西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「安政七申年 聞書 三 勝氏米國航海紀行」 ※少しずつ続けます。

はじめに

 上記の題名の写本を入手した。このブログで前に勝海舟が咸臨丸で渡米した際に見学したことのあるサンフランシスコの要塞に付いて解説資料を紹介したが、最近たまたまこの写本が売りに出されているのを発見し、購入したものである。同じ販売者には「聞書 五 彦根一件」という同様の体裁・字形のものもあることからして、題名の三は勝氏米國紀行全体を含むようである。

 写本の末尾に辛酉孟春此一書 越角鹿吉田氏一昨許借者 亦 岩殘楼老翁ニ借者

 辛酉六月廿二日     晩景 鐘丸

とある。辛酉は「かのととり」、1981年・1921年1861年が該当する。安政7年は1855年だから、おそらくそれから6年後の1861年文久元・万延2年のことであろう。孟春とは春の初め、陰暦正月のことで、越角鹿は越前敦賀のこと。辛酉六月廿二日は西暦1861年7月29日。孟春に元となったものを借用し、7月末に写し終えたのである。残念ながら吉田氏や老翁・鐘丸が誰であるのか分からない。

 ネットで調べたら和田勤2023「万延元年遣米使節随行艦咸臨丸艦長勝海舟渡米記録の諸写本について」というのがあった。それによると、海舟が記録した渡米記録は「海軍歴史」に活字化されているが、彼自身が自身の記録を抜粋したものを含めその他20数点存在するという。中には公式報告として海舟が作成したものもあり、それには元の記録

にあった上司に対する悪口や自身の渡航時の健康状態、それに伴う出来事などは触れられていないということである。また、別の写本の一部系統では文章が欠落し、文意は繋がらないものもあるという。

 今回の写本は和田論文にないものらしく、ここでは、こういう写本が存在するということに重点を置いて文字のある頁を全て紹介したい。いかにも江戸時代の人が書いたような、自分にとっては難解な写本であるが、幸いなことに「海軍歴史」があるので、これを手元に置いて読んでいきたい。それでも読めない部分はあっさり▢にするので読める人はPDFで確認していただきたい。

 写本の装丁は袋綴(ふくろとじ:文字面を外側に2つ折りしたものを重ねて、折目の反対側を糸で綴じた本。 仮綴をした後で表紙をつけ、糸で綴じる)。外形寸法は縦23.7㎝・横17.0㎝である。表紙と裏表紙は一枚の大きな紙を折り曲げており、さらに上部は幅5.0㎝から5.3㎝で内側に折り曲げて補強している。同様に下側も3.4㎝位の幅で折り曲げる。表紙を裏側から見て右端から7.8㎝幅で折り曲げており、形状は台形(上辺の長さ、中心側は11.0㎝)である。裏表紙の台形部は幅5.8cm・上辺16.3㎝である。

 内部は初めの6枚は本文同様折り曲げた白紙で、文字のある紙が40枚、続いて折り曲げた白紙が4枚あり、裏表紙となる。厚さは8㎜弱。虫喰いがあるが補修はされていない。なるべく筆記のとおりに活字化を心がけるが「た」の別字は活字が無いので「た」とした。

 所々に入れたカッコ内には現代風に読み易くして示す。

本文

米國航海紀行 

                   勝麟太郎

安政六未年七月米利堅國より軍艦出帆春へ起の風説有

安政六未年七月メリケン国より軍艦出帆すべきの風説あり)

 これ旧年米利堅國と仮定約取替の時其本條約の如ハ彼可首府華盛頓使節有留へしと(これ旧年メリケン国と仮条約取り換えの時、本条約のごときは彼が首府ワシントンに使節あるべしと)

の約なりし尓(※被を見え消しし我を添える)我国の軍(※被を消し軍を添える)(の約なりしに我国の軍艦)

