西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争(終) 9月

 第三旅団の移動状況を「戰記稿」から見ておきたい.

 9月1日紙屋村・綾・野尻・高原・小林に進軍。2日、左翼軍は国分に向け進軍。3日、田口村、4日横川・溝辺・加治木・国分。揖斐中佐は7個中隊を率い海路鹿児島へ。

 5日、「第三旅團ハ五日三浦少將二中隊沓屋大尉中村中尉ヲ率テ汽船金川丸ニ搭シ午後加治木ヲ發シ鹿兒島磯田ノ浦ニ抵ル」。揖斐の7個中隊は「甲突川ヨリ上陸シ城下南方大門口ノ方面ニ當リ守線ヲ高麗橋外ニ起ス即チ別働第一旅團哨線ノ右ニシテ左ヲ新撰旅團ニ接ス以テ谷山道ヲ扼ス線外ノ人家八九宇射道ニ當ル者アリ之ヲ焼ク」。言葉通り解釈すると、第三旅団の立場から見れば左側に別働第一旅団が位置し、同じく左は新撰旅團に接するという矛盾した記述である。

 6日、「六日少將東福ケ城ヲ發シ左翼厚東中佐ノ許ニ至ル午後一時其大門口ノ防禦線ヲ天神馬塲ニ進メントスルニ賊之ヲ認メ發射ス我兵之ニ應シ暫時交戰遂ニ高麗橋ニ至ル(※戦死門田秀雄少尉の表を略す)乃チ防禦線ヲ定メ甲突川ヲ前ニシ右翼、海濱ヨリ左翼、西田橋ニ至リ牙營ヲ下荒田村騎射塲ニ移ス」。この6日の戦闘報告表が1点ある。

 C09084821300「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0770・0771

  第三旅團歩兵第十二聯隊第二大隊第二中隊大尉沓屋貞諒㊞  

  我軍総員:百二十八名  死者:将校一  戦闘日時:九月六日  

  戦闘地名:鹿児島縣下天神馬塲

  戦闘ノ次第概畧:九月六日天神馬塲ヱ進線ノ為メ午后第一時淵崎出立シ

  一時十五分細島湊ニ至リ直ニ賊臺塲ヨリ発放ス暫時戦争ス夫レヨリ髙麗橋

  防禦線ニ着   備考我軍:即死陸軍少尉門田秀雄

 9月6日関係の地図を示す。右翼端はその後の埋立てを推定して示した。

 天神馬場は南から西田橋を渡って最初の交差点を右折した白い直線道路付近らしい。この6日は天神馬場に防禦線を前進できなかったようである。

 7日、「揖斐大佐及ヒ會計砲廠輜重ノ各部長モ亦至ル乃チ佐久間中佐ニ令シテ曰ク明朝將サニ防禦線ヲ進メントス因テ一中隊ヲ高麗橋ニ留メ第二旅團ノ防禦線ニ注意スヘシ云々」。戦闘がなかったので、戦闘報告表はない。

 8日の全文は「八日拂暁甲突川ノ防禦線ヲ千石馬塲ニ進ム」のみ。戦闘報告表が3点ある。

 C09084821400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0772・0773

  第三旅團歩兵第十二聯隊第二大隊第二中隊大尉沓屋貞諒㊞  

  我軍総員:百三拾壱名  傷者:下士卒二

  戦闘日時:九月八日 戦闘地名:鹿児島縣下天神馬塲

  戦闘ノ次第概畧:九月八日高見馬塲ニ進線ノ為メ午前第五時斥候隊髙麗

  ヲ出発シ天神馬塲至ル賊城山ヨリ発放シ直ニ開戰ス同午后第七時三十分斥

  候隊進線ニ帰ル

  備考我軍:一傷者二名二等卒森本新三郎 二等卒石川忠吉

 高見馬場・千石馬場に関して、以前「甲突川右岸の戦跡」について書いた際に使用した地図を再利用して掲げる。f:id:goldenempire:20210604191651j:plain

