第3米国砲兵隊、第9米国歩兵隊、第8カリフォルニア志願歩兵隊の500人もの兵士がここに駐留していた。

戦闘の主要な舞台から何千マイルも離れた場所で、隊員たちは訓練、砲撃練習、検査、見張り、保守作業などの日課に明け暮れた。下士官は3段目に窓枠を挟んで24人が寝、将校はその1段下に一人用または二人用の宿舎があった。石炭の暖房燃料を補うため、兵士たちは海岸で流木を集めた。要塞の司令官であったウィリアム・オースティン名誉少佐は、1861年の報告書でその状況を要約している。「夏の間、要塞は霧に包まれ、湿気と強風が絶えず、その結果、リューマチとひどい風邪が非常によく見られる。

 

1 崖壁 2 小銃射撃小窓 3 出撃口 4行進場 5 熱射炉 6 枠室 7 火薬庫 8 将校の宿舎 9 下士官の宿舎 10 最上階室 11 芝生敷防護室 12 胸墻壁 13 灯台 14 西稜堡 15 東稜堡16 砲台

 以上が説明書の片面である。なかなか詳しい内容で、見学者に理解してもらおうという態度が窺われる。挿絵も上手である。

 次は裏面。最初は全体。次に拡大してゆく。

要所要塞

太平洋沿岸全域のカギ

南北戦争が始まると、新しく建設された要所要塞は、米国陸軍の最も洗練された沿岸要塞の代表的な例として登場した。軍部は金門での位置を 「太平洋岸全体の鍵 」と宣言した。

煉瓦造りの重厚な壁は難攻不落の様相を呈していた。しかし、その一方で東海岸の要塞がそうであったように、石造りの壁を打ち抜くことができる新しい旋條砲が使用されるようになっていた。要所要塞は一度も戦火を交えることはなかった。この要塞は過ぎ去った時代の記念碑として、また海岸防衛のための駐屯地での生活を体験できる場所として残されている。

金門の哨兵

サンフランシスコ湾の入り口は、古くから人間が住む場所だった。最古の住民であるオーローン族やミウォク族の祖先は、食料と交通手段を湾の水に頼っていた。要所要塞から1.6kmほど離れた湾岸には、4,000年前のオローン族の村落跡が確認されている。

サン・ホアキン

1769年、ガスパル・デ・ポルトラの陸路探検隊がサンフランシスコ湾に到着した。1776年にはスペインがこの地域にヨーロッパ人初の入植地を設け、使節団とプレシディオ(軍事拠点)を設置した。イギリスやロシアの侵攻を恐れたスペインは、湾の入り口の最も狭い部分で、現在、要所要塞がある高い白い崖を要塞化した。1794年に建てられたサン・ホアキン城は、9~13門の大砲を収めた日干し煉瓦建築である。この小さな要塞は、メキシコがスペインから独立し、この地域を支配するようになった1821年までスペインの植民地を守っていた。1835年、メキシコ軍はソノマに移動し、カスティーヨの日干し煉瓦壁は風雨で崩れるに任された。1846年、メキシコと米国との間で戦争が勃発した。7月1日、米国陸軍士官ジョン・チャールズ・フリーモントとキット・カーソンと10人の従者からなる一隊は、カスティーリョを襲撃し、大砲を打ち込んだ。彼らは砦が空っぽであるのを発見した。1848年、メキシコとの戦争で米国が勝利した後、カリフォルニアは米国に割譲された。この年、サッターズ鉱山で金鉱が発見され、何千人もの探鉱者が訪れた。49年組(※金探しに流入した人達のこと)のほとんどは海路で到着し、1849年時点では1850年カリフォルニア州が31番目の州になったとき、米国陸海軍関係者はサンフランシスコ湾の安全を確保するために一連の要塞を推奨した。

海岸の防備は、要所要塞をはじめとするいくつかの戦略的地点(下の地図参照)で行われた。

要所要塞と南北戦争

1853年、米国陸軍工兵隊が要所要塞の工事を開始した。港の面積を最大限に守るために設置された。砲弾が水面を跳ねて敵艦に向かうように、最低の砲兵層はできるだけ水面に近いところに置くことが計画されていた。(※投げた石が水切りしつつ飛んでいくように、球形弾が跳びはねて敵艦に衝突するようにした。要塞自体なるべく海水面に近くなるよう地形を掘り下げて造られた。)作業員は90フィートの崖を海抜15フィートまで爆破した。7フィートの厚さの壁と何層にも重なった筐体構造は、第3次世界大戦の要塞の典型だった(この解説書の反対側にある図を参照)。1854年、ジョセフ・F・K・マンスフィールド監察官は「この地点は太平洋岸全体への鍵であり...たゆまぬ努力が必要である」と宣言した。

200人の作業員は、多くの失業中の鉱山労働者であり、要塞の上で8年間労働した。

1861年、戦争が迫る中、陸軍はこの要塞に最初の大砲を搭載した。太平洋省司令官アルバートシドニー・ジョンストン大佐は、湾岸地域の防衛を準備し、最初の部隊を要塞に送り込んだ。 ケンタッキー生まれのジョンストンは、その後、指揮官を辞任し、カナダ軍に参加し,彼はシローの戦いで戦死した。 戦争中、砲兵たちは決してやってこない敵のために見張りをした。南軍の襲撃船CSSシェナンドー号はサンフランシスコを攻撃する予定だったが、港に向かう途中に船長は戦争が終わったことを知った。それは1865年だった。サウスカロライナ州のサムター要塞やジョージア州のプラスキー要塞など、大西洋岸の同様の要塞が戦時中に大きな被害を受け、旋條砲に対する石造りの壁の有効性が問われることになった。

