西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」 臼杵の戦い以降、6月11日から※加筆中です。「西南戦地取調書 豊後」の内、宇目町部分を別に追加します。 

 少し前に小川又次の表題の日記全文を掲げたが、時間がたったので何をしていたのか忘れてしまいそうだった。本文の紹介は繰り返しになるのを承知で臼杵の戦い以降について逐一見ていきたい。臼杵を占領した薩軍だったが、6月10日までに官軍により追い出されてしまう。その後の動向について述べたい。

六月十一日雨天本日長野村☐☐ニ滞陣賊跡ヲ探シ旦諸兵ノ整頓アリ

 長野村は場所不明。「熊本鎭臺戰鬪日記」にも「戰記稿」にもこの日を含め前後に長野村は登場しない。

 官軍は進軍予定地の状況を知るために地元民を探偵として雇って調べさせていた。臼杵から津久見に入った最初の村、蔵冨村の農民3人を雇い薩軍の状況を調べさせている。

C09083756800「探偵電信報告 出征第一旅團 明治一〇・五・三〇~一〇・九・一八」防衛省防衛研究所蔵0535・0536

昨十一日藏冨村ニ到リ賊情探偵スルヤ左ノ通リ臼杵ヨリ同村ヘハ三里位申建候   

蔵冨村農

                      角治

                      仲治  

                      弥吉

一昨十日午前第十一時比ヨリ人夫ニ出小園村間道迫越ヲ通行シ十六小區西ノ内本

 道ニ出此所迠一里余夫ヨリ鏡越ヲ通リ床木谷徳之尾村ニ出同所迠二里餘亦同所

 ヨリ竹峯ヲ通行セリ此路二里同所ニ而人夫継立交代シテ帰家セシナリ

     但賃銭一人ニ付貮拾戔宛相與ル

     一里ニ付五銭ノ割ナ

一昨十日臼杵破走ノ賊軍ニハ凡テ切畑ニ退去セシトコノ里程藏冨村ヨリ五里余ア

 リト云

一佐伯方へハ破走ノ賊軍集合セスト云ヘリ

 臼杵から敗走した薩軍津久見を越え、切畑に退去したとの探偵情報を得たのである。

C09084044100「明治十年五月二日~七月十七日 戦闘報告原書 第二旅団」防衛省防衛研究所蔵1057・1058

   六月十一日藏冨村ニ到リ賊情探偵スルヤ左ノ通リ臼杵ヨリ同村ヘハ三里位

   申建候

                                      蔵冨村農

                            角 治

                            仲 治  

                            彌 吉

一昨十日午前第十一時頃ヨリ人夫ニ出小園村間道迫越ヲ通行シ十六小区西ノ内本

 道ニ出此所迠一里余夫ヨリ鏡越ヲ通リ床木谷徳之尾村ニ出同所迠二里約リ亦同

 所ゟ竹峯ヲ通行セリ此路二里同所ニ而人夫継立交代シテ帰家セシナリ

 床木ダムの下流300m付近に徳納があるのが徳之尾村と表記された。

 探偵の農民たちは小園村間道迫越ヲ通行シ十六小区西ノ内本道に出て、鏡越を通り床木谷の徳納(徳之尾)村に出、竹峯の先まで行って引き返したらい。迫越は場所不明、鏡越は佐伯史談100号の泥谷捨夫著2011年「床木部落共有林ーその拡大及共有財産の実態ー」の挿図によりどこにあるのか分かった。

 写真機で撮ったので黒くなった。いつかPDFで示したい。下図の赤い破線は泥谷さんの図を基に現在の地図に描いてみたもの。彼らは鏡峠を南下し谷道を通過して竹峯まで行ったのだろう。同じく「佐伯史談」78巻にある羽柴弘著1975年「鏡峠を歩いて」を参考にしてみたい。探偵報告とは逆に南側の床木から鏡峠に登っている。これには地図が付いていないので二つを合わせると都合がよい。

