西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 6月の1 

 5月25日以来戦闘記録のなかった第三旅団だが、6月1日には薩軍の状態を探るため久木野へ向け一分隊を偵察に出し、さらに大関山の敵状を観察しようと試しに砲撃した。

C09084893800「第二号 自五月至六月來翰綴 第三旅團参謀部」0368

     第七百七十五号

  今朝第七時頃ゟ大西大尉之中隊一分隊攻襲偵察トシテ久木野ヘ向ケ発遣

  其大砲壱門ヲ以上木塲口正面ノ賊状ヲ探ランカ為メ七八発程試放為致

  候處各賊塁ニ五六名宛顕レ出テ我放火ヲ見分ス且我ゟモ時々為探小銃放

  火ヲ為ス是以テ考ル時ハ彼ゟ攻襲ノ勢ヒナシト𧈧ノモ現在依然トシテ旧ニ

  異ナル事ナシ就而ハ現今ノ處ニテハ我ヨリ攻撃スルノ目的相立兼候尚大

  西大尉斥候歸陣之上賊状詳細ヲ得ハ重而上申可仕候得共不取敢此段申進

  候也 

 

     六月一日  厚東陸軍中佐

  三浦陸軍少将殿

 三浦は5月上旬以来、佐敷に本営を構えていた。この日、6月1日、山田顕義率いる別働第二旅団は人吉市街に北・北東から突入し、市街地中央を西流する球磨川の北岸を占領した。佐敷および球磨川下流から進んでいた旧別働第四旅団(5月13日に別働第二旅団に合併し、名称は消滅していた)も球磨川下流域から人吉盆地に入った。薩軍球磨川の南側に退き、数日後には下図のような状態となった。赤字が官軍、黒字が薩軍である。やがて薩軍は鹿児島県大口盆地やその東側えびの市に入るものと、人吉盆地南東部・東部の山地に進むものとに分かれることになる。

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 6月2日、三浦少将は別働第三旅団の川路少将に水俣方面の敵状を問い合わせたところ変化がないという返答だったので、第三旅団から行動を起こすことにした。3日、旅団の揖斐大佐は古道村に出張本営を移し、大島・内藤・友田各少佐と中隊長達を集めて次のように攻撃部署を伝えた(「戰記稿」)。3日に攻撃しているので実際は前日には命令していたはずである。攻撃目標:右翼は城山(久木野の北西の山)を大島少佐の6個中隊(佐々木・瀧本・大西・矢上・井上)、(おそらく中央の)長左衛門釜を内藤少佐の3個中隊(安満・栗栖・岡)、大関山を同じく3個中隊(平山・下村・武田)、左翼の大関山と国見山を友田少佐の4個中隊と工兵2分隊(栗林・弘中・堀部・沓屋・内藤・石川)、その他若干(林・南・山村・町田)である。

 次に当日3日の戦闘報告表を掲げる。 

C09084789200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0126・0127

   第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉堀部久勝㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:肥後国芦北郡 

  我軍総員:一百ニ十六人  傷者下士卒1 賊軍死者1

  戦闘ノ次第概畧:六月三日午前第五時三十分開戦大関山ヲ攻擊援隊トシ

  テ戦十文字口ヨリ進入攻擊隊戦ヒ始ルヤ兵ヲ撒布シ山ノ神右方ニ増加

  シ進ム大関山ノ賊塁ヲ棄テ西南ノ焼野字ゴツトンニ走ル于時午後一時前

  ナリ

 于時は「ときに」と読む。攻撃隊の出発地と十文字口が分からない。大関山頂上にあったと思われる山ノ神神社(当時は現在神社建物の北側にある小さな石積み石室を祀る簡単な祭祀場だったかも知れない)の右に攻撃の重点を置いたところ、薩軍は頂上の南西に続く尾根にあるゴットン石(野原にあり、上に乗って動くと揺れる岩)の方に移動した。

C09084789300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0128・0129

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長 陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:大関山 山ノ神山

  我軍総員:百四拾六人    死者下士卒1 傷者下士卒2 

  戦闘ノ次第概畧:三日午前第拾二時嘉門越口ヲ発シ三時四拾分四本杉ニ

  至第六時山ノ神山下ニ於テ開戦同三拾分同處ヲ取 備考我軍:(略)

  放チシ處ノ弾薬六百發

 大関山頂上から続く尾根上で北約1.2kmに四本杉台場跡がある。沓屋隊は前回、5月24日の戦闘報告表では嘉門山を乗り取っており、今回も嘉門越を出発しているので、そこでずっと守備についていたのだろう(嘉門越は各隊の戦闘報告表の中で色々な字が充てられているが、同じ地名である)。そして、3日は北側から大関山目指して尾根を進んだのである。山ノ神山を取ることが大関山を取ること、と理解できる。戦闘地名欄に二つの山を併記している意味が分からない。

C09084789400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0130・0131

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:芦北郡大関山 国見山

  我軍総員:百二十二名 死下士卒1 傷者下士卒3  

  敵軍総員:大関山ニ五十名斗 国見山ニ八十名余 敵軍 死者3 

  傷者不詳 我軍ニ獲ル者:弾薬三箱

  戦闘ノ次第概畧:午前五時四十分大関山進撃即時追拂同六時比ヨリ国見

  山大斥候ヲ挙進擊九時頃国見山ノ賊ヲ追拂ヒ大関山ヨリ国見山ニ續キ

  防禦ヲ設ケ固守ス

    大関山と国見山の薩軍の人数を記す唯一の記録である。薩軍大関山に50人・国見山に80人余に対し攻撃側は926人であり、人数で圧倒しすぐに決着がついたのである。

C09084789500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0132・33

  第三旅團工兵第二大隊 陸軍少尉内藤冨五郎㊞陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:芦北郡大関山 我軍総員:三拾三名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時長嵜村ヲ出発大関山ニ至リ全員ヲ二分シ一

  ハ翼ニ一ハ左翼ニ進ミ敵火ニ對シ塹溝數拾箇處ヲ築キ午后第十一時長

  嵜村ニ引

  工兵隊である。「戰記稿」では2分隊と表記されている。死傷なし。工兵隊は大関山に着いて台場類を数十基築造している。大関山頂上付近で北側を向いている台場跡は薩軍が築いたものと考える。弘中報告では午前6時前には大関山を占領しているので、その後夜11時に長﨑 村に帰り着く前は長時間築造作業をしている。大関山の薩軍に対して築いたものもあり、占領後、久木野方向に築いたものもあっただろう。

C09084789600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0134・0135

  第三旅團歩兵十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉来栖毅太郎㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:大関山 長左衛門釜

  我軍総員:四拾六人 死者:下士卒1・傷者:下士卒4

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時石間伏村出発十文字ヨリ道ヲ右方ニ取リ進

  軍然賊塁ノ右翼ニ出ツ茲ニ於テ大ニ鯨波ヲ發シ開戦ス此時五時半頃ナ

  リ賊塁ニ據リ且ツ戦ヒ且ツ退キ進ンテ長☐釜ニ逼ル賊兵塁ノ右翼及ヒ背

  後ヨリ攻撃ヲ受クルヲ以テ終ニ支ユル能ハス数塁ヲ余テ奔ル同第十時頃

  命☐退去

 石間伏村を出発して十文字という場所不明の地で右折して進んだら長左衛門釜に至るのである。長左衛門釜にいた薩軍にとって塁の右翼・背後から攻撃される状態になったという。長左衛門釜は細長い尾根の先端近くにでもあるのだろうか。5時半頃に攻撃を開始したという。弘中報告の午前5時40分とほぼ同じである。

C09084789700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0136・0137

  戰闘報告表:明治十年六月四日歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長  

  第三旅團  陸軍大尉安満伸愛㊞  

  戦闘月日:六月三日 戰闘地名:長左衛門釜

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分長左エ門釜賊ニ向テ突進賊塁悉ク打

  拂ラ山ヲ占領シ大哨兵ヲ配布セリ

  我軍総員:九十名 死者:下士卒壱名 傷者:下士卒三名

  備考:我軍:一下士卒死スル者壱名第九聯隊第三大隊第四中隊一等卒矢

  田壱郎ナ  一傷者下士卒十三名ハ第九聯隊第三大隊第四中隊軍曹

  角田義定 仝一等卒池上吉次郎仝二等卒宮崎宇之助ナリ   

  〇本日費耗ノ弾数四千発ナリ

 沓屋報告と弘中報告では大関山を午前6時頃に占領しており、安満隊は2時間半攻撃したと単純計算できる。この間に一人約44発を発射している。 

C09084789800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0138

  第三旅團大阪鎮台豫備砲兵聯隊第二大隊第一小隊長 陸軍大尉村井忠和㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:熊本縣下肥後國芦北郡上木塲村 

  我軍総員:六拾貳人 

  戦闘ノ次第概畧:兵員ヲ区分シテ二トシ一ヲ砲車付トシ少尉杦田豊実之

  レ率ヒ一ヲ護衛兵トシ少尉野間駒之ヲ率ヒ午前一時三十分古田村ヲ発

  シ同三時卅分三十挺阪上砲臺ニ着直チニ山砲二門ヲ備ヘ仝五時丗分左翼

  開戦ニ因リ放射ヲ始ム同九時頃ニ至リ賊軍逡巡故ニ益射撃ヲ盛ンニス而

  乄九時卅分歩兵ノ進軍号音ニ應シ放射ヲ止メ護衛兵転シテ歩兵ト共ニ前

  進シ本道及同左側山上ニ於テ銃戦ス午后賊軍敗走止戦ニ因リ上木塲近傍

  ニ舎営ス

 乄は「して」と読む。三十挺阪の左上方向に敵がいて、5時30分に左翼が開戦したというのは、来栖隊が長左衛門釜を攻撃し始めた時間である。三十挺阪の上に築いていた砲台から左翼にあたる位置にある長左衛門釜を大砲二門で砲撃したのである。

C09084789900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0140・0141

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第壱大隊第二中隊長 陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:大関山ヨリゴツトンノ野迠 

  我軍総員:八拾七人 傷者:兵卒二名

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月三日午前第三時管ノ本出発大入道ヨリ登

  尾攀チ大関山ノ右方ニ向ケテ攻擊賊塁数ヶ所ヲ奪ヒ猶進テ大関山ノ内

  「ゴットン」ノ野ニ出ルノキ賊又胸壁ニ依テ固守ス故ニ我兵益奮進賊兵遂

  ニ守リヲ捨テ悉ク敗走ス依テ第九時頃休戦ス此日費ス処ノ弾數凡ソ三千

  発ナリ

 管ノ本も大入道も場所不明。前回5月24日の報告表では石間伏村を出発して大関山を攻撃した後、平山隊と合併して第二防禦線に引き揚げている。では平山隊の報告ではどうかというと、24日の報告表は存在せず、翌25日のものがある。それは「午前第二時三十分肥後國芦北郡古石村ノ内大入道ニ於テ大哨兵ヲ布シ歩哨勤務中」である。

 つまり古石村に大入道という所があり、大哨兵を配布しているのである。6月3日の下村隊の「管ノ本出発大入道ヨリ登尾ヲ攀チ大関山ノ右方ニ向ケテ攻擊」を参考にすると、どちらの隊も大入道を経由して大関山に向かっていることが分かる。24日に下村隊が出発した石間伏は三十挺坂の東側の尾根の東側の谷間に位置し、古石村の東隣である。この日の下村報告によると、大入道から伸びた尾根は大関山の右の方に続いているらしい。以上のことを考えると、三十挺坂の両側のどちらかの尾根、おそらく東側の尾根を通って進撃したものと思われる。薩軍の数塁を奪ってゴットンの野に出ているからである。

 小銃弾使用は平均43発強だった。ゴットンは野原で樹木が繁茂していなかったという点は他の報告と重なる。同所を奪ったのは午前9時頃だったと記している。

C09084790000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0142・0143

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 換之㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:熊本縣下長左衛門釜 

  我軍総員:百二拾五人  傷者:兵卒一名

  戦闘ノ次第概畧:午前第十二時三十分石間伏ヲ発シ仝三時三十分開戦長

  左門釜ニ援隊トシテ進ミ同所ニ於テ一半隊攻擊隊ト共ニ突喊賊塁ヲ拔

  ク、又一半隊攻擊隊ノ右翼ニ増加シテ進擊賊辟易敗走スルニ及ンデ要所

  ヲ占メ命ヲ待ツニ南大尉ノ隊ト大哨兵交換ノ命アリ依テ茲ニ占ム  

  備考:(略)本日費耗ノ弾数凡千発ナリ

  来栖隊が午前1時に石間伏を出発する30分前に岡隊は出発し、3時半に長左衛門釜を攻撃している。来栖隊は5時半頃開戦したのと時間差があるのはなぜか。 小銃弾使用は平均8発だった。

C09084790100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0144・0145

  第三旅團名古屋鎭臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:肥後國芦北郡古石村ノ内大関山 

  我軍総員:百貳拾八名 死者:下士卒二名 傷者:将校一名 下士卒十

  三名

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時肥後国芦北郡古石村ノ内大入道ヨリ進軍午

  前三時三十分開戦一舉ニシテ大関山及長左衛門釜等各処ノ臺塲ヲ乗リ

  取リ我兵奮闘以テゴットン石ノ賊兵ヲ悉ク追拂ヒ午后第三時三十分同処

  ニ大哨兵ヲ備フ 

  我軍ニ穫ル者:ヱンピール銃八挺 弾薬:スナヒドル二千三百発 ヱン

  ピール三千発 器械:小籏 壱本 刀 九本 貨:金四円貳拾銭

  備考:我軍 (略) ◦本日費耗ノ弾数六千発ナリ

  敵軍  ◦大関山及ヒ長左衛門釜ゴットン石等ノ賊ヲ追拂フ節銃八挺スナヒ

  ド彈二千三百発ヱンピール彈三千発簱壱本刀九本紙幣四円貳拾四銭ヲ

  獲ルヱンピール銃及弾薬ハ叓急ニシテ引揚ル難ク且用ヒザルヲ以テ墔折

  シ地中ニ埋ム  獲ル処ノスナヒドル弾薬ハ我軍ニ配與ス 

叓は「事」の異体字。本当は上が古だが、はてなブログにはその字がない。には付箋があったと思うが存在しない。大入道を出発し、予定時間通りに午前3時半に攻撃を始めて、大関山・長左衛門釜などを一挙に奪い、引き続き南西側のゴットン石の薩軍を追い払って午後3時半に哨兵を布いた。小銃弾は平均46発強を使用した。 

C09084790200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0146・0147

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉武田信賢㊞ 

  戦闘月:六月三日 戦闘地名:熊本縣芦北郡ゴットン石 我軍総員:百

  三十九名 

  戦闘ノ次第概畧:午前二時石間渕ヲ発シ援隊ニテ大入道ヘ到リ戦地ゴッ

  ト石ヘ斥候トシテ二分隊ヲ出シ續テ之レヲ防禦隊トナシ深林ニ配布ス

  十時本隊ヲ同処ヘ繰込ミ午后設塁防禦ヲ巌ス   

  我軍ニ穫ル者:俘虜一  備考:我軍 一本日弾玉ヲ費凡五十発

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 石間渕は石間伏と同じだろう。ここよりも大入道の方が戦地に近いことが分かる。ゴットン石を占領して守備を設けている。一人平均0,4発の小銃弾を使用し、死傷者はいない。

C09084790300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0148・0149

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:上木葉及ヒ大関山辺 我軍総員:八十壹

  名 

  戦闘ノ次第概畧:正面攻撃ノ命ヲ受ケ午前八時過三十丁阪大哨兵ノ位置

  ヲシ悉ク賊塁ヲ陥レ猶進テ久木野本道ノ山頂ニ至リ大哨兵

 矢上隊は久木野村の北西側にある城山が攻撃目標だった。久木野本道の山頂が城山か。城山は中世山城跡であり、尾根の付け根には堀切があり、上面には曲輪の平坦面があり、台場跡が縁辺に築かれているのを見たことがある。水俣西南戦争史研究会の人達に現地を案内していただいた。

C09084790400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0150・0151  

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第一中隊長 大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:上木塲 我軍総員:百十九人 ※死傷なし

  戦闘ノ次第概畧:援隊トシテ午前第二時上木塲発シ右翼ヨリ久木野ヘ進

  撃山ニ於テ発砲午后第六時岩音山エ引揚大哨兵ヲ務ム

 瀧本隊も上木場から南下して城山方面を攻撃したのである。城山を攻撃して占領し、そこから久木野を射撃したということか。岩音山は初出地名で場所不明だが、後出の佐々木隊の報告でも登場しており、そこでは上木場村の南にある地獄谷の北側だろうと推定した。

C09084790500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0152・0153

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉 井上

  親

  ㊞ 戦闘月日:六月三日 戦闘地名:肥後國芦北郡上木塲村 

  我軍総員:五六名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時比正面攻擊シ仝第九時比終ニ大關山ヲ占領

  ス

 午前8時頃に上木場村の正面を攻撃し、午前9時頃大関山を占領している。

C09084790600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0154・0155

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉大西 恒㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:上木塲本道 我軍総員:百貳十貳人 

  戦闘ノ次第概畧:本日未明ヨリ大関山并長左衛門釜攻擊之處賊敗走直ニ

  當上木塲本道ヨリ久木野村入口迠進入大勝利  備考:本日死傷無シ

 大関山と長左衛門釜は他の部隊が攻撃したという意味だろう。大西隊は久木野村入口に進んだのである。

C09084790700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0156

  第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊附属同聯隊第二大隊第四中隊一

  小 中隊長大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:長左衛門釜 我軍総員:三拾八名

  戦闘ノ次第概畧:六月三日攻撃総援隊ノ命アリ上木塲山上ノ砲台エ交換

  整防禦シ在タリキ午前第八時大関山々上ノ戦ヒ蘭ナラントスルノキニ當

  リ長左衛門釜ノ賊掃擾ノ急命アリ直ニ左一小隊ヲ同處ニ向ケ開戦シタリ

  賊終ニ防戦ス不能散乱☐走追撃シテ午后一時狐嶺ノ前面山上ニ於テ右

  一小隊ト合併夫レヨリ久木野本道ノ援隊トナリ而後復タ右一小隊ハ不能

  山々上ノ援隊ニ分遣シタリ此日死傷ナシ于時午后第三時ナリ

 攻撃目標は割り当てられていない援隊だったが、途中から中隊の半分、一小隊38人が長左衛門釜攻撃に参加している。午後1時、追撃して狐嶺という場所不明の地の前面の山上で先の攻撃していた小隊と合流し、久木野本道を攻撃する墓の部隊の援隊になったらしい。

C09084790900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0160・0161

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:(※空白) 我軍総員:八十七名 

  傷者下士壹人 

  戦闘ノ次第概畧:午前一時三十分熊ノケ倉整列岩音村ヲ経地獄谷ノ上ニ

  至是ヨリ順路木田師ニ潜伏大関山ノ開戦ヲ待ツ雨リ六時三十分大関

  ノ開戦ヲ聞キ城山並ニ久木野道ヲ狙撃ス賊塁ニ依テ固守敢テ退去ノ色ナ

  シ因テ益々放火ヲ盛ニス十時大関山ノ大勝利ヲ見ルヤ直ニ城山並ニ久木

  野☐☐越突貫賊塁三ヶ所ヲ拔キ廠舎ニ火ヲ放チ進テ久木野ノ上ニ至ル然

  トモ本道ノ賊☐未タ不去故ニ拔能ハサルヲ以テ遂ニ久木野ニ至◦

 ◦に対応する貼紙なし。熊ケ倉は上木場の北側の山の北側麓の村である。地獄谷は大関山の南西に発生した谷で、上木場と城山の間にある。岩音村が地獄谷の北側にあるらしいと分かる。佐々木隊は部署計画では城山が攻撃目標の右翼部隊である。下図は同隊の推定進路。

