西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

臼杵市甲﨑山の戦跡 ※9月24・25日踏査:25日は北部。

 「西南戦地取調書 豊後」の臼杵市部分には現地を確認していない戦跡がいくつもある。今日は旧野田村(臼杵市福良と野田の境界?)の山を一つ歩いてみた結果、台場跡を1基発見した。写真は目的地の少し手前で大迫山・臼杵下流を撮ったもの。青空と山がきれいだった。背後の山並みは大分市との境をなす佐賀の関連山。

 まず、同書掲載の野田村の部分は以前、このブログで紹介したことがあるが、再び取り上げる。文章の後に絵地図があり、地名がいくつも書き込まれている。文章に登場する地名を青色で示す。

 北海部郡野田村

舊四月廿日ヨリ同月廿九日マテ※「六月一日ヨリ七月九日マテ」の付箋)薩軍隊長姓名不詳四百余十人ヲ率テ臼杵町ニ滞在

 但大野郡地方ヨリ襲来リ南海部郡地方ニ去ル

舊四月廿日(※「六月一日」の付箋)野田村字原芋ノ久保(白井)ニテ一時間程戰争(是ハ薩軍東京警視隊臼杵士族)アリ賊勝利則チ東京警視隊五名字芋ノ久保(白井)ニテ即死其人名盛唯西郷光吉(盛山実一土屋)外二名不詳賊軍傷ヲ負ヒタルモノ八名ト云ヘリ

同廿一日ヨリ仝廿九日マテ人夫ヲ賊ニ出ス事凢ソ百二十人其賃銭壱人ニ付金二十銭位ト被申候得共不受取最モ無賃ニシテ則チ賊ノ屯所ニ於テ飯焚并諸使等致シタル由

同廿七日(※「六月八日」の付箋)薩軍凡ソ三百余十名野田村字甲﨑ヘ臺塲ヲ九ヶ所ニ設ケ居ル然ルニ午前六時頃海軍々艦津久見嶋沖ニ来リ大砲ニ発則チ(ノロシ)其合圖ニ官軍凢ソ二百名余リ仝郡前田村ノ内字登リ尾ヘ進ミ来リ又一方ハ仝村字荒田峠ヘ五百余十名程進軍ス直チニ野田村字一本へ進ミ該所ヨリ手配リシ仝村字ヘ二百名余字西平ヘ百余十名程字ヘ及ヒ字御霊畑邉ニ數百人襲来リ直ニ賊軍ニ向

ヒテ進擊ス然ルニ賊軍ハ追々進ミ字甲嵜ヨリ字権現山石田山丸尾ヘ備ヘヲ立此處ニテ双方ヨリ二時間程大戰争アリ賊軍勝利ト見ヘ官軍方ハ直ニ同郡前田村ヘ退軍ス此時官軍方死傷アルト雖ノモ確明ヲ得ス

其戰争ニ兵火ニ罹ル者人家四戸并ニ神殿拝殿是ハ当村産神御霊神社ナリ

 但火ハ放火則官退軍ノ際ニテ官軍哉賊軍哉不詳

同廿八日賊軍ハ野田村字甲峠及権現山ヘ官軍ハ字繪堂瓦屋ヘ備ヘヲ立テ双方小銃ヲ以テ炮発スト雖ノモ勝利不詳

同廿九日午前四時頃ヨリ官軍二百名余リ野田村一木ヨリ仝郡望月村ヲ通リ仝村字立石ヘ上リ此處ヨリ野田村字谷山ノ峰通リニテ仝郡福良村ノ内字山菴ヘ着此時午前七時頃ナリ該所ヨリ直ニ野田村ノ内字甲嵜ナル薩軍ノ臺塲ヘ向テ進擊ス官軍同時ニ二百名余リ同村字洲嵜瓦屋原ヨリ甲嵜ヘ向ヒ進擊ス一時間程ノ戰争アリ官軍速ニ勝利ヲ得タリ依テ薩軍不残南海部郡地方ヘ去ル

