西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

戦後の野村忍助 ※少しずつ書き足していきます。

 はじめに

 「野村忍助自叙傳写本」やアジ歷史料などをもとに西南戦争後の野村の動向を跡付けてみたい(高橋信武2003「野村忍助自叙傳写本」pp.120~pp.145『西南戦争之記録』第2号)。家と図書館を往復しての調べものだから不十分ではあるが。以下、太字が上記自叙伝の引用部分、〇が記述概要である。野村は忍介あるいは忍助という表記があるが、ここでは自叙伝で使われた忍助を用いる。

明治10年

佃島監獄に入る 其後宣告あり除族懲役十年の命を受け佃島監倉に送らる國事犯を以て罪人二百人向ケ原射的場を開拓す工事凡そ一ヶ年にして工を終る一等を減ぜられ獄中に在りて和歌あり

  世を思ふ友ならなくになそもかく 月や獄舎のまとにとひ来る

獄中に在りて古松簡二、羽田恭輔、土橋一蔵と親交す十年役の一回祭に会ひ西郷先生を祭る文は古松之を草す

 

 向ケ原射的場とは現東京大学構内にあった施設のことであろう。発掘調査が行われており、報告書が出ている(原祐一他2009「東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9 東京大学本郷構内の遺跡 浅野地区Ⅰ」)。ここでの国事犯の労役について探したところ萩原兼善の日記(「旅日誌」pp.807~pp.844『鹿児島縣史料 西南戦争 第三巻』)があった。これは鹿児島県宮之城出身で分隊長として従軍し、懲役一年に処せられ市谷監獄に収容された萩原の日記である。初めは労役として市谷付近の開墾作業をしていたが、明治11年8月8日から懲役刑が満了する直前の10月3日まで上野向岡狙撃場開墾作業に従事している。隔日作業でおよそ夜中の2時から3時頃獄を出て作業し、午後3時から5時頃に引き揚げ、1時間くらいで帰り着く生活だった。野村忍助が向ケ原射的場で作業した時期は監獄に入ってから一年間だったようであり、そうだとすれば野村の労役時期の後期が萩原と時期的に重なるだろう。野村は作業内容を詳しく記さないが萩原の作業状況が参考になる。

 上記文中に登場する土橋一蔵は大橋一蔵(1848-1989:明治22年の誤記だろう。そもそもこれは「野村忍助自叙傳」というのがあり、それを写したものを高橋が活字化したものだが、どこかの段階で大を土に誤記したのである。

明治13年5月 

  明治十三年 出獄 〇明治十三年五月特典を以て赦免せらる

 野村忍助の赦免の時期は書物によって異なるが、自叙伝が正しいのではないかと考える。赦免にあたり鹿児島出身で終生殖産興業に熱心だった前田正名の周旋があったという。その後30余日ほど東京に留まり、その間に松方正義(内務卿)に呼ばれ、松方が戦後の鹿児島を視察したところその惨状は言うに忍びないものだった、殖産興業を試みたらどうかと促され、野村は駒場農業試験場の見学に出かけている。またしばしば川村純義と会い、「交情頗る厚し」という状態だった。この頃、東京にある間は同郷の野村正明と鹿児島の戦後復興について話し合っていた。帰郷しようとした際、前田がやって来て、参議の山縣有朋大隈重信が会いたがっているので訪問するように勧められている。大隈は病気で会えなかったが、6月初旬頃、山縣に呼ばれ、山縣は戦争中の話をしたかったようで、再会を待つので早期の上京を促している。

 一旦鹿児島に帰った際の7月に学校建設について会議を開き、賛同を得ている。8月には上京し川村純義・西郷従道大山巌・今井兼利(工兵局長。野村は学校用地として鹿児島城内の旧分営跡の払い下げを希望していた)・樺山資紀(警視総監)・渡辺千秋(鹿児島県令)に会うなど、赦免後すぐに政府側要路の人物との会見が立て続けに行われている。結局交付金が出ることになったが私立学校ではだめだとの方針が出され、それを受諾して12月帰路に就いている。地域や人心が荒廃した鹿児島県にとって指導者たりうる野村の存在は政府側からは無視しえず、かつ使いようによっては貴重な人材だった。

 途中大阪に立ち寄り、玉平宏通・川口純・村上一策(大分県人。彼の口供があるのでいつか活字化しよう)等と汽船会社設立を協議している。

明治14年1月 鹿児島県各地の代表を集めた公立学校についての協議は曲折を経て賛同を得る。5月、磯の海軍西洋館の払い下げを願出ている。

C09115275100「明治十四年公文類纂 後編 九(防衛省防衛研究所蔵)

