西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

臼杵市甲﨑山の戦跡① 

 「西南戦地取調書 豊後」の臼杵市部分には現地を確認していない戦跡がいくつもある。今日は旧野田村(臼杵市福良と野田の境界?)の山を一つ歩いてみた結果、台場跡を1基発見した。写真は目的地の少し手前で大迫山・臼杵下流を撮ったもの。青空と山がきれいだった。背後の山並みは大分市との境をなす佐賀の関saganoseki連山。

 まず、同書掲載の野田村の部分は以前、このブログで紹介したことがあるが、再びとり上げる。文章の後に絵地図があり、地名がいくつも書き込まれている。絵図に登場する地名を青色で、その他場所が判明した地名を緑色で示す。

 北海部郡野田村

舊四月廿日ヨリ同月廿九日マテ「六月一日ヨリ七月九日マテの付箋)薩軍隊長姓名不詳四百余十人ヲ率テ臼杵町ニ滞在

 但大野郡地方ヨリ襲来リ南海部郡地方ニ去ル

舊四月廿日(※「六月一日」の付箋)野田村字原芋ノ久保(白井)ニテ一時間程戰争是ハ薩軍東京警視隊臼杵士族アリ賊勝利則チ東京警視隊五名字芋ノ久保(白井)ニテ即死其人名盛山実一土屋盛唯西郷光吉外二名不詳賊軍傷ヲ負ヒタルモノ八名ト云ヘリ

同廿一日ヨリ仝廿九日マテ人夫ヲ賊ニ出ス事凢ソ百二十人其賃銭壱人ニ付金二十銭位ト被申候得共不受取最モ無賃ニシテ則チ賊ノ屯所ニ於テ飯焚并諸使等致シタル由

同廿七日(※六月八日」の付箋)薩軍凡ソ三百余十名野田村字甲﨑ヘ臺塲ヲ九ヶ所ニ設ケ居ル然ルニ午前六時頃海軍々艦津久見嶋沖ニ来リ大砲ニ発則チ(ノロシ)其合圖ニ官軍凢ソ二百名余リ仝郡前田村ノ内字登リ尾ヘ進ミ来リ又一方ハ仝村字荒田峠ヘ五百余十名程進軍ス直チニ野田村字一本(※翌日の記述に一木とあるのと同じだろう。)へ進ミ該所ヨリ手配リシ仝村字ヘ二百名余字西平ヘ百余十名程字ヘ及ヒ字御霊畑邉ニ數百人襲来リ直ニ賊軍ニ向

ヒテ進擊ス然ルニ賊軍ハ追々進ミ字甲嵜ヨリ字権現山石田山丸尾ヘ備ヘヲ立此處ニテ双方ヨリ二時間程大戰争アリ賊軍勝利ト見ヘ官軍方ハ直ニ同郡前田村ヘ退軍ス此時官軍方死傷アルト雖ノモ確明ヲ得ス

其戰争ニ兵火ニ罹ル者人家四戸并ニ神殿拝殿是ハ当村産神御霊神社ナリ

 但火ハ放火則官退軍ノ際ニテ官軍哉賊軍哉不詳

同廿八日賊軍ハ野田村字甲峠及権現山ヘ官軍ハ字繪堂瓦屋ヘ備ヘヲ立テ双方小銃ヲ以テ炮発スト雖ノモ勝利不詳

同廿九日午前四時頃ヨリ官軍二百名余リ野田村一木ヨリ仝郡望月村ヲ通リ仝村字立石ヘ上リ此處ヨリ野田村字谷山ノ峰通リニテ仝郡福良村ノ内字山菴ヘ着此時午前七時頃ナリ該所ヨリ直ニ野田村ノ内字甲嵜ナル薩軍ノ臺塲ヘ向テ進擊ス官軍同時ニ二百名余リ同村字洲嵜瓦屋原ヨリ甲嵜ヘ向ヒ進擊ス一時間程ノ戰争アリ官軍速ニ勝利ヲ得タリ依テ薩軍不残南海部郡地方ヘ去ル

