西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」2月から4月 少しずつ加筆します。

 本文がペンで書かれた「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」を紹介したい。熊本の古本屋から購入したものである。序に記すと、この日誌は以前東京で売られていたと鈴木徳臣さんから聞いたことがある。

 巻頭の附言によれば、本日記の筆者は熊本鎮台第十三聯隊第三大隊長の小川又次少佐である。巻頭で「陣中日誌稿」と称すけれども表紙の表記は「明治十年 戰争日記」と異なり、明治十年十一月に作成を終えたものである。素人目で検討すると、表紙の「戰」の字は本文中の同字と似ている。例えば2月27日に書かれた「戰」は左部下の十部分が上にある日の中央よりも右側に偏っている点は表紙字と同じである。また、その「田」であるべき部分がどちらも「日」になっている。表紙の「年」は横画が4本で、本文中の附言の字も同じである。他の字もあえて形が異なると強調すべき特徴はない。したがって、表紙も小川又次が書いたと考えられる。そこで以下では「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」と呼ぶことにする。

 この陣中日誌稿とよく似たものがすでに活字化されている。原口長之・永田日出男・中村哲也校訂「西南戦争隈岡大尉陣中日誌」熊本史談会1980の中の「四冊ノ合冊 十三年三月十一日 陣中日誌稿」である。それによれば原本は福岡市逸木定親氏所蔵品で、「正本丁丑擾乱熊本城兵陣中日誌隈岡長道自記自筆」と題されている。その本文は「陣中日誌稿」・「戦闘日誌」・「正本熊本城日誌」からなる。

 その「陣中日誌稿」は4冊の稿本を補筆訂正して合冊したものといい、2月上旬から10月6日までの記録である。本文の上部に注記があり、本文中にも所々に横にフリガナ状に書き足しがある。「戦闘日誌」は2月8日から4月7日までを記した「籠城日載闘形況書」と4月8日から10月6日までを記した「突囲後戦闘景況書」に分かれる。後者は「戦闘日載籠城之部」が表紙を入れて三枚あり、2月上旬から2月20日までの記録である。「陣中日誌稿」の表紙に「四冊ノ合冊」とあるものの三冊しか合冊されていないという。

 校訂者達は「陣中日誌稿」は隈岡が執筆したというが実際は小川又次が執筆したものだと考えるので、以下では毎月の記述の後に隈岡本の陣中日誌稿との相違点を検討し、別に補足も行いたい。

 

明治十年 戰争日記

         附言

一此日記ハ大隊ノ記録ニ基キ各官ノ手記臆等ヨリ採録スレハ事実ニ齟齬ナキト雖モ事務夛忙ノ際或ハ誤認脱漏ナキ能サルヲ以テ陣中日誌稿ト顕ス

一我軍或ハ我軍ノ負傷云々ト記スルハ戰争方面ノ諸隊又ハ總軍ヲ指稱スルモノトス

一本隊或ハ即死何某負傷何某又ハ即死何名負傷何名ト記シ他隊ノ名号ヲ記サヽルハ悉皆第三大隊ノモノトス

一中隊号ノ上ニ聯隊或ハ大隊号ヲ記サヽルハ第三大隊中ノ中隊又ハ小隊トス

一第一或ハ第二大隊ト記シ上ニ聯隊号ヲ記サヽルハ十三聯隊中ノモノトス

一聯隊号ノ上ニ鎭台号ヲ記サヽルハ十三聯隊トス

   明治十年十一月       陸軍少佐小川又次

抑モ薩賊発スルノ説アルヤ二月上旬ヨリ本台ヘ日々兵糧ヲ運輸シ何トナク市中ノ人氣穏カナラス或ハ家財等ヲ近郷ヱ移シ災ヲ避ントスル者アリ而シテ同月十二三日ノ両日練兵塲ニ於テ招魂祭典ヲ施行セラレ日中ハ競馬或ハ角力夜中揚火等ニテスコブル賑フ爲メニ人氣少シク穏カナリ二月十四日鹿兒島縣動揺ノ事ニ付諸將校詰切下士以下日曜日ト雖モ外出ヲ止メラル同十五日ヨリ夜間鎭台近傍諸民ノ往来ヲ止メ警備ヲナス同十六日前日ニ同シ同十七日縣廳ヨリ出火ス然レ共直ニ消方シタル

 熊本鎮台の当初の構成を示すと、本営・歩兵第十三聯隊・同十四聯隊・砲兵第六大隊・予備砲兵第三大隊・工兵第六小隊などからなり、聯隊は第一から第三の大隊に分かれ小川又次は第三大隊長だった。各大隊はさらに四つの中隊に分かれ、隈岡長道大尉は小川の大隊とは異なり第一大隊第三中隊長だった。冒頭三番目に掲げられた「本隊或ハ即死何某負傷何某又ハ即死何名負傷何名ト記シ他隊ノ名号ヲ記サヽルハ悉皆第三大隊ノモノトス」からみて、第三大隊長小川が自分の部隊の記録として作成したことは明らかである。日付の後に陸軍少佐小川又次とあるのも同様であるが、隈岡本では名前の部分は省かれている。

二月十八日雪天午後二時非常号炮三発相圖ニテ速ニ整列各持塲エ配布ス右半大隊ハ藤嵜ヨリ片山邸邊傍左半大隊ハ漆畑ヨリ野炮兵営建築處本部ハ本台軍旅守衛處跡エ移シ諸品ハ本臺ノ倉庫エ運輸ス此日城内ノ周圍ニ仮ニ柵門ヲ造ル又縣廳ヨリ人民一同立退ク可クノ命ヲ下スヤ人民錯乱シ家財ヲ近郷山谷ニ運ヒ或ハ穴ヲ穿テ之ヲ埋メ幼ヲ携エ老ヲ扶ケ雜沓市人東西ニ走ル実ニ目モ當ラレス景况ナリ

