西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 7月  次は、いよいよ8月です。

 6月30日、両軍は川内川左岸の幸田山一帯で対峙状態となったが、それも一瞬で変転してしまう。初めに7月1日の「戰記稿」第二旅団を掲げ、次に第三旅団の戦闘報告表を掲げる。解説を加えつつ分断して進める。

  七月一日第二旅團ハ午前五時右翼軍先鋒諸隊一ハ二渡村前面山上ヨリ一

     廣田村ヨリ並ヒ進テ山上ノ賊壘ヲ攻ム又其一ハ前田山ヨリ其背ニ迂廻ス童

  山峭山急我軍蔽障ナシ仰攻頗ル苦ム賊、要衝ヲ扼シ瞰射甚タ烈ク容易ニ拔

  クヘカラス是ニ於テ諸隊分レテ其左右側面ニ出ツ而シテ背攻ノ兵モ亦登ル

  三面共攻之ニ肉薄ス中軍、後ニ在テ鬨喊其氣勢ヲ援ク偶〃第三旅團ノ兵其

  山背本庄街道ノ賊壘ヲ衝ク賊、斷後ノ虞アリ氣頗ル褫ハル我軍、機ニ乗シ

  奮擊、賊遂ニ壘ヲ棄テ走リ後山ノ險ニ據ラントス急ニ擊テ亦之ヲ走ラシ近

  衛兵一中隊大久保大尉(利良)鎭臺兵一中隊今村大尉北ルヲ逐フテ山ヲ踰

  エ共ニ本庄街道賊壘ノ背後ヨリ瞰射ス賊其不意ニ出ラレ亦支ヘスシテ走

  両隊下テ幸田村ヲ取リ

 後掲の戦闘報告表で分かる通り、この方面の官軍は第二旅団が左翼として南下、第三旅団が右翼として東行し、幸田山を挟撃し敵を追って横川町に入った。

 前田山は国土地理院地図の基準点検索で標高280mの山だと分かった。二渡村にある学校から南に630mの距離にその頂上がある。そこから水田地帯の細い谷を挟んで西南西2kmに薩肥軍の中心陣地、陣ノ岡がある。前田山は禿山(童山)かつ急峻(峭山)で官軍にとって身を隠す場がないので、左右に分かれて、山の背からも攻撃した。その際、第三旅団が幸田山の西側の本城街道の敵を攻めていたので、薩肥軍は背後を絶たれることに気を奪われたのに乗じて第二旅団は陣ノ岡を奪った。敵は背後の山(本城街道との間にはまだ尾根が続いている)に後退して官軍を防ごうとしたが、これを追い払い街道付近の敵を山上から射撃した。街道付近の敵は不意に背後から攻められたので逃走し、第二旅団は幸田村を占領した。

 C09083974900「明治十年戰鬪報告 第二旅團」0566

  七月一日於薩摩國幸田村戦闘報告表

  第二旅團歩兵第九聯隊第一大隊第二中隊長代理陸軍中尉嶌野翠㊞ 

  総員:64

  戦闘景况ノ部:本日午前第三時整列夫ヨリ幸田山ヲ攻撃ス賊山ヲ棄テ退

  ス当中隊ハ先驅シテ幸田村ニ賊ノ後軍ト戦ヒ諸兵ト共ニ之ヨリ逐擊シテ横

  川甼ニ至ル此夜甼ノ東方一道路ヲ警備防守ス

 この日、幸田山を攻撃して薩軍を追い出し、東側の横川町に進み町の東側の道路を警備している。 

 C09083975000 「明治十年戰鬪報告 第二旅團」0568

  明治十年七月一日於栗野郡平田村陣阜戦闘報告表

  第二旅團歩兵第九聯隊第一大隊第三中隊長代理陸軍少尉脇阪 葦 

  総員:103

  戦闘景况ノ部:七月一日午前第五時平田村哨兵線ヨリ出発幸田村ニ向ヒ

  中陣カ岳ノ賊壘ニ迫ルニ賊大勢ヲ以テ諸方ヨリ下射ス我兵発射スルモ利ア

  ラス依テ地物ニ伏シ專ラ賊兵ノ挙動ヲ偵ヒ各隊ノ来ルヲ待ツ稍アツテ逐次

  各隊至リ聲援ヲナス我中隊機ニ乗シ再ヒ発射シ該山ヲ拔キ兵ヲ左右ニ分チ

  並進シテ迯賊ヲ追射シ幸田村ニ至ラントスルノキ賊兵一ノ山峰ニ拠リ防戦最

  モ勤ム此ニ於テ暫時奮戦此ノキ援隊未タ来ラス暫クアツテ同大隊第二中隊我

  カ分チシ兵ノ右方ニ来ル續テ各隊至ル此ノキ賊兵防キ兼退ク我兵追撃シテ幸

  田村ニ至ル此ニ於テ暫時憩フ此ヨリ援隊トナリ横川ニ進ム我兵途ニ今井中

  佐ノ指揮ニ依テ同大隊第二中隊ノ一小隊ト共ニ横川ヨリ栗ノニ通スルノ街

  道ヲ押エ午后第四時二拾分終ニ進ンテ横川ニ至ル同夜同村北方ノ山ニ哨兵

  ヲ配布ス

    雜報之部

  我軍ニ得タル物品:スナイドル銃 壱挺 ヱンヒール拾 二挺 七連発

  一挺  刀 七本

 同大隊第二中隊とは嶌野中尉の隊である。陣か岳は既出の地名で、幸田村の北西背後の山であり、本城嶽という名でも登場した。幸田村付近の山の敵を追い、栗野に通じる路線を抑え、この夜は横川村北方の山に哨兵を配布した。町の北東側であろう。 

 C09083975100「明治十年戰鬪報告 第二旅團」0570

  七月一日栗野郡幸田村ヨリ桑原郡横川ニ至ル戦闘報告表

  第二旅團歩兵第九聯隊第壱大隊第四中隊長大尉伊藤元善㊞ 

  総員:111人 傷:1

  戦闘景况ノ部:午前第三時鹿児嶋縣下湯尾川ノ前面前田山ヲ発シ右翼軍

  援隊トナリ栗野郡幸田村江進入夫ゟ先鋒トナリ漸次ニ進テ所〃ノ賊巢ヲ拔

  ク遂ニ横川ニ進入此夜横川ヲ隔テ山上ニ大哨ヲ配布ス

    雜報ノ部

  分捕品 米百五拾壹俵

 ほかの隊と同様、幸田村付近の戦闘を経て横川に入ったが、周辺の山上に大哨兵を配布している。哨兵と大哨兵の区別は分からないが、部隊全部が配置についたということだろう。

 次に第三旅團7月1日の動きをまとめた「戰記稿」を掲げる。

  是日拂暁第三旅團ノ鶴田迂回兵六中隊ハ早ク本城村ニ出テ横川街道ノ側

  ニ守備シ而シテ湯尾町本道ノ兵ハ横川街道ニ在テ終夜激戰スレノモ賊能ク拒

  キ銃砲ヲ發シテ我兵ヲ亂射ス三浦少將以爲ラク今此激戰ニ際シ更ニ氣ヲ倍

  シ進戰スルニ若カスト乃チ令ヲ下シ部署ヲ更ムル左ノ如クシ(※ 表略齋ク

  進テ逆ヘ擊ツ賊、横川本道ニ在リ之ヲ拒ク是時ニ當テ我兵連勝、勢、破竹

  ノ如ク直前、横川ニ達セントス賊、抗守スルヿ數次、死尸兵械、道ニ狼藉

  タルモ尚ホ去ラス横川村ノ山上及ヒ人戸ニ入テ拒ク是ノ時第二旅團兵稻葉

  村ヨリ進テ栗野ヲ陥レ遂ニ横川村ニ至ル我兵激突突貫東北ヨ横川麓ニ入

  ル賊本營ヲ棄テ火藥製造所二ヶ所及ヒ諸器械ヲ焼キ踊村ニ入ル我軍遂ニ

  川村ヲ占領シ第二旅團ト横川川ヲ畫シ各〃両翼ノ守線ヲ定ム時ニ午後三時

  ナリ

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 第二旅団と第三旅団とは横川川を境に守線を画したとあるが、横川川とは横川の中央を北西から南東に流れ、幸田方向から下る(天降川支流の)清水川のことか。上図は7月1日第二旅団関係の地図である。

 以下、第三旅団の戦闘報告表を掲げる。

  C09084804300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0430・0431

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第三中隊大尉山村政久㊞ 

  総員:東北ヨリ百四拾三人 

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:鹿児嶋縣下☐川

  戦闘ノ次第概畧:七月一日午前第四時湯ノ村ノ大哨處ヲ発程シ楠原村ニ

  敵ヲ見直ニ開戦進ンテ横川ノ内山ノ口村ニテ凡一時間斗ノ戦闘又進ンテ横

  川ニ至リ大哨兵ヲ布ク   傷者:将校一人 ※備考に負傷者名があるが略す。

 山ノ口村は安良岳(標高607ⅿ)の東3㎞にあり、幸田と横川を繋ぐ路線上に位置する。

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 C09084804400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」 0432・0433

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉大尉岡煥之㊞

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:鹿児嶋縣下南本城

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時攻撃隊トシテ直ニ防禦線ヨリ開戦シ攻撃百

  遂ニ敗走ス然ルニ賊要地ニ據リ屡ニ防支スト雖モ力竭キ走テ跡ナシ遂ニ追

  テ横川邨ヲ拔キ茲ニ大哨兵ヲ占ム

 南本城村から進撃し、横川村を守備している。次も同隊である。

 C09084804400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」 0432・0433

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉大尉岡煥之㊞

  総員:百二十名  

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:鹿児嶋縣下南本城

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時攻撃隊トシテ直ニ防禦線ヨリ開戦シ攻撃百

  遂ニ賊塁ヲ捨テ敗走ス然ルニ賊要地ニ據リ屡ニ防支スト雖モ力竭キ走テ跡

  ナシ遂ニ追テ横川邨ヲ拔キ茲ニ大哨兵ヲ占ム

  総員:百二十名  傷者:下士卒三名  備考:攻撃百方ノ際二等兵 

  足利源次郎☐☐彦次郎長谷川善六負傷此日費ス所ノ弾薬二千発

  傷者:下士卒三名  備考:攻撃百方ノ際二等兵卒足利源次郎

 岡隊の使用弾数は一人平均16発強だった。

 C09084804500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0434・0435

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊陸軍大尉佐々木 直㊞ 

  総員:八十五 

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:本城村ヨリ横川ニ至ル

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時三十分南本城村山上ノ賊塁ニ向ツテ進ム賊

  火猛烈ナルモ我隊吶喊進ンテ其右側ニ出ス賊防ク能ハズシテ退ク我隊北ル

  ヲ逐テ本道ヲ進ム彼屡防戦スト雖モ終ニ進テ横川町ニ入ラントス時ニ援隊

  ヲ命セラル午后第一時横川町ニ入ル   傷者:壹人

 本城村山上の薩軍とはどこか不明だが、陣ケ岳かも知れない。最後は横川町に入っている。

 C09084804600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0436・0437

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第三中隊附属同聯隊第二大隊第四中隊壹

  小隊 中隊長大尉南小四郎代理 少尉浮村 直 総員:三拾七名

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:タカム子山

  戦闘ノ次第概畧:此日攻撃ノ命アリ午前第三時テントウ岡山ヨリタカム

  山ヘ隊ヲ移シ右翼ノ砲声ヲ聞キ直ニ本道ニ出テ進入山ノ口村西南ノ山上ニ

  兵ヲ伏シ俄ニ倣射シ賊ノ潰走ヲ急擊シ横川町ヲ畧シ長坂峠ニ至リ防禦ス 

  備考:我軍:此日死傷ナシ

 山ノ口の西南の山上というのは安良岳の東に延びた尾根筋だろう。長坂峠の場所は分からない。

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 次の0438・0439は上記とほぼ同文だが、第三中隊の記録である。 

 C09084804700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0438・0439

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊中隊長大尉南小四郎代理少尉浮村

  直☐㊞  総員:九拾名

  戰闘日時:七月一日   戦闘地名:タカム子山 

  戦闘ノ次第概畧:此日攻撃ノ命アリ午前第三時テントウ岡山ヨリタカム

  山ヘ隊ヲ移シ右翼ノ砲声ヲ聞キ直ニ本道ニ出テ進入山口村西南ノ山上ニ兵

  ヲ伏シ俄ニ瞰射シ賊ノ潰走ヲ急撃シ横川町ヲ畧☐☐☐至リ防禦ス 

 

 C09084804800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0440・0441

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第二大隊第三中隊 陸軍大尉大西 恒 

  総員:将校以下百二十五人

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:品處ヨリ横川

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第三時半品處防禦線ヲ発シ右翼ノ山脉ヲ添テ

  進軍ス時ニ正面共已ニ開戦シ砲声頻リニ起ル本隊速ニ賊ノ左翼後ニ出テ

  頓ニ発射ス賊狼狽塹溝数處ヲ棄テ﹅潰散ス依テ追撃山ノ口ニ至ル賊前面

  ノ山上麓ヲ防禦ヲ☐☐ス故ニ我中隊ヲ右翼ノ深林ニ迂回シ☐☐☐急擊之ヲ

  退ク☐タ横川ニ入ル☐☐横川☐☐我隊彼ガ臺塲ニ奮突ス☐終ニ横川ニ進入

  金山街道防禦線ヲ定ム

  備考我軍:本日死傷ナシ 敵軍:分捕 米十俵 ミ子ゲル銃一挺 胴乱

  一個 スニヱドル弾薬数十発

 品處の意味が分からないが、前出の岡隊に類似した経過を辿ったと理解しておこう。金山街道の金山は安良岳の西約4.8㎞にある地名である。横川に向かい東流する天降川の本流沿いを金山付近に遡る路線が想定できる。

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 C09084804800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0442・0443

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸愛㊞ 

  総員:八十人

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:楠葉村

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時楠葉村前面ノ賊ニ向テ攻撃ス彼乍敗走シ退

  屡〃☐ニ據リテ我尾擊ヲ防カント欲スレノモ亦敗ル進テ深川ノ臺ニ至リ命ニ

  依テ大哨ヲ布ケリ  

 楠桑村は場所不明。安満隊は前日6月30日には楢葉村で哨兵を配布していた。湯之尾のすぐ東、川内川北岸に楢原村があるのでこれを楢葉村としたのだろう。最終的にこの日は深川という横川中心から2.5㎞にある台地で大哨兵を置いている。一人当たり44発弱を使用したことになる。

 C09084805000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0444・0445

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞ 

  総員:九十七名  

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:横川町辺

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第四時小越瀬利山頂ノ賊塁ニ向ツテ攻撃開戦

  對戦スル一時間ヲ出テスシテ彼レ固守スル能ハス退軍シ屡々要地ヲ占メ防

  戦スル数度ニ及フト雖ノモ彼レ我カ猛勇ヲ怖怯レ續々敗軍ス就中横川町山頂

  ニ固立極メテ防戦ストノモ我レ彼カ左翼ヘ出テ迂回ニ際シ迅速逃去ス于時

  同午后三時ナリ   傷者:二

  小越瀬利山は場所不明。最後に敵がいた横川町山頂は町中心部の東西どちらだろうか。

 C09084805100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0446・0447

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊陸軍中尉草塲彦輔花押 

  総員:百三十六

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:自楠葉至横川

  戦闘ノ次第概畧:七月一日午前第四時防禦線ヲ発シアラテ原ノ前面ノ丘

  渓谷ヲ攀チ躋シテクスハ村ノ山頂ニ至ルノ処依険設塁頻リニ発砲於是戦ヲ

  開キ瞬時ニ数塁ヲ拔キ追撃ス賊敗走シテ所〃テ防戰ヲナスト雖ノモ遂ニ之ヲ

  支フル能ハス☐午后第五時横川ニ進入仝所防禦線ニテ塁ス 

  傷者:将校二  

  備考:傷者陸軍大尉武田信賢七月一日本城前面山ニ於テ右足傷 傷者陸軍

  中尉堀江元明七月一日本城前面山ニ於テ右腕傷

  この部隊は前回の報告(6月30日)では隊長が武田信賢大尉だったし、その日は諏訪野山を出発し夜は本城上アラタ原に露営したことになっている。本文のアラテ原は荒田原である。薩軍が退却して築塁したクスハ村ノ山頂は楠原村の山頂だろうか。村の西方の山を想定しておきたい。現地踏査すれば判明するかも知れない。最後の防禦線の位置が分からない。 

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 C09084805200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0448・0449

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第弐中隊長陸軍大尉栗栖毅太郎㊞ 

  総員:第二旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第弐中隊九十人

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:本庄村横川村

  戦闘ノ次第概畧:午前第参時本庄村山上ヲ發シ本道右翼ゟ進軍数多ノ嶮

  ヲ経テ漸ク賊塁ヲ見ル此ニ於テ開戦僅カニ数十分間ニシテ賊退去ス本道ノ

  賊頗ル接戦屈セサルカ如キヲ以テ又道ヲ右方ニ取リ幾多ノ山嶽ヲ越ヘ賊

  左側面ニ出ツ然レノモ山谷崎嶇容易接近スルヲ得ス依テ一齊ニ鯨波ヲ發シ此

  ニ迂回ヲ示ス此時賊兵弐三百斗横川ヲ指シテ走ル依テ速カニ退路ヲ突カン

  ト安間嶽の巓ヲ越ヘ☐田村山上ニ出ツレハ賊兵全ク退去此ニ於テ此ノ山上

  ニ而露営ス   俘虜:下士卒一

       我軍ニ穫ル者:銃 三挺屬具共 器械 刀二本 

  備考敵軍:一俘虜壹名ハ鹿児島縣士族香月忠太郎ナリ 

       一銃三挺ハ短雷銃属具ノモ同断

安間嶽とは安良岳のことだろうか。横川の西側山上に露営したらしい。

 C09084805300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0450・0451

  第三旅團近衛歩兵第二連隊第一大隊第一中隊長代リ中尉横地 剛㊞ 

  我軍総員:百零三名

  戦闘日時:七月一日 

  戦闘地名:本城岳  戦闘ノ次第概畧:当日本城岳ヲ進撃シ同処ヨリ安良山

  迠進軍シ同所ニ位地ヲ占メ防禦ス  傷者:下士卒一名 

  これも直前の栗栖隊と似た経路を経たらしい。とすれば、安良山とあるのが栗栖隊報告の安間嶽だろう。安良岳である。

 C09084805400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0450・0451

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第一聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親世

  総員:六拾二名

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:鹿児島縣下大隅国菱刈郡楠原村 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時湯尾麓ヲ発シ同第五時三十分ニ至リ楠原村

  山上ニテ開戦彼防戦☐勤ム遂ニ第七時頃ニ至リ賊数塁ヲ捨テ敗走ス故ニ尾

  擊ス賊又迯セス要地ニ因テ防戦スト𧈧ノモ吾兵突進奮擊遂ニ横川村ニ進入要

  地ヲ占領スル午後第四時ナリ   傷者:下士卒一※備考欄に手負兵卒名があるが略す。

 楠原村の山上で戦ったというから前記のクスハ村ノ山上と同じだろう。これも最終地点が明瞭でない。同隊の報告がもう一つある。

 C09084805400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0452・0453

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第一聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親世

  ㊞ 総員:六拾二名

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:鹿児島縣下大隅国菱刈郡楠原村 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時湯尾麓ヲ発シ同第五時三十分ニ至リ楠原村

  山上ニテ開戦彼防戦☐勤ム遂ニ第七時頃ニ至リ賊数塁ヲ捨テ敗走ス故ニ尾

  擊ス賊又迯セス要地ニ因テ防戦スト𧈧ノモ吾兵突進奮擊遂ニ横川村ニ進入要

  地ヲ占領スル午後第四時ナリ   傷者:下士卒一

 

 C09084805500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0454・0455

  第三旅團歩兵第拾貳聯隊第二大隊第二中隊長大尉沓屋貞諒㊞ 

  総員:百三拾八人   戦闘日時:七月一日  

  戦闘地名:湯尾山 戦闘ノ次第概畧:午前第六時開戦直ニ賊敗走ス之レ

  追撃シテ午后第三時深谷山ニ至リ臺塲設築シテ防禦ス

  傷者:下士卒一 備考我軍:傷者下士卒壱名ハ二等卒大川新吉

  放ツ所ノ弾数貳千發   ※備考欄に手負兵卒名

 深谷山は場所不明。一人14発強を使用している。

 C09084805600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0456・0457

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠美㊞

  総員:百十六名

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:湯尾町上山ヨリ横川ニ至ル 

  戦闘ノ次第概畧:午前六時頃湯ノ尾町上山賊塁ニ對シ攻撃開戦即時進撃

  テ本道江進ミ漸次台塲ヲ落シ入レ午後二時頃横川ニ進入同所上ノ山ニ進ミ

  防禦線ヲ定ム   敵軍死者:不詳 傷者:不詳

  我軍ニ穫ル者:弾薬若干  備考敵軍:死傷多クアリ人員ヲ明セス

 