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C09084791000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0162・0163

  第三旅團工兵第一大隊第一小隊附 陸軍少尉林庸雄㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:熊本縣下芦北郡上木塲村近傍 

  我軍総員:四拾名 

  戦闘ノ次第概畧:午前四時当隊ヲ折半シ古道村ヲ発シ一ツハ上木塲口他

  ハ間伏口ニ至ル仝九時比賊軍ノ右翼敗レ退却スルニ依リ直チ進ミ久木

  野村近傍我防禦線ニ至リ塹溝築設ニ着手ス凡数拾箇并ニ鹿柴等ヲ築設翼

  五日午前第六時比皈営ス

 工兵隊だから戦闘には携わらず、久木野村付近で台場類を数十基と、伐採した木を並べる鹿柴などを設置している。「仝九時賊軍ノ右翼敗レ」とあるのは下村隊の報告でゴットンまで奪った時間が9時頃とあるのに符号する。だから、ここで「賊軍ノ右翼敗レ」とあるのはゴットンを含んでいる。 

C09084791200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0166・0167

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長 陸軍大尉斎藤徳明㊞

  戦闘月日:六月三日 戦闘地名:国見山 我軍総員:八拾五名 

  傷者:下士卒一名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時「ヲンダラケ瀬戸出発同第七時国見山麓

  至賊兵ヲ見ル直ニ開戦同第八時十五分国見山ヲ乗取午后第三時ヲンダ

  ラガ瀬戸ニ引揚直ニ大哨兵ヲ配布ス

  備考敵軍:午前第五時一小隊ヲ率ヒ「ヲンダラガ瀬戸」出発一半隊ヲ以

  テ木野村ニ通スル間道ニ潜伏セシメ賊兵ノ迂廻ヲ禦キ且ツ滝本村ヨリ

  碁盤石ヲ経テ久木野村ニ進撃之官軍将ニ戦端ヲ開カハ直ニ是ニ應シテ賊

  兵ノ左側面ヲ討ニ備ヘ他ノ一小隊ヲ率ヒ前面ニ進ム道路甚狭廣キ所ニシ

  テ僅ニ三名ヲ進ムベシ行ク凡ソ十丁余ニシテ国見山ノ背後ニ至ル時ニ午

  前第七時ナリ我カ先捜兵敵ノ哨兵線前ニ至リ賊兵ヲ見ル直ニ開戦烈射ス

  ルヿ甚タ急ナリ然リト𧈧ノモ賊兵險ニ據リ防禦スルヿ殊ニ勉ムルヲ以テ我

  兵進入スル能ハス不得止放火ヲ薄クシ正面大関山ヨリ進ム官軍ノ景况ヲ

  窺ヒ好機械ニ乗シ進ント欲シ喇叭ヲ吹奏シ只振旋スル而已既ニシテ忽チ

  敵兵退却ノ兆有ル察シ魚貫シテ進ム賊兵支フル能ハス守地ヲ捨テ敗走

  ス我兵山上ニ攀登ス全ク国見山ヲ乗取時ニ午前第八時十五分ナリ是ニ於

  テ兵ヲニ分シ一半隊ハ大関山之官軍ト連絡ヲ保タンガ為メ右ニ進ミ他ノ

  一半隊ハ歩々喇叭ヲ吹奏シ賊兵ヲ追撃シ進ンテ南床ノ嶺字新名ニ至リ

  直ニ寺床及ヒ大河内村ニ斥候ヲ発遣シ賊ノ踪跡探索シ午后第三時他ノ中

  隊ト交換シ「ヲンタラカ瀬戸」ニ帰リ最前ノ守地ニ據リ守備ス

 斎藤隊は前回、5月22日に札松峠を奪ったときに東側にある鏡山を占領した部隊である。ヲンダラケ瀬戸がどこにあるか分からないが、鏡山の付近だろうか。国見山から大関山までほぼ1,000mである。弘中隊は「九時頃国見山ノ賊ヲ追拂」ったとあるが、この斎藤隊は8時15分としている。大関山の占領を待って国見山を攻撃して占領した。その後、山の南側麓の寺床と大河内村に斥候を出して探索し、朝出発した所の守備を再開している。寺床は久木野の東の谷間にあり、直線距離で4kmある。南側に大川という場所があるがこれが大河内か。

 この3日の攻撃は、「戰記稿」では午前3時半に攻撃開始としているが戦闘報告表の報告ではバラバラである。官軍側の6月3日の死傷者は「戰記稿」(18個中隊と1分隊:死11人・傷43人)・「西南戰袍誌」(歩兵9個中隊と工兵3分隊と砲兵1小隊:同前)・戦闘報告表集成(歩兵15個中隊と1小隊、砲兵1小隊、工兵3分隊:死6人・傷31人)である。死傷者数は前二つは同じだが、戦闘報告表は死者も負傷者も少ない。下記史料のように後日死亡した場合もあり、戦闘当日に近い頃作成された戦闘報告表で死者数が少ないのである。負傷者が少ないのは表作成時には把握しきれなかったのだろう。

 安満隊の負傷者や病人に関する記録があるので掲げる。

C09081003800「明治十年従五月 送達書元稿 大坂 征討陸軍事務所」0289防衛研究所

  大阪鎭臺歩兵第九聨隊第三大隊第四中隊

         陸軍々曹角田義定

  右者本年六月三日肥後国上木場村ニ於テ左下脚貫通骨折銃創ヲ受ケ入院

  加候處膿熱ニ因テ今三十日午前第八時死去候条此段御届申候也

        長嵜軍團病院

        第十四舎檐任医官

   明治十年六月三十日   陸軍々医補溝上秀休㊞

 6月3日に上木場村で銃創を受けた内容が分かる。上木場村での負傷者の中には長崎の軍団病院に送られていた者もいたのである。

C09081004400「明治十年従五月☐ 送達書元稿 大坂征討陸軍事務所」防衛研究所蔵0301

  死亡診断書

       第三旅團

       歩兵第九聨隊第三大隊第四中隊

           兵 卒  中山吉之助

  右者明治十年六月五日於小野山泰襄土症ニ罹リ六月十三日八代軍團支病

  院入院施療候處漸次衰弱七月一日午後第二時三十分終ニ致死亡候也

          八代支病院長

   明治十年七月一日    陸軍二等軍医正菊池篤忠㊞

            主任医官

             陸軍々医正井上元章㊞

 読み間違いがあるかもしれないが、泰襄土症というのが分からない。マダニにでも噛まれたのだろうか。

 八代に軍団支病院が開設されたのは3月20日で、8月21日まで存在した。それとは別に大繃帯所というおそらく応急処置を行う施設も設けられ、付近では八代(五月18日)・佐敷(5月20日)・水俣(6月1日)が開設されている(陸軍軍醫團1912年「明治十年西南戰役衛生小史」)。さらに小繃帯所もあるので、こちらは数も多く、より戦地に近かっただろう。

 6月7日、第三旅団が大口に向かって動き出す。  

C09084791500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0172・0173

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:久木野ヨリ肥薩国境ニ至ル 

  我軍総員:八十七名 

  戦闘ノ次第概畧:正午十二時頃賊徒退却ノ模様ヲ見ル之ニ依テ一小隊ヲ

  以候トシ賊情ヲ探偵スルニ堡塁隻賊ナシ進テ石井河内ヨリ賊肥薩ノ国

  境ニ依リ警視隊寡兵ヲ以テ其右ニ戦ヲ見ル依テ直ニ進テ其側面ヲ擊チ之

  ヲ援クルニ警視大ニ力ヲ得テ突進ス賊防禦スト𧈧終ニ之ヲ☐退ケ警視ト

  共ニ地理ニ據テ☐☐☐☐于時午后第六時ナリ同七時隊踵キ至ル同十二時

  命ニ依リ久木ノ本道ニ退ク

 石井河内は石井川内である。山野の北部の村で、佐々木隊はここまで警視隊が苦戦していたので加勢し、薩軍を退却させている。

C09084791600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0174・0175

  第三旅團近衛第二聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉大西 恒㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:久木野ゟ河内村 我軍総員:將校以下

  百十二名  

  戦闘ノ次第概畧:本日午后二時頃俄然賊軍退散ノ景况ヲ催スニ付當隊直

  ニ木野本道ヘ向ケ攻襲斥候トシテ進入ル賊塁数ヶ所ヲ乗取賊ノ廠舎ヲ

  焼拂フ賊大口ヲ指シ敗走ス當隊追撃終ニ鹿児島国界ニ歩哨線ヲ定ム大勝

  利

  備考我軍:本日死傷無シ

 大関山周辺から薩軍が撤退した様子なので、攻襲偵察として久木野から河内村に進軍したところ、薩軍はここからも退散していたので県境に哨兵線を定めた。久木野から見れば東も南も大口であり、薩軍はどちらの方向に行ったのだろうか。河内村が場所不明。次の報告の石井川内のことなら、第三旅団は南東方向に進んだことになる。

C09084791700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0176・0177

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:久木野ヨリ岩井河内村 

  我軍総員:八十三名 

  戦闘ノ次第概畧:午后一時頃右翼警視隊ノ攻撃ニ依リ我主面山頂ノ賊等

  退ノ况景アルヤ突然攻撃ノ命アリ依テ兵ニ進乄賊塁ニ逼ル賊之ヲ捨テ

  ヽ逃走ス猶逆撃シテ肥後薩摩ノ國境ニ至リ大哨兵 

 岩井河内は石井川内のことだろう。大西隊の河内と同じか。

 6月5日、第三旅団の南西側の別働第三旅団は6月5・6日、鬼嶽(734m)を攻撃し、6日午後2時に占領し、守っていた薩軍は東側の鹿児島県伊佐市小川内に退却した。7日、「戰記稿」の第三旅団部分を全て掲げる。

  別働第三旅團ノ兵昨日正午大ニ鬼嶽ニ捷チ久木野口ノ賊、漸次退却ノ

  アリ、厚東竹下両中佐乃チ午後三時ヲ以テ五個中隊ヲ發シ久木野村正面

  山上ノ賊壘ニ逼リ悉ク之ヲ領ス

 久木野村正面山上の賊がいた場所はどこだろうか。

C09084791900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0180・0181

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月七日 戦闘地名:薩肥国境 我軍総員:貳拾四名 

  戦闘ノ次第概畧:六月七日正午一半隊ヲ攻襲偵察トシ城山ヲ下リ平野尾

  山ヒ二ノ坂ニ至レハ賊逃走進撃シテ長嵜山ニ出テヒシガヒ街道鬼神山

  辺戦酣ナルヲ見テ榎谷村ニ下リ平石村ニ登レハ日ハ西山ニ沒シ山嶺凹凸

  ノ地難辯故ニ鬼神山南方ヨリ縣堺ニ沿フテ平石村ニ道シ哨兵連絡ヲ保ツ

  此日大勝

不明地名が多い。城山は久木野の北西側の山城跡である。

 8日の「戰記稿」第三旅団分を掲げる。

  午前九時攻擊隊小川内村ニ入ル賊前面山上ニ據リ暫時ニシテ潰ヘ大口本

  道向テ走ル然レノモ地形守備ニ適セス乃チ午後四時兵ヲ収ム彈藥五百發

  ヲ獲タリ

 別に部署表もあるが略す。小川内村を占領したとあるが、以下の戦闘報告表ではそう読めない。

C09084791800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0178・0179

  第三旅團歩兵第拾聯隊第三大隊第壱中隊長陸軍大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:六月八日 戦闘地名:小河内村 我軍総員:百十九人 

  戦闘ノ次第概畧:午前第九時攻襲偵察トシテ大堺哨兵処ヲ発シ小河内村

  向進軍終ニ小河内村ニ進入村内ヲ捜索スルニ賊モ人民壱人トシテナシ

  此日深霧曽テ遠望不能漸ク正午第十二時頃ニ至リ聊カ霧ヲ散シ大凡同処

  ヨリ六七百米突前面ノ山上ニ賊塁ヲ設ケ防守スルヲ認ム彼我共砲火盛ニ

  ス彼レ大砲ヲ発ス午後第二時頃引揚ノ命ニ依テ従前ノ地ニ復ス   

  我軍ニ穫ル者:弾薬 スナイードル 五百発入 壱箱

 小川内村に簡単に入れたとある。後日、大口の山野村に官軍が進軍した際も住民は隠れていて誰もいなかった。村からは薩軍に従軍した者が多かったため、官軍に罰せられることを恐れたのである。

C09084792000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0182・0183

  第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月八日 戦闘地名:薩肥国境 我軍総員:九拾三名 

  戦闘ノ次第概畧:六月八日久木野城山砲台ヨリ薩肥国境マテ攻撃ノ命ア

  リニ進軍賊前日ノ敗レヲ以大口ノ要路ヲ指シ潰走ス依テ道路遮キル者

  ナシ午前第八時三十分於同所前日発程ノ攻襲偵察ノ一隊ト合併夫レヨリ

  歩哨配賦連絡防禦シタリ

  備考我軍:此日死傷ナシ

 東か南か、どちらの方向に進んだのか不正確な報告である。  

C09084792200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0186・0187

     第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 煥之㊞

  戦闘月日:六月八日 戦闘地名:鹿児島縣下稲丸山

  我軍総員:百二拾五人 

  戦闘ノ次第概畧:午前第九時横立山防禦ヲ発シ攻襲偵察トシテ☐(稲?

  )山ニ至リ小川地村山上ニアル賊兵ヲ攻擊シ午后第三時引揚ケノ命ニ

  依リ元ノ大哨兵線ニ還ル   備考我軍:此日費ス所ノ弾薬五百発

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 横立山と稲丸山は場所不明。小川地村は小川内村である。小川内村の山上とは、同日の瀧本報告にあるように瀧本隊が小川内村に入ったところ無人で、「同処ヨリ六七百米突前面ノ山上ニ賊塁ヲ設ケ防守スルヲ認ム」という場所と同じであろう。第三旅団が猩々岳と呼んで攻撃し占領した山である。小川内村の南側の山かと考えられる。稲丸山は村の北東側にある標高490mの山及び北側の東西に長い尾根、つまり標高524mの東部を含む全長2km位の部分であろう。関係地図を掲げる。

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 岡報告は小川内村を占領したとはしていない。「戰記稿」編集者は 瀧本報告を採用したのだろう。なお、6月8日の部署表では攻撃隊が4個中隊(矢上・南・瀧本・岡)・援隊2個中隊・大岡山屯在4個中隊(安満を含む。大岡山ではなく大関山だろう)・遊軍4個中隊である。 

 6月13日、第三旅団の13個中隊は山野に向かい進撃する。左翼は布計村、ここは別働第二旅団右翼のいる田野村に隣接し、鈴ヶ原山を境としていた。第三旅団の右には別働第三旅団が同時に進撃していた。この時、古田少佐率いる大西・岡・南各隊は正面本道よりの攻撃隊で、安満隊は援隊だった。その他の第三旅団進路は内藤少佐が「花山ヨリ」・友田少佐が「中央ナスウ山ヨリ」・川村少佐が「左翼ナスウ山布毛ヨリ山野村通リヲ」である(「戰記稿」)。鈴ヶ原山と花山とナスウ山は場所不明。このうち、ナスウ山は左翼とあり布計村付近だろう。

6月13日頃C09084910700「第二号 自五月至六月來翰綴 第三旅團参謀部」0702

  十三日午后十二時発

  第八百四七号

  今朝六時開戦我旅團ハ本道及ヒ左翼ヨリ別働第三旅團ハ右翼ヨリ進テ小

  河山野ヲ取ル午後六時ニ及ンテ戦ヲ止メ警備ニ着手ス然ルニ別働旅團

  ハ前面賊徒接近砲撃之際不意ニ守地ヲ徹シ旧線ニ引揚ケタリ依テ我右翼

  空虚ニシテ一兵之守リ無シ実ニ困難此時ゟ甚敷ハナク種々協議スルモ終

  ニ不☐調故ニ只必死固守スル覚悟ニテ候ヘ共萬一賊此虚ニ乗シ襲来セハ

  我軍之挫敗之レ無ク共☐申依テ至急二三大隊(◦)(〇一旅團)一旅團ノ兵

  員ヲ御繰出シ相成度希望ス不堪☐到底川路少将ト此上之協議ハ無益と断

  絶仕候明朝直ニ大口攻撃之手筈ニ有之候処前陣之挙動ゟ大ニ目途ヲ失シ

  此上ハ兵員之着ヲ不待候テハ一歩之進退モ難相成候尤本日之攻撃ハ充分

  大勝利ナレ共委細四斤山砲壱門ヲ分捕リ其余ハ混難中ニテ取調難ク

  ☐☐依テ詳細ハ後報ニ譲ル将又只今之守地ハ警視隊引揚後充分ニハ無之

  已大口攻撃ハ兵数次第一挙ニ拔クヿ容易ニ☐存候

 川内村の内、東部に位置する山野を占領し警備に着手した際、右翼で接続していた別働第三旅団が無断で引き揚げようとしたので掛け合ったが無駄だった。不明字があるので原文を示す。

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前掲「西南戰袍誌」はこの件について以下のように記す。

  午前三時三十分より本道大口竝花山、十曾山の賊を歩兵十二個中隊砲兵

  二隊工兵分隊を以て攻擊す賊必死防禦に努むるも力屈して退走す、

  之を尾擊して山野麓に侵入し之れを取り其前方に守線を備ふ此地方にては

   麓と稱 る は山麓に非らず士族の集團したる部落を稱す此日警視隊も、亦朝日山

  より攻擊を始し漸次賊を擊退し山野に來る此時未だ我旅團の守線を設

  けるの暇なきに際し警視隊は爰に達するや否乍ち引退かんと欲す其危

  殆なること見る耐へず、我旅團の將校等言を盡して之れ止むも聽かず

  參謀の命令なりとし、負傷者二名を遺棄し先を爭ふて退却す恰も良し

  我參謀西 寛二郎少佐途に警視隊の參謀大尉中川祐順に邂逅し其處置の

  不當にして機宜に適せるを諭すも、頑強にして之れを容れず只目的を

  達し山野に至りたるを以任務は既に足れり其餘は知る所にあらずと

  云ふ道路上に於て大に激論及ぶ遂に我旅團のみを以て同地を全ふする

  を得たり斯の如き不羈不律の隊と共に行動するは危險にして我旅團

  の常に迷惑を感ずる所なり。

 別働第三旅団の言い分も「戰記稿」から掲げておこう。

  各隊尾擊シテ大口村ニ至ル初メ本團第三旅團ト謀リ山野陷レハ第三旅團

  之守リ本團轉シテ出水ニ向ハント約ス然ルニ此ニ至リ揖斐大佐中川大

  尉ニ告ルニ約ノ行ヒ難キヲ以テス大尉憤然兵ヲ収ム少將特ニ大尉及ヒ小

  笠原警部ヲ山野ニ遣シ揖斐ニ論議セシム遂ニ第三旅團兵ヲシテ山野ヲ守ラシムト

  云フ

 初めの約束は確認できなかったが、そういう方針の協議はあったのかも知れない。別働第三旅団は他の旅団よりも人数が少なく、川路が山縣に掛け合っていたが、増員はされなかった。それで川路は大久保内務卿に増員を要請し、5月23日に新徴募巡査1,200人が水俣に到着している。