右之通ニ候也

               北海部郡野田村

 明治十六年八月十七日 戸長  矢 野 徳 市

 この絵地図が無ければ、細かな地名はさっぱり分からないところだった。

 発見した台場跡は

である。現在の地図を掲げる。

 絵地図の方位は西に45度位傾いている。該当する村の記述は同廿七日(※「六月八日」の付箋薩軍凡ソ三百余十名野田村字甲﨑ヘ臺塲ヲ九ヶ所ニ設ケ居ルだとみられる。薩軍が9か所に台場を築いたとあり、絵地図には甲﨑に台場の印が9個ある。この日の戦いは午前6時頃から始まっており、薩軍臺塲ヲ九ヶ所ニ設ケ居ルというのは6月8日以前から守っていたという解釈もできる。当日に台場を築いたというよりも事前に準備していたと考える方が自然である。

 今回発見した台場跡は南向きに築かれており、絵地図に描かれた内、一番南の物と符合する。従って、今回甲﨑山と呼ぶ地域に9基の台場が築かれたのは正確な記録であろう。ただ残念ながら、西南戦争後に高速道路や寺その他の開発が行われているため、この山の中間部分では台場跡は消滅したのではないかと思う。その他も果樹園や宅地化のため大部分は消滅したかも知れない。今回、甲﨑山としてのは明治時代の野田村の報告を重視したからである。現在の国土地理院地図には神崎とあるが1973年版では甲崎となっていて、この時点までは甲の字が使われていたのである。なぜ神崎にされたのだろうか。

 分かりにくいので外形に白線を引いた。「稲葉」銘の石柱方向から。

 次の写真は今回の地域に関係ないが、写真に線を引いて分かりやすくした例として示した。下段に写る人物は同じ人。

 次がその測量図。

 次も佐伯市宇目の台場跡。写真じゃ分からないので線を引いてみた。

下は東側から見たところ。土塁部分が左に突出し、ほぼ全体が写っている。

 下の写真もほぼ全体が写る。尖った石柱方向から。山の雰囲気は分かると思う。

 略図化道具はこれだけ。

 今回は甲﨑山1号台場跡について紹介した。そのうち、周辺も調べたい。

 甲﨑山の台場跡について述べてきたが、官軍が臼杵奪回のために進撃してきた6月8日に登場する戦跡である。それ以前、6月1日に薩軍臼杵に侵入してきた際も、この付近は戦場になり、その際の警視隊員の戦死場所について東京警視隊五名字芋ノ久保(白井)ニテ即死其人名盛山実一土屋盛唯西郷光吉外二名不詳とあるのは貴重である。これまでの史料(久多羅木儀一郎「西南の役臼杵の戰」『臼杵史談第88号』)では彼らの戦死場所の記述はない。一方、6月1日の臼杵隊員についてはそれぞれ戦死地名が記されている。ちなみにそれの地名と人数を示すと望月(1)・清太郎(2)・野村(1)・神崎(1)・陣山(1)・福良(1)・平清水(1)・西鹽田(1)・ニ王坐(1)・掛口(1)・上市(1)・京泊(1)・新地(1)・住吉(1)・寺浦(1)・洲崎(3)・洲崎海中(1)・蟹礁(1)・その他(4)の25人だが、これらは場所が判明した者だけらしく、臼杵隊の戦死は全員で43人である。甲﨑山・野村台一帯では望月・清太郎・野村・神崎で計5人が戦死している。

 6月1日の場合、官軍側は甲﨑山周辺に台場を築いていない。彼らはもっと西方の守備に注力し、障子岩や竹場などで薩軍の進軍を待ち構えていたが、「我隊、彼ガ勢猛烈ナルニ恐レ、且戦且退キ」、ついに臼杵城跡で防ごうとしたが無駄だった(久多羅木儀一郎「西南役と臼杵および臼杵關係のこと」『臼杵史談』第88号から「進来五郎の日記」。退却の途中で台場を築く余裕はなかったのである。