右之通ニ候也

               北海部郡野田村

 明治十六年八月十七日 戸長  矢 野 徳 市

 この絵地図が無ければ、細かな地名はさっぱり分からないところだった。

 発見した台場跡は

である。現在の地図を掲げる。

 絵地図の方位は西に45度位傾いている。該当する村の記述は同廿七日(※「六月八日の付箋薩軍凡ソ三百余十名野田村字甲﨑ヘ臺塲ヲ九ヶ所ニ設ケ居ルだとみられる。薩軍が9か所に台場を築いたとあり、絵地図には甲﨑に台場の印が9個ある。この日の戦いは午前6時頃から始まっており、薩軍臺塲ヲ九ヶ所ニ設ケ居ルというのは6月8日以前から守っていたという解釈もできる。当日に台場を築いたというよりも事前に準備していたと考える方が自然である。

 今回発見した台場跡は南向きに築かれており、絵地図に描かれた内、一番南の物と符合する。従って、今回甲﨑山と呼ぶ地域に9基の台場が築かれたのは正確な記録であろう。ただ残念ながら、西南戦争後に高速道路や寺その他の開発が行われているため、この山の中間部分では台場跡は消滅したのではないかと思う。その他も果樹園や宅地化のため大部分は消滅したかも知れない。

 分かりにくいので外形に白線を引いた。「稲葉」銘の石柱方向から。

下は東側から見たところ。土塁部分が左に突出し、ほぼ全体が写っている。

 下の写真もほぼ全体が写る。尖った石柱方向から。山の雰囲気は分かると思う。

 略図化道具はこれだけ。

 今回は甲﨑山1号台場跡について紹介した。そのうち、周辺も調べたい。

北部の踏査

 というわけで25日(今日)は図の右上部を歩いてみた。

本日は気温24度前後で小雨模様だった。下の写真は登り始めの尾根。人家が密集したところの左側を登った。

 北西から興山寺(寺の記号・西南戦争時にはなかったらしい。寺のHPでは明治に建てられたとあるが詳しい年代は記されていない。)まで尾根筋を歩き、寺で折り返して北東の道を下った。結論は台場跡未確認。

 登り始めた付近は平野に突出する畑で、南側は椎茸栽培地、その南は森になっていて直径1㎝位かそれ以下の竹が密生し、進みにくかった。途中、標高42.7mの三角点がある場所は次の写真のように宅地になっており、地形は旧状を留めていない。

 その向こう側、南側も雑木林で矢竹が密生し、旧耕作地のように高さの異なる平坦面が続く状態だった。畑が雑木林化したものらしい。寺に近づくと舗装道路が直角に折れ曲がる場所に出た。その先の森の中も平坦面の縁辺に石を並べた畑の跡のような平坦地が何段かあり、ここも昔耕地化されたらしい。

 往路の南半分には溝状の道が尾根の東部、やがて西部に移り寺の西側まで続いており、寺の入口はその道に面している。舗装されてなく、使われていない状態だが創建時にはこの溝のような道を通って寺に行き来したのだろう。石段と両側の立石があるが、この西向きの入口は用済みだろう。今は自動車で参拝できる道が寺の南側に(今日の復路の一部)あるが、明治時代の興山寺創建時のものではない。

 

 結論としては、西南戦争後に開発が進んだため、興山寺付近から北側では台場跡を確認できなかった。甲﨑山では南部に1基だけ確認できたが、絵地図にあるように南を向いて存在する状態は絵地図と同じであり、絵地図の信憑性を裏付ける発見だった。

