西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

山口県のある軍夫名簿 (絵は一休み)※史料を何故かスキャンできない頁がまだあります。

 はじめに

 「山口縣軍夫名簿」を紹介したい。これは以前入手していたものである。

 二つ折りした和紙を綴じたもので、縦32.8cm、横23.9cmになっている。全体の枚数は13枚である。運ぶには不便な大きさなので折り曲げて携行したらしく半分、更に半分に折り曲げた折り目が付いている。名簿頁には罫線が鉛筆?で引かれているが、その目印として針で刺した窪みが罫線外側の交点にある。上段に住所と手書きの〇・﹅、下段に名前と竹管を用いた〇印、又は手書きの〇がある。これらの印の意味は不明である。名前の上の同は頁右端の第☐号二十人組と同じという意味である。
 ブログでは一行の中に二段書きができないので、若干原文の状態と異なるが、正しくは後日掲げる写真を見ていただきたい。

 

 本文 
明治十年七(丑)月赤(一日出立)間関出發
山口縣軍夫名簿
   百人長河原藤吉

      赤間関七月一日出立
      同二日筑前國黒嵜止宿之事
      同三日同 國内野止宿之事
      同四日築後國府中止宿之事
      同五日肥後國山鹿止宿之事
      同六日同 國大津止宿之事
      同七日同 國髙森止宿之事
馬見原止宿 同八日日向國三田井ニ而査検之事
      同九日   同所止宿之事
      同十日ヨリ東京鎮臺工兵第壱大隊弐中隊
      同    日向國宮水村止宿軍夫ハ同村ト中村ト申村ノ両山阪イニ大川有此川ニ橋掛之事橋長サ凡廿四五間横弐間コレ迠ハ舩渡之事

山口縣第拾五大區一小区赤間関町千百拾五番地第壱舎商 第壱号廿人長 荒木嘉藏 〇
仝第拾三大區十小区埴生村四百五拾三番地 農     〇 平夫 角野忠左衛門 〇
仝  四百六十番地 同 七月十日ゟ東京鎭臺工兵隊第一大隊二中隊第二小隊   〇 同  西村金藏   〇 
仝  五百拾貳番地 商       〇 同 森永市介 〇
仝  六百十四番地 農       〇 同 稲田惣之助 〇
仝  四百拾九番地第二舎 農    〇 同 村田利七 〇
仝  第三大區拾五小區中須南村四百八番地 同 ﹅ 同 手嶋嘉七 〇 
仝  第十三大区拾小區埴生村六百二十三番地 同九月一日午前十二時降役 同 西村清太郎
仝  五百二十五番地 同 八月十八日午前六時ヱノタキニヲテ銃丸負傷為入室八月丗一日午前八時ヨリ入院九月十一日午后三時迠請下ケ ﹅ 同 楠 孫藏 〇
仝  五百二番地 同 九月廿六日正午ヨリ入室 〇 ﹅ 同 安田凖助 〇


仝  五百五番地 同 〇        同 岸埜松太郎 ※左に「キシノ」
仝  貳百七番地 同  ﹅       同 竹内友三郎 〇
仝  第十三大區十小區埴生村 六百二拾五番地 同  ﹅ 同  田中恒助
仝  六百九番地 同 ﹅ 同       村田勘治郎 〇
仝  六百拾番地 同      〇    同  中村第吉  〇
仝  六百三十三番地 同        ﹅     同 篠原吉五郎 〇
仝  十一小区松屋村三十四番地 同 〇  同   松村徳松 〇
仝  七十八番地 同      ﹅    同 堺平兵衛
仝  七拾三番地 同 九月十日午后十一時病気ニ付同日午后八時除役 同 飯田米作

※三好亀吉の貼紙を上に貼る
仝  三十四番地 同 七月廿七日午前十二時除業 同   松村茂助


仝  第拾五大區壱小区赤間関町第貳号 四百拾五番地 商 廿人長    宮﨑理吉
仝  第十三大區十一小区松屋村三十四番地 農 ﹅ 平夫 松村鶴松

 


仝  九十七番地 同 七月十日東京鎮臺工兵隊第一大隊二中隊第二分隊 ﹅ 同 三宅文吉 〇
八十八番地同(仝)﹅          同 田邊待之進 〇
五百十九番地同(仝 十小区埴生村 八月三十一日午後四時病氣ニ付除役)同藤村多三郎 〇 ※上段貼紙(仝九大區十小區向嶋村第九十三番地百人長山川組ゟ八月二日午後ヨリ)※下段貼紙(同尾中長八
仝 十一小區松屋村三十番地同 ﹅    同 宮本孫七 〇


