西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

千眼寺山の旧道あるいは塹壕跡

 尾畔山(おぐろやま)に続く南側の尾根の事で、この付近には西南戦争では5月から6月に薩軍が居り、9月には官軍が居ました。南側から頂上に向かって深さ1m~2m前後の二本の溝状の物があり、これらが西南戦争時に掘られたものなのか不明です。現地を見ての感想は西南戦争時のものではないだろう、というものですが、今回は後者の時期9月の記録から考えてみます。挿図は以前のブログで使ったものです。右中央が城山で、甲突川の西側の丘陵・山地が対象地です。f:id:goldenempire:20210411222638j:plainf:id:goldenempire:20210604191651j:plain

 次はブログですでに引用した史料です。

C09080562800「戰鬪報告原書 戦状報告綴 參謀部」防衛研究所蔵0514~0519

當方面目今ノ守備線且各方面之部署或ハ賊情等概畧ヲ左ニ御報知仕候                              一吾右翼ハ則チ熊本鎮台ト連絡ヲ取リ大嶋少佐ノ四中隊ヲ以武村之山頂(旧笑岳寺ノ山上ナリ)ヨリ袖掛ケ松ヲ経テ西田本道マテ間守備ヲ保ツ

一長谷川中佐ノ三中隊及花岡中尉ノ一中隊ヲ合シ旧千眼寺跡ヨリ原良永吉マテ土堤ヲ胸壁トシ左翼ハ別働第二旅團山川中佐ノ隊ト連絡ヲ取リ守備ヲ保ツ

一各隊ハ何レモ其前面ナル田畑ノ中ニ二重或ハ三重ノ墻ヲ植ヘ而テ数ヶ所ニ胸壁ヲ築キ要害ヲナス然レノモ兵員寡少ニシテ太タ薄弱ナリ故ニ山頂ニ配布スル兵ハ營ヲ之トナシ唯虚勢ヲ張ルノミ

一八田大尉ノ中隊ハ尾畔山ノ頂上ニ警備ス是ハ全ク第二線ノ如シト雖ノモ賊ヲ眼下ニシ頗ル要所ナルヲ以テ諸所へ守備ヲ保ツ

一工兵隊ノアラサルヲ以各隊ノ兵卒ト土地ノ人民ヲ募リ之ヲ指揮シテ急造胸壁ヲ築クト雖ノモ

 

固ヨリ器械ノ不整ナルガ故ニ充分築造スル能ハス大ニ時間ヲ費セリ

一賊ハ旧城山或ハ新照院ノ山上并岩嵜或ハ城ヶ谷等ノ山頂ニ数ヶ所胸塁ヲ築キ(之ハ旧官軍ノ臺場ナリ)之ニ據リ時トシテ発射セリ

一賊ハ目今糧食或ハ弾薬ニ欠乏シ人夫ニ至ラハ粥ヲ給與スルト云果シテ然ラハ今五六日ヲ過ルナラ必ス終局ニ至ルナラント想像セリ

一賊員ハ凡四百人トモ云フ西郷桐野モ其中ニ在リ亦過日官軍ノ人夫ヲ捕縛シ目下之ヲ使役シ居ルト云フ其人夫ノ内僅カニ遁レ来リシ者モアリ

右之通形状ニ付兼而電報ヲ以上申仕置候兵員至急御増加被下候様仕度故別紙図面壱葉相添御参考之為メ進呈仕候此段御報知旁上申仕候也

            吉田大尉

  九月十一日     伊丹少尉㊞

 

     野津少将殿

   追而山脇少佐ゟ上申仕候砲隊モ当地江御差向相成候様仕度是亦上申仕候也

 

 官軍は兵員が少ないので田畑の中に柵列を2列あるいは3列打ち込んで敵が容易に接近できないようにし、数ヶ所に台場(胸壁)を設けていた。しかし兵員が少ないため守備は薄弱だと考えていました。それで背後の尾根上は宿営するのみであたかも守備をしているように虚勢を張っていたのです。一部意味が通じない部分がありますが、次に掲げる同じものを写したとみられる史料では意味が通じます各隊ハ何レモ其前面ナル田畑ノ中ニ二重或ハ三重ノ墻ヲ植ヘ而テ数ヶ所ニ胸壁ヲ築キ要害ヲナス然レノモ兵員寡少ニシテ太タ薄弱ナリ故ニ山頂ニ配布スル兵ハ營ヲ之トナシ唯虚勢ヲ張ルノミ)しかも(工兵隊ノアラサルヲ以各隊ノ兵卒ト土地ノ人民ヲ募リ之ヲ指揮シテ急造胸壁ヲ築クト雖ノモ固ヨリ器械ノ不整ナルガ故ニ充分築造スル能ハス大ニ時間ヲ費セリ)という状態でした。器械とは鍬や鋤などでしょう。

  先に述べたもう一つの同じ報告を写した意味の通じる記録がこれです。微妙に異なっていますがこちらの方は正しく写したものです。

 C09083749400「探偵電信報告 出征第一旅團」防衛研究所蔵0367~0370

  冒頭の記録で赤字で示した初めの部分に該当する箇所を掲げると。

一各隊ハ何レモ其前面ナル田畑ノ中ニ二重或ハ三重ノ墻ヲ植ヘ而シテ数ヶ所ニ胸壁ヲ築キ要害ヲナス然レノモ兵員寡少ニシテ太タ薄弱ナリ故ニ山頂へ配布スル兵甞テ之レナシ唯虚勢ヲ張ルノミ 

 兵ハ營ヲ之トナシの部分が兵甞テ之レナシとなっており、後者が原文であるか、または誤記がなく正しく写したものだと思います。兵を山頂に配布する余裕がなかったとしています。この状態で希少な人力で二条の深い溝を山頂に通じる斜面に掘ったとするのは疑問です。しかも山道に繋がっているので、道を拡張したものだろうと思います。今回は9月段階についてですが、5月・6月はいずれまた。