 「西南戦争警視隊戦記」の解釈はこうである。川路少将が薩摩出身で陸軍ではなく警視隊を率いており、他の山縣参軍や第二旅団の三好少将、第三旅団の三浦少将、別働第二旅団の山田少将等が長州出身の陸軍部隊であったため表立ってではないが川路旅団に対する差別意識があったのではないか、と。第三旅団としては前回、川路隊が逸見十郎太に水俣に追い返されたときには第三旅団が援軍に駆け付けたのに、今回はこの・・・と感じただろう。兎に角、雰囲気は悪かった。

 

C09084794300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0228・0229 

  歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 第三旅團  陸軍大尉安満伸愛㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:山野村 我軍総員:三十八人

  戦闘ノ次第概畧:抑正面攻撃隊ノ援隊タリ賊逃走スルニ及テ尾擊シテ山

  野ニ至リ命ニ依リ大哨兵ヲ布ケリ 

  備考:一死傷等異情ナシ此日費ス所ノ弾数凡ソ貳百發ナリ

  安満隊6月3日には90人だったので、38という数字は3/1程度である。援隊だったが、薩軍が逃走したときに追撃し、一人平均5発を発射している。どこを通ったのか分からない報告である。

C09084792300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0188・0189

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:鹿児島縣山野郡菖蒲ノ元 

  我軍総員:百三十二

  戦闘ノ次第概畧:昨十三日午后第十時三十分熊本縣芦北郡一本木ヲ雷発

  峻幽谷ヲ攀躋本日午前第四時菖蒲ノ元ニ至リ開戦午后第一時賊兵塁ヲ

  捨テ敗走我軍之ヲ追テ散乱セシム夜十二時頃山野下村ノ山ニ登リ露営ス

  我軍ニ穫ル者:弾薬 千五百 備考敵軍:一弾薬千五百発ハ皆ヱンヒー

  ルニ用ユル實包ニシテ山野ニ於テ得ル

 一本木は久木野の南、やや西側1,4kmの谷間にある。北から久木野、日当野(ひなた)、一本木の順である。そこから東に進んだのか南だったのか菖蒲ノ元が場所不明なので進路が分からない。

C09084792400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0190・0191

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:薩摩国山野郡菖蒲☐ 

  我軍総員:六拾壹名 戦死:将校 一

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時平石原ヲ発シ仝第四時頃ショーブノモトニ

  着第九時頃開戦午后第一時頃賊敗走ス直ニ尾撃遂ニ平泉村迠占領ス

  備考我軍:即死 陸軍少尉齋藤 孟

 6月7日、南隊の報告表に鬼神山南方ヨリ縣堺ニ沿フテ平石村ニ道シ哨兵連絡ヲ保ツとあるが、平石原は場所不明。鬼神という三角点が県境南側の五女木牧場北側にあるので、平石は近くか。

C09084792500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0192・0193

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長 陸軍大尉下村定

  辞㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:三ヶ月山ヨリ山野村迠 我軍総員:

  九壱名

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月十三日午前第一時出発三ヶ月山迠出張午

  後第一時前山野村近傍ノ賊悉ク敗走スルヲ以テ直ニ石河内村ニ進入休戦

  セリ 此日攻擊援隊タルヲ以テ遂ニ交戦セス 

  備考敵軍:明治十年六月十三日俘虜

               鹿児嶋縣士族伊集院郷

            正儀隊小隊長是枝吉藏

 捕虜となった是枝吉藏の上申書は少し後で掲げる。

C09084792600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0194・0195

  第三旅團鎭臺歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊附属同聯隊第二大隊第四中

  隊一小隊 中隊長大尉 南小四郎㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:髙野山 我軍総員:三拾九名 

  傷者:下士壱名

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時平石山ニテ開闘ノ期ヲ約シ終テオウデノー

  山渓谷ヨリハカマゴチ山上ニ隊ヲ区分シ散布左翼軍ノ開戦ヲ待チ漸シ

  テ午后第一時発砲進軍ノ譜ヲ奏シ瞬間ニハカマゴチ山ヨリ髙野山ヘ這攀

  リ賊塁数十ヶ所ヲ攻落シ走賊ヲ尾撃シテ本道ノ一手ト合併小木原村外ヘ

  出テ向戦数時アリテ平村防禦線エ引揚タリ

  備考我軍:傷者 一等兵卒 山川兵五郎 

 南隊の予定部署は「正面本道ヨリ」だったので小川内村付近を通って進んだのであろうが、ほとんどが不明地名であり、内容を理解できない。この報告表を訂正したらしい報告表が次(略)の0196・0197に綴られている。0195・6が総員を三拾九名とするのが相違点。6月8日は93人だからこちらの93人が正しいだろう。オウチー山は誤読の可能性がある。0195ではオウデノー山である。平村は前出の平石村だろうか。

C09084792800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0198・0199

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:鹿児嶌縣下薩摩國伊佐郡ショーブノ

  元

  我軍総員:六拾壹名 戦死:将校 一

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時廣野ノ守線ヲ発シ仝第四時ショーブノ元ニ

  至第五時開戦ス賊塁要地ニアリ固クシテ容易ニ拔ク能ハスト𧈧ノモ我兵

  奮戦突進漸クニシテ賊ノ数塁ヲ陥レ遂ニ尾撃シテ山野村ノ要地ヲ占領ス

  于時午後第三時三十分ナリ 

  備考我軍:即死 陸軍少尉齋藤 孟

 0190と重複するが地名・総員・概略が異なる。これは7月26日記入。0190は午前第一時平石原ヲ発シ仝第四時頃ショーブノモトニ着仝第九時頃開戦午后第一時頃賊敗走ス直ニ尾撃遂ニ平泉村迠占領スとあり、0198では出発地が廣野の守線、開戦時間が午前5時、その地と山野の要地を占領した時間は記さない。他の隊の報告表が揃って菖蒲ノ本占領を午後1時としているので、時間に関する0190の記述は信じていいだろう。平石村即ち平石原は県境南側の五女木牧場近くと考えたが、ショーブノモトは南方の平出水との中間にあると分かる。

C09084792900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0200・0201

  第三旅團第十一聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:鹿児島縣菖蒲本 我軍総員:百三十二

  名 

  戦闘ノ次第概畧:昨十二日午後第十時釘野村一本木ヲ發シ本日午前第四

  時十分菖蒲ノ本ニ開戦午後第一時☐敵ヲ追ヒ山野村ヲ経テ平出水村

  上ニ露営ス 我軍ニ穫ル者:弾薬 千五百發 備考敵軍:彈薬千五百發

  ハヱンピール銃彈ニシテ之ヲ山野村ニ穫ル

 釘野村は久木野村であり、一本木は武田報告(0188)にも登場し久木野の南方にある。菖蒲ノ本も不明だが官軍にとって山野の手前の場所である。平出水村は前後の報告で平泉村や平出村とある場所と同じだろう。菖蒲の本での開戦は井上隊が午前5時、この武田隊が午前4時半となっているがほぼ同時だろう。銃弾は一人平均11発発射している程度なので、それ程激戦ではない。

 C09084793000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0202・0203

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:三ヶ月山ヨリ山野村マテ 

  我軍総員:九拾八名 

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月十三日午前第一時山木塲出發山野村ニ向

  ケ撃同第四時過三ヶ月山ヨリ石河内村山上ノ賊ヲ攻撃午後第一時過ニ

  至リ同所近傍及ヒ山野村ノ賊兵悉ク敗走スルヲ以テ直ニ同所ヘ進入同第

  六時頃平出村山上ニ至リ警備ス此日攻撃援隊タルヲ以テ遂ニ交戦セス

  我軍ニ穫ル者:将校 壱 器械 刀壱本 備考敵軍:明治十年六月十三

  日鬪之際斥候枝隊ノ俘虜 鹿児嶋縣下伊集院郷住 正儀隊小隊長 

  士族 是枝吉藏

 0192・0193にも同様表あるがやや異なる。「三ヶ月山ヨリ山野村迠 我軍総員:九拾壱名 戦闘ノ次第概畧:明治十年六月十三日午前第一時出発三ヶ月山迠出張午後第一時前山野村近傍ノ賊悉ク敗走スルヲ以テ直ニ石河内村ニ進入休戦セリ此日攻擊援隊タルヲ以テ遂ニ交戦セス」三ヶ月は小川内の北東3kmほどの山間部で、北側背後に東西に山並みが連なる。三ヶ月山はその一部又は全部だろう。石河内は石井川内だろう。三ヶ月の南1,2kmほどにある。高熊山の西方約5km付近に平出水があるのが平出村だろう。その北側背後に最高標高427mの尾根があるのが下村隊守備の場所だろう。別働第三旅団が撤収した場所に入れ替わり配置されたのか。

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 負傷して石河内村山上で下村隊(0202)の捕虜になった是枝の上申書は次。

「是枝吉藏上申書」『鹿児島県史料西南戦争第二巻』pp.658・659

  今般鹿兒島逆徒征討始末編輯候ニ付右賊徒懲役人ノ内其事情及戦地ノ形

  状等詳悉致候者ハ該事ノ顚末ヲ上申可仕旨奉拝承左ニ筆記仕候、明治十

  年二月中原尚雄等暗殺ヲ謀ラントノ議発覚シ、政府ヘ尋問ノ為メ陸軍大

  将西郷隆盛仝少将桐野利秋仝少将篠原國幹旧兵隊ヲ率ヒ上京ノ際、

  不図モ途中熊本県下ニ於テ台兵ニ支ヘラレ、終ニ戦争ニ及ヒ候段追々報

  知之赴承リ居折柄、五月下旬勇義隊本営中山盛高十三小隊位ヲ引率シ吾

  伊集院郷ニ着シ、本営ヲ据ヘ兵ヲ募リ、吉藏モ同人ノ達ニ依リ同廿九日

  勇義十四番隊ノ小隊長ニ被命、同日同所発足鹿兒島伊敷村ニ着ス、然ル

  後本営ヨリ差図ニ従ヒ六月五日吾十四番小隊ト振武廿六番小隊同所発足、

  大口ノ内旧山野郷ニ着ス、則同月九日ナリ、同所ノ本営逸見十郎太ノ指

  揮ニヨリ、翌十日同所石川村ノ塁ヲ守ル干城一番小隊ヘ応援トシテ進軍、

  同所ヘ滞陣スル中同十三日午前八時頃惣軍進撃ノ報ニ依リ直ニ繰出シ、

  午后一時頃両陣互ニ発砲ニ及ヒタレハ、味方已ニ敗軍ノ勢ヒニナリ右干

  城一番小隊モ引揚シニ依リ、吾十四番小隊モ同シク引ク、其際二ヶ所ニ

  負傷ヲ受ケ歩行自由ナラス、傍ノ木陰ニ臥居ケレバ忽チ敵兵寄セ来リ、

  其儘降伏ス、依之敵ノ本営ヘ護送セラレ、同十五日八代ヘ移サル、夫ヨ

  リ官軍ノ病院ニ入テ療養ヲ蒙ル、同廿七日頃熊本病院ヘ移サル、

   右戦地ノ形状概文筆記上呈仕候、

            鹿児島県下第廿二大区小四区

            伊集院居住

            当時群馬県已決監囚

   明治十一年二月十一日      是枝吉藏

 是枝は5月29日に勇義十四番小隊小隊長として薩軍に加わり、6月13日に初めて大口市石井川内?(石川村)で戦って負傷し、官軍に降伏、入院した。従軍履歴は二週間だったが、小隊長だったので監獄に入れられている。

C09084793100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0204・0205

  第三旅團大阪鎭臺豫備砲兵第二大隊第一小隊長陸軍大尉村井忠和㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡長葉山 

  我軍総員:三拾七名 内貳拾二名砲護兵 

  戦闘ノ次第概畧:杉田少尉山砲一門ヲ以テ長葉山ニ備エ砲護兵ト乄石川

  少尉徒歩第二小隊ノ内半隊ヲ率ヒテ布列シ午前五時開戦ニ因テ天目山ノ

  賊壘ニ放發ス同十二時半ニ至ッテ賊軍逡巡間ニ乄進軍ノ号音ニテ放射ヲ

  止メ此ニ於テ砲護兵ヲ轉シテ攻撃ノ姿勢ヲナシ歩兵トノモニ前進鋭戦ス午

  后五時賊ノ全軍敗走シ止戦ニ因テ長葉山ニ帰リ露営ス

 芦北郡長葉山が分からない。大関山・国見山の東か南にあるのだろうが。天目山は象徴的な意味で使ったらしく、その名の山が存在する訳ではなかろう。

C09084793200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0206・0207

  第三旅團東京鎭台工兵第一大隊附 陸軍少尉林 庸雄㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡山野村近傍 

  我軍総員:三拾九人  

  戦闘ノ次第概畧:午前零時三十分本隊ヲ切半シ一ハ越小塲村ゟ花山ヲ経

  テ出水村ヨリ進ミ他ハ本道ゟ山野村江進ミ塹溝并ニ架橋築造ヲ成シ翌

  十四日午前第四時皈営セリ

  越木場は久木野の南2,1km付近の地名である。花山は不明。

C09084793300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0208・0209

  第三旅團歩兵第拾貳聯隊第貳大隊第貳中隊長沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:石河内村 我軍総員:百四拾八人  

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時市ノ木山ヲ発シ第五時花山ニ至リ壱小隊ヲ

  弘大尉ノ隊ニ増加シ第九時開戦壱小隊ヲ以テ花山ヨリ進メ正午壱弐時

  石内ヲ畧取ス即時追撃シテ午后第三時山ノ☐山ニ進ム

 越木場の2,2km東側に市木がある。市ノ木山はその付近の山だろう。花山は前掲報告表に何度も出てきたが、市木と石井川内の間にあるらしい。

C09084793400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0210・0211

  第三旅團第九聯隊第三大隊第三中隊陸軍大尉本城幾馬㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡石河内山 

  我軍総員:九拾七名 内不戦五名  

  戦闘ノ次第概畧:六月十三日午前第二時石河内越ノ大哨兵ヲ引拂ヒ仝十

  一時石河内山ニ進撃仝処ニ而午后一時三十分迠戦闘終ニ賊潰散ス依而直

  ニ吶喊進入珠數山下迠尾撃同処ニ於テ大哨兵ヲ布ク此時弾藥五百発ヲ放

  ツ

 珠數山は場所不明。平均5発の小銃弾を射撃している。

C09084793500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0212・0213

  第三旅團工兵第二大隊第壱小隊第壱分隊 陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:オンダラ越 我軍総員:拾五名 

  傷者 下士一人

  戦闘ノ次第概畧:朝第二時大川内村出発ヲンダラ越ニ向ケ進ミ雉子山ヲ

  越ヘタ第六時半頃山野村ニ繰込ミ夜ニ至テ塹溝数ヶ所ヲ築キ翼朝第一時

  内山村ニ引揚ク

 山野村以外は場所不明。雉子山が鬼神山と同じなら、五女木牧場北側の山がそれである。 

C09084793600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0214・0215

  第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉堀部久勝㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:薩州内山郷荒谷山 我軍総員:百貳拾

  人  傷者: 下士卒一人   

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時ヤボ山ノ守地ヲ発シ進テ荒谷山ニ至テ配兵

  ス抑該山タルヤ樹木鬱叢岩石﨑☐而テ賊堡ハ一谷ヲ隔テ左右ニ相對シ其

  右ハ尾ノ上山ニシテ左ハコヽツヽソバ子及シツソウ山其距离共ニ凡ソ千

  米突而シテ我隊ハ☐谷山ノ突出部ニ占位シ尾ノ上コヽツヽノ両賊堡ニ對

  シ開戰ス時ニ第六時ナリ然レノモ該地ハ山谷ヲ隔テ加フルニ險峻ニシテ降

  登セサレハ賊堡ニ達スル能ハス故ニ数時對戦ス時ニ賊軍ノ左翼ニ火ノ挙

  ルヲ見ルヤ賊稍退去ノ色アリ因テ一時ニ閧ヲ発シ疾ク進ム賊乱走我兵追

  北遂ニコヽツヽノ賊堡ヲ陷シ尾撃シテ山野尾邱ニ至リ大哨兵ヲ張ル時ニ

  午後第二時ナリ

 堀部の隊は6月3日には大関山で戦い、以後の動静は分からない。出発地のヤボ山ノ守地のヤボとは五女木牧場(大境)北西1,5km、小川内の北西4,2kmにある藪のことである。堀部の隊が進んだ荒谷山はどこか。三角点荒谷山というのが石井川内の北北東2,2kmにあるが戦闘ノ次第概略を読むと疑いが沸く。もう一つ三角点新ヤ森がさらに東南東4,4kmにあるのが該当しそうである。あらや森と読めるからである。堀部隊は荒谷山の突出部を占めていたというので、細尾根の先端にある標高800mの場所が該当するようだ。ここから約1kmの距離の山と谷を隔てた場所に薩軍の陣地があったというが実際は2km前後離れなければ適当な地形は見当たらない。

 次図は登場地名がどこにあるかの想定図である。シツソウ山は十曽付近にある山のどれかだろう。下図では仮に想定している。

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C09084793700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0216・0217

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:六月十三日  戦闘地名:薩州薩州石河内越尾ノ上山 

  我軍総員:百三十名  傷者:下士卒三名    敵軍総員:百名斗 死者三

  名斗 傷者:不詳   

  戦闘ノ次第概畧:午前三時肥薩境御☐市峠ヲ発シ尾ノ山上ヨリ石川津越

  山野村ニ向フ同七時開戦前面賊砲臺四ヶ所午後十二時半同所ヲ落シ入レ

  追撃シテ山野村ニ至リ防禦線ヲ守ル    

  我軍ニ穫ル者:弾薬エンヒール二箱(千発)ノ他若干 備考我軍:略)  

  敵軍:弾薬二箱ハ本部江送ル其他若干ハ破棄セリ

 石井川内の南1,5km尾之上村がある。堀部隊報告に登場する尾ノ上山とは別で、ここに見られる尾ノ山上のことだろう。なお、弘中はこの報告表の中で尾ノ上山としたり尾ノ山上と間違えたりしている。石川津越とは石井川内を通る路線か。 

 C09084793800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0218・0219

  第三旅團工兵第二大隊第一小隊第一分隊 陸軍少尉横地重直㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:山野村 我軍総員:二拾壱名  

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時布毛村ヲ発シ山野村道ナル牛ノ御川ニ橋ヲ

  架スルヿ七ヶ所終テ午後第一時塹溝造築ノ為メ本道并ニ左翼ニ進メハ賊

  兵既ニ守ヲ捨テ走ル依テ進テ木地山ニ至リ塹溝数ヶ所ヘ築キ第十一時山

  野村百姓甼ニ引揚テ對陣ス

 布計村の谷間の下流約3kmに木地山村はある。牛ノ御川は高熊山の西側にある牛尾川のこととすれば、平地の牛尾川で架橋し、その後、背後のおそらく木地山村の東側にある木地山に塹溝を築いたのだろう。

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C09084793900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0220・00221

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊 中隊長陸軍大尉竹田實行

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:ナスウ山 我軍総員:百三十七名 

  傷者 五名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時フケ山ノ大哨兵ヲ引揚山野街道ニ向テ進軍

  ナスウ山ニ登リ賊ノ右翼ニ出テ直ニ兵配布シ午前四時三十分開戦午后第

  一時賊塁壁ヲ捨テ走ル之ヲ尾撃シテ山野村山上ニ至ル

  我軍ニ穫ル者:弾薬 エンヒール弾三箱 備考我軍:(傷者記述略)