仝   十小區埴生村百級十七番地商 ﹅ 同 三嶋利右エ門 〇
仝   十一小区松屋村六十四番地農 九月十九日午前十一時ヨリ入室八ツ代送リ ﹅ 同 藤本菊治郎 〇
仝  十小区埴生村四百九拾五番地同 九月十九日入室 ﹅ 同 縄田竹一 〇
仝  四百廿五番地同 ﹅        同 三由助藏 〇
仝  十一小區松屋村三十四番地同 ﹅  同 松村藤吉 〇


仝  十小區埴生村四百八十四番地同 ﹅ 同 鈴木利助 〇
仝  二百壱番地工  ﹅        同 田中忠治郎 〇
仝  二百一番地第二舎工 ﹅      同 杦岡峯吉 〇
仝  二百十二番地同 ﹅        同 竹中良平 〇
仝  第十二小區吉田二百九番地同 ﹅  同 伊藤清左エ門
仝  第拾三大区十小区埴生村百七十四番地商 ﹅ 同 阪田仁藏 〇
仝  百七十番地同 ﹅         同 今井末松 〇
仝  津布田村百拾九番地農 ﹅     同 山本萬之進 〇
仝  百七十九番地同 八月廿七日午前八時病氣除役 同 川﨑榮吉
仝  第十五大区二小区赤間関町 八百二番地第十三舎商 ﹅ 同 稲田安治郎 


仝  仝  一小区赤間関町九百六十九番地 同 第三号二十人長 三村米吉
仝  第十六大区九小区吉永村      平夫 林 信一
仝  三百五十七番地 同 七月十日 東京鎮臺工兵隊第一大隊二中隊四分隊 

                    同 福田富五郎
仝  三百六十七番地 同 ﹅      同 山縣平三郎
仝  三百六十八番地 同 ﹅      同 石津丈五郎
仝  三百七十四番地 同             片桐松藏
仝  三百八十壱番地 商        同 西尾竹三郎
仝  第十五大區壱小区赤間関町九百六十九番地第二舎 商 同 松永徳藏
仝  六百九十番地第十三舎 農     同 岡村重藏
仝  九百六十九番地第四舎 商     同 梶山富藏
仝  六百九拾番地第二十一舎      同 津森元助


仝  六百九十番地第廿三舎 仝 八月八日午后二時除役 同 髙橋力藏 ※髙橋の上に沖村彦十郎の貼紙
仝  六百八十八番地 同 ﹅ 同 藤島清吉
仝  四百四拾九番地 同 八月八日午后二時除役 第壱大區五小区土井村 同 山本安吉 ※山本の上に柳谷孫六の貼紙
仝  第拾大區拾小区山口町 二百四十番地 同 ﹅ 同 上田與一右エ門
仝  拾一小区山口町 七百七十五番地 同 ﹅   同 糸屋仁吉


仝  第十三大區九小区郡村 二百三十三番地 農  同 鉾澤庄太郎
仝  三十番地 同           同 杦山市治郎
仝  第十七大区拾小区小串村 二百三十七番地 工 同 澤田安吉
仝  第十五大区二小区赤間関町 ﹅   同 山本安兵衛
仝  第二十一大区二小区徳佐下村    同 堀 伊平 〇 ※〇は手書き
仝  第拾五大区一小区赤間関町四百十八番地第十四舎 商 第四号廿人長 角野松太郎
仝  第一大区五小区土井村 四百六十番地 工 平夫 片岡松五郎 石 ※石工?
仝  四百六十壱番地 工 東京 同 同 同弐中隊四分隊 同 仝勇治郎 石
仝  六小区西久賀村 千百六十二番地  同 岡村百助  
仝  第十五大区一小区赤間関町 九百六番地 商 同 宮﨑傳三郎 〇
仝  第一大区五小区東安下庄 百三十八番地 同 同 濱口兵吉 石


仝  四百九十一番地 同          同 村岡孫治郎 石
仝  六小区 同 千二百六十番地 同﹅   同 廣村八十吉 〇 ※〇は手書き
仝  七小区椋野村 二十番地 農  同 藤谷浪藏 〇 ※〇は手書き
仝  第十三大区十小区埴生村 四百三十九番地 同 ﹅ 同 大木利助
仝  第五大区十一小区波野村 百九十番地  同 儀本常吉 〇
仝  第十一大区十三小区西岐波村 千七百十六番地 商 同 西村安治郎 〇 ※〇は手書き
仝  千七百二十八番地 農 同 髙埜茂三郎 〇 ※〇は手書き
仝  千百五十二番地 同 ﹅        同 枩永安右エ門 〇 ※〇は手書き

