西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「秘録維新七十年図鑑[新装版]」の薩軍の枝弾

 1937(昭和12)年4月1日から5月20日まで、東京日比谷の旧国会議事堂で東京日日新聞社大阪毎日新聞社主催の政治博覧会が開催されている。そして三か月後にはそこで展示した史資料写真を掲載して「秘録維新七十年図鑑」が刊行された。その復刻本を2018年に吉川弘文館が出版しており、面白い写真が載っていたので紹介したい。

 本書の内容は、序文(岡 實)・政治七十年略史・政治篇・外交篇・軍事篇・人物篇・雑篇・憲法の出来る迄ー出品物の説明を中心としてー(尾佐竹 猛)・(東京日日新聞社大阪毎日新聞社)主催 政治博覧会出品目録であり、ここまでで259頁あり、復刻本では(解説)政治博覧会と『秘録 維新七十年図鑑』(刑部芳則)が18頁続いている。

 本題の写真は軍事篇に掲載された次のものである。

 

 これは白黒の写真で、上部左外に説明文「西南役薩軍製造使用の小銃彈(曾我祐邦子藏)がある。当時、資料の撮影時に照明が上から当てられたため影が映り込み、輪郭が見えにくい写真である。これによく似た資料は靖國神社遊就館に2点あり、資料紹介したことがある(高橋信武2016「西南戦争の考古学的研究」吉川弘文館)。

 西南戦争の際、銃弾材料である鉛が不足した薩軍は代用品として錫と鉛の合金銃弾を製造し、やがてそれらも不足したので銅製銃弾、最後は鉄製銃弾を作って使っていた。この枝弾と呼ぶことにした物は、7月くらいから製作された銅製銃弾製作過程の遺物である。遊就館例は片側に1個ずつ、10段の枝が出ている形だったが、写真のものが本体が上下二つに割れていると仮定すると下の写真のようになる。

 (上の写真では9段しかないとしたが、10段あることを見落としていた。)写真と簡単な説明文だけしかなく、素材が何か分からないが、おそらくこれも銅製だろう。出品者の曽我祐邦(1870-1952)は西南戦争当時は第四旅団司令長官だった曽我祐準すけゆき(1844-1935)の四男だった。祐準は展覧会の2年前に亡くなっており、子供の祐邦が父親の遺品を出品したのだろう。

 本書末尾の解説では展示品の現存確認資料一覧があるが、問題の枝弾は所在を確認できていない。しかし、これまで遊就館例しか存在しなかったものが他にも存在したことを裏付ける貴重な追加例である。