西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

大分市と臼杵市の境にある官軍台場跡 

 西南戦争の最中、竹田市の東にある三重町から臼杵市内に薩軍が侵入し、一週間ほど後に官軍が臼杵を奪い返しに行くという事態があった。この時の戦跡を調べることを以前から繰り返してきたが、最近やっと大方の分布調査が終わったので少しずつ加筆して紹介したい。これらの戦跡は激戦地でないばかりか小さな戦闘さえ行われていない。単に官軍が進軍して野営した場所である。

 初めに記録類を掲げ、後でそれを日毎に分断して記述しようと思うが、書きにくい。

 大分県内で戦った官軍の大部分は熊本鎮台(本部・第十三聯隊・第十四聯隊・工兵第六小隊)だった。この他第六聯隊の一部、遊撃第四大隊、警視隊が来県したので、彼らの記録から見ておきたい。ここに至るまでの進路は第十三聯隊は竹田・三重・野津を経て臼杵に向かおうとしていた。第十四聯隊第二大隊は小倉枝隊と呼ばれており、小倉が駐在地だった。別府を経て大分に6月2日大分城に入り、3日大分川下流左岸の古国府に進み、4日横尾に散兵線を布いた。横尾は大野川の支流乙津川の左岸である。どちらも川を前にした地で守備に便利である。以下は熊本鎮台第十四聯隊の記録である。

  六月四日

第一中隊午前大分城ヲ発シ横尾村ニ進軍臼杵士族若干名随行ヲ請フ許サル〇三重市戦死人埋葬方ニ付同隊伍長東伴七銃卒一名大分城ニ残ス

古志中尉ハ第二中隊右小隊ヲ引率シ大分城ヲ出テ左小隊ニ合ス藤井大尉中隊ヲ引ヒテ横尾村ニ進軍

六月五日

迫水少尉試補ハ第一中隊第一小隊ヲ率ヒ廣内村ヘ分遣ス古志中尉ハ第二中隊左小隊ヲ率ヒテ岡村ニ進ミ各支道ニ哨兵ヲ布ク市尾村ヘ分遣哨ヲ置キ軍曹ヲシテ交々指揮セシメ藤井大尉右小隊ヲ指揮シ横尾村ニ駐リ其地ニ警備ス (乃木大将所蔵「西南戦争従軍日誌 第十四聯隊第二大隊」)

 官軍は3方向に分かれ、少しずつ臼杵に向かって行った。

「熊本鎭臺戰鬪日記」巻二 五十五

六月六日  本營 馬見原  出張參謀部 竹田 牧口

第十三聯隊第二大隊ノ内二中隊ヲ般若寺村ニ同第三大隊ノ内二中隊ヲ佐柳村ニ轉移セシム

工兵第六小隊第三分隊午前第八時中津

留村ヲ發シ府内方面ノ戰線ニ至リ胸墻六個ヲ築キ午後第八時中津無禮村ニ歸舎ス

 工兵隊が築造したのは戸次へつぎ近郊の般若寺村、佐柳村周辺の低い山間部だろう。

六月七日  本營 馬見原  謀部(出張參) 竹田 牧口

臼杵攻擊ノタメ第十三聯隊第二大隊戸次ヲ發シ野津市ニ同第三大隊ハ吉野峠ニ第十四聯隊第二大隊ハ廣内峠ニ出張シ工兵第六小隊第二分隊ハ吉野峠ニ廠舎四棟ヲ築造ス

 広内峠は九六位峠のことだろう。工兵隊が吉野峠に建物4棟を築造。

第二旅團ノ内少佐吉田道時ノ一大隊少佐諏訪好和ノ一大隊中佐野崎貞澄之ヲ引井昨夜府内ニ着ス

 第10聯隊第2大隊329人(吉田道時少佐)・第11聯隊第3大隊362人(諏訪好和少佐)

 

6月8日官軍の部署

六月八日  本營 馬見原  謀部(出張參) 竹田 牧口

  臼杵進擊目的ノ概畧

 8日実施予定の進撃方針で、左翼は九六位峠・再進峠・白山峠からの進路予定である。

左翼

 白木再進及ヒ白山峠ノ諸兵ハ黎明ニ末廣村ノズツポウ及ヒ井村ノズツポウ山ボハニ達スル如ク時間ヲ期シ各哨處ヲ發程ス尤モ白山越ノ兵ハ此ノ途中或ハ龍王山ニ達スルノキト雖ノモ始終左翼敵兵ノ動静ヲ注意スヘシ各ズツポウ山ニ達スルヤ中央ノ模樣ニ應シ之ト齊ク進テ無田橋ヲ攻擊スル動作ヲナスヲ要ス 

