西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

臼杵市甲﨑山の戦跡② ※長くなると読みづらいので②とした。

 6月10日、官軍右翼が大迂回を行い薩軍の背後を攻撃し、これが契機となり臼杵の戦いは官軍の勝利で終わった。その前日、迂回した官軍は川ナシ峠へ配兵、露営したとのことだが地名から川ナシ峠がどこにあるのか分からなかったので、今日、下図の南下する矢印の尾根を歩いて調べた。距離にして1.6㎞。楽な方法をあれこれ考えた結果、尾根沿いに走る舗装道路の所々に駐車し、少しずつ尾根に台場跡がないか調べてみた。8時に出発し、16時半に帰宅した。なお、鎮南山と姫岳を結ぶ尾根筋の西半分も今日の後半に歩いた。10月2日から涼しくなって、今日は全然汗をかかなかった。

 下は先日撮った野田村谷山ノ峰通りの北部。左に向かい高くなる緑の山並み。集落は阿蘇溶結凝灰岩の台地上に立地する。伐採地で「王」の字の火焼きをする。

 国道から少し入った所に古そうだが感じのいい一群れの建物があった。画面の中央から左半分。背後の一番高い山は鎮南山かな。

 下の方の図の赤破線が歩いた尾根。立石山の少し南側から撮ったのが次。集落は阿蘇溶結凝灰岩台地に分布する。

 上図の谷山の峰通り1号・2号は今回見つけた台場跡らしきものである。台場跡は誇張して表示した。下の図でも。

 上は谷山の峰通り1号台場跡を西側から撮った。7m位上に頂上がある。

 1号台場跡は背後の頂上よりも南側十数mにあり、5m前後低い。頂上は平たく比較的に広いが確認できる状態の遺構はなかった。ここなら多数の兵士が野営できそうだし、倒木でも横たえれば台場の代わりになったのかもしれない。1号の前方には細い尾根がやや下っており、それが左に曲がりかけた平坦地に2号台場跡としたものがある。図化しなかった。

 ①で引用した「松岡用務所日記」を再び掲げる。

仝八日 (前略)〇右翼野津市口ヨリ進ム官軍壱大隊ヲ割シ其壱分ハ中臼杵ヨリ荒田峠ヲ経野村字手無地藏迠進ム賊神嵜ニ在リ接戦然ルニ賊神嵜ゟ野村ノ山林ヲ経テ官軍ノ横間ヨリ砲発ス故ニ官軍進テ荒田村ニ在リ〇午後六時三十分賊野村ノ民家両三軒ヲ焼ク官軍此民家ヲ楯ニシテ砲発スル故賊來テ放火スト云フ〇其壱分ハ本道ヲ進行壱分ハ深田村ヨリ姫 

嶽山ノ尾通リヲ取切ルト聞ク〇賊ノ砲臺右翼山南、洲嵜茶山津久見峠🔲尾、小川内、神嵜、(略)等其他所々ニ築柵アリト云フナリ

 青字部分には薩軍の台場が鎮南山頂上北側の山南(山菴)にあるとしている。用務所は官軍に協力していたので、官軍も山南に薩軍台場があることを知っていたと思う。それで、谷山の峰通り(川ナシ峠)を進軍する際も尾根の前方に薩軍が鎮南山方向から迂回攻撃してくることを想定し、峰通り尾根の南を向いた台場を築いたのだろう。

姫岳

 その後、姫岳の北1000mに林道脇の広場に駐車し、そこからだらだら登りの尾根筋を通って姫岳頂上へ。途中、右側にある林道が見えたら直行しようと思ったが見えなかった。

 頂上から木立の間に津久見市街が見えた。

 姫岳頂上に「豊豫要塞第三區地帯標」石柱が立っていた。登山は二回目だったが、この存在に以前は気が付かなかった。 

    みさき道人"長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”というのをネットで見つけた。それによると、すでに高橋輝吉氏が姫岳の石柱を公開しているとのことである。現地で読めなかった上部には「F. Z. 3rd Z」と刻まれているとしており、これはFort. Zone. third Zoneの略。下図はその転載。豊豫要塞地帯の範囲を示した地図である。この種の石柱は以前、陸地峠の東方であり且つ石神峠の西方県境の台場傍でも見たことがあり、「西南戦争戦跡分布調査報告書」2009 pp.107で触れている。

 防衛研究所蔵の原典には姫岳という記入はないようだが、原典を補強する石柱である。

 1435年(永享7年)、豊後の守護大友氏12代の持直が守護職の任命について幕府の意見に抵抗してこの姫岳城に籠城した。幕府は中国・四国の大内・河野などの守護を派遣して包囲し、持直方は臼杵の水ケ城や王子城などの支城を配置して対抗したが結局、姫岳城は翌年                    落城 している。

 まず、姫岳頂上の北側尾根を1㎞ほど登って接近し、頂上周辺の遺構を確認して略図を作成した。すでに「大分県中世城郭・・」報告で縄張り図は示されていると思っていたので台場跡を中心に図化した。帰って確認したら姫岳城跡は文章記述だけしかなかったので、残念。略図はあくまでも台場跡中心の略図であり、縄張り図がないと分かったので修正の必要がある。