 去る十月廿四日、私は床木の奥から鏡峠に登った。秋晴のよい天気であった。

 茶屋場から登りにかかり、山腹を羊腸とつづく昔ながらの小径をかなり登り、一旦宇土渓谷を眼下に見下ろす絶壁の上に出、更に少し登って尾根に出た。

 それから長々とつづく峠道、右側は一面の松林、左手は眼の届く限りの造林伐採地、はるかに津久見側から登る尺間登山道までつづいている。展望は実によい。

 道中は一米半ほど、坦々と僅かな登りでつづく。且つて佐伯から大分方面をつないでいた公道であった。所々で曲りくねりつヽ軽四でも通れるほどの平坦な道が二キロ(※米に千)ごどつづき、絶壁に近いところは切通しになり。右すれば竹越峠から彦岳、左にとれば一の鳥居から野津大分へ通ずる。

六月十二日晴天午前六時長野村出発鐘山ヲ跋渉リ同十時頃床下(※木が正しい)村ノ内荒打村エ着長野村ヨリ凡ソ二里仝處ニ警備ス

 12日に関する別の記録も見ておきたい。

 「戰記稿」には6月12日記載の佐伯口進入ノ部署に方略として、午前四時警固屋村ニ整列佐伯街道ニ向テ發シ前衛床木谷ニ達セハ行進ヲ止メ前地偵察ノ上更ニ行進シテ佐伯ニ入ルヘシとある。「熊本鎭臺戰鬪日記」では佐伯口進入ノ部署の内、この日記の小川又次少佐の第十三聯隊第三大隊は前衛・本隊・後衛の内で本隊である。そして、午前第四時警固屋村ニ整列準備次第佐伯本街道ニ向ケ發程前衛イカキ谷ニ達スルヤ行進ヲ止メ前地偵察ノ上更ニ行進ヲ始メ佐伯ニ進入ノヿ 部署已ニ成リ第四時警固屋ヲ發シ佐伯ニ進入ス該地ノ賊已ニ退去ス故ニ更ニ古市及ヒ切畑ニ進ムとあり、午前4時に津久見市警固屋村を出発している。イカキ谷は床木谷。12日の記述にある荒打村は下図の赤枠で囲った荒内村である。佐伯本道とあるのは鏡峠を通る路線だろう。東九州高速道路は鏡峠のほぼ真下やや西側を掘り抜いており、地方都市を結んで最短距離を目指すと昔も今も同じようになる訳だ。

 小川又治の明治十年戰争日記「陣中日誌稿」(第十三聯隊第三大隊の記録)では午前6時に長野村を出発したとあり、「戰記稿」も合わせ両書の時間を信じれば、警固屋村を午前4時出発、その後午前6時に長野村を出発したことになり、長野村は警固屋村よりも南方、佐伯方向に位置することになる。中ノ内という集落があるが、時間経過からしてもこれが長野村とされた可能性がある。

 津久見に隠棲していたころの大友宗麟が鹿笛で鹿猟をした話がある。「大分県九重町飯田高原の鹿笛」をまとめて12点紹介したことがあり、その際、床木の狩猟について触れたので引用する(高橋1994『動物考古学第2号』)。

 大友宗麟が狩りを好んだことは諸書に見えるが、、「大友興廃記」には鹿笛を使った猟の話がある。

 天正二年申戌の秋、津久見山にて笛野を遊ばるる時鹿笛の上手はだれか有べきと仰出さるる。御近辺衆相心得候者は、佐伯に御座候はんと申上る。則、佐伯惟教に仰遣さるる。佐伯床木と云ふ所に、六郎五郎と云ふ鹿笛の上手あり。惟教の下知に付て、津久見へ参り、宗麟公の御案内を致す。鹿垣を構へ、御屋形を置奉り御後口にて笛を吹く。則、鹿寄来る。御屋形はや遊ばさんと成さるる。鹿笛を吹時は、口を放ち物を言へば音切れて鹿寄らざるものなり。遊ばす事を早く御座候御待候へと申心にて、御屋形を踏奉る。其後、能き矢頃に来る時、はや遊ばされ候へと申心にて、又踏奉る笛の上奉御指図申奉る故、矢場に遊ばし留め、御喜悦浅からず。殊に宗麟公を六郎五郎、遅速の相図に踏み奉ること、御気色に入り御感成され、御腰の物、御服拝領す。一文不通下臈も、馴れたる事には能分別出来る物なり。