 ズッポウとは何か分からない。先端という意味だろうか。無田橋は江無田橋が正しい。峠を白木・再進・白山の三つ揚げている。その白木峠は現在九六位峠とよばれ、7日の同じ日記で北西麓の集落名から広内峠と呼んだものと同じだろう。官軍の台場跡が分布するのは峠とその北側の尾根筋である。再進峠は国土地理院地図では左右の峰の間の低いところにその名が記されているが、官軍の台場跡が残るのは南側の嶺である。地図上に白山とある所には自然洞窟に白山神社の小さい祠が安置されている。そこから南西約740mのところに三角点「白山」がある。この山は横から見た形が船底に似ており、遠くから見分けやすい。白山神社も「白山」もその付近から南側の臼杵に下る車道はなく、森林基本図によれば歩いて通れる山道があるらしい。

中央

 諸隊前夜吉野峠ニ露營シ末明ニ久木小野ニ向ヒ速ニ札山ヲ乗リ取リ左右ノ動静ニ應シ續テ水ケ城ヲ拔クノ目的ヲ以テ進擊スルヲ要ス

 吉野越・松原越・峠城跡に露営した部隊の進路予定である。札山は場所不明だが、記述の順序から見て水ケ城の手前で久木小野の付近らしい。

右翼

 野津市口ハ黎明ニ至ルヤ武山及ヒ陣坂ヲ占メ中央ト齊ク臼杵街道ニ向テ進擊スルヲ目的トス

如此概略ヲ定ムルト雖ノモ戰ノ模樣ニ依リ變化スルヲ以テ機ヲ失フヿナク臨機ノ處置ナカルヘカラス」

 次に進撃方面毎の部隊名が続く。煩わしいが誰がどこに向かったのかも知っておきたい。

  臼杵進擊ノ部署

左翼白木峠

 攻擊兵    第十四聯隊第二大隊第二中隊 ※中隊長大尉藤井高雅。この部隊の記録乃木大将所蔵「西南戦争従軍日誌」がある。

        警視隊三番小隊 ※三番小隊は小隊長三等少警部中澤直亮。総員112人。

 援隊     第十四聯隊第二大隊第一中隊 ※中隊長大尉北楯利盛。「西南戰鬪日注並附録」では援隊は第二中隊。

 白山越攻擊兵 遊擊第四大隊第一中隊2月30日第四大隊には長スペンサー銃189挺が割り当てられている(C09081953)。「西南戰鬪日注並附録」では第一中隊は白山越ではなく再進越となっている。

        第六聯隊第三大隊第四中隊※6月8日段階では軍人137人。中隊長大尉北川正興(C09084317800)。

  右司令官少佐奥保鞏

中央松原峠吉野越

 攻擊兵    第十三聯隊第三大隊第一第三中隊※第三大隊総員は646人。第一中隊長大尉小島政利。第三中隊長大尉寺内淸祐

        警視隊六番小隊※「西南戰鬪日注並附録」では上記第三中隊はなく、警視は警視四番小隊112人三等少警部末永才介。六番なら二等少警部池田九十郎109人。

 援隊     第十三聯隊第三大隊第二第四中隊※第二中隊長大尉瀧川忠敎。「日注」では第四中隊なし。

  右司令官少佐小川又次

 豫備隊    第十一聯隊第三大隊大隊長諏訪少佐。第二旅団。6月7日段階では軍人256人、軍夫6人の計263人(C09084317600)。「日注」では工兵一分隊もある。

  右司令官少佐諏訪好和

 大豫備隊   第十聯隊第二大隊第一第二中隊※第一中隊長大尉小笠原義從、第二中隊長大尉溝部素史。大隊総員は6月4日~8日段階では軍人303人、軍夫6人の計309人に馬1匹(C09084316700)。大豫備隊は半数の151人前後か。「日注」では同第三中隊もある。