 戦闘経過

 ここからは他の記録も参考に甲﨑山周辺の戦いについて検討したい。

 6月8日の野田村提出の報告を参考のために再び掲げる。同廿七日(6月8日)薩軍凡ソ三百余十名野田村字甲﨑ヘ臺塲ヲ九ヶ所ニ設ケ居ル然ルニ午前六時頃海軍々艦津久見嶋沖ニ来リ大砲ニ発則チ(ノロシ)其合圖ニ官軍凢ソ二百名余リ仝郡前田村ノ内字登リ尾ヘ進ミ来リ又一方ハ仝村字荒田峠ヘ五百余十名程進軍ス直チニ野田村字一本へ進ミ該所ヨリ手配リシ仝村字原ヘ二百名余字西平ヘ百余十名程字井戸ヘ及ヒ字御霊畑邉ニ數百人襲来リ直ニ賊軍ニ向ヒテ進擊ス然ルニ賊軍ハ追々進ミ字甲嵜ヨリ字権現山石田山丸尾ヘ備ヘヲ立此處ニテ双方ヨリ二時間程大戰争アリ賊軍勝利ト見ヘ官軍方ハ直ニ同郡前田村ヘ退軍ス此時官軍方死傷アルト雖ノモ確明ヲ得ス 其戰争ニ兵火ニ罹ル者人家四戸并ニ神殿拝殿是ハ当村産神御霊神社ナリ 但火ハ放火則官退軍ノ際ニテ官軍哉賊軍哉不詳

 この日薩軍三百余人が甲﨑山の台場9基で守備をしていた。午前6時頃臼杵湾に停泊する官軍軍艦の砲擊2発を合図に臼杵川の左岸、前田村の登り尾(登り尾は絵地図では臼杵川を隔て甲﨑山の対岸に描かれている。水ケ城山から南東に下る尾根があるがこれだろうか。)に二百余人の官軍がやってきた。また、前田村荒田峠にも五百余十人が来て、野田村一木に進み、そこで三方に分かれ(原へ二百余人・西平へ百余十人・井戸と御霊畑へ数百人)、直ちに薩軍に向かって攻撃を始め、戦いは二時間ほど続いたのち、官軍は臼杵川の対岸に退却した。この日官軍の放火で焼けた御霊神社が今も畑の中に残っている。もちろん当時のものではないが。 

 登り尾の官軍がこの方面の戦闘に参加したようには記されていない。

 地図上では次図のような位置関係である。今までこれほど詳しい記録がなかったので、初めて戦闘推移が理解できたのでこの史料は貴重である。

 熊本鎮台第十三聯隊第三大隊長小川又次の「陣中日誌稿」は以前ブログで紹介したが、この日の部分を再度掲げる。上図に登場する官軍は臼杵攻撃の内の右翼部隊(野津市口)であり、第十三聯隊の第二大隊が全体で部署されていて、明治10年10月調べでは全員で810人だった(「熊本鎭臺戰鬪日記」熊本鎭臺諸隊人名表)。この図に登場する記事を色違いにした。

六月八日晴天臼杵攻撃ノ爲メ午前第一時頃本隊芳野峠ヲ発シ拂暁水ケ城ヲ乗リ取リ第二第三中隊及第一中隊右小隊ヲ水ケ城エ同十一時頃第一中隊ノ左小隊ヲ下末廣村エ第四中隊ノ右小隊ヲ荒田山ニ配布ス午後三時頃第四中隊ノ左小隊ハ第二大隊ノ應援トシテ野村ニ進撃奮戰此夜第四中隊左小隊ハ引揚ケ水ケ城ニ復ル此日即死ハ軍曹吉田久吉外二名負傷軍曹小林良教外六名アリ賊ヲ斃スヿ數名此日臼杵湾ヨリ我海軍ノ砲射セリ左右翼軍ト攻撃ノ相圖齟齬セシカ中央軍獨リ突進水ケ城ヲ拔ト雖モ賊屡ク左右ヨリ迂回シ大ニ配兵法ニ苦ム

 戦闘時間がこれでは午後三時頃応援として進撃などと長時間続いたことになり、村の報告と異なる。

御霊神社

 荒田峠から官軍の一部が進んだ御霊畑というのは、臼杵川右岸の台地(9万年前に低いところを埋めながら流れてきた阿蘇溶結凝灰岩が大した浸食も受けずに残った標高10m前後の平坦な台地)の西部に御霊神社があるのに因む地名である。下図にある臼杵摩崖仏は臼杵石仏ではないので注意。それはも少し上流右岸にある。

 神社はこの戦争の際に官軍から焼かれたが、その地には現在も神社が存在する。鳥居は昭和のもので、西南戦争当時からあるのは東側に並ぶ二基の灯篭と神社境内の南西にポツンとある石造りの小さい祠だけのようである。