    

 海軍省所轄西洋造建家御拂下之願

  凡ソ學校ヲ建築シ之ヲ維持スルニハ若干ノ資本ヲ要スルハ勿論ノヿナリ最モ人才ヲ陶冶スルニハ學校ニ由ラスシテ他ニ捷徑ナキハ特ニ喋々ノ辯ヲ待タス而シテ善良ナル學校ヲ設ケンニハ先ツ巨大ノ費用ヲ為サ﹅ル可ラス然レノモ其費用ヲ集ムル又容易ノ事業ニ非ラサルナリ殊ニ當縣下ノ如キハ明十ノ兵燹後惨状纏綿タルノ有様ナレハ未タ充分ノ學校ノ設立ナキモ専ラ資本ノ不充分ナルニ依ラサルヲ得ンヤ然レノモ眼ヲ轉シテ天下ノ形勢ヲ通観セハ蓋シ今日ハ是レ一日モ猶豫シテ時節ヲ待ツノ日ニ非ラサルナリ故ニ私共賤劣ノ身ヲ顧ミス國家ノ為メ聊カ微力ヲ盡シタリ學校創立ニ従事仕幸ヒニ貸本ノ如キハ漸ク維持ニ充ツルノ目的有之候得共建築等其他ノ諸費ニ乏シキヲ以テ過般陸軍省所轄ノ旧営所跡ヲ學校用トシテ御拂下ノ儀奉歎願候處御憐情ノ厚キ速ニ御許可ノ命ヲ蒙リ於茲乎直ニ修覆等ニ着手シ該営所ヲ熟々實検仕ルニ同家屋儀所々破損シ或ハ甍棟破壊シ且ツ假リノ営所ニテ脆弱ナル材木ヲ用ヒタレハ又朽腐ノ期モ遠カラサルベク然レノモ懇ニ修覆ヲ加ヘタラハ敢テ學校用ニナラサルナキニ非レノモ只多額ノ費用ヲ今ニ要スルノミナラス又数年ヲ出テスシテ屡々修覆ヲ加ヘサル可ラスサレハ限リアル資本ノ漸ク維持ニ足ルアルモ遂ニ共ニ消費ササル可カラン歟况ンヤ又脆弱ナル材木ヲ以テ材料ニ為シタル家屋ハ天災ノ損害ナキモ預メ保ス可カラス然レノモ堅牢ナル家屋ヲ建ントセハ又資本ノ足ラサルヲ如何セン是ヲ思ヒ彼ヲ考フレハ獨國家ノ為メニ悲痛ノ聲ヲ發セサルヲ得ス謹ンテレハ當時磯ニ在ル海軍省所轄ニ属スル西洋風ニ模造ノ一舘アリ窃カニ恐察仕ルニ目今御不用ノ樣ニモ相見ヘ該舘ノ如キハ實ニ天下ノ至大幸福ナラント奉存候間仰キ願クハ何卒前述ノ情實ヲ御洞察被下其筋エ戯シク御取計ヒ被成下度此段伏テ奉歎願候也

                   公立學校創立委員

                   鹿兒島縣鹿兒島郡草牟田村

                   百九拾三番戸平民

  十四年五月             野 村 忍 助

                   仝縣仝郡冷水通町六十番戸

                   士族

                    永 田 彦 兵 衛

                   鹿兒島縣鹿兒島郡加冶屋町

                   六十六番戸士族

                    脇  田    寛

                   仝縣仝郡下龍尾町七十五番

                   戸平民

                    早 川 兼 知

                   仝縣仝郡シ水町五十九番戸

                   平民

                    伊 集 院 英 輔

  前書之趣願出候付証印仕候也

                   池ノ上町戸長

                    新 納 時 中

                   冷水通町戸長

                    野々山平右衛門 

                   下龍尾町戸長

                    新 納 時 成 

                   清水馬塲町戸長

                    小 久 保 往 来 

         鹿兒島縣令渡邉千秋殿

 

 上記の払下げ願を渡邉県令が海軍卿に上達した。

C09115275100「明治十四年公文類纂 後編 九(防衛省防衛研究所蔵)1446・1447

(前略)當縣平民野村忍助外五名ヨリ願出候處當管内ノ義ハ十年非常騒乱ノ際各所ノ學校概子兵火ニ罹リ夫カ為今ニ廢學ノ子弟不尠實ニ憫然ノ至ニ付前述ノ事情御洞察被成下該建物ハ特別ノ御詮議ヲ以テ無代價ニテ學校用ニ御下附被下度別紙願書圖面相副此段相伺候也