二月十九日曇天午前第十一時比天守櫓出火非常号砲諸隊消方ニ盡力スト雖モ折節烈風ニテ遂ニ有名ノ城櫓モ一時ノ火焰トナレリ延テ城下坪井辺數百戸数ヲ焼ス午後四時頃火勢漸ク衰フ其時本部ヲ第二大隊本部ニ合ス午後五時頃小倉十四聯隊第一大隊ノ左半大隊着ス同八時頃洗馬橋焼失諸所ヨリ出火ス此日一同エ慰労トシテ酒肴ヲ賜ル亦タ薩賊ノ先鋒川尻甼ニ着スルト云フ

二月二十日晴天軍曹岡本鋭威ニ兵卒若干名ヲ附シ川尻地方ノ探偵ヲ命スルヤ賊已ニ同處ニ乱入警備スルヲ閉キ兵卒途中白川ノ堰堤ニ残シ衣服ヲ變ジ車夫トナリ單身川尻ニ到リ賊情ヲ聞見シ帰報セシハ能ク命令ヲ守リ果决膽勇ト云フ可シ午後七時頃新甼洗馬段山今京甼花畑山﨑各所焼失四方ノ火焰天ニ漲ル此夜第一大隊ノ第三中隊及第一中隊川尻驛エ侵襲ヲナスト雖モ火光恰モ白昼ノ如クニシテ遂ニ策就ラス退陣ス此時第一中隊伍長小枩義正同片山岩太第一大隊第三中隊兵卒若干生死未明此日綿貫少警部引卒スル所ノ警視隊入城ス

二月二十一日曇天各所ノ火勢尚熾ナリ午後一時頃各哨兵ヨリ銃発ス同時線内宮ノ二ヶ所焼失

二月二十二日晴天四方ノ火勢尚止ス午前七時三十分頃賊徒花岡山ヨリ段山藤嵜片山邸ニ向ヒ破竹ノ勢ニテ我ニ迫ル我軍之レヲ防禦交モ発射ス彈丸雨注此時賊数百名ヲ斃ス而シテ即死ハ中尉五嶋顕忠外十五名負傷大尉寺内清祐外四十名アリ午後六時ニ至リ戰ヒ少シク弛ム此日藤﨑片山邸最モ激戰

二月廿三日晴天午前三時頃ヨリ對戰盛ニシテ賊大砲三門ヲ発射ス午後三時頃小萩山ニ大火ヲ見ル同三時藤嵜八幡社焼失同夜互ニ狙撃ヲ行フ而シテ即死伍長村津幸二郎外一名

二月廿四日曇天午前今京甼焼失其際進撃僅ニシテ引揚ケ

二月廿五日晴天午前本丁学校焼失其時同處進撃午後引揚ケタリ

二月廿六日晴天午後本妙寺山ノ麓賊兵糧ヲ馬ニテ運送ス同十時頃本台ニテ花火ヲ発ス

二月廿七日曇天午前四時線内ニ於テ運動喇叭ヲ吹奏ス同五時頃止ム午後一時第三大隊ヨリ撰拔兵一中隊余外ニ東京巡査兵附属坪井廣丁ヨリ進撃頗ル激戰同六時引揚ケ此時即死兵卒穴井善一外一名負傷兵卒木許長十郎外十二人アリ就中第一中隊兵卒竹内杢太郎勇進撃賊塁ヲ枕ニシテ斃ル

二月廿八日晴天片山邸近傍對戰ノミ午後植木出火之模様ヲ見ル第三中隊兵卒才藤弥七去ル廿二日逆撃ノ際面部及腰部ニ重傷ヲ受ルト雖モ心膽強勇少シモ不屈壱週日間不飲不食賊塁ノ下ニ死斃ノ真似ヲ爲シ本日黄昏帰来賊情ヲ報シ可憫後チ終ニ死ス

 2月17日部分では「招魂祭典・・」の横に隈岡は「九年十月廿三日当県士族暴動ノ際戦死ノ者」、「水曜日」の横に「下士官以下外出日」、本文末尾に以下を書き足している。「又掃除等ハ前日ニ同ジ。此日各兵ニ銃剣ヲ研グ事ヲ許ス。故ニ兵気頗ル振フ。是ハ少佐奥保鞏ノ発論。」である。奥は隈岡の属する第一大隊の大隊長である。

 18日部分では「本台軍守衛處」を「本台軍守衛處」に変更している。これを見ると、小川が何らかの資料を書き写す際に間違えたのを亀岡が気付いて訂正したのだろう。

 20日、「熊本鎭台戰鬪日記」では川尻駅侵襲は21日午前1時であり、小川は江戸時代と同じく夜明けを一日の開始として記述している。小川が「乱入警備スルヲ閉キ」を亀岡は「乱入警備スルヲ」に訂正している。「今京甼」を裏京町とするが、24日も同じように変えている。「片山岩太」の次を隈岡本では16字抹消しているとあるが、小川で「第一大隊第三中隊兵卒若干生死未明」とある部分を消したのであろう。字数も一致する。自分の中隊の記録を消したのである。