北部の踏査

 というわけで25日(今日)は図の右上部を歩いてみた。

 本日は気温24度前後で小雨模様だった。下の写真は登り始めの尾根。人家が密集したところの左側を登った。

 北西から興山寺(寺の記号・西南戦争時にはなかったらしい。寺のHPでは明治に建てられたとあるが詳しい年代は記されていない。)まで尾根筋を歩き、寺で折り返して北東の道を下った。結論は台場跡未確認。

 登り始めた付近は平野に突出する畑で、空母の甲板にいるような感じ。南側は椎茸栽培地、その南は森になっていて直径1㎝位かそれ以下の竹が密生し、進みにくかった。途中、標高42.7mの三角点がある場所は次の写真のように宅地になっており、地形は旧状を留めていない。

 その向こう側、南側も雑木林で矢竹が密生し、旧耕作地のように高さの異なる平坦面が続く状態だった。畑が雑木林化したものらしい。寺に近づくと舗装道路が直角に折れ曲がる場所に出た。その先の森の中も平坦面の縁辺に石を並べた畑の跡のような平坦地が何段かあり、ここも昔耕地化されたらしい。

 往路の南半分には溝状の道が尾根の東部、やがて西部に移り寺の西側まで続いており、寺の入口はその道に面している。舗装されてなく、使われていない状態だが創建時にはこの溝のような道を通って寺に行き来したのだろう。石段と両側の立石があるが、この西向きの入口は用済みだろう。今は自動車で参拝できる道が寺の南側に(今日の復路の一部)あるが、明治時代の興山寺創建時のものではない。

 

 結論としては、西南戦争後に開発が進んだため、興山寺付近から北側では台場跡を確認できなかった。甲﨑山では南部に1基だけ確認できたが、絵地図にあるように南を向いて存在する状態は絵地図と同じであり、絵地図の信憑性を裏付ける発見だった。

 6月8日の戦闘経過

 ここからは他の記録も参考に甲﨑山周辺の戦いについて検討したい。

 6月8日の野田村提出の報告を参考のために再び掲げる。同廿七日(6月8日)薩軍凡ソ三百余十名野田村字甲﨑ヘ臺塲ヲ九ヶ所ニ設ケ居ル然ルニ午前六時頃海軍々艦津久見嶋沖ニ来リ大砲ニ発則チ(ノロシ)其合圖ニ官軍凢ソ二百名余リ仝郡前田村ノ内字登リ尾ヘ進ミ来リ又一方ハ仝村字荒田峠ヘ五百余十名程進軍ス直チニ野田村字一本へ進ミ該所ヨリ手配リシ仝村字原ヘ二百名余字西平ヘ百余十名程字井戸ヘ及ヒ字御霊畑邉ニ數百人襲来リ直ニ賊軍ニ向ヒテ進擊ス然ルニ賊軍ハ追々進ミ字甲嵜ヨリ字権現山石田山丸尾ヘ備ヘヲ立此處ニテ双方ヨリ二時間程大戰争アリ賊軍勝利ト見ヘ官軍方ハ直ニ同郡前田村ヘ退軍ス此時官軍方死傷アルト雖ノモ確明ヲ得ス 其戰争ニ兵火ニ罹ル者人家四戸并ニ神殿拝殿是ハ当村産神御霊神社ナリ 但火ハ放火則官退軍ノ際ニテ官軍哉賊軍哉不詳

 この日薩軍三百余人が甲﨑山の台場9基で守備をしていた。午前6時頃臼杵湾に停泊する官軍軍艦の砲擊2発を合図に臼杵川の左岸、前田村の登り尾(登り尾は絵地図では臼杵川を隔て甲﨑山の対岸に描かれている。水ケ城山から南東に下る尾根があるがこれだろうか。)に二百余人の官軍がやってきた。おそらく背後の水ケ城山から下りてきたのだろう。また、前田村荒田峠にも五百余十人が来て、野田村一木に進み、そこで三方に分かれ(原へ二百余人・西平へ百余十人・井戸と御霊畑へ数百人)、直ちに薩軍に向かって攻撃を始め、戦いは二時間ほど続いた。