 鹿垣とは木や柴などで作り猟人が身を隠すためのもので、その後で鹿笛を吹いた。鹿笛を吹く猟師と宗麟が共に隠れていた。床木に鹿笛を使う名人猟師がおり、佐伯領主の佐伯惟教に呼び出され、場所不詳の津久見の山で宗麟のために吹いたのである。

 第十四聯隊第二大隊のこの前後の動向も参考にしたい(「西南戦争従軍日誌 第十四聯隊第二大隊」下関文書館 1983年)。これ以前、同隊は九六位峠から末広村・井村に進んだ部隊である。11日は津久見市警固屋村、12日第一中隊は床木在陣、第二中隊は警固屋村から鏡峠を越え尺間山を警備し15日まで同じ山にいた。15日一旦床木村に下り、16日に場所不明の平春村(同日交代して第一中隊が尺間山を警備。18日まで。)、17日下直見村のおそらく簾山を攻撃したが薩軍は消えていた。

六月十三日晴天荒打村ニ滞陣夜第四中隊ノ右小隊及第一中隊佐泊エ出張スルニ賊逃走シテ一名モナシ

六月十四日晴天此日荒打村滞陣ス第四中隊右小隊及第一中隊佐泊ヨリ歸陣ス

六月十五日晴天本日荒打村ニ滞陣ス休戰斥候ヲ切畑村邊ニ出ス

 詳しい日時は不明だが、この頃床木谷の住民は官軍の雑用に従事していた。

 13日から15日までの「熊本鎭臺戰鬪日記」には佐伯方面の記事はない。第十三聯隊第三大隊は6月12日から15日まで床木谷の荒内に滞在しているところからして周辺の尾根に哨兵を配布し台場を築いて守っていた筈である。

六月十六日晴天前日ニ異ナルナシ此日尺間山ニ登リ遥ニ☐重岡地方ヲ望ム美麗ニシテ眺望至テヨシ佐泊因尾及川登等ハ眼下ニ見ユ

 尺間山は標高641mで、頂上にある尺間神社は尺間さまと呼ばれて大分県内では親しまれている山である。重岡地方が美麗に望めたというのは、さもありなんと思う。下図に赤い破線で囲ったところには台場跡があるんじゃなかろうかと思いながらそのままになっている。

六月十七日晴天荒打村ヲ発シ同八時頃川又村エ着里程荒打村ヨリ凡七合同處ニ泊ス

 「鎭臺日記」のこの日の記述。

 臼杵口ノ第十三聯隊第三大隊ハ荒打村ヲ發シ午前第八時川又村ニ進ミ第十四聯隊第二

 大隊第二中隊ハ午前第一時ヨリ平春村ヲ發シ間道ヨリ迂回シテ下直見村ノ賊ヲ襲フ彼

 戰ハスシテ退ク之ヲ尾シテ小倉村ニ至リ金ヶ月山ヲ占領シ又笠掛村ニ進ム

 後半に出る第十四聯隊は12日記載部署では小川隊と同じ本隊だった。別路で前進していたのである。

六月十八日曇天午後雨降リ簾山近傍ノ賊ヲ攻撃ノ爲メ午前川又村ヲ発シ拂暁「ハキ」村ノ山上賊ノ左翼ニ出此際川登リ谷及因尾谷ノ探偵未タ充分ナラサルヲ以テ第四中隊ヲ残シ「ウツヽ谷」ト「ハキ」村ノ入口ヲ警備セシム偖「ハキ」村ノ山上ニ至ルヤ賊已ニ走テ跡ナシ夫ヨリ山脉ヲツタヒ里程山脉二里余進テ舩越峠ヨリ笠越峠ニ到ル比日殆ト沒ス故ニ警備ヲ設ケ爰ニ露営ス

 国土地理院地図に載っていない地名が多い。分かる範囲で地図に示す。簾(すだれ)山は番匠川の支流、久留須川が蛇行する川沿いの細長い平地部に佐伯方向から入る際の要害となるのが簾山である。切畑から撤退した薩軍が守りをつけたらしい。「鎭臺日記」に平春村ヲ發シ間道ヨリ迂回シテ下直見村ノ賊ヲ襲フとある下直見村の賊というのが簾山の薩軍ではないかと思う。平春村は場所不明。その後に出てくる小倉村金ヶ月山も不明。