 


仝  千百二十一番地 農          同 西村竹藏 〇 ※〇は手書き
仝  千二百七十四番地 〃         同 大川政吉 〇 ※〇は手書き
仝  千百十番地 同 ﹅ 同 村上耕策 〇 ※〇は手書き
仝  第十五大区二小区赤間関町 八十五番地第七舎 商 同 藤原権藏 〇
仝  九十三番地 同            同 関野吉右エ門 〇
仝  第十五大区一小区赤間関町 四十番地 商 九月一日正午病氣除役 第五号廿人長 福井徳治郎 ※第五号の上に五号廿人長 岡崎仁八郎の貼紙
仝  第二十大区二小区川上村 二百四十番地 農  平夫 岡﨑亜佐藏
仝  八番地 同 七月十日同 同 同 二中隊三分隊 同 藤原勘左エ門
仝  八番地 同居 同               同 仝 銀藏
仝  二百二十三番地 同  〇 ※〇は手書き    同 吉尾巌吉
仝  二百六十番地 同 八月丗一日午后八時死亡 ☐金八十戔☐ 右銭☐☐☐相☐☐

                          同 木村織右エ門
仝  九小区萩町 千十七番地 農          同 藤本吉五郎
仝  二小区川上村 二百三十七番地 農 九月七日午后一時ヨリ廿人長申付 

                          同 岡﨑仁八郎
仝  二百九十一番地 同 ﹅            同 和田亜吉
仝  第十三大区十小区埴生村 五百七十一番地 同 ﹅ 同 藏田幸三郎
仝  八小区鴨ノ庄 二百四十五番地 同 西村青左(三百??) 同 賢田峯之丞
仝  二百五十三番地 農 アサ中村☐☐☐☐☐郵便仕候事 鴨ノ庄福小路迠 

                          同 長谷川源太郎
仝  二百四十番地 同               同 中島千代枩
仝  二百六十八番地 同              同 大上ウエ与三郎
仝  二百七十一番地 同 七月三十一日午後五時手負ニテ右手☐☐ケ銃丸負傷ノ為入室 八月丗一日午前八時ヨリ入院九月十一日午后三時迠日給請下リ 満七回岡崎仁八郎請ル 同 西村寿三郎 ※西村の上に渡邉市右エ門の貼紙
仝  二百二十五番地 同              同 今橋富五郎
仝  二百三十番地 農               同 玉井米吉
仝  二百二十四番地 同              同 沖野茂三郎 ※三は?
仝  二百廿七番地 同               同 井上亜平
仝  十小区埴生村 二百五番地 同         同 斎藤光
仝  五百十番地 同                同 香取作太郎
 日向國髙チヲ都新甼口官軍此所縄ノセ川与申大川有此川ハ其(※廿之?)向。賊地也
七月丗一日后前賊ヨリシンゲキ右方山。ホシ山。左六七里ガ間。シシ川ト申大山有其口共賊ヨリ壱里余后前十時ゴロ迠攻擊(セメウツ)夫ヨリ官軍后前十二時ゴロヨリ攻セメカケ直ニ本ノ臺塲モ取右川向江(※?)金山有之コレハ赤金取山此所凡家三四十家斗リ山中ホドニ見江下ニ。アチラ。コチラ。少ツ有之其所江大ヅツ二臺塲ヨリ間ナシニ打込右家左右家ヤケ。大ヅツ其。日入迠打ツ乄之事賊ヨリモ一大ヅツ四五ハツウツ同日ハ右之処ニ納ル也
同月十日夜右縄ノセ川シノンデ橋ヲ掛此所木少無故竹ヲ壱間斗ニ切橋ヲカケ其夜雨フリニテ賊相分ズ同十一日夜アケヲマチ。五六百名渡リ込直ニ攻擊官軍大勝利賊ハ引一方ニ成此川下ニ。ヤカイ村と申處アリ此近邉ヨリ賊川舩取三艘ニ乗リ下ルテイ也。此節大水ニ三般トモ。カヤリ皆死同十三日迠鹿兒嶌口官軍皆一ドキニ。攻ヨセ