 22日、「午前七時三十分頃賊徒」の次に以下を書き足す。「明八橋・新町通ヨリ正面法華坂・古城」。「西南戦争隈岡大尉陣中日誌」の中の「正本熊本城日誌」2月18日部分に「第三中隊ハ隈岡大尉之ヲ率ヒ、古城及ビ鞍掛坂・法花坂左翼ヲ守ル。」とあるように隈岡は自分の守備範囲の情報を加えたのである。さらに末尾の「此日藤﨑片山邸最モ激戰」を「此日法花坂及ビ古城、藤崎片山邸最激戦」というふうに前と同様に第三中隊の状況を加えている。

 23日「大砲三門ヲ発射ス」の次に「四方ノ砲声雷ノ如シ。同七時過ギ、我軍山野砲ヲ頻リニ発射ス。」を加え、末尾に「負傷軍曹品川梅蔵外六名アリ。」を足す。

 24日、末尾に「此ノ時夫卒二名ヲ生捕、而シテ即死一名アリ。」を書き足している。27日、「喇叭ヲ吹奏ス」の脇に「城中本営ニ喇叭卒ヲ集メ、襄平落城ノ狀ヲ彼レニ示サント戯レニ此事ヲナセリ。」を書き足す。

三月一日曇天午後嶌﨑辺ノ賊ヨリ発射スルノミ同七時頃ヨリ雨降

三月二日晴天風烈シ片山邸辺互ニ発射ス午后小萩山出火時々四方ノ砲声ヲ聞ノミ

三月三日晴天彼レ二ノ丸其他我線内エ砲丸數百発スルヲ射入ス筒口ニ我軍旗ニ類似シタル物建アルヲ発見ス本日布達左ノ通リ

    過日爲探偵高瀬南関エ完戸監獄差遣候處本日帰台同處辺處々戰争官

    軍勝利ヲ得不日大舉賊兵ヲ追撃スル確報ヲ得タリ依テ此旨相達候

     三月三日     谷少将

 

三月四日雨天昼夜ノ別ナク彼砲丸數百ヲ我線内ニ輳射ス此時第一大隊ノ第四中隊第二大隊ノ第四中隊兵舎ニ射込ム本日負傷一名アリ

三月五日雨天午前六時頃ヨリ暁ニ至リ植木方面ニ當リ頗ル砲声アリ時々花岡山ヨリ彼砲射ス

三月六日晴天午後植木方面ニ出火アリ亦同方ノ砲声ヲ遥聞ク

三月七日午後晴天九時頃ヨリ野砲兵営哨兵賊ト交射スルヿ盛ナリ坪井花岡山賊頻リニ我線内ニ砲発ス本日負傷一名アリ

三月八日晴天午前九時頃植木驛方ニ砲声アリ午後六時頃雨天各處休戰

三月九日雨天午後五時頃賊安政橋及花岡山ヨリ頻ニ砲射ス砲丸二ノ丸病院ニ入ル爲ニ傷ツク者二名同六時頃休ム

三月十日晴天午前植木口ノ砲声尚ヲ熾ナリ賊花岡山ヨリ時々砲発スルノミ各處休戰

三月十一日晴天午前三時頃植木口ノ砲声前日ノ如シ午後二時頃ヨリ同三時迠野砲兵営前面ノ賊及花岡山ノ賊ヨリ砲発シ負傷ノ兵卒中川萬太郎外二名アリ此日京甼口エ矢章ヲ射ル段山エモ来ルソノ文ニ曰ク

  今般政府妄リニ暗殺ヲ謀リ自ラ国憲ヲ犯ス罪有之尋問ノ爲メ西郷陸軍大

  将將外二名衆ヲ師ヒ此ニ至ル然ルニ當縣鎭台名義ヲ辯セス城ヲ閉テ逆エ

  拒キ人民ヲ妨害ス其罪甚タシ我衆憤怒シ將ニ日ヲ刻シテ城中ヲ鏖シニセ

  ントス然レ共蒙昧脅従ノ輩其憫ム可キニ在テ諸口々前罪ヲ悔ヒ兵器ヲ捨

  テ来服スル者ハ必スシモ其罪ヲ問ハス且ツ山鹿髙瀬諸道ノ東軍我悉ク之

  ヲ撃破ス各縣義兵ノ起ル蜂巢ヲ破ルガ如ク然ルニ公等尚孤城ヲ守リ糧竭

  キ援絶エ危キヿ瞬息ニ在リ公等其レ速ニ向背ヲ决セヨ

   明治十年三月十一日     鹿兒嶋陣中

三月十二日晴天午前賊一名白旗ヲ携エ竹先ニ文書ヲ附シ我軍中ニ来ル直ニ捕エテ本台ニ送ル此賊年頃四十余年午後五時頃京甼近傍漆畑二ヶ所焼失同時巡査若干名各及第三中隊段山ノ賊ヲ襲擊ス彈丸雨注此役甚タ激戰ナリト雖ノモ尚撓マス衆奮進遂ニ賊據過半ヲ拔ク就中少尉試補安藤格及警部池畑某最奮戰終ニ死ス此日巡査死傷詳カナラス本隊ノ即死ハ安藤少尉試補外一名負傷伍長橋本孝信外一名アリ

三月十三日雨天段山昨日ヨリ連戰午後二時頃ニ至リ賊支フル能ハス悉ク逃走我之ヲ尾撃ス其銃丸雨注ノ如シ此時銃器彈藥日本刀數百ヲ分捕亦タ賊骸死六十七名余且ツ生捕二名アリ直ニ段山人家焼失ス速ニ該所ニ警備ス斃賊ノ死骸ヲ見ルニ夛クハ筒袖外套ヲ着シ脚絆(※月篇)ヲ用ユ右腕ヲ白木綿ニテ結フ帽ハ種々ナリ守城ノ日ヨリ本日迠二十日間昼夜ノ連戰而シテ即死少尉試補渋谷精外五名負傷新井忠吉外二十五名アリ本日布達左ノ通リ

