西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

6月11日前後の姫岳から警固屋村までの官軍哨兵線

 1877年6月10日、臼杵から薩軍津久見・佐伯方面に敗走した後、官軍は薩軍の再来に備えて哨兵線を布いて備えた。その範囲は津久見市警固屋村前面の山脈から場所不明の建岩、姫岳までである。どの部隊が担当したのか、期日は、などについて分かる範囲で記しておきたい。

 先ず前回も引用したが、野津道貫大佐が哨兵線部署を山縣参軍に報告した史料がある。

C09085041300「明治十年三月 探偵書綴 出征別働第一旅團ノ二」防衛省防衛研究所

昨日臼杵ニ屯集スル処ノ賊ヲ掃攘セントスルニ右翼ヨリ大迂回ヲ行ンカ為メ其前夜ヨリ林少佐及ヒ諏訪少佐ノ二大隊ハ深田村ヨリ出発シ「川ナシ峠」ヘ配兵シ露営ス亦海軍ノ艦長伊藤大佐ニ翌朝軍艦ヲ「ケゴヤ村」ノ湊ニ漂泊シ警備ヲ付シ臼杵港ヨリハ城下ヲ放射スヘキヲ約定シ十日午前第五時ヨリ臼杵城下ノ前面ヲ攻撃スルニ一昨九日上申セシ所ノ左翼及ヒ中央ノ兵ヲ以テシ陸海皷操シテ賊ヲ迫擊シ殆ント戰ヒ酣ナルニ及ンテ果シテ右翼ノ大迂回兵賊ノ背後ニ出テ挾擊シ且賊ノ退路ヲ断絶シ頗ル猛射ヲ極メ切迫ス爰ニ於テ賊兵火ヲ町家ニ放テ過半銃器弾薬ヲ放棄シ火焔之熾ナルヲ待チ退路ヲ蔽ヒ佐伯ノ本道ヲ通過スル能ハスシテ漸ク海岸ノ方ナル「ツクミ峠」ニ通スル間道ヲ取り遁逃ス官軍ハ

之ヲ追テ二里位尾撃ヲ行ヒ嶮坂ヲ超過シテ終リニ「ケゴヤ」迠打退ク此時前夜ヨリ警備セシ軍艦ヨリ頻リニ放射セシ処亦賊狼狽散乱ス爰ニ於テ左翼「ケゴヤ」前面ノ山ヨリ右翼ハ建岩及ヒ姫嶽ニ警備線ヲ取リ兵ヲ配布スルノ部署ヲ定メ堀江野﨑等ト左ノ通リ約定シ直チニ其地ヲ出発シ本日午后第五時牧口出張ノ本営ニ帰ル

   臼杵口ハ陸續進撃賊ノ踪跡ヲ探偵シ尾撃ヲナス臼杵口ニ出兵セシ處ノ林少佐ノ一大隊夕三重ノ市ニ繰込ミ牧口ノ本營ニ於テ更ニ部署ヲ定メ旗帰シ三国峠木浦等ノ諸口ヲ経重岡ニ向テ賊ヲ侵襲ス

前顕ノ通候条此段御報知候因テ谷三好少将ヘモ御通知相成度候也

  六月十一日   野津陸軍大佐

       山縣参軍殿

  追テ臼杵攻撃ノ際官軍ノ死傷至テ寡少今般賊兵臼杵城下ニ火ヲ放チ候得共賊遁逃ノ後直ニ土人ヲ以テ消防シ大火ニ至ラス故ニ此地之人気至テ冝シ

 哨兵線については爰ニ於テ左翼「ケゴヤ」前面ノ山ヨリ右翼ハ建岩及ヒ姫嶽ニ警備線ヲ取リ兵ヲ配布スルノ部署ヲ定メの部分である。これに対応する記録がある。

 C09084472400「明治十年 豊後口樞要書類綴 第二旅團」防衛省防衛研究所

0036~0038

    戦闘景况之部

本日臼杵ノ賊右側山上ヨリ迂回攻撃ニ付我隊警備ノ右翼ヨリ虚擊シ且時機ヲ以テ臼杵ヘ突入スヘキ命ニ付黎明会戦スルヤ本道右翼ノ守兵ハ火力ヲ熾ンニシ左翼守兵ハ依然トシテ守備ヲ厳ニス然ルニ賊忽チ敗走市街ヲ放火シ前面山頂ニ走ル依テ右翼守兵ハ臼杵ニ進入直ニ追撃シ自餘ノ隊ハ臼杵ヘ繰込ム然ルニ同日午后警固屋村ニ進入ノ命アルニ依リ同四時三十分臼杵ヲ發シ同七時警固屋村ニ着陣前面山脉ヘ哨兵配布シ警備ヲ着ク