 C09084805700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0458・0459

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊陸軍大尉本城幾馬㊞

  総員:八拾七名

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:大隅国第五十六區横川町

  戦闘ノ次第概畧:七月一日午前四時十二羽石山ヲ引拂ヒ横川口ニ進ム仝

  后一時賊ノ引退クニ追付ク尾撃スルヿ二里余已ニ横川ノ村郊ニ至ル仝処ニ

  大哨兵ヲ布ク☐薬三千ヲ放ツ   傷者:下士卒三

       備考我軍:傷者兵卒伊藤宇右エ門辻本吉松中村市之吉

 十二羽石山は場所不明。

    C09084805800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0460・0461

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊陸軍大尉山本 弾㊞ 

  総員:百四名

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:大隅国菱刈郡陣ノ山横川ノ間

  戦闘ノ次第概畧:七月一日湯ノ尾村山ノ下ヨリ進ミ陣ノ山横川村ノ内山

  口等ノ賊ヲ衝キ烈敷戦ヒ賊ヲ逐ヒ横川町口ニ至ル一時兵ヲ纏メ夫ヨリ防禦

  線ヲ定ム此日死傷無シ   我軍ニ穫ル者:弾薬ミニヘール 六百発

 陣ノ山とは陣ケ岡あるいは本城嶽だろう。幸田村から東に進み山ノ口でも戦い横川の西側に防禦線を布いたのだろう。

 C09084805900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0462・0463

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長代理 陸軍中尉中村 覺㊞

  総員:将校以下百十四名

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:本城長池ヨリ横川ノ間

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第五時半過キ長池ヨリ開戦賊ヲ遂フテ頻リニ

  ム高田ニ至ル頃賊止リ戦フ又撃ツテ之ヲ敗ル山ノ口ニ至テ賊又止リ戦フ此

  時賊兵本道ニ臺塲ヲ築カント欲シ錐等ヲ集ム我兵暴進撃チ敗ツテ之ヲ奪フ

  賊狼狽シテ走ル殺ス者アリ捕フル者アリ是レヨリ又進ンテ横川左側ノ丘阜

  ニ登リ又賊ヲ敗ツテ之ヲ逐フ遂ニ植村ノ𦊆ニ至ル戦止ム時ニ午后第五時頃

  ナリ此日賊ヲ撃チ之ヲ敗ル都合四回ニ及フ

  死者:下士卒一 傷者:下士卒五

  我軍ニ穫ル者:俘虜未詳 五人 銃 ヱンペール銃二挺 火縄銃四挺

  刀七本  器械 鍬二十五挺 糧 玄米十三俵白米二俵半 備考我軍:※死傷者名を略す。

 長池は陣ケ岳の1.4㎞西側にある永池集落だろう。長池を除けば直前の山本隊と似た行動である。

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 C09084806000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0464・0465

  第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉久原宗義㊞

  総員:四拾二名  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:※空白

  戦闘ノ次第概畧:本日戦鬪ニ供フル処ノ砲数四門ナリ中二門ヲ以先鋒ト

  シ進軍中賊ノ集結シテ我ヲ防支スル処ニ對☐テ砲撃スルヿ四度遂ニ漸ニ進

  テ午后四時三十分横川ニ入ル

 経路を記さないが賊ノ集結シテ我ヲ防支したのは陣ケ岳、別名高田山とも記された山のことだろう。この戦闘に大砲も使ったわけである。

 C09084806100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0466・0467

  第三旅團東京鎮臺歩兵第一大隊第二中隊長 陸軍大尉下村定辞㊞ 

  総員:九拾四名  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:横川口

  戦闘ノ次第概畧:明治十年七月一日午前第六時ヨリ横川口ニ向ケ攻撃午

  第四時頃ニ至テ休戦ス此日援隊タルヲ以テ交戦セス   

 下村大尉は下記の報告もあり、別の中隊の報告も残したことになる。

 C09084806200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0468・0469

  第三旅團歩兵第二聨隊第三大隊第壱中隊長陸軍大尉下村定辞㊞ 

  総員:百二十人 戦闘日時:七月一日 戦闘地名:本城ケ嶽ヨリ横川迠

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時本城ケ嶽大哨兵位置ヲ出發シ横川攻撃ノ援

  ト為テ下山野村ニ到ル

  備考敵軍:午前第五時本城ケ嶽大哨兵位置ヲ發シ本城村ニ到ル頃ヒ我先

  賊ノ第一線ヲ拔キ勢ニ乗シテ烈ク進撃シ尚賊ノ数線ヲ拔ク故ニ援隊モ亦之

  ニ従ヒ徐々ト進テ遂ニ下山野村ニ到ル 

  下山野村は場所不明。

 C09084806300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0470・0471

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聨隊第三大隊第二中隊 陸軍大尉福島庸智㊞

  総員:九十五

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:※空白

  戦闘ノ次第概畧:援隊ニテ午前第四時防禦線ヲ発シ本城ヨリ横川ニ至ル

  𧈧モ遂ニ開戦セス   

 

 C09084806400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0472・0473

  第三旅團歩兵第三聨隊第三大隊第一中隊 中隊長 陸軍大尉竹田実行㊞

  総員:百拾八名   戦闘日時:七月一日   戦闘地名:横川街道

  戦闘ノ次第概畧:七月一日本道攻撃ノ援隊トシテ午前第五時大哨兵ヲ引

  本道ニ出テ進ム賊敗走スルニ随ヒ追〃進ンテ午后第六時横川ニ至ル仝二日

  加治木迠攻襲偵察ノ命ヲ受午前三時三十分横川山ノ口村ヲ発シ加治木手前

  ノ山ヨリ賊情ヲ窺ヒ夫ヨリ溝邉ニ引揚ケ茲ニ泊ス   

 2日の報告もあるので1日は山ノ口村に止まったことが分かる。横川ニ至ルとあるが中心部にいたのではない。

  C09084806500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0474・0475

  第三旅團名古屋鎮臺第六聨隊第壱大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  総員:百拾四名

  戦闘日時:七月壱日   戦闘地名:鹿児嶋縣大隅国桑原郡横川村

  戦闘ノ次第概畧:七月壱日午前第四時進撃該隊援隊ノ命ヲ受ケ横川村ニ

  ル途中分捕数夛アリ

  我軍ニ穫ル者:銃 ヱンピール壱挺 スナイドル壱挺 弾薬 大砲弾丸

  個 器械 銃劔壱本大小刀六本胴乱壱個ナマリ十二本 貨 金壱圓九

  戔八厘 俘虜:未詳壱名 備考敵軍:一金壱圓九拾四錢八厘 一捕縛人 

  壱名 一銃劔壱本 一大小刀四本内小四本 壱ナマリ拾貳本カ子貳個 一

  胴乱壱個弾丸壱個

  右者七月一日進撃途中ニ於テ得ル

 どうした訳か色んな物を分捕っている。

 C09084806600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0476・0477

  第三旅團第十聨隊第三大隊第一中隊長大尉瀧本美輝㊞ 総員:百〇壱人

  戦闘日時:七月一日   戦闘地名:金山麓

  戦闘ノ次第概畧:前夜大哨兵ヨリ午前第四時頃発シ横川方向本道筋進軍

  ニ横川村町ニ至ル此日援隊ニシテ不発砲  

 7月1日の戦闘報告表全体を表にしてみた。見にくいけど。

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 およその経過は第二旅団は全体の左翼として川内川を渡河して南東に進み、、第三旅団は西方から東に進んで幸田山付近で薩軍と対戦し、引き続き横川を奪い周辺にも守備を配布した。第二旅団は7月2日、横川南東の溝部麓に移動し薩軍の行方を探っていたが、たまたま薩軍の急使を捕らえそれまで横川に置いていた軍務所を踊郷麓に移転したという回章(「横川軍務所ノ儀昨一日ヨリ踊郷麓ヘ假ニ引移シ相成候條此段相達候事 七月二日    軍務所 溝邉 加治木 襲山 清水 國分 敷根 福山 末吉 財部 高原 都ノ城 庄内 野尻 小林 飯野 各郷宛」)を奪い、薩軍の動向を知ることとなった。

  

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 上図は踊地方の薩軍台場跡の一ヶ所、チシャケ迫堡塁跡群である。残り具合がよく、土塁部分は高さ80㎝程度である。弧状の3基は戦跡だが、小型円形で浅い掘込みのものは樹木の抜き取り跡か風倒木痕だろう。地元の愛好家達がこれらも堡塁跡(ここでは台場跡と呼ぶ)にしているが、おそらく違うだろう。踊では官軍が進軍すると薩軍は戦わずに去っていたと記録されており、ここも埋蔵文化財センターが正式の文化財保護法のもとで金属探知機を使い調査した結果、銃弾類は確認できなかったという。

 6月、鹿児島市の官軍攻撃のために帰ってきた薩軍は7月1日には鹿児島湾北岸の加治木に撤退していた。南下していた第二・第三旅団は2日、加治木の北にある龍門司坂に斥候を派遣し鹿児島市方面から薩軍を追って北上する官軍と連絡を付けようとした。

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上図の上外側に踊地方がある。鹿児島市方面から第四旅団が迫り、北から第二・三旅団に挟まれつつあったのでこの後、薩軍は湾沿岸を東に進み大隅半島に進むことになる。

 

 C09082194700「明治十年 探偵戰鬪報告 一 軍團本営」 0989・0990

   鹿児島ノ官軍ト連センカ為メ加治木ヘ向ケ派遣セシ大斥候

  七月二日大斥候トシテ第二旅團ノ近衛兵一中隊第三旅團ノ鎭台兵二中隊

  参謀西少佐率ヒテ午前第六時横川ヲ發シ溝邉ニ向テ進軍ス午前第十時過キ

  溝邉ヘ進入直チニ諸處ヲ捜索スルニ硝石硫黄等ノ儲藏頗ル夛シ依テ之レヲ

  土民ニ問ヘバ是レ賊ノ占領スル各地ヨリ横川製造處ニ輸サンカ為メ此處ヘ

  送致セシ者ナリシカ昨日横川ノ賊敗スルヤ此地ノ賊狼狽周章シテ之レヲ捨

  テ遁去セリト午前第十一時過キ加治木ニ向テ更ニ斥候ヲ派遣シ竟ニ竜門司

  坂ノ手前ニ至ル此處ニテ賊ノ斥候ニ出會ス之レヲ捕ント欲シ兵ヲ配布ス而

  乄遂ニ獲ル能ハス尚進ンテ賊情ヲ偵察スルニ賊ハ加治木ニ屯集シ別府川ヲ

  隔テ官軍ト對戦シアリ且ツ竜門司坂ヲ防守ス午後第四時又タ山田ヲ指シテ

  溝邉ヨリ斥候ヲ遣テ官軍屯在ノ有無ヲ探ラシムルニ地及其近傍ニハ官軍

  屯在セスト帰リ報ス依テ三中隊ヲ溝邉ニ止メ以テ此地ヲ守備シ前件ヲ横川

  ニ報シ且ツ加治木ノ賊背ヲ突キ別府川以西ノ官軍ト連絡センヿニ决議ス

 先に見た横川軍務所ノ儀云々の回章については「西南戰袍誌」には次のような記述がある。

  龍門司坂まで進んだ斥候隊は龍門司坂上に盛ニ篝火ヲ焚きて示威す。

   賊の使節未だ此地の官軍に歸せしを知らず味方と誤認し左の回章を齎

  來り恭しく西少佐に呈す西少佐鹿兒島辯を以て巧に之れを繰り敵情を聞き

  終て忽ち之を捕へへたり抱腹の至りに堪へず。

 薩軍の使者は官軍を薩軍と間違えて西少佐にうやうやしく渡してしまったのである。官軍の軍服を着た薩軍側の人が少なからずいたのだろう。

  三日 午前第六時横川ヨリ七中隊ヲ發シ溝邉ニ進メ昨日ヨリ溝邉ニ駐在

  ル三中隊ト合併シ加治木ヲ衝カントス是レヨリ先キ午前第五時前加治

  方ニ当リ炎烟天ヲ焦ス依テ直ニ斥候ヲ出シ次テ三中隊ノ兵ヲ進ムルニ既ニ

  賊加治木ヲ火シ逃遁ス因テ直ニ加治木ニ入リ第四旅團ト連絡ヲ通

  四日 大山少将曽我少将加治木ヘ出張セラレシニ付西少佐出張シ防禦線

  連絡ヲ議シ先ツ當團ノ兵ヲ溝部ヘ引揚ク但シ當團防禦線ノ限界ハクルミ川

  ヲ以テ右翼端トシ是レヨリ以南ハ別働第三旅團ニ引渡ス可キ議定ナ

 2日、溝辺で薩軍の硝石・硫黄等多量を分捕った。これは薩軍が占領地で集めて横川製造所に送ろうとしたものだが、前日に横川が官軍に奪われたのに驚いて大急ぎで逃げ去ったものだった。山田は加治木町の別府川川口から5㎞弱の地点に来たから合流する山田川に因む地名だろう。3日には加治木で第四旅団と連絡が付き、4日大山・曽我両少将と西少佐は各団の防禦線境界を定め、第三旅団右翼は久留実味川を端とすることになった。久留味川は7日の踊攻撃の際に官軍右翼が通過した海老迫の南側を流れ、塩浸の少し北側で天降川に合流している。

 7月3日、第二旅団に薩軍行進隊240人が降伏した。鹿児島市から加治木に退却した部隊の一部である。また、第三旅団も鹿児島市から進んだ官軍と連絡がついている。5日、加治木からも薩軍は姿を消したので当面薩軍がいるのは踊地方だけとなり、第二旅団は踊本道の左を、第三旅団は溝部よりその右を踊に向かい進軍することにし出発した。しかし、山縣参軍の意向で、第二旅団は背後の栗野に進路を変更した。栗野の東には宮崎県小林があり、同団は後日小林に進んでいる。このため踊攻撃は第三旅団の担当となり、横川進入に共同で当たっていた第二旅団と第三旅団は進軍方向を分けることになった。このように2日から6日の間は各旅団の進路計画の打合せに費やされ、戦闘がなかった。

 が、7月7日、第三旅団は攻撃兵を次のように三分して進軍した。右翼「午前三時三十分開戰踊ヲ畧取スルヲ目的トシ溝邉口ヨリ鳥掛ヲ經海老迫ヨリ進ム」、正面は「同横川ヨリ本道ヲ踊ニ進ム」、左翼「同萬膳村ヲ經テ麻谷村ヨリ進ム」と別に援隊(「援隊ハ防禦線ヲ守リ參謀官並ニ攻擊隊司令官ノ協議ニヨリ臨時出兵スヘシ」。右翼・正面・左翼)・警備隊(横川に位置)である(「戰記稿」巻四十九肥日隅國境戰記)

 右翼進路のうち溝邉口は現霧島市の西部にあった溝辺町方向からという意味と解され、溝辺は踊の西側にあたる地域である。鳥掛は不明、海老迫は踊の西方2,8㎞にある。それで右翼は西方から踊に進軍する部隊である。正面は横川から天降川沿いに南東に進み、霧島温泉駅南からさらに南東へ山間部に進む計画である。左翼の萬膳村も麻谷村も地図で推定でき、正面の北東側を進むことになる。

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 第三旅団戦闘報告表は7月1日の後は7日となっているのでこれらを掲げる。

 C09084806700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0478・0479

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸愛㊞

  我軍総員:八十六人  戦闘月日:七月七日   戦闘地名:踊 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分踊ノ賊ニ向フ賊去テ壱人ノ塁ニアル

  シ進テゲバ塚ニ至リ大哨ヲ配布セシニ再ヒ持松村ヘ出張ノ命ヲ拝シ仝村山

  上ニ登リ防守ス   備考:一死傷ナシ 一此日壱弾ヲ発サス

 安満隊は井上・大西・横地各隊と同じ右翼援隊だった。初めに大哨兵を置いたゲバ塚は場所不明。持松は横川の南東13㎞で、持松の北北西5.7㎞に踊がある。

  C09084806800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0480・0481

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 煥之㊞

  総員:百二十人

  戦闘月日七月七日   戦闘地名:鹿児嶋縣下大隅国柳ガ峰 

  戦闘ノ次第概畧:午前第十二時援隊トシテ万膳村ヲ発シ仝三時三十分開

  ノ所賊已ニ退去スルニ依テ左方ニ迂回シ小柄ガ峯ニ出テ同所ニ大哨兵ヲ占

  ム  

 岡隊は援隊左翼である。小柄ガ峯も不明だが、万膳橋の東約9㎞の三角点「小塚原」が該当地附近か。

  C09084806900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0482・0483

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長代理 陸軍中尉中村 覺㊞

  総員:将校以下百十四名  戦闘月日七月七日   戦闘地名:踊村 

  戦闘ノ次第概畧:夜ノ十二時整列萬膳村ヲ発シ静粛行進漸ク賊塁ニ近寄

  吶喊シテ駆ケ入ル賊既ニ退去スルヲ以テ進ンテ踊ニ至ル時ニ午前第七時頃

  ナリ

  傷者:下士卒一   我軍ニ穫ル者:銃 火縄銃二挺 刀一本

 中村隊は攻撃隊左翼だった。

  C09084807000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0484・0485

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊 陸軍大尉山本 弾㊞ 

  総員:百九名   戦闘月日七月七日   戦闘地名:※空白 

  戦闘ノ次第概畧:七月七日午前第三時三十分開戦ニテ朝谷山ノ賊塁ニ對

  迂回ス賊徒同所守地ヲ棄テ退去スルニ乗シ踊村日坂村ヲ経テ尾撃シ上中津

  川村山ニテ大哨兵ヲ張ル  

 山本隊も攻撃隊左翼だった。朝谷山とはJR植村駅の東3.8㎞にある浅谷の山だろう。計画通り朝谷山を攻めようと迂回したが敵は撤退していていたので、踊村を通り過ぎて日坂村を経て上中津川村の山に大哨兵を置いた。日坂村は場所不明。

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  C09084807100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅 団」0486・0487

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第三中隊大尉山村正久㊞ 

  総員:百四十五名 戦闘月日七月七日 戦闘地名:鹿児嶌縣下☐☐☐ 

  戦闘ノ次第概畧:七日午前第二時槙木村ヲ出テ踊村ノ賊塁ニ向フ尤援隊

  リ至レハ敵一人モ不有夫ヨリ中央道攻撃斥候ノ命ヲ受ケ大久保村ニ向フ午

  后第二時森村ニ至リ敵ヲ見ル直ニ我中隊ハ左翼ヘ虚勢ヲ張ル数十丁ノ間賊

  我左翼ニ☐兵無キヲ知リ大シテ背後ニ進ミ前後ヨリ突入ス我レ拒ニ兵無

  ク此線ヲ退キ後山ニ戦線ヲ保チ以テルヲ待ツ  

 山村隊は援隊正面。踊では薩軍の反撃はなかったが、その後は違った。出発した槙木村や森村は場所不明。大久保村は大窪村である。森村で敵と戦闘になり、敵は山村隊の左翼に迂回して前後から突入してきたのでその守線を退き、後ろの山に戦線を保った。 後で竹田報告(0495・0496)が出てくるが持松のことを持町としているのを参考にすると、ここで森町とあるのは持松のことだろう。

  C09084807200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0488・0489

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  総員:九十五名   戦闘月日七月七日   戦闘地名:踊村 

  戦闘ノ次第概畧:本日踊村攻撃援隊ノ命ヲ奉シ午前二時馬渡村防禦線出

  既ニ芝谷原村山上ノ賊塁近傍ニ至ルト雖ノモ暮雨咫尺モ弁スル能ハス賊状探

  偵スルニ悉ク退却スト故ニ進軍同十一時踊ニ達スルヲ得茲ニ於テ更ニ大久

  保進軍ノ命アリ直ニ出発同午后三時持チ松村ヘ進入同處ニテ賊ニ出會對戦

  スル三時間ニシテ日暮ニ及フ故大哨兵ヲ配置シ警備ス  

 矢上隊は援隊正面。霧島温泉駅のすぐ東、天降川右岸に芦谷原という地名があるが、これが芝谷だろうか。踊を経て大窪進軍の命により持松村まで進んだところで3時間対戦し、夕暮れとなり警備に移った。