 川登は国道10号沿いにあり、中の谷トンネルの西5.6㎞付近にある。川登り谷というからここから南に伸びる谷のことだろう。「ハキ」村のハキとは本流に支流が流れ込む地点に見られる地名であり、水を吐き出す所という意味らしい。ここでは番匠川に合流する宇津々谷の小川に由来するのだろう。ハキ村の付近の山から山脉二里余進テ舩越峠ヨリ笠越峠ニ到ルの部分、舩越という地名がゼンリン住宅地図にあるので、その東側の尾根に舩越峠を想定してみた。この地図は小字も載っているので行政に問い合わせるよりも簡単に情報を入手できる。昨年、佐伯市教育委員会の中元洋司さんと想定舩越峠を含む尾根を北東から南西に3㎞弱踏査したが、台場跡は確認できなかった。舩越峠から笠掛峠想定地に行くなら西から東になり、文章が理解できない。全体的には日記の部隊は久留須川北側地域を担当したことが分かる。

六月十九日雨天午前川登リ谷ノ探偵粗就ルヲ以テ第四中隊ヲ三俣ニ進メテ因尾谷ノ警備ニ充ツ而シテ第一中隊ハ拂暁ヨリ進テ月形村及横川村ノ賊兵ヲ襲フニ彼レ山頂ノ壘ニ據テ固守ス午後三時頃賊退撓ノ色アルヲ以テ終ニ進テ賊塁ヲ拔キ猶ホ近傍ノ賊ヲ射撃ス然ルト雖モ賊又龍王山ノ頂ニ據テ死守ス于時日没ス同夜笠越峠ヲ守ル第三中隊ハ第一中隊ノ右ニ連絡シ終ニ戰フ第二中隊ハ昨日ヨリ攻撃兵ノ援隊トナリ因尾谷及小川谷ニ哨兵ヲ配布ス本日午前六時ニ至リ同処ヲ引揚ケ舩越峠ニ進テ同處前面ノ山上ニ左小隊ヲ出シテ戰ヲ排ム不詳兵卒水島平八外壱名アリ此日ニ至ル二昼夜霧雨盆ヲ傾ルカ如ク諸渓水爲メニ漲り糧食運搬等殆ト困却ス

 月形村及横川村ノ賊兵ヲ襲フニ彼レ山頂ノ壘ニ據テ固守スは具体的にどこを攻撃したのか分からない。「熊本鎭臺戰鬪日記」の18日部分には臼杵ノ賊昨夜來動靜不詳本日攻襲偵察ヲ下直見村ニ出ス賊赤木村横川村仁田原村ヲ守備ス於是明日横川ニ向テ進擊ノ部署ヲ定ムとあり、そして部署があり、左翼・中央・右翼の部隊名がある。翌19日の計画である。第十三大隊第三大隊の一個中隊は中央、右翼にも小川又次司令官のもとに三個中隊がある。左翼は司令官吉田道時少佐で右赤木村並ニ屋形山ノ賊ヲ掃攘シ續テ仁田原村ニ進撃スである。「戰記稿」巻四十七の6月18日でも屋形山の名が出てくる。

左翼・司令官吉田少佐・屋形山・進路方略(赤木村及ヒ屋形山ノ賊ヲ掃攘シ尋テ仁田原村ニ進撃ス

 左翼指令吉田道時少佐の作成した19日の戦闘報告があり、それにより想定地を踏査した結果、屋形山がどこにあるのか結論を出すことができた。上の図に屋形山の推定位置を示す。

 

C09084472900「明治十年豊後口 樞要書類綴 第二旅團」防衛省防衛研究所蔵0050・0051

明治十年九月十九日豊後國海部郡赤木村及屋形山戦闘報告全

六月廿日 第貮旅團歩兵第十聯隊第二大隊長 陸軍少佐吉田道時㊞ 総員135人 ※第2中隊と第3中隊各1人が負傷

      戦闘景之部

本日赤木村及屋形山攻撃ニ付援隊ノ命ヲ奉シ午前第四時各所之守兵ヲ引揚集合上直見村ヲ発シ夫々部署ヲ定メ赤木谷へ向ケ進軍シ市屋敷村ニ在ル賊ヲ撃チ退ケ左右山頂ノ要地ニ進ムル処直ニ開戦前面村落及山脉ニ在ル賊ヲ猛撃挫折シ尚各所ヘ兵ヲ分チ挑戦ス此時賊前面之小山ニ登リ我往還ノ通路ヲ横射スルヲ以テ兵若干名ヲ市屋敷村右側半服ニ進マシ之ヲ狙撃ス終日劇戦黄昏ニ至リテ不止依テ守禦ノ命アルニ付本道及左右山頂ノ要地ニ塁ヲ築キ固守ス然ルニ翌廿日午前一時頃賊退去ノ景况アリ直ニ斥候ヲ出シ黎明赤木村へ繰込ム