 明治十四年六月十五日  鹿兒島縣令渡邉千秋

       海軍卿川村純義殿

 

 そして7月12日付で願いについて採用許可の決済がされている。ただし、土地は海軍の所有であり、建物だけを払い下げることとなった。解体して移築したのだろうか。これ以前の明治10年11月、西洋館は臨時病院として使いたいと鹿児島県から申し出があり、許可され貸し出されていた。海軍にとって不要に近い建物だったらしい。

 6月には磯の西洋館の無償払い下げを受け、教員を東京から招聘している。8月にはそこを仮教場として椎原與右衛門を校長とした。同時に県内各地で講演会を開き農業振興や議会設置を主張、賛同を得ている。

 この頃、熊本から古荘嘉門・松崎迪(すすむ)らが来県し政党を組織するよう勧めた際、野村は次のように答えている。

  我県の如きは國の辺隅に僻在し人智未だ開けず之を他県に比するに開明の進路殆ど三四歩を遅れたり予輩之を憂ヘ学校を設け教育を盛にし農事会を起し殖産の業を開き然る後事に斯ヽ從はんと欲す

 これによれば野村の一見一貫しない行動が実は計画的に進められていたことが分かる。

〇14年~15年 新聞社を創立せんとす 鹿児島新聞社創立 〇十五年一月始めて号外を發行す

 鹿児島新聞の後継である南日本新聞の「南日本新聞のあゆみ」によると創刊号は明治15年2月10日に出ている。ただし自叙伝では15年1月とする。同社構成員は監督野村忍助・社長市来(旧姓野村)政明・編集5人・探報2人などである(出原政雄2003「鹿児島県における自由民権思想―鹿児島新聞と元吉秀三郎―」『志學館法学』第4号pp.75~pp.100 志學館大学。民権運動の広報紙である。

〇15年1月から3月 鹿児島県内の民権運動の一つとして党員1万人余で自治社を結成し、九州改進党鹿児島県部が発足し、3月に熊本で九州大会が開かれる。

〇15年4月 監獄で知人となった大橋一蔵の招きに応じ、後年(大正元-1912-)年に「薩南血涙史」を出すことになる加治木常樹と新潟に行く。この時、鹿児島県人の動向と共に野村の行動は密かに観察され、政府に報告されている(C07050109500「公文別録・地方巡察使・明治十五年~明治十六年・第二巻・明治十五年」A03022957200総理府本館蔵)。それが次の史料である。

  議官申報第十七號

  

鹿児島県其他景況ノ一班左ニ開申仕候也

  明治十五年五月廿七日 

  大分県ヨリ

  参事院議官渡辺昇花押

 

  太政大臣三條實美殿

  鹿児島県下改進党ノ巨壁タル野村忍助ハ昨今各地方経歴ヲ企テ其目的トスル所ハ曽テ獄友タリシ新潟県大橋一蔵ヲ訪レントスル由相聞候付テハ其筋ヘ注意ノ儀御内示相成候様此度近来該黨ノ挙動タル専ラ党員募集ニ盡力スルハ勿論客月十五六日頃同縣下西本願寺出張所ニ於テ黨員惣会ヲ開キ曽テ熊本ニ於テ組織シタル改進黨々則ニ依リ長﨑本部ヘ派出委員ヲ撰定シ且ツ地方部役員撰挙及ヒ地方部規則起草委員ヲ設ケ彼是評議ノ末乃チ長﨑本部委員ハ野村政明和泉邦彦長友竹三久畄米昌縷ノ四名ニテ壱名四ケ月交代ト定メ地方部ハ高橋為情山口某柏田盛文田中直哉柳田兼定長谷場純等ニテ其他役員廿名斗リヲ撰ヒタリ(以下略)

 

 同様の秘密報告は全国的な規模でなされており、鹿児島だけが特に取り扱われたわけではない。

〇15年6月頃京都で松方正義に会う。

〇15年7月、朝鮮暴挙(壬午軍乱)を聞き、8月西南戦争に参加した福岡出身の平岡浩太郎と同志達を連れ朝鮮に渡る。避難帰国していた花房朝鮮公使と共に渡海しており、公的ではない非公式の軍事組織を率いて行ったのである。しかし決着がついたために活躍の機会はなかった。

