西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

小幡山(おばたやま)の遠景

 去年撮影したものです。以下は以前のものと重複しますが、写真があると分かりやすいので説明します。

 延岡市小幡山は1877年8月15日、第二旅団が下に掲げた写真の左側から急斜面を登っている。「征西戰記稿」を掲げる。

  第二旅團ハ是日熊田ヲ指シ道ヲ第一旅團ノ右ニ取ル(※表を略す)諸隊悉ク小峯ニ會

  シ第一旅團ト約シ午前三時、共ニ途ニ上ル川内名大野祝子川(※ほうりがわ)等ヲ經

  テ桑平ニ至リ其間道ニ出デ諸險阻ヲ跋渉シ遂ニ可愛山脈小幡山ニ達ス小幡山ハ可愛

  嶽ノ西位ニ屹立シ山麓祝子川ヲ夾ミ行縢山ノ東面ト相對ス而シテ左ハ其脈ヲ長尾山

  ニ連子施テ東南角ニ及フ右ハ八水山及ヒ富谷山(※宮谷山の誤表記)ト一大溪ヲ匝抱

   (※きょうほう:めぐり いだく)シ祝子川ニ臨ミ濱砂(※はまご)ヲ蔽ス而シテ桑平ヨリ僅

  ニ一樵徑ヲ其山腹懸崖ニ通シ道狭ク人、列ヲ成ス能ハス、其下ハ絶谷數千尋、底極

  ヲ見ス實ニ險阻ノ地タリ紆餘小幡山ニ達シテ六首山背ニ出テ可愛山麓ヨリ鳥越及ヒ

  火之谷ヲ經テ長井村ノ背後ニ出ツ復タ別路ナシ我全軍、銃ニ劍シ羊腸ノ險阪ヲ攀チ

  魚貫シテ進ミ漸ク小(※ママ)山ニ出ントス時ニ午後一時ナリ遥ニ山頂ヲ望ムニ兵

  凡ソ二三百許將サニ下テ此ニ至ラントス我軍以テ第一旅團ノ迂回兵ト爲シ暗號ヲ以

  テ之ヲ試ムルニ彼レ俄ニ騒ク乃チ其賊タルヲ知リ先鋒二中隊粟屋出羽二大尉急ニ之ニ

  馳セ散兵ヲ擺布シ直チニ之ヲ擊タントス賊顧テ六首山ニ退キ岸壁ニ據テ瞰射ス我兵

  勇ヲ皷シ且ツ射且ツ進ミ山砲一門ヲ一邱阜上ニ安シ又一門ヲ小畑山頂ニ送リ銃砲齊

  ク攻ム賊亦善ク拒ク時ヲ移シテ未タ勝敗ヲ决セス因テ一中隊大久保大尉ヲ派シ我左側

  ノ渓谷ニ迂回シ賊背ニ出シテ夾擊セントス賊覺リ連リニ渓中ヲ掩射ス該隊出ル能ハ

  ス日將ニ斜ナラントス、今井中佐其久ク决セサルヲ見テ自ラ出テ戰線ニ臨ミ將校以

  下ヲ督勵シ叱咤諸隊ヲ指揮ス衆、氣ヲ得テ大ニ振ヒ更ニ豫備一中隊松村大尉ヲ出シ戰

  ヲ援ク諸隊吶喊、銃槍ヲ揮テ進ム因賊、色稍〃動ク偶〃一彈アリ今井中佐ノ左股ヲ

  傷ス我軍憤怒攻擊益〃烈シ賊遂ニ支ヘス午後六時險ヲ棄テ走ル我軍之ニ據リ更ニ勢

  ニ乗シ又右方ノ險ヲ奪フ賊乃チ退キ可愛岳ノ中腹西南ノ險ニ據リ對戰ス可愛岳ハ此

  間第一ノ天險ニシテ殊ニ最高山タリ本團進取ノ次序ハ先ツ小畑山、次ニ六首山、其

  次ヲ可愛岳トス今既ニ其ニヲ取ル其一ニ何カ有ラン然レノモ日既ニ暮ル﹅ヲ以テ胸壁

  ヲ急造シ對戰、夜ヲ徹ス

 ムカバキ山と小幡山の間に祝子ほうり川が流れている(写真では右から左に)。第二旅団は写真では小幡山の左斜面の尾根を登り、頂上に着こうとしたら頂上から薩軍が二三百人下ろうとするのに遭遇した。時間は午後1時だった。小幡山の東斜面には岩壁となっている場所が多い。この日、両軍の決戦ともいわれる和田越の戦いが午前中に行われ、薩軍が敗退しているが、その後の出来事である。

 薩軍は後ろに下がり、官軍は頂上に着いて攻撃し、四斤山砲1門を頂上に、別の1門を少し前進したところに置いて砲撃した。薩軍は可愛岳に続く尾根筋にある六首山から反撃している。今まで誰も気付かなかったというか指摘していないが、和田越から撤退した薩軍の一部が官軍の背後に回ろうとしてここに現れたのであろう。

 現地には戦跡が残っている。この日、さらにその後に第二旅団が築造した台場が残っている。相互の距離はかなり近く、厳重に守る状態である。兵員数に比べ、守備範囲が狭かったということだろう。下図に示すように1,400万年前にマグマが上昇し、環状に大地が裂け、そこからマグマが噴出した結果、周辺よりも現状で300m位高く、帯状に山脈が続く地形が形成されたのである。行縢山も帯の一部をなしている。

 上図の説明文に8月16日から官軍が築いたとあるが、15日後半からに訂正する。ここも何度か訪ねたが、誰も認識していない戦跡を見つけるのは気分がいいものだった。可愛岳頂上を訪れる人は多いが、その先に行く人は少ない。年間を通じて滅多に人が通らないし、崖沿いの所を通ったり、道なき森を通るので明るいうちに帰れなくなる危険性もあるし、そうなると近道しようとして崖から転落する可能性もある、とだけ言っておきたい。       💭 💛800 ⤵⤴