  C09084807300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0490・0491

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊長代理少尉二階養義㊞

  総員:六拾七名   戦闘月日:七月七日   戦闘地名:踊村 

  戦闘ノ次第概畧:当日踊村攻撃ニ付援隊トシ海老ケ迫九葉枩迠出張然ル

  賊退去ニ付踊村ヲ経テ持枩村迠進入当日死傷ナシ   

 1日報告表では横地中尉が中隊長代理だった。7日は記述とは異なり攻撃隊左翼担当だった。この日の行動は次の大西隊と同じである。

  C09084807400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0493・0494

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉大西 恒㊞

  総員:將校以下百名

  戦闘月日七月七日   戦闘地名:海老迫九葉枩◦踊麓 

  戦闘ノ次第概畧:當隊援隊ニテ前夜第十二時哨線ヲ発シ海老迫九葉ノ松

  リ直ニ踊リ麓村ヲ乗取續テ持松村ヘ進入哨線ヲ定ム

  備考:本日死傷ナシ

 大西隊は援隊右翼。海老迫は分かるが九葉ノ松は不明。踊を経て持松村に進軍して哨兵線を張った。

  C09084807500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0495・0496

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊 中隊長陸軍大尉竹田実行㊞

  総員:百貳拾八名   戦闘月日七月七日   戦闘地名:廣原ノ上 

  戦闘ノ次第概畧:七月七日太明神丘ノ賊攻撃ノ為メ午前第二時三十分上

  ヲ発シ太神丘ノ下ニ潜伏シ第四時兵ヲ進メテ賊塁ニ至ル賊ハ夜ニ乗シ逃走

  セシニヤ一人モ見ズ依テ本道ヲ進ンテ踊ニ至ル夫ヨリ大窪迠攻襲偵察トシ

  テ第八時四十分踊ヲ発シ持町ノ先キニ賊ノ哨兵ヲ見ル直ニ兵ヲ散布シ之ヲ

  進撃シテ廣原丘ニ至リ防禦ノ準備ヲナス   

  傷者:下士卒二名  備考:本日死傷ナシ

  我軍ニ穫ル者:降人 下士卒一名 俘虜 下士卒七名 未詳一名 銃 ヱ

  ンヒール  銃一挺 弾薬 硝石四樽

  備考我軍:傷者二名ハ伍長山田忠太郎一等兵伊藤文藏ナリ

  備考敵軍:降人并ニ俘虜ノ七人ハ兵士ナリ 俘虜未詳ノ一人ハ人夫ナラン 

  硝石ハ(※隊?)村ニアリ

 竹田隊は正面攻撃隊。持町とあるのは持松に違いない。こういう間違いがあるということは山村報告(0486・0487)の森町は実は持松かも知れない。町ノ先キニ賊ノ哨兵ヲ見ル直ニ兵ヲ散布シ之ヲ進撃シテ廣原丘ニ至リ防禦ノ準備ヲナスのうち、持町は持松のことである(地元民がモとでも言ったのだろうか!)。大窪まで攻襲偵察を命ぜられ踊から持松に進み、その先で敵の哨兵を発見したので進撃して廣原丘に止まり防禦配置についた、ということである。廣原丘は持松と大窪との中間のどこかであり、廣原丘は地名ではなく地形を形容した言葉だろう。笹之段背後の岡が該当地として可能性がある。

  C09084807600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0497・0498

  第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠㊞

  総員:六拾二名 

  戦闘月日七月七日   戦闘地名:鹿児島縣下大隅国桑原郡踊村 

  戦闘ノ次第概畧:右翼攻撃隊の援隊トシテ午前十二時十五分三縄村ヲ発

  同四時頃エビサコクヨーノ松ニ至リ賊塁ヲ瞰フニ一兵ナキ者ノ如シ直ニ進

  軍スルニ悉ク空塁ニテ一弾ヲ費サス踊村ヲ陥レ要地ヲ占領于時午後四時ナ

  リ  

 右翼援隊だった。海老迫九葉の松には薩軍の台場があった、しかし無人だったということ。

  C09084807700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0499・0500

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  総員:九拾三名  

  戦闘月日七月七日   古戦闘地名:踊村ヨリ持松村ニ至ル 

  戦闘ノ次第概畧:明治十年七月七日午前第一時溝邉出發踊村ニ向ケ攻擊

  處同村之賊兵悉ク退散スルヲ以テ交戦セス直ニ塩浸村迠進入同所山上ヘ防

  禦線ヲ定ム午後第五時過左翼持松村ニ於テ開戦ナルヲ以テ俄ニ持松村ニ向

  ケ進入同所山上ニ於テ防ス   

  下村隊は右翼攻撃隊である。午前1時に溝辺を出発し踊に難なく着き、次いで塩浸村の山上に防禦線を置いた。午後5時過ぎに持松村で開戦したので急にそちらに進軍し持松村の山上に防禦線を置いた。

  C09084807800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0501・0502

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長大尉沓屋貞諒㊞

  総員:百三拾五人   戦闘月日七月七日   戦闘地名:大谷山 

  戦闘ノ次第概畧:七月七日午前第一時三十分下野村出發第三時植村川ニ

  四時半渡川踊村ヲ経テ午后一時大谷山ニ至リ對敵砲戦 

  傷者:下士卒十三

  備考我軍:(※負傷者名に続き)一放チシ彈薬九千放

 沓屋隊は正面攻撃隊である。午前1時半に出発した下野村は天降川支流の馬渡川流域にあり、霧島温泉駅の西北西約2㎞にあたる。馬渡はさらに5㎞程上流に位置する。午前4時半に天降川を渡り踊を越えて午後1時に大谷山で対戦したという。大谷山は持松の先の方かとも思うが不明。銃弾は一人66発強を使用。

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  C09084807900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0503・0504

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊 中隊長大尉南小四郎㊞

  総員:附属合員百二拾三人 

  戦闘月日七月七日   戦闘地名:モチマツ村 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時整列アシダン原前山ノ馬渡村道ヨリ進入川

  渉リ賊塁及ヒ踊村ヲ畧シモチマツ村山ニ至リ射撃シ賊ヲ春山原ニ退ケ霧嶋

  川ヲ挟ミモチマツ道ヨリ右方ノ山ニ沿フテ防禦ス  

  備考我軍:此日死傷ナシ

  ◦附属第貳大隊第四中隊ノ壹小隊是迠一個ノ報告ヲ成シ来ルノ所向後附属中

  本隊合員一紙ヲ以テ報告ヲナス以後附属合員ノ四字ヲ記スルノミ依テココ

  ニ祥載シ置ク

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 この隊は正面援隊だった。アシダン原は場所不明。馬渡は天降川の西側にあり、霧島温泉駅の北西2.8㎞に位置する。踊から持松村の山に進軍し、敵を春山原に退けた。春山原は持松の南南西約4㎞で大窪の南西約4㎞にあり、霧島川の南側である。南隊は霧島川右岸の山地に配置につき春山春と対峙したというので、5㎞前後の長さに布陣したのだろうか。

  C09084808000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0505・0506

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第二中隊 大尉沖田元廉㊞

  総員:八十四名  戦闘月日七月七日   戦闘地名:踊背後ノ山頂 

  戦闘ノ次第概畧:夜十二時萬膳村ヲ発シ踊村背上ノ山頂ヲ伺テ攻撃ノ處

  已ニ退却セシヲ以テ直ニ踊村ニ入リ同所ヨリ大斥候トシテ横瀬村ニ至リ后

  チ下中津川村背上ノ山頂ニテ守線  

 沖田隊は攻撃隊左翼。横瀬は踊のほぼ真東3.8㎞に位置し、石坂川の南東にある中津川(天降川支流)流域にある。最後に守線を張った下中津川村は天降川との合流点にあり、横瀬からの直線距離は4,8㎞前後である。

  C09084808100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0507・0508

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長大尉瀧本美輝㊞

  総員:百〇〇人   戦闘月日:七月七日   戦闘地名:踊麓 

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時溝部村ヲ発シ海老迫村ヲ経テ踊麓ニ進入賊

  シ亦塩ヒタシ村ニ進入同処山上ニ大哨兵午后第六時頃ヨリ亦持松村ニ進入

  大久保村山上ニ賊アリ同村左ノ山上ニ散布是ト戦フ同夜爰ニテ大哨兵  

 瀧本隊は攻撃隊右翼だった。溝辺村から海老迫村を通り天降川支流の石坂川流域の踊村に入ると薩軍は退去した後だった。その後、踊から石坂川下流、南西2,8㎞の塩浸村に移動し山上に大哨兵を配置した。18時には東方やや南側5,8㎞の持松村に侵入したところ、敵が霧島川南岸の大窪村山上におり、(おそらく)持松村左側の山上に部隊を配置して敵と戦い、夜は大哨兵を置いた。

 「戰記稿」は7日の行動を次のようにまとめている。

  先鋒踊ニ入レハ賊ハ已ニ先タチテ走レリ三浦少將乃チ其全團ヲ進入セシ

  村民ニ賊踪跡ヲ問フニ大窪村ニ退ケリト云ヒ或ハ其一部襲山ヘ引ケリト

  云フ因テ攻襲斥候トシテ直チニ古田少佐ヲシテ參謀勝田少佐ト共ニ部下歩

  兵五中隊竹田沓屋山村南矢上ノヲ大窪村ニ遣リ右翼川村少佐ノ部下三中隊

    島齋藤草塲ノ隊ヲ襲山ニ、左翼友田少佐ノ部下一中隊弘中ノ隊ヲ霧島山神集館

  ニ、他ノ三中隊ヲ鹽浸安樂寺村等ニ派遣シ其要害ノ地ニ配置シ以テ踊ヲ守

  ル午後一時大窪ニ向フノ五中隊持松村ノ山上ニ開戰ス賊守最モ勉ム因テ

  又川村少佐ノ部下二中隊瀧本下村ノ隊ヲ持松村ニ增加シ又砲廠等ノ護衛ノ爲

  メ一中隊井上ノ隊ヲ出シ防禦線ニ在ル所ノ内藤少佐ノ三中隊安滿大西横地ノ隊

  ハ悉ク持松村ニ進メ戰鬪暁ニ至ル初メ賊ノ持松ニ邀ヘ戰フヤ其勢猖獗、容

  易ニ挫セス且ツ我ノ左側ニ繞リ大砲二門ヲ以テ射撃ス蓋シ賊大窪村ノ米

  穀銅錢等ヲ収拾センカ爲メ專ラ力ヲ此ニ竭スナリ我兵以爲ラク一舉之ヲ攘

  フノ良キニ若カス然レノモ我兵寡單地形廣漠左翼ニ聨絡ノ軍ナク守線甚タ薄

  弱ナルヲ以テ目的即チ大窪村進入ノ達スルニ由ナシ但シ今我兵ヲシテ頓ニ

  此處ヲ去ラシムルハ策ノ得タル者ニ非スチ虚聲ヲ張リ半圓ノ防禦線ヲ

  作リ嚴ニ之ニ備フ賊勢益〃熾ニシテ我左翼兵爲メニク退ク幸ニ二中隊

    本下村ノ來ルアリ乃チ直ニ之ヲ戰線ニ增加スレノモ左翼猶ホ顧慮ナキヲ保ス

  ル能ハス勝田少佐持松ヨリ使ヲ馳テ更ニ若干兵ヲ瀧本下村等ノ隊ニ加ヘ

  絡ノ☐隙ヲ彌縫シ且ツ砲兵一分隊ヲ派遣センヿヲ求ム又參謀部尉官ノ内傳令使

    三四 名ヲ 遣シ糧食彈藥ヲ上中津川村ニ送ランヿヲ求ム又川村少佐ハ一中隊ヲ以テ

  曩ニ發シタル中隊ノ空隙ヲ補ヒ其援隊ニ連絡シテ時々防禦線ヲ張出シ或

  ハ斥候ヲ出シテ終始間ラシメ以テ共ニ明朝ヲ期シテ攻撃ノ凖備ヲナ

  セリ三浦少將ハ戰狀ヲ大山少將ニ加治木ニ報シ該團ノ襲山ニ進入センヿヲ

  求ム是日牙營ヲ踊ニ移

 以上が7月7日の第三旅団戦闘報告表集成と「戰記稿」である。当初は踊に侵入するのが目的だったが、すでに薩軍が退去していたので容易に踊を占領し、予定外だったがさらに前進し霧島川南岸の大窪村周辺の薩軍と交戦している。

 踊を簡単に手放した薩軍だったが大窪村とその西南側の襲山方面に退いただけで、翌日にかけて頑強に抵抗し逆に官軍に攻勢をかける状態だった。ササンダ山(笹之段)・上中津川村山(石峯)・霧島川左岸山地などにこの日、官軍が布陣したのだがそれらの具体的な地名は「戦記稿」には登場しない。

 結局、持松村や上中津川村や霧島川北岸山地に広く布陣し南岸の薩軍と対峙する状態で7日は終わる。

 引き続き8日の表に移る。「戰記稿」7月8日の記事を掲げる。

  八日拂暁賊又植(※持か)松ノ臺ニ來襲ス我兵之ニ應シ前面諸隊ヨリ猛烈

  發射シ又塩浸ナル西川村両少佐ノ兵ヲシテ其左側ニ遶リ衝撃セシメ大島少

  佐ノ三中隊ヲ其右翼ニ迂回セシメ又踊村ナル砲三宅中尉工兵内藤少尉一分

  隊ヲ戰線ニ加ヘ大ニ攻撃セシム午後四時賊遂ニ潰ヘ大窪村背ノ山上ニ保ス

  大窪ハ國分襲山等ノ賊漸次麑集シ勢ヒ頗ル大ナリ且ツ日既ニ瞑ルヲ以テ軍

  ヲ収メ守備シ上中津川ノ一中隊井上大尉ヲ植松ニ収メ大島少佐ノ一中隊ヲ下

  中津川ニ遣リ横川屯在ノ一中隊栗栖大尉ヲ踊ニ遣ル是時大山少ノ兵六小隊

  モ別働第三旅團八十人ト合シ大窪村ノ南ナル春山ニ出ツ賊其左翼ニ薄ル乃

  チ急ニ本團ノ右翼ヲ張リ之ト相聨絡シテ守線ヲ鞏固ニシ更ニ明朝ヲ期シテ

  大窪村ヲ陥ントス

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 7日は官軍が優勢で殆ど戦いもなく薩軍の軍務所があった踊を占領したが、翌8日は薩軍が捲土重来を期して各所に来襲した。大窪村から襲山までの丘陵に薩軍が北を向いて配置につき、霧島川の右岸丘陵には第三旅団が対峙する状態だった。さらに鹿児島湾北岸部の加治木方面から大山少将と別働第三旅団の一部部隊も北上し、大窪村周辺の薩軍に対し南西側から迫っていた。

 第三旅団の右翼には別働第三旅団左翼が配置についていた。

C09080897100「明治十年七月分ノ上 電報綴 五 大阪征討陸軍事務所」1111~1113 

陸軍省罫紙

  甲第五百三号

   西郷中将 三条(西京)太政大臣

 

  去ル十日鹿児島発田邉中佐ヨリノ報ニ曰

  〇去ル七日園山(※襲山)上宇平山ヘ我防禦線ヲ配置ノ際賊凡ソ百余名襲

  江口上田ノ六小隊ヲ以テ之ヲ討退ケ午后七時戦ヲ止メ防禦線ヲ張ル然ルニ

  我左翼ト第三旅團右翼線ノ間連絡断絶ノ處在リシガ翌八日未明果シテ我左

  翼上田隊ノ前面ニ賊凡ソ八十名襲来我手五小隊ヲ以テ防戦中賊ノ援隊四中

  隊来リ勢ヒ頗ル猖獗我一時苦戦スト雖モ終ニ奮心谷ヲ隔テ﹅戦フ数時間偶

  マ弾薬尽ク爰ニ於テ上田中尉其部下二小隊ヲ左右翼ノ谷ヨリ迂回シ切込マ

  シム賊ハ一時其味方ト誤点シ少シモ防カザルニヨリ立所ニタジュウ(十二名

    乎)ニメイヲ斃セリ此時我手ハ軍曹一人刀瘡ヲ受ケルノミ此勢ニ乗シ前面ノ

  兵ホンシンシ賊忽チ散乱都ノ城ヲ差テ遁走ス我兵尾撃シテ大窪村ニ至ル

  右両日ノ死傷我兵四十名計リ賊凡ソ八九十名程生捕二人アリ

    七月十一日午后二時十五分達

 園山は襲山であり、大窪と春山の中間に上春山という所があるのは上宇平山としたのだろう。江口上田等は第三旅団がいる大窪村まで薩軍を追撃している。

 この8日、「戰記稿」は触れていないが、官軍が弾薬2万発を奪われたことが「西南戰袍誌」に載っている。

  今朝砲廠の下士彈藥を護送して戰鬪地に至らんとし行路を中中津川に取

  べきを間違へて上中津川に出て賊の占領する山本に至り忽ち襲擊せられて

  彈藥二萬發奪取せられたり。

  この件に該当するらしい記事が薩軍上申書にある。

  「五代友廣上申書」『鹿児島縣史料 西南戦争第四巻』pp.158

  襲山ノ内大久保村ニテ七月六日比敵ノ台場ヲ乗取リ、其儘守衛ノ処、其

  朝我隊ノ守ヲ不知シテ敵弾薬其外諸品ヲ負越候ヲ遮リ取リ候事、  

 五代は干城一番中隊に属していた。戦後、監獄で記述したので日付が正確でないのは仕方ない。官軍の台場に運送した積りだったが、前日に薩軍が底を奪っていたのを知らずに弾薬その他を運んで来たのである。

  C09084808200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0509・0510

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊長大尉竹田實行㊞

  総員:百〇〇人   戦闘月日七月八日   戦闘地名:廣原ノ丘 

  戦闘ノ次第概畧:七月八日賊大小砲ヲ以テ我哨線ニ進撃午前五時開戦之

  防禦ス午後第一時賊敗走直ニ進撃シテ大窪村川手前ニ至ル然レノモ時間ナキ

  ヲ以テ進撃ヲ止メ第七時同所ヲ引揚ケ廣原丘ノ故線ニ帰陣ス

  我軍ニ穫ル者:銃 ヱンヒール三挺 スナイトル一挺 眞弾薬 エンヒー

         ル 凡五百発程 器械 硝石 樽入十五 箱八十 

  備考敵軍:俘虜ノ一名ハ押伍ニシテ傷者ナリ 分取ノ硝石ハ川北村ニアリ

 午前5時、薩軍が大砲と銃で襲来した。8時間後に撃退し、大窪村手前の霧島川まで追撃したが午後7時に引き揚げて元いた広原丘に帰陣した。前日の竹田報告で廣原丘が笹之段集落背後の岡、南側だろうと推定したが、この日の報告もそれで矛盾しない。

 C09084808300「明治十年自五月至七月三中隊 戦闘報告表 第三旅団」0511・0512

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得中尉岡煥之㊞

  総員:百二十人   戦闘月日七月八日   戦闘地名:鹿児嶋縣下

  大隅国横竹村 

  戦闘ノ次第概畧:午后第三時頃小柄ガ峰ヨリ進ムベキノ命アルニ付霧嶋

  道ヲ進ミ横竹村ニ至リ援隊トシテ同所ニ露営ス  

 前日、岡隊は小柄ガ峯ニ出テ同所ニ大哨兵ヲ占ム状態だった。横岳というところが霧島連山烏帽子岳南西部2.4㎞にある。標高450ⅿほどの場所で山腹傾斜が緩やかに移り変わる地点にある。小柄ガ峰は三角点検索で見つけた小塚原という場所だろう。ここは霧島自然ふれあいセンターのすぐ東に位置し、横岳の北東2.9㎞にある。ここは第三旅団の右翼にあたる。

  C09084808400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0513・0514

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長安満伸愛㊞

  我軍総員:八十六人   戦闘月日:七月八日   戦闘地名:持松村 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時持松村山上ノ賊ト開戦賊遂ニ逃走ス命ニ依

  持松村山上ニ大哨兵ヲ布ケリ  傷者:下士卒:三名

  備考我軍:一傷者下士卒三名ハ第九聯隊第三大隊第四中隊一等卒四方庄

  仝二等卒亀井甚三郎二等卒弘田松兵衛ナリ  一費ス処ノ弾藥二千発ナリ

 前日以来安満隊は持松村山上を守っていた筈なので、午前3時に薩軍が山上に襲来したのだろう。一人23発強を発射した。

 C09084808500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0515・0516

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊大尉山本 弾㊞ 総員:百九名 

  戦闘月日:七月八日   戦闘地名:※空白 

  戦闘ノ次第概畧:七月八日午前上中津川村山ノ守地一小隊ヲ引揚サヽン

  山ニ向ヒ右翼賊徒逆戰スルニ乗シ我兵サヽンダ山ニ迂回ス賊終ニ退却ス故

  ニ猶一小隊ヲ引揚尾撃シ兵ヲ纏メイチゴ山ニ至リ大哨兵ヲ張ル于時午后第

  九時ナリ  

 前日の山本隊は上中津川村山ニテ大哨兵していた。上中津川村の北側背後に配置についていたのだろう。川を隔てた南東側に笹之段という高地があるのをサヽンダ山と記述した可能性がある。ただし、この笹之段から東南東5㎞にも同名の笹之段がある。その後、薩軍を追いイチゴ山で大哨兵を置くのだが、北側の笹之段の北東約2,5㎞に市後柄f:id:goldenempire:20220319220944j:plain

という地名がある。これがイチゴ村山だろう。とすればこの場合、北側の笹之段が該当するとみられる。笹之段から退却した薩軍は市後柄方向に移動したらしい。

 C09084808600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0517・0518

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  総員:九十五名   戦闘月日:七月八日  戦闘地名:持チ松村山頂 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第八時頃ヨリ賊襲来對撃スル數時ヲ費シ遂ニ

  レ退軍ス故ニ休戦同午后第四時三十分ナリ 

 持松は一つ前に登場した笹之段の南側にある。矢上隊の前日の記録では持チ松村ヘ進入同處ニテ賊ニ出會對戦スル三時間ニシテ日暮ニ及フ故大哨兵ヲ配置シ警備スとあり、大哨兵は村の周辺の山に置いたのだが、具体的な場所は踏査すれば判明するだろう。 