 自叙伝は壬午軍乱の記述で終わっているので、以後の動向は別方面から調べねばならない。

 明治16年から18年は後日記したい。

 明治19年、官営札幌製粉場が野村等に払い下げられた下記の史料がある。 

公文類聚・第十一編・明治二十年・第四十四巻・民業門三・工事類00331100 

  命令書

  札幌區南貳条西六丁目壱番地士族

           宮 原 景 雄

  札幌區南貳条壱丁目拾壱番地平民

           後 藤 半 七

  札幌區南壱条三丁目貳番地平民

           岡 田 佐 助

  札幌區南三条西三丁目拾三番地平民

           谷   吉 三

  東京府築地飯田町拾弐番地寄留 

  鹿児島縣士族

           野 村 忍 助

  新潟縣中頸城郡春日新田平民

           小 林 十 郎  

  札幌區南壱条南五丁目十番地寄留

  鹿児島縣士族

           木 原 慶 助  

  今般札幌製粉塲地所建物其他ノ物件悉皆拂下候ニ付左ノ各条遵守スヘシ

    明治十九年十一月三十日

          北海道廳長官岩村通俊

 

  第一条 札幌製粉塲地所代金九百五拾四円建物代金四千四百拾円六拾

      四戔六厘器械代金壱万貳千八百六拾九円九拾貳戔九厘器具代

      金四百五拾五銭七厘通計金壱万八千八百八円八拾壱戔八厘ハ

      本年十二月ヨリ明治二十二年十一月迠据置明治二十二年十二

      月ヨリ明治三十二年十一月迠向十ヶ年賦ヲ以テ毎年十一月二

      十日限上納スヘシ

  第二条 第一条ノ金額完納ニ至ル迠ハ拂下建物器械器具備品共悉皆抵

      当トシテ當廳ヘ差出スヘク地所ハ年賦金完納ノ上地券ヲ交付

      スヘシ

        但地所ニ係ル一切ノ義務ハ工塲受授ノ日ヨリ拂受人ニ於テ

      負擔スヘシ

  第三条 現在ノ製造品及原料代價ハ追テ正算金額指示ノ日ヨリ三十日

      以内ニ完納スヘシ

  第四条 小麦買入直段ハ該年東京大坂宮城ノ三ヶ所平均相度ヲ低减ス

      ヘカラス

  第五条 第一条ノ金額完納ニ至ル迠ハ臨時監査員ヲ派遣シ事業ノ実况

      及抵当現品等ヲ調査セシムルヿアルヘシ

        但工塲ノ會計ニ属スル帳簿ハ別ニ設ケ置キ臨時監査ノ便ニ

       供スヘシ

  第六条 第一条ノ金額完納ニ至ル迠工塲ノ模様替ハ其時〃当廳ノ許可

      ヲ受クヘシ

  第七条 此命令ニ違背スルノキハ詮議ノ上拂下ヲ取消スヘシ其節拂下品

      紛失若クハ毀損等ヲ生セルノキハ其代價又ハ修繕費ヲ弁償セシ

      ムルハ勿論既ニ上納シタル年賦金ハ一切之レヲ下戻サヽルモ

      ノトス

 明治19(1886)年1月にそれまでの開拓使に替え北海道庁設置が決まった。これを機に官営事業は極力民間に貸与・払い下げることとなり、製粉場の払い下げも決まった。以下は日本製粉株式会社2001「日本製粉社史 近代製粉120年の軌跡」を参考に記す。

 史料冒頭に出てくる宮原景雄は開拓使の役人を務めた経歴をもち、後藤半七・岡田佐助・谷 吉三は札幌市内の商人である。小林十郎は新潟出身、木原慶輔は鹿児島士族で当時札幌で米穀荒物類卸小売業を営んでいた。同書によると野村忍助は東京で雨宮啓次郎と製粉工場を営んでいたという。

 野村の住所は東京府築地飯田町拾弐番地寄留とある。除族された筈なので士族とあるのはご愛敬だが。下図は築地飯田町周辺の錦絵である。上が南。改印から年代を絞ることはできなかった。東京府とあるから江戸時代ではない。右上端のホテル館は明治元年に竣工し、5年に焼失しておりこれは明治元年から5年の間の風景だろう。作者の山田曜齊、別名二代目国輝は明治7年に死亡している。

 拡大して示す。野村の寄留地、飯田町という地名が付近にないので南飯田町のことらしい。明石橋の右にはハトバを含んだ場所があるが、この一画に建つ洋館の名前が読めない。この部分、南飯田町よりも海側は文久元(1861)年時点の切絵図にはさらに狭い陸地として描かれている。 