 山口縣西南部町
        為袋町
     百人長
       河原藤吉
     通名
       善兵衛

 解説

 冒頭には7月1日に山口県赤間関を出発したこと、その後の宿泊地名を記している。7月時点では熊本県内の大津・高森は阿蘇山の西側とカルデラ南部であり、戦闘が終わった地域になっていた。その後、東に進み宮崎県に入り、三田井から宮水へと進んでいる。これらは阿蘇外輪山から日向灘に向かって一直線に五ヶ瀬川が東流する流域にある。

 工兵第一大隊は第一・第二(諏訪親良中尉・大塚庸俊中尉)の小隊からなる。第弐中隊とあるのは第二小隊のことだろう。付属した工兵隊の名前も明確に知らなかったのである。この隊は第一旅団である。以後、延岡に向かい進軍し、延岡市に着くのは8月14日である。

 7月11日、「對岸ヲ星山田吹ト曰フ後岸ハ即チ八戸村ナリ組橋ヲ以テ道ヲ通ス(「戦記稿」巻五十四三田井戦記 十四)が、山口県軍夫達が築いた長さ約43m、幅3.6mの橋だろう。この橋の築造については「從征日記」にも絵付きで記されている。

 残念ながらこの名簿には彼らの作業内容や日記のような記録は殆ど記されておらず、末尾の一頁に7月から8月中頃の部分的な記述があるだけで、彼等の行動は大部分不明である。しかし、前記の東京鎮台工兵隊と一緒に移動したのであろう。

 工兵第二小隊は宮水の東側、舟の尾という場所で大砲台場である大型の凸角堡を築造しているが、それに河原組も参加した可能性がある。その他、五ケ瀬川流域には両軍が多数の台場を築いており、現在、宮崎県教育委員会埋蔵文化財センターが分布調査を実施中であり、報告が楽しみである。

  廿三日工兵第二小隊凸角形ノ野堡ヲ船尾ノ前面ニ造ル(全隊ヲ以テ工ヲ起シ翌日之ヲ

  竣フ)時ニ賊日ニ亡地ニ陥リ第二旅團十七日ノ戰ヒ以還、反噬死ヲ送ルノ勢アリ乃チ

  右翼兵ニ諭シ嚴ニ戒シテ其掩襲ニ備ヘシム (「征西戦記稿」巻五十四三田井口戦記pp.16)

 上図の説明をすると、水色は堀である。雑木林の端にあり、この堀を見たときは民家跡の溝かと思った。しかし雑木林の中に入って調べると土塁部分があり、内側に窪んだ場所が三か所あるのが分かった。しかも土塁は逆「く」の字形だった。土塁と堀との境には幅狭い平坦面が巡っている。「工兵操典」にある堀・平坦面・土塁の関係と同じだと後で分かった。

軍夫の呼称

 猪飼隆明2008年「西南戦争 戦争の大義と動員される民衆」には軍夫の概要があり、参考になる。「戦記稿」巻六十五には戦争で人民を使役した経過が記されている。その名称は2月23日には車馬役夫・人足・車夫人足・人夫・車輛人夫・車夫人足である。前線に兵士や輜重を運送する仕事が目立つ。3月6日には軍夫の呼称が登場した。

  〇六日軍夫數千人ヲ山口縣ヨリ召集センヿヲ議定シテ本營ニ請フ

 そして平夫十人・二十人・三十人を引率する者を小頭とし、適宜五十人長・百人長を置くとしている。3月19日には戰地隊附並七本輜重部ヨリ先ヘ使役スルモノとして百人長・廿人長・十人長・平夫の日給を定め、別に砲廠糧食及焚出塲等ニ使役スルモノとして百人長・廿人長・平夫の日給を定めた。