  昨日ヨリ段山屯集ノ賊徒攻撃本日午後第二時撃破盡ク該處ヲ遁走致シ候

  ニ付爲心得此旨相達候事

          谷少将

三月十四日晴天午後三時嶋嵜エ進撃賊同村ヲ火ス又山崎ノ賊ト交射ス暫時ニシテ止ム夜ニ至テ植木口砲声頗々耳下ニ聞ユ布達左ノ通リ

 一昨日来賊ノ險要ニ據ル者ヲ攻撃シ昨日午後ニ至リ頗ル苦戰ノ趣ニ付親カ

 ラ哨處ニ臨ミ見聞候処十四聯隊迂回兵ノ勇進拔取候義將校指揮ノ至ルト下

 士兵卒奮発競進トノ處到且砲兵隊発射精妙工兵隊☐交通路築造ノ功等深ク

 感服ノ事ニ候尚其筋エ上申ノ上何分ノ御沙汰可有之候得共不取敢此旨一同

 エ可申聞ク候也

   明治十年三月十四日     陸軍少將谷干城

三月十五日晴天午前九時頃本妙寺エ進撃同所焼失同十時頃裏京甼家中焼失同時頃出京甼エ進撃両所ノ賊悉ク逃去ス第三中隊漆畑哨所持塲ノ處野砲営ニ移轉ス終日植木口ニ當リ砲声アリ而シテ負傷一名アリ

三月十六日晴天午前休戰午後山崎及花岡山ノ賊ヨリ砲発ス同三時頃本京甼酒藏焼失ス植木口ノ砲声夜間ニ至リ近ク聞ユ

三月十七日晴天終日休戰賊一名捕獲ス過日段山ニテ撃殺セシ賊ノ死骸六十七名ヲ同處ニ埋ム余死骸ハ賊地ニ近キヲ以テ取集メス植木口ノ砲声昨日ニ同シ

三月十八日晴天四方ノ賊時々砲射ス植木方ノ砲声追日近ク薄暮ヨリ大津ノ方位ニ当リ連山ニ放火シ火焰一線ニ見エ好景ナリ本日賊一名捕獲ス

三月十九日晴天植木口ノ砲声止ム時々安政橋ノ賊ヨリ砲発ス既ニ午後四時頃本台ニ射込ム日頃内堀ニテ魚ヲ取ルヿ夛シ本日植木口ノ官軍同所エ乗込ム夜間四方ノ砲声ナシ賊花岡山下ノ河流ヲ壅ス爲メニ嶌﨑及野砲営前面ノ田畑流水溢レテ湖水ノ如シ

三月廿日雨天午前昨日ニ同シ午後時々砲声アリ植木方ニ当テ出火甚タ熾ナリ同九時頃火勢衰フ同十一時頃俄然埋門千葉城野砲営其他各哨所ニ戰ヒヲ始ム然レ共僅ニシテ止ム亦植木口ニ當テ砲声アリ夜半ヨリ烈風トナル本日負傷一名アリ

三月廿一日雨天午前十時頃晴レ烈風植木口ノ砲声前ニ同シ時々互ニ砲発スルノミ

三月廿二日曇天當方及植木口トモ昨日ニ同シ夜間各哨兵賊ト問答最モ喋々タリ

三月廿三日雨天植木及川尻邉砲声日〃近ツク川尻邉ニ當リ出火アリ当方昨日ニ同シ頓テ貯藏ノ濁(ドブ)酒モ竭タリ

三月廿四日曇天昨日ニ同シ宇土及御舩邉ニ銃砲声アリ

三月廿五日晴天午前休戰午后坪井邉焼失植木街道砲声前ノ如シ薄暮ヨリ阿蘓山ヲ放火ス時々大砲及小銃互ニ発射ス日頃野砲営ニ於テ花火ヲ揚ル

三月廿六日晴天昨日ニ同シ午後松橋辺ニ砲声アリ同五時頃ヨリ大風雨トナレリ

三月廿七日晴天午前四時頃巡査一小隊第一大隊ヨリ一小隊第二大隊ノ一中隊第三大隊ノ左半大隊ニテ京甼及牧嵜島嵜エ進撃拂暁賊ノ不意ヲ襲フ午前十一時頃勇進京甼賊ノ胸壁ヲ畧取シ終日各哨所戰鬪ス午後一時頃京甼翁樓前エ我一胸壁ヲ築キ牧﨑及嶌嵜ハ午後第六時引揚ケ此時賊ノ死傷無算即死軍曹冨永吉尚外六名負傷少尉河部勝連外二十六名アリ就中冨永軍曹ノ牧﨑ニ於テ戰死スルヤ同僚及兵卒大ニ働キ之カ爲メ衆奮戰セシハ信ニ感心セリ薄暮ヨリ諸處出火植木口及ヒ枩橋ノ砲声前日ニ同シ彼レヨリ我営中ニ発射スル砲丸破烈ノ音響ハ恰モ百雷ノ如シ