 次は三代広重の版画である。南飯田町から見た明石橋や運上所を描いており、ハトバ周辺は残念ながら絵の右外側である。

 次は明治20年3月28日付のもの。

公文雑纂・明治二十年・第七巻・大蔵省二(大蔵省罫紙 国立公文書館蔵)乾第六三一号纂00046100

  當省所管不用ニ属スル地所建物等賣却其代金ヲ以テ必用ノ建築費ニ充用方之儀曩ニ

御承認済ノ趣ニ據リ府下京𣘺区南飯田町十三番地之義實測面積三千六百貳拾貳坪八合八勺五才ノ内水部貳百四拾九坪七合五才ヲ除キ現借地人野村忍介外壹名ヘ拂下而乄前顯水部ハ東京府於テ同所漁民等營業上必用ノ場所ナル趣申出ノ次第モ有之候ニ付右ハ成規之通内務省ヘ及返付候條依テ別紙圖面相添此段及報告候也

   四月四日総理大臣ヘ呈覧了

  明治二十年三月廿八日

 

  大蔵大臣伯爵松方正義

  内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿

 先に掲げた版画を天地逆にすると野村等の購入(初めは借用)した土地と形が似ていることが分かる。内側に入り込んだ海面部分の中程に境界線と書かれた縦線がある。この東側が大蔵省用地、西側が農商務省用地である。大蔵省分に面積記入が見られるので東側が購入した土地である。

 野村他1名に払い下げた南飯田町13番地のうち、海面部分は内務省に返却させるとある。したがって3,373.1坪が払い下げられた。これより以前に貸渡されていたらしいがその時期は分からない。文書には出てこないがこの土地は鹿児島県出身の川崎正藏が経営していた川崎造船所の土地だったのを野村が譲り受けたらしい。先に見た札幌製粉場を野村等に払い下げた前年11月30日付の文書では、野村の住所は東京府築地飯田町拾弐番地寄留となっている。この番地は次に示すように川崎の住所と同じである。埋め立て地の東半分が南飯田町13番地なら、西部は12番地かも知れない。

 川崎について分かったことを記す。東京の浜離宮庭園の南側に川崎重工の東京本社がある。同社HPによれば川崎重工の前身は浜離宮から近い場所にあった川崎築地造船所である。同社HPを掲げる。創業者川崎正藏は鹿児島出身で明治11年に同郷の先輩、松方正義大蔵大臣などの援助で南飯田町の官有地を借りて造船業を開始している。※アジ歷によれば操業は明治11年4月5日である(「公文類聚・第十編 明治十九年巻之三十六」類00282100)。川崎正藏の居住地は南飯田町12番地で、先の野村の寄留地と同じということから松方が野村と川崎を引き合わせた可能性がある。なお、適当な後継者のいなかった川崎は松方の息子幸次郎をニ代目社長にしており、彼は美術品を収集し松方コレクションを残している。

 上図は陸地測量部による明治十三年測量同十九年製版の「東京近傍中部」二万分ノ一図である。川崎造船所という字が海側に張り出した区画の東部に置かれている。下は拡大図。

 港部分の北東側にある建物が造船所の工場だろうか。三島康雄によると(三島1993「造船王川崎正蔵の生涯」pp.94同文舘)造船所は「北辺三三〇メートル、南辺二七〇メートル、東辺一〇〇メートル、西辺三五メートルの変形の四角形で、その中心部に長さ一三〇メートルの海への通路を持った池が掘られており、この周辺に船台が組まれていたいたのであろう」という。これは上の地図によく似た明治16年の地図から計測したもので、南飯田町の海に張り出した部分全てを造船所用地と仮定した数値である。

 川崎は次いで明治13年7月に兵庫県東出町造船所を開設している。さらに明治19年4月27日には官営兵庫造船所を川崎正藏に貸し下げる旨、農商務大臣西郷従道が決済している。

               上は川崎重工のHP

 先に掲げた「東京府鉄炮居留地中繪圖」にある南飯田町先の埋め立て地には港のように海が取り込まれているが、造船所として使うためにこのような形状にしたのだろうか。あるいは単に海を取り込んだ埋立て地が先行したのか。