 薩軍は甲﨑山・権現山・石田山・丸尾に配置についていた。石田山は高速インターの東側の山である。丸尾は現在高速道路の大分方面への本線進入路が丸く囲った内部になっている。官軍は臼杵川の対岸に退却した。この日放火で焼けた御霊神社が今も畑の中に残っている。もちろん当時のものではないが。 

 登り尾(図の位置は推定)の官軍がこの方面の戦闘に参加したようには記されていない。

 地図上では次図のような位置関係である。今までこれほど詳しい記録がなかったので、初めて戦闘推移が理解できたのでこの史料は貴重である。

 熊本鎮台第十三聯隊第三大隊長小川又次の「陣中日誌稿」は以前ブログで紹介したが、この日の部分を再度掲げる。上図に登場する官軍は臼杵攻撃の内の右翼部隊(野津市口)であり、第十三聯隊の第二大隊が全体で部署されていて、明治10年10月調べでは全員で810人だった(「熊本鎭臺戰鬪日記」熊本鎭臺諸隊人名表)。この図に登場する記事を色違いにした。

六月八日晴天臼杵攻撃ノ爲メ午前第一時頃本隊芳野峠ヲ発シ拂暁水ケ城ヲ乗リ取リ第二第三中隊及第一中隊右小隊ヲ水ケ城エ同十一時頃第一中隊ノ左小隊ヲ下末廣村エ第四中隊ノ右小隊ヲ荒田山ニ配布ス午後三時頃第四中隊ノ左小隊ハ第二大隊ノ應援トシテ野村ニ進撃奮戰此夜第四中隊左小隊ハ引揚ケ水ケ城ニ復ル此日即死ハ軍曹吉田久吉外二名負傷軍曹小林良教外六名アリ賊ヲ斃スヿ數名此日臼杵湾ヨリ我海軍ノ砲射セリ左右翼軍ト攻撃ノ相圖齟齬セシカ中央軍獨リ突進水ケ城ヲ拔ト雖モ賊屡ク左右ヨリ迂回シ大ニ配兵法ニ苦ム

 6月8日に第四中隊は荒田山から野村に進撃した後、水ケ城山に移動している。戦闘時間がこれでは午後三時頃応援として進撃などと長時間続いたことになり、村の報告と異なる。

 この戦闘に参加した熊本鎮台兵士の従軍日記がある。

菖蒲和弘2008「熊本鎭臺歩兵第十三聯隊第二大隊第二中隊 山田為蔵従軍日記」『西南戦争之記録』第4号pp.22~43

同年六月八日朝壱時三十分ニ野津市村ヲ發シ臼杵城下ヲ進撃致シ候事、同日午後壱時頃ニ大野村迠進ミ候得バ、歩兵第十三聯隊第三大隊并ニ各旅團ハ靏崎口ノ通リより進ミ大ニ戦ヒ候也、就テハ歩兵第十三聯隊第二大隊モ亦武田口より進ミ大ニ合撃致シ候得共、第二大隊ハ戦利アラスシテ、其夜荒田峠迠引退ク、同第三大隊并ニ各旅團ハ靏崎口於テ昼夜共ニ戦ヒ候也、其夜大雨降也

同年同月九日朝五時頃より亦第二大隊モ降リ、田畑ニ臺場付之ヲ守ル

 これによると8日の第二大隊ハ戦利アラスシテ、其夜荒田峠迠引退クとあり、官軍は野村台に上って甲﨑山方向に攻撃したものの目的を遂げられずに退却したのである。しかも荒田峠まで退いたというから、夜襲を恐れて麓の臼杵川北岸に留まれなかったのだろう。