 C09084808700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0519・0520

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第三中隊大尉山村政久㊞

  総員:百四十五人   

  戦闘月日:七月八日   戦闘地名:熊本縣下枩村之近山 

  戦闘ノ次第概畧:八日午前第五時頃ヨリ開戰我中隊ハ左翼進ゲキノ命ヲ

  至レハ戦既ニ盛ナリ直ニ散開ス戦凡三十分時間敵敗走シ防禦線ニ退ク走ル

  ヲ追テ前山ニ進ム賊旧線ニ寄頻ニ拒ク戦フヿ一時斗リ賊又退追テ前山ニ進

  ミ以テ命ヲ待ツ 

  傷者:下士卒壱人   敵軍:死者壱人   ※死傷者についての記述を略す。

 枩村は色々に表記される持松だろう。

 C09084808800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0521・0522

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉大西 恒㊞

  総員:將校以下百名  

  戦闘月日:七月八日   戦闘地名:持松村ゟ田口村 

  戦闘ノ次第概畧:本日未明ヨリ賊俄ニ襲来ス我兵必死猛闘堅ク哨線ヲ守

  午后第三時頃ニ至リ賊大ニ潰走ス我兵追撃田口村迠進入シ再ヒ旧線ニ復ス

  死者:下士卒二名 傷者:下士卒四名 備考我軍:※死傷者名を略す

  備考敵軍:分捕 ヱンピール銃 二

 持松の東約3㎞に田口がある。この日未明、持松村哨兵線が襲われたが撃退、追撃して田口村まで進軍したが持松村の旧線に引き返している。

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  C09084808900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0523・0524

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊長代理少尉二階養義㊞

  総員:六拾七名   戦闘月日:七月八日   戦闘地名:持枩村 

  戦闘ノ次第概畧:当日賊兵左翼ヘ迂回スルニ付午前第七時頃ヨリ左翼ヘ

  張午后第☐半隊ハ右翼ニ轉シ大久保村山迠進撃ス

  死者:下士壱名 傷者:下士壱名 兵卒二名

 敵が持松の左翼に襲来ということは、持松の東乃至南東から来たということである。それから二階隊は南下して大窪村まで進撃した。

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  C09084809000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0525・0526

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊陸軍大尉下村定辞㊞

  総員:九拾三   戦闘月日:七月八日  

  戦闘地名:持松村外ノ赤ハゲ山及ヒイチコ村ニ至ル 

  戦闘ノ次第概畧:明治十年七月八日持松村ノ山上ヲ發シ午前第九時頃カ

  グ原ニ於テ開戦賊兵松林ニ依テ防禦ス我兵猛撃之レヲ走ラス賊兵猶佐三太

  村近傍ノ森林ニ依テ頗ル防戦スト雖モ我兵奮進賊兵遂ニ敗走進擊赤ハゲ山

  ニ至ル賊兵猶又イチゴ村近傍ノ要地ニ據而烈戦数時遂ニ我一半隊ヲ迂回シ

  左側ヨリ之ヲ擊チイチコ村ニ放火スルヲ以テ賊兵遂ニ守リヲ捨テ霧嶌本道

  ヲ指シテ悉ク敗走ス此日費ス処ノ弾数凡ソ二千五百発余   

  傷者:下士卒 下士壱名 兵卒二名 軍属壱名

 不明地名が多い。持松村から霧島山南側方向にすすんだらしい。イチゴ村については前出の笹之段の北東側で、横岳村の南西側にある市後柄という所のことだろう。カセグ原・佐三太村・赤ハゲ山は場所不明。

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  C09084809100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0527・0528

  第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉井上親忠㊞

  総員:六拾名   戦闘月日:七月八日   

  戦闘地名:持松村外ノ鹿児嶌縣下大隅国桑原郡上中津川村前面之山上 

  戦闘ノ次第概畧:午前六時三十分頃上中津川村ヲ発シ其山上ニ至ルヤ賊

  烈ニ我左翼ヘ突進シ来リ直ニ開戦ス于時左右翼ノ連絡ナシ殆ント防戦ニ苦

  シム故ニ横地中尉ノ隊ニ援ヲ請ヒ其線ヲ譲リ同九時上中津川村ミ引揚ケタ

  リ   傷者:下士卒二

 午前6時半頃に上中津川村を出て到着した山上とはどこか?東西南北を記してほしかった。午前9時に出発した所に引き揚げたのだから戦闘開始時間は7時か7時半頃だろう。他の隊の戦闘記録を参考にできればと思う。

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 C09084809200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0529・0530

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長大尉沓屋貞諒㊞

  総員:百二拾二人   戦闘月日:七月八日   戦闘地名:大谷山 

  戦闘ノ次第概畧:七月八日午前六時敵兵襲来午後第三時彼敗走

  死者:下士卒二 傷者:下士卒四

  備考我軍:※死傷者名の次に。一放ツ處ノ彈薬五千發 一銃四挺ハヱン

  ール二挺 アルミニー壱挺七連放壱挺

 沓屋隊はどこで戦ったのだろうか、大谷山の場所は不明である。戦闘時間から考えて上記の井上隊とは別の場所だろう。

 C09084809300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0531・0532

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊 中隊長大尉南小四郎㊞

  総員:附属合員百二十三名 

  戦闘月日:七月八日   戦闘地名:モチマツ山 

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第八時ヨリ防戦午後第二時大窪村ヘ向ヒ進撃

  北村ニ至リ日甫(二字で夕方という意味。夕陽のことらしい)西山ニ入ヲ以テ元ノ

  防禦線ニ引揚ケ警備ヲ巌ニス   傷者:下士卒壱名 ※傷者の記述を略す。

 前日は霧嶋川ヲ挟ミモチマツ道ヨリ右方ノ山ニ沿フテ防禦スという状態で終わっている。霧島川は霧島連山の西斜面に発し、南西に流れて隼人町で天降川に合流する川であり、前日は持松村よりも南下して霧島川の右岸の山地を警備していたようである。この7日は初めは守備地で防禦戦闘を行い、14時に進撃に転じ南岸の大窪村を目指したが大窪村手前の川北村で日が山に沈んだので初めの場所に引き返した。

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 C09084809400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0533・0534

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木直

  総員:七十壹人  戦闘月日:七月八日   戦闘地名:壹合坂村 

  戦闘ノ次第概畧:午后第三時三十分左翼ヲ迂回シ正ニ神集舘ヲ襲ハント

  時ニ大久保ノ残賊尚一合坂村ニ據リ我兵ト相持シテ戦フ因テ以為ラク逸ヲ

  以テ労ヲ討タハ彼必ス敗レント疾駆該村ヲ指シテ衝突ス賊果シテ守ヲ捨走

  ル北ルヲ追ヒ奔ルヲ逐テ已ニ神集舘ニ迫ラントスルニ日黄昏ニ近ク且孤軍

  深入連絡ノ絶スルヲ以兵ヲ纏メ一合坂村ニ保ス  

 佐々木隊は7日は左翼攻撃隊だったが戦闘報告表はないので、7日夜の動向は分からない。壹合坂村とはどこだろう。似た地名はイチゴ村しか思い浮かばない。市後柄いちごがらをイチゴ村付近だろうと推定したが、壹合坂村はイチゴ村と同じだとしておきたい。神集舘は場所不明だが、おそらく霧島神宮のことか。

  C09084809500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0535・0536

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長大尉瀧本美輝㊞

  総員:百〇〇人  戦闘月日:七月八日   戦闘地名:中津村左石峯  

  戦闘ノ次第概畧:午前第七時頃ヨリ発シ霧嶌山麓ヲ廻リ中津村左石峯山

  ニ一小隊派遣ス賊峯☐間ニ潜伏突然顕出各拔刀シテ烈敷襲来我兵俄ニ銃ニ

  劔ヲ附シ突入リ賊一人ヲ倒ス此勢ニ恐レ彼レ分レ退ク其透ニ乗シ激烈ニ発

  砲彼人員多シト𧈧ノモ山上ヨリ打下スヲ以テ留リ得ス終ニ皆走ル賊死傷多ク

  見ル他一小隊中津村右山上ノ賊ヲ横撃ス彼速ニ走ル今夜此処ニテ大哨兵

  傷者:二等軍曹秦嘉十郎  軍属 一等卒 東原梅吉 二等卒内田健四郎

 前日の瀧本隊は午后第六時頃ヨリ亦持松村ニ進入大久保村山上ニ賊アリ同村左ノ山上ニ散布是ト戦フ同夜爰ニテ大哨兵という状態だった。持松村左の山上で大哨兵していたが、8日は上中津川村の左にある石峯山に隊の半数である一小隊を派遣した。そこへ薩軍が襲来したのを撃退している。残りの一小隊は同村右の山上、笹之段とみられる山の敵を横擊して追い出し、そこに大哨兵を置いた。

 C09084809600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0537・0538

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長大尉安満伸愛㊞

  我軍総員:八十三人  戦闘月日:七月八日   戦闘地名:テラソン

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時小林街道ノ賊ニ向テ攻撃賊遂ニ敗走ス命ニ

  テ小林街道エ大哨兵ヲ布ケリ   

  備考:一費ス処ノ弾藥五百発 一死傷ナシ

 テラソンは場所不明。7日は戦うことなく軍務所を置いていた踊を撤退した薩軍であったが、8日は薩軍が逆襲してきた。官軍の戦闘報告表は同じ場所を別の名前で記すことが少なからずあり、分かりにくかったが、全体を勘案すると判明する場合がある。「戰記稿」編集者も今ほど細かい地図がない状態では細かいことは理解できなかっただろう。

 7月9日の「戰記稿」を掲げる。

  九日午前四時第三旅團大窪村口ノ兵齋ク進ムニ各地ノ賊ハ早ク既ニ退キシ

  後ナリキ獨リ田口村及ヒ霧島山ニ餘賊アリ乃チ擊テ之ヲ却ケ田口大窪神集

  舘等ノ要地ヲ占領シ防禦線ヲ定ム初メ我軍ノ大窪ヨリ田口村ニ至ルヤ賊村

  口ニ據リ捍拒ス會〃川村少佐ノ四中隊大窪ニ至リ直チニ其右翼ニ迂回シ左

  翼亦漸次進軍ス賊又退テ猪小石越ニ據ル乃チ守線ヲ其對面ノ山ニ定ム尚ホ

  探偵斥候二中隊ヲ神集舘ニ出シ厚東中佐本部田口村ニ据ヘ其右翼ヲ巡査

  隊ニ接シ左翼ハ分遣隊ヲ神集舘ニ置ク

 次に第三旅団の戦闘報告表を掲げる。

 C09084809700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0539・05340

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得中尉岡 煥之㊞

  総員:百二十人 

  戦闘月日:七月九日   戦闘地名:鹿児嶋縣下大隅国宇冨山 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時開戦ニ付横竹村ヲ発シ左方某山ヨリ大迂回

  テ宇冨山ニ登ルニ前方霧嶋山賊アリ相狙撃スル暫時ニシテ賊去ル依テ茲ニ

  大哨兵ヲ占ム   備考敵軍:此日費ス所ノ弾藥五十発死傷ナシ

 宇冨山はどこか。横岳村を出発し左に大迂回したという大という表現はかなりの距離だったとみられる。宮崎県都城市山田の稲妻山(標高454ⅿ)は基準点検索では地名が宇都となっている。横岳村から直線距離で14㎞の位置にある。実際歩くと20㎞以上はある。地元民から聞いた地名を想像で漢字表記したのだろう。宇都という表記自体どれほどの根拠・説得力があるのか分からない。稲妻山の北西に霧島山があり、手前の御池というのは約4,600年前の縄文時代中期にマグマ水蒸気噴火でできた池である。

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 C09084809800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表  第三旅団」0541・05342

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊陸軍大尉山本 弾

  総員:百九名   戦闘月日:七月九日   戦闘地名:※空白 

  戦闘ノ次第概畧:七月九日午前第七時イチゴ山ノ守地ヲ発シ進軍ス賊徒

  島山ノ右手ニ守地ヲ設ケ我兵ハレダイ村山ニ至リ霧嶋街道ニ防禦線ヲ設ク

 イチゴ山は上図の横岳の西側の市後柄を想定した。ハレダイ山は場所不明だが、戦場が次第に霧島山の南側に移動してきた。

 C09084809900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0543・0544

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第三隊大尉山村政久㊞

  総員:百四拾四人  

  戦闘月日:七月九日   戦闘地名:鹿児嶌縣下田口村近山

  戦闘ノ次第概畧:九日午前第四時開戰ス哨兵線ヲ出テ霧嶌山ノ麓ヘ連絡

  進テ霧嶌山ノ本道ニ至リ大哨兵布ケリ   

 田口村は大窪の北東側にある。霧島山の本道というのは大窪村から霧島神宮に続く道のことか。

 C09084810000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0545・0546

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉大西 恒㊞

  総員:將校以下九十四名 

  戦闘月日:七月九日   戦闘地名:田口村并大窪

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第四時ノ開戦ニテ当隊田口村ヘ進入ス賊小窪

  阜陵ニ據テ防戦スト𧈧我兵勇憤突進遂ニ小窪ノ賊徒ヲ擊拂ヒ小窪ヘ哨線ヲ

  定ム  

 小窪は田口の東1.3㎞程にあり、田口よりも百ⅿ位高い位置にある。

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  C09084810200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0547・0548

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊長代理少尉二階養義㊞

  総員:六拾三名  戦闘月日:七月九日   戦闘地名:大久保村

  戦闘ノ次第概畧:当日援隊ニシテ持枩村ヨリ下土迠進入   

 下土は場所不明。

  C09084810200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0549・0550

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊 中隊長陸軍大尉竹田實行 

       総員:百貳拾三名   戦闘月日:七月九日   戦闘地名:田口村

  戦闘ノ次第概畧:七月九日大窪ノ賊攻撃ノ為メ午前第四時廣原丘ヲ発シ

  窪村ニ至リ兵ヲ川ノ左右ニ配布シテ進ム田口村ノ右ニ賊兵ヲ見ル直ニ開戦

  之ヲ進撃シテマチエノ並木ニ至リ大哨兵ノ凖備ヲナス   我軍ニ穫ル者

  :降人:下士卒一人 ヱンヒール一挺 弾藥 仝 五百発入一箱 器械 

  一斗桝 四個 糧 玄米凡ソ七百俵

  備考敵軍:降人ハ兵士ナリ 分取ノ玄米及桝は大窪村ノ吉田藏ニアリ

 廣原丘は上中津川の南にある笹之段のことで、そこから大窪に行き、霧島川の左右両岸を東北に進んでいるときに前方田口村の右に薩軍を発見した。大西隊の報告に合致する記述である。進撃してマチエノ並木という所で大哨兵についた。

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  C09084810300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0551・0552

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

    総員:九拾名 

  戦闘月日:七月九日   戦闘地名:霧嶌山麓田口村近傍マテ

  戦闘ノ次第概畧:明治十年七月九日赤ハゲ山ヲ発シ霧嶌山麓ニ向ケ進撃

  所昨日及ヒ田口村邉ノ賊悉ク退散スルヲ以テ交戦セス故ニ田口村之内西堀

  並木迠進入防禦線ヲ定ム   

 赤ハゲ山は下村隊の前日の報告表では持松村からイチゴ村の途中にあると分かる。竹田隊もこの日最終的に田口村の並木のある場所で防禦線を置いている。

  C09084810400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0553・0554

  第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠㊞

  総員:六拾名 

  戦闘月日:七月九日   戦闘地名:鹿児島県下大隅国ソノ山田口村

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時頃モチマツ村防禦線ヲ発ス我前面一賊ナシ

  発ヲ放タス午後四時頃田口村ヲ占領ス   

 持松村を出発しソノ山田口村を占領したという。田口村が大窪の北東側にあるが、ソノ山とは大窪の南西側にある襲山のことらしい。

  C09084810500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0555・0556

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長大尉沓屋貞諒㊞

  総員:百拾九人   戦闘月日:七月九日   戦闘地名:田口

  戦闘ノ次第概畧:七月九日午前第六時大谷山ヲ發シ午后第一時田口山ニ

  ル

 沓屋隊が前日、大谷山で守備中に七月八日午前六時敵兵襲来午後第三時彼敗走という記録を残しているが、場所不明である。田口村の西又は南らしい。 

  C09084810600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0557・0558

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊 中隊長大尉南小四郎㊞

  総員:附属合員百二拾三人

  戦闘月日:七月九日   戦闘地名:二原塲山

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時大窪村ヘ向ケ進入川北ノ道ヨリ川北村及ヒ

  窪村ヲ畧シ二原塲ヨリハンダ原山ニ登レハ賊イノコ石山ニ退向故ニ同山ノ

  麓ニ防禦警備シタリ      備考我軍:此日死傷ナシ

 二原塲山・ハンダ原山は場所不明。イノコ石山は田口の東北東3.8㎞にある猪子石のことである。川北村と大窪村を占領し、二原塲からハンダ原山に登ったところ薩軍が猪子石に退却したということから考えると、不明地名は猪子石と大窪の中間にあるらしい。

  C09084810700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0559・0560

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊陸軍大尉佐々木 直㊞

  総員:七拾壹人   戦闘月日:七月九日   戦闘地名:神集舘 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時一合坂村ヲ発シ本道ヲ進ミ神集舘ヲ襲ハン

  スルニ賊ノ所在ヲ詳知スル能ハズ因テ窃カニ之ヲ☐視スルノ際彼レ兵ヲ左

  翼ニ回シ我隊ヲ襲ハントス偶近隣ノ中隊山上ヨリ狙撃スルヲ以テ周章猪鼻

  越ニ退却ス我隊正面ヨリ進ミ遂ニ神集舘ニ入ル 

 一合坂村はイチゴ村と同じだろう。猪鼻越は猪子石を越える路線のことか。神集舘は分からなかった。「西南戰袍誌」7月11日の記事に参考になる記述が見える。

   七月十一日曇雨 竹下、牧野兩佐官と同伴して防禦線巡視神集館に至

  大島少佐舎營を訪ふ、同氏は造酒家某の大厦に在り之より案内者を雇ひ

  霧島神社に參詣しを登り再び猪ノ鼻に出て歸營す、神集館は水清冽にし

  て夏尚寒し旅團本營を國府に移す捕虜五名。(以下略)

 神集館の造酒家の大きな家を大島少佐は宿にしていた。筆者亀岡少尉はそこから霧島神社に参詣し、猪ノ鼻を経て大島の宿に帰っている。猪ノ鼻は多分猪小石のことだから下図のように三ケ所を巡視したのだろう。したがって神集館は神宮の下にある集落だろう。

 C09084810800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0561・0562

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長大尉瀧本美輝㊞

  総員:九十八人   戦闘月日:七月九日   戦闘地名:霧嶌社ノ麓

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時過発シ霧嶌神社麓街道ニ進軍爰ニテ大哨兵  

 前日瀧本隊は上中津川の東側にある石峯山とその南側の笹之段に半分ずつ守備していた。霧島神社麓街道は大窪からほぼ直線的に北東に延びる路線であり、前日の守備地からどこを経過したのか分からないが、東に5㎞ほど移動したことになる。

  C09084810900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0563・0564

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  総員:九十五人   戦闘月日:七月九日   戦闘地名:霧島山

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第八時持松村山頂出発霧嶋本道近傍ニ至レハ

  我カ進軍ヲ見テ田口川ヲ経テ猪越鼻越山頂ニ退軍ス◦☐本道ニ於テ防禦ス同

  午后第四時ナリ

 持松村から大窪を通過して進軍したのだろう。田口村に南西から進む谷道を霧島本道と呼ぶらしい。猪越鼻越は猪子石とほぼ同じだろう。

 「戰記稿」には10日の記事がなく、戦闘報告表もないので「西南戰袍誌」から見ておきたい。

   七月十日晴午後微 賊は猪ノ鼻越に據り防戰せしか今朝に至り潰走す

  捕虜五名捕玄米七百俵。

 薩軍は前日9日に猪越鼻越(猪ノ鼻越)に退却していたが、10日朝にはそこからも退却したのである。

 第三旅団はその後、薩軍がどこに移動したのか把握していた。その情報を熊本の小澤大佐に電報で知らせている。

  C09080896700「明治十年七月分ノ上 電報綴 大阪 征討陸軍事務所」1098・1099

  甲第五百号

    西郷中将殿  小澤大佐

  踊三浦少将ヨリ左之通報知アリ

  同團前面之賊「タカノ」邉ニ退ク因テ右翼ハ炭山左翼ハ霧嶋山之半腹今

  道ハ小林ニ通スル間道ヘ防禦線ヲ進メタリ且今十一日本営ヲ國分ニ轉スト

    七月十一日午前第五時三十分到ル

 タカノは御鉢南麓永池の南東7.3㎞にある高野である。炭山は大窪の西方にある襲山のことだろう。

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「戰記稿」12日の記事。

  十二日昨日第四旅團福山ヲ撃チ總陣山ヲ陷レ本日福山ヲ内線ト爲シ防禦

  ヲ進メ別第一旅團ト連絡ヲ保チ漸次進軍セントス因テ三浦曽我大山三少

  將協議シテ第四旅團第三旅團ハ漸次其線ヲ左右ニ収縮シ本團ハ尚ホ二中隊

  ヲ右翼ニ延伸スルニ决ス乃チ田口村厚東中佐ノ部下ヨリ二中隊ヲ出シテ別

  働第三旅團ノ左翼兵ト交代セシム

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 總陣山は今の地図にある惣陣が丘だろう。上図は大隅半島北部であり、右上外側の都城に向かって官軍の包囲網は西から東に、南から北に向かって行くことになる。大隅半島を北上する他の旅団が都城に近づくのを待っていたため、第三旅団は9日の戦闘後しばらくは積極的に進軍していない。