 南飯田町の水面部分が政府に取り上げられた三ケ月後、野村の名前が登場する。

 下記のように明治20年6月30日、 北海道の渡島國亀田郡七重農業塲内水車製粉所が野村忍助外一名に払い下げられている。ここは北海道南部の渡島半島、函館の北にあたり、明治4年に七重開墾場が設けられ、名称は明治8年七重農業試験場明治9年七重勧業試験場と改められた所である(ネット北海道開発局「開拓の歴史-北海道最初の試試験農園「七重官園」

公文類聚・第十一編・明治二十年・第四十二巻・民業門一・殖産勧業諸事 類00329100

A15111443900工塲拂下ノ義ニ付上申

  客歳六月北閣第三一号伺済ニ基キ當廳所管各工場ノ内将来不用ノ分左ノ通

代價即納又ハ年賦ヲ以テ拂下處分致候

  一渡島國亀田郡七重農業塲内水製粉所建物及附屬物件ハ金五百四拾五圓五拾貳銭

   五厘即納ヲ以テ鹿児島縣士族野村忍助外壹名ヘ拂下候

  一同國上磯郡茂邉地村煉化石製造所土地建物及附屬物件ハ金五拾圓即納ヲ以テ黨道

   平民森兵五郎ヘ拂下候

  一千島國紗那郡紗那村鮭鱒鑵詰所土地建物及附屬物件中材料品ハ代價即納其他ハ年

   賦納ヲ以テ和歌山縣平民柳原角兵衛ヘ拂下候

  一根室野付郡別海村鮭鱒鑵詰所土地建物及附屬物件中材料品ハ代價即納其他ハ年

   賦納ヲ以テ滋賀縣平民藤野辰次郎ヘ拂下候

  一札幌製粉塲曩ニ貸與上申済ノ分更ニ土地建物及附屬物件ノモ當道宮原景雄ヘ拂下候

  右拂下處分致候尤モ代價年賦上納ニ係ル者ハ別紙寫ノ通命令及置候此段上申候也

   明治廿年六月三十日

      北海道廳長官岩村通俊印

 

    内閣總理大臣伯爵伊藤博文殿八月三日云々※読めない

 冒頭の一条が野村関係であり、札幌製粉所の払い下げを受けてから7ケ月後のことである。北海道庁長官の岩村通俊は高知県出身で、西南戦争中に鹿児島県令大山綱良に替わって県令になった人物である。