  右司令官少佐吉田道時

右翼野津市口

 攻擊兵    第十三聯隊第二大隊第二中隊※大尉飯倉好察。第二大隊総員は632人だから四分の一の約158人。

 援隊     同第四中隊※中尉不破政利

 豫備隊    同第一第三中隊※第一中隊長宮崎定穀

  右司令官少佐林隼之輔

我カ軍部署ヲ定メ午前第四時三道ヨリ臼杵ノ賊ヲ掃攘セント欲シ水ケ城井村及ヒ荒田村ニ進擊ス獨リ中央突進直チニ水ケ城ヲ拔ク左右翼ノ攻擊少シク期ニ後ルヽヲ以テ目的ヲ達スル能ハス天已ニ明ルヲ以テ警備線ヲ設ク又工兵隊ヲ遣テ水ケ城ニ胸墻ヲ築カシム此日負傷大尉平佐良藏以下十八名即死四名ナリ

 中央は計画通り水ケ城を占領し、大豫備隊は中臼杵を過ぎ荒田村まで進撃できたが、左翼は江無田橋を攻撃する場所まで進めなかった。手前の諏訪山を奪えなかったからである。7日に戸次を出発し野津市に向かった第十三聯隊第二大隊が右翼軍である。司令官は林隼之輔少佐。

臼杵攻撃前に官軍が築いた台場跡(再進峠)

 白山峠白山口では台場跡を発見できなかった。踏査が不十分なのだろう。

 森林基本図(500m方眼)原図に濃淡があるので汚い図になった。黒い太線は自動車が通れる林道である。白山周辺では台場跡を確認できなかった。図上に再進峠台場群跡と記した南側は道路が直角に折れ曲がっているが、突角部から南につづく尾根に昨年から今年にかけて台場跡のないところに風力発電の塔が5基建設された。事前に大分市教委から付近の台場跡の分布状態を訊かれ、教えておいたのが効果を発揮したのだろうか。この付近は以前2016年に分布状態を確認済みだったので回答できた訳である。

 図の北部に再進峠とある場所が国土地理院が再進峠とするところだが、そこよりも南西側と南側に台場跡が3基ある。一番西が4号、それから1号・2号・3号である。1号は南向きに築かれており、この尾根の上面は南部が一番高い。土塁部分は内側の床面と同じ高さになっている。長さ24.0m。

 

 上は平面図の西側から中継塔に至る道路を撮影。台場跡は右の森の中にある。

 2号はそこから東側にあり(下の写真)、中継塔造成のため切り開いた長方形の場所近く、尾よりやや南にあり、下方を見やすい場所を選んでいる。付近には石英岩塊が露

出し、それを台場の土塁に取り込んでいる。土塁部分の末端は自然地形に漸移する。長さ10.9m、内側の床面に鉄棒を突き刺すと30㎝で硬化面となる。東側16.7mにも同様の3号がある。3号は東側から出入りする形で、長さ6.5m。上の人物のいる写真。

 4号としたのは1号の西1.2㎞にあり、尾根の上面で南西を向いて築かれている。近くにある鉄塔造成のため数m南西側は四角に削られているが、直接影響は及んでいない。台場の内側は一部掘り窪められている。台場跡の北側には山仕事用の古い径があり、4号はその南側に造られている。長さ6.5m。

 以上4基が再進峠台場跡である。

臼杵攻撃前に官軍が築いた台場跡(白木峠別名九六位峠

 広内峠と白木峠が記録に登場する。白木峠が現在九六位(くろくい)峠と呼ばれるところと同じであるのは間違いないが、別に広内峠と呼ばれた場所があった可能性がある。広内集落の先を登って行った峠だから広内峠は九六位峠のことだろうと考えたが、臼杵市史談会会長だった高橋長一著「臼杵物語」に下に示す挿図があり、両者は別物としている。広内峠とは下図の矢印付近か。右から右に白木峠(九六位峠)路線、下から左に松原から大分市方面戸次の佐柳に抜ける路線が描かれている。松原峠という地名は登場しない。

 広内集落と石柱。上図の緑色の高速道路と黄色の県道が交差する地点のやや東から撮影。

 九六位峠は車道とは別に旧道と思しき溝状の部分があり、その傍、東側に台場跡らしき土塁と内側の窪みがある。これを1号台場跡とする大分県教育庁埋蔵文化財センター2009「西南戦争戦跡分布調査報告書」)

 九六位峠交差点から道なりに約250mの尾根中央にあり、J字形の土塁が東向きに造られて内側は窪む。山仕事の小径が台場東部を通るように見えるが、台場築造以前からこの場所を通っていた可能性もある。下図の最下部の線はそばを南北に走る舗装道路の山寄りの線である。風力発電機建設中に大塚進也さんと作図練習したのがこれだ。