    雜 報 之 部

     分 捕

和 銃          弐 挺

雷 管          五百粒

 赤木村と屋形山攻撃の為、まず赤木谷に進軍している。賊前面之小山ニ登リ我往還ノ通路ヲ横射スル市屋敷村背後にあって東に突き出た小さい尾根から薩軍が往還を射撃していた、ということだろうか。これを攻撃し、次に山脈の薩軍と交戦し、黄昏時になっても戦いは続いている。戦闘報告により官軍の進路を図化してみた。

 市屋敷から背後の山に登り、戦跡を探してみた結果、薩軍台場跡2基、官軍台場跡1基と考えられるものを確認した。そのうち、上図で右部分に点線で拡大したところは両軍が撃ち合った痕跡があった。見つけた銃弾スナイドル銃弾は台場跡略図にそれぞれ地点を記入し市教委に提出した(興味本位で遺物を探すのは止めてください。盗掘になります)。歩いたうち、一番西側は鉄塔が立っておりその建設の際本来の地形が削り取られていて、旧地形は消滅している。以上の状況からここが屋形山だと考えた。

 薩軍の二つの台場はこの一塊の山の北部にあり、北東側を向いて築かれている。しかし、官軍は市屋敷から登ってきて薩軍の背後から攻撃したことが分かる。

 屋形山を守っていた薩軍兵士の上申書がある(「有川二平太上申書」『鹿児島県史料 西南戦争第三巻』pp.209~212)。少し前から引用する。

(※臼杵に)居両三日、切畑ニ退テ守ル、六月十六日頃三国峠ノ敗報至ルニヨリ我隊モ赤木村ニ退ヒテ我左小隊ヲ二ツニ分チ、一ハ本道、一ハ右翼山手ニ備フ、同十八日頃官兵大雨ニ乗シ来リ逼ル、我兵奮戦寡ヲ以テ衆ニ当リ、朝ヨリ夜ニイタリ防戦尤モ力メ敵ヲ斃ス無数、我隊戦死三人・手負七人アリ、夜半雨益烈シク諸道ノ橋落チテ弾道絶ス、ヨツテ為ス能ハス、午后十一時惣軍退テ陸地峠ヲ守ル、

 屋形山だけでなく、赤木谷の東側も調べる必要がありそうだ。一部は歩いたけど。もう一つ(「東郷静一上申書」『同』pp.317~319)

(※竹田で)同卅日味方遂ニ破レテ小野ノ市ニ退、翌日我十番外ニ一中隊ハ佐伯ニ進軍ス、二日ヲ経テ切畑ニ退ク、六月九日臼杵ノ敗軍ニ依リ我カ隊ハ下直見村ニ塁ヲ築キ固守ス、然ルニ報知ノ誤リニ依リ復退テ赤木村ヲ守ル、官軍襲来、味方大ニ苦戦、其夜大雨暗黒ニ乗シテ退テ不動野越ヲ保ツ、陸地破レテ松瀬ニ退キ

 東郷の部隊は臼杵には行っておらず、竹田退却後は宇目小野市から佐伯に進んでいる。下直見村ニ塁ヲ築キは簾山のことかも知れない。不動野越は県境陸地峠から宮崎側に下る尾根筋らしい。ここでは陸地峠を指すのか。