 C09084821500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0774・0775

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉大西 恒㊞  

  我軍総員:将校以下九十三名  死者:伍長 一名

  戦闘日時:九月八日 戦闘地名:鹿児島城下

  戦闘ノ次第概畧:本日拂暁竹橋防禦線ヨリ高馬塲通江進軍茲ニ防禦線ヲ

  ム   備考我軍:本日死者 一等伍長 山内武利

 竹橋とは高麗橋下流三個目の武橋のことである。高見馬場を高馬場としている。

 C09084821600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0776・0777

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊 中隊長陸軍大尉竹田實行 

  我軍総員:百二十名  傷者:下士卒 壱名

  戦闘日時:九月八日 戦闘地名:鹿児嶌中福良邉

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時竹ノ橋川筋ノ防禦線ヲ引揚中福良ニ進軍爰ニ

  新防禦線ヲ設クル為メ前面ヘ配布シ賊之見認ルヤ屡我軍ヲ狙撃スト雖ノモ屈

  セズシテ胸壁及ヒ竹柵等ノ凖備ヲ整ヘ線外ノ兵ヲ引揚ケ爰ニ固守ス   

  我軍備考:傷者壱名ハ一等伍長岩崎清助ナリ直ニ繃帯所江送ル

 甲突川上流左岸の伊敷に中福良公民館というのがあるが、ここが福良だろうか。武橋からやや遠いのだが。

 「戰記稿」から。

  九日午前四時新線ヲ設ケント中福良及ヒ高見馬塲ニ進軍スルニ賊頻リニ射

  擊ス我兵屈セス胸壁竹柵等ヲ準備シ線外ノ兵ヲ収ム

 この続きに死傷表があり死1・傷3を記すが、戦闘報告表から見てこれらは8日の死傷者数である。「戰記稿」では第三旅団に関する10日の記事が抜けている、というよりも10日のことを9日部分に記している。10日に山縣が各旅団長に警戒を呼び掛ける達を回覧している、その概要が9日部分に掲載されている。山縣の原文を掲げる。

 C09082898600「明治十年七月二十三日 来翰綴 ラ印 軍團本営」防衛研究所蔵1330・1331征討総督本営罫紙 

  昨今之形勢周圍之圍已ニ致完全候然ル處渠レ拠守以来已ニ一週ニ垂トシ

  粮食ノ闕乏ハ自然免ル可ラスト被察候付而者何時再度突出ノ挙動ヲナス

  モ測ル可ラザル義ニ候得者此際夜間ハ申迠モ無之昼間ト雖モ各哨兵線ニ

  於テ全戒嚴可為致各位ヨリ其筋ヘ夫々至急御訓示相成度此段態ト申進候

  也

   九月十日    山縣参軍

    山田少将殿 十日午后三時谷少将ヨリ来ル即チ曽我少将ヘ廻ス

    三浦少将殿 九月十日午前八時三十五分髙嶋少将ヘ廻ス

    谷 少将殿 九月十日午後一時山田少将ヘ相廻ス

    三好少将殿 三時五十分長坂中佐ヘ三浦中佐ヘ送

    曽我少将殿 午后第六時三十分山田少将ゟ来ル

    大山少将殿 三時十分三好少将ニ送ル

    東伏見少将殿 四時五十分三浦少将☐廻ス

    高嶌少将殿 ☐☐☐☐回ス

  追而長官不在之分者先鋒司令ニ而閲讀有之度候猶至急順達廻尾ヨリ御返

  却之事

 長坂中佐は新撰旅團参謀長。回覧は山縣が末尾に列記した各旅団長名の順になされておらず、以下の順だったらしい。高嶋が何時に誰に廻したかを記していないのだが推定してみた。

 大山(元別働第五旅団)3時10分三好に送る→三好(第二旅団)3時50分に長坂中佐・三浦へ送る→東伏見(新撰旅團)4時50分三浦に廻す→三浦(第三旅団)8時35分高嶋へ回す→高嶋(別働第一旅団)☐☐回す→谷(熊本鎮台)10日13時山田へ回す→山田(別働第二旅団)10日15時谷から来る→曽我(第四旅団)18時30分山田から来る。

 当時誰がどこにいたのかも記したいが、それはいずれ。その後の第三旅団の動向を記すと。

十三日高見馬塲二所柿木寺馬塲一所ノ砲臺竣功ス」・「十六日是日本團ノ全員左ノ如シ」とあり、従僕馬丁78人・傭夫26人を入れ計3,392人の表を掲げている。

 19日、山縣参軍は各旅団長官を集めた会議を開き24日に戦争を終結する最後の攻撃を行うことと、各旅団の攻撃場所を決定した。その分担を示す。第一・第二旅団と別働第二旅団は城山正面と左右から進撃し、東北の高所を占領した後に進軍すること。熊本鎮台と別働第一旅団は隆盛院迫(※場所不明)、第三旅団と新撰旅団については城山前面に進み要所を占領すること。