  十五日瀧本大尉ノ隊ヨリ狭野ニ、十六日田口村下村大尉ノ隊ヨリ左翼第

  旅團ノ方ニ斥候ヲ出スニ狭野村近傍數個ノ壘皆空シ行クヿ半里又二里ニシ

  テ各第二旅團ノ哨線ニ達シ共ニ賊兵ノ既ニ去レルヲ喜フ

 狭野さの高千穂峰の東北東約5.3㎞にあり、高原町中心部の西側に位置する狭野神社に行ったことがある)

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 17日・18日の「戰記稿」全文を掲げる。

  十七日午前九時賊我守線ノ正面猪小石越ニ襲來ス我兵直ニ之ヲ邀ヘ撃ツ

  山福島両大尉ノ守線ニ當ルノ賊勢最モ激烈我兵固守遂ニ之ヲ郤ク賊退ク十

  五六丁而シテ尚ホ三百餘名ノ低地ニ屯集スルアリ乃チ更ニ三小隊ヲ遣リ之

  ヲ驅リ追テ田野村近傍ニ至テ還ル我兵傷ク者卒二名ノミ

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  C09084812000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0583・0584

     第三旅團名古屋鎮台歩兵第六聨隊第一大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全

  ㊞  総員:百拾参名  傷者:下士貳名  戦闘月日:七月十七日 

  戦闘地名:鹿児嶋縣下日向国諸縣郡西嶽村ツハナ山 

  戦闘ノ次第概畧:午前第十一時賊襲来既ニ我壘ニ近クヤ直チニ射劇シ壱

  ハ奮戦ト雖モ終ニ午後第四時賊ノ正面弱度ナルヲ察シ進ンテ猛烈ニ射劇ス

  ルヤ賊壱時ニ敗走機ニ乗シテ進撃吉野本村ニ至リ午後第五時引揚ケ我臺塲

  ニ帰リ嚴ニ守備ス我軍ニ穫ル者:降人 未詳 貳名 弾薬 硝石百樽  硫黄三

  俵 器械(※薄くて読めない) (※同上) 我軍備考:※負傷者名を略す。

 17日、猪小石付近を守備中に平山隊・福島隊が襲撃されたが撃退した。平山報告では戦闘地名をツハナ山としているのは、守備塲部隊が二個中隊だったのでかなりの範囲に広がっていたとみられる。平山隊は猪小石山ではなくその南東に続くツハナ山と呼んだだろう周辺を守っていたらしい。襲撃に伴う戦闘は午前11時から午後4時まで5時間も続いたが、結局官軍が1.500m位追撃している。低地の水田地帯になお300名位が屯集していたというので、追撃は尾根筋を進んだのだろう。その後、屯周する敵を田野町まで追撃した。

 この日の記録が別にあるので掲げる。

 C09084752100「明治十年七月起 發翰日録 田口村出張第三旅團参謀部」0785~0787

  庄内攻撃行進路探偵旁本日午前九時頃ヨリ厚東中佐同行友田少佐及ヒ川

  少佐ノ持口ニ至リ川村ノ☐ニ罷在候内賊正面或ハ左右翼ヨリ襲来ノ報知有

  之候間川村持口右翼及正面ニ砲聲相聞ヘ候ニ付援隊或ハ砲廠等ノ凖備ヲナ

  シ而シテ平山大尉防禦線ヘ厚東中佐同行罷越候處同人ノ持場并ニ本道福嶌

  大尉ノ處ニ一時ハ頗ル猛烈ニ襲撃シ来ル我カ兵巌ニ固守シ終ニ之ヲ打拂ヒ

  賊ハ凡ソ十五六町位ノ低地ニ概畧三百余モ集合致シ居候ニ付更ニ三小隊ヲ

  出シ進撃シテ之ヲ走ラス尚進ンテ田野近傍迠至ル別ニ異状無之候ニ付各本

  隊ニ復ス味方傷スル者僅ニ二名尚警備夫〃厳重ニ相加ヘ置申候此段御報知

  致候也

   七月十七日   西陸軍少佐

     三浦陸軍少将殿

 内容には前二件と大きな相違点はない。

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 この時点の第三旅団の人数は将官から兵卒まで3,178人で、他に小使・職工・従僕・馬丁・傭夫の138人を加えて合計3,316人だった(「戦記稿」巻五十)。18日についても戦闘報告表は存在しないので「戰記稿」を見ておきたい。

  十八日田口村大島少佐ノ部下二中隊ヨリ午後四時小斥候ヲ出ス其右翼佐

  木大尉ノ兵賊壘ニ近ツク時賊之ヲ認メ其左翼ノ壘ヨリ漸次右翼ノ方ニ退ク

  我兵進撃壘ニ入リ哨舎ヲ火ス賊支ル者僅ニ八九名且ツ防キ且ツ走ル又之ヲ

  逐テ漸ク左翼ニ至リ數壘ノ廠舎ヲ焼ク沖田大尉ノ斥候モ亦然カス賊悉ク左

  方ノ道ニ退ク少佐之ヲ牙營ニ報シ且ツ曰ク賊ハ今朝モ三四十名整列シテ左

  方ヘ行進セリ昨日迄ハ其勢頗ル衆多ナルニ似タリシカ本日ノ狀此ノ如キハ

  疑フヘシ因テ先ツ斥候ヲ舊線ニ収メ今宵一層ノ嚴戒ヲ加ヘ詰旦ヲ待テ各隊

  攻襲偵察ヲ出サンヿヲ期セリト

 この文では戦いのあった場所が分からないので、登場する隊が直前にいた場所から検討したい。7月9日に佐々木隊は神集館にいた。沖田隊は7日は踊背後の山頂におり、9日は戦闘報告がないのでどこにいたか不明。18日はそれらの隊から斥候隊を出して敵地に向かって進んだところ、ほとんどの敵は陣地から退却したが斥候隊は初めにいた場所に帰り厳戒した。薩軍が攻勢を掛けようと企んでいるように見えたのである。そして予想通り19日、薩軍が襲来した。

  C09084812200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0587・0588

  第三旅團近衛歩兵第二連隊第一大隊第一中隊長代理中尉横井 剛㊞

  総員:六拾五人   戦闘月日:七月十九日   戦闘地名:仏堂村 

  戦闘ノ次第概畧:当所防禦線ヘ賊襲来ス依テ午前第七時ゟ仏堂村ノ山上

  出張ス死傷一名モナシ

 仏堂村に関係するかもしれない仏堂橋という橋が猪小石の南東方向にある。この付近が仏堂村と呼ばれたのなら、その西側の山上に出張したのだろう。

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 C09084812300「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0589・0590

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  総員:九十五名 死者:将校一 下士卒二   

  戦闘月日:十年七月十九日   戦闘地名:津和ノケ鞍 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第六時戦列交換トシテ着線直チニ賊ノ襲撃ニ

  會シ前面本道ニ於テ應援彼我對戦ス而ルニ彼レ左谷森林ヲ経テ迂回茲ニ

  於テヤ命ヲ奉シ神速之ニ應スル一時ヲ出テス悉ク退散ス故ニ旧位ニ復シ

  レヨリ一小隊ヲ以テ前面尾撃トシテ進軍スト雖ノモ彼レ敢テ應セス故ニ斥候

  派遣シテ而テ後皈環ス于時午后第七時ナリ   

  我軍ニ穫ル者:俘虜 未詳 二   備考我軍:※死傷者名を略す。

 前回7月9日の戦闘報告では矢上隊は、持松村山頂出発霧嶋本道近傍ニ至レハ賊我カ進軍ヲ見テ田口川ヲ経テ猪越鼻越山頂ニ退軍スとあり、薩軍は猪小石あるいはそこから南東に続く尾根に退いている。しかし、17日の戦闘報告では平山隊が猪小石とその南東尾根のツハナ山に哨兵線を置いているから、当然薩軍はそこから退却していた。それでも19日の矢上隊の場所は不明である。

  C09084812400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0591・0592

  旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  総員:九拾三名 死者:下士壱名 戦闘月日:七月十九日 

  戦闘地名:長池村山上 

  戦闘ノ次第概畧:明治十年七月十九日午前第八時頃ヨリ長池村地方ニ當

  砲声相聞候ニ付直ニ整列同地方ニ向ケ出発長池村ニ至ル時同所山上防禦線

  ノ左翼ニ賊兵迂回シ襲来スル為メ哨兵線ノ左翼已ニ破レ退却スルヲ以テ賊

  兵追躡已ニ山頂ヲ下リ迫リ来ルニ付不取敢當中隊ヲ以テ同所ニ相向ヒ賊兵

  ノ右側ヨリ烈シク之レヲ横擊スルニ賊乍チ山頂迠引退キ猶森林ニ依テ烈シ

  ク防戦スト雖モ我兵モ亦タ追撃又彼ノ右側ニ出テ猛撃スルヲ以テ賊兵遂ニ

  支ユルヿ不能シテ大ニ敗走ス依テ機ニ乗シ走ルヲ追テ御鉢山ノ下ニ至テ止

  戦ス此日費ス処ノ弾数凡ソ千五百発余

  我軍ニ穫ル者:俘虜 下士兵卒壱人 銃 スナイトル壱挺 弾薬 スナイ

  ル百発余   ヱンピール二百発余 器械 刀 壱本 

  備考我軍:明治十年七月十九日戦闘之際即死 伍長飯田米藏 

  備考敵軍:明治十年七月十九日戦闘之際俘虜 鹿児嶋縣下大口村住士族

  兵卒濱﨑猪之助

 下村隊は長池村山上に来る前はどこにいたのか。同隊の前回の報告、7月9日では田口村之内西堀並木迠進入防禦線ヲ定ムとある。19日は午前8時頃、長池村地方から砲声が聞こえるので出発した。おそらく前と同じ田口村から出発したのだろう。長池村山上には他の隊が防禦線を構えていたが左翼に薩軍が襲来し下村隊が到着したときには丁度官軍が敗走し、薩軍が山頂を降りて迫ってきていた。下村隊はこれを邀撃し、御鉢山の下で戦いを止めている。御鉢は高千穂峰の西側に双子峰のように聳える大火口が窪んだ山である。

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 猪小石にも官軍がいて、永池(長池)の守線と連続して県境尾根周辺に配置についていたと分かる。薩軍は永池守線の左翼を襲撃したので、御鉢方向から県境尾根を下って来たのだろう。 

  C09084812500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0593・0594

  第三旅團第十聯隊第三大隊第三中隊陸軍大尉柳生房義㊞

  総員:百五拾名 死者:下士卒壱名 傷者:下士卒拾名

  戦闘月日:七月十九日

  戦闘地名:鹿児嶋縣下永池村ブトコロ☐ 

  戦闘ノ次第概畧:當隊援隊ノ処午前第七時ニ十分猪鼻越ヘ邉砲声アルヲ

  速ニ一隊ヲ卒ヒ我受持司令官ノ許ニ至ル然ルニ霧嶋山ノ方位ニ賊襲来同官

  ノ命ヲ受直ニ山ヲ攀リ之ニ應スルニ先ニ守備セシ隊ハ悉ク守地ヲ棄テ去ル

  賊果テ山頂ヲ占メ打ツヿ烈シ我兵山腹ニ拠リ必死激戦猛烈ニ火撃シ互ニ死

  傷アリ下村ノ隊来リ并テ之ヲ衝ク賊忽潰走シ二ツニ分レテ森林ニ入ル一手

  下村隊一手我隊尾撃シ午后第三時止戦即防禦線ヲ霧島ノ連山ニ設ク永池村

  ブトコロ 

  我軍ニ穫ル者:銃 ヱンピール 一挺 弾薬 一個 器械 相図旗 一本

  備考我軍:※死傷者名を略す 備考敵軍:死者壱名 但シ下士

 下村隊と同じ場所の戦闘である。柳生隊は9日の報告では山村大尉が隊長で、哨兵線ヲ出テ霧嶌山ノ麓ヘ連絡シ進テ霧嶌山ノ本道ニ至リ大哨兵布ケリという経過であり、戦闘地名は田口村近山となっている。この日は援隊だったので田口村付近にいたが、午前7時20分猪鼻越あたりから砲声(当時は銃声を砲声と記すことがあった)が聞こえたので駆け付けたのだろう。戦闘後はブトコロに防禦線を置いているが、武床(ぶとこ)という地名が永池の東にある。追撃を午後3時に切り上げている。

  C09084812600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0595・0596

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第壱大隊第二中隊陸軍大尉平山勝全㊞

  総員:百拾五名 傷者:下士卒壱名   戦闘月日:七月十九日 

  戦闘地名:鹿児嶋縣下日向国諸縣郡西嶽村ツハナ山☐ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時賊襲来既ニ我壘ニ近クヤ直チニ発砲一時ニ

  戦ト雖ノモ終ニ午後第四時丗分賊ノ正面ニ当リ猛烈ニ射劇シ勢ニ乗シ突入ス

  賊散乱敗走セリ此ノキ生捕分捕アリ夫ヨリ賊ヲ追テ吉元村ニ至ル途中賊ノ死

  體ヲ見ル午後第六時引揚嚴ニ守備ヲ加ヘタリ 

  我軍ニ穫ル者:俘虜 未詳 貳名 

  我軍ニ穫ル者:銃 ヱンピール 壱挺 器械 胴乱 壱個 貨 金拾圓◦四

  錢 

  備考我軍:深手 兵卒 古山桑次郎 備考敵軍:生捕 貳名 金 拾圓◦

  四拾錢  銃 壱挺 胴乱 壱個

  右ハ鹿児嶋縣下日向国諸縣郡吉元村ニ於テ得ル 

 平山隊は二日前17日の戦闘報告を記した唯一の部隊である。その時はツハナ山で襲われたが撃退し、進撃吉野本村ニ至リ午後第五時引揚ケ我臺塲ニ帰リ嚴ニ守備スということだった。したがって19日も猪小石の尾根続きにあるツハナ山で再び襲撃されたのである。戦いは午前5時から午後4時半まで続いた。永池の戦闘が午前7時20分頃始まったようだが、南側に位置するツハナ山では午前5時に開戦している。その後、この日も吉元村まで追撃した。前回は吉野本村と記したが今回は吉元村となっているのは同じ意味だろう。

  C09084812700「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0597・0598

  第三旅團第十一聯隊第一大隊第三中隊付陸軍中尉草場彦助㊞

  総員:百三拾三名 死者:下士卒一 傷者:下士卒五   

  戦闘月日:七月十九日

  戦闘地名:霧島山 戦闘ノ次第概畧:本日午前第七字賊兵襲撃候ニ就キ

  禦線ニ配兵嚴戒ノ処仝九時左翼分遣哨兵ノ処ヘ賊兵迂回突撃候間之ヲ防禦

  スト雖僅ニ二分隊ニテ何分難支遂ニ引揚ケ候賊勢猖獗追撃候処漸次援隊モ

  繰出シ且ツ防禦線ヨリ嚴敷發放候処賊兵進ムヿヲ得ス遂ニ午后第六時退去

  ス   備考我軍:※死傷者名等を略す。

 草場隊の近い過去の報告表がないのでどこを防禦していたのか明らかではないものの、この日は霧島山の防禦線で午前7時から午後6時まで戦っている。霧島山の地名と戦闘時間、左翼が襲われたこと、援隊が来たことなどから考えると永池村から御鉢にかけての地域を守備していたとみられる。

  C09084812800「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0599・0600

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第三大隊第二中隊陸軍大尉福嶌庸智㊞

  総員:九十三   戦闘月日:七月十九日 戦闘地名:永池村 

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時三十分賊襲来依テ防禦線ニ於テ防禦午後第

  五時賊退去

 福嶌隊は永池村で午前6時半から午後5時まで戦っており、若干時間が相違するものの草場隊の付近を守備中に襲われたのだろう。

  C09084812900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0601・0602

  第三旅團大坂鎭臺砲兵第四大隊第壱小隊右分隊長陸軍中尉三宅敏徳㊞

  総員:二十一人 戦闘月日:七月十九日 戦闘地名:大隅国園部長池

  山上ニ於テ戦闘ノ次第概畧:午前第四時大窪村川北村出発同第七時長池

  村ヘ着同所山上ニ砲壱門備付候処賊襲来直チニ開戦同第九時頃砲戦最モ

  勉ム午后第四時賊退却因テ発放ヲ止ム

 川北村は霧島川の右岸で大窪村の対岸である。午前4時に大砲2門を曳いて出発し、長池村に着いたのは午前7時だった。山上に砲を設置するや否や襲撃を受け開戦し、午後4時に敵は退却した。

  C09084813000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0603・0604

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第弐中隊長陸軍大尉栗栖毅太郎㊞

  総員:八拾七人  傷者:下士卒二 戦闘月日:七月十九日 

  戦闘地名:遠穴山 

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時半頃我正面遥ニ砲聲ヲ聞ク此ニ於テ直ニ斥

  候ヲ出シテ右方賊勢ノ多寡ヲ捜索セシム此際賊我右翼即チ隊哨分遣所ヘ

  向ケ俄然迂回シ来リ発喇叭ヲ吹キ且發聲シテ来擊此ニ於テ我兵巌ニ警

  戒ヲ加ヘ凖備ヲナシ居タルニ賊大砲数門連發我塁ヲ狙撃スルヿ屡ナリ依

  テ若干兵ヲ出シテ之レニ應シ他悉ク塁内ニアツテ發聲我軍ノ声援ヲ盛ニ

  ス同第八時過賊全ク退去 

  備考我軍:一傷者弐名ハ陸軍伍長園田岩夫長尾惣四郎ナリ

 遠穴山は場所不明。午前5時頃遥か正面で砲声がし、その後敵が右翼分遣所に襲来した。午前8時過ぎに敵は退去した。この午前5時という時間は永池の開戦時間午前7時頃よりも二時間早く、別の場所、おそらくツハナ山だろう。平山隊がそこで午前5時に襲われており、時間は一致する。栗栖隊への攻撃は3時間程度で終わった。

  C09084813100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0605・0606

  第三旅團東京鎭臺預備砲兵第一大隊第二小隊陸軍大尉櫻井重壽㊞

  総員:三十三名 戦闘月日:七月十九日  戦闘地名:日向国猪子石岡

  戦闘ノ次第概畧:午后十二時三十分ヨリ猪子石岡ニ山砲弐門ヲ備ヘ髙塚

  山ノ深林ニ潜伏セル賊ヲ乱射ス午后第六時ニ至敵全ク退走スルヲ以テ放

  火ヲ止ム 

 猪小石岡に四斤山砲2門を据え、12時半から髙塚山の深林を砲撃した。猪小石(標高533m)の南東4.7㎞にある高束山(標高423m)がここでいう高塚山だろう。四斤山砲の最大射程は榴弾で2,600m、榴霰弾で2,540m、霰弾で有効射程がわずか約300mである(山本達也2018「西南戦争の弾薬」全日本軍装研究会)。この日、榴霰弾を使ったと考えられるが猪小石から南東に続く尾根の前方、ツハナ山の南東の高みに進み、高束山の北麓を狙ったとしても3.5㎞もあるので報告表通りには受け取れない。その方向を砲撃した程度に理解しておきたい。

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  C09084813200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0607・0608

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長陸軍大尉安満伸愛㊞

  総員:八拾八人   傷者:下士卒三名

  戦闘月日:七月十九日   戦闘地名:猪ノ鼻越

  戦闘ノ次第概畧:午前第七時賊我「イノハナ」越ノ塁ニ襲来頗ル必死ノ

  状アリト𧈧ノモ遂ニ我猛撃ニ挫折シ午后第五時散乱逃走ス

  備考我軍:一傷者下士卒三名ハ第九聯隊第三大隊第四中隊軍曹大道吉松

  壱等卒栗山徳松貳等卒小西寅吉ナリ此参名ノ内軍曹大道吉松壱等卒栗山

  徳松ハ軽傷ニ付醫官診断ニ依リ三日間休業ノ後戦列ニ就ヲ得

  一費ス処ノ弾薬壱万三千発ナリ

 安満隊はこれ以前の記録としては8日、小林街道エ大哨兵ヲ布ケリという漠然とした記録を残している。この日の戦闘地名猪ノ鼻越は地図にない地名だが、次に掲げる弘中隊の記録に安満隊と共に猪子石ノ岡で防戦したことが記されており、これなら地図で確認できる。田口村の東北東3㎞弱の地である。とすれば猪子石を小林街道としていたことになる。午前7時から襲撃され午後5時に薩軍が退去した。一人34発を使用しているが、10時間戦ったから1時間にすれば3.4発であり、それ程多くない。 