 次は明治21年12月4日付で東京築地の陸軍用地を製粉場用地として拝借したいとの野村忍助による文書である。

     陸軍省御所轄地拝借願

  明治中興百度維新就中軍隊ノ敎育訓練器械ノ制度悉ク欧洲諸國ノ法ニ依ラ

サルナシ然リ而シテ敎育訓練彼ノ制ニ従ヘハ則チ各体力運動ノ程度ニ應シ食料モ亦之カ改良ヲ計ラサル可ラサルハ是レ自然ノ勢ニ御座候聞クカ如キハ既ニ本邦養兵上敎育訓練

衣服器械等益〃精練欧洲強國ノモノト其相離ル遠カラズト然ルニ未ダ糧食改良ノ著シキモノヲ見ザルハ真ニ遺憾ノ事ニシテ軍隊張弛強弱ノ整ル所最モ大ナルモノト思考仕候依テ弊社曩キニ製粉機械ヲ米國ニ購求シ以テ製粉造麺ニ従事セリ今ヤ幸ニシテ陸海軍ニ於テ漸々食料改良ノ義舉ヲ行ハセラレ就中御師團歩兵第三聯隊砲兵第一聯隊ノ如キハ常食ハ勿論行軍演習等ニ方テモ專ラ弊社ノ製粉ヲ使用セラレ随テ弊社ノ業務日ニ月ニ繁盛ニ趣キ何ノ幸栄カ之レニ過キズ候因テ弊社ニ於テモ勉メテ此恩惠ニ報ヒ奉リ度諸事注意製粉價格ハ成ル可ク低廉ニ上納仕度企圖罷在候而シテ其價額ノ低廉ヲ計ランニハ船便廣大ノ地ニ倉庫ヲ設置原麦ヲ貯藏シ尚追々製粉器械等ヲ増設益此業ヲ擴張スルニ在リ凡ソ小麦ノ價値ハ毎年季節ニ依リ髙低甚シク現ニ昨年十二月ニ金壱円ニ中等弐斗五升四合位ナリシモ其後漸々騰貴シ本年四月頃ニ至リテハ既ニ弐斗壱升五合ノ相塲トナリ殊ニ一升ハ現品拂底ノ為メ尋常ノ麺麭製造家ハ往々営業ヲ中絶スルモノアルニ至レリ弊社ハ世間此困難ノ際モ依然業務ヲ執リ又時價ニ係ハラズ即チ昨年十二月小麦弐斗五升四合ノノキ書上ケタル價格ニテ上納シ来レリ之レ他ナシ弊社カ單ニ食料改良ノ義舉ニ應センヿヲ熱望シ豫シメ之レカ凖備ヲ為シ置キタルヲ以テナリ実ニ小麦ノ價値ハ例年概シテ収穫ノ秋ヲ最低トス故ニ年中使用スベキ原麦ハ此際貯蔵スルヲ利アリトス将タ製粉及ヒ貯蔵所ノ便否第一運搬ノ費用ニ関シ従テ上納品ノ價格ニ及ホサザルヲ得ス然ルニ弊社従来ノ製造所ハ深川區八右衛門新田ノ僻地ニ在リテ運搬其他ノ不便不少ニ付過般別ニ築地南飯田町ニ製造所ヲ増設シ営業仕来リ候得共是亦永遠ノ見込無之ニ付キ更ニ便冝ノ地ヲ計ルノ外良策ナキヲ以テ府内処々適當ノ地ヲ創作スルモ或ハ遠隔或ハ狭隘ニシテ差當リ恰當ノ地無ク之深ク痛心罷在候処陸軍省御所轄地深川區越中島ハ営業上水路運搬至便ノ塲所ニ付右地所ノ内別紙図面朱線ノ塲所三ケ年間拝借仕度左候得ハ右御地所内ニ不取敢仮作業塲等ヲ建設シ営業仕度奉存候幸ニシテ業務ノ目的ニ御賛成被成下特殊ノ恩典ヲ以テ頭意御採納被成下候ニ於テハ大ニ経費ヲ省キ従テ営業上非常ノ幸栄ヲ得ルニ至ルベシト確信仕候然ル上ハ尚基礎ヲ大ニシ一層勉励益々業務ヲ擴乄品質ヲ撰シ時冝ヲ計リ充分ノ貯蔵ヲ為乄軍隊御需要ノモノハ必ス普通商賣ノ及ブ可ラザル廉價ニテ上納シ平常ハ勿論仮設ヒ有事ノ日ニ際スルモ此方差閊つかえナク御用度ニ應スルノ計畫ヲ為シ及ブ可キ的ノ義務ハ盡スベキ心得ニ御座候希クハ前顯ノ微衷御洞察何卒願意御採納被下度尤モ拝借ノ地所官ニ於テ御入用ノ節ハ何時ニテモ返上可仕候間特別ノ御詮議ヲ以テ御許容被成下候様其筋ヘ御進達被下度別紙借料金取調書相添此段偏ニ奉懇願候也 ※懇は松尾大輝さんに解読していただいた。お礼申し上げます。

壹𣘺区南飯田町十三番地日本製粉会社長

   明治二十一年十二月三日 拝借人 野村忍助

     壹𣘺区南飯田町十三番地 

       保証人 市𣘺保身

 

   東京府知事髙﨑五六殿

 

  前書出願ニ付奥印候也

 

    東京府深川區長子爵堀田正養

 

    借料金取調書

  陸軍省御所轄地越中島ノ内

  一地積三千九百弐拾坪 約三ケ年

    此借料金満壱ケ年金拾圓

  右ハ近隣地主ノ収納額ヲ基本トシテ借料金取調候也

   明治二十一年十二月四日 拝借人 野村忍助

   保証人 市𣘺保身

  所轄地貸下之義ニ付伺

  府下深川區越中島本省所轄地内ヘ兵食用麥粉製造所設置ノ為メ該地借用

之義日本製粉會社社長野村忍介ヨリ別紙之通願出之趣ヲ以テ東京府ゟ照會有之然ル処右願意被聞届候上ハ師團各隊ニ於テ廉價之製粉ヲ買収スルヿヲ得給與上其裨益不少候ニ付特別之御詮議ヲ仰クヘキ旨当師團長ヨリ懇々被申聞候次第モ有之夫々取調候所該地ハ現今府下各兵隊射的演習専用之地ニ有之候得共右借用願出候ケ所ハ僅カニ其一隅ヲ使用スルニ止マリタル義ニ有之射的演習等ニハ敢テ差支無之義ト被存候尤モ麺包食之義ハ目下各隊ニ於テ専テ試験ニ苦心罷在候折柄殊ニ歩兵第三聯隊ノ如キハ既ニ麺包焼所建設方御許可ニモ相成居候次第ニテ其試驗之結果如何ニ依リ將来兵食改良之御詮議ニモ有之候ハ﹅供給未タ普ネカラサル時期ニ付各隊ニ在テモ創業之困難ヲ補フノ一助トモ可相成義ト被存候間特別之御詮議ヲ以テ右貸下方御許可相成候様致度