いまた航海尓なれす且其舩小▢尓して多人数乗かた起尓よりて今年彼国の軍艦ポウハタ

(いまだ航海になれず、かつその舩小▢にして多人数乗りがたきによりて今年彼の国の軍艦ポウハタ)

ン舩▢▢来り我國の使節を首府へ送り▢▢といふ叓起り若彼地尓て使節の内疾病ある可

(ン舩▢▢来り我国の使節を首府へ送り▢▢という事起こり、もし彼の地にて使節の内、疾病あるか)

又不時の故障生せし時軍艦奉行其欠(※糸偏)を補セん可為又非常の備等を以て軍艦壱

(又不時の故障生ぜし時、軍艦奉行その欠を補せんがため又非常の備えなどを以て軍艦一)

艘彼地へ航海春へきの議興りしなりしと云然れ共當時其説紛々として是非を志らさりし

(艘彼の地へ航海すべきの議おこりしなりと云う、然れども当時其の説紛々として是非を知らざりし)

尓又十一月軍艦奉行水野筑後公の時此議必定春へし何ら可のしめ(※しめは不確実)

(に又十一月軍艦奉行水野筑後公の時、此の議必定すべし何らかのしめ軍)

艦并乗組の人員食料及薪水等目算春へ起との事也依之其儀春る所數條なりし▢其一者軍

(艦ならびに乗組の人員・食料及び薪水など目算すべきとの事なり。これによりその議する所數条なりし▢その一は軍)

艦の撰定ニあり今品川尓繋く処 観光丸

(艦の選定にあり。今、品川につなぐところ 観光丸)

  此御軍艦百五十万力螺旋(※螺旋は海軍歴史による)蒸気舩大銃廿門備此舩往年阿

(この御軍艦百五十万力ラセン蒸気舩、大銃二十門備え、この舩、往年オ)

蘭国王ゟ献貢せしもの也(※海軍歴史では、せしもの)

(ランダ国王より献貢せしものなり)

朝陽丸 此御軍艦百馬力螺旋蒸気舩スクー子ル形大銃十二門備是四ヶ年前阿蘭国尓て造

  りし者也

蟠龍丸 此御舩六十万力上記舩英国(※ヱキリスの振り仮名)ゟ献セしもの

翔丸 帆前商船今大銃四挺を備ふ

右等の内蒸滊航海尓可なるもの観光丸朝陽丸の二舩なり就中航海尓便

(右らの内、蒸気航海に可なるもの観光丸・朝陽丸の二舩なり。なかんずく航海に便)

なるもの螺旋蒸気ニ有故尓西洋諸国其製造晩(※車偏)今尓出るものハ悉く螺旋蒸気舩

(なるものラセン蒸気にあり、ゆえに西洋諸国その製造晩今に出るものはことごとくラセン蒸気舩)

機を用ひ敢て車輪の新製を見す是遠海尓航春る尓者帆舩ならされ者其利少なきニよる(※るは不確実)(機を用い、あえて車輪の新製を見ず。これ宴会に航するには帆舩ならざれば其の利少なきによる)

今海外諸国の車輪舩を用ゆるものハ其製皆古くして近年の製造なら須是等を以て見る時

(今海外諸国の車輪舩を用ゆるものは其の製みな古くして、近年の製造ならず。これらを以って見るとき)

盤朝陽丸然る可(※)き可将加之諸索具充全其舩の堅装部揺動セ須旁以用ゆる尓足る可

(は朝陽丸しかるべきか、はたこれに加え諸索具充全、その舩の堅装部揺動せず、かたがたもって用ゆるに足るべ)

き也と云是を良とセられし故乗組以下薪水食料石炭より其他百端の事物を悉く筆記して

(きなりと云う。これを良とせられし故、乗組以下薪水・食料・石炭よりその他百膽の事物をことごとく筆記して)

