はじめに
数日前、ブログ村に登録した機会にぶろぐ名を「西南戦争之記録」に変更しました。これまでは横文字で、我がことながら分かりにくいなと思っていたのでこれで一安心。
本日9月24日は1877(明治10)年に西南戦争が終わった日です。何か投稿しようと思いつき、以前入手していた紙資料を紹介したいと思います。
これはやや厚手の和紙で、縦20.8cm・横9.5cm。片面の上右に「第一万五千三百廿一号」の墨書、中央上に「調濟」(縦2.95cm・横1.5cm)の朱印、左上に「明治十年五月」の木版、下部中央に「警視出張所印」(縦横5.1cm)の朱印が押されています。
裏面には第六大區十二小區(六と十二は手書き、他は木版)、下部中央に南條健吉の墨書があります。縦の長さの半分の位置で折り目があります。半分に折って携帯した身分証明書でしょうか。
警視出張所
警視出張所は西南戦争に限らず全国各地にあったらしいのですが、明治十年とあるので西南戦争時のものではないかと推定し、アジ歴で調べてみました。その結果、熊本・大分・鹿児島・宮﨑・都城に警視出張所が設けられていたことが分かりました。宮崎・都城以外は印が押された資料が残っているので、今回紹介する資料の印影と比べてみます。
下は熊本警視出張所の文書です。印影が横長なので再度アジ歴で確認したけど、その通りでした。しかし、別の文書では正方形に近い同様の印影があるので、もしかしたら適当な縦横比率で掲載しているのかも知れません。
次は大分警視出張處です。
今般重岡口降伏之国事犯賊徒大分出張九州臨時裁判所ニ於テ取調之義ニ
付引渡方督促有之候處未タ當裁判所ヨリ御送付無之今段回送致置候就テハ右
賊徒御調臨之分ハ至急当出張處ヘ御送致相成候様致度依テ山田二等少警部差
出候間委細同人ヨリ御聞取之上御送致方等御協示有之度此段及御掛合候也
明治十年八月廿五日
大分警視出張處(角印)
佐伯出張
軍團裁判所
御中
大分警視出張所印は熊本とは異なります。文書にある出張處ではありません。印の下部が欠けているので完全なのも掲げます。
C09083487500「明治十年七月 雜書綴 佐伯出張軍團裁判所」(防衛省防衛研究所)1493・1494
東警第八十三号
降伏人御交付之儀ニ付當表出張九州臨時裁判所ゟ協議之次第有之候間
尓来犯人并書類共當方ヘ御交付相成候様致度此段及候協議候也
十年九月三日 大分警視出張所(角印)
佐伯出張
軍團裁判所
御中
遂而護送方之儀者地方警察官江協議致置候条従前通其地警察署ヘ
御協示有之度此段申進添候也
鹿児島では8月28日に警視出張所設置が決まっています。
別紙
乙第七十八号
今般鹿児島縣ヘ警視局(府縣)出張所ヲ設ケ(鹿児嶋縣ヲ除ク)警察ノ事
務取扱當分之内同縣御四課閉止候條爲心得此旨相達候事
明治十年八月廿五日
内務卿大久保利通
8月25日に鹿児島に罫紙局出張所を置くという通達です。第四課は警保担当でした。次はその鹿児島警視出張所の文書です。熊本とは違う印鑑が使われています。
C09082925900「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」。(以下はアジ歴推奨題名「来発翰留 明治10年9月30日~10年12月20日。この種の表題の付け方は疑問です)(防衛省防衛研究所蔵)0413・0414
三ノ第十八号
鹿児嶋縣第一大區一小區平ノ馬場貳百四番島津太郎
左衛門邸内居住士族
谷元延清
右之者賊軍壱番大隊大小荷駄取扱候者ニ付巌重取調候處九月廿四日城
山攻撃之際別働第二旅團第拾弐中隊ヘ降伏願出兼テ預置候金大小紙幣
取交凡三千円程同隊兵卒ヘ相渡又撰抜隊ヘ☐引渡候節肌ニ付置候金五
百二拾圓程同隊ヘ相渡シ候趣右者本人申立之通相違無之哉否承知致度
此段及御照會候也
明治十年十月十四日 鹿児嶌警視出張所(角印)
鹿児嶌屯營兵参謀長
御中
鹿児島には別に小型の「鹿児島出張所第三課」角印もある。
アジ歴には宮崎警視出張所・都城警視出張所の文書もあるがそれらは印は使われていません。
まとめ
熊本・大分・鹿児島の警視出張所印を見てきたが、紹介した資料は熊本の印に酷似しています。第六大区十二小区は大区小区制度廃止後の行政名は熊本県山鹿郡熊入町、山鹿町宗方村・中村です(「熊本県の地名」日本歴史地名大系第44巻平凡社1985)。