 C09084813300「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0609・0610

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠美㊞

  戦闘月日:七月十九日   戦闘地名:猪子石ノ岡 総員:百十四人 

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時三十分頃我防禦線猪子石ノ岡ニ襲来依テ分

  遣哨所并両翼ニ兵ヲ配布シ開戦賊徒近接我兵激裂ニ防戦午後五時頃撃テ

  之ヲ退ク我軍死者:下士卒一名 我軍傷者:下士卒十名  敵軍死者不

  詳 敵軍傷者不詳 

  我軍ニ穫ル者:銃一挺 弾薬 スナイトル百発余エンヒイル若干

  備考我軍:※死傷者名を略す

       一此日哨所交代トシテ安満大尉ノ一中隊七時過来ル依テ共ニ

        防戦午後五時頃撃退ケ逃ルヲ追フ数町

 午前6時半頃から猪小石が襲われた。哨兵交代として安満隊が7時過ぎに来たので共同で戦い、午後5時頃撃退している。安満の報告では戦闘が始まった後に参戦したことを記さないが、弘中報告では安満隊が来るまでに時間差があったことが分かる。

   C09084813400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0611・0612

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長陸軍大尉齋藤徳明㊞

  総員:九拾八名  戦闘月日:七月十九日   戦闘地名:荒砂之茶屋 

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時賊兵我防禦線ニ襲来ス直ニ開戦午後第四時

  賊兵退去ス故ニ追撃シ同第七時同位置ニ帰ル   

  我軍ニ穫ル者:俘虜 未詳二名

  備考敵軍:午前第六時我展望兵ヨリ賊ノ襲来セシ趣ヲ報ス依テ直ニ一小

  隊ヲ展望線ニ出シ此兵ヲニ分シ一ハ山上ニ配布シ一ハ山下ニ散布ス二兵

  力ヲ協セテ防禦ス午前第拾時左翼後ニ賊襲来セシニ付是ヲ防禦スベキノ

  令命有直ニ両所ノ兵ヲ引揚ク然ルニ左翼防禦既ニ調ヲ以テ旧位置ヲ復カ

  ント欲シ至レハ賊既ニ山上ニ在我兵ヲ下射ス故ニ再ヒ登上スル不能退テ

  防禦線ヲ固守ス午後第四時賊退去之兆有直ニ尾撃シテ夫卒二名ヲ捕フ同

  第七時旧線ニ皈ル

 午前6時に薩軍が接近するのを発見し兵を配布している。午前10時に守線の左翼後に敵が襲来したので先に配布した兵を引き揚げ左翼を増強しようとした。しかし、左翼は守備が整ったとのことで、旧位置に復帰させようとしたがすでにその山上は敵兵が占めており、撃ち下ろしてくるので登ることができず、元々の防禦線を固く守るうちに午後4時敵は退去した。荒砂之茶屋が場所不明なのでどこの出来事か分からない報告である。猪小石付近と考えておきたい。

 次は第一旅団に熊本鎮台小澤大佐が発した電報である。小澤大佐は各地の旅団からの電報や山縣参軍の指令などを各地の旅団に伝達していた。

  C09083814800「下達綴 出征第一旅團」0356・0357

     七月二十一日午後零時五十五分到着熊本小澤大佐ヨリ電報

  三好少将ヨリ報知左ノ如シ

  十七日午前十時三十分賊大舉シテ都ノ城本道ヨリ高原街道ヲ経高原ヱ襲

  来始メ三十余名不意ニ一線ニ斬リ込ム其余ハ一團トナリ我線ノ薄弱ナル

  部ヲ伺ヒ高原ヨリ野尻街道ヘ突キ入リ小林本道ヲ犯サントス本日賊ハ必

  死奮戦楯ヲモ執ラス立射連發敢テ動カズ依テ援隊ヲ繰出シ其右翼ヲ猛撃

  ス此ニ於テ賊頗ル狼狽死屍数十ヲ棄テ走ル我兵急ニ尾撃高﨑街道ニ至ル

  時ニ午后三時ナリ我兵死傷六十余名賊死傷極テ夛シ生捕四人アリ又三浦

  少将ヨリ報知左ノ如シ十九日午前七時賊凡ソ八百有余名大舉シテ左翼高

  千穂ノ中腹深林ヨリ右翼ハ鍋ノ窪山深林ヨリ迂回シ又正面ヨリ砲四門ヲ

  発射シ劇シク襲来就中左翼尤モ激戦ナリ激戦十二時ニ至リ賊勢沮シ髙野

  街道ヲ差シテ退ク午後五時全ク走逃ス我兵尾撃十餘丁日暮ニ及ブヲ以テ

  旧線ニ引揚ク我死傷三十余名

 この電文は前半が第二旅団三好少将から小沢大佐が受けた報知、後半は同じく第三旅団の三浦少将からの報知を第一旅団に通知したものである(青字)。

 三浦の文には戦闘報告表にはない鍋ノ窪と髙野街道という地名が存在する。これによると19日の薩軍の攻撃は三手に分かれていた。官軍側から見て、左翼が高千穂(霧島山の御鉢)中腹山林から、正面は大砲4門も備えた攻撃であり、右翼は鍋ノ窪山の深林からだったとする。戦闘報告表に対比すれば左翼は永池村付近であり、正面は猪小石やツハナ山周辺を指すようである。

 戦闘報告表では鍋ノ窪という地名が使われていないが、誰かの報告表が対応するはずである。地図では鍋ノ窪は猪小石の南西約3.2㎞、大窪村の東方やや北寄り約3.3㎞の谷間に位置する。三浦の文に鍋ノ窪山とあるのは鍋ノ窪の東側背後の山を指すと考えられる。報告表の記述から戦闘地名が明確なものを除外し、大砲で攻撃されたことを参考に考えると官軍右翼に位置したと思われるのは栗栖隊である。その報告文を再掲する。午前第五時半頃我正面遥ニ砲聲ヲ聞ク此ニ於テ直ニ斥候ヲ出シテ右方賊勢ノ多寡ヲ捜索セシム此際賊我右翼即チ隊哨分遣所ヘ向ケ俄然迂回シ来リ発喇叭ヲ吹キ且發聲シテ来擊此ニ於テ我兵巌ニ警戒ヲ加ヘ凖備ヲナシ居タルニ賊大砲数門連發我塁ヲ狙撃スルヿ屡ナリ依テ若干兵ヲ出シテ之レニ應シ他悉ク塁内ニアツテ發聲我軍ノ声援ヲ盛ニス同第八時過賊全ク退去 

 栗栖隊は猪小石の西側から南北に走る尾根筋に位置を占め、東を向いて警備する状態だったはずである。そして賊我右翼即チ隊哨分遣所ヘ向ケ俄然迂回シ来ったのである。  

 以上の出来事を「戰記稿」ではどのように記したか見ておきたい。

  十九日午前五時一ニ曰ク七時賊凡ソ八百分レテ三隊ト爲リ一ハ我左翼霧島

  山中腹ノ森林ヨリ、一ハ右翼鍋之窪山森林ヨリ迂回シ一ハ正面ヨリ砲四

  門フロートヱル二門臼砲ヲ發射シ來ル而シテ我左翼ノ賊勢ヒ最モ猖獗川

  村少佐指揮甚タ勉ム諸兵奮テ之ニシ更ニ援隊及ヒ山砲三門ヲ出シ午時

  ニ至ルマテ交戰殊ニ烈シ賊遂ニ支ル能ハス高街道ニ向テ走ル尾撃十餘

  町午後五時半兵ヲ収ム

 「戰記稿」は薩軍の襲撃を午前5時あるいは7時としているが、これは薩軍の到着が右翼・左翼・正面で時間差が生じたためである。記事には薩軍の大砲についても砲種を記すが、これに関して他には記録がない。薩軍側の「薩南血涙史」はこの戦いを17日荒磯の戦とし、薩軍左翼は逸見十郎太、正面は別府九郎・神宮司助左衛門・柚木正次郎、右翼は河野主一郎が指揮したという。荒磯岳が霧島市南部にあるが、混同しているのか。下図の赤い破線は官軍陣地の推定所在地である。薩軍は前回、大窪村を退去後は高野町にほとんどが帰陣し、この日も高野町を出発し、同所に帰っている。

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 「新編西南戦争」に地図があるので掲げる。大口から横川に退却した薩軍霧島山に遮られ、南北に二分して東に進んだ。辺見や河野は以後両方の指揮で忙しく何度も往復したことだろう。

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 7月21日、山縣参軍本営のあった国分で各旅団による都城攻撃の方略が決まった。また、右翼司令官の本部を宮崎県諸県郡丸野村(場所不明)に移した(「西南戰袍誌」)

 7月23日、第三旅団三浦少将は霧島山の北側を進軍する第二旅団三好少将に以下のように連絡した。

  C09084621600「雜書 明治十年七月中 第貳旅團」0689・0690

  明廿四日右翼別働第一旅團ゟ左翼當團ニ至ル迠一同都之城ヘ向ケ大進撃

  之義决定相成候ニ付昨日国府本営ゟ一昨當田口村ヘ出張ノ間及御通知候

  尚又當團左翼ヘ新撰旅團二大隊繰込相成候ニ付是迠當團ゟ貴團ヘ之連絡

  ハ同團ニ於テ引受候間可然御承知相成度候此段申進候也

   七月廿三日  三浦少将

      三好陸軍少将殿

 

   追テ本文都之城大進撃ニ付貴團ゟモ御都合次第二中隊程高崎之方向江

  攻襲斥候御差出相成候ハヽ旁都合可然ト存候此段申添候也

 都城に向け各旅団が大進擊を行うことが22日に決定し通報したこと、第三旅団と第二旅団との中間に新撰旅団二大隊が配置されるので以後の連絡は新撰旅団が引き受けるので承知されたい、また第二旅団から二個中隊ほど高崎方向に攻襲偵察を出してくれれば好都合だとの内容である。23日・24日の「戰記稿」を掲げる。

  二十三日都城攻擊ノ諸將官各〃其方面ニ就ク山縣参軍モ亦今朝國分ヲ發

  シ田ノ口村ニ至リ二十四日三浦少將ト共ニ猪小石ヲ越エ庄内ニ至ル

  三浦少將ノ第三旅團ハ二十三日牙營ヲ田ノ口村ニ移シ二十四日山縣参軍

  ノ命ヲ承ケ部署方畧ヲ其部下ニ頒ツ左ノ如シ

として、右翼は三木南ヨリ堤通リ、中央は高野村本道ヨリ、左翼は地名なしである。各中隊が左右中央のどれかは、以下それぞれの戦闘報告表に付記する。 

   C09084813500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0613・0614

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊中隊長大尉南小四郎代理中尉伊

  藤一幸㊞総員:附属合員百拾六名

  戦闘月日:七月廿四日   戦闘地名:セキノウ𦊆荒砂之茶屋 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時援隊ノ命ヲ受ケ直ニ溝ノ口村ニ兵ヲ伏シ夫

  ヨリセキノウ𦊆山々腹ニ至リ攻撃隊景况ヲ詗フ已ニ乄攻撃隊ヨリ賊ノ敗

  走セザルヲ告ク因テ我一中隊ヲ以テ攻撃隊ニ増加シセキノウ𦊆山ノ数塁

  ヲ拔ク時ニ午前五時三十分ナリ夫ヨリ都ノ城ニ入リ安永村今ヤニ至リ防

  禦ス    備考我軍:此日死傷ナシ

 伊藤(南)隊は右翼援隊だった。前の齋藤報告にもあったが荒砂之茶屋は場所不明。荒襲あらそという地名が宮崎県に入って1.2㎞付近にあるがこれだろうか。永池の東側で高千穂峰の南側である。セキノウは高野南東6.6㎞にある関之尾である。どちらも庄内川流域にあり関之尾の下流1.5㎞に庄内町がある。庄内は北郷氏が築城した城山の南から東に旧城下町がまとまる。伊藤隊は午前3時に溝ノ口村を出発し、関之尾北側の山上の薩軍を攻撃して午前5時半に占領し庄内町の東側にある今屋に防禦を構えている。

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 C09084813600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0615・0616

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊中隊長陸軍大尉竹田實行㊞

  総員:百貳拾

  壱名 戦闘月日:七月廿四日   戦闘地名:上荘内及ビ都ノ城 

  戦闘ノ次第概畧:七月廿三日午后九時丸野村ヲ発シ翌廿四日午前二時来

  村ニ至ル夫ヨリ川ヲ渉リ前面ノ山ニ登テ兵配布シ賊ノ迂回ヲ防ク仝四時

  両翼ノ攻撃ニ乗シ開戦ス仝六時賊敗走仝七時同所ヲ引揚ケ上荘内ヘ出テ

  都ノ城ノ入口マテ進軍ス午后一時同所ヲ引揚ケ上荘内ニ帰リ夫ヨリ柏ノ

  ☐村ニ至ル

 竹田隊は右翼援隊。丸野村は場所不明。他の隊も丸野村を出発している例があるので、後で検討する。

 C09084813700「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0617・0618

  第三旅團近衛歩兵第二連隊第一大隊第四中隊大尉湯地 弘 

  総員:五十六名   戦闘日時:七月廿四日   戦闘地名:都ノ城

  戦闘ノ次第概畧: 援隊ト乄昨二十三日夜丸野村出発同二十四日午后第一

  時都ノ城ニ入ル

 湯地隊は右翼援隊。

 C09084813800「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0619・0620

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長大尉沓屋貞諒㊞

  総員:百貳拾九人   戦闘日時:七月二十四日  戦闘地名:溝ノ口

  戦闘ノ次第概畧:二十三日午后第九時丸野村ヲ發シ援隊トシテ二十四日

  午前第七時溝ノ口ニ到リ賊兵敗走ニ付都ノ城江繰込午後第四時庄内ニ移

  ル

 沓屋隊は右翼援隊。溝ノ口は宮崎県財部町東部の地名である。丸野村から溝ノ口まで10時間かかっている。

  C09084813900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0621・0622

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長代理陸軍中尉中村 覺㊞

  総員:将校以下百十五名 

  戦闘日時:七月廿四日   戦闘地名:庄内及都之城

  戦闘ノ次第概畧:昨廿三日午后第九時援隊トシテ赤阪峠「スキタ」ノ岡

  出発大河原村及ヒ桐原村ヲ過キ廿四日午前第三時過キ溝之口村ニ至リ是

  レヨリ我兵ヲ散布シ庄内ノ𦊆ニ至リ暫時砲擊又進ンテ都之城ニ至ル時ニ

  午前第十一時過キナリ   傷者:下士卒一

 中村隊は右翼援隊。下図は中村隊の軌跡で、庄内は図の右外になる。図の左外には大窪村があり、中村隊が官軍右翼として南部を東進したことが分かる。赤阪峠から溝ノ口まで9時間だから、丸野村から溝ノ口まで10時間というのは赤阪よりも西側あるいは北側に1時間歩く距離である。

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 C09084814000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0623・0624

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第一中隊長大尉瀧本美輝㊞

  総員:九十三人   戦闘日時:七月廿四日   戦闘地名:上庄内町

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時田野村ヲ発シ壮内ニ向ケ進軍賊逃走終ニ都

  城ニ至ル然ルニ賊我散兵線内財部及ヒ壮内ノ方向ニ走ル者アリ直ニ之ヲ

  討ン為メ一小隊ヲ派遣ス彼レ何レヱカ走リ不認由テ引揚命ニテ壮内ニ休

  足午後第六時又々小群村ニ進軍是川内村山上ニ大哨兵   

 瀧本隊は左翼正面援隊。

 C09084814100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0625・0626

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  総員:九拾貳名 

  戦闘日時:七月二十四日   戦闘地名:庄内口ヨリ都ノ城マテ

  戦闘ノ次第概畧:明治十年七月二十四日午前第十二時三十分不動堂村出

  發広内口ニ向ケ攻撃第六時頃開戦暫時ニシテ同所及ヒ近傍々賊兵悉ク退

  散直ニ庄内ヘ進入之處都ノ城ヲ差シテ敗走スルヲ以テ我兵追撃遂ニ都ノ

  城ヲ陥レ午後第一時頃休戦第二時庄内ニ引揚ケ同第五時頃中霧嶋ヨリ牛

  ノス子ニ至ル本道小ムレ村ニ至リ防禦ス此日援隊タルヲ以テ交戦セス

 下村隊は左翼正面援隊。

  C09084814200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0627・0628

  第三旅團第九聯隊第三大隊第三中隊陸軍大尉本城幾馬㊞ 総員:八拾名 

  戦闘日時:明治十年七月二十四日  戦闘地名:日向国諸縣郡小倉田山

  戦闘ノ次第概畧:七月二十四日午前第一時田野村ヲ出發仝三時四十分開

  戦直ニ胸壁數十ヲ乗取リ賊潰散スルヲ追ヒ庄内ニ至ル已ニ午前十時半同

  処ニ於テ賊ノ殿軍ト相戦フ終ニ打拂ヒ尾撃スルヿ二里余都ノ城ヲ取ル此

  時弾藥七百ヲ放ツ

 本城隊は中央攻撃兵。

  C09084814300「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0629・0630

  第三旅團工兵第二大隊第二小隊第二分隊陸軍少尉内藤冨五郎㊞

  総員:貳拾二名   戦闘日時:十年七月廿四日   戦闘地名:荘内

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時田ノ浦出発仝十一時都ノ城河岸ニ至リ午後

  第四時荘内江引揚仝六時ヨリ防禦線江塹溝築造ス

 内藤隊は左翼正面援隊。

  C09084814400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0631・0632

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞

  総員:百〇七名 

  戦闘日時:十年七月廿四日   戦闘地名:本庄☐都之城入口

  戦闘ノ次第概畧:午前一時三十分田野村ヨリ庄内ノ本道ノ右翼ヨリ進入

  四時三十分賊塁ニ接シ開戦直ニ落シ入レ庄内江進入追撃シテ都ノ城ニ至

  リ復午後庄内ニ宿陣☐林近ヲ守ル

  敵軍:死者不詳 傷者不詳 我軍備考:死傷ナシ

 弘中隊は中央攻撃兵。

  C09084814500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0633・0634

  第三旅團豫備砲兵第二大隊徒歩隊陸軍大尉村井忠和㊞ 総員:七拾四名 

  戦闘日時:十年七月二十四日   戦闘地名:日向国庄内

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時田野村哨兵線ヲ発シ潜軍五本松ニ到リ左右

  ノ開戦ニ凖ヒ本道ノ賊塁ニ向テ行進ス午前第四時賊塁ノ近傍ニ達シ茲ニ

  開戦ス然ルニ我右方ヨリ射撃スルヲ以テ一ハ本道ニ一ハ其左方ニ向テ攻

  撃セシム暫時ニシテ賊退去而シテ庄内村ニ達スル七八丁前賊拒守ス故ニ

  本道左方ヨリ之ヲ射撃シ賊逃走スルヲ以テ内ニ入午前十時頃都ノ城ニ

  達シ命ニ因テ庄内ニ引揚ケ中霧嶌右方ノ哨兵線ヲ守ル 

  傷者:下士卒二名 備考我軍:傷者ハ一等馭卒中川宇太郎刃創ヲ被ル二

  等馭卒勝山源次銃創ヲ被ル 

  我軍ニ穫ル者:銃 スナイトル二挺 弾薬 スナイトル二百発 器械 刀二本

 村井隊は中央攻撃兵。

 C09084814600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0635・0636

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長陸軍大尉安満伸愛㊞

  総員:八拾三人 戦闘日時:十年七月二十四日  戦闘地名:センダラ

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時「センダラ」ノ賊ヲ打拂ヒ尚荘内ヲ敗リ尾

  擊シテ都ノ城辺ニ迫ル賊又防戦スト雖ノモ彼豈保ツ可ンヤ忽チ散乱逃走セ

  リ命ニ依リ荘内ニ引揚大哨ヲ配布セリ   

  備考我軍:一死傷ナシ 一費ス弾數六百貳拾発

 安満隊は中央攻撃兵。

  C09084814700「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0637・0638

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉大西 恒㊞

  総員:将校以下九拾名 

  戦闘日時:十年七月廿四日   戦闘地名:庄内ヨリ都城

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第三時ノ開戦当隊援隊ニ而本道五本松ヨリ進

  擊ス我甲突進猛闘直ニ庄内ノ賊ヲ擊チ拂ヒ終ニ都城ヲ落シ☐☐歩哨線ヲ

  中霧島ニ定ム   備考我軍:本日死傷ナシ

 大西隊は中央攻撃兵。

  C09084814800「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0639・0640

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉柳生房義㊞

  総員:百〇貳人 

  戦闘日時:十年七月二十四日  戦闘地名:鹿児嶋縣下庄内及都ノ城

  戦闘ノ次第概畧:二十四日攻撃ニ付当隊援隊ニテ長池村ブトコロ山ノ防

  禦線ヲ廿三日午前第六時引揚ケ吉ノ元村ニ一宿同日夜十二時同村出発二

  十四日午前第十一時都ノ城ニ到ル暫時休憩同第七時是井川山ニ防禦線ヲ

  設ク

 柳生隊は左翼正面援隊。

  C09084814900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0641・0642

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第三大隊第壱中隊長陸軍大尉齋藤徳明㊞

  総員:九拾人 

  戦闘日時:十年七月廿四日   戦闘地名:庄内及都ノ城

  戦闘ノ次第概畧:廿三日午後第拾壱時荒内村出発同廿四日午前第九時都

  ノ城ニ至リ午後第三時中霧島ニ引揚ケ大哨兵ヲ配致ス

  備考敵軍:廿三日午後第拾壱時荒川内村出発攻撃隊後衛トシテ上庄内ニ

  進ム廿四日第八時同所陥レ直ニ攻撃隊トナリ都ノ城ニ進入ス午後第三時

  中霧島ニ引揚ケ大哨兵ヲ配致ス

 齋藤隊は左翼攻撃兵。

  C09084815000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0643・0644

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第三大隊第二中隊長陸軍大尉福島庸智㊞

  総員:九十三 

  戦闘日時:十年七月廿四日   戦闘地名:庄内

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時荒川内防禦線ヲ発シ荘内ニ進入敵ヲ見ル直

  ニ放撃シテ之レヲ去ラス續テ諸隊ト共ニ都城近傍ニ至ル

  傷者:下士卒一   備考我軍:傷者一等兵卒飯嶋辰五郎

 福島隊は左翼攻撃兵。

  C09084815100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0645・0646

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第三大隊第二中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  総員:百拾九名 