9月20日

  是日第三旅團ノ進擊スルヤ右翼一分隊防禦線外ニ出、二之丸ニ向フ賊兵壘

  壁ヲ島津邸ノ左右ニ築キ頻ニ十字ノ發火ヲナシ又邸ノ周圍ナル石墻板壁ノ

  内部處々ヨリ發火ス我兵、壁ヲ攀チテ突入セントシ又邸傍處々ニ放火スレ

  ノモ焼草寡乏且ツ賊兵ノ能ク防禦スルニ因リ遂ニ之ヲ果サス唯劇烈ニ發砲シ

  天明テ兵ヲ収ム(※下士1・卒1の傷者表あり)又左翼一分隊ハ同ク城山ノ砲壘

  ニ向フ山麓ニ一壘アリ我兵近ツキ進メノモ一賊ヲ見ス此壘ノ上部即チ城山ノ

  中腹ニ捷徑アリ徑側ニ一洞アリ賊等壘ヲ此洞中ニ設ケ頻リニ我ヲ射擊シ又

  城山左角ノ中腹山稍〃低クシテ松樹數株アル處ヨリ發射ス是レ我カ防禦線

  ヨリ遠望シテ未タ賊壘アルヲ知ラサリシ所ナリ我兵應擊亦天明ケテ兵ヲ

  ム

 「第三旅團ト新撰旅團トノ約束ハ左ノ如シ

  ○第三旅團ハ一中隊ヲ以テ二之丸ニ向ヒ之ヲ畧奪シ或ハ焚燬シテ賊勢ヲ分

   割スヘシ

  ○新撰旅團ハ一中隊ヲ二分シ其一ヲ以テ二之丸ヲ押壓シ他ノ一半ヲシテ私

   學校ヲ襲ハシメ之ヲ奪フノ後ハ勉メテ虚勢ヲ張リ賊ヲシテ大ニ顧慮アラ

   シムヘシ(※表あり。第三旅團一中隊は弘中大尉一ニ曰ク竹田瀧本ノ兩隊ヨリ撰拔スト 司令官は川村少佐。下士以下合計百人)

 その他の旅団もそれぞれ各方面から攻撃予定である。

 07780779「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0778・0779

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉武田信賢㊞  

  我軍総員:二拾壱名  傷者:下士卒 一

  戦闘日時:九月廿日 戦闘地名:鹿児島第一大区一小区 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時陸軍中尉草塲彦輔一分隊ヲ率ヒ我カ防禦線ヲ

  雷發シ同第四時十分第一大区一小区島津家邸前ニ開戦敵兵ノ防禦頗ル堅

  固且ツ一分隊ノ寡兵進入スル能ハザルヲ以テ同第五時我カ防禦線ニカヘ

  ル   

  備考我軍:傷者一名ハ一等兵卒井下鶴次ニテ入院療養ス

 21日、城山方面から薩軍の使者が官軍にやってくるということがあった。その経緯がアジ歷に残っているが、原文を見え消しして多数の修正が加えられている。詳細は「西南征討誌」に載っていると思ったが、この原文の2割程度は削られている。次の「戰記稿」を引用した後に、修正前の原文を掲げたい。「戰記稿」も長いがこれ以上に詳しく記されている。まずは「戰記稿」を。