是を呈したりし〇其乗組人員ハ指揮官壱人運用兼砲術方三人同見習一人航海兼運用方一

(これを呈したりし〇その乗組人員は指揮官一・運用兼砲術かた三人・同見習い一人・航海兼運用かた一)

人同見習三人蒸気者三人同見習壱人公用方弐人醫師壱人同手傳壱人水夫小頭三人同格二

(人・同見習三人・蒸気もの三人・同見習一人・公用がた二人・医師一人・同手伝一人・水夫小頭三人・同格二)

人砲手小頭一人水夫四拾四人内砲手兼八人帆縫弐人火焚小頭三人火焚▢三人大工壱人鍛

(人・砲手小頭一人・水夫四拾四人、内砲手兼八人・帆縫い二人・火焚き小頭三人・火炊▢三人・大工一人・鍛冶一人。このほか奉行従者五人・通弁官一人)

冶壱人此外奉行従者五人通弁官壱人

(※海軍歴史では次に米国航海予算23行 3 食料その他用意品の準備56行がある)

〇或ハ聞く別舩航海の事先年永井玄蕃岩瀬肥後の両公是を建議セられしニ當時其事いまた不定なりしを水野公是を主張し苦心セられし由爰に至て(※海軍歴史では「勘定奉行竹内下野守もまた与かりて力あり。」が入る)廟堂の英断とみ尓定り専ら出帆の用意ニ及し也

※以下は2024.4.26追加

一十一月十八日軍艦奉行井上信州木村▢州両▢いふ朝陽丸盤舩形小尓して荷物乗組十分なら須観光丸ハ稍〃大形也是を以て今度の航海尓充つべきの事也

(※「海軍歴史」ではこの次に24日の記事が15行ある。)

一同月廿五日乗組諸士等舩中の規則階級を論して不止我一書を以て是を同志ニ示須其書の略〃云

  軍艦規則厳正百叓人▢備セさ連ハ其用ニ應セさるハ云〃」▢▢軍艦を設け諸士を抜粋して其運用用法を学しむる事纔尓五年と▢▢」廃セる▢のハ諸士の研究抜粋ナル故其大体を会得春るの速なる尓因るとの▢物尓他尓故なきの知るへ可ら須時勢の志からしむる所人力の及さる所ニ出▢云」又▢▢小▢を以て強論し時日を失▢事なか連云〃」

一同廿六日此日諸士又無異儀萬叓を勉強す就中水夫の如起ハ敢て寸暇なく索具諸帆の修理皆其手尓成る捷敏賞するニ堪たり

一同晦日乗組諸士ニ示須舟中申合(虫喰)

舩中規則ハ舩将より令する也我輩教頭の名有りて舩将尓阿ら須然連共運轉針路其他航海の諸術盤又指揮なさざること能す故尓今仮尓則を定め諸士へ示須

一舩内の水の用法を减するを以て第一と須今上下を等く一日壱人弐升五合と者かり餘量ハ决して用ゆる事をゆるさ須病用盤制外なるへし米壱人尓五合飯となす尓海水を以て洗ひ清水を以て流須事一度此用水壱升焚尓五合を用ゆ是壱升五合三度の食用五合を雜用五合を充つ

一梳剃の為尓多水を用ゆる事なか連髪月代ハ四五日ニ一度水壱合ゟ多起を禁須(すきそりの為に多水をもちゆる事なかれ 髪さかやきは四五日に一度 水一合より多きを禁ず)

一平日衣服ハ適宜の温度なる所尓て一衣三日を経他衣尓換ふを定と春へし(※「海軍歴史」では続いて「厳暑の地にては一日二衣を換ゆべし。」が入る)雨雪霜露其他▢濡れる衣盤必らす速尓着替春へし汗出たる時又同断垢付汚穢の衣ハ着る事なか連悪臭ある服ハ尤禁須虱を生セしむる者ハ過銭を出す遍し