 今回紹介した山口県軍夫名簿では百人長と廿人長・平夫の呼称が使われており、3月19日の定めに従ったのであろう。但し仕事内容は戦地隊云々と同じになっている。

 末尾の文章は尻切れトンボで終わっている。地名や名詞を漢字に直したり、補足したり句読点を訂正して少しだけ読みやすくしてみたのが以下である。
日向国高千穂新町口官軍此所網ノ瀬川と申す大川有此川ハ其向賊地也
七月丗一日午前賊ヨリ進撃右方山、星山、左六七里ガ間、鹿川ト申大山有其口共賊ヨリ壱里余午前十時ゴロ迠攻擊セメウツ夫ヨリ官軍午前十二時頃ヨリ攻セメカケ直ニ本ノ臺塲モ取右川向江(※?)金山有之コレハ赤金取山此所凡家三四十家斗リ山中ホドニ見江下ニ、アチラ、コチラ、少ツ有之其所江大筒二臺塲ヨリ間ナシニ打込右家左右家ヤケ。大筒其、日入迠打ツ乄(※?)之事賊ヨリモ一大筒四五発ウツ同日ハ右之処ニ納ル也
同月十日夜右網ノ瀬川忍ンデ橋ヲ掛此所木少無故竹ヲ壱間斗ニ切橋ヲカケ其夜雨降リニテ賊相分ズ同十一日夜アケヲ待チ、五六百名渡リ込直ニ攻擊官軍大勝利賊ハ引一方ニ成此川下ニ、八峡村と申處アリ此近邉ヨリ賊川舩取三艘ニ乗リ下ル体也。此節大水ニ三般トモ、(※ひっくり)返リ皆死同十三日迠鹿兒嶌口官軍皆一ドキニ。攻ヨセ

   山口縣西南部町
        為袋町
     百人長
       河原藤吉
     通名
       善兵衛


 軍夫の出身地
 名簿は大区小区制度の記載がなされ具体的にどこなのか分からないので、市町村地名は1980年段階のものに置き換え、どの地域の人達がこの河原組に入ったのか見ておきたい(下中邦彦編1980年「日本歴史地名大系 第三六巻 山口県の地名」平凡社を参照)。職業も記載する。なお、現在徳山市周南市となり、小野田市山陽小野田市となっている。
百人長:河原藤吉(下関市南部町・農民)
第一号廿人長荒木嘉藏(下関市赤間関・商人)・角野忠左エ門(小野田市山陽町埴生・農民)・西村金藏(同・農民)・森永市介(同・商人)・稲田惣之助(同・農民)・村田利七(同・農民)・石川豐吉(同・農民)・手嶋嘉七(徳山市中須南町・農民)・西村清太郎(小野田市山陽町埴生・農民)・楠孫藏(同・農民)・安田凖助(同・農民)・岸埜松太郎(同・農民)・竹内友三郎(下関市神田・農民)・田中恒助(小野田市山陽町埴生・農民)・村田勘治郎(同・農民)・中村第吉(同・農民)・篠原吉五郎(同・農民)・松村徳松(下関市松屋・農民)・堺平兵衛(同・農民)・飯田米作(同・農民)・三好亀吉(飯田が病気のため追加。住所職業記載無)・松村茂助(下関市松屋・農民)※第一号廿人長を入れて22人。下関市6人・小野田市14人・徳山市1人・不明1人。
第貳号廿人長宮﨑理吉(下関市赤間関・商人)・松村鶴(鳥はない字)松(下関市松屋・農民)・三宅文吉(同・農民)・田邊(誤字?)待之進(同・農民)・藤村多三郎(同・農民)・尾中長八(藤村が病気のため百人長山川組から追加。防府市向島)・宮本孫七(下関市松屋・農民)・三嶋利右エ門(小野田市山陽町埴生・商人)・藤本菊治郎(下関市松屋・農民)・縄田竹一(小野田市山陽町埴生・農民)・三田助藏(同・農民)・松村藤吉(下関市松屋・農民)・鈴木利助(小野田市山陽町埴生・農民)・田中忠治郎(同・農民)・杦岡峯吉(同・農民)・竹中良平(同・農民)・伊藤清左エ門(下関市吉田・農民)・阪田仁藏(小野田市山陽町埴生・商人)・今井末松(同・商人)・山本萬之進(小野田市山陽町津布田・農民)・川﨑榮吉(同・農民)・稲田安治郎(下関市赤間関・商人)※第二号廿人長を入れて22人。下関市10人・小野田市11人・防府市1人。
第三号二十人長三村米吉(下関市赤間関・商人)・林 信一(下関市吉永・農民)・福田富五郎(同・農民)・山縣平三郎(同・農民)・石津丈五郎(同・農民)・片桐松藏(同・農民)・西尾竹三郎(同・商人)・松永徳藏(下関市赤間関・商人)・岡村重藏(同・農民)・梶山富藏(同・商人)・津森元助(同・商人)・髙橋力藏(同・商人)・沖村彦十郎(髙橋除役により追加。住所職業不記載)・藤島清吉(下関市赤間関・商人)・山本安吉(同・商人)・柳谷孫吉(山本除役のため追加。周防大島町土井・職業不記載)・上田與一右エ門(山口市山口・商人)・糸屋仁吉(山口市山口・商人)・鉾澤庄太郎(小野田市山陽町郡・農民)・杦山市治郎(同・農民)・澤田安吉(下関市豊浦町・農民)・山本安兵衛(下関市赤間関・商人)・堀 伊平(山口市阿東徳佐下・農民)※第二号廿人長を入れて23人。下関市16人・小野田市2人・大島町1人・山口市3人・不明1人。
第四号廿人長角野松太郎(下関市赤間関・商人)・片岡松五郎(大島郡土井・商人)・片岡勇治郎(同・商人)・岡村百助(大島郡久賀・商人)・宮﨑傳三郎(下関市赤間関・商人)・濱口兵吉(大島郡東安下庄・商人)・前田國太郎(下関市赤間関・商人)・濱口忠太郎(大島郡東安下庄・商人)・村岡孫治郎(同・商人)・廣村八十吉(大島郡久賀・商人)・藤谷浪藏(大島郡椋野・農民)・大木利助(小野田市山陽町埴生・農民)・儀本常吉(熊毛郡田布施町波野・農民)・西村安治郎(宇部市西岐波・商人)・髙埜茂三郎(同・農民)・枩永安右エ門(同・農民)・西村竹藏(同・農民)・大川政吉(同・農民)・村上耕策(同・農民)・藤原権藏(下関市赤間関・商人)・関野吉右エ門(同・商人)※第二号廿人長を入れて21人。下関市5人・小野田市1人・大島郡8人・熊毛郡1人・宇部市6人。
第五号廿人長福井徳治郎(下関市・商人)・岡﨑仁八郎(元は五号廿人組平夫だったが、福井が病気のため昇格。下関市赤間関・職業不記載)・岡﨑亜佐藏(萩市川上・農民)・藤原勘左エ門(同・農民)・藤原銀藏(同・農民)・吉屋巌吉(同・農民)・木村織右エ門(同・農民)・藤本吉五郎(同・農民)・岡崎仁八郎(萩市川上・農民)・和田亜吉(萩市・農民)・藏田幸三郎(小野田市山陽町埴生・農民)・賢田峯之丞(小野田市鴨の庄・農民)・長谷川源太郎(同・農民)・中島千代枩(同・農民)・大上与三郎(同・農民)・西村寿三郎(同・農民。7月31日午後5時銃傷)・渡邉市右エ門(西村の代わりに追加。住所職業不記載)・今橋富五郎(小野田市鴨の庄・農民)・玉井米吉(同・農民)・沖野茂三郎(同・農民)・斎藤光藏(小野田市山陽町埴生・農民)・香取作太郎(同・農民)
※第二号廿人長を入れて22人。下関市2人・小野田市11人・萩市8人・不明1人。
22+22+23+21+22=110人。但し岡崎仁八郎は重複するので109人。百人長を入れて総員110人。