  二十一日賊ノ隊長河野主一郎山野田一輔我哨兵線ニ來リ情願スル所アラン

  ト請フ乃チ之ヲ警視ニ托シテ監護セシメ二十二日其言フ所ヲ聞クニ曰ク曩

  ニ大久保參議川路大警視ハ西郷大將ヲ刺殺センヿヲ謀リシニ因リ西郷大將

  之ヲ政府ニ尋問センカ爲メ桐野篠原兩少將ト共ニ途ニ上リシニ熊本ニ至ル

  ニ及テ圖ラス官兵ノ爲メニ遮ラレ已ムヲ得スシテ兵端ヲ開ケリ爾來轉戰シ

  テ今日ニ至ル然レノモ到底其何ニ因テ然ルヲ知ラス今某等城ヲ出テ來リ明瞭

  ニ其縁由ヲ聞クヿヲ得ントス二十三日早朝乃チ之ニ命シテ曰ク國ニ法律裁

  判アリ以テ疑事ノ實否曲直ヲ正ス可シ暗殺ノ事ニ於テ其實否ヲ正サント欲

  セハ一紙ノ告訴ヲ以テシテ可ナルヘキヲ妄リニ大衆ヲ動カシテ政府ニ迫

  ントス王師ノ下ヲ之ヲ征討スルハ固ヨリ其所ナリ今ニシテ其然ル所以ヲ聞

  カント欲スルモ先鋒將師ハ敢テ之ヲ議スルヲ得ス然レノモ情願スルアラント

  欲セハ先ツ降ヲ納レテ而シテ後ニ徐ニ哀請スルノ外ハ復タ他路アルナシ汝

  等宜ク歸テ此意ヲ諭スヘシ我カ命ニ服セハ本日午後五時ヲ期シ再ヒ來レ此

  限ヲ過キハ如何ナル情願ヲ陳ストモ我復タ汝輩ヲ容レスト因テ河野ヲ留メ

  山野田ヲ送リ還ス午後五時ヲ過クレトモ終ニ復タ至ラサリキ

 次が海軍の修正前の原文である。下に示す通り原文が見えるように修正を加えた史料だから読むことが可能である。長いので途中に説明・解釈を挟みたい。

 nC11080613900「明治十年 海軍征討誌案一」(防衛省防衛研究所蔵)0757~

  十九日両参軍諸将ヲ會シテ約束ヲ定メ圍テ守ルヲ一ト為シ攻テ破ルヲ二ト

  為シ各軍專ラ合圍ヲ嚴守シ而シテ各〃特ニ攻撃兵ヲ簡拔シテ一ニ攻撃ヲ任

  セシメ敢テ合圍兵ヲ顧ルヲ聴サス又合圍兵攻撃兵ニ應シ沮ム其部署ニ至テ

  ハ則砲隊ヲ編シ以テ攻撃兵ヲ助ケシム砲隊先ツ浄光明寺山上ヨリ城山ノ東

  北面ニ突出ノ賊壘ヲ砲擊シテ中ルヤ第一第二及ヒ別働第二ノ旅團其期ニ乗

  シ齊シク攻擊兵ヲ縦チ進テ東北面ノ高処ヲ占メ以テ攻入ノ地ヲ為サシメ熊

  本鎮臺及ヒ別働第一旅團各兵攻擊兵ヲ行☐隆盛院迫ヨリ城山中央ノ背ヲ指

  シ第四旅團ノ攻擊兵モ亦城ヶ谷ヨリ攀躋シ岩﨑谷ノ壘ヲ斫テ中央ノ背ニ向

  ヒ第三旅團及ヒ新撰旅團ノ攻擊兵ハ城山前面ヲ乱射シ賊ノ力ヲ東北面及

  中央ニ專ラニスルヲ得サラシメ亦機ニ投シテ深入セシメントス而シテ旗艦

  及ヒ龍驤淸輝孟春ノ諸艦会場ニ雄視シ又其士官水平ノ出テ陸上ノ砲ヲ守ル

  者ヲシテ機ニ應シ賊壘ヲ砲擊セシム約束已ニ明カニ部署已ニ成ル賊岩﨑谷

  ニ據リ哨ヲ張リ坑ヲ鑿チ只避弾ノ地ヲ為スト云フ高雄丸機械ノ修理成ルヤ

  細島ヨリ佐賀ノ関ニ赴キ浅間艦ノ士官水平ヲ搭載シテ是日錨ヲ起シ廿日鹿

  児島ニ入ル廿一日旗艦又二ノ丸正面ニ向テ焼弾ヲ発ス弾遂ニ至大ノ家屋ニ

  中リ家屋忽チ烏有ニ帰ス適〃風微ニシテ他ニ延焼セスト雖ノモ其中間ヲ焼断

  ス賊乃チ潜伏ノ便ヲ失フ廿二日城山ヨリ白旗ヲ揮テ至ル者アリ別働第一旅

  團ノ哨兵之ヲ誰何ス曰ク河野主一郎山野田一輔ナリ當ニ陳情スヘキヿアリ

 上図は「甲突川右岸・・」でも使用した高橋蔵の地図である。別働第一旅団は県庁の向かい側、右翼新撰旅團、左翼第三旅団に挟まれる位置にいた。 

  ト哨兵乃チ納テ警視兵ニ付ス警部二人ヲ召テ其情ヲ問フ渠レ実ヲ供セス既

  ニシテ憩所ニ退カシム適〃坂元少尉其傍ヲ過リ渠レ坂元ヲ呼ヒ而シテ謂テ

  曰ク我等情願アリ未タ之レヲ陳フルノ路ヲ得ス知ラス川村参軍ニ見ルヲ得

  ヘキヤ坂元對テ曰ク余敢テ諾スル能ハスト雖ノモ其言ヲ轉致スルカ如キハ則

  之レヲ為サント(※河野等が顔見知りだっただろう坂元に声を掛けなければ、後で川村に

    面会できたか分からない)乃チ去テ参軍ニ見ヘ命ヲ請フ参軍曰ク我レ之レヲ熟

  慮セント翌廿三日午前八時川村参軍田ノ浦ノ本営ヲ出テ磯ノ造舩所ニ至リ