 但し換へ用ゆる衣は木綿或ハ布の下着のみ

一當番の者ハ必括袴或ハ小袴を用ひ非常の者ハ部屋内尓のミ白衣甲板上ハ袴を用ゆ白衣

(登板の者は必ずくくりばかま或いはこばかまを用い、非常の者は部屋内にのみ白衣、甲板上は袴を用ゆ白衣)

細帯尾籠の體尓須舩内歩行を厳禁す総て士官ハ衣服整頓形容端正なる遍し

一日〃の食叓ハ常時限極の外食する事を免さ須當番の有盤非番の者と交代して後食尓附春遍し

一夜中當番の者非常の働阿りし時食二度を免須

 常時ハ一度なる遍し但し飽食を禁す他ニ火酒貮三盃を与ふ遍し巌寒の夜火酒多量を一時尓用ゆる事を免さ須時〃軽量を与ふ遍し厳暑又同断

一自分貯の食料敗腐ニ傾きかゝりたるものハ速尓捨遍し又臭を生し又酸味を生したるものハ喰ふ事なか連折〃清涼下剤を服し逆上眩暈を未然尓防へし

※以下は 2024.4.27  追加

一昼間ハ甲板上を緩歩し事なきも昼寝を禁須夜番の者制外なる遍し

(昼間は甲板上を緩歩し事なきも昼寝を禁ず。夜番の者、制外なるべし)

一寒夜烈火尓温り寒風尓冒露春な可連火鉢盤極の数より用ゆる事を禁須

(寒夜烈火にぬくもり寒風に冒露すなかれ、火鉢は極めの数より用ゆる事を禁ず)

一非常の烈風怒涛起り或ハ賊舩不測尓襲衣来とも恐怖轉動大聲を發し混雜春へ可ら須必舩将の令をまち其指揮尓應す遍し

(非常の烈風怒涛起こり、或いは賊舩不測に襲い来るとも恐怖転動、大声を発し混雑すべからず。必ず舩将の令をまちその指揮に応ずべし)

彼国諸邦の式尓從ふ時ハ一舩大小の事業悉く舩将の指揮尓出る▢となし就中前文いふ処

(彼の国諸邦の式に従う時は一舩大小の事業ことごとく舩将の指揮に出る▢となしなかんずく前文いうところ)

の如起ハ其令一ニ出さる時ハ衆人疑惑し水夫混雜して危険殆と避遍可ら須尓至らん今名

(の如きはその令一二出ざる時は衆人疑惑し水夫混雑して危険ほとんど避くべからずに至らん。今名)

義當ら須頗る僭上なりといへとも我諸君と少し長したるを以て萬一危険尓至らハ衆議を

(義当らず、すこぶる僭上なりといえども我、諸君と少し長じたるをもって万一危険に至らば衆議を公裁せんとす)

公裁セんとす

一出納官ハ薪水領食諸料日〃の定量を細記し其减耗の増减を比較し是を舩将尓告け且半

(出納j官は薪水・領食・諸料日々の定量を細記しその减耗の増減を比較しこれを舩将に告げ、かつ半)

夜尓交代して士官水夫の部屋〃ニ失火を監護して可ならん哉」彼国尓て出納官員ハ指揮

(夜に交代して士官・水夫の部屋部屋に失火を監護して可ならんか」彼の国にては出納官は指揮)

官の属下士官の下列尓置起一舩出納を司る今我国ニてハ一舩の指揮官の定めなし教頭纔

(官の属、下士官の下列に置き、一舩出納を司どる今、我国にては一舩の指揮官の定めなし。教頭わずか)

ニ其運轉を指揮し烏合の衆を使ふ故尓舩中入用の諸品無用必用と論セ須悉く出納官の監

(にその運転を指揮し烏合の衆を使うゆえに舩中入用の諸品、無用必要と論ぜずことごとく出納官の監を経て減少せらる▢を以て今この官の進退を定めず)