臼杵攻撃前に官軍が築いた台場跡(松原峠)

 峠城跡よりも北東側約2.2㎞に台場跡を1基確認した。下図赤丸の南西側にも小さな高まりがあり、いかにも台場を築いてもよさそうだが、中継塔のために旧地形が壊されている。赤丸の台場跡は北側の尾根を400m位探しながら歩いた最後に見つけたので、北側400mの間には台場跡はないと思う。

 上の図、右端に中継塔のために削って低くなった場所があり、その排土は台場跡の南西側斜面に薄く撒いている。次の写真、鉄塔の上部に長方形のアンテナのようなものがあるが、そのすぐ北側に台場跡はあり、遠くからでも位置の確認は容易である。現実には松原峠という特定の場所は存在しない、のかどうか今はそう呼ばないと思う。1号台場跡が向く東側には長く尾根が伸びており、それを東に進むと簡略した言い方だが臼杵市松原に行き着く。現在は全く廃れているが当時は松原村に通じる路線として機能しており、知られていた路線だったのだろう。そちらをにらんで築いる。したがってこの場所は松原峠と呼ばれたのだろう。

 数日前、1号台場跡の東に続く尾根を歩いてみた。尾根の北側斜面に舗装道路が尾根を取り巻くように下っている。尾根は手入れされていない森で、尾根筋中央に高さ1m弱、幅1m前後の土塁のような、おそらく道路跡がくねくねと続いていた。やはり路線があったのだろう。樹木に覆われており、適当な写真は撮れなかった。同じ場所を人が踏締め続けるとそこがまわりよりも硬くなり、雨風でも流されにくくなる。長い年月が経つと道の左右は流されてしまった結果、道だけが土塁のように残ることになる。戦跡を探して歩いた際に経験したことである。

 臼杵史談会会長だった高橋長一(小学校に入学したとき校長だった)著「臼杵物語」に大分市夜明ヶ城と九六位山の中間を通る道が臼杵市松原から大分に行き来する道筋として示されている。現在の地図に古道を概略で入れてみたが、草木に埋もれた山道などの情報に基づいていない想像である。

 台場跡を確認し松原峠1号台場跡とした場所は松原―宮河内路線からは離れている。夜明ヶ城と九六位山の中間には台場跡がみられないこと、1号台場とした地点から松原に尾根伝いに行けることから戦記にある松原峠は1号台場のところでいいと思う。

 大分市横尾の南方に松岡という地域がある。西南戦争当時は第三大区十ニ小区と呼ばれ、そこの用務所が作成した公式記録「明治十年五月十四日ヨリ 日記」に西南戦争が頻出する(高橋信武2019「松岡用務所日記」pp.345~pp.360『先史学・考古学論究』Ⅶ)。役場が官軍に協力し探偵や道案内、宿泊手配、県庁への報告を行っていたのである。その中に6月8日に野津道貫大佐を戸次から臼杵市末広まで案内した記録がみられる。消した上から記入した部分が多くて読みづらいので、日記筆者の目指したように消された部分は無視し引用する。

 仝八日 臼杵ノ賦(※賊)ヲ征スル参軍野津大佐ノ嚮導シテ本日午前三時三十分戸次市ヲ発シ道ヲ松原峠ニ取リ九六位松原村通村ヲ経テ末廣へ至ル戸長吉田廣次宅ヲ以テ本営トス〇抑此役ニ向フ官軍昨七日午後二時隊長壱大隊ヲ引卆シテ野津市口ヘ進行其隊長ヲ不知ヨリ此一大隊ヲ右翼トス仝日午後五時堀江中佐壱大隊ヲ引卆シテ吉野通進行仝日午後十一時三十分壱中隊吉野通進行是レハ蓋シ堀江中佐ノ援兵ナラン以上尽戸次市ニ在リシ兵ナリ〇白木口ヨリ奥少佐一軍二中隊斗ヲ卆引シ進行〇白山口ヨリ林少佐一軍二中隊斗ヲ引卆シテ進行スト云フ〇先陣堀江中佐ハ薩賊ノ虚ヲ察シ八日午前五時水ケ城ヲ乗取リ進擊ノラツパ一声直ニ海軍孟春浅間ノ弐艦之レニ應シ発砲数声賊ノ哨兵狼狽〇水ケ城ノ麓ニ在リ於是開戦堀江少佐ノ兵鯨波ヲ放チ直ニ山下ニ捍下シ丸尾谷ニ砲壘ヲ築ス賊江無田原ノ砲臺ニ據ル昼夜ノ接戦ナリ〇奥少佐ノ手ハ午後二時ヨリ末廣長尾野ニ砲臺ヲ築スノ砲臺井ノ村ノ山上ニアリ(※砲臺を消しているが生かすべきだろう)ト接戦深更ニ及ヒ賊江無田橋へ退ク〇官軍一手ハ末廣壱里松ニ出張賊壱ノ井出ノ砲臺ニ據ル〇・・