  機械蔵畜塲ノ楼上ニ於テ二人ヲ召ス既ニシテ警視兵四人之レヲ看送シ来ル

  参軍乃チ主一郎ト一輔ノ腰縄ヲ鮮カシメ且之レニ椅子ヲ與フ参軍相對シテ

  距シ共ニ一卓子ニ凭ル坂元少尉其側ニ侍ヘ☐而シテ警視兵ハ遠ク座ヲ隔テ

  ヽ居ラシム楼中粛然タリ(赤字部分は「西南征討志」では省かれている)参軍従容

  トシテ問テ曰汝等何ノ為メニ来ルヤ請フ其情ヲ語レ二人口ヲ交ヘテ曰ク

  謹テ諾スト而シテ主一郎先ツ進テ曰ク顧フニ四五日前逸見十郎太書ヲ致シ

  テ余ヲ招ク即チ往テ面ス十郎太言フ僕身ニ銃創ヲ被リ為メニ歩行スルヲ得

  ス竊ニ盡サント欲スル者アルモ亦遂ニ盡スヲ得ス夫レ我軍今日ノ運命☐

  ハ残喘ヲ保チ坐シテ死ヲ竢ツ者ノ如シ我輩ノ死ハ固ヨリ顧ミルニ足ラスト

  雖ノモ夫ノ西郷先生ニ至テハ則實ニ國家ノ柱石ナリ今此柱石ヲシテ徒斃セ

  シムルハ獨リ我輩ノ遺憾ニ勝ヘサル而已ナラス抑國家ノ為メニ大ニ惜ム可

  シ知ラス子如何ト為スト余對ヘテ云フ信ニ然リ僕亦敢テ思ハサルニ非ラサ

  ルナリ嘗テ川村参軍ノ軍門ニ至リ親シク暗殺ト征討ノ二理由ヲ質シ若シ我

  レニ非アラハ則皆速ニ降伏シ罪ヲ請フテ以テ先生ノ死ヲ赦サレンヿヲ願ハ

  ント欲スト雖ノモ未タ☐言ノ機ヲ得ス故ヲ以テ黙シテ今日ニ至レリ今☐子ノ

  言アリ僕請フ必ス機會ニ乗シ其言ヲ行ハント相約シテ退キタリキ然リ而シ

  テ翌十九日ノ夜ニ至リ官兵厪ニ私学校ヲ襲フ我軍狼狽錯愕シ兵気大ニ沮喪

  セリ乃チ復タ戦フノ勢力ナキヲ覺リ心竊ニ謂ラク機已ニ至レリト乃チ村田

  新八池上四郎ニ就キ之レヲ言フ皆他議ヲ容レス因テ諸隊長ヲ會シ之レヲ議

  ス亦以テ然リト為ス遂ニ桐野利秋別府晋介ニ謀リ廿一日西郷先生ニ謁シ謂

  テ曰ク今日ノ舉我ニ於テ固ヨリ至理至當ニ出ルニ論ヲ須タスト雖ノモ只獨リ

  自カラ信シ敗レテ而シテ斃ルレハ則其至理至當ノ☐趣モ亦滅シテ人ニ明

  カナラス終ニ賊ト為テ死スル而已是レ終天ノ寃ヲ呑ムト謂ハサル可カラス

  因テ余将ニ自カラ川村参軍ノ営ニ至リ彼我ノ事情ヲ問ヒ且答ヘ遂ニ彼我ノ

  曲直ヲシテ判然帰スル所アラシメントスト先生余カ言ヲ聞テ曰ク初メ事

  起スノ日ニ當リ自カラ謂ラク我命ハ已ニ汝等ニ授クト今ニ及テ復タ何ヲカ

  言ハン汝之ヲ為サント欲セハ則之レヲ為セト是ニ於テ余ノ心始メテ决ス翌

  廿二日将ニ城山ヲ出テントスルニ當リ途次逸見ヲ訪ヒ行ヲ告ケ更ニ山野田

  ト共ニ出テ今参軍閣下ニ見ルヲ得ル是レ其来ル所以ニシテ余輩ノ喜亦知ル

  可キナリト而シテ端ヲ更メ二人問テ曰ク曩ニ大久保内務卿川路大警視陰

  ニ中原尚雄等ニ吩咐シ西郷大将ヲ刺サシメント謀リシヿノ発覚シタルニ因

  リ大将カラ☐ニ伏シ其罪ヲ問ハント欲シ出テ肥後ニ至ルヤ鎮臺兵ヲ発シ

  テ之レヲ遮ル是於テカ戦フ大将豈好テ乱ヲ起ス者ナラヤ不得已ハナリ然

  リ而シテ政府其首謀者ヲ問ハス及テ被謀者ヲ征討ス百戦今日ニ至ルモ終ニ

  其然ル所以ノ理ヲ知ル能ハス蓋シ之レ有ラン願クハ聞クヲ得ヘキヤ参軍對

  テ曰ク其理由右ノ如キハ則已ニ明明乎トシテ世ニ明カナリ然レノモ尚之レヲ

  聞カント欲セハ只我レ其無キヲ保スル而已ナラス頃者大山前縣令ニ就キ正

  常ノ手ヲ経テ公平ノ審ヲ受ケ中原尚雄等ノ口供ハ全ク証拠ニ出テシヲ供出

  セリ汝等今遽ニ之レヲ聞クモ蓋シ中心自カラ解ク能ハサラン且ラクニ其

  口供ヲ假リ以テ信ニ實ニ出タル者ト為スモ暗殺ハ正道ニ非ラサルナリ設令

  内務卿タリ大警視タリト雖ノモ之レヲ告訴スルノ門アリ之レヲ糾問スルノ道

  アリ豈私カニ官吏ヲ曲庇シ反テ天下ノ正道ヲ枉ルヲ得ンヤ况ヤ西郷其罪ナ

  キニ於テヲヤ然リ而シテ其門ニ由ラス其道ヲ行カス而シテ只中原等片言ノ

  口供ヲ妄信シ大兵ヲ提ケ将ニ以テ自カラ其罪ヲ問ハントス豈臣子タル者ノ

  冝シク為シ得ヘキノ道理アランヤ况ヤ其口供モ亦羅織誣陷ニ出ルヲヤ且西

  郷ハ陸軍大将ナリト曰フト雖ノモ身退テ散職タリ則兵馬ヲ指揮スルノ權ナシ