を経て减少セらる▢を以て今此官の進退を定めす

一水夫を役春る事公用尓あらされ盤慢尓春事なか連定まれる役夫といへとも心を用ひ厳尓過る事な(かを補足した)る遍し

(水夫を役する事公用にあらざれ、ばみだりにする事なかれ。定まれる役夫といえども心を用い厳に過る事なかるべし)

彼国尓てハ兵卒水夫指揮官の諸用を弁し役夫春る事我奴隷の如く是規則厳酷なりと全権

(彼の国にては兵卒・水夫・指揮官の諸用を弁じ、役夫する事我が奴隷の如くこの規則厳酷なりと全権)

指揮官尓有を以て若其命尓違へ盤放逐春る遍し皇国盤属殊尓して蛮夷の風尓似す唯恩義

(指揮官にあるをもって、もしその命にたがえば放逐するべし。皇国は属殊にして蕃夷の風に似ずただ恩義)

と廉恥を以て衆心を維持し危険生命を失ふ際にも臨ましむる故尓平常下尓厚可らされ盤

(と廉恥を以て衆心を維持し危険生命を失う際にも臨ましむるゆえ、平常下に厚からざれば)

一致セす上官苦心焦思春る事下の十倍ならされ盤能盤さる遍し諸君これを思へ

(一致せず。上官苦心焦思する事、下の十倍ならざればよくはさるべし。諸君これを思え) ※「海軍歴史」にはある12月20日が4行抜けている。

十二月廿三日外国奉行軍艦奉行御目附御勘定并其属役数人蟠龍丸ニ而神奈川ニ至る是一

(十二月廿三日、外国奉行軍艦奉行・御目附・御勘定ならびにその属役数人、蟠龍丸にて神奈川に至る。これ一)

昨日米利堅国の軍艦ホーハタン来し故便舩之人〃其日限之事其他の事豫メ議定春へき為

(昨日米利堅国の軍艦ポーハタン来しゆえ、便舩の人々その日限りの事、その他の事、あらかじめ議定すべき為)

也此日聞く前日米利堅国コンシュル并測量舩将等書を政府尓呈上し我国の軍艦観光丸遠

(なり。この日聞く、前日米利堅国コンシュルならびに測量舩将等、書を政府に呈上し我が国の軍艦観光丸遠)

洋航海不便なる遍し恐らくハ航海なり加た可らん可他の軍艦然るへ起由申たりといふ

(洋航海不便なるべし。恐らくは航海なりがたからんか。他の軍艦然るべき由申したりという)

   聞く我輩議春事有初輩早く既尓此説をいふ然る尓軍艦其稍小なるを以て其用尓當

(聞く、我輩議する事あり、初め輩早くこの説をいう。然るに軍艦その小なるを以てその用に当た)

   らさるの説起り終尓観光丸と衆議决定して舩内の修理其他索具の類悉く改制し今

(らさるの説起こり、ついに観光丸と衆議决定して舩内の修理、その他索具の類、ことごとく改制し今)

   其業終らんとす若今米人等の説尓よつて他の軍艦尓▢なした万事甚不都合ならん

(その業終わらんとす。もし今米人等の説によつて他の軍艦に▢なした万事不都合ならん)

   将此航海難からんといふハ其説何ニよつて然かいふや尤ふしんなり既尓先年蘭人

(はた、この航海難しからんというはその説何によつて然かいうや。もっともふしんなり。既に先年蘭人)

   等其本国ゟ数千里を航海し来りしならすや萬一此説の如くなら盤観光丸ハ後来航

(等その本国より数千里を航海し来りしならずや。万一この説のごとくならば観光丸は後来航)

   海の儀行連す終尓廃物ニ至らん志可す今一度米人▢(虫喰い)此事を議セら連然

(海の儀行われず、ついに廃物に至らん。志ざすべし、今一度米人▢この事を議せられ然るべしという)