とあり、野津大佐が戸次を出発し松原峠から松原村・通村(これは場所不明)を経て末広に進行したことを知る。戸次から宮河内まわりで松原峠に行ったとも思えないので、1号台場跡がある場所が彼らの言う松原峠であり、1号台場も見ただろう。上の写真は北側から1号台場跡を撮影。

 松原峠1号台場跡から下図の林道と山道を車で下ってみた。途中から廃道状態で、次第に通り抜けられるのか疑問になったが無事辿り着けた。途中鹿と狸らしきもの1匹を見た。狸らしきものは以前、水ケ城に登った時以来臼杵では二回目だった(昨日4.29再進峠付近で狸を見たので3匹目。2秒くらいで視界から消えたので写せなかった)。

臼杵攻撃前に官軍が築いた台場跡(吉野越)

 6月8日の官軍の部署に松原峠吉野越というのがある。現在、大分市戸次から大分市吉野を結ぶ舗装道路があるが、西南戦争当時はなかったはずである。大塚進也さんのつぶやきを見ていてスタンフォード大学で日本の明治時代の地図を閲覧できると知っていたのだが、今回それを閲覧掲載する。

 昭和17年時点ですでに立派な道路が描かれているが、それに並ぶように西側に戸次の般若寺と吉野原を結ぶ山道が描かれている。峠とはこの路線の峠部分を指す言葉だろう。この道筋は現在の国土地理院地図では部分的にしか示されていない。これが西南戦争当時の吉野越ではないだろうか。

 上図に4号台場跡とある所の南側の尾根を歩いた。1号台場跡を見つけるまでの途中、台場が壊れた可能性があるものが二ヶ所南向きにあるのを見たが断定できなかった。1号台場跡は下図の東向きのものである。ずにあるように背後に怪しいのがあるが分からない。

      上は北側から見た吉野越1号。

    吉野越2号は東側から接近して発見した。下がその状態。除草などは行っていない状態。

 後日根切りばさみで邪魔者をなくした。画板を木に掛けている。

 

 3号台場跡は小笹が覆いつくしていたので刈り取るのに手間取った。しかも背後の頂上部で除草したやつを台場跡に投げ込んでいたので。

下図は吉野越4号台場跡としたもので、峠城跡のうち、南側に伸びた細い尾根にある。台場跡だと断定できないが、峠道を見下ろす場所にあることと1~3号の延長上にあることから台場跡であることを明確に否定できない。1号の北東側に続く尾根にも可能性のあるのがニヶ所あったが、再検討したい。3号から榎峠までには台場跡はなかった。

 

 グーグルアースによる鳥瞰(上の峠城跡などはこの画面右にある伐採地から撮影)

 今回紹介できた台場跡分布図全体を掲げる。右翼野津市口は地図の下部外側に1基あるが今回は触れない。紹介した台場跡は小範囲のまとまり四か所に分かれている。松原峠は未確認が多いようだ。白山越もそうだろう。市境にというよりも自然地形の守りやすい位置に野営地を選んだことが見て取れる。白山峠付近には記録では台場を築いたはずだが見つからなかった。九六位峠付近に官軍が来る前の段階で薩軍が進出していたらしいが、その台場跡も発見できていない。

 次は別の史料で同日の第十四聯隊第二大隊の動きを見る。

  六月六日

第一中隊横尾村ニ在リ

第二中隊古志中尉部隊ヲ引率シ白山峠ニ進ミ数ヶ所ニ堡塁ヲ築キ防御ノ準備ヲナス而シテ后同所ヲ第六聯隊ニ譲リ小在村ニ退ク(「西南戦争従軍日誌 第十四聯隊第二大隊」)