 灯篭各部の名称は上から宝珠・笠(屋根のようなもの)・火袋(明かりをともす部分)・中台(火袋を載せる四角い部分)・竿(一番長くて、中ほどよりも上の方が狭い)・基礎と呼ばれている。向かって左の灯篭の笠には表側に安政二年云々と彫られているが、裏面には平成に造り替えたとあり、風化具合から新造は竿と中台だけらしい。銃弾の痕跡でもないかと観察したら向かって右の灯篭の笠の東向き部分にそれらしき箇所が一つあった(下の写真)。東面だから薩軍が撃った跡かも知れない。絶対に銃弾の痕だというつもりはないが。 

 境内の裏(西側)に廻ると小さい祠があり、屋根の上部、東向き面に丸いくぼみが横から穿たれている。十円玉を置いて撮影した。銃弾痕の可能性があると思う。

 この祠には何も彫られてないが、古そうだった。  

            御霊神社の北西側から見た荒田峠

 帰りがけに臼杵川の北側からこちらを撮ることにし、川沿いの道を上ると天文16年の石塔など計4基の石塔があった。

これは後で確認すると大分県が発行した中世石造物報告書にはないが、臼杵市のHPにはあった。この付近に豊後国主だった大友義鑑(1502ー1550)のお茶屋があったという。後世に移動したのか東面と北面はコンクリートの吹付け面になっていて、4基の南面がきれいに一直線に並んでいる。東から1~4とすると、一番東側のは一石五輪で、丸い部分に墨書痕がある。二番目は異なるものを組み合わせたような石塔である。三番目のは宝塔である。略図を撮ろうと思ったが時間がかかるので中断した。四番目は塔の体をななしていない寄せ集め。2と3は四面に刻字があるが、今回は中途半端な記録しかとらなかった。

           つづく・・・・・・・・・・・・

 

廿八日賊軍ハ野田村字甲峠及権現山ヘ官軍ハ字繪堂瓦屋ヘ備ヘヲ立テ双方小銃ヲ以テ炮発スト雖ノモ勝利不詳

同廿九日午前四時頃ヨリ官軍二百名余リ野田村一木ヨリ仝郡望月村ヲ通リ仝村字立石ヘ上リ此處ヨリ野田村字谷山ノ峰通リニテ仝郡福良村ノ内字山菴ヘ着此時午前七時頃ナリ該所ヨリ直ニ野田村ノ内字甲嵜ナル薩軍ノ臺塲ヘ向テ進擊ス官軍同時ニ二百名余リ同村字洲嵜瓦屋原ヨリ甲嵜ヘ向ヒ進擊ス一時間程ノ戰争アリ官軍速ニ勝利ヲ得タリ依テ薩軍不残南海部郡地方ヘ去ル

まず、菖蒲和弘2008「熊本鎭臺歩兵第十三聯隊第二大隊第二中隊 山田為蔵従軍日記」『西南戦争之記録』第4号pp.22~43

同年六月八日朝壱時三十分ニ野津市村ヲ發シ臼杵城下ヲ進撃致シ候事、同日午後壱時頃ニ大野村迠進ミ候得バ、歩兵第十三聯隊第三大隊并ニ各旅團ハ靏崎口ノ通リより進ミ大ニ戦ヒ候也、就テハ歩兵第十三聯隊第二大隊モ亦武田口より進ミ大ニ合撃致シ候得共、第二大隊ハ戦利アラスシテ、其夜荒田峠迠引退ク、同第三大隊并ニ各旅團ハ靏崎口於テ昼夜共ニ戦ヒ候也、其夜大雨降也

同年同月九日朝五時頃より亦第二大隊モ降リ、田畑ニ臺場付之ヲ守ル

 

