淵辺高照の書状を紹介したい。
まず彼が何者なのかについて、「西南記伝」下・2の本営護衛将士伝「淵邊群平傳」の記述を掲げる。
淵邊群平、名は高照、初め直右衛門と稱す。薩摩の人。天保十一年鹿兒
島高麗町に生る(※1840年)。世、島津氏に仕へ帽子、其藩士たり。戊
辰の役、薩藩隊の監軍と爲り、參謀黑田淸隆の隊に屬して、其謀議に參
し、北越に出征して功あり。凱旋の後、賞典祿八石を賜はる。明治二年、
鹿兒島常備隊の敎導と爲り、四年、出でゝ近衛陸軍少佐に任じ、尋て北條
縣四年十一月十五日、津山、鶴田、眞島の三縣を廢し、北條縣を置き、美
作全國を管す參時と爲り、六年五月、陸軍少佐に復任す。此歳十月、征韓
論破裂し、西郷隆盛職を辭して鹿兒島に歸るや、群平亦職を辭して郷に歸
り、力を私學校創立に盡す。十年の役、薩軍本營附護衛隊長と爲りて熊本
に向ひ、帷幕に參す。己にして桐野利秋の命を受けて鹿兒島に歸り、壯丁
を募りて二箇大隊を編成し、別府晋介、邊見十郎太と共に八代方面に向ひ、
官軍の背面を衝きしも、利あらず、四月二十一日、鵬翼隊大隊長と爲り、大
野方面に戰ひ、轉じて人吉に退き、五月三十日、官軍と戰て重傷を負ひ、吉
田に送られ、終に起たず。年三十八。
記述はまだ三倍くらい続くが、上記部分により淵辺の概要は理解できる。鹿児島藩士であり、戊辰戦争に従軍し、鹿兒島常備隊教導・近衛陸軍少佐・北條県参事(知事)などを経て、征韓論の際に辞職して帰郷し私学校に関わった。西南戦争では本営付護衛隊長となり、後に鵬翼隊大隊長となり、人吉・水俣境の大野本営で大関山や久木野方面などの指揮を執り、5月30日負傷し、亡くなっている。
書状は障子紙のような和紙に包まれている(縦25.1cm・横33.2cm)。それには左端に「十年
ノ役薩軍ノ猛将タリシ渕邉權六ノ手簡 水野武一郎ハ兵庫縣大参事ノ時」と毛筆で書かれている。淵辺高照に権六という名があるのか分からないが、本紙書状には淵辺高照・水野武一郎とあるので、権六とも称したのであろう。
水野武一郎を人名辞典類で探したが該当人物が見つからなかったので、兵庫県立図書館に水野武一郎について問い合わせたところ、不明とのことであった。
書状本紙は縦17.4~17.5cm、横53.7cmで、包み紙に比べれば厚手である。横長の紙の中央部分で接合しており、重なる幅は2㎜程度である。その部分から2.5cm右側も同様の接合がある。字は接合後に書かれている。今回も読めない字が33字程あったので、大分県立先哲史料館の三重野誠館長と久保修平さんに解読していただいた。それが以下である。
爾来不得貴意候 あれ以来ご意見を伺えていませんが
得共弥御安康當縣ハ いよいよお元気のことで当県に
御奉職之由遣申而者 お勤めとのこと
陳ハ今後諸縣御呼 申し上げますが今後諸県を(政府が)呼び出すとのこと
出ニ付今廿一日午後第三 であり、今月21日午後三時
時旅籠町菊屋☐ 旅籠町菊屋☐
卯兵衛所江致安着ニ付 卯兵衛の方へ無事到着し
久シ振ニ當御縣之☐☐ 久し振りに当県(※兵庫県?)の
事☐御高證等拜 事につきご意見を
承致度御座候☐即(or御) 受け賜わりたく思いますので
閑暇ニて候ハゝ夕刻 お暇でしたら夕刻
より御わん被成(or述) からお出でください
心中抔呉々も奉悃 胸中の意見なども
願候孰レ拝顔百事 伺いたいと思い、拝顏して色々なことにつき
可得貴意候恐々 ご意見を伺いたく存じ
敬白 謹んで申し上げます。
三月廿二日
水野武一郎様淵辺高照
上置
淵辺が北條県参事だった時の肉筆と考えられる史料が残っている。
C09121263500「明治五年八月 諸県」(防衛省防衛研究所蔵)
庚第八百三十一号
假縣廳之儀ニ付伺
當縣廳之儀追而佳處ヲ擇ヒ新建築之積ニハ候得共夫迠之處津山城郭内在来之
舊廳當分拝借以多し度此段相伺候也
壬申八月四日北條縣参事渕邊髙照㊞
山縣陸軍太輔殿
書面當分可貸渡ニ付証書可差出事
仮県庁の儀に付き伺い
当県庁の儀追って佳い處を択び新建築の積りにはそうらえども、それまでの
處、津山城郭内在来の旧庁当分拝借いたしたく、この段あい伺い候なり
壬申(1872年)八月四日 北條(ほうじょう)県参事淵辺高照㊞
山縣陸軍太輔殿
書面当分貸し渡すべきにつき証書差し出すべきこと
山縣の回答部分は分かりやすいように青字で示した。北條県の設置は明治4年で、初代参事(※知事)は淵辺高照。明治6年5月まで任官。北條県は現在の岡山県の北部内陸部にあり、鳥取県に隣接していた。県庁は津山城内の旧藩庁を使った。この史料は淵辺の印もあり、自筆であろう。書状に比べ丁寧に書いている。
紹介した史料が何時書かれたのか明確でないが、北條県参事になった明治4年から、帰郷する明治6年までの間だろうと推定する。水野武一郎が本当に兵庫県の大参事だったのか確認できないので、両者の関係も不明である。
解読に協力いただいた三重野誠さんと久保修平さんにお礼申し上げたい。