 全体では下関市39人・小野田市39人・萩市8人・徳山市(現周南市)1人・防府市1人・山口市3人・宇部市6人・大島9人・熊毛郡1人・不明3人となり、県西部の出身者が多いが、行政区域で纏まるということは認められない。

 

下荒田支病院について

 参考までに一部の軍夫が入院した下荒田支病院の史料を掲げる。

 C09082925500「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛省防衛研究所蔵)0403
別紙人名之者悉ク死亡候ニ付既ニ死亡診断書者軍團軍醫部ヘ宛差出シ置候条各自所轄江配附相成候筈ニ候得共尚為念死亡連名簿差呈候条可然御承知有之度候也 
  十年十月十二日 下荒田支病院印※征討軍團支病院之印
   鹿児嶋屯在兵
     参謀部御中 

 第一号二十人組の安田凖助は名簿では「九月廿六日小穂ヨリ入室」とあるが、この記録により鹿児島市内下荒田支病院に入院し、同年10月12日には死亡していたことが分かる。
 ついでに脇道のそれると、下荒田支病院(別名臨時支病院。別に鹿児島病院があった)の存在文書は10月8日(下荒田村軍團支病院)・12日・18日・19日・22日・23日・24日・25日・26日・31日の日付のものがある。また、11月1日付で鹿児島屯在兵参謀部(長は熊本鎮台司令長官谷少将)から下荒田支病院宛に文書が出されているので、1日段階にはまだ存在している(C09082925600「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛省防衛研究所)0405)

 

