西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

臼杵市徳尾(とくの)山の台場跡

 5月5日、午後、臼杵市井村山の北東側の稲田周辺の山で戦跡踏査を行った。ずーと歩いてゆくと、最後の高まりに塹壕跡があった。これは長い塹壕跡で50ⅿくらいは土塁が続き、背後内側の南側は一段下げられており、畑に再利用されたことがあったらしい。東側の延長線上にも一段下がった面が続いているが、土塁は明確ではない。これを入れると80ⅿ以上はありそうだった。

 下図の矢印は塹壕が向いている方向である。徳尾山の東には大分市方面に続く熊崎川流域の谷水田地帯があり、ここを通る官軍を阻止しようと薩軍が築造したらしい。今日は気温が25度あり、汗をかいてしまった。

 北東側のコンビニ駐車場から見た徳尾山。一番左側のなだらかに見える所にこちら向きに塹壕跡が残る。手前の道路は臼坂バイパスであり、写真の10ⅿ外側にある左の交差点(地図で言えば赤と黄色の道路が交差する所)で右折し、徳尾山の西麓を通過する。

 井村山も徳尾山も北側を向いて塹壕が築造されており、薩軍大分市境の白山・再進峠方向から来るであろう官軍に備えて造ったものである。井村山と徳尾山に塹壕が二つもあったので思い出すが、この後、十日から二週間くらいして三重町に薩軍は移動するのだが、そこ、旗返峠では長さ500ⅿと170ⅿの塹壕を残している。同じ人たちが築いたのだろうか。塹壕を重視していたのだろう。徳尾山で戦闘があったのかなかったのか、はっきりしない。図化はしていないので写真を掲げる。

 土塁が手前から左に続き、曲がって右に続くのが見える。右側は一段低い。手前の土塁は側面を警戒して短く南側に折れる。右側地面から土塁上面までは80㎝くらいある。

 鉄棒の向こう側、左後ろに土塁の始まりが見える。土塁部は右側で曲がり、鉄棒の付近から一直線に東に続いている。

 中央やや左側が山の頂上で、そこから右に向かって徐々に下がる。手前の土塁部分、黄色い土が見えるところが明確な土塁の終る所である。

 帰りに往路と違う所を通ろうとしたら長い竹林になってしまい、途中に時期不明の大きな土塁状のものがあった。竹林を通り抜け山の縁に来たので斜面を降りて行ったら、すぐ下に小川が見えた。しかし3ⅿ位の高さの凝灰岩の崖が続き降りられなかった。一度下る小道を見つけて谷に降りたが休耕地の湿地が広がっていた。次第にぬかるんで長靴がはまるので、別の登り道を探して再び竹林に登った。結局、山を横断することになり、民家の裏庭に出て、そこから車までとことこ歩くことになった。💭 💛3 ⤵⤴