今日、宮崎県延岡市の戦跡で宮崎県埋蔵文化財センター(堀田孝博・中島寛・上野哲矢の三氏)が測量調査しているのを見学しました。ここは別働第二旅団が1877年8月15日の和田越の戦い直後から数日間在陣したところです。谷を隔てた北側の尾根筋には和田越から敗退した薩軍が守りを付け、実際台場跡がいくつも長尾山一本松を含む尾根に相対しているのを確認し公開済みです。
長尾山一本松尾根も以前横沢慈さんと「西南戦争之記録」第4号で戦跡の分布状態を報告した場所です。いくつもある台場跡は下の写真のように弧状で比較的に大きい特徴があります。同行した岡本真也さん(写真)によると人吉盆地付近にある同隊の台場跡も同じような規模だという事です。一部に細い試掘溝を入れて掘り下げているのを見ました。内側は深さ10㎝位しか埋まっていないという事で、意外でした。
その後、Xに情報があったのを延岡市街地のの販売店まで見に行きました。調査で出土したのではなく、盗掘者が和田越周辺で5年間に500点を盗掘したものを売っているそうです。自作の木製小分け箱に収納。薩軍のものは錫弾は1点か2点で、鉄弾が30個くらい、銅弾が50点位で当時の薩軍の銃弾事情を反映していました。官軍の銃弾はスナイドル銃弾とドライゼ銃弾が目立っていました。スペンサー弾はなし、と思っていたが岡本さんが曰く「1点あったんじゃないかな?」と連絡があった(2024.11.19)。盗掘のおかげで戦闘の状態を復元・推定することは困難になり、ほとんど分からなくなったと思います。
上は堀田さん。下は奥右方に可愛岳、左の奥、尖った山は長尾山で、ずーと左に行った頂上が長尾山一本松です。本日気温は25度前後。
下はこれまで分布調査を重ねてきた集成図です。
赤色の▢で囲ったのが今回の場所。谷を挟んだ反対側を8月15日午後から17日まで薩軍が守っていました。俵野の薩軍本営やそれを守る薩軍陣地を黄色で示しています。但し、可愛岳の西側にあって六首山や南北を向いた台場は俵野を脱出した薩軍が築いたものと考えています。
これまで15日に長尾山で激戦が行われたとされた場所は図の長尾山ではなく、赤い⊡で囲った部分です。当時一帯は茅に覆われ、頂上に老松があって遠くからよく見えたので一本松と呼ばれていました。長尾山の一本松がある場所、これを戦記は長尾山と書いています。現実の長尾山は一本松から1,5㎞位北西にあります。自分は老松があった峰を長尾山一本松と呼ぶことにしています。