※小在村は小佐井村である。比べると「戦闘日記」が完璧な記録ではないとわかる。

〇黄砂も去り青空になったので日本のマチュピチュ松嶽まつがたけ北側の風神宮から撮影した。白山越の官軍が見た風景と変わらない。官軍はこの風景を眺めながら地形を理解し、方針を検討しただろう。当時、松嶽は藁葺きだっただろうがそれ以外はほとんど同じ景色だ。

 左翼・中央・右翼方面は実際どのような状況だったのか、記録を掲げる。左翼は白木峠、中央は松原峠吉野越、右翼は野津市口である。

各道の記録

 左翼・中央・右翼毎に記録を見たいが複数の日に跨るので、ある程度続けて引用する。

 左翼軍について先ず乃木大将所蔵「西南戦争従軍日誌 第十四聯隊第二大隊」。第1中隊第2小広内へ、峠に警備線。第2中隊横尾から広内へ。それぞれ左翼を青色で、中央を緑色の色違いで示す。

  六月四日

第一中隊午前大分城ヲ発シ横尾村ニ進軍臼杵士族若干名随行ヲ請フ許サル〇三重市戦死人埋葬方ニ付同隊伍長東伴七銃卒一名大分城ニ残ス

古志中尉ハ第二中隊右小隊ヲ引率シ大分城ヲ出テ左小隊ニ合ス藤井大尉中隊ヲ引ヒテ横尾村ニ進軍

六月五日

迫水少尉試補ハ第一中隊第一小隊ヲ率ヒ廣内村ヘ分遣ス古志中尉ハ第二中隊左小隊ヲ率ヒテ岡村ニ進ミ各支道ニ哨兵ヲ布ク市尾村ヘ分遣哨ヲ置キ軍曹ヲシテ交々指揮セシメ藤井大尉右小隊ヲ指揮シ横尾村ニ駐リ其地ニ警備ス※第1中隊第1小広内へ。古志中尉第2中隊左小隊を岡村へ、分遣哨を市尾へ。第2中隊右小隊横尾。一個中隊は左右二つの小隊に分かれる。

  六月六日

第一中隊横尾村ニ在リ ※第1中隊横尾

第二中隊古志中尉部隊ヲ引率シ白山峠ニ進ミ数ヶ所ニ堡塁ヲ築キ防御ノ準備ヲナス而シテ后同所ヲ第六聯隊ニ譲リ小在村ニ退ク ※第2中隊白山から小佐井に退く。

  六月七日

第一中隊第二小隊廣内村ヘ進軍廣内峠ヘ警備線ヲ張ル第二中隊ハ本日午后藤井大尉右小隊ヲ率ヒ横尾村ヲ発シ夜行シテ廣内峠ヲ赴ユルニ及ンテ拂暁ナリ 

  六月八日

第一中隊ハ午前第四時廣内村ヲ発シ臼杵ヘ進軍末廣村ニ到ル賊臼杵ヲ距ル十四五丁江牟田川ニ沿ヒ各所ニ胸壁ヲ設ケテ本道ヲ拒守ス玆ニ於テ本道左傍ノ高丘森林ヲ捜索シ打越山ニ致テ警備ヲナス此トキ午前第九時ナリ而シテ線外ナル井村ニ軍曹矢嶋重政ヲ長トシ斥候ヲ出ス稍在ヲ賊百名余突然襲来スト雖モ敢テ劇戦ニ至ラス賊退去ス午后第五時頃ヨリ第二中隊及ヒ警視隊ヲ以テ功撃アリ勝敗決セス第七時頃ヨリ当隊打赴山ニ據テ守戦ス