  ナスウ山は場所不明。 

C09084794000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0222・0223

  第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊 陸軍大尉沖田元廉

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:ナスウ山 我軍総員:九拾五名 

  傷者 下士卒二名 

  戦闘ノ次第概畧:午前二時布毛村ヲ發シ山野ニ通スル道路ヲ経テ賊塁ノ

  直下ニ至リ是ヨリ左方ニ折レ深山ヲ越ヘ賊塁ニ相對スル高山即チヒロバ

  山ヲ指シテ進入殆ント山頂ニ達スルヤ賊ノ展望兵アリ一撃之ヲ奔(ハシラ

  )シ遂ニ此山ノ全部ヲ占領谷ヲ隔テヽ戦ヿ数時時已ニ午時ヲ過キ賊勢ノ衰

  フルニ乗シ全部ヲ挙テアイモト山ニ突入直ニ賊塁数ヶ處ヲ奪ヒ終ニ全隊

  ヲ陷ル午后二時三十分ナリ之ヲ尾撃シ山下ニ趣キ戦ヒ止ム即チ山野ハ右

  方眼下又谷ハ前方眼下ニ在リ是ニ於テ兵ヲ停メ此夜アイモト山頂ニ散布

  シテ露営ス

  備考我軍:ヒロバ山ニヲイテ負傷軍曹池田壽定〇同処負傷一等卒森本政

  

 布計村の南東2,8kmに上面の広い標高998mの山があるが、これをヒロバ山と呼んだのだろうか。経路としては矛盾がない位置にあり、付近で一番高い山である。 

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C09084794100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0224・0225

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長齋藤徳明㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:ヒラコ山 我軍総員:百四拾一名 

  傷者 下士卒三名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第十二時遠ノ原出発同七時石村稲前方ニテ賊ノ堡

  塁ヲ見ル直ニ開戦同第十一時賊ノ堡塁ヲ乗取リヒラコ山ニ防禦線ヲ定メ

  守備ス   

       備考我軍:傷者   壱等卒 平山源次郎  

       右ハ久木野小繃帯所ニ送致ス然ルニ水俣ヘ送ル途ニシテ死去ス 

       軽傷   一等卒 原增☐藏

               右ハ久木野小繃帯所ニ送リ保養ス

  同   二等卒 金舗藤四郎

   右軽小ナルヲ以テ小繃帯所ニ送致セス

  備考敵軍:午前第七時賊ノ堡塁ヲ見ル直ニ一小隊ヲ以テ正面該谷ヨリ虚

  撃セント欲スルモ敵兵大ニ我カ正面ニ放火ス此ノ巨离近キハ凡ソ六百米

  突ナリ又一半隊ヲ以テ竹田大尉中隊ノ右翼布毛ヶ鞍ニ向ケ発遣シ彼ノ中

  隊ト共ニ攻撃ス是ノノキ當ル☐ニ賊左右中央ヨリ猛烈ニ射擊ス故ニ甚タ苦

  戦スルヿ一時間余時ニ賊堡塁ヲ捨テ走ラント欲スルノ兆アリ依テ我兵大

  ニ放火ス賊遂ニ走ル我兵進ンテ堡塁ヲ乗取リ進擊シテ山野村ニ至リ兵ヲ

  部署シジツソウ山ニ到リ防禦線ヲ定メ守備ス

          

C09084794200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0226・0227

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:花山近ク進撃 我軍総員:九十三名 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前十二時ニ十分大界山頂出発同五時花山ヘ着直

  ニ開戦奮擊苦戦シテ菖蒲本ノ賊塁数ヶ處略取シ追テ遂ニ山野村ニ達ス于

  時同日午后三時三十分ナリ

 

C09084794300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0228・0229

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月十三日 戦闘地名:山野村 我軍総員:三十八人 

  戦闘ノ次第概畧:抑正面攻撃隊ノ援隊タリ賊逃走スルニ及テ尾擊シテ山

  野村ニ至リ命ニ依リ大哨兵ヲ布ケリ

C09084794400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0230・0231 

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 煥之㊞

  戦闘月日:十年六月十三日 戦闘地名:鹿児嶋縣下稲摩利山 

  我軍総員:百二拾五人 傷者:下士卒 二名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時横楯山ヲ発シ中央ノ稲摩利山ヨリ攻撃スル

  ニ地形困難ニ乄進ム能ハズ依テ左右ノ戦况ヲ窺フニ凡ソ第二時頃右方ノ

  賊敗ルルニ達ルヤ兵ヲ右方ノ山頂攀躋シテ尚敗賊ヲ尾擊シ遂ニ大口ヲ去

  ル一里許リ迠ニ進ムニ至ル然ルニ引揚ルノ命アルヲ以テ防禦ノ線ニ帰リ

  大哨兵ヲ設ク

C09084794500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0232・0233 

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍中尉横地 剛㊞

  戦闘月日:十年六月十三日 戦闘地名:小河内ヨリ山野村 我軍総員:

  將校以下百二十三名 

  戦闘ノ次第概畧:本日未明ヨリ當隊小河内本道ヨ里攻擊午后第二時頃ニ

  至リ賊堡塁ヲ棄テ大ニ敗走ス當隊尾擊終ニ黒岩峠ニ歩哨線ヲ定ム 

  備考我軍:本日死傷無シ

 

C09084794600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0234・0235 

  第三旅團砲兵第四大隊第壹小隊分隊長 陸軍少尉居藤髙次郎㊞

  戦闘月日:十年六月十三日 戦闘地名:鹿児嶋縣下於毛望山 

  我軍総員:六十五人 内不出場十人 

  戦闘ノ次第概畧:左翼援隊トシテ午后第一時毛望山ヲ発シ同九時三十分

  石河内山ニ至リ直ニ歩哨ヲ配布大哨兵線ヲ守備シ遂ニ進テ山野髙山ニ達

  シ歩哨ヲ布キ大哨兵線守備ス

  備考我軍:当小隊之内中央左ノ二分隊ヲ徒歩隊ニ編製シ本城大尉之中隊

  ニ合併ス

 砲兵だが徒歩隊を編成した。

C09084794700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0236・0237 

  第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉久徳宗義㊞

  戦闘月日:十年六月十三日 戦闘地名:肥薩国境ナル山頂ニ於テ 

  我軍総員:四拾九名 傷者:下士卒一 

  戦闘ノ次第概畧:午前第一次古郷村舎営ヲ発シ仝五時着直ニ山砲二門ヲ

  砲臺ニ進メ仝八時ヨリ左方ノ山頂ニ設ケシ賊塁ヲ攻撃ス午后一時賊退去

  スルヲ以テ放射ヲ止ム

 戦闘報告表を列挙してきたが順番に部隊名・隊長名を並べると次のようになる。

1:0228・0229歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 第三旅團 陸軍大尉 安満伸愛

2:0188・0189第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊  陸軍大尉 武田信賢

3:0190・0191第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉 井上親忠※0198にも井上報告がある。   

4:0192・0193第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉 下村定辞

5:0194・0195第三旅團鎭臺歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊附属同聯隊第二大隊

       第四中隊一小隊中隊長大尉 南小四郎

6:0196・0197第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊長       大尉 南小四郎

※上記と微妙に相違。

7:0198・0199第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第三中隊長 陸軍大尉 井上親忠

8:0200・0201第三旅團第十一聯隊第一大隊第三中隊長  陸軍大尉 武田信賢

9:0202・0203第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉 下村定辞

10:0204・0205第三旅團大阪鎭臺豫備砲兵第二大隊第一小隊長  陸軍大尉 村井忠和

11:0206・0207第三旅團東京鎭台工兵第一大隊附            陸軍少尉 林 庸雄

12:0208・0209第三旅團歩兵第拾貳聯隊第貳大隊第貳中隊長          沓屋貞諒

13:0210・0211第三旅團第九聯隊第三大隊第三中隊           陸軍大尉 本城幾馬

14:0212・0213第三旅團工兵第二大隊第壱小隊第壱分隊 陸軍少尉 石川義仙

15:0214・0215第三旅團歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉 堀部久勝

16:0216・0217第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊中隊長陸軍大尉 弘中忠見

17:0218・0219第三旅團工兵第二大隊第一小隊第一分隊 陸軍少尉 横地重直

18:0220・00221第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊中隊長  陸軍大尉 竹田實行

19:0222・0223第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊    陸軍大尉 沖田元廉

20:0224・0225第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長     齋藤徳明

21:0226・0227第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉 矢上義芳

22:0228・0229第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉 矢上義芳

※重複するが内容は微妙に相違。

23:0230・0231第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得中尉 岡 煥之

24:0232・0233第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊陸軍中尉 横地 剛

25:0234・0235第三旅團砲兵第四大隊第壹小隊分隊長  陸軍少尉 居藤髙次郎

26:0236・7第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉 久徳宗義

 井上・下村・武田・矢上の4報告が重複しているので、合計は22報告で、内訳は歩兵14個中隊・工兵3分隊・砲兵3分隊、計2,131人である(表が二通りある場合は前後の員数から妥当な方を採用)。

 これらを「戰記稿」の第三旅団部署表通りに並べると次のようになる(別働第三旅団分もあるが略す)。

進路方向            司令官     各  隊  長

正面本道ヨリ            古田少佐  攻撃兵:大西・岡・南、援隊:安満

花山ヨリ              内藤少佐  攻撃兵:矢上・井上・武田、援隊:下村 

中央ナスウ山ヨリ          友田少佐  攻撃兵:弘中・堀部・本城、援隊:沓屋

左翼ナスウ山布毛ヨリ山野村通リヲ  川村少佐  攻撃兵:竹田・沖田

 この他、「餘ノ兵ハ皆舊線ヲ守備シ命ヲ待タシメ本陣出張所ヲ肥薩國境ノ山上ニ移ス」とあり、攻撃隊・援隊に属さない部隊は旧守備線で守備することになっている。ただし、守備部隊の具体的名称は記載がない。

 上記戦闘報告表の内、部署表にないのは村井忠和(大阪鎭臺豫備砲兵第二大隊第一小隊長)、林 庸雄(東京鎭台工兵第一大隊附)、石川義仙(工兵第二大隊第壱小隊第壱分隊)、横地重直(工兵第二大隊第一小隊第一分隊)、齋藤徳明(歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長)、横地 剛(近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊)、居藤髙次郎(砲兵第四大隊第壹小隊分隊長)、久徳宗義(東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長)の8個の部隊で、砲兵・工兵が抜け落ちていることになる。また、部署表にある大西大尉は戦闘報告表がない。この点、「戰記稿」は不完全な記述であると思うが彼らも戦闘に加わっており、その行動は「戰記稿」の記載からは漏れている。

 第三旅団附少尉だった亀岡泰辰著「西南戰袍誌」にもこの6月13日の記述があるが、部隊数に関しては「戦記稿」と同じである。「午前三時三十分より本道大口竝花山、十曾山の賊を歩兵十二個中隊砲兵二分隊工兵三分隊を以て攻擊す賊必死防禦に努むるも力屈して退走す、之を尾擊して山野麓に侵入し之れを取り其前方に守線を備ふ」とあり、内訳は少し異なるが歩・砲・工の区別はしている。戦争は毎日進行し、新たな戦記が積み上げられてゆく。微細な(おそらく)間違いはそのままになってしまう。

 

大境とはどこか?

 以上の戦記の中で大境あるいは大界という地名が何度も登場するが、場所がよく分からないので検討したい。

  五月十日大口麓ニ陣ス、官兵山野ニ在ルヲ聞キ、翌未明之ニ赴ク、本道

  ノ正面ヨリ二中隊ヲ以テシ、外五中隊ハ三間道ヨリ進ム、我隊外ニ三中

  隊ハ大口ノ内遠国見ケ岳ノ後ヲ廻リ官兵ノ背ヲ突ク、官兵動揺、敗走シ

  テ小河内ヲ過キ同所坂ノ上大境ニ防禦ス、此時辺見策ノ能ク行ハレシヲ

  悦、又大砲ヲ坂ノ中央ニ揚ケ頻リニ連発、小銃モ斉シク発炮、我隊ハ左

  翼ノ山ニリ之カ横ヲ突ク、日既ニ暮ントスルトキ官兵復退テ水俣ノ上

  ニ至ル、我軍之ヲ尾撃ス(「山口通淸他三名連署上申書」pp.284~289『鹿児島県史料 西南戦争第四巻』)」

 西方の水俣から県境を越えて山野村に進んでいた別働第三旅団に対し、薩軍は5月10日反撃して熊本県方向に追い返した。途中、小川内を過ぎた坂の上にある大境に退いて防禦する官軍を手前の坂の中央に大砲を置いて連発した。上申書の山口らは左翼の山から大境の官軍を攻撃し、官軍は水俣に退却した。大境は小川内と水俣を結ぶ路線上にあると分かる。

 次に掲げるのは別働第三旅団の兵士の従軍日記である。水俣から大口の山野村に進軍する際の記述である。

  それより石坂峠を登る嶺に達する頃、大降雨にして困難せり。この高山

  を即ち国見山といい、俗に大界と称す。山頂すなわち薩肥国境標杭あり。

  それより降りてコカハチに着す。この村人家三十戸ばかり、ことごとく

  薩の郷士族にして賊軍に出兵せりと。家族共は我が兵至るに先立ち、皆

  ことごとく山間に逃れて一人も居らず

  (喜多平四郎著「征西従軍日誌一巡査の西南戦争」pp.155)

 水俣側の石坂にある峠を登り尾根の頂上に着いたところを国見山としており、大界ともいうとある。大界は薩摩と肥後の国境であり、県境に位置する。そこから鹿児島側に下ると小川内に着く場所である。なお、小川内には江戸時代に鹿児島藩の三大関所の一つ小川内関所があった。ネットを検索すると関所の石碑や看板はやたら引っかかるが、そこから水俣に至る路線を説明したものは見られない。旧道を歩いた人達の写真の投稿もあるが、地図上で示してないので路線を理解できない。 

 次は上記の官軍を追撃した熊本隊の記録である。

  小河内山上ノ敵ヲ尾擊ス我兵且ツ戰ヒ且ツ進ム敵軍随テ敗レ随テ走ル薄

  暮大境(即チ薩肥經界ノ所鬼神峠ト穪ス)ヲ越ヘ水俣地方ニ向テ走ル我軍敢

  窮追セス此夜山上ニ露宿ス星月娟々(※けんけん)冷氣人ニ逼ル(佐々友房「戰袍日記全」pp.343)

 次に掲げる明治23年の地図によると、小川内と越木場を結ぶ路線と、小川内と石坂を結ぶ路線とが認められる。石坂を結ぶ路線は小川内から県境を越えると(この地点を佐々は鬼神峠と記す)熊本側を県境に沿うように進み、石坂に蛇行しながら到着している。

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 これを現在の地図と比べると県境に沿うように進む道は存在しない。大境あるいは鬼神峠はどこか。三角点の所在地地名として鬼神が五女木牧場のすぐ北側の県境にある。上図に示すように標高564mで、やや高まった場所である。ここが大界あるいは大境であり、鬼神峠あるいは国見山とも呼ばれた場所であろう。◦で示したのが明治22年の地図にある路線を現在の地図に落としたものである。推定した大境には今は道路の表記は見られないので、獣道のような状態で森の中に残っているのだろう。

 明治22年の地図には小川内から越木場を経て久木野に通じる路線も描かれている。大関山周辺にいた第三旅団の一部はこの道を通って小川内に進軍した部隊があったと思うが、こちらの推定は地図以外の情報が乏しく、路線推定が難しいので止めた。

 なお、後藤正義著「西南戦争 警視隊戦記」の挿図には大境や小川内から石坂・久木野に通じる路線が示されている。真似したわけではないが、大境の位置は一致し、石坂路線は前述の推定とよく似ている。

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    6月13日、県境付近の戦いに敗れた薩軍側の内、熊本隊が山野村の東方にある高熊山に守りを付けた。この時、谷を隔てた東側の坊主石山は薩軍の伊集院権右衛門が守り、左翼は「平泉、淵邊トガメ岡近傍ニ至テ止ミ守線數里ノ間ニ連絡ス」(佐々友房「戰袍日記全」pp.159)る状態となる。井上報告にあるように平出水村はこの日第三旅団が占領し、南側の尾根である猩々山も別働第三旅団が占領している。平泉つまり平出水は官軍が占領したので佐々にはこの情報が届かなかったのだろう。

 別働第三旅団の戦記も見ておきたい。

  C09083011800「十年九月 来翰録 日知屋村出張本営」防衛研究所

  六月十三日第三旅團ト謀リ山野ヲ撃ツ第三旅團ハ左翼ヨリ我團ハ右翼タ

  リ我兵午前第七時ヨリ戦ヒ悉ク旭嶽近旁ノ賊壘ヲ取ル八時頃谷ヲ渡リ小

  河内前面ノ岡ニ登リ賊背ヲ衝ヒテ之ヲ走ラシ営ニ火スル者十餘遂ニ山野

  ニ入ル既ニ乄第三旅團ノ兵至リ共ニ賊ヲ大口街道ニ追撃ス是日我團兵賊

  壘ヲ拔クモノ凡ソ百餘

 旭岳、朝日岳ともいう山を奪って東に進み、小川内村の南側の尾根を攻撃し、山野村に進んだ。この13日に別働第三旅団は薩軍の台場約百基を奪ったというから、朝日岳周辺から小川内周辺にはまだ多数の台場跡が残っているのかも知れない。

 人吉市街を6月1日に占領した別働第二旅団は15日、敵が大口北西部の木之氏村辺を固く守っているのを知り、そこから人吉に通じる県境熊本側の田野を抑えておくべきだと考え、熊本・鹿児島県境地帯の部署を新規に設けた。それらは観音坂と青木越に守備歩兵1個中隊と3小隊、田野村に進軍のための歩兵6個中隊と砲兵2小隊である。

 以下は上記に関する別働第二旅団高嶋少佐の報知文である。読めなかった部分があるので原文も掲げる。

C09085484400雑書 ト第4号 第5方面 明治10年5月18日~10年7月31日(防衛省防衛研究所)0161~

  大口ハ多分第三旅團ニテ陥レ候見込ニ付其含ニテ御發途有之候處唯今井

  野大尉ヨリ報知来リ其事実概ネ御承知ナルヘシ(途中ニテ探偵者ニ御逢ノ

  事ナレハ)賊木ノ内近傍ヲ頑守致居ル趣就テハ田野越ノ防禦方昨日残シ置

  候一中隊半ニテハ甚タ手薄ニ付不取敢增兵候様三好少佐ニ為打合田野江

  發途為致候猶賊状ニ依リ下官も彼ノ地ヘ出張可致而シテ大口未タ落チサ

  ルニ於テハ青木越等も防守ヲ厳重ニセサル可ラス候ニ付左翼ヘ十分延線

  ハ六ケ敷到底左翼ヘ延線候ニハ第三旅團ヲシテ速ニ大口ヲ取ラシムルヲ

  上策ト存候然ル處田野越ト本陣ノ間ハ御承知之通土地遠隔加フルニ山路

  甚タ険悪ニ付彼是往復ニ時間ヲ費シ候てハ時機ヲ失スル必然ニ付前面木

  ノ内之傍ノ賊ヲ掃攘候上機ニ依リ大口ヲモ突撃可致所存ニ候間彼ノ地方

  攻守之義ハ一時下官ニ御委任相成候様團長ヘ開申許可ヲ得候様可☐成候

  此段至急申入候也

   六月十五日午前七時

        大河間

           高嶋少佐

      大畑

       安藤少尉試補殿

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 翌16日、別働第二旅団の一部が田野村から県境を越えて南下し、黒萩山に進むと、前面1kmほどの高熊山・坊主石山やそれらの左右に薩軍の陣地が連なっているのを目撃した。13日の官軍の攻勢で水俣方面の県境地帯を追われた薩軍と熊本隊がこの線で新たな守備線を構えていたのである。