 もう一つ、参考になる記録がある。大分城からみて南東側にあたる松岡地区にあった小区用務所の記録がある。松岡は幕府時代は臼杵領だったため、臼杵の事情に精しかった。当時用務所は官軍に協力し、臼杵方面の情報収集を積極的に行っていた(高橋信武2019「松岡用務所日記」pp.346~pp.360龍田考古会 考古学研究室創設45周年記念論文集『先史学・考古学論究』Ⅶ)。原文は加筆修正や見え消しが入って煩雑なので、最終的な記述だけを引用する。

仝八日 (前略)〇右翼野津市口ヨリ進ム官軍壱大隊ヲ割シ其壱分ハ中臼杵ヨリ荒田峠ヲ経野村字手無地藏迠進ム賊神嵜ニ在リ接戦然ルニ賊神嵜ゟ野村ノ山林ヲ経テ官軍ノ横間ヨリ砲発ス故ニ官軍進テ荒田村ニ在リ〇午後六時三十分賊野村ノ民家両三軒ヲ焼ク官軍此民家ヲ楯ニシテ砲発スル故賊來テ放火スト云フ〇其壱分ハ本道ヲ進行壱分ハ深田村ヨリ姫 

嶽山ノ尾通リヲ取切ルト聞ク〇賊ノ砲臺右翼山南、洲嵜茶山津久見峠🔲尾、小川内、神嵜、(略)等其他所々ニ築柵アリト云フナリ

 初め官軍は荒田峠を経て平地の手無地蔵まで進んだとある。手無地蔵は野村台の下、沖積地にあるが官軍は荒田峠から臼杵川を過ぎると低地をここまで進行したのだろう。「戦地取調書」では放火したのがどちら側か分からないとするが、これは薩軍が放火したとある。但し同じ家だったかは不明。下は手無地蔵バス停。北西を向いて撮った。

 官軍が低地を進んでいくと南側の台地上から射撃されたとある。この文で次に故ニ官軍荒田村ニ在リとなっているのは、官軍が臼杵川を北側に越えて荒田村に退却したように読める。では「戦地取調書」にある御霊畑周辺に展開したのはどの時点だろうか。野村台の御霊神社北西から眺めると荒田峠をはじめ対岸を進む官軍の状況は簡単に観察できたはずである(次の写真)。戦いは十分に敵が近づくのを待って手無地蔵付近で始まり、この時官軍は死傷者が出ただろう。その後、官軍は台地上に進んで西側から攻撃したものの薩軍を撃退できなかったのだろう。

 なお、6月8日、臼杵の戦い全体では官軍側には戦死4人・負傷20人が生じているが、野村台方面ではどうだったのかは分からない(「戰記稿」)

     御霊神社北西の台地端から下方の水田地帯・荒田山を撮る。

 この日の戦いに関するこれまでの捉え方を示す地図があるので、参考に供しておきたい。臼杵史談会が西南戦争120周年記念としてそれまで「臼杵史談」に掲載された西南戦争に関する記事を一冊に集めた復刻版が「臼杵史談」第88号として出され(1997年)、その中に久多羅木儀一郎「西南の役臼杵の戰」がある。

 臼杵西南戦争に関する記述は6月1日に薩軍が侵入した際の戦いに主力が置かれてきた。陸軍兵はこの時点では大分県にはおらず、臼杵士族たちが官軍側に立って臼杵隊を結成し、巡査200人と共に臼杵を守ろうと戦ったのである。しかし、戦いに不慣れな臼杵隊は平地の道路沿いに守ったため、それらを見下ろす南北二筋の尾根を進んでくる薩軍の標的になって敗走し、臼杵城下になだれ込み、次いで城跡に踏みとどまろうとしたが無駄だった。

 臼杵が占領されると臼杵隊はチリジリになり、二度と武器をとって戦おうとはしなかった。6月8日から10日に行われた臼杵奪回戦に武器をとって戦うことはなく、ただ、官軍の地理案内や探偵などに参加した者もいたが、戦後に記された戦記類では華々しかった6月1日の記述に集中し、その後の事態についてあまり触れていない。上の図も「征西戰記稿」などの情報によるとみられる。臼杵隊関連の本や「戰記稿」が詳しく書かなかった野村台、つまり御霊神社周辺の戦いについて後世の人は知る由もなく、この図には戦闘があったように描かれていない。