西南戦争前後の軍用水筒1 ※明治初期・中期・後期に分けて少しずつ加筆修正します。☆を付けてくれたふひとべのべさんに感謝

 西南戦争の頃の水筒に興味があって時々調べてきた。整理整頓された話にはならないが、所有する水筒紹介を兼ねて関連事項を書き連ねてみたい。

 まず所有する硝子製水筒2個の写真。二つ以上あったと思うが見つからないので、発見したら追加したい。 

 右をイ、左をロと呼ぶことにする。どちらもガラス瓶を革で両側から包んで縫い付けている。表面の黒色は漆塗であると理解されている。下部にコップ状の容器がはまっており、固着して外れない。イにはひもと栓が付いているが、ひもは本来の物ではなく、栓の木質部は桐材のようであり、補修して本来の材と交換したのだろう。

 コップ部分を外した内側はどうなっているのかは次の平山晋さんの報告を見ると理解できる。現在、ネット情報を閲覧するとこのような水筒は西南戦争から日清戦争の途中まで日本陸軍の装備品だったと理解されている。しかし、軍装品に詳しい人も30年くらい前までは正確には把握していなかった。こう言うと悪意があるように思われるかも知れないが、そう解されるのは本意ではない。1992年の「軍装操典」にこの種の水筒が2頁で紹介されているので、入手しにくい本なので全文と図・写真を掲げたい。

 文字が読みにくいので活字化する。図と写真も拡大する。

 明治期には良く分からない品物があります。 

 これもその一つで、軍隊でまず使われないだろうと思われるガラスが使用されています。それは、内部にガラスビンが入っており、外側を革で包んであります。下方はコツプになっており、その材料は乾漆で出来ています。

 革の部分には、やはり漆塗りになっていて、かなり高級な作りになっています。このような水筒には負革が付いています。やはり肩から斜めに下げていたのでしょう。昔は背嚢の中入れていたと聞いたことがありますが、負革が付いている以上、肩から下げていたものと思われます。栓はキルクで、中心に金具が付いていて、その金具から負革まで紐が付いていて、中心のキルク栓が無くならない様になっています。

 乾漆製のコップの下部左右には真鍮製のボッチがあって、それぞれ負革がついていて、コップ紛失を防止しています。

 ガラス水筒を包んでいる革の上部は丁寧に縫ってありますが、下部は尾錠止めになっており、その尾錠を外して中のガラス瓶を取り出せる様になっています。

 かなり凝った作りになっていて、当時の職人の技術の高さを伺う事が出来ます。但し、先にも述べた様にガラスという割れやすい材質を使っているという事は、いままでそれほど寒い地方で戦闘が無かった事、又激しい戦いがなかったものと考えられ、いわゆる野戦に於いても、よく映画で見るような何列縦隊で鉄砲を構えながら、前進して行く様なナポレオン時代又は南北戦争などの戦闘形式ならば、ころんだり、伏せたり、石木にぶつかったりという行為が、あまり無いのでガラス製でも支障が無いものと思われました。

 ガラスで出来た水筒など他の軍隊では無く、日本独自の品物と思っていましたが、先日南北戦争時代の軍隊装備の写真を見ていましたら、そこに、ガラス製の瓶を革で包んだ水筒を見つけました。それは、形や凝り様は異なりますが、正に日本の水筒の原点でした。注釈にイングランドタイプとなっていました。

 第二次世界大戦などでは、とても考えられない程、明治期は優雅だったのかも知れません。

 本題とは関係ないがまじめな人柄が浮かび出るような文章である(やはり、ですます調にした方がいいんだろうか)。

臼杵市望月の尾根を歩く

 絵図に台場が記録されていると何か勘違いをして臼杵市望月の山を歩いてみました(赤い矢印)。臼杵石仏の火祭りの際に北側斜面に京都の如く「王」(大ではない)の字を焼く山の尾根続きです。

 杉山になっていて、地表に草がなく歩きやすい往復1時間の運動でした。北部には直径20㎝前後の竹も混じり、特に北斜面は枯れた竹が折り重なって歩きにくい状態でした。

終始、下を通行する車の音が聞こえる状態で、帰りに方向を間違えないだろうか、という恐れは全く抱かない楽な歩きでした。所々に石英の円礫が転がり、中には赤いチャートもみられた。

 写真は直径3m位の石英円礫(台場跡を確認した場合に備えて画板に方眼紙を持参)