第二中隊ハ藤井大尉部隊ヲ指揮シ白木峠ヨリ田ノ口村ニ向テ進ミ賊ノ所在ヲ偵察セシメンカ為メ柗尾軍曹ニ銃卒五名ヲ附シ進行セシム然ㇽニ賊大挙襲来スルニ遇フ是ニ於テ柗尾軍曹率ユル處ノ銃卒ヲシテ要地ヲ占メ奮激シテ之レヲ拒ム彼ㇾカ不意ニ出ツルヲ以テ賊先ツ退ク此報ヲ得ルヤ藤井大尉右小隊ヲ率ヒ進ンテ防御線ヲ占ムルニ際シ古志中尉左小隊ヲ率ヒ小在村ヨリ来リ合ス己ニシテ午后第二時ニ及ヒ賊再ヒ来襲互ニ進退決セス日暮ニ及ヒ天曇リ雨降ル賊漸ク退ク己ニシテ左方山頭ニ数人ノ渉ルアリ其装ヲ見レハ傘ヲ持シ或ハ笠蓑ヲ負ヘリ皆曰ク土民ノ遁逃スル者ナリト故ニ敢テ拒マス且クシテ亦タ加斯者ヲ見ル是ニ於テ之ヲ偵察センカ為メ古志中尉佐藤少尉及澤曹長澤軍曹進ンテ二三丁ニ及ヒ彼レ己ニ山林中ニ入リ発射スル事急ナリ之レニ因テ其装ヲ変スル者賊ノ計策タル事ヲ知リ路ヲ左側ノ山林ニ資リ退ク藤井大尉之ヲ見テ部隊ヲ率ヒテ左傍黒岩山ニ登リ賊ノ廻路ヲ塞キ奮激拒戦夜半ニ及ヒ部隊ノ戦面ニ来ル處ノ賊退ク故ニ部隊ヲ整頓シ其地ヲ警備ス

 6月8日、第一中隊が広内村から末広まで途中どこを通ったのか記さない。中央第一中隊が末広村まで進むと薩軍は江無田川に沿い各所に胸壁を築き本道を守っていたので本道左傍の高い丘森林を捜索して打越山に着いて警備を設けている。打越山というのは現在場所不明だが、高い丘という記述から別のところで書いた井村山ではないかと思う。f:id:goldenempire:20220409121409j:plain

 末広村を東に進み山地が途切れて平野になる左傍手前に官軍の台場跡が3基(下図赤色)、東向きに備えて築かれている(井村山のブログで述べたが)。井村山の北部には北側を警戒した台場跡2基、その南側に南側に備えた台場跡1基が残る緑色)。この3基は薩軍のものである。おそらく薩軍の4号は南から官軍が進んだ際に急遽築いたものだろう。内側の窪みはない。

「西南戰鬪日注並附録」pp.262

八日   臼杵ノ再役アリ

 〇拂暁左翼先鋒我カ三番小隊廣内村ヲ發シ白木嶺ヲ越ヘ團兵ト俱ニ末廣村字一里松ニ進ミ江無田ノ賊ヲ擊ツ而乄先ツ諏訪山ヲ取ラサレハ或ハ横擊ノ患アルヲ以テ一分隊ヲ留メ路ヲ轉シテ左翼井村ニ至ル賊忽チ江無田橋側ニ出テ襲擊ス我カ兵直ニ井村山ニ登リ戰フ會日暮ル賊敢テ迫ラスシテ退ク又中央先鋒ノ四番小隊ハ團兵ニ並木嶺ニ合シ間行シ吉野嶺ヲ下リ不意ニ賊背ヲ衝ク賊狼狽潰走ス兵ヲ分ツテ追擊江無田村ニ至リ胸壁ヲ築キ對戰ス此役我兵傷者僅ニ二人

魚住警部節(守)ニ斥候兵三名ヲ附シ臼杵方面ヲ偵察セシム 

 左翼白木峠の警視三番小隊の記録である。総員は112人。8日拂暁広内村を出発し白木嶺(九六位峠南側の九六位山のことだろう)を越えて鎮台兵と共に臼杵市末広の一里松まで進撃している。九六位山から通った路線の記述がないので不明である。一里松は末広川右岸にあり、江無田の北西側にあたる。

※次は料理前に材料をぶち込むようだが、後で調理しよう。

C09084471400、豊後口枢要書類綴 明治10年6月8日~10年8月19日(防衛省防衛研究所蔵0010

六月八日於海部郡田口村戦闘報告表

   六月十一日       陸軍大尉北川正興㊞(第二旅團歩兵六聯隊第三大隊第四中隊)

計127人

戦闘景色况ノ部

当日臼杵ノ賊攻擊ニ付午前第二時市尾村ヲ発シ白山峠ニ登リ直ニ斥候若干員ヲ以テ賊情ヲ探リ續テ田口村ニ至リ諸口官軍ノ左翼山林ニ拠リ以テ迂回セシ賊ヲ遮蔽ス

 6月8日の戦闘報告である。北川は白山越攻撃兵。6月8日、午前2時に市尾村を出発して白山峠に登り、斥候を派遣した後に田口村の山林で迂回した賊を阻止した。この白山峠というのは白山から臼杵に向かう山道のことか、再進峠のことか明確でない。