  此段相伺候也

    明治廿一年十二月六日

        第一師團監督部長内海春震 角印 

 

    陸軍大臣伯爵大山 巖殿 ※以上0511まで。

 願いを取り次いだ第一師団では許可したい意向だったが、陸軍大臣は不許可にしている。

  前書之通相違無之候也

     東京府深川區長子爵堀田正養

  しかし、下記のように越中島の陸軍用地の貸渡は断られている。 

 「伍大日記 2月」(防衛省防衛研究所)0509~陸軍省罫紙

  受領番號 伍第一四六六號 廳名 第一師団監督部 件名 所轄地貸下之件

  議 按   明治廿二年二月十五日

 

  伺之趣射場ノ定規ニ悖もとリ候ニ付不貸渡義ト心得ヘシ(二月十六日 長方形決済印)

 上記の野村の文中、弊社従来ノ製造所ハ深川區八右衛門新田ノ僻地ニ在リテ運搬其他ノ不便不少ニ付過般別ニ築地南飯田町ニ製造所ヲ増設シ営業仕来リ候とあるのを前掲「日本製粉社史」から説明する。時期的には遡るが。

 明治11年パリ万国博覧会に日本から総裁として出席した松方正義内務次官は12年3月、帰国に際し2台の石臼製粉器を購入した。当時最先端の技術はロール式製粉機械というものだったが、手始めに簡単なものを選んだわけである。江戸時代以来浅草には江戸で最大の米倉が置かれ、その倉庫は当時大蔵省が管理していたので、松方が持ち帰った石臼製粉器はそこに設置し製粉工場を設けることになった。明治13年操業を開始した大蔵省浅草製粉所は放漫経営と小麦粉の消費量が微々たるものだったためもあり成功しなかった。

 その頃、民間の雨宮敬次郎が製粉事業を始めていた。

明治十二年、我国ニ未曽有ノ製粉機械ヲ米国ヨリ取リ寄セ、製粉所ヲ東京府深川八右衛門新田二番地ニ設置シ、小麦粉ヲ魯領浦塩斯徳ヘ輸入シ(注・「輸出シ」の誤記)、魯国陸軍兵ノ糧食トシテ之ヲ販賣スルコトニ従事スルコト五ヶ年間、即チ明治十六年ニ至ル(「日本製粉社史」)

 明治12年に深川八右衛門新田に米国製製粉機を設置し、できた小麦粉はウラジオストックに輸出し露国陸軍に五年間販売したのであるが、17年以降は米国製メリケン粉に敗れこの販路を失っていた。雨宮はわが国陸海軍に目をつけ、軍糧食の洋食化運動を始めた。そこで鹿児島出身の野村忍助を社に招き軍隊へのパン食採用を勧誘した結果、明治18年まず東京の第三聯隊がパン食を採用したのを手始めに次第に軍に普及していった。引用を続ける。

  『時事新報』(明治19年8月3日付)は、「陸軍一般洋食に改正」の見出しで以下の

ように報じている。

  府下南葛飾郡八右衛門新田の麺包製造所は野村忍助(鹿兒島縣人)、雨宮敬次郎(山梨縣人)の兩氏が主として設立したる處にして、目下陸海軍兩省の御用をも達し、日々の製造高は餘程多くして、一晝夜凡そ麺粉三十五、六石を消費する由なるが、今度陸軍一般洋食に改まるに付ても、尚ほ同製造所が專ら其御用を引うくる事に爲る趣にて、更に製造竈を增置し、又器械を据付くるの準備なり(以下略)

 あくまでも新聞記事である。さらに引用。

19年9月25日付の『朝野新聞』は、同製粉所が「豫て噂ありし如く」いよいよ雨宮敬次郎、川崎正蔵、野村某の3人に価額1万円の15年年賦で払い下げられ、近日引き渡されることとなった、と報じている。野村某とは、いうまでもなく野村忍助である。

同紙はさらに、「右譲渡の後は築地川崎造船所を神戸に移し、其跡へ製粉所を置き日本小麦製粉会社と称し製粉事業を盛んにせんと目下株主募集中の趣」と報じてお、・・」

  (つづく)