三月廿八日晴天午前休戰午後時々互ニ砲発ス同三時鹿子木村ノ方位出火熾ナリ諸道ノ砲声益々盛ナリ山鹿口官軍ノ間諜ノ来語ニ山鹿地方ノ官軍對敵スル線七里ニ及ヒ而シテ昨日向坂ヲ取リ木留ニ陣ス賊勢日々衰フ既ニ彈竭キ我射スル彈ヲ土民ニ拾ハセ價ニ二厘五毛ニテ買上ル由其ノ代金ニ代エル皆証書ヲ以テスルト而シテ彼レノ會計出セシハ偽リト云テ與エス於テ是土人其無情不正ヲ知テ再ヒ役ニ出サルト云フ城内各哨所戯テ鼓及三味線或ハ鐘ヲ鳴ス亦タ賊ト舌戰スルヿ囂シ

三月廿九日晴天午前休戰諸道ノ砲声前ニ同シ午十二時ニ至リ少シク弛ム薄暮ヨリ阿蘓山ニ火焰ヲ見ル木留口ノ砲声盛ナリ賊牧嵜村ヲ火ス

三月卅日雨天午前七時頃ヨリ百官沖ヨリ海軍発砲スルヿ頻リナリ午後一時頃止ム終日大津及木留辺ノ砲声不止薄暮ヨリ大風トナル此日互ニ時々砲射スルノミ而シテ負傷一名アリ

三月卅一日晴天午後木留口ノ砲声最モ盛ナリ時々彼レ花岡山ヨリ我線中ニ砲射ス夜間本台ニテ花火ヲ上ル

 3月分には両者の相違点は少ない。3月3日隈岡本では末尾付近の「此旨相達候」の次に「今一層勉励可致様其部下ヘ無漏可相達候事」が入る。14日「迂回兵ノ勇進」の直後に隈岡は「十三聯隊及ヒ巡査、連戦不屈、遂ニ塞ヲ」を加え、文意が通りやすくなっている。小川が何かを転写する際に見落としたのを隈岡の場合は見落とさなかったということか。同じく「砲兵隊発射精妙工兵隊☐」の☐部分に隈岡は「胸壁」を加える。19日「魚ヲ取ルヿ夛シ」の横に「此魚ハ悉ク病院ニ送リ負傷者ノ食用ニ充ツ」とある。31日  籠城軍が揚げた花火は軍用火箭だろうか。4月1日も揚げている。

 次は4月です。原文でフリガナ状の部分は、ここではその機能がないので( )に入れて示します。 

四月一日晴天午前木留ノ砲声前日ニ異ナルナシ同十一時頃小萩山ヲ放火ス午后六時頃當内ヘ彼レ砲丸ヲ射入ス傷者ナシ夜間段山ニテ花火ヲ揚ル

四月二日雨天午前七時頃ヨリ諸道ノ砲声益々近ツク小萩山近傍出火午後御舟川尻ノ砲声最モ近ツク夜間出甼焼失ス

四月三日晴天午前京甼方位焼失午後金峯山ノ方位ニ砲声アリ蓋シ海軍ナラン薄暮ヨリ川尻ニ當テ大火ヲ見ル諸道ノ砲声前日ニ異ナルナシ

四月四日晴天午前木留ノ砲声不止午後坪井出火アリ頃日櫻花滿開ス

四月五日晴天諸道ノ砲声昨日ニ同シ線内棒安坂傍ノ病室住ノ江邸各處エ胸壁ヲ築キ是レ郭中ノ第二線ナリ

四月六日晴天是迠糧米壱人ニ付壱合五タノ処今朝ヨリ粟粥八勺昼夕粟飯トナル其分量米一舛ニ付粟三合ヲ加エ進撃ノ際ハ此限リニアラス精米ハ本月十八日限リト云フ先月下旬ヨリ夜食ヲ廃ス終日木留邉ノ砲声近ク聞ユ諸ニ放火アリ夜間各所賊ノ哨兵ト舌戰ス

四月六日雨天終日川尻近傍ノ砲声盛ナリ彼レ花岡山ヨリ砲丸數十ヲ我線内ニ射込ム

四月八日曇天午前第三時第一大隊竊ニ明五橋(亀岡では明五橋なし)安政橋ノ中間ヨリ川尻ニ進撃ノ命ヲ受ケ勇進之カ援助ノ爲メ本隊ヨリ若干第二大隊左半大隊工兵隊巡査兵ハ山崎及安政橋明五橋エ十四聯隊内若干長六橋ニ進撃ス同五時頃一舉倶ニ圍ヲ破ル後チ第一大隊ノ向處銃声ナシ同九時頃九品寺ノ賊有スル米藏ヲ襲フ米千三百余俵ヲ分捕ル午後賊悉比クル賊ノ死體三十余名アリ傷者無算此日九品寺村及安政橋近傍ニ隠逃スル人民穴ヲ穿テ住居スル者我軍ヲ仰キ見テ慕ヒタリ営ナシ賊ノ人夫十名余ヲ捕ラエテ城内エ送ル午後四時引揚ケ此時雨ヲ催ス此日信ニ快戰第一大隊突出テ佐ケ加フルニ糧米ヲ得自ラ橋上ニ立テ躍リ初メテ死中ノ快ヲ得タリ昼夜木留及川尻ノ砲声最モ盛ナリ我軍死傷七十三人内死廿余名アリ就中本隊ノ負傷軍曹大嶌直度外六名ナリ

四月九日雨天午前十時頃晴ル午前(後)一時頃京甼哨所ニテ互ニ銃発シ時々砲声アリ此日該道ノ砲声ナシ夜間小萩山ニ火光ヲ見ル

四月十日雨天四方ノ砲声前日ニ異ナルナシ午後左之通リ布達アリ

  今般賊徒ノ征討ノ海陸軍既ニ東西ニ麑(げい。亀岡では集シ賊徒糧道斷切セラレシ上ハ敗散遠キニ非ラス此際彼レ窮鼠ノ勢トナリ突然死戰ヲ决スル義モ難測目(亀岡では(亀岡では次に最モ警戒厳粛ヲ要スルノ時ニ候条各自一層勵精奉務候様篤ト可申聞此旨及諭辰候也