   る遍可といふ

一同夜官命神奈川ニ来る観光丸を除起他の軍艦を以て航海春へ起の命也終尓咸臨丸尓て航海の用とす今年咸臨丸長崎より来り神奈川ニ滞泊す是先日朝陽丸長崎ヘ出帆今此地尓航海尓用ゆ遍起軍艦なき尓よる  

一水夫を役春る事公用尓あらされ盤慢尓春事なか連定まれる役夫といへとも心を用ひ厳尓過る事な(かを補足した)る遍し

彼国尓てハ兵卒水夫指揮官の諸用を弁し役夫春る事我奴隷の如く是規則厳酷なりと全権指揮官尓有を以て若其命尓違へ盤放逐春る遍し皇国盤属殊尓して蛮夷の風尓似す唯恩義と廉恥を以て衆心を維持し危険生命を失ふ際にも臨ましむる故尓平常下尓厚可らされ盤一致セす上官苦心焦思春る事下の十倍ならされ盤能盤さる遍し諸君これを思へ

※「海軍歴史」にある12月20日が4行抜けている。

十二月廿三日外国奉行軍艦奉行御目附御勘定并其属役数人蟠龍丸ニ而神奈川ニ至る是一昨日米利堅国の軍艦ホーハタン来し故便舩之人〃其日限之事其他の事豫メ議定春へき為也此日聞く前日米利堅国コンシュル并測量舩将等書を政府尓呈上し我国の軍艦観光丸遠洋航海不便なる遍し恐らくハ航海なり加た可らん可他の軍艦然るへ起由申たりといふ

   聞く我輩議春事有初輩早く既尓此説をいふ然る尓軍艦其稍小なるを以て其用尓當らさるの説起り終尓観光丸と衆議决定して舩内の修理其他索具の類悉く改制し今其業終らんとす若今米人等の説尓よつて他の軍艦尓▢なした万事甚不都合ならん将此航海難からんといふハ其説何ニよつて然かいふや尤ふしんなり既尓先年蘭人等其本国ゟ数千里を航海し来りしならすや萬一此説の如くなら盤観光丸ハ後来航海の儀行連す終尓廃物ニ至らん志可す今一度米人▢(虫喰い)此事を議セら連然る遍可といふ

一同夜官命神奈川ニ来る観光丸を除起他の軍艦を以て航海春へ起の命也終尓咸臨丸尓て航海の用とす今年咸臨丸長崎より来り神奈川ニ滞泊す是先日朝陽丸長崎ヘ出帆今此地尓航海尓用ゆ遍起軍艦なき尓よる ※以上4・28投稿

一廿四日咸臨丸を以て蟠龍丸と換ゆ ※「海軍歴史」では観光丸と換ゆ、とある。

一廿五日品川尓帰舩此日より損破を修理し索具弛解を固定し舩内處〃を改制す

   此業出帆餘日なく以て昼夜を分た須皆速成ニ係るを以て洋中大風怒涛起り舩動甚

 

敷時尓至て数所損破し鋲釘皆弛解す以て後来の警誡と成須尓足れり

安政七庚申年正月十三日品川出帆神奈川へ至る滞舩二日米利堅国の測量舩将乗舩

   測量舩将名を貌魯古といふ去年我國測量の為爰に来りし可神奈川尓て去秋防風の為ニ其舩破損尓及ひしより滞留中政府の懇篤なりしを感し今年此行尓便舩し我邦士官等ノ助力セんと希ふ事切なり故尓官許を以て同舩せしなり

一同十六日浦賀港尓至る此地尓て清泉を舩内へ取る

一同十九日同湊出帆安房海を廻り先針路を東北尓取る此大西風激浪甲板ニ漲り入る夜尓至る風益強し経緯度測量針路并風雨器湿温器昇降潮勢其他の記叓并舩中航海記ニ有今爰ニ畧す