  戦闘日時:十年七月二十四日   戦闘地名:鹿兒島縣下日向国諸縣郡

  左内ヨリ都ノ城ニ到ル

  戦闘ノ次第概畧:午后第十二時荒河内村發ノ軍翌二十四日午前第七時三

  十分頃諸縣郡庄内ニアル賊ノ背後ニ出テ喊ヲ揚ルヤ否激敷砲發突入スレ

  ハ賊軍狼狽本道ヨリ都城ヲ向ケ敗走ス我兵追撃午前第十一時都城ニ到ル

  賊大ニ迎☐ス既ニ乄再ヒ庄内ニ引揚ルノ命アリ午后第五時頃同所ニ着宿

  陣ス   傷者:壱名 

  我軍ニ穫ル者:銃三挺 劔一本 器械 刀拾壱本 糧 米藏四戸前 

  備考我軍:都ノ城追撃之節兵卒佐藤梅三郎深手 

  備考敵軍:都ノ城進入之節捕縛人 壱名 庄内侵入之節米藏四戸前硝石

  若干刀拾壱本銃三挺銃劔壱本ヲ得ル

 平山隊は左翼攻撃兵。庄内ニアル賊ノ背後ニ出テの背後は下写真のように集落の後ろの山のことだろう高野和人1989「西南戦争戰袍日記写真集」)。さらに向こうにうっすらと見えるのは高千穂峰と御鉢である。

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  C09084815200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0647・0648

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉矢上義芳㊞

  総員:八拾九名 

  戦闘日時:十年七月二十四日   戦闘地名:庄内辺

  戦闘ノ次第概畧:攻撃隊ノ命ヲ蒙リ二十三日午后第十二時荒河内ヲ発シ

  渡次及シ路河内村等ヲ経テ敵ノ后背ニ出テ庄内ヲ攻畧シ遂ニ都ノ城ヲ陥

  ル茲ニ於テ退軍ノ命ヲ受ケ庄内ニ退キ中木村ニ於テ大哨兵

  我軍ニ穫ル者:俘虜 未詳一名

 矢上隊は左翼攻撃兵。

  C09084815300「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0649・0650

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉武田信賢㊞

  総員:百二十七 

  戦闘日時:十年七月廿四日   戦闘地名:鹿児嶋日向国庄内

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第十二字荒川内雷発渡次ヲ経迂廻シテ庄内ニ

  至リ同第七字開戦走賊ヲ追撃シテ都之城ニ至ル同午后四字庄内ニ引揚舎

  営

 武田隊は表中に記載なし。

  C09084815400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0651・0652

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊 陸軍大尉岡 煥之㊞

  総員:百貳拾壱人 

  戦闘日時:十年七月二十四日   戦闘地名:日向国庄内

  戦闘ノ次第概畧:二十三日午后第九時攻撃隊トシテ吉ケ谷二軒屋ヲ発シ

  庄内ノ前山ニ於テ賊壘ヲ拔キ尾撃シテ庄内ニ入ントスルニ賊一時支テ去

  ラス依テ援隊ノ来ルヲ俟テ攻撃百方遂ニ賊支フヿ能ハスシテ敗走スルヲ

  以テ庄内ヲ経テ都ノ城ニ向進ス☐☐半途ニ乄二百余ノ残賊庄内ニ立入ス

  ルニ☐因テ進撃スルニ得ル所ノ賊三人余ハ散走シテ跡ナシ☐☐庄内ニ引

  揚ケ今屋村ニ大哨ヲ占ム   敵軍:死者二人

  我軍ニ穫ル者:俘虜 下士卒一人 備考我軍:此日費ス処ノ弾薬三千余

 岡隊は右翼攻撃兵。吉ケ谷は溝ノ口の西方7㎞にあり、吉ケ谷川流域の集落である。上流約1.3㎞に赤阪がある。庄内ノ前山ニ於テ賊壘ヲ拔いたのは関之尾の山かも知れない。最後は今屋村で大哨兵している。

 C09084815500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0653・0654

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第二中隊 陸軍大尉沖田元廉㊞

  総員:八拾六名  戦闘日時:十年七月二十四日  戦闘地名:萩ノ尾

  戦闘ノ次第概畧:昨午后九時出發萩ノ尾山頂ノ賊塁ヲ擊破シ走ルヲ追テ

  庄内☐街道ニ向テ進入将ニ庄内ニ入ラントスルニ当リ賊能ク防戦シテ走

  ラス我兵モ亦停止シテ戦フ激戦凡一時間遂ニ之ヲ破ル此時午前六時ナリ

  尚進ンテ都ノ城ニ入リ是ヨリ再ヒ庄内ニ帰リ此夜髙城街道ニ於テ守線

 沖田隊は右翼攻撃兵。同時刻に出発した後述の佐々木隊(0658)は24日午前1時に萩ノ岡に向かい6時に破っている。沖田隊の攻めた萩ノ尾と萩ノ岡は同じ場所の可能性がある。先の伊藤隊報告0613では関之尾の山を午前5時半に破っているので時間ではほぼ同時とみてもよく萩ノ尾のことか。その後、庄内に入ろうとしたときも戦闘があり、萩ノ尾は庄内の傍ではないと分かる。

C09084815600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0655~0657

  第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉山本 弾㊞

  総員:百五名 戦闘日時:十年七月廿四日   戦闘地名:日向国溝口

  戦闘ノ次第概畧:七月廿四日午前第三時開戦溝口攻撃ニテ川ヲ渉リ我兵

  山ノ麓ニ撒布シ賊塁江猛烈突入塹壕ヲ陥レ烈シク発放ス稍在テ我軍左翼

  ノ進ムニ従ヒ賊終ニヲ棄テ大敗走ル此機ニ乗シ進撃シ庄内ヲ経都ノ城

  迠尾撃スレノモ茲ニ於庄内江引揚ノ命アリ則庄内ヲ経樫木村ニ至リ守地ヲ

  設ク于時午后第九時ナリ

  我軍ニ穫ル者:銃スナイトル一挺 ヱンヒール一挺

 山本隊は右翼攻撃兵。出発地は書いていないが溝ノ口の西方を出発したのである。下図のように溝ノ口村の南側の川を渡り、村背後の山の麓から攻撃したのだろう。

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  C09084815700「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0658・0659

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木 直㊞

  総員:八拾人  戦闘日時:十年七月二十四日   戦闘地名:萩ノ岡

  戦闘ノ次第概畧:二十三日午后九時吉ケ谷ヲ發シ溝ノ口江集會二十四日

  午前一時途ヲ分ツテ萩ノ岡ニ向フ拂暁突然彼ノ壘下ニ至リ静粛散兵ニ配

  布シテ進ム将ニ壘ニ達セントスルノキ彼ノ哨兵之ヲ暁ル仍テ吶喊放火シテ

  直ニ之ニ迫ル彼狼狽半ハ潰走スルモ猶八九名固ク壘ヲ守テ去ラズ我兵銃

  鎗ヲ以テ賊ヲ殪ス余賊悉ク走ル北ルヲ追テ数名ヲ斃☐舎ニ火ス于時午前

  第五時ナリ漸次左右ノ連絡ヲ保テ荘内ヨリ都ノ城ニ入ル

  傷者:下士卒壹人 敵軍:七人   我軍ニ穫ル者:銃五挺 弾薬六箱 

  備考我軍:喇叭卒森村喜平治負傷〇俘虜本営ニ護送ス〇銃并弾薬ハ悉ク

  破却ス外ニ刀貳本分取喇叭貳挺分取破却ス

 佐々木隊は右翼攻撃兵。溝ノ口に集会し午前1時に萩ノ岡に向かっている。丘の麓に集合し、それから萩ノ岡と呼ぶ山を攻撃したとも解される。

 次は25日の戦闘報告表である。

  C09084815900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0662・0663

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第三大隊第二中隊長陸軍大尉福嶌庸智㊞ 

  総員: 九十三 

  戦闘日時:十年七月廿五日   戦闘地名:志和知村

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時中霧嶌村発シ援隊トシテ志和知ノ地村辺進

  軍ス

 志和池という所が都城市下水流町にある。三本の道路が交差する丘陵があり集落が広がっており当時も要衝地だったと思われ、丘陵南端に志和池城跡がある。

  C09084816000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0664・0665

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  総員:九十一名 

  戦闘日時:十年七月廿五日   戦闘地名:志和知村辺

  戦闘ノ次第概畧:本日志和地村進撃ノ命ヲ奉シ午前第八時三十分中木村

  出発ス而ルニ賊退去シ一ノ弾薬ヲ費サスシテ志和地村ヘ達スルヲ得タリ

  同午后第二時ヨリ高城ヘ進軍半途ニ命ヲ奉シ再ヒ前同村ヘ引上ク于時午

  后第三時三十分ナリ

 

  C09084816100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0666・0667

  第三旅團名古屋鎭臺第六聯隊第一大隊第一中隊陸軍大尉平山勝全㊞

  総員:百拾九名 

  戦闘日時:十年七月廿五日   戦闘地名:鹿兒島縣下諸縣郡志和知村

  戦闘ノ次第概畧:午前第七時庄内村ヲ発シ中霧島村ニ至リ夫ヨリ志和地

  村ヲ経ヘ平原渡ヲ経ヘ既ニシテ退軍ノ命アリ志和地村ニテ宿陣ス此日援

  隊ナレハナリ

  我軍ニ穫者:降人未詳降参 三 銃 銃三挺 器械 刀七本 

  備考敵軍:銃三挺刀七本鹿兒島縣下諸縣郡志和地村ニ於テ得ル

 平原は志和池の東1㎞位の大淀川左岸に平原があり、そこから川を渡れば高城は目の前である。

  C09084816200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0668・0669

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長陸軍大尉齋藤徳明㊞ 

  総員:九拾人 

  戦闘日時:十年七月廿五日   戦闘地名:大牟田及ヒ鶴ケ久保

  戦闘ノ次第概畧:午前十時中霧島出発正午東霧島ニ至ル時ニ大牟田村賊

  兵退去之由故ニ道ヲ轉シ午後第五時三十分髙城ノ方向陣ノ岡ニ至リ守備

  ス

  備考敵軍:午前第拾時中霧島出発攻撃隊トシテ正午東霧島ニ至ル時ニ大

  牟田村ノ賊兵退去之由故ニ道ヲ轉シ髙城ノ方向陣ノ岡ノ賊塁ニ向テ進発

  ス午后第五時三拾分同岡ニ登リ所方ニ斥候ヲ出シ且ツ展望スルニ賊ノ壱

  兵卒ヲモ不見依テ其趣ヲ報告シ同ヲ守備ス

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 齋藤隊の進軍概略を上図に示す。陣ノ岡は場所不明だが、東霧島から高城までの間には標高196mの館山、その北側に標高221mの徳岡山という陣を置きそうな山があるのでここを陣ノ岡想定地とする。

  C09084816300「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0670・0671

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  総員:九拾貳名 

  戦闘日時:十年七月二十五日   戦闘地名:木ノ河内村近傍

  戦闘ノ次第概畧:明治十年七月廿五日午前第五時小ムレ村出發志和知大

  牟田之両村ニ向ケ攻撃之處賊兵已ニ悉ク退散スルヲ以テ漸々岩満村ニ進

  入ス此日開戦セス

 前日最後の同隊は中霧嶋ヨリ牛ノス子ニ至ル本道小ムレ村ニ至リ防禦スだった。小ムレ村の場所は分からなかったが、中霧島から牛ノ脛への途中だろう。

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  C09084816400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0672・0673

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第一中隊長大尉瀧本美輝㊞

  総員:九十三人 戦闘日時:十年七月廿五日   戦闘地名:大牟田

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時是川内村大哨兵引揚ケ直ニ発軍黑池村ヲ経

  テ大牟田ニ進軍命令ニ由リ午後第七時頃岩満村ニ至リ又☐田午后村ニ

  テ援隊トナリ宿陣ス

 下是位川内しもじいかわうちが中霧島の北側を流れる丸谷川の上流4.6㎞付近にある。黒池村は場所不明。

 C09084816500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0674・0675

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第三中隊長大尉柳生房義㊞ 

  総員:百〇貳人 

  戦闘日時:十年七月二十五日   戦闘地名:鹿児嶋縣下志和知村及下

  水流村

  戦闘ノ次第概畧:廿五日下水流村賊攻撃ノ命ヲ受ケ防禦線ヲ引揚ケ志和

  知村ニ至リ小休午后第一時出発斥候ヲ出シ捜索セシ所賊壱人ノアルナシ

  直ニ進入天神山并岩本村防禦線ヲ設ク 我軍ニ穫ル者:糧 味噌七拾樽 

 柳生隊は前夜は是井川山ニ防禦線ヲ設クという状態だったので、瀧本隊の近くに配兵していたらしい。ここから8.5㎞程東方やや南に志和池村がある。上水流の中心部が志和池らしい。その東側に下水流村があるので、志和池から斥候を下水流村に派遣したのである。天神山・岩本村は場所不明。

 C09084816600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0676・0677

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊中隊長南小四郎代理中尉伊藤一

  幸   総員:附属合員百拾六名 

  戦闘日時:十年七月廿五日   戦闘地名:山ノ口

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時安永ヲ引揚同五時進軍野々美谷村前川ヲ渡

  リ髙城ニ入ル髙城御茶園畑ヲ防禦シタリ   備考我軍:此日死傷ナシ

 安永は庄内集落北側背後の山になっている場所で、山城跡がある。野々美谷村は庄内の東北東5.4㎞、大淀川の左岸にある。山ノ口は都城から東側の宮崎市に向かう谷道の西側の入口であり、ここから山間部に入る入口という意味だろう。

 C09084816700「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0678・0679

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊中隊長大尉竹田實行 

  総員:百貳拾壱名 

  戦闘日時:七月廿五日   戦闘地名:髙城

  戦闘ノ次第概畧:七月廿五日髙城ノ賊攻撃ノ爲メ午前第五時柏ノ尾村ヲ

  発シ本道ヲ進ム賊ハ今朝ヨリ退去シテ居ラズ第十一時髙城ヘ進入賊情ヲ

  探偵シ午后五時頃髙城横馬場ノ先キニ大哨兵ノ凖備ヲナス

  我軍ニ穫ル者:俘虜 未詳三十人 

  備考敵軍:俘虜ノ三十人ハ何レモ人夫ナリ

 柏ノ尾村は場所不明だが、柏ノ木という集落が高崎川流域にある。吉都線高崎新田駅から2.4㎞北側である。おそらく流域を通る道が本道であり、ここだろう。高城は庄内の東北東10.7㎞付近にある。

 C09084816800「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0680・0681

  第三旅團近衛歩兵第二連隊第一大隊第四中隊大尉湯地 弘 

  総員:五拾五名   戦闘日時:七月二十五日   戦闘地名:高ノ城

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時◦下庄内発程先頭斥候ト乄高城ニ進軍途中高

  木町ニ於ヒテ賊兵ノ斥候三十名斗リ來ル吾兵之ヲ一見シ直ニ撒兵ヲ布キ

  砲発賊乍チ退散於之吾兵本隊ヲ俟テ古田少佐ノ命ヲ受ケ更ニ攻擊斥候髙

  城ニ到ル此地残賊四十名斗リ依テ発砲賊◦(◦乍散乱)午前第十一時高ノ

  城ニ入ル 敵軍総員:七拾名餘リ

  我軍ニ穫ル者:下士卒二 銃一

 高城の手前2.3㎞付近に高木がある。

 C09084816900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0682・0683

  第三旅團歩兵第拾二聨隊第二大隊第二中隊長大尉沓屋貞諒㊞

  総員:百二拾九人   戦闘日時:七月二十五日   戦闘地名:高城

  戦闘ノ次第概畧:二十五日午前第五時樫野村ヲ發シ第拾壱時頃高城江到

  リ同處ヲ畧

 前日の沓屋隊は都ノ城江繰込午後第四時庄内ニ移ルとあり、庄内中心部から2.5㎞東側に菓子野集落があり、ここでいう樫野村である。少し西に今屋がある。

 C09084817000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0684・0685

  第三旅團歩兵第六聨隊第三大隊第二中隊長栗林頼弘代理陸軍中尉中村 覺

  ㊞  総員:将校以下百十五名 

  戦闘日時:七月廿五日   戦闘地名:髙城

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第六時庄内安永村出発髙城ヲ攻撃ス然レノモ途

  中更ニ戦闘セスシテ該地ニ達ス時ニ午前第十一時三十分頃ナリ

 安永から高城までには薩軍はいなかった。次は29日の戦闘報告表である。

  C09084817100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0686・0687

  第三旅團歩兵第三聨隊第三大隊第壹中隊中隊長陸軍大尉竹田實行㊞ 

  総員:百貳拾壱名 

  戦闘日時:七月廿九日   戦闘地名:浦ノ岩村ヨリ髙岡街道

  戦闘ノ次第概畧:七月廿八日午前七時髙城ヲ発シ午后四時去川ニ繰込ミ

  仝六時川ヲ渡リ中坂ノ上ニ防禦ノ凖備ヲナヲス翌廿九日髙岡攻撃ノ為午

  前七時中坂ヲ発シ仝八時浦之名村ニ至ル時ニ髙岡ノ賊ハ第二旅團ノ攻撃

  ニ依テ退去ス仝十時髙岡ニ繰込ミ宿陣ス

 高岡町は直線距離で測ると都城市の北東35.2㎞、高城の東北東23.6km、高原町の東28.5㎞、宮崎市の西北西13㎞に位置する。竹田隊は9時間で高城から高岡町去川に移動しているが、その経路は不明。去川は大淀川右岸にある。川が蛇行した跡地にできた部分で、中央に削り残しの小山が残る。ここで左岸に渡り中坂の山上で守備につき、翌29日下流の浦之名まで1時間で移動した。下流に高岡中心部がある。

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  C09084817200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0688・0689

  第三旅團近衛歩兵第二連隊第一大隊第四中隊大尉湯地 弘㊞ 

  総員:五拾五名 

  戦闘日時:七月二十九日   戦闘地名:高岡

  戦闘ノ次第概畧:援隊ト乄早朝岩屋ケ野ヲ出発高𦊆ニ入ル

 岩屋野は標高229mにある。高岡までは地形から考えて大部分大淀川の支流沿いに進んだと思われる。下図の赤い道路と重複するだろう。

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 C09084817300「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0690・0691

  第三旅團歩兵第六聨隊第三大隊第二中隊中隊長栗林頼弘代理陸軍中尉中

  村 覺㊞   総員:将校以下百十五名 

  戦闘日時:七月廿九日   戦闘地名:髙𦊆

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第七時去川村ヲ出発援隊トシテ髙𦊆ニ至ル途

  中戦闘セズシテ該地ニ達ス時ニ午前第十一時前ナリ

 去川から高岡まで4時間弱かかっている。次は7月30日である。

  C09084817400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0692・0693

  第三旅團歩兵第八聨隊第壹大隊第三中隊中隊長南小四郎代理中尉伊藤一

  幸   総員:附属合員百拾六名 

  戦闘日時:七月三十日   戦闘地名:髙𦊆

  戦闘ノ次第概畧:此日午後第六時髙岡郷庚申塚山歩哨ヲ引揚倉𦊆ヘ進入

  此夜同地渡舩塲ヲ前ニシ露営ス   我軍備考:此日死傷ナシ

 庚申塚は場所不明。

  C09084817500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0694・0695

  第三旅團歩兵第拾二聨隊第二大隊第一中隊長大尉沓屋貞諒㊞

  総員:百二拾九人   戦闘日時:七月三十日  戦闘地名:※空白

  戦闘ノ次第概畧:三十日午后第拾時高岡出發ニテ倉岡江到リ露営ス

 当時第二旅団は霧島山の北側を東に進み小林・高原を攻略し、30日午前3時高岡の東にあたる倉岡に到着した。同団は前面の本庄川岸に塹壕を築造し対岸の薩軍と交戦していたが、第三旅団の一部がこの日到着し始めたので倉岡は第三旅団に譲り佐土原に向かった。

 次は7月31日である。

  C09084817600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0696・0697

  第三旅團歩兵第八聨隊第一中隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  総員:九十三名   傷者:壹名