          陸軍少将谷干城

  當臺守城既ニ五旬餘ヲ経ルト雖モ人氣不撓守備信嚴ニシテ最初ノ戰鬪已来曽テ賊ノ侵襲ヲ受ケス我數回之攻撃毎戰捷ヲ奏シ殊ニ一昨八日突圍及進撃ノ如キハ十分ノ成策算外ノ勝利ヲ獲ルト謂エシ是レ偏ニ各隊各部同心戮力我カ天皇階下ノ爲メ難(亀岡では苦ヲ不厭各其職務ヲ勉強スルノ致ス處屡勝利ヲ得賊勢ヲ挫折シ不日其成功ヲ奏スヘキハ必然ニテ深ク感賞之至リニ候追テ其節エ上申ニ可及候条此旨篤ト可申聞此旨相達候

    明治十年四月十日      陸軍少将谷干城

  永々守城中各隊各部一同勉強奉職候ニ付爲慰労別紙目録之通リ酒肴料下賜候条右金員當臺會計部ニ於テ(亀岡ではここに受取此旨相達候事

    但シ人夫ヲ除クノ外雇下士下使ニ至ル迠兵卒ニ凖シ可相渡候事

      目録

一金壱円二十戔  奏任    一金一円    判任

一金八十戔    諸卒

  右慰労トシテ酒肴料下賜候事

四月十一日晴天終日川尻及木留辺ニ當リ砲声アリ薄暮ヨリ京甼及片山邸ニテ戰ヒヲ始ム

四月十二日晴天昨夜八時頃當縣城下ノ人民一名舩ニ乗リ片山邸ノ下ニ来ル捕テ賊情ヲ問フニ賊最早策竭キ近日切込ノ説アリト云フ午前ヨリ諸道ノ砲声益々近ツク時々互ニ砲発ス花岡山下ニ舩十艘余ヲ浮(右は字)フ      

四月十三日晴天午前川尻及木留辺ノ砲声彌近ツク午後ニ至テ止ム亦タ九時頃ヨリ木留ニ當リテ暫ク砲声ス

四月十四日晴天暁ヨリ木留方ニ當テ砲声アリ同六時止ム俄然我軍花岡山近傍ニ来同處及阿蘓山辺ニテ合戰同處焼失ス此時花岡山ノ賊砲射スルヿ頻リナリ午後三時過ヨリ俄ニ第二大隊ノ第二第三及第四中隊坪井ニ進撃ス同時ヨリ雨降同四時十五分東京鎭台兵山崎練兵塲ニ来着ス其後野津少將當台ヘ来着ノ説アリ京甼口少シク賊ト交射ス其他花岡及牧﨑辺ノ賊砲発ヲ止メ追々逃走ス薄暮ヨリ坪井焼失此時砲ヲ京甼口ニ増加シ猶彼レヲ撃ヿ急ナリ木留辺砲声ナシ川尻ニ三旅團来着其他木留及植木辺ニ我軍三万余来ルト云フ本日負傷一名アリ又左ノ布達アリ

  第壱旅團五中隊今夜向甼止宿致シ候旨報知有之候条爲心得此旨相達候事

   但シ三好少将ノ持

四月十五日晴天第一中隊及第二中隊ノ左小隊ヲ偵察トシテ橋髙及甼地方エ派遣ス朝食ヨリ平常ノ通リ米二合トナル午前休戰追々各旅團到着ス花岡牧﨑及嶋嵜河内ノ賊悉ク逃走ス木留ニ少シク砲声アリ夕食菜ニ鯛烏賊ヲ喫ス午後一時頃ヨリ木留辺出火ス同二時過出京甼学校近傍焼失ス同三時頃京甼哨兵ノ内ヨリ探偵ノ爲メ出京甼辺エ出スル賊三十名胸壁ニ據リ狙撃ス夫ヨリ互ニ発射暫時ニシテ引揚ケ本台ヨリ清酒ヲ給フル同四時頃第一大隊帰着本日布達左ノ通リ

  征討別動第一旅團到着縣廳二ノ丸及砲兵営ニ陣ス第二旅團到着向甼ニ宿陣ス(隈岡本ではこの後に「此日朝、第四中隊ノ内、一小隊ヲ二本木方位警備ニ派遣ス。同中隊曹長岡本鋭威、残賊三四名大砲ヲ引キ逃ントスルヲ見認メ、一巳抜刀、追撃、遂ニ大砲一門・小銃及日本刀数多ク獲。兵卒尖三平外二名負傷ス。」)

四月十六日晴天第一中隊ヲ木山近傍ニ偵察ノ爲メ派遣スルヤ賊竹宮及保田窪邉ニ屯在スルヲ以テ同夜砂取甼エ警備ス午前第四中隊ノ一半隊ヲ水前寺方位ニ第三中隊ハ立田山地方ニ偵察トシテ出ス此日清酒下賜リル總督官ヨリ御沙汰左ノ通リ

  永々之守城一同勉強太義之旨髙瀬師陣總督官ヨリ陸軍少佐平岡芋作ヲ以

  テ本日御沙汰ニ相成候間爲心得此旨相達候事

午後十一時本隊水前寺エ連絡ノ爲メ出発ス第一及第二中隊ハ水前寺第四中隊ハ本村天神宮近傍ニ配布第三中隊モ是レニ連絡ス第四中隊ノ左小隊ハ安政橋近傍ニ配布ス本日御沙汰書ノ寫シ左ノ通リ