 屋形山戦闘の翌日、官軍赤木谷辺りを探らしたところ薩軍は一人もいないことが分かった。

C09084047600「戦闘報告原書 第二旅団」明治十年五月一一日~七月十七日防衛省防衛研究所蔵1146

此分ハ別紙ノ後チ来着ノ報告

昨日ヨリ赤木村進撃之義畧申進置候處尚過刻彼之地へ向ケ斥候兵ヲ派遣シ處〃探ラシムルニ赤木谷辺ニハ一ノ賊兵ヲ不見故ニ其侭本隊ヲ横川ニ繰込尚賊ノ退路ヲ探ラシムルニ彼等大原及ヒ重岡ニ潰走セシ由只今戦闘線横川之内月形村出張堀江中佐ヨリ報知有之候ニ付則チ不取敢此段及御通知候也

              上直見村ノ内南村

  六月廿日          黒沢陸軍大尉

     児玉陸軍少佐殿

六月廿日雨天拂暁ヨリ賊塁ニ突入スルヤ豫メ支フル能ハサルヲ暁リ夜間竊ニ逃走セリ依テ午後四時小川谷ニアル小繃帯所及其他警備ノ隊不残月形村ニ繰込ム

 官軍は屋形山の薩軍台場に突入したところ、南方の宮崎県方向に退却した後だった。この大雨は西方の重岡周辺にいた薩軍の場合も同じで、宮崎県の延岡・熊田から食料・弾薬の補給が途絶えたのに困った薩軍は、19日から20日にかけて大分県内から熊田方面に撤収してしまった。

C09084047700「戦闘報告原書 第二旅団」防衛省防衛研究所蔵1148・1149

十八日ヨリ以後ノ報知

十九日雨天小野市方面ハ休戦二十日雨天本日休戦ニテ榎木峠ヨリ左ノ山上に砲ヲ備ヘ賊塁ヲ砲射ス外ニ差タルヿナシ

小野市方面今日ノ模様ハ臼杵口官軍重岡ニ近迫スルヲ待ノミ重岡近村横川辺ニ来迫スレハ小野市方面モ一挙シテ重岡ヲ拔ク手筈ナリ只彼ノ方面ノ砲声近附クヲ待ツ

ノる□ニ記ス(※この部分意味不明)磯林(※第二旅団附、磯林真三少尉)ノ報知ニ依レハ臼杵口モ今明ニハ重岡ニ迫リ入ル模様

野津大佐ハ去ル十八日夜第九時頃小野市ニ帰ル直ニ小官奉命シ来ル所以ヲ上申仕候処彼レ承諾ノ後何分重岡ヲ乗取迠ハ当所ニ滞留スヘキ沙汰セラレ候間申送リ候也

 官軍は西部では宇目の小野市東の榎峠で南東の重岡にいる薩軍と対峙していた。この時、東方では臼杵を退去した薩軍が佐伯から直川まで戦いながら退却中だったので、その方面の薩軍もしばらく待てば宮崎県境を越えて逃げて行きそうだと判断していた。

六月廿一日雨天第一中隊及第二中隊ハ竹脇村ニ進入第三中隊ノ左小隊ハ大原村エ進発直ニ大原峠ニ大哨兵ヲ配布ス

 大分県南部から薩軍が消えたので、替わって官軍が大急ぎで警備を布いたのである。下図にあるように官軍の守備線が大分県内に入り込んだ部分が多いのは地形のためである。南北方向に走る尾根では守りにくいので、東西方向の尾根があるところに守備を置いたのである。

 宇目の大原から南東側に尾根筋を登ってゆき、県境尾根に着くとそこは東方向の陸地峠に通じる尾根が西端で屈折して南方向に行く。その南北尾根を南下する路線が大原越であり、県境尾根にたどり着いたところが大原峠だろう。

 上図の①には6月2日に築かれた台場と、24日に宮崎方面から攻撃されて退却した後、再び県境尾根を取り戻して官軍が築いた台場とがある。小川の部隊は大原峠というから図の左端の県境尾根を守ったのである。

六月二十二日晴天第三中隊右小隊ヲ大原村エ進入セシム

六月二十三日曇天午前月形村ヲ発シ同十一時頃重岡田野村ニ到着里程凡四里亦第三中隊ハ大原峠ヲ第四中隊ニ譲リ辯路ヲ経テ重岡ニ来會ス又第二中隊ヲ水ケ谷ニ派遣シ梓峠ヲ警備ニ充ツ