 台場跡1は西部が8.7m×4.5mのくぼ地で、東側に弧状の土塁跡らしきわずかに盛り上がったものがある。また、くぼ地の南側にもわずかに土塁跡と思われる低い高まりがある。これら土塁の痕跡は周囲の地表面と土色が異なり、明るい。くぼ地の底は地表から50㎝位あるが長年の間に埋まっている。

 台場跡2は長さ2.5m程度と小さく、疑い無きにしも非ず。帰ろうとしたときに見つけたので、図は不正確。土塁部分は痕跡的。

 

 姫岳登山のネット記事を見ると城遺構について記したものがない。

 頂上からは四方に、上から見ると十字形に尾根が下がっている。登って行った尾根では頂上手前、高さでは18m位下位に平場が削り出されている。右手の尾根は帰りに500m位先まで行ってみたが遺構はなかった。その頂上部に8m×3m程度の平場があり、頂上側との間は掘り切られている。

 頂上は長さ40m、幅7mほどで、周縁はなだらかで、頂上平坦面との境は不鮮明だった。最も高いのは中央部やや西寄りで、三角点がある。図示するように「姫嶽大權現」と彫られた石塔が一基。文字は南向きの面にある。その方面の人が奉納したのだろう。

 平日だったからか、あるいは普段登る人が少ないからなのか、今日一日山中で誰にも逢わなかった。

 「中谷ノ峰通リ」がどこなのかを検討してみた。立石山から南に続く尾根筋が鎮南山と姫岳を結ぶ尾根にぶつかる場所まで、そこから姫岳までを踏査したのだが、まだそこから鎮南山までは見ていない。しかし、台場跡の分布状態から判断しておそらく立石山を含む南北尾根筋が「中谷ノ峰通リ」と呼ばれたのだろう。そして台場跡がある付近が川ナシ峠だろう。

 6月9日、官軍右翼が野営した中谷の峰通りが立石山の南方、台場跡を確認した尾根であるとすれば、「戰記稿」の記述と異なり官軍は姫岳に行っていない。とすれば姫岳の台場は何時造られたのだろうか。6月10日、官軍迂回部隊が薩軍背後を奇襲的に攻撃したこともあって、薩軍臼杵から敗走した。その直後の動向について先に掲げた野津大佐の報告を部分的に再掲する。

爰ニ於テ左翼「ケゴヤ」前面ノ山ヨリ右翼建岩及ヒ姫嶽ニ警備線ヲ取り兵ヲ配布スルノ部署ヲ定メ堀江野﨑等ト左ノ通リ約定シ直チニ其地ヲ出発シ本日午后第五時牧口出張ノ本営ニ帰ル

 ケゴヤ津久見市街地南部にある。建岩は場所不明。姫岳頂上の台場跡は6月9日に築かれたのではなく、10日の臼杵攻撃終了後に薩軍が南側の津久見・佐伯方面に退却したのを受けて警備線を設けた際の物だろう。野津報告に出ている警備線を地図に落とせば次のようになろう。

 赤い破線は薩軍臼杵から退却し津久見・佐伯方面に移動した後、官軍が設けた警備線である。薩軍津久見には留まらず大急ぎで通り過ぎて佐伯に移動しており、建岩の位置は分からないが官軍警備線は図のようになったとみられる。したがって姫岳の台場跡はこの時点の物であろう。堀江中佐と野崎中佐の隊は上掲の官軍守線設置に10日後半から取り掛かったと思うが、6月11日の野崎中佐の動向を示す電報綴りが存在する。C09083756900「探偵電信報告 出征第一旅團」防衛省防衛研究所蔵0537  

      昨十一日臼杵ヨリ下青江村へ帰陣スル第二旅團参謀野嵜中佐二謁シ進軍及

      ヒ賊情等聞ク左ノ通リ

一明十二日當村ヱ糧食課移轉セシム都合ニ依リテハ海軍方へ約シ不日佐伯ヘ進軍

   スルノ積リト虽ノモ堀江方都合次第ナリト

一野﨑隊当分惣員六百四拾五名堀隊七百名余アリ都合一千二百余アレハ佐伯ヘ進

 軍スル决シテ不足ナシト云ヘリ

一賊軍ニハ是非四国へ渡海セントノ手段アリト然シテ賊軍本営ハ目今日向ノ國内

 ニアリ ト云〃

 下青江村は姫岳の東斜面から津久見市街を抜けて豊後水道に流れる青江川流域の地名である。10日後半頃設置した守線の本営が置かれたのだろう。明12日に下青江村に糧食課を移転させるという様な積りだとあり、これから分かのは12日までは守線を継続したのだろうということ。そして13日に佐伯に移動した電文がある。

  六月十六日午前九時五十五分小澤大佐ヨリ電報ノ譯

野嵜中佐堀江中佐ノ兵ハ去ル十三日佐伯ニ達シ同所ヲ占メ本営ヲ床木村ニ置ク同所口共打合セ日州口ニ進ムヘシ又野津大佐ノ兵モ十三日重岡口進撃ノ筈ノ処賊二百人計リ見國峠ノ本道ヨリ三重市口へ襲来我兵嶮ニ拠リ固守ス賊兵進ム能ワス十四日暁三時ヨリ我軍進撃中ナレノモ未タ報知ナシ

前条之通双方ヨリ報知有之ニ付此段御通知ニ及フ(同上0567)

 13日に佐伯の床木村に移動したことが分かる。実質三日間くらいこれらの山上を警備したのである。

 姫岳の遺構については題名を替えて記述したい。

おわり