部隊はすぐに要所要塞を去り、陸軍が継続して占領することは二度となかった。しかし、この砦は風雨から身を守るために十分な重要性を持っていた。1869年、花崗岩の防潮堤が完成した。翌年、要塞の大砲の一部は、より保護された近くの断崖にある東砲台に移された。1882年、要所要塞はメキシコとの戦争で有名な英雄にちなんで、ウィンフィールド・スコット要塞と正式に命名された。この名前は定着せず、後にプレシディオの砲兵隊に適用されることになった。

新世紀へ

1892年、陸軍は鋼鉄製の元込め装填式旋條銃で武装した新しいエンディコット(※人名)系のコンクリート要塞の建設を開始した。8年以内に要所要塞の102門の滑腔砲はすべて解体され、屑として売却された。 1906年地震(※サンフランシスコ地震で中程度の損傷を受けた要塞は、その後40年間兵舎、訓練、倉庫として使用された。米国沿岸砲兵隊の兵士は第二次世界大戦中、地雷原と金門に張り巡らされた対潜水艦網の警備に当たっていた。

要所要塞の保全

 1926年、米国建築家協会が、優れた軍事建築であるとして要塞の保存を提案した。資金が足りず、この構想は立ち消えになった。1930年代の金門橋の計画では要塞を撤去することになっていたが、主任技師のジョセフ・ストラウスが要塞を保存するために橋を設計し直した。

ストラウスは、「古い要塞に軍事的な価値はないが、それでも石工の芸術の素晴らしい例である......」と述べている。「国定公園として保存・復元されるべきである。」

第二次世界大戦後、保存活動が再開された。1970年10月16日、リチャード・ニクソン大統領が要所要塞国定史跡を創設する法案に署名した。要塞は、金門を守ってきた年月を物語っている。

要所要塞は完成後に起きた南北戦争では使われなかった。唯一回危機があったが南軍側軍艦が攻撃しようと進軍中に戦いが終わり、ついに南北戦争の戦場になることはなかった。

次に要所要塞を見学した際の写真を掲げる。

上の左:バーベット層

要所要塞の屋根は「防護室」と呼ばれ、兵士たちはここに搭載された21門の大砲で、陸や海からの攻撃を防ぐことができた。アン・バーベット」と呼ばれる大砲は、厚さ7フィートのパラペット(外壁)を越えて発射できる台車を備えていた。要所要塞のバーベット砲は、金門に入る木造船を沈めることができた。

要所要塞の砲列を通過しようとする敵艦は一隻もなかった。

左下地図の説明文

サンフランシスコ湾を侵略船から守るには、十字砲火作戦が必要だった。3カ所(要所要塞とその北側対岸にあるライムポイント、サンフランシスコ湾のアルカトラズ島)に設置された大砲が、金門を通過する入港船に向けて発射されるのだ。

下の説明文:バーベット層には武装した歩哨が砦を守り、金門に入る船を常に監視していた。

右の青い部分:「昨日、ハワイ諸島のエマ女王とその一行は、ハーバーの要塞を訪問した。埠頭から要所要塞に向かい、第二砲兵隊の素晴らしい楽隊が素晴らしい音楽を奏でながら、要所要塞をくまなく視察した。

検査の後、中隊はバーベット砲台からの砲撃練習に立ち会い、ライムポイントの麓が目標だった。射撃は絶妙で、すべて直射で、1発の砲弾が標的の東端で炸裂した。」アトランタ カリフォルニア 1866年10月4日

上は屋上の平面図。文中にもあるように、二つの突起部分は当初はなかった。下は砲弾運搬車。

上は展示していた銃弾など。おそらく南北戦争頃のもの。

下は細長い鉄板を湾曲させた状態で地面に敷き、鉄板の上で大砲基部の下にある車輪を転がして射撃方向を変える仕組み。窓の高さを考えると砲身はやや下向きにして砲撃したのだろう。

下はナポレオン砲。

上は大砲に砲弾をねじりつつ入れる棒・砲身掃除棒など

上は臼砲

アルカトラズ島

 次はアルカトラズ島で撮った写真。この島は最後が監獄だったので、それが展示の中心だった。アルカトラズ島に行く連絡船乗り場は長蛇の列だった。解説書は日本語のものがあったので掲げ、部分拡大も掲げる。 

要塞が廃された後、監獄になったので、下の要塞時代の模型は現状の形ではない。要塞時代の展示は少なく、大砲は一門だけあった。島の上を歩いてぐるっと一周してみた。

上はアルカトラズに展示している大砲。市街地から目と鼻の先だったが、あれから数年たったので島に渡るのに船で何分かかったのか思い出せない。要所要塞・アルカトラズ島の大砲は本物ばかりで、せいぜい模型を置いてあれば上出来の日本との大きな違いを感じた。

おわり。

 

 

 

 

今借りている本

〇「茶の湯の表具千家十職・奥村吉兵衛の仕事」淡交社

 まだ読んでいない。

〇楊暁捷「戯れる江戸の文字絵」マール社

 まだ読んでいない。

〇江橋崇「百人一首ものと人間の文化史

 これは面白かった。が、若干分かりにくかった。

〇「海幸山幸」九州国立博物館

 2021年発行の展示図録。

〇「造幣局150年のあゆみ」大蔵省造幣局

 2022年11月発行。大蔵省は2001年に財務省になったがこの本の奧付は大蔵省造幣局のまま。大蔵省の名前が捨てがたく、こっそりと使用し続けているのだろうか。

〇ジェスティス「世界の美しい城」原書房 

 世界には中世の城の美しさに憧れて、ノイシュバンシュタイン城のように19世紀・20世紀になってから新築されたものがあるらしい。日本の城は大阪城松本城が載っている。