  然リ而シテ檀ニ兵卒ヲ募リ猥ニ兵器ヲ弄ス是レ国憲ヲ犯スニ非ラスシテ何

  ソヤ西郷モ亦嘗テ大政ニ参ス豈此ノ☐賭ノ理ヲ知ラサルノ人ナラン天皇

  ノ慈仁ナル其レヲシテ国憲ヲ犯スノ大罪ニ陷ラサラシメント欲シ其未タ発

  セサルニ先ンシ特ニ臣純義ニ命シ鹿児島ニ赴カシム純義義聖諭ヲ承ケ泣血

  シテ退キ急ニ高雄丸ニ搭シテ至ル豈料ランヤ少壮ノ輩銃ヲ提ケ刀ヲ揮ヒ髙

  雄ヲ奪ハントス尚我レ百方言ヲ盡シ西郷ニ面セント欲スルモ終ニ上陸スル

  ヲ得ス乃チ命ヲ申フルニ路ナク空ク聖諭ヲ懐テ去レリ嗚呼千載ノ至憾ト謂

  ハサルヲ得ス其叛迹ノ敵ヲ可カラサル者業ニ已ニ此ノ如シ是レ征討ノ令已

  ムヲ得サルニ発シ其條理ノ審ラ☐ムル所以ノ者亦誣ス可カラサルナリ猶理

  ヲ推シ迹ヲ挙ケ懇ニ問ヒ切ニ諭ス二人稍〃其言ニ感シ其理ニ服スルノ色ア

  リ曰ク我等ノ死ハ自カラ甘シ固ヨリ惜ムニ足ラスト雖ノモ西郷先生ニ至テハ

  大ニ然ラサル者アリ蓋シ之レヲ拯フノ道ナキヤ参軍曰ク西郷自ラ之レヲ道

  ヒシヤ曰ク然ラス曩ニ先生ニ謁スル時此事ハ特ニ先生ノ一身ニ関スルヲ以

  テ敢テ之レヲ明言セサリキ(これも省かれている)参軍掻首良久クシテ謂テ曰

  ク汝等心中悔悟スル所アラハ一輔冝シク城山ニ還リ之レヲ西郷等ニ面聲ス

  ヘシ而シテ後復タ我ニ回答ス可キノ言アラハ速ニ以テ回答スヘシ然レノモ

  期已ニ熟セリ决シテ本日午後五時ヲ踰ユヘカラス其去ルニ臨テ曰ク☐カ為

  メニ西郷ニ一言セヨ息菊次郎永井村日向ニ於テ官軍ニ降伏ス適〃身創痍ヲ

  被リ僕熊次郎従フ今ヤ医療☐タラス請フ以念ト為ス勿レト(これも記載せず)

  而シテ主一郎ハ此ニ駐ラシメ楼ヲ去リ山縣参軍ノ営ニ過キ其事情ヲ語テ少

  シクシテ還レリ於是山縣参軍坂本陸軍少佐ヲシテ西郷ニ與フル書ヲ齎ラシ

  一輔ニ属付シ之レヲ轉致セシム是レ曩ニ西郷ニ與フルノ書ニ係リ當時其達

  セサリシヲ慮カリ今復タ再ヒ與フルト云フ午後一時坂元少尉一輔ヲ拉テ城

  山ニ還ラシメ而シテ後チ帰レリ午後五時ニ対☐☐モ終ニ回答至ル無ナカリキ

 山野田一輔は再び薩軍側に戻り戦死したが、河野主一郎は生き残っており、彼が獄中で書いた上申書は上掲のものに比べると簡単であるとだけ付記しておきたい。

 河野主一郎が使節として官軍の方に向かった経路に関して「西南記伝」に記述がある。

  二十二日、河野主一郎、山野田一輔は、薩軍使節として、鶴嶺神社の堡

  壘を出で、山野田、自ら白旗を持し、別働第一旅團高島少將の守線に至り・

である。鶴峰神社は現在城山周辺には存在しない。前記の記述に続き少し後に次の記述がある。

  二十二日の午後一時頃、余は山野田受持の臺塲であった大手口の鶴嶺神

  社に往て、平日は閉鎖しつつあつた小門より、舊枡形の跡に築いた敵の

  臺塲に至らうとしたが、敵彈の狙撃餘り劇しかつた爲め、一旦引返した。

  鶴嶺神社の守兵は、牡丹餅を製しつヽあつて、『最早、牡丹餅が出來上

  つた、之を☐て往つたらよからう』と云ふに依て、余は山野田と共に、

  牡丹餅の饗應を受け、白旗を製し、之を持して敵陣に往つた處が、官軍

  は其發射を中止し、皆壘上に立て、之を觀望して居つた。

 二度目には白旗を掲げていたので官軍は河野らが使者であると分かったのである。これにより鶴嶺神社の位置が大手口にあり、山野田の受持ち台場があったことが分かる。ネット「源平史蹟の手引き」というのに鶴嶺(つるがね)神社の記載があった。それによると鹿児島市照国町にあったが大正6年に磯庭園の北西に移設されたという。落城直前の城山一帯の薩軍の部署は「薩南血涙史」に載っている。岩崎口本道・私学校より角矢倉・二の丸内(※島津邸)・大手口より本田屋敷掛・上の平広谷より三間松まで・新照院越より夏陰下まで・夏陰口・後の廻方面・後の廻より城ケ谷口まで・城山・狙撃隊・その他である。山野田一輔は二の丸の隊長で総員33人だった。