 板戸山・梓山は水ケ谷集落にある。下は大分県側上空から見た板戸山。

六月廿四日雨天午前五時三十分頃賊赤枩峠エ襲来ノ報アリ依テ第一中隊ノ内二分隊茱萸ノ木ケ峠ニ進メ賊ノ背後ヲ討タシム亦残リ兵員ヲ田ノ峯ニ進マシメ同六時頃第四中隊ノ一小隊ヲ第一大隊ノ援隊トシテ赤枩峠新道ヲ進マシム我線已ニ破ル故ニ轉シテ此小隊ヲ六十峯ノ右側ニ配布シ第一大隊第三中隊ト共ニ賊ノ襲撃スルヲ禦ク彈丸雨住賊數十ヲ斃ストモ勢ヒ猖獗此時遊撃兵一小隊来リ援ス亦第四中隊ノ一小隊ヲ援隊トシテ赤松峠ニ進マシム于時大雨深霧咫尺ヲ辯セス五時頃ニ至テ賊終ニ潰走ス依テ第一中隊二分隊田ノ河内ノ峯ニ引揚ケ同処ヲ警備ス第四中隊ハ第一大隊ノ舊線ニ復ス守ル同第七時三十分頃第四中隊ノ右小隊ハ第一大隊第三中隊ト交替ス此日賊ヲ斃スヿ數十名亦此際赤松峠ニ向フ第四中隊ノ一小隊ハ最モ奮戰セリ即死軍曹小宮荏三郎外二名負傷曹長清水英蔵外十名アリ

 

 大雨のために延岡や熊田から食料・弾薬の補給が途絶えた薩軍は6月19日から20日にかけて大分県内から宮崎県北部に退却した。しかし、大分県方面の侵攻を担当した奇兵隊長の野村忍介は簡単に諦めなかった。野村自ら2,500人の奇兵隊を率いて再度大分県内を目指し、東部の陸地峠方面と西部の赤松峠・豆殻峠方面に分かれて進軍した。陸地峠は深夜の行動で道に迷い予定通りに行かなかったが、西部の赤松峠方面は計画通り進んだ。

 6月19日から20日薩軍奇兵隊大分県から撤退したのだが隊長の野村忍介は再び侵攻することにした。薩軍側の戦記「薩南血涙史」を引用する。

六月二十二日

野村七中隊を率ゐて熊田に至り諸隊長を會して曰く「事の玆に至るは諸君の過にあらず實に余の不才の致すところなり余甚だ之を慙づ、然れども今日の事猛進して機を制するにあり苟も逡巡して機を失せば延岡地方亦た保つこと能はざるべし既往は之を不問に付し共に力を戮せて今後の回復を圖らん」と、諸隊長皆之を賛し終に重岡を攻擊するに决せり時に中津隊長增田宋太郎進みて曰く「明朝の事死を以て盡さん願くは我隊をして先鋒たらしめよ」と、衆之を聞きて皆感激せり、(※部署の割振りが続く。簡単に記すと1.中津隊等5個中隊が切込谷に向かう・2.薩軍2個中隊と竹田報国隊1小隊が野村の指揮で赤松谷に向かう・3.米良一之介が4個中隊を率い宗太郎越に向かう・4.川久保十二の指揮で4個中隊が陸地口に向かう・5.佐藤三二が鐙の本営を守り、重久隊は諸方面の援隊とする)。

六月二十四日

天方に明くる頃ひ時期を過たず陣ケ塚の曠原に達す、而して前面を望めば官兵の壘壁數十を設け恰も連珠の如し其距離五間餘、增田隊、守永隊等進んで之を攻む戰ひ忽ち激し、此時本道の砲聲亦激しく聞ゆ守永隊小隊長金田徴、半隊長大田原弘道、直に拔刀兵を勵まして進む增田隊又劣らず拔刀先を爭ふて突進し忽ち其壘を拔く、尋で伊東隊、小濱隊及び堀隊彈丸雨飛の間を冒し猛然として進み午前九時に至りて其六七壘を拔く、此日や諸隊の鋭氣平日に十倍し敵屍を踏みて邁進し重岡已に眼下にあり一氣之を屠らんとす、敵は殘る所の一壘に據り攅銃雨射し死力を盡して之を拒ぐ、亦一隊の敵兵山を傳ひて横擊せんとするの勢ひあり守永隊の右小隊長金田徴一隊を提げて之に當る、此時に際し雨益々劇しく丸愈注ぐ中隊長守永及び其左小隊長米良重明、中津隊長增田宋太郎先登に進みて兵を指揮す、總指揮長野村忍介も本道より各所の兵を集め來りて亦指揮を加へしが忽ち右腕に銃丸を受く、此際諸道の砲聲劇甚山叡(叡に土)を震動す守永隊の左翼最も先の地に進み殘る所の一壘を蹂躙せんとし兵士二十五名を縦ち拔刀猪突已に壘に入らんとす時に官兵左翼を縦ち激しく横擊し進むこと能はず。