C09082931300「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛省防衛研究所蔵)0521・0522
不日其臨時病院御引揚之趣承知致候就而者當地屯在兵ノ為メ重病室取設ケ候筈☐☐何分医官看病人卒共人少ニテ大ニ差閊(つかえ)候条御引掲之節ハ医官看病人卒苦干名及ヒ該室納付器械薬品共御残シ置相成候様致度此段及御照會候也 
鹿児嶋屯在兵
明治十年十月廿七日   参謀部
  下荒田臨時支病院
御中

 

 10月27日段階で、すぐに臨時病院は引き揚げる予定であることが分かる。


C09082931800「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛研究所蔵)0531・0532
障子川木材病院明三十日引揚ケ候条此段及御通知候也
 十年十月三十日
        下荒田
         臨時支病院㊞
 鹿児嶋屯在兵
   参謀部御中 

 

 30日付けの文書で明30日に引き揚げると矛盾しているが、30日に障子川病院は引き揚げたのであろう。
 10月9日付「谷山ノ内障子川コレラ病院宛」記録がある(C09082924600「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛研究所蔵)0382・0383)

 

C09082929700「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」((防衛省防衛研究所蔵)0490・0491征討総督本營罫紙
新撰旅團砲隊
仝  器械掛
仝 縫裁隊 右等所轄之部局当地残留相成居候哉既ニ御引揚ケ相成居候哉判然不致退院航送或者診断書等差出方ニ差支江候条至急御通知被下度其他區々之部署等有之候ハ﹅是又御通報被下度此段及御依頼候也 
十年十月丗一日 下荒田 
鹿児嶋屯在兵 臨時支病院 
  参謀部
御中 
追テ当軍團支病院被廃大阪臨時病院ニ附属シ醫官計官看病人卒ニ至ル迠何分ノ御沙汰有之候☐者ハ是レ迠之通リ事務取取扱可申旨鳥尾中将殿ヨリ電報有之候条此旨為御心得迠申添置候也

 

 10月31日には支病院が存在するが、一部医官・事務官・看病人はこれまで通り事務作業が許可されていた。

 

C09082932900「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛研究所蔵)0552・0553
下荒田ヘ元軍團支病院取設有之候處今般引拂候就而者引續右家屋當分之内當地屯在兵病院トシテ相用度為念此段申進置候也
           鹿児嶋屯在兵
 明治十年十一月二日   参 謀 部
 
    鹿児嶋縣
     鹿児島出張所
        御 中 

 11月2日段階では支病院は引き払っているが、引き続き鹿児島屯在兵病院としてその家屋を使いたいという県への通知文。

 

C09082936300「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛省防衛研究所蔵)0622・0623
當地臨時支病院引揚相成候ニ付テハ屯在兵患者之為メニ医官看病人卒會計官差残有之度段陸軍卿ヘ伺出候處屯在兵之為熊本鎮臺ヨリ医官等派出申付置候条右到着迠ハ伺之通ト御指令相成候条此旨為御心得及御通報候也
 十年   鹿児島屯在兵司令長官(谷少将)代理
  十一月十二日  長坂陸軍中佐
 下荒田
  臨時支病院
  〃 會計部 御中

 

C09082947700「明治十年 來發翰留 鹿兒島屯在兵 參謀部」(防衛研究所蔵)0853
過般傳染病之為下荒田病院囲外ニ御設相成候木材病院今般致焼却候ニ付明後十三日午後第二時放火致候条此段豫テ及御報知候也
 明治十年十二月十一日 熊本鎮臺病院
               出張所印
 屯在兵
  参謀部
    御中   

 

 12月11日付文書により、木材病院が下荒田臨時病院の囲の外側に設置されていたこと、13日に焼却予定だったことが分かる。コレラ細菌の焼却を図ったのであろう。この時点では熊本鎮台病院出張所になっている。

 