 上記の内、上の平は二之丸の南西側で、城山の麓である。

 地図上で考えると河野等は城山の東麓沿いに移動し、大手口付近から別働第一旅団哨兵線に近づいたようである。本丸の御楼門石垣には多数の射撃痕が見られるように、これに対する向かい側には多数の官軍がいるので誤って銃撃を受ける可能性があり、比較的安全な方面から出て行ったのであろう。

 9月24日、午前4時3発の大砲発射を合図に官軍は城山・岩崎谷・私学校・本丸・二之丸などを守る薩軍に最後の攻撃を開始した。各旅団は概ね2個中隊を出している。第三旅団は竹田隊の一個中隊と瀧本隊の一小隊が攻撃隊だった。

 C09084821800「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0780・0781

  第三旅團東京鎭臺歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊中隊長陸軍大尉竹田

  實行㊞   我軍総員:百二十二名  傷者:下士卒 一名

  戦闘日時:九月廿四日  戦闘地名:鹿児島城山 

  戦闘ノ次第概畧:午前三時三十分防禦線ヲ出テ兵ヲ二分シ其一ハ右一

  ハ左ヨリシテ共ニ旧二ノ丸ニ進ミ板塀及ヒ竹柵ニ取付シノキ彼ノ展望兵

  ニ発覺サレシヲ以テ直ニ吶喊シ或ハ梯子ヲ以テ砕破シテ踏入リ堡塁ニ

  踏込ミ守兵ヲ追散シ家屋ニ放火シ旧二ノ丸ヲ全ク占領シ火勢熾ナルヲ

  以テ之ヲ前ニ引受仮防禦線ヲ設ケシニ降伏人續々來ルヲ以テ之カ取扱

  ヲナス午前八時集合ノ号音アルヲ以テ全隊ヲ集合シ直ニ防禦線ニ引

  タリ   

  我軍ニ穫ル者:降人 未詳 凡ソ六十人  我軍ニ穫ル者:銃 ス

  イル壱挺 弾薬 スナイトル千発 器械 刀脇差共拾六本 糧 米

  百七十俵

  備考我軍:死者一名ハ一等兵卒浅井専之助ナリ死体ヲ小繃帯所ニ送ル

 薩軍は板塀・竹柵を石垣上に築いていた。官軍竹田隊は梯子を掛けて登り、二之丸を占領している。その後降伏する薩軍がおよそ60人だったというのは、二之丸の薩軍守兵は33人だったから他からも集まったのである。分捕った小銃弾はスナイドル千発とあり、エンフィールド銃弾は見られない。 

 C09084821900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0782~0784

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長大尉瀧本美輝㊞  

  我軍総員:四十四人   死者:下士卒壱名 傷者:貳名 

  戦闘日時:九月廿四日 戦闘地名:鹿児嶋城二ノ丸

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分発シ南泉院馬塲通リ縣廳門前通リノ角

  ニ進ミ爰ニテ隊ヲ二分シ其一部ハ西平山際ヨリ旧二ノ丸ヘ進入賊竹柵且板

  塀ヲ造リ間ニ塁ヲ設テ堅固ニ防禦ス之ヲ急擊猛烈ニ突破シ髙キ石垣ニハ階

  子ヲ掛ケ攀リ家屋ニ至リ直ニ石炭ニ油ヲ以テ放火☐迯逃☐テ進撃尚放火ス

  然ルニ照国神社内賊塁ヨリ烈敷放銃スルヲ以テ亦戻リ之ヲ追掛ク余一部ハ

  縣廳門前通☐☐南泉院馬塲西南屋敷内ヨリ進ミ城山旧追手☐所ノ髙処ヨリ

  賊発銃至テ烈ク之ニ向テ激射セシム縣廳門前通リニモ押ヘノ兵ヲ残シ占

  ス夜明ルニ及ヒ賊発銃全ク止ム而乄后此近傍処々捜索スル処賊潜居ヲ見ル

  皆降伏ス之ヲ衆メ降伏警備隊ヘ渡ス第八時頃川村少佐ヨリ縣廳門前通リ

  集合ノ命アリ第九時過哨線ニ引揚ル

  備考我軍:死者壱名ハ喇叭二等卒相良興吉傷者貳名ハ伍長岡田亀藏壱等卒

  吉田熊藏   傷者貳名共軽傷ニ付入院セズ

 地名の具体的な位置が分からないので両隊の進路を理解できない。

 9月27日、各旅団に解団と凱旋が命ぜられている。第三旅団が何時鹿児島を出発したのか「戰記稿」には記載がない。

 

三浦梧楼の古戦場回顧

 第三旅団司令長官だった三浦はその後中将になり、明治12年熊本県北部の山鹿町を訪れて漢詩を詠んでいるので紹介したい。(解読にあたり大分県立先哲史料館の三重野誠館長・小野順三さん・久保修平さんにお世話になりました。お礼申し上げます。)