御霊神社

 荒田峠から官軍の一部が進んだ御霊畑というのは、臼杵川右岸の台地(9万年前に低いところを埋めながら流れてきた阿蘇溶結凝灰岩が大した浸食も受けずに残った標高10m前後の平坦な台地)の西部に御霊神社があるのに因む地名である。下図にある臼杵摩崖仏は臼杵石仏ではないので注意。それはも少し上流右岸にある。

 神社はこの戦争の際に官軍あるいは薩軍のどちらから焼かれたかは不明だが、その地には現在も神社が存在する。鳥居は昭和のもので、西南戦争当時からあるのは東側に並ぶ二基の灯篭と神社境内の南西にポツンとある石造りの小さい祠だけのようである。

 灯篭各部の名称は上から宝珠・笠(屋根のようなもの)・火袋(明かりをともす部分)・中台(火袋を載せる四角い部分)・竿(一番長くて、中ほどよりも上の方が狭い)・基礎と呼ばれている。向かって左の灯篭の笠には表側に安政二年云々と彫られているが、裏面には平成に造り替えたとあり、風化具合から新造は竿と中台だけらしい。銃弾の痕跡でもないかと観察したら向かって右の灯篭の笠の東向き部分にそれらしき箇所が一つあった(下の写真)。東面だから薩軍が撃った跡かも知れない。絶対に銃弾の痕だというつもりはないが。 

 境内の裏(西側)に廻ると小さい祠があり、屋根の上部、東向き面に丸いくぼみが横から穿たれている。十円玉を置いて撮影した。銃弾痕の可能性があると思う。

 この祠には何も彫られてないが、古そうだった。「臼杵史談」第四巻に御霊神社が載っている(小野西愛pp.138~143「野村臺の二墳墓と神社」)によると、鎌倉幕府が権力をとった際、豊後には相模の地頭大友能直が割り当てられた。しかし本人は領国に来ずにその家臣が先手として豊後に来たが、地元の領主がおとなしく承諾せず、大野川流域の大野九郎泰基が神角山城に立て籠もって抵抗したが敗れるという事態が起きている。彼の霊魂が大友氏に祟るので御霊権現を建てて祀ったのが始まりだという。

 上の写真に関するのか「本社の左側に一石祠がある是即ち木船神社である仝祠は明治十年頃まで温井の田疇の間に在つたが何時頃か本社の境内に移された・・」とある。銃弾痕らしきものがある祠がこの文章の物に該当するのか。明治十年ころまで田の中にあったという年代は微妙である。

 帰りがけに臼杵川の北側からこちらを撮ることにし、川沿いの道を上ると天文16年の石塔など計4基の石塔があった。

 これは後で確認すると大分県が発行した中世石造物報告書にはないが、臼杵市のHPにはあった。この付近に豊後国主だった大友義鑑(1502ー1550)のお茶屋があったという。後世に移動したのか東面と北面はコンクリートの吹付け面になっていて、4基の南面がきれいに一直線に並んでいる。東から1~4とすると、一番東側のは一石五輪で、丸い部分に墨書痕がある。二番目は異なるものを組み合わせたような石塔である。三番目のは宝塔である。略図を撮ろうと思ったが時間がかかるので中断した。四番目は塔の体をななしていない寄せ集め。2と3は四面に刻字があるが、今回は中途半端な記録しかとらなかった。

 