 官軍の記録に対応する薩軍側の記録も見ておきたい。水俣や大口で戦った薩軍の正義隊四番中隊の記録で、彼らが人吉盆地に入り、その後水俣・大口で戦った過程が理解できるものである。文中に(※)で日付などを加えた。

 野村源右衛門上申書第四巻pp.390~393旧二番大隊六番小隊正義四番中隊左小隊半隊長 

  江代ニ着ス、此ニ十余日滞陣、其間各隊ノ編製ニ依リ我隊ハ正義四番中

  隊左小隊トナリ、林一郎中隊長タリ、又同所ヲ発シ人吉ニ至リ、辺見十

  郎太ノ指揮ニ依リ其翌日人吉ヲ発行シテ田野ニ着ス、然ルニ官軍大口ヘ

  侵入ノ報ニ依リ各隊ノ軍配一決、我隊ハ大口方面ヘ進軍トナリ、其翌日

  発足シテ大口ノ内木ノ内ヘ着ス、即日守禦ヲ構フ、午后三時青山ノ本営

  ヨリ急報来リ、明暁総進撃ノ令ヲ達セリ、其夜高隈岡ノ上ヘ番兵ヲ出シ、

  翌日(※5 月9日)午前六時各軍進ンテ官軍ニ相当ル、我隊ハ牛尾村ヲ経

  テ右翼ノ山上ニ攻撃激戦ス、数刻ニシテ本道ノ味方憤激突戦、遂ニ官軍

  ヲ破ル、我隊モ亦山上ノ敵ヲ破ツテ追撃、山野ノ内石小路ニ至ル、其時

  我隊ノ戦死壱名・手負二三名ナリ、即日ノ分捕雑品数十駄ニ及フ、夜ニ

  入ツテ当所ニ宿陣ス、翌(※5月10日)午前七時又進撃、大ニ官軍ヲ破リ

  尾撃数里、遂ニ水俣内深川ニ至ル、此ニテ官軍止戦ス、味方モ又本道

  且左右翼ニ守場ヲ構ヘ激戦数ケ所ナリ、我隊ハ左翼ノ丘上ニ登ツテ応援

  ヲナス、午后四時頃我四番中隊行進十一番中隊ト谷川ヲ渡リ敵ノ横面ニ

  出テ、屡官軍ヲ悩マス、依之官軍防キ兼大半引退ケリ、然ルニ我後面ニ

  当リ忽チ砲声烈シク聞ヘテ我隊ニ迫ル、依之俄ニ守場ヲ構ヘテ憤戦スル

  ニ官軍尚迫ル、其間纔ニ数歩ニ過ス、時ニ我隊ノ死傷七八名ナリ、時既

  ニ暮ニ及ンテ共ニ戦ヲ止ム、我隊ハ又谷川ヲ渡リ本ノ守場ニ帰ル、此ニ

  滞陣三四日ニシテ右翼ニ出塁ヲ築キ一日防禦ス、其翌日(※5月17日)官軍

  久木野ニ進軍スルニ依リ又該地ニ赴ク、其翌日(※5月18日)総進撃、我隊

  ハ本道ノ左翼山上ニ出ツ、其時官軍上木場ニアリ、数塁ヲ築キ我軍ヲ防

  ク、依之右翼ノ味方山上ヨリ進ンテ憤闘頻ニ逼ル、午后一時頃官軍防キ

  兼、遂ニ塁ヲ撤テ逃走ス、味方等シク起ツテ尾撃数町ナリ、我隊ハ本道

  ヲ進ミ塁ヲ奪フテ禦戦ス、其時官軍ノ死骸十余名アリ、味方モ又死傷数

  名ナリ、此ニ防戦四五日、或日(※6月3日)未明右翼ノ山嶺(※大関山の長左

   衛門釜?)ヘ官軍潜ニ来襲、味方ノ不意ヲ打テ大ニ激戦スト雖味方要害ニ

  依リ防戦スルヲ以テ官軍利アラス、遂ニ退ケリ、二三日ヲ経テ官軍大挙、

  又山嶺ヲ伝フテ攻撃甚急ナリ、味方暫ク防戦スト雖衆寡敵シ難ク終ニ敗

  軍トナリ、数町引退ケリ、此ニオヒテ我隊モ本道ヲ守ル事能ハス、三町

  余兵ヲ引テ又防戦ヲ為ス、其時本営辺見十郎太乱軍ヲ集メ自ラ進ム、其

  驍勇ニ励マサレ各隊返戦憤闘、大ニ官軍ヲ破リ始ノ諸塁ヲ乗取ル、官軍

  ノ死骸三十四五名アリ、我隊ノ負傷六七名ナリ、又四五日防戦ス、或夜

  半官軍ノ各隊卒爾ニ虚発ヲ放ツテ我軍ヲ驚カス、其後二三日ヲ経(※6

   月13日)官軍ヨリ進擊数刻、或ハ退キ或ハ進ミ午后四時頃ニ至リ遂ニ

  方敗走、官軍尾撃数町ニ及フ、我隊ハ久木野ニ出テ又祝小路ニ至リ宿陣

  ス、翌日塁ヲ築キ守禦二日、然ルニ水俣本道石坂ノ戦ヒ味方敗軍ノ報ニ

  ヨリ、我隊半隊ヲ分ツテ忽チニ該地ニ出張スト雖戦止ムニヨリ宿陣ス、

  翌日仁礼新左衛門ノ指揮ニヨリ塁ヲ築キ守防ヲ構フノ処、官軍亥ノ嶽

  リ大挙襲来各隊ノ塁ヲ突ク、我隊ハ大境ヲ守ツテ接戦憤闘数刻ニ及フ、

  時ニ官軍我隊ノ横面ニ突出シテ烈シク攻撃ス、且左翼ニ有ル味方敗シテ

  官軍我後面ニ出ルニ依リ守ヲ撤テ退キ、且戦ヒ漸ク味方ニ達スルヲ得、

  時ニ味方本道ニ止戦大ニ振フ、又祝小路ニアル味方来ツテ横撃シ屡官軍

  ヲ追撃ス、暫ニシテ又官軍辺戦、抜刀接戦各隊ニ迫ルニ依リ遂ニ味方ノ

  敗軍トナリ山野迄引揚タリ、時ニ我隊ノ負傷十余名ナリ、翌日石小路

  (※石井川内)ニ守禦ヲ構フ、滞陣一週間位ニシテ官軍進撃我塁ニ迫ル、午

  前六時ヨリ午后四時頃ニ至ル迄接戦甚烈シ、其時辺見来ツテ自ラ指揮シ

  大ニ衆ヲ励マス、我小隊長前田弥一郎手ヲ負、其余死傷十余名ナリ、時

  ニ本道ノ味方撃破セラレ敗走スルニ依リ我隊モ又退ヒテ大口ノ内木ノ内

  ニ至リ、又本道ニ出テス、其時官軍川ヲ隔テ我隊ヲ横撃ス、依之我

  隊川ヲ渡リ進撃、直ニ抜刀接戦大ニ官軍ヲ破リ追撃五六町、生捕壱名、

  五六名ヲ斃シ銃器・弾薬許多ヲ分捕ス、其他生捕十名余・分捕許多各隊

  ニ得タリ、我隊ハ辺見ノ指揮ニ依リ郡山村ニ守塁ヲ構フ、于時旧暦五月

  三四日ナリ、其時官軍大砲ヲ発シ三方ヨリ我軍ヲ打事終日ナリ、同十日

  (※6月20日未明官軍両(※雨)ヲ犯シ、ノ右翼髙隈山ニ在ル熊本隊ノ

  守場ヲ攻撃シ烈戦数刻、官軍尚迫リ、遂熊本隊ヲ破ツテ追撃ス、我隊

  モ又兵ヲ引大口ニ至ル、味方ノ諸軍散乱、備不全、此ニ於テ辺見十郎

  太雷激敗兵ヲ励マシ衆ニ先ツテ進ム、我隊ハ隊ヲ分ツテ本道ヨリ進ミ

  直チニ抜刀官軍ニ迫ル、忽三名ヲ斃シ尚進ム事町余、雖然右翼ノ味方

  進マサルヲ以テ暫止戦ス、其時両足ニ銃創ヲ負、則清水病院ニ入院シ、

  其間十余日ニシテ官軍我国分ニ進入ニヨリ暫ク難ヲケテ山中ヘ潜居シ、

  其后旧六月廿四五日頃遂ニ降伏仕候也

 亥ノ嶽とは地図では鬼岳とある標高734mの山らしい。ここから北北西2,2kmにある巧み通(工の通という三角点がある)という戦跡もよく出てくる地図にない戦跡である。正義四番中隊左小隊は水俣の深川まで攻め入っているが、右小隊は後に掲げるようにその北東側の大関山で守備していた。高熊山の戦いの前にいた郡山村は高熊山の南西麓の村である。

 ついでに、水俣の戦跡で国土地理院地図に記載がない所を前掲の「西南戦争警視隊戦記」から転載しておきたい。他で触れる予定がないので。

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 水俣における辺見十郎太の逸話を2017年に「水俣西南戦争史研究会」が発行した「水俣の戦い 戦跡ガイドマップ」(同会の松本博幸さんから頂いた)から紹介したい。

  ある日、深川本通りから少し奥まった農家の前で、着替えを取りに来た

  老婆に出くわした辺見は、すかさず「風呂はわいとっけ?」と聞きまし

  た。短気な辺見を怒らせない方法を心得ていた老婆は「は、はい、よう

  沸いとります。はいんならんか」と答えました。すると、いつもなら

  「よかよか、あとで来るで」と機嫌よく立ち去る辺見が、その日に限っ

  て「ならば案内せい」と老婆のあとからついてくるではありませんか。

  老婆は凍る思いで庭まで来ると「あそこの柿のにきです」と指差し、

  屋の陰から震えて見ておりました。すると、刀と衣類を柿の枝にひっか

  け、素っ裸になった辺見は水風呂とは知らずにざんぶと飛び込み「うー

  ん、よか風呂じゃ。よう沸いとる」と独り言をいいながら目を閉じ、し

  ばらくすると衣服をつけ、隠れている老婆に向かって「ほんにええ気持

  ちじゃった。あいがとう」と礼を残し井良迫の本営に急いだといいます。

   それから深川周辺では「辺見どんは、ほんなこて偉か人」とますます

  敬愛されたそうです。

 5月の水風呂に入れられて、なかなか言えない言葉ではある。

 正義四番中隊長だった林一郎の上申書を掲げる。 

林一郎・服部喜壽連署上申書pp.871~876「鹿児島県史料西南戦争第二巻」正義四番小隊左小隊長

  (山野の官軍を追って県境を越え、正義四番中隊の)

  自分左小隊ハ本道ニ防戦ス、右小隊ハ山神ト云聳ヘタル山径一筋アル頂

  キニ台場ヲ築キ此ニ守兵ス、同廿九日頃未明ヨリ官兵突然声ヲ発シテ来

  襲フ、互ニ銃ヲ放ツテ戦フト雖トモ遂ニ味方敗走、山ノ中腹ニ退ク此ニ

  自分隊半隊長服部喜之丞外ニ壱名戦死、然ル処午后五時頃味方ノ総軍旧

  地ヲ復セント烈シク戦フ、官兵辟易シテ敗走ス、直ニ味方ノ総軍進テ旧

  地ニ到リ防戦数日此ニ服部喜寿半隊長トナリ、時ニ六月十三日頃ナラン、

  官軍大ニ寄セ来リ勢ヒ烈ク遂ニ味方敗北此ニ自分隊死傷五名、各隊岩井

  河内ニ曳揚ケ此ニ守兵ス、同十八日頃猪ノ嶽方面ノ味方敗軍ニテ応援ノ

  報知アリ、半隊ヲ率テ大境ニ到レハ既ニ官軍曳退テ味方ノ軍モ亦兵ヲ纏

  メ台場ヲ築クノ央ナリ、自分隊ハ半隊長ニ譲リ岩井河ノ本隊ニ帰ル、

  翌日午前六時頃官軍福タ大境ニ襲来、味方不利ニシテ五町位退キタル報

  知アリ、然ルニ当地ノ各隊曳揚ケ、大境味方ノ戦地ニ到リ攻撃スルコト

  甚急ナリ、官軍敗走ス、追撃スルコト僅ニ七八町、時ニ官兵要地ニ拠リ

  固守ス互ニ砲戦稍々三時間遂ニ又味方敗走シテ山野郷ニ退ク、分隊

  ハ右翼ノ山手ニ守兵ス、同廿六日頃未明ヨリ自分隊ノ正面ニ官軍来襲フ

  、互ニ銃ヲ発シ烈戦ノ処此ニ自分隊負傷二名、未タ勝敗決セサルニ左

  ノ味方敗軍ノ報知アリ、各隊曳揚ケ時分隊ハ本道ニ出ル、然ルニ官兵左

  翼ノ方川向ニ寄セ来リ、時ニ味方斉シク川ヲ渉リ抜刀声ヲ発シ駈込ミ、

  官兵二名ヲ斃シ追撃スルコト十四五町、銃五挺・弾薬二千五百発余分捕

  アリ、時ニ其場ハ外隊ヘ譲リ置キ大口郷ノ内西水流村ヘ到リ此ニ守兵ス、

  是時七月一日ナラン、未明ヨリ官軍大ニ寄セ来リ互ニ砲戦烈ク此ニ自分

  隊死傷四名、然ルニ右翼ノ味方敗走ノ報知アリ、総軍退テ湯之尾郷ニ

  リ、自分隊ハ段山ヘ位地ヲ定メ台場ヲ築テ此ニ守兵ス、

 冒頭の山神は大関山である。猪ノ嶽は亥ノ岳、つまり鬼岳か。右小隊が大関山を守ったとある。6月13日に官軍が大関山を攻撃した際に守っていた薩軍側の一部隊の記録である。敗走して次に守りを付けた岩井河内とは山野村の北側にある石井川内だろうか。岩井河内という地名が他でもよく出てくる。

 

 「戰記稿」には6月14日・15日の第三旅団の記事がない。15日は人吉盆地東南部の湯前町と宮崎県西米良村への県境横谷峠付近で大砲も使用した戦いが薩軍と別働第二旅団との間であっただけだが、この音が60km離れた水俣に行く途中でも聞こえたのだろう、三浦少将が水俣から次の電報を出している。

C09084904300「第二号 自五月至六月來翰綴 第三旅團参謀部」0582

  發局水俣局 六月十五日第一時・着局仁王木局 出:水俣三浦少将 

  届:小河内イビタイサ(※揖斐大佐)

  ジウイチジハン。ミナマタヱチヤクセリ。コンヤハトウチニシシクセ

  リ。トチウニオイテ。シキリニ。ホウセイヲキク。イジヤウハナキヤシ

  キウホウチアルベシ。モヨウニヨレバヒキカエスベシコトウヲマツ

 漢字仮名混じりにすると。(十一時半。水俣ヘ着せり。今夜は当地に止宿せり。途中に於いて頻りに砲声を聞く。異常はなきや、至急報知あるべし。模様によれば引き返すべし。御答を待つ。)

 電報の着局は水俣市市渡瀬仁王木で、久木野川流域にあり久木野の3,2km下流である。仁王木から大口西部の小川内までは人力での伝達しかない。

 15日夜、薩軍は大口本営で山野村攻撃を決めた。

  十五日無事、此夜大口本營ニ會議シ薩肥各々三四中隊ヲ以テ野襲擊ノ事

  ヲ決ス十六日前四時各隊大口ヲ發シ坊主石山、髙熊兩山ノ間ヨリ深山ヲ

  迂回シ繞テ山野敵營ノ脊ニ出テント欲ス行ク里許、相待ツ約ノ如シ獨リ

  伊集院来リ他ノ薩隊期ヲ誤テ至ラズ天明クルニ會テ果サズ乃チ轉シテ正

  面ヨリ三四髙阜ヲ越ヘ深谷ヲ隔テ射擊ス互ニ勝敗ナシ既ニシテ敵兵繞テ

  坊主石山上ニ出ルノ狀アリ乃チ兵ヲ引テ髙熊守線ニ還ル。   

  (「佐々友房戰袍日記全」)

 16日時点では薩軍の配置は左翼を鳥神岡、中央は高熊山 、右翼を坊主石山の状態であった。官軍はこの日は攻撃計画はなく、各地で守備についていたが、午前8時、第三旅団右翼の小木原村に敵軍が襲来し、午後4時頃に敗走した。この日の戦闘報告表があるので掲げる。

C09084794800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0238・0239 

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木直

  戦闘月日:十年六月十六日 戦闘地名:山野村右翼山上 

  我軍総員:八十七人 

  戦闘ノ次第概畧:午前第九時頃ヨリ賊復我軍防禦線ノ右翼ニ襲来ス是ニ

  依テ我隊賊ノ側面ニ向ヒ是ヲ狙撃ス賊終ニ進ム能ハスシテ午后第四時

  退 

 佐々木隊は前回、13日の戦闘には加わらなかったらしく、部署表にも登場せず戦闘報告表もないので、大関山か久木野付近の背後を守っていたのだろう。この日は山野村右翼山上というから、大口盆地中央部の羽月川の右岸山地に展開していたのだろう。

C09084798300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0308・0309

  第三旅團大阪鎮臺豫備砲兵第二大隊第一小隊 陸軍少尉杉田豐實㊞

  戦闘月日:六月十六日 戦闘地名:鹿児嶋縣下薩摩國伊佐郡セメンノ丘 

  戦闘ノ次第概畧:山砲一門午前第七時小河内村ヲ発シ内藤少佐ノ営舎ニ

  至リ砲車ノ地利ヲ定ム將ニ登山ノ際雨頻ニ降リ因テ平出水村ニ當リ午後

  第五時軍議ニ依テ法清寺山ニ登リ露営ス午后第八時徒歩砲兵護衛ト乄兼

  備共ニ露営ス十六日午前第六時ヨリトカメ丘ニ向ツテ発射ヲ始ム賊應セ

  ス同第八時頃濃霧遽ニ懸リ展望スル能ハス因テ發射ヲ止メ休息ス然ル処

  賊急ニ右傍ヨリ襲ヒ来ル内藤少佐ノ指揮ニ由リ平出水村ニ下リ向ヒ野ノ

  丘ニ於テ亦発射ヲ始ム午后第四時平山野村ニ帰ル

  我軍総員:三拾三名 内十五名砲ノ護兵  傷者:軍属 壱名

 法清寺は法満寺か。20日の部分で報告表に登場する。

C09084794900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0240・0241 

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:十年六月十六日 戦闘地名:山上村邊 我軍総員:九十五名 

  傷者:下士卒三名 敵軍総員:凡五十名斗リ 死者:二名 傷者:不詳

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第八時頃ヨリ賊我カ正面谷ノ森林ニ屯集シ直

  ニ襲来ス故塹壕ヨリ専ラ狙擊シ對戦スルヿ既ニ三時間ニシテ彼レ突進

  スル能ハス遂ニ方向ヲ変シ我カ右谷ヨリ我カ側面ヲ目擊シテ突入ヲ謀ラ

  ントス茲ニ於テ速ニ右方ヘ散兵ヲ配置シテ復タ對戦セシムト𧈧ノモ彼レ目

  的ヲ達スル能ハス遂ニ散乱逃走ス于時同日午后三時ナリ 

 前回13日の報告では矢上隊は大境経路らしい菖蒲ノ本の敵を追い、山野村ニ至リ命ニ依リ大哨兵ヲ布ケリという状態で終えていたが、大哨兵の具体的な場所は分からない。

C09084795000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0242・0243 

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:十年六月十六日 戦闘地名:鹿児島縣薩摩国大口掛黒岩 

  我総員:百四名 傷者:下士卒壹名  敵軍総員:凡五十名斗リ 

  死者:二名 傷者:不詳

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時十五分鹿児島縣薩摩國大口掛リ黒岩ニ於テ

  大哨兵ヲ布置歩哨勤務中彼ヨリ進擊ノ處之ヲ擊拂   備考我軍(※負傷者名略)