                  上の拡大

帰って絵図を確認するとここには台場の印がなく、今日は単に汗を流しただけ、いい運動だった。負け惜しみに言うと、絵図は正しかったと思います。

臼杵市井村山の写真を撮ってきました

 臼杵市井村山で以前見つけた台場跡の遠景写真を撮る序に、その北東側の大字井村字桑尾に初めて行ってみました。

 桑尾でも例の絵図に一ヶ所薩軍台場があると●が落とされており、それを確認するのも目的でした。途中、まだ大分市の所で、前方の佐賀の関(さがのせき)連山が濃淡で奇麗だったので撮影。帰宅後パノラマにしようとしたら容量が大き過ぎると拒否されたので、単に繋いでみた(次の写真)。佐賀の関連山という名は勝手につけた名称で、他に九六位(くろくい)山脈と呼んだりしています。

 

 次の写真は桑尾に行く途中、南西方向の井村山北部を撮ったもの。手前の道は臼坂BP。6号台場跡と名付けた長大な塹壕の手前まで伐採された状態で発見していたが、それ以上立木が切られておらず、伐採跡地は草が茂る状態になっています。土取りが行われ茶色の地面がむき出しの部分の右側です。草地斜面のすぐ奥、森のはずれに塹壕跡がある。左奥に見えるのは水ケ城山です(高い部分の手前の低い峰には水ケ城跡がある)。

 上は拡大。下の地図の青い矢印が撮影方向。矢印の根元に墓地の記号があるが、この付近に薩軍台場があったとみられる。

 付近で草取りをしている人に訊いた所、今の墓地は周辺にあった個人墓を一つの墓石にまとめたものであり、この付近での西南戦争に関する話は聞いたことがないということだった。墓地の北側から南を向いて撮影したのが次。墓地の東側、写真の左は崖になっていて、森は斜面の樹木。右側は畑で遺構は地上からは確認できない。ここに台場があれば見晴らしがよかっただろう。遠景左は臼杵津久見の境界にある鎮南山(536m)

 

 背後の最高所は標高257mの藤原山。こちら側の斜面はミカン畑だが、頂上は旧地形を残す。以前確認したが台場跡はなかった。

おわり

チャット(Bing)で遊んでみました。

 最近、PCに新しい機能が出現しているので、外国語の単語やらを質問して遊んでいます。今回は「明治7年の台湾征討の時、日本軍はどのような水筒を使ったのか」という質問をしてみたところ、その答えは以下の通りでした。

こんにちは、これはBingです。😊 明治7年の台湾征討の時、日本軍はどのような水筒を使ったのかという質問にお答えします。

台湾征討は、明治維新後の日本としては初めての海外派兵であり、約3,600人の兵士が参加しました1。台湾は亜熱帯地域であり、水分補給は重要な課題でした。しかし、当時の日本軍には水筒という装備品はまだありませんでした2。そこで、日本軍は台湾出兵に際して、西洋式の水筒を参考にして自作したという記録があります2

自作した水筒は、鉄製の円筒形の容器に竹や樹皮で作った蓋をつけたもので、容量は約1リットルでした2。水筒には紐がついており、兵士はそれを肩からかけて持ち運びました2。しかし、この水筒には欠点がありました。鉄製の容器は錆びやすく、水が汚れることがありました2。また、竹や樹皮で作った蓋は密閉性が低く、水がこぼれることもありました2。さらに、水筒の形状や重さが不均一であり、兵士の動きを妨げることもありました2

このように、台湾征討の時に日本軍が使った水筒はまだ改良の余地が多くありました。その後、日本軍は西洋式の水筒を正式に採用し、その形や素材を変えながら現代まで使用しています3

以上が私の回答です。参考になれば幸いです。😊

 要するに鉄製の円筒形容器を水筒として使ったという回答です。容量は約1リットル。

 台湾出兵についてアジ歴で検索すると、ガラス製水筒を支給したという史料が見つかりました。

C04025710100明治7年 「大日記 諸鎮臺伺届弁諸達 9月木 陸軍第一局」(防衛省防衛研究所)0572・0573

 第三千二百十二号

一 水筒   五百八拾壱個

右此度歩兵第一大隊蛮地ヘ出張ニ付相渡度候間至急御渡被下度此段相伺候也

※右このたび歩兵第一大隊蛮地へ出張につき、あい渡したく

そうろうあいだ、至急お渡し下されたく、このだんあい伺いそうろうなり

陸軍少将種田政明代理

九月二十日  陸軍中佐岡本兵四郎 西南戦争では第一旅団参謀長

 