 6月9日の戦闘経過

 野田村の報告。

同廿八日賊軍ハ野田村字甲峠及権現山ヘ官軍ハ字繪堂瓦屋ヘ備ヘヲ立テ双方小銃ヲ以テ炮発スト雖ノモ勝利不詳

 薩軍は甲﨑山・権現山を守り、官軍は絵堂・泉・瓦屋を守って戦ったが決着はつかなかった。8日の薩軍が甲﨑山・権現山・石田山・丸尾を守っていたのに対し、この日は西端の丸尾に薩軍はいない。また、官軍の配置は前日は台地の西端御霊神社とその南北一帯だったが、9日は少し東に移っている。下図は現在の国土地理院地図に1973年の道路(赤い破線)を記入し、絵地図の一部道路を紫で記入して各字がどこにあたるのか比定してみた。

 6月10日の戦闘経過          

 まず野田村の報告を再び。

同廿九日午前四時頃ヨリ官軍二百名余リ野田村一木ヨリ仝郡望月村ヲ通リ仝村字立石ヘ上リ此處ヨリ野田村字谷山ノ峰通リニテ仝郡福良村ノ内字山菴ヘ着此時午前七時頃ナリ該所ヨリ直ニ野田村ノ内字甲嵜ナル薩軍ノ臺塲ヘ向テ進擊ス官軍同時ニ二百名余リ同村字洲嵜瓦屋原ヨリ甲嵜ヘ向ヒ進擊ス一時間程ノ戰争アリ官軍速ニ勝利ヲ得タリ依テ薩軍不残南海部郡地方ヘ去ル

 午前4時頃から官軍200人余りが野田村一木より望月村を通り望月村立石に上った。一木はゼンリン地図で分かったが県道502号と高速道路進入路が交わる付近である。ここから望月村を通り、同村立石に上ったという。立石は高い場所だと分かる。臼杵市観光協会のHPによると「望月地区に300年近く続いている火伏祈願の行事で、毎年八朔(はっさく=旧暦8月1日)から3日間行われます。立石山の山腹に1.5m四方の穴51個が王の字の型に掘られ、そこに麦わらを積み一斉に点火します」とあり、立石山に官軍が登ったことが判明する

 絵地図を見過ごしていたが地名を落とした拡大図の下方外側に字立石の記入があった。上の赤字と同じ場所である。官軍二百人は立石から尾根筋を通り山菴に着き、次にそこから北方に伸びる尾根を下って甲﨑山の薩軍を攻め、同時に別の二百人余りの官軍が洲崎・瓦屋・泉原から甲﨑山を攻撃したので、薩軍は津久見・佐伯に敗走した。

 右翼で大迂回を行ったのは野津市口の第十三聯隊第二大隊(司令官林少佐)である。「戰記稿」を引用する。

十日右翼兵ハ大迂回ヲ爲シ臼杵ノ賊ヲ夾擊セン爲メ姫嶽ニ露營シ天明ヲ待ツ午前五時左翼及ヒ中央ハ正面ヲ攻擊シ海軍ハ警固屋村ノ港ヨリ之ヲ砲射ス戰ヒ酣ナル比ニ右翼果シテ賊ニ突出シ高處ヨリ瞰射ス賊前後ノ猛擊ヲ受ケ拒守スル能ハス退路モ亦斷ヘ宭急甚タ極リ火ヲ平清水臼杵ノ市街ニ放チ其烟焔ヲ以テ退路ヲ蔽ヒ海岸ノ間道ヨリ津久見峠ニ向テ遁ル時ニ午前七時ナリ尾撃三里許退テ臼杵ニ陣ス

 ここでは前夜姫岳に露営したとするが、野田村報告では同廿九日午前四時頃ヨリ官軍二百名余リ野田村一木ヨリ仝郡望月村ヲ通リ仝村字立石ヘ上リ此處ヨリ野田村字谷山ノ峰通リニテ仝郡福良村ノ内字山菴ヘ着此時午前七時頃ナリとあり、当日午前4時頃に野田村一木を出発したことになっている。その後3時間ほどで鎮南山の頂上の北西側にある山菴(庵があったので山の庵と呼ばれ、やがて山ん庵⇒yamanan⇒yamanan⇒山南とも呼ばれる。林道山南線がある。)に到着している。一木から山菴まで3時間あれば行けるだろう。従って、姫岳に露営したというのはどうだろうか。そもそも姫岳にはどこから到着したのだろうか。立石経由であれば、津久見市境の境界尾根に着いて2㎞鎮南山とは逆の方向に行くことになる。