 平山隊も13日の報告表はなく、その前の戦闘では3日に大関山南西側のゴットン石を占領している。16日は黒岩を守備中に薩軍から攻撃されたが撃退している。黒岩は大口の中心部の西側、羽月川左岸にもあることが判明した。奈良文化財研究所の全国の遺跡発掘調査報告書を見ていたら、鹿児島県の報告書の中に載っていた。

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C09084795100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0244・0245 

  第三旅團近衛歩兵第三聯隊第一大隊第二中隊 陸軍中尉横地 剛

  戦闘月日:十年六月十六日 戦闘地名:黒岩峠 我軍総員:將校以下百

  貳十一名  傷者:下士一名 兵卒一名 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第六時頃俄ニ敵襲来頻リニ右翼ニ迂回セント

  ス依テ當隊直ニ一半隊ヲ分遣シ之ヲ禦キ留ム   備考我軍(※負傷者名を略す)

 前回13日の報告表では横地隊は本日未明ヨリ當隊小河内本道ヨ里攻擊午后第二時頃ニ至リ賊堡塁ヲ棄テ大ニ敗走ス當隊尾擊終ニ黒岩峠ニ歩哨線ヲ定ムとある。13日以来黒岩峠の守備を続けていたのである。薩摩と肥後を結ぶ小川内本道から進んで黒岩峠に着いて哨兵を置いたのだから、黒岩峠は鹿児島県内に入った場所の峠である。黒岩は平山隊報告で大口町の西側、羽月川左岸にあると考えた同じ場所である。戦闘開始時間は他の報告よりもニ時間位早い時間を記している。

 この16日の「戰記稿」も戦闘報告表を基に執筆したようである。上に掲げた諸報告を次のように纏めている。

  是時ニ當テヤ連日ノ戰、賊皆敗レ悉ク要地ヲ失ヒ唯〃厪ニ大口ヲ固守ス

ノミ然レ

  ノモ猶ホ鳥神岳坊主石山高熊山等ノ險ニ據リ必死防戰ノ術ヲ講シ是日午前

  八時第三旅團ノ右翼山上村正面小木原村ノ森林中ヨリ襲來セリ是ニ於テ

  矢上大尉ノ一中隊ハ其正面ヨリ佐々木大尉ノ一中隊ハ側面ヨリ壘ニ據

  狙擊シ黑岩邊ノ守線ニ在ル平山大尉横地中尉ノ隊モ共ニ之ヲ撃ツ十一時

  ニ至リ賊忽チ方向ヲ轉シ右翼ノ溪谷ヨリ遶リ却テ我側面ヲ突撃セントス

  乃チ矢上ノ一中隊ト横地ノ一半隊ヲシテ速ニ撒兵ト爲リ之ヲ邀撃セシム

  賊進ム能ハス午後三時遂ニ大ニ敗走ス是日我中央及ヒ左翼モ亦賊ノ襲撃

  ヲ受ケシカ皆之ヲ撃却ケタリ是戰我軍傷ク者下士一名兵卒三名ノミ(以下略)

 良くまとまっているが地図と共に説明されていないので、分かったような分からないような読後感が生じる。

 6月16日の件を薩軍側の記録から見ておきたい。「薩南血涙史」は簡単に記す。

  六月十六日

  靑木村の雷擊八番中隊(綾部直景)雷擊九番中隊(隊長未詳)は此日昧

  爽羽月の官軍を進擊す、敵險に據り善く拒ぎ激戰終日勝敗を决せず夜に

  入り兵を収めて靑木村に還る、此日前山國寧雷擊八番中隊左小隊長とな

  る。

 

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    16日、第三旅団は17日に高熊山を攻撃を予定すると共に、人吉方面にいる別働第二旅団にもその東側にある坊主石山を攻撃するよう依頼した。そして17日に別働第二旅団は坊主石山と高熊山を攻撃したが第三旅団が攻撃しないので、退却して砲撃のみに切り替えた。この件に関して「征西戰記稿」は淡々と事実経過のみを記しているが同書の材料となった別働第二旅団の記録を掲げる。ただし、下記の部分は「戰記稿」には記載されていない。

  仝十七日早暁諸隊ニ哨線ヲ発セシメ第三旅團ノ開戦ヲ俟ツニ天已ニ明ケ

  テ猶一丸ヲモ発セス甚タ之ヲ怪ムノ際我カ左翼兵第廿一第廿二第廿三ノ

  三中隊開戦防主石山ニ向フ右翼兵第廿八第三十ノ両中隊モ亦開戦ス是ニ

  至リテ日已ニ髙シ而シテ第三旅團猶戦ヲ始メス依テ窃カニ之ヲ疑ヒ恐ク

  ハ同團俄カニ他故ヲ生シ為メニ約ニ違ヒシカ若クハ十七日トアリシハ十

  八日ノ誤字ナリシカト察シ我カ兵ノ未タ深入セサルニ際シ順次ニ旧線ニ

  復セシム(此傷者下士一卒一)(發射砲丸五十四個)已ニシテ將ニ其事由ヲ第

  三旅團ニ質問セントスル時午前第十一時頃同團ヨリ渡邉中尉揖斐大佐ノ

  傳令トシテ来リ本日ノ攻擊嘗テ約スル所アリト𧈧モ明十八日ニ変換セシ

  ト云フ則チ其所以尋ヌルニ曰ク賊河泉山ニ線ヲ張リ出シタルヲ以テ該

  山ノ賊ヲ掃ヒタル上ニ猶髙熊山ヲ攻擊スルハ極メテ 難キカ故ナリト髙嶌

  少佐答曰ク河泉山ノ賊退キタルヲ第三旅團ニテハ知ラヌト云フ賊縦令線

  ヲ河泉山ニ伸張シタルニ於テハ髙熊山ノ攻擊少シク難キニモセヨ為メニ

  全團ノ進擊ヲ延日スヘキ如クナル者ニハ非ルナリ況ンヤ当方面ノ兵黒萩

  山ニ臨ミ河泉山ノ賊線ノ右横ニ出タルヿハ貴團ノ知ル所加ルニ今暁攻進

  延期ノ事ヲ目今ニ及ンテ通報セラレテハ時機ニ後ルヽ固ヨリニシテ貴團

  ノ兵一丸ヲモ発セス措テ顧ミサルカ如クナリシヲ以テ賊兵ハ我カ前面ニ

  増加シ若シ早ク旧線ニ復セサリセハ当方面ノ兵其危キヿ言フ可ラス然レ

  ノモ今之ヲ細論スルノ時ニアラサルヲ以テ之ヲ他日ニ譲ラント中尉帰リ去

  ル

 第三旅団と別働第二旅団の間に内紛があったことは第三旅団は記録しなかったが、不満を抱いた別働第二旅団は記録をしていたわけである。

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 17日、実際に進軍した別働第二旅団の活字になったことがない報告がある。使用した罫紙は同隊が別二に合併する前の別働第四旅団の名前が入ったものである。報告者三好少佐はこの日進撃した2個中隊の指揮官であり、まとめて概要を報告している。 

C09086074400「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1237・1238別働隊第四旅團罫紙

  六月十七日第三旅團ノ兵高隈山ノ賊塁攻撃ニ際シ應援シテ坊主山ノ賊塁

  ヲ攻撃スヘキ旨ヲ命セラレ第廿八中隊ヲ山畑村ニ潜伏シ第二九中隊ヲ坊

  主山ノ半腹ニ蔭シ髙隈山ノ攻撃始マルヲ待テ共ニ虚撃ヲ行ヒ機ヲ見テ実

  撃ニ移ル可ヲ命ス午前第二時三十分黒矧山ノ哨所ヲ発シ各〃部署ニ着ク

  已ニ黎明其機ニ至ト𧈧モ戦端未タ開ケス賊兵已ニ我兵ノ潜伏スルヲ伺ヒ

  知リ発射スル事頻リナリ故ニ我兵不得止遙カニ之ニ應ス第廿八中隊(※

    第二中隊の二を消して廿八を上書きしている)ノ兵モ亦山畑村ノ樹陰ニ在テ地物

  ニ占拠シ虚撃ヲ行フ少焉(※しばらく)シテ尚未タ開戦ノ况景ヲ不見就中

  引揚ノ命アリ依テ左翼第弐聯隊第二大隊ノ兵ト連絡ヲ保持シ徐々ニ兵ヲ

  収メテ各隊哨所ニ還ル

  此日死傷ナシ右戦状報告仕候也

  十年六月廿七日  遊撃歩兵第壱大隊長

            陸軍少佐三好成行

  陸軍少佐高嶋信茂殿

 「戰記稿」では戦闘せずに撤退したとあるが、実際は薩軍側に発見され射撃を受けたので、撃ち返している。しかし、退却の命令を受けたので途中で切り上げたのである。これとは別に実際に進軍した中隊長が三好少佐に提出した報告もあるので掲げる。

C09086074500「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1239・1240別働隊第四旅團罫紙

  今十七日早朝第三旅團ヨリ高隈山賊塁攻撃ニ付當中隊ハ山下ニアリテ虚

  撃ヲナシ機ヲ見テ進撃スヘキ命ヲ蒙リ黎明兵ヲ山下ニ散布シ徐々ニ放火

  ヲナサシメタルニ第三旅團兵ハ更ニ進撃ノ景况之レナク續テ引揚ケノ命

  アリ依テ兵ヲ率テ黒矧山ニ帰ル

  此日ノ戦状右ノ通ニ候間此段御届申候也

        第二十八中隊長(※二を消して二十八をこれも横に書いている)

  十年六月十七日   陸軍大尉井野好侑

 

   陸軍少佐三好成行殿

 文中、放火とあるのは射撃を意味する。

C09086074600「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1241・1242

        坊主山攻撃報告

  六月十七日拂暁ヲ期シ第三旅團ニ於テ高隈山賊塁ヲ攻撃セルニ付當隊ハ

  坊主山賊塁ニ遙ニ虚撃シ機ヲ見テ実撃スヘキ命ヲ受ケ午前第二時黒萩山

  ヲ降リ坊主山ノ左側山ニ登リ一半隊ヲ以テ援隊トナシ後方ニ備ヘ他半隊

  ヲ撒布シ以テ賊塁ノ左正面ニ逼リ第三時四十分頃ヨリ射撃ス戦フヿ時許

  ニ至ルト𧈧ノモ第三旅團ニ於テハ敢テ戦ヲ開カズ故ニ賊我カ右方ニ迂回セ

  ンヿヲ慮リ先キニ後方ニ残セル半隊ヲ以テ右方大口街道左側山ニ備ヘ尚

  戦フ内引揚前ノ哨所ニ☐ルヘキ命アルヲ以則チ引揚ケ罷帰リ候間此段御

  届申候也

  十年六月廿四日   第三十中隊長心得(※十は小さく横に入れる)

             陸軍少尉平井信義

 

    陸軍少佐三好成行殿

 28中隊とか30中隊とかに上書きして訂正しているのは、戦争中の途中で番号が変わったのだろう。平井隊も射撃している。ただ両隊は敵に接近する前に撤退命令を受けたのである。これらの報告では坊主石山ではなく、坊主山としているので思うのだが、当時は樹木が繁茂していなかったのだろうか。さらに坊主石山であれば、岩が遠くからも見える状態だったのだろう。

 その前に6月15日、三浦少将は八代にいる山縣参軍に呼ばれたのでこの日は水俣に到着し、16日は海路で出発し夜半頃山縣の宿舎に着いた。17日には各旅団長が会して軍議を行ったが、三浦が川路を攻撃し、川路が反論して激論になり、山田の仲裁で収まっている。

 会議では以下の軍略が決まった。

  一別働第二旅團ハ方向ヲ斜メニ左ニ轉シ小林ヲ拔キ漸次都城ニ向フヲ期

   シ進軍スヘ

  一第三旅団ハ兵員寡少ニシテ未タ大口ヲ拔クヿ能ハサルヲ以テ第二旅團

   ヲシテ第三旅團ト別働第二旅團ノ中間ニ出テ第三旅團ト連合セシメ因

   テ此兩旅團ハ先ツ大口ヲ奪ヒ漸次栗野横川ヲ經テ加治木國分ニ出ルヲ

   期シ進軍スベシ

  一別働第三旅團ハ本軍ヲ以テ紫尾山ヲ越エ宮城ヲ拔キ進テ鹿兒島ニ連絡

   シ其支軍ヲ以テ海岸路ヨリ漸次ニ進行シ本軍ニ合スルヲ期シ而シテ後

   本支軍共ニ加治木國分ニ出テ第二第三兩旅團ト會スヘシ

  大體ヲ定ムル是ノ如シト雖モ賊情ノ變換ニ因テハ我モ亦機ニ應シテ變ニ

  處スルノ策ヲ出サ﹅ルヘカラス但シ各旅團互ニ氣脈ヲ通シ救援宜ニ随ヒ

  唯賊巣ヲ覆スヲ期スヘ

 この会議で三好重臣少将の第二旅団の一部を第三旅団方面に派遣することが決まったので、三浦はそれを川路旅団との間に置こうと考えたが三好は拒否し、三浦と山田の中間に配置することになったのである。(「西南戰袍誌」pp.77~79)

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   18日、第三旅団は高熊山を取ろうと、また大口中心部に入ろうと部署した。その進路は本道(司令官内藤少佐:3個中隊・2小隊)・鳥神岳(司令官大島少佐:2個中隊※栗栖には隊数の記入がないが、戦闘報告表があるので1個中隊とした)・正面及鳥神岳(司令官古田少佐:6個中隊。安満中隊を含む)・高熊山(司令官川村少:5個中隊)・村外(司令官友田少佐:5個中隊)である。

 次に各隊の戦闘報告表を掲げる。

C09084795200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0246・0247 

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:十年六月十八日 戦闘地名:鳶ノ巣岡 我軍総員:百二十八

  名 傷者:下士卒三名 敵軍総員:凡五十名斗リ 死者:二名 

  傷者:不詳

  戦闘ノ次第概畧:午前三時援隊トシテ鳶ノ巣ノ山ノ西方ヨリ正面潮村ニ

  進ミ開戦午後鳶ノ巣山ニ防禦ス

  備考我軍:(※死傷者名を略す) 敵軍備考:正面臺塲三四ヶ所人員五六十

  名斗リ 一死者僅☐ニ見届ク助ケ去レリ

 潮村は牛尾村。

C09084795300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0248・0249 

   第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長陸軍大尉斎藤徳明㊞

   戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:髙熊山 我軍総員:百三拾七名 

  死者下士卒六名 傷者:将校一名 下士卒拾六名 

     戦闘ノ次第概畧:十七日午前第五時ジツソウ山出発金山岡ニ兵ヲ潜

  伏セシメ同十八日午前第零時十五分出発同第三時三十分髙熊山ニ至

  リ敵兵ヨリ放火セラレ直ニ開戦同第七時退却シ山ノ半服小山ニ防禦

  線ヲ定メ守備ス 備考敵軍:午前第零時十五金山岡出発險ヲ越ヘ

  閑行シテ髙熊山ノ麓ニ至リ兵ヲ部署シ山ニ攀登シ登ルヿ凡ソ半余時

  既ニ天明賊ノ哨兵ニ発見セラル依テ急ニ兵ヲ進メ堡塁ノ前方凡ソ四

  十間ノ所ニ至リシ時彼猛烈ニ放火シ或ハ石ヲ投シ防禦ス然レモ我

  屈セス銃鎗ヲ以テ突進シ先登スル者ハ賊塁ノ前面三間乃至五間ノ所

  ニ到リ過半ハ銃丸或ハ投石ノ為メニ死傷シ兵寡且險ニシテ進ム能ハ

  ス故ニ堡塁ノ前面二十間余ノ所ニ至リ互ニ放火シ喇叭ヲ吹奏シ且ツ

  大聲ヲ発シ戦フヿ数時間ニシテ弾丸殆尽キ且死傷多クシテ突入スル

  目的ナキカ故ニ不得止退却シテ山ノ半腹小山ニ防禦線ヲ定メ守備ス

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 齋藤隊が退却して守備した小山の場所は二つ考えられる。一つは高熊山頂上の北側にある広い峰である。南西から谷が入り込んでいて、高熊山頂上がある部分と地形の面で区別できる。もう一つはそこから北東側に続く小さな高まり部分である。一晩、小山で過ごしたのだから台場跡があるかも知れない。

 金山岡・金岡山・キン山や類似の地名がこれ以外にも戦闘報告表に出てくるので検討したい。伊佐市には世界有数の産出高を誇る菱刈金山がある。すこし西側には江戸時代17世紀に発見された金山があり、鉱脈の西部を大口金山といい、東部を牛尾金山といった。正確な場所は図示できなかったが、上図の楕円で囲った付近が金山らしい。東側の山には金山という三角点があるが、第三旅団の報告に出てくるのは楕円周辺らしい。この他、先日の戦記に登場していた山野の北側にある布計にも金山があったということであり、広範囲に金が分布しているのであろう。

C09084795400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0250・0251 

  第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉久徳宗義㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:潮村上ノ原及ヒ左翼山上ニ於テ 

  我軍総員:四拾五名 

  戦闘ノ次第概畧:午前五時半ヨリ潮村上ノ原ニ於テ山砲壱門ヲ備ヘ前面

  ノ賊塁ヲ射撃シ午后四時ニ至テ止ム仝所ヨリ左翼山上ニ於テ午后十二時

  半ヨリ山砲一門ヲ備ヘ高熊山ノ賊塁ヲ射擊シ仝五時ニ至テ止

 紛らわしいが、大砲は2門だったとしておきたい。

C09084795500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0252・0253 

  第三旅團工兵第二大隊第壱小隊第壱分隊 陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鳶ノ巣岡 我軍総員:拾四名 

  戦闘ノ次第概畧:朝第弐時山野村出発髙熊山ニ向キ進ミ午后第三時頃ヨ

  リ鳶ノ巣岡及ヒ牛尾山ニ数十個ノ塹溝ヲ築キ翼朝第一時半山野村ニ引揚

  ク

 

C09084795600戦闘報告表「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0254・0255 

  第三旅團 大坂鎮臺砲兵第四大隊第一小隊長 陸軍大尉花形勝則㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:薩摩国潮村上ノ原并ニ同所後方山上

  ニ於テ 我軍総員:百二十七名  死者:下士三名 兵卒三名 

  傷者:将校三名 下士五名 兵卒九名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時整列同第三時左砲車ハ潮村上ノ原ニ於テ前

  面ノ賊塁ヲ砲擊シ右砲車ハ同所後方山上ニ於テ放発シ同第九時都合ニヨ

  リ一旦山野ノ丘ニ引揚ケ午后第一時亦同所ヘ進擊シ砲戦最モ勉ム同第四

  時退軍ス

  備考我軍:右分隊ハ山砲二門三宅中尉之ヲ率ヒ中央左ノ二分隊ハ徒歩小

  銃隊ニ編制スルヲ以テ居藤少尉之ヲ引卒シ砲ノ護衛ヲ為ス

 潮村は牛尾村。鳶巢丘の東側に牛尾村はあり、左砲車を置いた上ノ原は推定するにその北東部の小高い平地で、右砲車を置いたのは北側の山、金岡山と推定した山に置いたのか。

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C09084795700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0256・0257