                  陸軍少将谷干城

   鹿兒島逆徒益凶暴ヲ逞シ熊本城ヲ圍ミ攻撃ニ及候處殊ニ力戰屡賊軍ヲ撃破リ能ク孤城ヲ堅守候段叡聞ニ達シ深ク苦労ニ被思食候依テ爲慰労酒肴下賜候猶此上奮発兵士ヲ卒ヒ勵シ速ニ平定ノ功ヲ奏スヘキ旨御沙汰候事

    但シ士官兵隊等ヘモ此旨相達ヘク候事

     明治十年三月   太政大臣三條實美

四月十七日雨天終日休戰別動第一旅團ノ中一大隊水前寺砂取甼ヘ着ス賊此處ヨリ廿(隈岡では丁余ヲ隔テ八丁馬塲及竹宮辺ニ胸壁ヲ堅守ス第一中隊是ニ對シテ砂取甼辺ノ田畑ニ大哨兵ヲ布ス午後六時第二中隊ト交代ス第五時前大隊本部ヲ砂取甼エ移ス熊本以北ノ電信不通ノ處本日ヨリ始業セリ且布達左ノ通リ

 

  此般別紙之通リ物品下賜候就テハ酒肴之義モ別紙金額表ニ照シ一時其軍資金ヨリ繰

  替支給相成度木綿綿撒糸其外ハ當営ニテ分配スヘクニ付會計主任ノ者早々御指出シ

  相成度此段申進候也

    十年四月十六日    八代口派出黒田征討參軍

    熊本鎭台司令長官

        谷陸軍少将殿

  追テ籠城ノ者一同文官ヘモ下賜リ候儀ニ有之候条武官等級ニ照シ下賜リ

  取計有之度 候也  (前行の追テから12行目の黒田征討參軍までは隈岡にはない。)

  佐官并相当官   十円宛     中尉并相当官凖士官迠 五円宛

  大尉并相当官   七円五十銭宛  下士并警部   二円五十戔

  兵卒并巡査    壱円宛     文官判任    二円五十戔宛

  文官七等以上   五円宛     同等七十五戔宛

  同尉官以下凖士官 十円宛     同兵卒并巡査  二円宛

  今般將校軍隊爲御慰門侍片岡利和ヲ勅使トシテ被差下佐官以下兵卒ニ酒

  肴料并負傷之者エハ皇太后官皇后官ヨリ御沙汰書之通リ下賜候条此旨相達候事

    十年四月十六日        黒田征討參軍

      谷陸軍少将殿

             征討參軍黒田清隆

  鹿兒島縣賊徒征討ニ付ハ八代口出張ノ諸軍隊勇奮劇鬪夛人數創候段

  皇太后官皇太后被聞召思食ヲ以テ別紙目録之通リ創傷者エ下賜リ候旨

  御沙汰候事

    明治十年四月             宮内省

        目録

  一綿撒糸   五十反    一煙草   四百斤

  一白木綿   二百五十反  一葡萄酒  千本

  今般負傷者エ下賜候綿撒糸ハ  両皇后女官ト倶ニ親ク御撒被遊候義ニ

  候条此旨相心得候様一同エ御達有之度此段申入候也

    明治十年四月   官内郷徳大寺實則

     黒田征討參軍殿

  追テ今般負傷ノ者エ右賜物ハ神戸出張陸軍省ヘ相托シ其許エ回送之筈ニ

  候条到着之上可然御取計有之度候也

四月十八日晴天終日休戰ト雖モ夜間時々賊ヨリ虚撃行フ本部ヲ本村ニ移ス

四月十九日晴天大哨兵ヲ時々僅ニ偵察ヲ出ス賊虚撃ヲナス前夜ノ如シ午前九時頃第一第二大隊砲兵第六大隊及工兵第六小隊砂取甼ニ着ス

四月廿日晴天暁天頃竹官ヨリ渡瀬向距离凡壱里ニ開戰彈丸雨注竹宮ハ建宮ナリ且進且退キ交刃數回午後第四中隊及第一大隊第二中隊共ニ勇奮突撃遂ニ彼レノ數塁ヲ拔ク賊之カ爲メ退去第二線ニ據テ尚ヲ防禦ス本日ノ戰争右翼ハ八代辺ヨリ中央竹宮原ヲ経テ左翼大津辺ニ至ル戰線十二三里砲煙天地ヲ覆ヒ彼レ我ヲ辯ヒス銃声鋭ク砂礫ヲ投スルカ如シ実ニ盛戰ニシテ大進撃ナリ翌拂暁ノ頃賊悉ク逃去木山此處ヨリ竹宮五里ニ走ルト此日即死中尉小林清吉外四十名負傷大尉瀧川忠教外七十七名アリ而シテ賊ヲ斃スヿ數百名(隈岡本では即死中尉小林清吉外十五名、負傷大尉瀧川忠教外六十九名・賊ヲ斃ス事、數十名ニシテ是レ無算第四中隊給養軍曹島田末周最モ奮戰賊四名ヲ刃殺ス亦三木大尉モ一名ヲ刃殺ス