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:倉岡ヨリ佐土原ニ至

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第六時三十分倉岡川向岸ノ賊塁ニ對向開戦ス

  而ルニ彼レ河岸ニ沿テ塁ヲ築キ防禦スルヲ以テ我カ兵進ムヿ能ハス故ニ

  彼レ右翼森林ヨリ急襲且倉岡川渡渉シテ進撃ス茲ニ於テ彼レ(※二字分空

     白)村ヲ経テ退去ス尾撃進軍ノ際数ケ處ノ山頂ニ彼レ固立防戦スト雖ノモ

  我カ猛烈ヲ恐レ逃散遂ニ佐土原ニ達スルヲ得タリ于時八月一日午前第二

  時三十分ナリ 

  我軍ニ穫ル者:砲 山砲壱門 銃 スナイトル銃壱挺 弾薬 山砲弾薬壱凾

  器械 刀七腰 備考我軍:一傷者下士卒一名ハ壱等卒藤原直吉重傷入院

 倉岡川という川はないので、大淀川左岸に合流する本庄川と呼ぶ川のことである。南側の大淀川を渡ったのではなく、東側の支流を渡ったのである。薩軍は本庄川岸に沿い台場を築いて防禦していたので、官軍は渡河できなかった。対岸にある村の直前に二字分の空白があるのは、当時その村名を知らなかったので後で書き入れようとしたのだろう。乃木希典日記に同じ例があったのを思い出す。彼レ右翼森林ヨリ急襲の意味は、敵にとっての右翼、つまり官軍の左翼方向森林から急襲したということ。後の出てくる報告表でもいくつか同様の記述がある。

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    C09084817700「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0698・0699

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聨隊第壹大隊第貳中隊陸軍大尉平山勝全㊞  

  総員:百二拾壹名  傷者:壹名

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:鹿兒島縣下日向国諸縣郡倉岡

  村ヨリ佐土原ニ至ル

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時倉岡村発軍第六時金﨑川ニ於テ開戦既ニシ

  テ賊敗走我軍進撃午后同処ニ於テ露営第十時頃佐土原突入之命アリ同第

  十二時右同処ニ至リ要処ヲシム此日援隊ナレハナリ 

  我軍ニ穫ル者:降人 未詳拾壱名 俘虜 未詳壱名 器械 刀拾貳本

  銃劔壱本   ピストル銃壱挺 

  備考敵軍:降参人拾壱名 右者日向國諸縣郡瀬戸口村并ニ髙城村ニ於テ

  得ル 刀 拾貳本 銃劔壱本 ピストル銃壱挺 右者七月三十一日諸縣

  郡佐土原駅ニ於テ得ル  俘虜人 壱名 右者七月三十一日柏田村ニ於

  テ得ル

 前記では倉岡川とある川と大淀川との合流点の北側上流2kmに金崎という集落があり、平山隊はこの付近で渡河したので金崎川と書いたのだろう。午前5時倉岡発で6時に金崎の本庄川岸で銃撃を始め、敵が退去した場所に露営した。午後10時頃に佐土原突入の命令があり、8月1日0時に到着して要所を守備した。

 

  C09084817800「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0700・0701

  第三旅團歩兵第六聨隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠㊞  

  総員:百二拾壹名  傷者:六拾一名

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:鹿児島縣下日向国兒湯郡

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時頃倉岡ヲ発シ綾川ヲ徒渉シ進撃前岸ノ賊塁

  ヲ陥ル直ニ尾撃ス彼亦佐土原本道ノ山上ニ據リ防戦ス我兵突進是ヲ拔キ

  追撃以テ佐土原ニ入ル要地ヲ占領スル午後十二時頃ナリキ 

  我軍ニ穫ル者:銃二 備考敵軍:スパンセル銃一挺 カラビヱン銃一挺

 倉岡川とか金崎川とされた本庄川上流に綾町がある。綾川は本庄川のことである。戦闘報告の山や川の名が特に根拠なくその付近の地名から適当に記されていることが理解できる。佐土原到着は平山隊と同じ12時だった。

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  C09084817900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0702・0703

  第三旅團歩兵第十一聨隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉武田信賢㊞

  総員:百三十五名  傷者:六拾一名

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:鹿児縣日向国倉岡

  戦闘ノ次第概畧:七月三十日午后第十時髙岡ヲ発シ同丗一日午前第二時

  倉岡江着小憩同第四時同所ヲ発シ倉岡前面ヨリ左方江迂廻シ同第六時川

  ヲ隔テ開戦ス終ニ川ヲ徒渡シ追撃シテ同午后第十一時三十分佐土原ニ進

  入茲ニ防禦ス

  我軍ニ穫ル者:弾薬七箱   備考敵軍:一弾藥七箱内四箱ハ大砲弾薬

  残リ三箱ハ小銃弾藥進撃ノ際キノハギ村ニ於テ得ル

 倉岡前面の本庄川を渡る前に左に移動して渡河したという。金崎付近で渡河した平山隊他と同じである。佐土原到着は前掲2報告よりも30分早い11時半だった。

  C09084818000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0704・0705

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聨隊第三大隊第二中隊長陸軍大尉福嶌庸智㊞

  総員:九十六  

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:※空白

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時援隊トシテ倉岡ヲ発シ戦闘隊向岸ノ賊ヲ拂

  ニ依テ直ニ川ヲ徒渉シテ前進ス午後佐土原ニ向ヒ進入妙道寺村邉ニ於テ

  残賊ヲ見ル我カ斥候ト遊撃隊斥候ト共ニ之ヲ追走ス同第三時頃佐土原ニ

  入テ防禦線ニ就ク

 妙道寺村は場所不明。

 C09084818100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0706・0707

  旅團歩兵第九聨隊第三大隊第三中隊長陸軍大尉本城幾馬㊞ 

  総員:八拾名  

  戦闘日時:明治十年七月三十一日   戦闘地名:日向国児湯郡佐土原

  戦闘ノ次第概畧:七月三十一日午前三時倉岡ヲ發仝三時三十分開戦直ニ

  胸壁ヲ乗取リ尚猛烈ニ發射ス賊破レテ木山ニ退ク依テ山嶽ヲ迂回シ背ニ

  出テ終ニ打拂ヒ尚進テ佐土原ヲ取ル此時弾薬七百ヲ費ス

 本城隊の開戦時間は午前三時半とあり、他よりも二時間半早い。

 C09084818200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0708・0709

  第三旅團歩兵第三聨隊第☐大隊第一中隊中隊長陸軍大尉竹田實行㊞  

  総員:百貳拾壱名  

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:倉岡ヨリ宮崎街道

  戦闘ノ次第概畧:七月三十日午后八時髙岡ヲ発シ仝夜十二時過キ倉岡ニ

  繰込ミ露営ス翌三十一日午前四時同所ヲ発シ赤井川ヲ隔テ本道ノ左ニ兵

  ヲ配布シ直ニ開戦裂シク発砲ス仝七時賊敗走ニ依テ川ヲ渡リ之ヲ追撃シ

  テ仝十時宮崎ニ進入夫ゟ同所ヲ引揚ケ午后六時青水村ニ至ル

 赤井川の由来が分からないが、川を隔て本道の左で開戦し、午前7時に向岸に渡っているのでこの川も本庄川だろう。宮崎は大淀川の左岸が中心である。宮崎に進軍後引揚げ北側の青水村に到着している。

  C09084818300「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0710・0711

  第三旅團大阪鎭臺豫備砲兵第二大隊徒歩隊陸軍大尉村井忠和㊞

  総員:七拾四名  

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:日向国宮崎郡嵐田川

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時髙岡ヲ發シ午前第二時倉岡江着賊ノ景况ニ

  因リ暫時休憩午前第三時三十分同村左方ノ山上ニ散布シ嵐田川ヲ隔テヽ

  賊塁ヲ射撃シ而乄山ヲ降テ川ニ沿ヒ尚左方ニ進ンテ嵐田村塹壕ヨリ暫時

  銃撃シ遂ニ川ヲ徒渉シテ賊塁ヲ拔キ直ニ廠舎ヲ放火シ木ノ脇村ニ到リ道

  ヲ宮嵜ニ取リ午后零時三十分着ク命ニ因テ池内北方村禦線ヲ守ル

  我軍ニ穫ル者:銃 エンヒール一挺

 村井隊は左翼を進行した砲兵隊で、関連地図を次の報告の後に掲げる。

  C09084818400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0712・0713

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞  

  総員:九拾三名  

  戦闘日時:明治十年七月三十一日 戦闘地名:倉岡ヨリ佐土原近傍マテ

  戦闘ノ次第概畧:明治十年七月三十一日午前第十二時三十分高岡出發倉

  岡ヨリ佐土原ノ方ニ向ケ攻撃同十一時過生瓜村ノ内久保村ニ至リ同所山

  上ニ警備ス此日援隊タルヲ以テ交戦セス

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 竹添のすぐ北に久保がある。

     C09084818500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0714・0715

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長大尉瀧本美輝㊞

  総員:九十五人   戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:倉岡

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時倉𦊆ヲ発シ嵐田川ヲ渉リ平松村進入亦生瓜

  野村ヲ経テ村ニ至ル然ルニ引揚ク命ニテ池ノ内村ヨリ樫葉田村ヲ経亦

  前ノ生瓜野竹シノ村ニリ大哨兵

 平松は窪の西800ⅿ付近にある。樫葉田村は倉岡から2.3㎞下流左岸沿いの柏田村だろう。

  C09084818600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0716・0717

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第壱中隊長陸軍大尉齋藤徳明㊞

  総員:八拾七名   戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:赤井川

  戦闘ノ次第概畧:午前零時江田村出発同第四時四拾分倉岡ニ至リ直ニ援

  隊トシテ佐土原口ニ向ケ進軍シ午后第三時瓜生野丘ニ至リ同所ヲ守備ス 

  我軍ニ穫ル者:銃 インピール銃 一挺

 

  C09084818700「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0718・0719

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊長大尉南小四郎代理中尉伊藤一

  幸㊞   総員:附属合員百拾四名   傷者:下士卒二名   

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:金﨑

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時攻撃隊ノ命ヲ受ケ直ニ赤江川々提ニ兵ヲ散

  布砲火ヲナシ暫時ニシテ赤江川ヲ陥リヲホセマチ村ノ賊塁ヲ悉ク拔キ取

  ル時ニ午前七時二十分夫ヨリ直ニ間道ヲ取リ宮﨑ニ入リ已ニシテ兵ヲ引

  揚ケ青水村ニ至リ援隊トナル  我軍ニ穫ル者:銃 小銃拾挺 弾薬 

  砲弾拾発入三箱 仝六発入一箱 小銃弾藥四箱管一節(※管・節は不明確) 

  器械 刀壱本 糧 玄米二十二俵 味噌十樽 ラッキョウ一樽

  備考我軍:傷者軍曹丸山吉枩 二等兵卒堀 清藏

 ヲホセマチ村は柳瀬の北東、本庄川左岸にある大瀬町である。大瀬に薩軍の台場があったと分かる。他の戦記で小瀬町と書かれることがあるのはこの大瀬だろう。熊本隊が守っていた(古閑俊雄「戰袍日記」)

  C09084818800「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0720・0721

  第三旅團歩兵第十聯隊第壹大隊第三中隊大尉柳生房義㊞

  総員:凡百三十名 

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:鹿児嶋縣下寺地村

  戦闘ノ次第概畧:宮﨑攻撃嵐田川向岸ノ賊ヲ拔キ寺地村ヲ歩渡シ尾撃佐

  土原ニ達ス   敵軍総員:凡百名

 嵐田は高岡の北東2km付近にあり、倉岡への通路上ではない。官軍左翼として別の進路を通ったのである。嵐田川というのも存在せず、嵐田の前面を流れる本庄川のことである。寺地村は場所不明。

  C09084818900「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0722・0723

  第三旅團近衛第二連隊第一大隊第四中隊大尉湯地 弘 総員:五十五名  

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:倉𦊆

  戦闘ノ次第概畧:午前四時頃佐井川ヲ隔テ激烈砲撃同十一時過同川ヲ渡

  リ午后一時頃宮嵜江進入ス直ニ雨ケ辻山江戦線ヲ配附ス

  我軍ニ穫ル者:銃 七連発 一

 雨ケ辻山は場所不明。

  C09084819000「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0722・0723

  第三旅團近衛歩兵第二連隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉大西 恒㊞  

  総員:将校以下九拾七名  

  戦闘日時:七月丗一日   戦闘地名:倉岡ヨリ宮﨑

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第三時ノ開戦ニテ当隊倉岡本道ノ左翼ニ迂回

  シ賊ト赤井川ヲ隔テ戦フ我軍勇進猛闘遂ニ赤井川ヲ渉リ賊塁ヲ乗取ル賊

  大ニ潰走ス我軍進テ終ニ宮﨑ヲ攻落シ轉シテ哨線ヲ池内ニ定ム

  備考我軍:本日死傷ナシ

 

  C09084819100「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0724・0725

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長陸軍大尉安満伸愛㊞

  総員:八拾五名   戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:倉岡

  戦闘ノ次第概畧:援隊トシテ宮﨑ノ賊ニ向フ賊逃走スルニ及ンテ追テ池

  内村ニ至リ命ニ依リ同村山上ニ大哨ヲ布ケリ  

  備考我軍:一死傷ナシ 一壱ノ弾薬ヲ費サス

 本庄川を渡った後に宮崎に向かうものの再び北上する部隊がいくつかあるが、逃走する薩軍を追っていたのである。

   C09084819200「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0728・0729

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長沓屋貞諒㊞ 

  総員:百二十九人  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:綾川

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時開戦午前九時賊敗走即時追撃午后第一時宮

  﨑ニ至ル夫ヨリ午后第五時青水村ニ防禦ス   

  備考我軍:放ツ處ノ弾薬七千發

 午前4時に開戦し午前9時に薩軍が敗走、午後1時宮崎に着く。午後5時に青水村に着いて防禦している。青水はJR日豊本線蓮ヶ池駅の北西1.3㎞にその名の標高57mの小山がある。

   C09084819300「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0730・0731

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長栗林頼弘代理陸軍中尉中村

   覺㊞

  総員:将校以下百十五名  

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:宮﨑

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第三時過キヨリ倉岡ノ河岸ニ散布シテ賊塁ヲ

  砲撃ス暫クシテ向岸ノ舟ヲ取リ来リ先渡シテ賊ヲ逐フ賊皆ナ走ル急ニ其

  ノ北クルヲ追ヒ尾撃シテ宮﨑ニ進入ス時ニ午前第九時前ナリ  

  我軍ニ穫ル者:俘虜人夫四名 銃 七連銃一挺 ヱンペール銃一挺 弾薬

   弾薬拾二箱及ヒ弾丸三箱 器械 鉄百六十八俵 銅四十二俵 錫二俵

   弾五俵 糧 玄米五百三拾五俵 

  備考我軍:尾撃中宮﨑江平町ニ至ルノキ賊米穀弾薬等ノ運ヒ切ラザルヲ以

  テ自ラ火ヲ掛ケテ退ク此時玄米并ニ弾薬等ヲ分取リ同地大田久冨谷口休

  市荒川甚藏三名方ノ土藏ヘ封入シテ預ケ置ク

 砲撃とあるのは銃撃の意味である。向岸の舟を取って来て、他の部隊に先駆けて対岸に渡った。江平は宮崎市内の宮崎神宮の南に接している。倉岡からすれば初めに市街地入る北西部である。

  C09084819400「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0732・0733

  第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊陸軍大尉山本 弾㊞

  総員:九十六名  戦闘日時:七月三十一日  戦闘地名:日向国倉岡

  戦闘ノ次第概畧:七月丗一日午前第五時開戦ニテ倉岡攻撃我兵同所山上

  ニ配布シ賊塁ト對戦賊守地ヲ棄テ走ル則兵ヲ纏メ渡川シ宮﨑江追撃同所

  且鼻ケ島ヲ経池内南方村山ニ防禦線ヲ設ク

 青水の南1.4㎞付近に花ケ島町があり、その北西側に南方町と池内町がある。

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  C09084819500「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0734・0735  

  第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第二中隊陸軍大尉沖田元廉㊞

  総員:八拾五名  

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:赤江川前岸

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時半倉岡ヲ発シ第四時過キ赤江川前岸ニ於テ

  開戦凡ソ二時間余第六時過キ前面ノ浅瀬ヲ渉リ進撃賊敗走佐土原口進撃

  ノ処命ニ依テ宮崎迠進撃續テ青水村迠進軍此夜漸☐☐山ニテ守線

 後掲の石川隊報告で判明する通り赤江川は本庄川である。対岸へは浅瀬を渉ることができたのである。

  C09084819600「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0736・0737

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊陸軍大尉佐々木直

  総員:七十九人   戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:倉岡

  戦闘ノ次第概畧:拂暁倉岡ヲ發シ本城川ヲ挟テ戦フ彼我共ニ放火暫時彼

  半ハ走ト雖尚數名塁ニ拠テ去ラズ因テ直ニ川ヲ渡リ吶喊塁ニ迫ル彼辟易

  悉佐土原ノ方向ニ走ル逃ルヲ逐テ数町ヲ進ムニ彼敢テ防禦ノ勢ナシ因テ

  進路ヲ変シ宮﨑ニ入ル于時午前第十一時三十分ナリ

 

  C09084819700「明治十年自七月至九月 戦闘報告表 第三旅團」0738・0739

  第三旅團大坂鎭台豫備砲兵第二大隊第壱小隊右分隊長陸軍中尉石川髙宗

  ㊞ 

  総員:三十五名   戦闘日時:七月三十一日   

  戦闘地名:鹿児島縣日向国倉岡ニ於テ

  戦闘ノ次第概畧:午前四時柳瀬町赤江川渡舩塲ノ提坊ニ山砲弐門ヲ向岸

  ノ賊塁ヲ對備ス午前四時三十分開戦前面ノ賊塁ヲ射撃ナスヤ背後ノ藪ニ

  拠リ暫時防クト雖ノモ砲撃ノ劇シキ故ニ支ユル不能賊銃火止ム之カ為メニ

  攻路ヲ開ク時ニ午前七字三十分ナ

 柳瀬は倉岡の北東に隣接する集落で、本庄川右岸下流域に位置する。赤江川というのが本庄川だと分かる。ここに渡船場があったのである。午前4時半から四斤山砲2門で対岸を砲撃した結果、午前7時半に敵が沈黙し進撃路が開けた。

  C09084819800「明治十年自七月至九月戦闘報告表 第三旅團」0740・0741

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長大尉岡 煥之㊞

  総員:百拾五人  

  戦闘日時:七月三十一日   戦闘地名:鹿児島縣日向国倉岡

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時頃倉岡防禦線ニ至リ屡〃狙撃シ后チ渡舟塲

  ヲ越ヘ本道ヲ進ミ宮﨑ニ進シ夫ヨリ法寺妙青水村ノ前山ニ大哨兵ヲ占ム

  本日負傷ナシ

 岡隊は柳瀬の渡船場から渡河したのだろう。これを宮崎市街地への本道を称したことが分かる。

 7月の戦闘報告表はここまで。それらを一覧表にしてみた。黄色は開戦時間、赤は宮崎進入時間を示す。31日、官軍は高岡から北東に進んだ部隊と東方の倉岡から進んだ部隊とがある。官軍は本庄川を越えた後、一部の薩軍を追い宮崎市に進むが、薩軍がすぐに北側の佐土原に移動したので官軍は宮崎からやや北側に引き返す。そのため佐土原に進軍した部隊と、青水・池内・北方・南方・雨ケ辻山・久保・生瓜野で守備についた部隊とに分かれる。

  表の字が小さく見にくいかもしれない。下記のように「戰記稿」では午前3時半開戦とするが実際三時半に開戦したのは村井隊くらいである。他は4時開戦が多い。6時台に開戦した矢上・平山・井上・武田の各隊もあるが時間差があったのか、記述が不正確なのか分からない。

官軍側の「西南戰袍誌」の31日の記事を掲げる。

   七月三十一日晴 午前三時三十分開戰、嵐田川又赤井川とも云ふを挾で

  對岸の敵を攻撃す。漸次川岸に沿ふて戰線を左右に擴張し哄聲萬雷の鳴

  動する如し。其勢甚だ旺盛なりと雖殆んど渡河の術なきに窮するとき、

  中尉中村覺振て川を渡んと欲し、先づ部下游泳を善くする者をして對岸

  に至らしめ小舟を奪ひて自ら若干の部下を率ひ之に乗り、彈丸雨注の下

  を侵して向岸に達し賊中に闖入す。續て警視隊も川を渡て進む。此狀を

  觀たる沿岸の諸隊薺しく徒渉し或は游泳し以て激しく攻撃す。賊支ふる

  能はずして潰走す。我兵尾撃して遂に宮崎に至る。宮崎の賊も飫肥地方

  より第四旅團に、倉岡地方より我旅團の攻撃を受け、是又支る能はずし

  て退走す。我旅團の一半即ち川村少佐の率ゆる隊は宮崎に入らずして佐

  土原に向ふ、一半宮崎に入るの兵も追撃途中日沒して池内村に至て止る。

  負傷下士一名兵卒二名。我軍に得たる小銃彈藥銅鐵及玄米五百俵あり。

 倉岡前面の本庄川を渡った後、第三旅団兵は佐土原に向かう部隊と宮崎市に進入する部隊とに分かれた。宮崎に進んだ者はその後池内村に引き返しているが、これは第三旅団の右翼を進んだ第四旅団・別働第三旅団が大隅半島を北上し宮崎市に充満していたためである。