陸軍卿山縣有朋殿

伺之通

但在庫ギヤマン製之分可相渡候事※但し在庫ギヤマン製のぶん、あい渡すべくそうろうこと

右者第五局ヘ達ス※右は第五局へ達す

 明治7年9月9日、岡本兵四郎中佐が歩兵第一大隊の台湾(蛮地)出張に際し水筒581個を至急渡して欲しいとの要望。陸軍卿の山縣有朋の返事は「第五局在庫のギヤマン製を渡す」です。この言い方なら、在庫品にはガラス製水筒(ギヤマン製水筒)でないのもあったかも知れません。その後、12月段階には次のようにブリキ製の面桶(メンツ―と呼ぶらしい弁当箱)と水筒などの記録があります。

公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年~明治八年・第二十六巻、第二十七巻・明治元年~明治八年 別00200100 

七年十二月廿二日

出征用具調整全備ニ至レハ各鎭臺ニ格護非常ニ備ヘシム

  第五局ヨリ本省ヘ伺

 今般出征用トシテ調整致候ブリツキ面桶並水呑其外大釜藥鑵等々之類ハ追テ調整全備 ノ上各鎭臺兵員ニ應シ豫備トシテ送達致置候様致度此段相伺候也

指令七年十二月廿八日

  伺之趣調整全備之上ハ各鎭臺格護致置非常ニ可相充事

   但鎭臺派出其局官員ニテ取締可致事衆規明鑑

 格護とは収納とか保管という意味でしょう。台湾出征用として今度製作したといっています。それまではなかったようです。最初の史料も参考にするとガラス製水筒はすでにあったようです。大釜と薬缶もこの際製作するつもりだったようです。初め大谷と読んだけど、大釜という史料もあり、訂正しました(C04025583400「明治七年十二月 大日記 諸局伺届并諸達書 水 陸軍第一局」防衛研究所蔵1195・1196)。第五局で製作が終われば、出征しない他の鎮台へも兵員数に応じて送付する、ということであり、まだブリキ製のそのようなものは各鎮台にもなかったようです。

 チャット(Bing)の間違いは明らかで、参考にならず残念でした。

 つづく

 

宮崎県の西南戦争調査報告書(概要報告であり、本報告はこれからの予定)

 2020年度から三年間、宮崎県埋蔵文化財センターが西南戦争遺跡の調査を行った分の成果の一部が報告書として公開されています。

 
 確認した台場跡の数は521基、他に墓地や慰霊碑なども調査対象にしています。大分県内では900基前後発見していますが、宮崎では調査は続いており、確認数で追い越されるのは時間の問題でしょう。実測した台場跡の図はまだ一部しか掲載していないので本格的な報告はこれからのようです。

 今年度の報告では8月上旬に両軍が対峙した日向市耳川流域の鳥川台場群が報告されています。

    鳥川台場群の周辺では上図には図示されていないが、実は多数の両軍の台場跡を同じ宮崎県埋蔵文化財センターが確認している。

 上は薩軍の台場跡です。台場跡相互の間隔は相当近接しています。図の右側は耳川が流れ、対岸に官軍の大軍が台場群を築いてこちらをにらむ状態でした。官軍がいる方は土塁状の高まりを造り、兵士は背後のくぼ地に潜んでいました。

 健康に気を付けて継続していただきたいと思います。

 

 

Xを始めました。

ツイッターを時々拝見していた人達が今何をしているのか、どういう情報発信しているのか知りたくなってX(見るだけ)に参加しました。

そしたら佐倉桜香@Sakuraoka0429さんが新たに「しさつ」

t.co

について投稿しているのが分かったり、その他色々の事が分かり再開してよかった、と思っているところです。