一此行猶初春なるか故尓海水烈敷激浪面をうつて向ふ遍可ら須其針路大抵北極出地三十

(この行、なお初春なるがゆえに海水はげしく、激浪面をうって向ふべからず。その針路大抵北極出ずる地三十)

七八度ゟ四十二三度前後ニ至るを以て其風常尓西北曇天美日少く日夜霰雹雨雪を捲く時

(七八度より四十二度前後に至るをもって、その風常に西北、曇天、美日少なく日夜あられ・ひょう・雨・雪をまく。時)

としてハ濃霧降て咫尺を弁せ須又湿▢面衣を透し加ふる尓舩動揺簸揚して正敷歩行春る

事あた王須出帆後洋中尓有事三十七日其苦難いふ斗りなり

(※「海軍歴史」では、「三十七日、この内晴天日光を見るわずかに五、六日、その苦難想うべし」)※15行と27日の記事2行、2月6日の記事4行を欠く。

一同年二月廿六日拂暁北米利堅国大洲西岸を遠望す是をする尓海霧断接の間連山波濤の如く峻峰雲間にニ聳ゆ是ゟ針路をサンフランシンスコ港口尓取尓近付事五六里此地の教導スクウ子ル舩三四艘見る

  総て此港外ニハ教導舩を出し置入津の舩舶ある時ハ是を導く若是ニよ連ハ銀銭若干を出す定なり其員数ハ大抵其舩の荷足▢應す水入壱尺銀銭壱枚を定とす

頼▢さるも又妨なく然れ盤是ニ頼(ヨル)る時盤不時の變災起り其舩破損春るも其地の政府是を償ひ敢て我可出財修理ニ及者須聞く軍艦ハ出銀なく教導古れを道引く一般の法なりと今又此地も既尓此議阿り

此中の一舩我可舩を認得しや帆を操り舵を廻し直ニ走り至る然して教導者二員我舩ニ乗来り其来意をとひ港内の教導をする是を諾せハ彼針路を示し港口尓望ましむ午前港内大桟のまへ

二町を隔て投錨す此日ゟ當地の官員看客等舩尓来る事数人雑踏甚いとふ遍し ※上記は「海軍歴史」では2月25日に記される。

一同廿七日上陸乗車尓てホテルニ至る

   ホテルハ運旅舎の義其名をインデリショ子―ルといふ美麗の四層磚造舎常ニ貴賤来客古〃尓旅須其舎内下の層ハ會食所厨所あり階子を登れハ中二階尓して爰ニ會合所有大玻瓈机子胡琴等を置く床ハ厚毛花氈を布く是ハ次て屈曲して大小の室数ヶ所有皆床ハ美麗の氈を敷臥床我市具浣洗具其室の大小ニ従ひ数箇を設く其室一ヶ毎尓戸阿り皆鎖鑰を附く戸前順次を逐ひ泥金の数字を記す上中下層を通して大凡室貮百許也爰尓舎セんと春るもの初め舎内ニ入▢の先其監守尓附て己可同行の人員を記せしめ後尓空室尓入其指図ニ應し入室の鍵を受て室尓▢す食事ハ必下の▢所ニ至る爰ニ大卓子有古れ尓よりて数人同食す一夜の旅銭二大銀銭食事一大銀銭此地の官人并遊客来訪春る者甚多し亦車ニ駕して造舩を見る此所盤町の北の方ニ有りホテルゟ一里半許タ▢ホテルニ帰ル家ニ来客と供ニ飲食す夜ニ入帰舟す官人数輩来ル

廿八日見物数人舩ニ来ル甚雑踏此日入津の祝砲廿一発港内礟臺よりも應炮廿一 ※「海軍歴史」(以下「歴史」とする、では27日となっている。

廿九日港内ニ滞舩春る米国の測量蒸氣舩(舩の名アキテウ)(※このブログでは二段表示できないのでカッコに入れて示す)尓至る(舩将セームスヲルテント云)美麗の舩也饗応甚厚し又此地セ子ラールフスの士官等共来り會須