 これによると、第二旅団第十聯隊第二大隊長吉田道時少佐(総員291人)は6月10日16時30分臼杵を出発し津久見市警固屋村前面山脈に哨兵を散布している。警固屋村の南側に東西に存在する山の事であろう。

 「戦記稿」では同隊が警固屋あるいは別の場所で哨兵を配布したことは記していないが、同書では同隊は12日午前4時警固屋村に整列し南側にある佐伯市床木村に出発したとあるので山脈哨兵配布は10日午後から12日未明までだったと考えられる。以前の投稿で10日から13日としていたのを訂正したい。

 もう一つこの哨兵線の一部を担当した部隊がある。

C09084318100「明治十年豊後口 達書留 會報留 各隊各部来翰 諸表面 第二旅團」防衛省防衛研究所蔵0502

 これによると、時日は明治十年六月十日夕であり、地名は大分縣上青江村ニ於テとなっている。第二旅団第十一聯隊第三大隊長諏訪好和少佐は6月10日夕に上青江村にいたので、同隊(262人)が川原内峠・姫岳などを警備したのだろう。

   上記の二つの他に第六聯隊第三大隊第四中隊長北川正典大尉の部隊(10日150人・11日151人)も10日・11日に下青江村に滞在して人員馬匹報告表が残っている。北川隊は下青江村だから吉田・諏訪の中間に位置しており、彼らと連なって山の尾根筋に哨兵を置き、哨兵場所は両者の中間だったのだろう。

 川ナシ峠に言及し警固屋・建岩・姫岳を結ぶ哨兵線について、別の記録がある。

C09080547800「陸軍省  明治十年戰闘報告  完」防衛省防衛研究所蔵0061・0062

十日臼杵口ノ官兵ハ右翼ノ兵ヲ川無峠ニ遶ラシメ前夜ヨリ其山上ニ露宿セシメ又一ノ軍艦ヲ警固屋湾ニ進メ置キ午前五時ヨリ前軍ヲ以テ正面攻擊ヲ行ナヒ海陸吶喊シ砲丸雨注シ戦機方ニ熟ス我ガ先キニ川無峠ニ遶ラシオキタル兵驀然突起シ賊ノ背後ニ出テ腹背鉸夾撃鏖戰ス賊其走路ヲ絶タレ困迫出ツル所ヲ知ラズ乃チ火ヲ市街ニ放チ火焔ヲ以テ其迹ヲ掩匿シ海岸ヨリ間道ヲ取テ奔竄ス我兵津久見峠ノ険ヲ越エ尾撃シテ警固屋村ニ至ル是時軍艦ヨリ連リニ巨砲ヲ放テ相應ス賊狼狽シ警固屋峠ヲ攀テ散乱ス是ニ於テ左翼警固屋前面ヨリ建岩及ヒ姫岳ニ警備兵ヲ布ク

 これも6月9日川無峠に露宿したとあり、場所は姫岳ではない。

 今のところこの哨兵線では姫岳と川原内峠で現実に台場跡を確認済だが、西南戦争で活字化された官軍側の記録「征西戰記稿」や「熊本鎭臺戰鬪日記」ではこの哨兵線について一言も触れていない。活字化された戦記には載っていないということだ。アジ歴で防衛研究所の原史料を閲覧してこの地の哨兵線について理解できたのだが、もしそれが無ければ現地で台場跡を発見した場合、これらはいつの時点にどちら側が築いたのだろうかという疑問が生じたままになる筈である。

 結局、警固屋から姫岳までの間で銃砲弾が飛び交うことはなかった。もしあれば戦記にも登場しただろう。