 右翼部隊の行動について活字化されていない史料がある。熊本鎮台の野津大佐が山縣参軍に提出したものである。

C09084043700「戦闘報告原書 第二旅団」防衛省防衛研究所蔵10145~1047

昨日臼杵ニ屯集スル処ノ賊ヲ掃攘セントスルニ右翼ヨリ大迂回ヲ行ンカ為其前夜ヨリ林少佐及ヒ諏訪少佐ノ二大隊ハ深田村ヨリ出発シ「川ナシ峠」ヘ配兵シ露営ス亦海軍ノ艦長伊藤大佐ニ翌朝軍艦ヲ「ケゴヤ村」の湊ニ漂泊シ警備ヲ付シ臼杵港ヨリハ城下ヲ放射スヘキヲ約定シ十日午前第五時ヨリ臼杵城下ノ前面ヲ攻撃スルニ一昨九日上申セシ所ノ左翼ヒ中央ノ兵ヲ以テシ陸海皷操シテ賊ヲ迫擊シ殆ント戦ヒ酣ナルニ及ンテ果シテ右翼ノ大迂回兵賊ノ背後ニ出テ挟撃シ且賊ノ退路ヲ断絶シ頗ル猛射ヲ極メ切迫ス爰ニ於テ賊兵火ヲ町家ニ放テ過半銃器弾薬ヲ放棄シ火焔之熾ナルヲ待チ退路ヲ蔽ヒ佐伯ノ本道ヲ通過スル能ハスシテ漸ク海岸ノ方ナル「ツクミ峠」ニ通スル間道ヲ取り遁逃ス官

軍ハ之ヲ追テ二里位尾撃ヲ行ヒ嶮坂ヲ超過シテ終リニ「ケゴヤ」迠打過ク此時前夜ヨリ警備セシ軍艦ヨリ頻リニ放射セシ処亦賊狼狽散乱ス爰ニ於テ左翼「ケゴヤ」前面ノ山ヨリ右翼建岩及ヒ姫嶽ニ警備線ヲ取り兵ヲ配布スルノ部署ヲ定メ堀江野﨑等ト左ノ通リ約定シ直チニ其地ヲ出発シ本日午后第五時牧口出張ノ本営ニ帰ル

  臼杵口ハ陸續進軍賊ノ踪跡ヲ探偵シ尾撃ヲ為ス

  臼杵口ニ出兵セシ処ノ林少佐ノ一大隊ヲ三重野市ニ繰込ミ牧口ノ本営ニ於テ更ニ

  部署ヲ定メ旗帰三国峠木浦等ノ諸口ヲ経重岡ニ向テ賊ヲ侵襲ス

前顕之通候条此段及御報知候因テ谷三好少将ヘモ御通知相成度候也

  六月十一日    野津陸軍大佐

 

  山縣参軍殿

 追テ臼杵攻撃之際官軍之死傷至テ寡少

 今度賊兵臼杵城下ニ火ヲ放候得共賊遁逃之后直チニ土人ヲ以テ消亡シ大火ニ至ラス故

 ニ当地ノ人氣尤モヨシ

 右翼大迂回について右翼ヨリ大迂回ヲ行ンカ為其前夜ヨリ林少佐及ヒ諏訪少佐ノ二大隊ハ深田村ヨリ出発シ「川ナシ峠」ヘ配兵シ露営スとあり、川ナシ峠に配兵つまり哨兵を配布し露営したと書いている。姫岳という山名は出てこない。残念ながら川ナシ峠がどこなのか分からない。野田村報告の谷山の峰通りは地名からは分からないが、立石からほぼ一直線に尾根が南下するのでこのことだろう。あとは現地踏査で台場跡を確かめるしかない。