   木落山頭秋色明   木は落ち、山の辺りの秋色は明らかである

   人稀白草不堪情   人も稀で枯草の樣子は耐え難く

   晩風殺々鍋田驛   夕方の風が寂しく鍋田の町に吹いている

   猶聴前軍陷敵聲   前方で敵を攻め落とす閧の声がまだ聞こえる

    己卯秋日到熊本途過鍋田村古戦場有憾 梧樓

 己卯の年は1889(明治12)年である。三浦は熊本市に至る途中で山鹿市鍋田村に立ち寄ったのである。山鹿市は第三旅団が編成後に初めに進軍した戦地であり、三浦には感慨深い地域だったのだろう。なお、三浦には同じ詩を書いた別の軸もあり、それは秋色を烽色としている。

 三浦は明治12年10月15日に西部検閲監軍部長として西日本出張に出発している。この旅程は丸亀・松山・山口・広島・小倉・福岡を経て熊本に11月28日に着し、12月9日に出発して長崎を経て東京に帰り着くという二ケ月強の出張旅行計画だった。実際には11月29日に熊本に到着し、12月10日に熊本を出て11日に長崎に着いている(C04028657300・C04028657700「大日記 明治十二年十二月 省内外諸各局参謀監軍兩本部及教師 水 陸軍省總務局」(防衛省防衛研究所蔵)。下記の資料が示すように、熊本に十日余り滞在した際に山鹿町鍋田に立ち寄り旧戦場を訪ねたのである。

 C04028604300「大日記 諸局参謀監軍 水 陸軍省総務局」(0329~0331防衛省防衛研究所蔵)

  肆第四千三百七十六百 第一水監百十四号 西検發第四十一号

  今般西部検閲被仰付候ニ付来ル十五日東京出發巡回日割大凡別帋之通

  有之候尤沖縄県之義者本年兵科並ニ会計軍醫部ノ将校各壱名派遣

  検査為致候条此段為御通知旁申進候也

     十二年十月十日

             西部検閲監軍部長

              陸軍中将三浦梧楼

  監百十四号

     陸軍西郷従道殿

 読み下すと次のようになる。

今般西部検閲仰せ付けられ候につき、来たる十五日東京出發巡回日割おおよそ別紙の通りにこれありそうろう。もっとも沖縄県の義は本年は歩兵科ならびに会計軍醫部の将校各壱名派遣検査致させそうろう条、此の段念のため御通知かたがた申しまいらせ候なり

 安満隊を表題に掲げておきながら三浦の話で終わるのもどうかなと思うので記すと、安満伸愛大尉はその後も陸軍畑を進み、少佐の時に明治28年5月3日、広島陸軍予備病院で拳銃自殺している。 

  C06060305400「明治二十八年 廿七八年戰役報告 甲 陸軍省」0757・0758(防衛研究所蔵)

  餘備病院入院ノ歩兵少佐安満伸愛三日午前五時室内ノ寝具ノ上ニテ拳銃ニ

  テ自殺シ咽喉ヨリ頭蓋ヲ貫キ即死ス不取敢報告ス

  自殺の理由は不明だが、病気入院中だったのだろう。弘中忠見大尉は明治17年5月に大尉で死亡している(C07070017400「明治十九年三月肆大日記 陸軍省防衛研究所蔵)。岡 煥之大尉は次の段階に進むべく戸山学校に入校中病気になり、明治12年7月22日病院で死去している。

    関係者を数人しか採り上げなかったが、戦後の彼らはそれぞれ軍人人生を送ったのである。彼らの西南戦争経験は西南戦争を経験しなかった後輩たちに受け継がれた筈である。三浦以外は早世しており、医療がそれほど発達していなかったのが惜しまれる。

 

おわりに

 今回、第三旅団の戦歴を地図に照らして追いかけてみたのだが、多数の戦跡が未発見のままだということが分かった。太陽光発電風力発電の設置が盛んだが、今後はもっと増加するだろう。設置に先立ち大規模に土地が削られるので、憂慮している。西南戦争戦跡に関心を抱かない教育委員会も見受けられるからである。

 興味深い戦跡がいくつもあったが、とりわけ興味深かったのは長尾山左翼の戦いである。各隊が戦闘直後に作成した戦闘報告表を見ているうちに、薩軍による8月18日の可愛岳突破の翌19日、第三旅団が守る長尾山左翼で薩軍の攻撃があったことが判明した。19日の戦いは相良の上申書や彼の戦記には記されていたが、戦場の場所は不明だった。さらに薩軍側の立場で書かれた本でも記述自体を疑わしいとみなされる場合もあったが、相良の記述が第三旅団の戦闘報告表の記述と日時・内容が一致し、相良達が19日に攻撃したのが第三旅団防禦線だった長尾山左翼であると判明した。彼の証言の正しさを裏付けることになったのである。 

 今回の作業は一例に過ぎない。戦跡に対する文献や現地踏査に基づく調査が本格的に行われることを期待して終わりとしたい。(2022.6.4)