西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

阿蔵ーあぞうー山を歩く

 熊本鎮台が鬼ヶ城や崩れ岩・茶屋の辻を攻撃する前、5月23日竹田市街西方の玉来たまらいの街に滞在した。その際、無防備で滞在することは考えられず、野津報告でも玉来街ノ周囲ヲ扼守スとある。また、24日には玉来の東側にある阿蔵山から薩軍のいる方面を観察したことが書かれている。阿藏山ヨリ地理ヲ窺フニ鬼ヶ城茶屋ノ辻ノ地タルヤ山麓ニ川ヲ帯ヒ嶮岨尤甚タシク阿藏村ニ通スル古橋ト云フ板橋アリである。鬼ヶ城と玉来との中間にあるのが阿蔵山だろう。戦記では付近の村の名に山を付けて山名とすることが多い。したがって阿蔵山というのは阿蔵集落傍の山である。引用文から考えて、鬼ヶ城の南西にある山が阿蔵山である。その山は歩いた記憶がなく、調べる必要があると思い、行ってみた。

 赤線が歩いた路線。南から往路45分、復路20分。行きはあちこち見まわしながら、あるいは行き止まりの尾根を引き返したり、墓石に銃弾痕がないか観察したりしたので時間がかかった。ただし復路は尾根筋の5m位下にある車には狭すぎる径をまっすぐ帰った。 

 地図の標高321m付近から北の尾根筋には何か所も近世墓地が見られ、中には現在に続くものもあるが多くはない。321m付近には楕円形のくぼ地が5ヶ所東西に隣接して並ぶ。それぞれは南北にやや長い。台場跡かなとも考えたが、内部には墓石の一部も存在しないが片づけた墓地だろう。

 さらに北側の尾根では江戸時代を主とした墓地が点々と続く。

    地図の黄色い道路の真上に1号台場跡跡を発見。先端まで見た後、略図を作成した。尾根上面の端から東側を向いて造られている。この斜面の下に鬼ヶ城へ続く板橋が当時はあった。土塁部分の中央は風倒木痕のため斜面側に土塁ごとも持っていくように少し壊れている。この風倒木痕は何年か前にできたらしく、木の幹下部が腐らずに残っている。台場跡の規模は全長7.6m、幅3.9m。内側の床面に鉄棒を刺すと風倒木痕の内側でー20㎝、そこから1.5m南側でー10㎝で凝灰岩の硬い面にぶつかる。外側の尾根上に楕円形の窪みがある。南北1.6m・東西1.7mで床面は地表から50㎝低く、さらに20㎝埋まっている。多分この穴は樹木を掘り取った跡だろう。

 そのすぐ先、阿蔵山尾根上面の北端は尾根筋が東西に延びた状態で、上面全体が近世からの墓地となっている。竹田市域の台地上には近世墓地が多く、周囲を土塁状に少し盛り上げたものが少なからずある。これもそのような状態で、北側と東から南側を囲うように低い土塁状となっている。それを台場として再利用したかもしれない。東に突き出た土塁状部分の南辺上部には墓石の石材を一直線に並べた部分があった。冒頭の地図ではこれを2号台場跡としたが、確実ではない。

 阿蔵山で予想通り台場跡を見つけた。戦記から見て官軍が築いたものだろう。じつはもう少しあるかと思ったのだが。玉来から竹田市街に進んだ熊本鎮台は、この辺りに普遍的にある凝灰岩の細尾根の上が江戸時代の墓地適地だったとは知らなかっただろう。阿蔵山に来て初めて知ったに違いない。墓石を利用して台場を築いたかも知れないが、銃弾痕は一つもなかった。ここでは戦闘もなかったし、銃弾痕がないのは当然だろう。一番北端の墓地は土塁のような部分がある。この北端は薩軍のいた中川神社・崩れ岩・鬼ヶ城に面した尾根の先端部にあたるので、竹田の尾根上の墓地に普通にある周囲の土塁状のものを利用して台場として使った可能性は大いにあると思う。