我輩町ニ▢▢行春時見物数百人左右前後を取まかレ殆歩行へから須甚困る江戸尓て夷人

(我はい町に▢▢すとき、見物数百人左右前後を取りまかれほとんど歩き行くべからず。はなはだ困る。江戸にて夷人)

を見る雜人数百口〃尓放言春と同し唯此地ニ而ハ雜人の輩属目微笑春る者かり耐へて害

(を見る雑人数百口々に放言すと同じ。ただこの地にては雑人のやから、属目しょくもく:関心を持って見守る事:微笑するばかり。耐えて害をなす者なし)

をな須者なし

二月朔日英佛サルヂニー國のコンシュル来り祝砲七発す

同 二日大統領の官舎ニ行く官人数員出る也(※「る也」は?あり)導行す大統領の官舎ハ市の中央尓あり其家作町家と同し磚造製の三回▢也其舎街路を隔て方二町許りの空地有爰ニ銕銃五六門を置是祝砲の用▢なり其家の戸外尓下人一員を置出入を守らす舎内評議所有甚廣から須大抵方廿間許左り壁尓華盛頓の画像を掛く也上面高臺を設ル統領の座とす其下ニ官員の机周圍し有又三方壁尓沿たる所ハ柵を設け柵外ニ雜人の机有此官舎ハ平常諸官を集め市中大小の訴訟を定る所也初め我輩官舎尓至連ハ官員数人出迎ひ祝砲数発す夫より上段尓導き中央尓統領座を設く諸役人ハ下段ニ集会し殆空隙なし爰ニて諸官尓禮し卆れハ又車ニ乗セ別宅尓至らしめ酒食の饗應あり

  一是より以下の筆記盤事あらざ連盤時日を記せす見聞セし風聞雑叓を書し又順次を不改

サンフランシスコ盤北亜利堅合衆国西岸ニある一部落尓して我国房総の海濱を距る事東へ大凡九十七度半許り極星出地三十七度五十二分其港東洋ニ湾をなし湾内少しく屈曲須港内大凡東西へ五六里南北へ十二三里者かり其内ニ小嶋五六有又大川数〃有四面悉く山を以て取えい廻起我長﨑の如くニして其大イなるもの也其山上港内を▢ニ絶て大木を見す山ハ温和尓して▢から須見る牛羊を▢ふ土ハ大抵細沙ニ粘土を合せしもの尓て麦を作る尓可なる遍し唯惜らくハ清泉ニ乏し又近所ニ大石なし山上ニ至て連山を遠望す連ハ山峯大樹の繁茂春るを見る是を米人に指しとへ盤彼れ云深山ニ大樹甚多し其大なるもの高三十間ま王り五間ニも及へきもの有と云我国の松杉の類也市中平場の所ハ濱邉のミ多くハ山手ニ家屋(※屋?)阿りて平地すくなし舩中ゟ見れハ山上ニ磚造の人家立ならひ唯其北方の近郷ナツパヘ―コヨイルメールエイラントべ子シャー抔といふ地ハ大分廣き所なりといへ共小岡坂道高低有港の入口ニ礟臺あり数十門を架須又左方の山尓常火燈出入の舩舶是を見阿てとす右の方ニ礟臺▢てる一里許山腹尓兵卒家有惣将古れを司る此地の守衛兵也又左方港内ニ小島尓礟臺有磚造と石造二座有皆大砲数十を備ふ山上ニ礟卒舎指揮官并士官の舎有此臺場盤街市を斜尓對し入港せし舩舶を撃つ便阿り市濱岸ハ悉く大材を数千を以て大桟を架し貨物を水揚する▢よりと須故尓大小の商舩皆爰ニ繋て燭舟(※端舟の誤記?)を用ゆるなく諸荷物陸揚する尓甚弁利なり