 感想を少し
 第一号二十人組の楠孫藏は8月18日午前六時にヱノタキで銃丸のため負傷しているが、当日宮崎県延岡市北川町可愛岳えのだけ頂上直下北西側で野営していた第1旅団・第2旅団本営が薩軍に襲撃された際、彼も負傷したのである。いわゆる薩軍の可愛岳突破である。薩軍が官軍の2個旅団本営に対し襲撃を開始した時間を従来言われてきた午前4時半ではなく、午前6時であると推定したことがあるが、それを裏付けている(「和田越の戦闘から可愛岳の戦闘までの経過」『西南戦争之記録』第4号pp.208~pp.266西南戦争を記録する会 2008年・「西南戦争の考古学的研究」吉川弘文館 2017年)。
 文章中に五ヶ瀬川薩軍の舟が転覆した記述がある。この時転覆した舟には薩軍が佐伯で編成した新奇隊員も乗っており、隊員数人が溺死した。なお、新奇隊員の戦争中の死者は9人あるいは11人とされている。「征西戦記稿」では転覆で薩軍44人が溺死したとある。
 五ヶ瀬川左岸(北岸)に北方町八峡村はあり、対岸の南側には北方町早日渡集落がある。五ヶ瀬川は上流から深い谷底を流れており、この付近では高さ60m以上の崖が続いている。早日渡集落は崖上の平坦面にあり、西側背後には当時薩軍が展開した荒平・大山・千本杉などがあり、これらの薩軍が官軍に追われ早日渡から対岸に渡ろうとしたのである。三艘の小舟は早日渡下組の三人が渡し守として徴用されているので、薩軍の逃走経路がより明らかになった(西川功・甲斐畩けさ常1979年「西南の役髙千穂戰記」pp.331西臼杵郡町村会)
 この件に関して柴田勝實編「新奇隊士山崎集氏書簡」『明治丁丑豊後西南戦記』を引用する。
  滞在数日、命ありて高千穂街道を上り、大楠村ニ到着、将に午餐をとらんと欲する

  の時、敵の追撃をうけ、退却の已むなきに至る。夫より二三里の下大山村と称する

  所に陣を整え、堅塁を築き、敵と対陣すること半月余、此間老生は軍醫の任務なり

  しため、山麓なる大山村に宿営し、毎日若くは必要に応じ山巓の砲塁に塹濠を通じ

  て往診、又視察をなし居り、然るに八月十日、夜半の大雨にて、大小河川の水汎濫

  したるが翌日早暁急劇なる敵の襲撃を受け、兵力寡少支え難く、山麓の下五ヶ瀬川

  に敗退せしも、此渡舟場よりは他に通ずる途なければ夜来の増水激流を冒し、小渡

  舟に過剰の乗込みをなし、奔流に棹せしものならん、老生は大山の中腹の農家に分

  宿し居るを以て河畔に下らず、山麓の間道を横に小谷の奔流を泳ぎ渡る。此間屡々

  狙撃せられしも、奇積にも無難、遂に林中に影を没し、退却するを得たり。為に多

  数の溺死者を出す。又已むを得ざりしことならん。爾来交戦らしき交戦なく、敗退

  遂に長井村に至りしものなれば、或は然らんかと被考候。其後新奇隊戦友とも逢わ

  ず、途中同友矢田又太郎に会し、共に長井村に至って最後諸隊と共に降伏し、私宅

  謹慎の証を得、帰伯したる経過に有之候。
 上記の文の主人公は五ヶ瀬川を渉ろうとせずに、南岸の山地を抜けて下流の方に脱出したが、舟に乗った人たちは溺れてしまったのである。

 

 おわりに
 西南戦争に従事した山口県編成軍夫の延べ総数は山口県(2,802,631人)だった(「戦記稿 附録」軍團旅團輜重部傭役軍夫人員表)。「戦記稿」では10月15日までで集計しているので、本史料の河原組の場合、7月1日から10月15日までが従事期間だったと仮定すると。約105日間であり、延べ約10,500人となる。山口県全体ではこの他にさらに多くの軍夫が存在したことになる。「山口県史 史料編 近代1」によると、同県では3月16日に初めて人夫(当初は軍夫の名称はなかった)千人を送り出しており、3月下旬段階の予定では同県内からはすべて合わせて五千人を派遣することになっていた。但し、従事期間は無期限ではなく短い日数を希望していたが、それは有耶無耶になっていった。
 県史では主に3月段階の史料を掲載し、その後の軍夫の情報は少なく、河原組に関する情報は見られない。7月20日山口県から各大区に出された達では、8月1日から21日まで大区毎に繰り出すよう計画されていた。但し本名簿を見る限り大区単位で編成されておらず、実態は異なっていたようである。山口県編成軍夫の実数は不明だが、河原組名簿は氏名・出身地名が判明するという他には見られない稀な点に価値があると思う。一度登録された者は病気や死傷の場合を除き、引き続き従事していたことが分かる。「戦記稿」にあるように10月15日までだったのかは分からない。他に山口県軍夫に関しては少なくとも活字化されたものの存在を知らない。