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊中隊長代理中尉松田是友㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:髙熊山 我軍総員:百二十四名 

  死者下士名 兵卒三名 傷者:将校三名 下士五名 兵卒九名 

  戦闘ノ次第概畧:十七日午前第五時山野十曽山防禦線ヲ出発同夜金岡山

  ニ兵ヲ潜伏セシメ同十八日午前第零時十五分仝地出発仝第三時三十分髙

  熊山賊塁凡十米突ヲ隔テ敵ヲ発見シ直ニ開戦嶮ニ憑リ兵ヲ増シ放火猛烈

  ナルヲ以テ畢ニ目的ヲ達セス第七時少シク退却シ山ノ中腹ニ防禦線ヲ定

  メ昼夜戦ヤマス

 備考欄に死傷者名がある。この日、中隊長町田大尉が負傷したので中隊長代理松田中尉が報告表を作成している。出発地が十曽山で金岡山に潜伏待機したこと、攻撃目標と時間は斎藤隊と同じである。

C09084795800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」(防衛省防衛研究所)0258・0259

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第二中隊陸軍大尉福島庸知㊞

  戦闘月日:六月十八日

  戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分頃髙熊山中腹ニ於テ開戦第五時前新防禦線ニ繰

  上ク   我軍:総員:九十五

C09084795900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0260・0261

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊 中隊長陸軍大尉竹田實行

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:髙熊山 我軍総員:百三拾八名 

  戦闘ノ次第概畧:六月十八日髙熊山攻撃ノ援隊トシテ午前第一時三十分

  山野村大哨兵ヲ発シ鳶ノ巣山ニ兵ヲ散布シ第三時三十分開戦午后第一時

  命ニ依リ同所ヲ引揚ケ髙熊山ノ左翼ニ進ミ大哨兵ノ凖備ヲナス 

 援隊として鳶巢丘に配置について午後1時に戦うことなく高熊山左翼、おそらく他の隊の近くに守備をしたのだろう。

C09084796000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0262・0263

  第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊 陸軍大尉沖田元廉㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿兒嶋縣下大隅国髙熊山 

  我軍総員:九拾三名 傷者:下士卒五名  軍属三名 

  戦闘ノ次第概畧:十七日午后十一時三十分防禦出發十八日午前第三時髙

  熊山着直ニ配布シ援助之処攻撃隊苦戦ニ付前進邀撃ス同第四時半頃号音

  ニテ髙熊山迠退線該處ニ於テ☐ヒ放火ス

C09084796100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0264・0265

  第三旅團工兵第二大隊第一小隊第二分隊 陸軍少尉横地重直㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:髙熊山 我軍総員:貳拾名 

  死者:下士卒一人  傷者:将校一人 下士卒七人 軍属一人 

  戦闘ノ次第概畧:十七日午后第九時キン山ノ岳ヲ潜行同夜同山ノ麓ニ潜

  伏シ今暁髙熊山頂ノ戦ヒ如何ヲ望ムト𧈧モ霧深ク唯砲声ノ聲ユル而已ナ

  ルヲ以テ進テ同山ノ半ニ至リ賊塁未ダ拔ケザル故ニ防禦線此地ニ决定

  セラルト因テ塹溝十有余ヶ所ヲ造築シ午后第十時終テ山下ナル牛尾村ノ

  民家ニ宿陣ス 

 キン山ノ岳を潜行し麓で待機したというが、この金山岡には多くの部隊が潜伏していたらしい。相互に接近した戦場で戦闘中に築造したので、工兵隊員は半数近くが負傷している。

C09084796200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0266・0267

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊 陸軍中尉嶋 良忠㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:薩摩国牛山郡栗山村 我軍総員:百

  拾五人 死者:下士卒一人 傷者:将校一人 下士卒七人 軍属一人 

  戦闘ノ次第概畧:六月十八日午前第二時牛山之守地ヲ発シ小木原村ヲ経

  過栗山村ノ平原ニ兵ヲ撒布シ三時三十分左翼ノ開戦スルヤ直ニ猛烈ニ

  放火前進シテ小カミ岡ノ賊堡ヲ距ル二百乃至五百米突ニ至テ對戦シ塹壕

  ヲ築キ陸續猛射セリ然レノモ賊固守遂ニ不能拔後引揚ノ命アルヤ薄暮繰引

  シ牛山村ノ新防禦線ニ至テ大哨兵ヲ張レリ 

  (※備考欄の死傷者を略す)

 この日、中隊長堀部大尉が負傷したので嶋中尉が戦闘報告表を作成した。これまでの戦闘報告表と違い、堀部隊は右翼の平地に進んでいる。

C09084796300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0268・0269

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長 陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鳶巢 我軍総員:百四十六名 

  傷者:下士卒二  

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時山野尾ヲ出発三時鳶巢ニ至リ即時開戦午后

  第五時三拾分臺塲ヲ築テ伏禦ス   備考我軍傷者:(※記述を略す)

 鳶巣丘は高熊山の北北西1,5kmにある標高384mの山である。薩軍はそこにはいなかった筈だから、鳶巢丘から高熊山を射撃したのだろう。 

C09084796400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0270・0271

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊長 陸軍大尉本城幾馬㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡☐☐老寺村 

  我軍総員:九拾七名 内不戦七名 傷者:下士卒三  

  戦闘ノ次第概畧:六月十八日午前第二時山野村ノ大哨兵ヲ引揚ケ☐☐老

  寺村ニ於テ仝三時開戦仝午后五時三十分迠仝処ニ相戦フ司令官ノ命ニ依

  リ防禦線ニ據リ固守ス

  此時彈藥六千発☐☐   備考我軍:(※傷者を略す)

 銃弾は一人66発強を使用している。

C09084796500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団0272・0273 

  第三旅團工兵第二大隊第二小隊第二分隊 陸軍少尉内藤冨五郎㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:山野村 我軍総員:貳拾貳名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時山野村出発同第六時ヨリ本道筋ヘ架橋一ヶ

  所築造午後第四時小木原村迠繰込同第六時新防禦線内江架橋一ヶ所築造

  同夜同村ニ宿陣翌十九日午前九時山野村迠引揚

 第三旅団の工兵隊に関しては「戰記稿」の部署表に載っておらず、戦闘報告表だけが活動の痕跡を記録している。

C09084796600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0274・0275 

  第三旅團大阪鎮台豫備砲兵第二大隊第一小隊 陸軍少尉杉田豊實㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿児嶋縣下薩摩国伊佐郡トカメ丘 

  我軍総員:四十五員 内十五名砲護兵 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時山砲二門山野尾ノ上村ヲ發シ第四時向ヒ野

  ノ丘ニ於テ發射ヲ始ム歩兵進軍スルニ従ヒ平出水村ニ進ンテ陸続發射ス

  同第八時頃一門ヲ転シテ法満寺山ニ登リトガメ丘ニ上ッテ発射ス午后第

  四時兩砲車トモ平出水村ニ帰リ宿ス☐歩兵ハ法満寺山ニ上リ賊ノ左翼ヲ

  狙撃ス午后第四時共ニ平出水村ニ宿ス

 尾ノ上は山野村の中心部の北西にあり、距離は700m位しか離れていない。石井川内から続く低い尾根に立地する村である。杉田隊は四斤山砲2

門を使用した。そこを出発し羽月川の右岸にある向井野で(おそらく平出水村方面に)砲撃を始め、歩兵が同村に進軍したので砲兵もそこに進み、どこかに向かって砲撃したという。トガメ丘は鳥神岡である。法満寺という寺院は現在伊佐市にはないので、同名の山もどこにあるのか分からない。その後、大砲一門は法満寺山に登らせて鳥神岡を砲撃した。平出水村中心部から鳥神丘までは約2kmであり、射程2,6kmの四斤山砲榴弾なら使える距離である。平出水村に進んだのは同村を攻撃するためらしいが、先日占領したのではなかったのか。

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C09084796700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0276・0277

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壱大隊第二中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿児嶋縣薩摩国大口掛ノ内浦岩トシ

  ク木ノ界

  我軍総員:五拾九名 内十五名砲護兵 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時ヨリ攻襲偵察トシテ壱小隊ヲ出シ鹿児嶋縣

  薩摩国大口掛ノ内浦岩瀬シクキノ界ニ至リ臺塲二ヶ所ヲ乗取リ夕六時頃

  ニ引揚ク

 いくつかの地名がどこのことか分からない。

 

C09084796800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0278・0279

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:山上村山頂

  我軍総員:三十三名 内十五名砲護兵 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前三時三十分ヨリ一小隊ヲ援ヒ攻擊偵察トシテ

  山上村ノ近傍ニ至ル時ニ暁霧未タ霽レス賊ノ哨兵目下ニ我カ兵ノ至ルヲ

  知ラス是ニ於テ乎吶喊急擊遂ニ二塁ヲ略取シ直チニ進テ前山ニ據ル賊ノ

  複塁巌ニアリ彼レ防戦酷タ務ム我カ兵攻擊時ヲ移ス遂ニ進ミ得ス午后

  四時ニ至リ奉命シテ本線ニ☐皈還ス ※岔(山という意味)は上下逆に書いている。

 

C09084796900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0280・0281

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:山ノ村右翼山上 

  我軍総員:四十三名  内十五名砲護兵 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時三十分壹小隊ヲ以テ攻襲偵察トナシ賊據有

  スル所ノ近傍ニ至リ其舉動ヲ偵フニ堡塁ヲ數ヶ所ニ連子固守スル者ノ如

  シ依テ擊手ヲシテ狙撃セシムルニ賊之ニ應シ射戦数刻ナリ遂ニ進取ノ利

  非ルヲ察各中隊ト共ニ徐ニ旧線ニ復シタリ

 文中、數ヶ所ニ連子は数ヶ所に連ねと読む。

 

C09084797000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0282・0283

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠

  ㊞  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:薩摩国大口郡腰山

  我軍総員:二拾七名 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時三十分頃岩塚岡ヲ発シ腰山ノ敵堡ヲ攻襲偵

  察シ仝第五時三十分頃開戦ス彼堡障ヲ出テ麓ニ兵ヲ配布ス遂ニ正攻ニ移

  リ要地ヨリ突進ス彼レ能ク防戰ス依テ午后第五時頃引揚ケタリ

 岩塚岡と腰山が場所不明。

 

C09084797100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0284・0285

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊長陸軍中尉横地 剛㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:斧研峠 

  我軍総員:將校以下百二十名 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第三時ノ開戦ニテ當隊一小隊攻擊隊トシ余一

  小隊ヲ援隊トシ賊ノ右翼攻襲奮擊スト𧈧地景嶮難ニシテ終ニ午后第三時

  半茲ヲ引揚ク    備考我軍:本日死傷ナシ

 斧研峠の場所は不明。薩軍の右翼で、攻める際に地形が険しかったのだから山間部だろう。

 

C09084797200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0286・0287

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長 大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:向野岡 我軍総員:百十八人

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時開戦我兵各臺塲ヲ厳重ニ守備シ烈敷発砲ス

  賊ハ千貫園ノ堡塁ヨリ発砲互ニ進退ナシ

 千貫園というのが場所不明。

 

C09084797300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0288・0289

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊長  陸軍大尉栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:モシ山   我軍総員:八拾貳人

  戦闘ノ次第概畧:本日左右翼進撃都合ニ拠リ攻撃スヘキノ命アリ既ニシ

  テ午前第三時三十分左翼開戦直ニ我兵モ塁内ヨリ猛烈ニ發射シ屡〃進軍

  ノ喇叭ヲ奏シ或ハ若干兵ヲ進メ或ハ鯨波ヲ發シテ突出ノ状勢ヲ占メス暫

  クシテ賊兵大ニ増加其右翼ニ擴張ス同六時頃増加ノ賊ハ悉ク退去ス我兵

  モ又射撃緩メテ第十時頃止戦ス

 モシ山が場所不明。したがって、さっぱり理解できない。

 

C09084797400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅團 0290・0291

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊   陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿児嶋縣ハツ郡平泉村  

  我軍総員:百三十二 戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分ヨリ右翼軍隊

  進擊ニ付同時ヨリ兵ヲ防禦線ニ配布シ賊軍ヲ虚撃シ日没テ止ム

 

C09084797500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0292・0293

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:ソンダ山 我軍総員:九拾三名 

  傷者下士卒二名

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月十八日午前第四時平出水村ヨリソンダ山

  ニ向ケ攻撃賊塁四ヶ所ヲ落シ午前第七時頃休戦此日費ス処之弾数凡ソ七

  百発余 備考我軍(※負傷者名略)

 ソンダは園田である。

 

C09084797600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0294・0295

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡煥之㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿児嶋縣下小木原邨前方 

  我軍総員:百二拾五人 傷者:下士卒二名

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時山野村防禦線ヲ発シ仝第三時開戦小木原

  邨前方迄攻撃シ午后第五時頃引揚ノ命ニ依テ右翼ヨリ順序小木原邨ニ引

  揚ケ茲ニ大哨兵線ヲ占ム 備考我軍:死傷ナシ此日費ス所ノ弾薬七千発

 ※七百発?

 

C09084797700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0296・0297

  第三旅團歩兵第八聯隊第大隊第三中隊附属同聯隊第貳大隊第四中隊一

  小隊中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:※空白 我軍総員:三拾八名 

  戦闘ノ次第概畧:援隊トナリ午前第一時三十分平村ニ整列即時右一小隊

  平出水村進軍ノ援隊ニ発ス左一小隊ハ本道ノ砲台内ニ整頓休止暫時有テ

  左右翼ノ開戦ニ乗シ小木原村ニ進入先鋒緩急ノ命有ルヲ待ツ平出水ノ右

  一小隊ハ於同處同断

 平村は場所不明。同日の南報告はもう一つあり、総員が異なるのみ。

 

C09084797800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0298・0299

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名※空白 我軍総員:九拾三名 

  戦闘ノ次第概畧:援隊トナリ午前第一時三十分平村ニ整列即時右一小隊

  ハ平出水村進軍ノ援隊ニ発ス左一小隊ハ本道ノ砲台内ニ整頓休止暫時有

  テ左右翼ノ開戦ニ乗シ小木原村ニ進入先鋒緩急ノ命有ルヲ待ツ平出水ノ

  右一小隊ハ於同處同断

 0298と人数が違うのはなぜか。

 

C09084797900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0300・0301

  明治十年六月十九日歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 第三旅團  

  陸軍大尉安満伸愛㊞ 戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:渕辺村 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時賊防守スル所ノ淵辺山ヲ乗取尚進テソンダ

  山ノ賊ト闘戦午后第六時淵辺村前方ニ大哨兵ヲ布ケリ

  我軍総員:八十八人 備考:一死傷異情ナシ費ス所ノ弾数五千發ナリ

小銃弾薬一人平均56発強を使用している。

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C09084798000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0302・0303

  第三旅團第十聯隊第三大隊第三中隊 大尉山村政久㊞

  戦闘月日:六月十八日 戦闘地名:鹿児嶋縣山野村ノ内渕辺村 

  戦闘ノ次第概畧:六月十八日午前第一時山野村哨線ヲ出同三時敵ノ臺塲

  ニ向ヒ開戦暫時トシテ彼レカ臺塲ヲ取リ同所ニ大哨兵ノ線ヲ張ル

  我軍総員:百四拾七人 傷者 兵卒壱人

 以上、28件の戦闘報告書が防衛研究所に蔵されており、同所に行かずとも閲覧することができる。大口盆地の中央を南に流れる羽月川の右岸では、山野村付近から出発した官軍第三旅団が淵辺村・園田村・平出水村・鳥神岡西側の小丘などで戦って奪い占領している。これを右翼と呼ぶことにすると、右翼軍は砲兵1部隊(杉田)と歩兵8部隊(栗栖・瀧本・武田・下村・南・安満・山村・横地)であり、工兵はなかった。他に歩兵の本城隊が村外に部署していたが、左右どちらか分からない。

 反面、左岸地域では羽月川左岸からきた支流の牛尾川を挟んで戦闘が開始され、川向こうの鳶巢丘・金山などは第三旅団が奪ったが、最大の目的だった高熊山は頂上を奪うことができず、薩軍からそう離れていない山腹や背後の小山で夜を明かすことになった。これらは工兵3部隊(石川・横地・内藤)と砲兵2部隊(久徳・花形)、歩兵13部隊(弘中・斎藤・町田・竹田・沖田・堀部・福島・岡・沓屋・平山・矢上・佐々木・井上)である。

 高熊山などを攻撃した左翼の総員は1,491人で、戦死22人、負傷82人(軍属5人を含む)であり、右翼は総員825人で、戦死0人、負傷5人であった。四斤山砲は左翼が4門、右翼が2門である。兵数と砲数から見て明らかに左翼に力点が置かれていたが、死傷者数からも左翼が苦戦したことは明らかである。

 18日の第三旅団の攻撃は左翼では目的を達せず、右翼はほぼ計画通りとなった。

  防禦線ヲ髙熊山ノ西北山腹ニ定メ正面即チ大口本道ノ兵ト連絡ヲ保ツ〇

  是日正面ハ小木原村右ハ鳥神岳ノ東ニ在ル小丘ヲ占領シタリ(「戰記稿」)

 これとは別に第三旅団の東側では黒萩山や芝立山・坊主石山などで別働第二旅団が戦っていた。別働第二旅団独自に作成した戦記を掲げる。

C09085506000「大口攻撃ノ記」『自明治十年五月至九月 イ第三号 戦記稿 別働隊第二旅団第五方』0668 ・0669

  十六日早朝髙嶋少佐田野ヲ発シ黒萩山ニ至リ展望スルニ我兵ノ前面千米

  突許ノ髙熊山坊主石山及ヒ其山ノ近傍ニ賊塁壁数箇ヲ築キ以西ハ第三旅

  團河流ヲ阻シ彼我ノ防守ヲ畫シ而シテ同團左翼ハ遥カニ黒萩山ノ西ニア

  リテ連絡通セサルノミナラス其間ニアル河泉山ニ賊兵百余名登リ来ル是

  ニ於テ我ノ防禦線ヲ変換シ右翼黒萩山ヨリ田野越道ヲ挟ミ左翼芝立山

  至ル已ニシテ右翼兵黒萩山ノ端ニ臨ムニ賊横擊セラレンヿヲ恐レシニヤ

  引退キタリ此日午后第四時第三旅團参謀陸軍少佐牧野毅ヨリ書翰来ル曰

  ク明十七日晴雨ヲ論セス拂暁必開戦髙熊山ヲ攻擊スヘキニ付其手ニテ防

  主石山ヲ攻擊アランヿヲ乞フト抑防主石山ハ我哨線ノ前面ニ当リテ其距

  离モ亦甚タ近ク我之ヲ取リ第三旅團髙熊山ヲ取ルノキハ我哨線収縮シテ

  防禦頗ル易キニ至ル且我兵ノ進退ニ依リ第三旅團攻擊ノ難易ニ關スル少

  ナカラス而シテ今同團乞フ所アリ且我前面及ヒ総テ賊ト屹對シ面シテ兵

  ヲ収メテ之ヲ傍視スル恐クハ事理ニ背乖セン𧈧然此口攻擊ハ未タ長官命

  令ヲ得ルニ非ス唯事急遽ニ出テ加フルニ長官ノアル所ト遠隔ニシ其指揮

  俟ツニ暇ナキヲ以テ應援ノ為虚擊ヲナシ第三旅團進軍ノ機ヲ見テ実擊ニ

  変スヘシト其畧ヲ隊長ニ授ク(※ 以下は先に引用した第三旅団が17日に攻撃しな

    かった件である仝十七日

 別働第二旅団の高島信茂少佐は16日に田野から県境を越えて黒萩山に進んだが、次々と出てくる坊主石山・黒萩山・河泉山・芝立山とはどこにあるのだろうか。別働第二旅団の山田少将はこの18日は八代に滞在しており、高島少佐は旅団長の許可なしに攻撃することを躊躇ったが、結局攻撃している。その頃、17日の八代会議で別働第二は大口ではなく東方の宮崎県小林方面への進軍が決まったため、高島率いる部隊を人吉に呼び戻そうと使いを発していた。使者は17日午後6時に黒萩山に着いたのだが、すでに高熊山への攻撃は着手されており、戦闘を放棄して人吉に移動すれば空白域が生じることになるため高熊山を奪ってから移動することになった。