 この頃から耳慣れない地名が登場し始めるので地図で示す。

四月廿一日晴天午前八時頃当處引揚ケ午后六時頃ヨリ本隊小峯原ニ大哨兵ヲ張リ同八時頃大隊本部ヲ新外村エ轉ス木山辺ニ当リ大火ヲ見ル

四月廿二日晴天午前小峯原ヲ引揚ケ午後三時頃福原村エ着ス途中猫ブクト云處アリ

 福原村に着いた官軍は必ず周囲に哨兵を置いた筈だから、薩軍が去った南側を警戒する必要がある。上図の〇印付近は踏査したら台場跡があるかも知れない。

四月廿三日晴天午后右半大隊福原村ヲ引揚ケ木戸屋ニ進軍ス凡ソ一里半此間里程一里半午后同處エ繰込ム※線消し部分には字が見えないように紙が貼り付けられている。

四月廿四日雨天午前七時頃右半大隊木戸屋エ進軍ス本部モ午后同處エ繰込ム(隈岡本では本部以下は大隊則チ小川少佐モ午后同処ヘ繰込ム。

四月廿五日雨天昨日午前右半大隊三葉淵エ繰込ム本日午後報知左之通リ

  今暁金内並ニ矢部濱甼辺ノ残賊悉皆奈須ノ「オマエ」ト申処エ逃集ス

四月廿六日雨天午前十一時頃晴ル同六時第三中隊(隈岡本ではここに第三中隊鶴ケ淵ヘ発ス。右半大隊金内ヘ発ス。第四中隊が入る)ハ木戸屋守兵ノ爲メ同処ニ残ル金内ノ賊逃走ス

四月廿七日大風雨午前第一第二及ヒ第三中隊ハ矢部濱甼エ進発ス同六時頃本部及第四中隊モ同断濱甼ニ進発午后三時頃濱甼着路上甚ダ險難木戸屋ヨリ凡六里余当地ニ彈藥二万千五百発余銃器五十五挺外ニ喇叭一個其他雜物賊逃去ノ際取落シ置キ候旨ヲ以テ人民持来ル探偵者ノ曰ク奈須ノ「オマエ」ノ賊悉ク人吉「サガラ」及日向地方ヲ指シテ逃走ス人吉迠熊本ヨリ三十里余布達左ノ通リ

  永々滞陣火立(隈岡本では火立ではなく欠乏。これから見て小川又次は書き写す際に間違えている)品モ可有之候得共不取敢襦胖袴下手拭ホ(等。等をホと書くことが多い)各一枚宛支給候条會計部ニ於テ受取可ク此旨相達シ候事

    十年四月廿七日     熊本鎭台本營

四月廿八日晴天午前六時頃第四中隊濱甼ヨリ馬見原エ分派ス又當濱甼ヨリ凡一里余隔タツル緑川ノ上流ニシテ鮎ノ瀬ト云處エ賊三百名余来ル由薄暮ノ比報ヲ得タリ依テ第二中隊ノ兵若干及工兵若干ヲ鈴木中尉ニ附シ破橋且ツ探偵トシテ該方ニ出ス其途中ヨリ三道ニ分ル右ハ「カンバ」中ハ「アイノセ」左ハ「タヨシ」夫ヨリ兵ヲ三分シテ三途ニ向フ渡塲皆激流ナリ則チ其二ヶ所ノ橋ヲ毀落シ歸ル後チ若干兵ヲ派遣シ各持塲ニ胸壁ヲ築キ警備ヲナス

 4月28日、薩軍300人程が鮎ノ瀬に現れたので官軍は浜町から三道に分かれて進み、薩軍が攻撃してくる場合に渡る可能性がある橋二つを破壊し、塹壕を築いて守備した。これでは官軍が積極的に進撃する積りがなかったと見るしかない。タヨシは鮎ノ瀬に向かって右側に位置する田吉だろう。カンバは「熊鎭日記」ではカシワとある場所だろう。何処にあるのかわからないが左の道だから鮎ノ瀬よりも西側に通じた場所だろう。

四月廿九日晴天拂暁ノ頃「アイノセ」入口ニ賊二十名余探偵トシテ来ル我兵直ニ狙撃シテ之ヲ退ク午前第四中隊馬見原ヲ引揚ケ濱町ニ復ル第二大隊及第六聨隊ノ内二中隊到着ス午后衛戍兵各復隊ス

 アイノセは鮎ノ瀬である。4月4月29日の熊本鎮台全体の配置を「熊鎭日記」から要約すると次のようになる。この日、薩軍約300人が鮎ノ瀬を攻撃し、次いで管村に侵入した。  

四月三十日晴天午前第七時第四中隊仮屋村エ出張此処ヨリ四里余第二大隊第一中隊モ前同断熊本ヨリ兵粮及彈藥等日々運送陸續タリ亦馬見原ニ於テ彈藥十九箱銃五十七挺砲丸鑄造器一個及雜器若干分捕到着スルヲ以テ直ニ當所出張參謀部エ納ム此日第一大隊当濱甼ニ着ス

 地名を検討するため、4月24日の熊本鎮台の記録「熊本鎭臺戰鬪日記」を見ておきたい。

  四月二十四日  本營 福原村

  第十三聯隊第三大隊左半大隊木戸屋ニ進ミ右半大隊ニ合併シ中野村ヲ守

  備スル第十四聯隊第二大隊第二第四中隊ト交換シ十四聯隊ノ二中隊ハ悉

  ク福原村ニ歸陣ス本日暴雨工兵第六小隊第二半隊中野村ニ至リ廠舎ヲ修

  築ス

 24日前後の「明治十年戰争日記」では中野村は登場しない。引用部分によれば小川又次の第三大隊は木戸屋に進み中野村を守備したとあるので、小川又次の「・・戰争日記」では中野村は木戸屋地方に含めたのだろう。

 以上のように書いてきて思うのだが、4月下旬の熊本鎮台の進路はこれまで検討されたことがないのではないか。