 後は宗太郎越・陸地峠などの記述。ここでは赤松峠一帯について述べるのでそれらは略す。

 中津隊は切込谷に向かうことになっているが、どこまでも谷底を進むのは危険であり、途中で尾根筋に上って進んだだろう。赤松谷は明治6年に大分・宮崎間の公式路線になった道筋である。それまでは古代間道を踏襲し県境の梓山から黒土峠・長峰・城之越を抜けていたが、梓山に登るのがきつく、明治6年に東方の赤松谷を通るように変更されていた。赤松谷の西側に南北に走る尾根があるが、この筋は中世には使われていたらしく、「薩南血涙史」にあるように途中には陣ヶ塚と呼ばれた場所があったのだろう。下図では赤松古道の中で市場標高が高い場所に陣ヶ塚を想定した。切込谷はその西側にある谷である。地名は南側の県境にある切込山に由来する。 

 前面を望めば官兵の壘壁數十を設け恰も連珠の如しというのは赤松峠一帯の官軍陣地群の状態と符合する。上の図を拡大してみた。赤松古道の尾根道を進んだ薩軍が見たのはまさに連珠のように並んでこちらを向いた官軍台場群だった。図の方眼は500m。50mに1基以上の台場跡が存在する。これらを見たときは時間が止まったような感じがした。

 

 切込谷と赤松谷に7個中隊と1小隊が進んだが、陣ケ塚というその中間の尾根筋も進んでいる。同様に切込谷の西側の尾根を進み水ケ谷に迫った者もいたし、赤松谷の東側の尾根を進んだ者もいた。官軍側が記しているからそれが分かる(C09084479400「明治十年 豊後口枢要書類綴 第二旅團」防衛省防衛研究所蔵0208)。

本日午前第六時賊兵我重岡口赤松越水古尻畑水ヶ谷之諸口ニ襲来一時劇戦終ニ賊兵ヲ追退ケタリ依テ此段及御通知候且ツ今後之模様モ可有之ニ付貴官御回□之義追而従分之義可申進候間両三日之間其地へ御滞留相成度此段御通知旁申進候也

  六月二十四日 野津大佐

  野崎中佐殿

 赤松越水古尻畑水ヶ谷の部分の畑は畑水が正しいらしい。赤松越水古尻畑水ヶ谷である。下の報告ではそうなっている。

六月廿五日晴天当大隊ハ梓峠口持塲ノ處昨日賊襲ヲ受ケシヨリ全隊該處ニ到ルヲ得ス亦赤枩峠第一大隊ノ警備線ニ連絡スルヲ以テ梓峠ノ警備薄弱ナク

六月廿六日雨天第一及第三中隊ハ十六峠エ第四中隊ハ赤枩峠エ大哨兵ヲ配布ス

六月廿七日雨天有志輩第一中隊ノ應援トナル亦切込谷ヨリ攻撃路ヲ探索セシム

六月廿八日晴天賊「ヱコノ一ノ胸壁(※エコオノの胸壁が正しいが何故か意味不明にしている)ヲ候ヒ又梓峠ノ警備線ヲ候フ

六月廿九日晴天賊八戸ヨリ川ニ沿ヒ下赤村及矢立峠ニ出没シテ木浦口ノ舉動ヲ候フ下赤ノ出入夛ク賊ニ従フ

六月三十日晴天賊赤松峠及陸地峠ニ襲来スルモ我軍撃破スルヲ以テ不日兵ヲ撰ミ挙木浦口ノ口ヲ劇チ重岡ノ背後ヲ襲ント計ルノ探偵ヲ得警備最モ嚴重ナリ