 実は上記の文書は相互の位置関係の記録としては詳しい方である。黒萩山の前面千メートル位に高熊山と坊主石山があり、第三旅団は黒萩山の西に在って、両者の中間には河泉山がある。また、黒萩山を官軍右翼とすると左翼には芝立山が位置し、両山の中間に田野越道が通っている。この道は高熊山東麓の木之氏村から人吉の田野に通じており、現在は県境付近の久七峠を通る車道があるが、当時はおそらく人馬が通る山道が田野越と呼ばれたと思われ、それは車道とは微妙に位置が異なるのかも知れない。

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 上図は仮に三角点金山付近に黒萩山があると想定してそこを中心に半径1km・2kmの円を描いたものである。残念ながら、高熊山までは2km強もあるが、必ずしも高島少佐の距離感を金科玉条のように尊重する必要はないと思う。この「大口攻撃之記」『自明治十年五月至九月 イ第三号 戦記稿 別働隊第二旅団第五方面』の末尾近くには戦地の地図が一枚付いており、上記諸山の台場位置・大砲の砲台位置・山名が描かれている。これで位置関係は解決しそうである。

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 画面が小さいので詳細が見えないので分割して示したい。

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 上図右側の台場群と砲台3基は官軍のもので、その左下の4基は後半段階の官軍のもの。16日別働第二旅団は黒萩山に四斤山砲2門、ブロードウェル砲2門を置いている。次は坊主石山の図。

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 坊主石山とその東側の尾根、それらの北側にある芝立山での状況を「別働第二旅團戰記 巻之四」から見ておきたい。

  時ニ少佐宮城彦八ハ第二十一第二十二中隊ヲ率テ芝立山ノ哨所ヲ發シ盛

  ンニ喊聲ヲ發シ喇叭ヲ吹奏シテ進ミ賊兵ノ動揺スルニ乗シテ山ヲ下リ馳

  突シテ直ニ坊主石山ノ麓及ヒ其東ナル山脈ニ拒守シタル賊壘ニ迫リ一戰

  之ヲ破テ數壘ヲ拔ク同時ニ我黑萩山ノ砲兵ハ坊主石山ヲ連射ス山上ノ賊

  兵大ニ挫折シ且其東麓已ビ破レシヲ以テ我兵ノ爲メニ背後ヲ斷レンヿヲ

  恐レ山ヲ棄テヽ退ク第二十二中隊及ヒ第二十一中隊ノ一小隊先ツ進ンテ

  之ヲ取ル第二十三中隊芝立山ノ半腹ニ在テ援隊タルモノ亦進ンテ之ニ登

  ル時ニ午前第七時ヲ過ク

 これによると宮城少佐が二個中隊で芝立山から東西二つの尾根、西側の坊主石山と東側の尾根を奪ったのである。しかし、高熊山にとって東側の坊主石山等を奪われたのは大きな不利となるため、薩軍は反撃に出た。上の引用文の少し後から掲げる。

  我兵已ニ大口ノ右手ナル坊主石山ヲ截斷ス故ニ左手ナル髙隈山モ亦保チ

  難キノ勢アリ賊乃チ敗兵ヲ収メ來テ坊主石山ヲ恢復セント要シ東南二面

  ヨリ烈シク砲銃ヲ射擊シ午時ヲ過キテ賊兵益〃加ハリ勢ヒ甚タ猖獗ナリ

  第二十二第二十三中隊邀ヘ戰フヿ之ニ久フシテ兵ノ寡ナキヲ患フ諸將校

  使ヲ黑萩山ニ馳セテ増兵ヲ乞フ信茂乃チ三好成行ニ令シ兵ヲ割テ坊主石

  山ヲ援ケシ

 一つ前の図には芝立山という字があるのを改めて明記したが、芝立山から尾根が南に二つ派生し、西側のが坊主石山である。ここにある台場の内、細い青色が最初の段階の薩軍の台場群で、北を向いて造られている。対する官軍は山の北部端に南を向いて並んでいる。同じ図の中に次の段階、官軍が進んで、薩軍が後退した状態が描かれている。官軍は西側の高熊山を砲撃するため砲台を山の西縁に並べ、南側の薩軍台場に対峙する台場群も築いてL字形に配置している。東側の尾根に西向きに並ぶのは官軍のものかとも思ったが、官軍にとっては不必要な方向であり、薩軍は坊主石山を奪われようとした時点でそこを守っていたと「戦記稿」にあるので、これを薩軍のものと改める。多色刷りなら悩まないでもよかったのだが。

 

 「薩南血涙史」には坊主石山がというか、高熊山の東側の薩軍についての記述がない。坊主石山については官軍側か熊本隊の記録を見るしかない。

 高熊山を図化したときに立ち寄ったが、台場跡は発見できなかったが、下図は鹿児島県埋蔵文化財センターによる坊主石山の戦跡分布図である。向く方向から考えると全て官軍側のものである。

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 この図では高熊山の頂上片側には台場7基が弧状に配置したように描かれている。

 この数年、鹿児島県埋蔵文化財センターが西南戦争戦跡や官軍墓地を調査し始めたが、今春発行した報告書では高熊山も掲載されている(高橋も調査にほんの少し参加させていただいた)

 

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 こちらは奈良文化財研究所の全国遺跡発掘総覧で検索して閲覧できる。上図には遺物の分布状態も示されているのに加え、分かり易く加筆した。銃弾が図の右半分上部に集中して出土したことから、この場所では北と東から官軍が攻撃したことを反映している。官軍のエンフィールド銃弾断面は基部に行くにつれ厚さが尖るようになる形だと理解しており、鉛製である。報告書では金属は鉛とされているが、高熊山で出土したのは時期的にみて錫と鉛の合金ではないかと思う。また、形からは薩軍のものと考えられるエンフィールド銃弾が最北端の台場跡の土塁部分外側に5点集中しているのはなぜだろうか。熊本隊士が取り落としたのだろうか。

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 スナイドル銃の薬莢が北部の岩の下、岩陰で1点出土しているのは、頂上に迫る官軍兵士がここから岩を楯に射撃したのだとみられる。この他にもスナイドル薬莢が台場跡の所から出土しているが、ここを守っていた熊本隊がスナイドル銃を持っていなかったとは言えず、どちらが発射したか判断できない。官軍が頂上まで進出し、台場の陰から至近距離で攻撃した時、20日早朝まだ暗い時間に急襲し決着がついている。その際、官軍が台場の傍や中に入って射撃しただろうし、その際の薬莢かも知れない。本来なら多数の銃弾・薬莢が散乱しているはずだが、採集や盗掘のために残った遺物はほとんどなくなっているらしい。そのため、事態の復元は困難になっている。

 ドライゼ(あるいはツンナール)銃弾が1点東部の台場跡土塁から出土している。ドライゼ銃を装備していたのは旧別働第四旅団である。彼らは5月段階に別働第二旅団に合併し、下記のように高熊山攻撃に参加している。下記の「戰記稿」では18日にドライゼ銃を装備していた三好少佐・宮城少佐の部隊が登場し、坊主石山の東の山に薩軍が守っていたことや、官軍がそれを奪い次いで坊主石山を占領したことも記されている。

  別働第二旅團ノ第五方面兵ハ第三旅團ノ高熊山ヲ攻ムルニ應シテ三好少

  佐二中隊廿八第三十ヲ率ヰ黒萩山ノ哨所ヲ發シ髙熊坊主石両山間ノ地物

  ニ據リ髙熊山麓ノ賊ヲ射擊シ以テ戰機ノ熟スルヲ窺フ既ニシテ第三旅團

  兵高熊山ニ迫リ激戰數刻終ニ拔クヿ能ハスシテ退ク賊兵山頂ヨリ盛ニ射

  撃シ我兵死傷甚タ多シ三好少佐之ヲ見テ其兵ノ半ヲ割キ右轉シテ山腹ニ

  登リ山上ノ賊ヲ横擊シ以テ其厄ヲ救フ第三旅團乃チ其兵ヲ収ムルヲ得タ

  リ是時宮城少佐ハ二中隊第廿一第廿二ヲ率テ芝立山ノ哨所ヨリ盛ニ喊聲ヲ

  發シ喇叭ヲ吹奏シ賊ノ動揺スルニ乗シテ山ヲ下リ馳突シテ直チニ坊主石

  山ノ麓及ヒ其東ナル山脉ニ拒守シタル賊壘ニ迫リ一戰之ヲ破リテ數壘ヲ

  拔ク同時ニ我黑萩ノ砲兵ハ坊主石山ヲ連射ス山上ノ賊兵大ニ挫折シ且

  ツ其東麓已ニ破レシヲ以テ我兵ノ爲メニ背後ヲ斷レンヿヲ恐レ山ヲ棄テ

  退ク(「戰記稿」)

 別働第二の第28中隊と第30中隊が高熊山を攻撃しているが、三好少佐の報告と各中隊長の報告を掲げる。

C09086074700「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1243~1245

  六月十八日拂暁第三旅團高隈山ノ絶頂ニ在ル賊塁ヲ攻撃ス當隊ハ該地面

  ニ應援シ坊主山ヲ不顧直チニ此山ノ半腹ニ在ル賊塁ヲ衝クヘキヲ被命第

  二中(※二を消して廿八を加える)及ヒ第四中隊(※四を消して三十を加える)

  ヲ引率シテ午前第三時黒矧山ヲ発シ山畑村ニ潜行ス第三旅團ノ兵山ノ半

  腹ニ攀登シ正面ヨリ吶喊シテ已ニ戦端ヲ開ケリ遇々濃霧咫尺ヲ不辯彼我

  ノ砲声漸ク相接スルヲ聞キ忽々進ンテ山腹ノ賊塁ヲ衝ントシテ山麓ヲ経

  過ス此時山上ヨリ射撃スル賊ノ弾丸頻リニ我兵ニ達スルヲ以テ正面ノ

  撃不利ナルヲ察シ更ニ方向ヲ轉シテ髙隈山ノ山腹ヨリ攻撃ヲ謀ラントス

  已ニ達スル頃方ヒ果シテ該團ノ兵目的ヲ不達引揚ノ際ナリ之ニ依テ其左

  翼ニ添テ退軍シ山畑村ノ北方ノ丘阜ニ拠テ哨兵線ヲ定ム曩ニ髙隈山ノ戦

  端開クルヤ坊主山ノ賊猛烈ナル大砲火ヲ受ケ加之左右ノ攻撃甚急ナルヲ

  以テ遂ニ山ヲ捨テ走ル第二聯隊ノ兵直ニ登テ之ヲ扼ス少焉シテ賊恢復ヲ

  謀リ来リ襲フ其勢尤又劇シ第一聯隊兵寡少且ツ弾薬殆ント盡ントスルヲ

  以テ援兵ヲ我哨兵線ニ求ム又タ髙島少佐ヨリ速カニ可救ノ命アリ事急ナ

  ルヲ以テ哨兵線ヲ悉ク第三旅團ニ托シ八分隊ヲ遣テ聯隊ノ兵ト力ヲ戮テ

  之ヲ固守シ又タ四分隊ヲ遣テ援隊トナス余兵ヲ以テ黒矧山ヲ固守ス此日

  死傷別紙ノ通リ

 下図は上記の原文。

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 高熊山の半腹ニ在ル賊塁の言葉から頂上以外に熊本隊の塁があったと理解できる。戦記に山畑村が登場するのはここだけである。その存在に気が付かなかったが、高熊山の北東麓に今も存在する集落である。次は第28中隊長の18日の報告。

C09086074800「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1247・1248

  今十八日第三旅團兵高隈山賊塁攻撃ニ付當中隊第(三十)中隊ト共ニ山

  下ニアリテ虚撃シ機ヲ見テ進撃スヘキ命ヲ被リ黎明黒ハギ山ヲ下リ殆ン

  ト山下ニ至ルノキ忽チ髙熊山上ノ戦声ヲ聞ク依テ其山下ヲ迫リ賊ノ退路ヲ

  攻撃セントシ急ニ兵ヲ進メテ山上ノ景况ヲ偵フニ測ラズ第三旅團兵攻撃

  ヲ被リ之カ為メ賊ノ火力山下ニアル我散兵ニ及フ甚シ依テ已ヲ得ズ方向

  ヲ轉シ髙熊山賊塁ノ前方ニアル山頂ニ登リ賊塁ヲ狙撃セシムルヿ凡ソ二

  時間ニシテ引揚ケノ命アリ依テ兵ヲ集テ黒矧山ニ帰ル

  本日ノ戦状右之通リニ候間此段御届申候也

           第(廿八)中隊長 ※二段書きできないので()に入れた。

   十年六月十八日    陸軍大尉井野好脩

     陸軍少佐三好成行殿

 内容は三好報告とほぼ同じである。方向を転じて進んだ「髙熊山賊塁ノ前方ニアル山頂」はどこか?標高412mの高熊山頂上の北西側にある標高370m等高線の廻る周辺が可能性がある。

C09086074900「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1249・1250

  六月十八日拂暁ヨリ第三旅團ニ於テ髙隈山賊塁攻撃セルニ付我隊ヘ第

  中(※このブログではワードの樣には小文字のニ段表記ができない。二を消し二十八

   を脇に)ト共ニ同山後口麓ナル賊塁ヲ攻撃スヘキ命ヲ受ケ午前第二時黒萩

  山哨所ヲ下リ髙隈山麓ニ進ス頃同山上ニ戦端ヲ開ケリ依テ速ニ賊塁ニ進

  襲シ戦フヿ暫クアツテ山上ニ戦フ第三旅團之兵追〃退ク勢ナルヲ以テ我

  兵深ク賊塁ニ迫ル不能然ニ兵員ヲ右方丘阜ニ倚ヤ賊塁ヲ射撃ス而シテ

  第三旅團ノ山上ニアル兵員全ク退キタルヲ以テ命アリ後方ノ丘阜ニ新線

  ヲ取リ漸時引揚ヘシト則チ命ノ如ク後方ニ守線ヲ保持セシ處不計モ左方

  坊主山ノ賊散乱之体ニ付方向ヲ彼レニ変シテ進撃シ同山下ニ至ルニ賊全

  ク山ヲ捨テ退却シ同山ハ第二聯隊ノ乗取ル處トナレリ■■命アリ我兵ハ

  黒萩ノ麓山ニ新哨ヲ設クヘシト依テ同處ニ引揚アル内賊兵亦坊主山ニ襲

  撃シ来ルヲ以我兵ノ二分隊ヲ第二聯隊ノ援兵ニ差遣シ余ハ旧ノ哨處ニ引

  揚ベシト別命ノ如ク引揚罷帰リ候間此段御届申候

           第三十中隊長心得

  十年六月廿四日   陸軍少尉平井信義

 

    陸軍少佐三好成行殿

   追テ当日戦鬥中負傷セシモノ軽☐合シテ七名有之候ニ付此段為御届申

   添候也

 この日、平井少尉の第30中隊は井野大尉の第8中隊と一緒に行動する場合が多かったが、最後の方は別行動である。坊主石山方面にも参戦したことは、三好報告には触れていない。自然ニ兵員ヲ右方丘阜ニ倚ヤ賊塁ヲ射撃スの右方の丘はどこか?その後、第三旅團兵が退却したので後方ノ丘阜ニ新線ヲ取ったのは最初の右方の丘とは別だろう。その後、坊主石山を別二が占領したので移動して黒萩ノ麓山ニ新哨ヲ設けており、この日だけで次々に三ヶ所を拠点にしたことになる。山畑村背後の低い山に守備を置かず、黒萩山に戻った様である。読めない字や不確かな部分もあるので原文を掲げる。

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 三好・井野報告を図化してみた。

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 高熊山の頂上近くまで攻め込んだのは第三旅団だけであり、三好少佐指揮の別働第二旅団は高熊山頂上の東側斜面や頂上よりも北側にある部分で戦ったのでないだろうか。間違いないとは考えていないが推定図を示す

 次は別働第二旅団(旧別働第四旅団)曹長の従軍日記である。隊長は前出の三好成行少佐だった。先ず17日の記述からである。

  十七日午前鈴萩野に到る。道路は山間或いは往各にして、殆と困苦を極

  む。鈴萩野は一の山脈にして、前面には嚝野あり。四周髙山巍立して黒

  萩山は西に横り、弁天山其北にあり。嚝野に突出す。而して黒萩山と尾

  を傳へ前方に一小山あり。遠巨离内にて之を見れは恰も孤立せし者の如

  く、弁天の突出したる処と相対す。之を髙隈山と云ふ。此又前方に千

  代川あり。此先を大口町とす。賊は髙隈山に塁を築き、尾に従ひ川に沿

  て哨兵を配布す。其左は弁天山にあり。黒萩山より右方源野に沿て本軍

  (※別働)二旅團あり。此日各線進撃然れども賊鋒尤も鋭く、遂に拔く

  克はす。併し弁天山は第二旅團之を取る。故に賊の右方は大に凹凸をな

  し、髙隈山は恰も孤立する如く僅に大口町よりして一小路を保つのみと

  雖も依然として後方を顧みす。以て其大口は賊の死守する処たるを知る

  へし。

 これは北方の人吉方面から大口方面に進もうとする別働第二旅団から南側を見た記述である。戦記に登場する山々相互の位置関係の部分に注目したい。「黒萩山と尾を傳へ前方に一小山あり」、とあるのが高熊山である。黒萩山の尾根続きに高熊山があるという。先の高島少佐の地図で黒萩山の前方に高熊山が描かれている点を裏付ける記述である。高熊山は「弁天山の突出したる処と相対」しているが、弁天山の突出したる処は坊主石山である。なお、先の高島の文と地図では芝立山は別名弁天山と書かれていた。高熊山の前方に見える千代川は「ちよかわ」ではなく、せんだいがわ(川内川)である。

 これに直接続く部分を掲げる。 

  十八日再へ攻撃に付、余は半隊を率へて第二中隊の援隊となり髙隈山を

  挟撃すへき命を受く。午前第四時哨所を発す。于時陰霧朦朧として咫尺

  を弁せす。然れども各自奮て進み、山下に迫て一時に吶喊す。賊も之に

  応し互に砲撃す。一時大小砲の轟声山谷を鳴動し、数千の雷一時に墜落

  するか如く互に生死を顧るに暇なく、甲殪れは乙進み、切磋以て之を拔

  かんと欲すれども如何せん。賊は充分の要処に拠り胸壁に依て我を下射

  し、我は塁の拠るへきなく仰て山上を見る如し。故に進んては斃れ、進

  退共に窮り恰も賊的に逢ふか如し。漸く間を得て後山に退き、厳石に拠

  て對戦す。午后一時に至て拔く能はす。遂に黒萩山に退く。実に此日は

  非常の烈戦なりし。高橋信武2020「西南征討日誌(別働第四旅団岩尾惇正従軍日記)」『歴史玉名』第92号玉名歴史研究会

 後山に退き、さらに黒萩山に退いたとあるので、後山というのは高熊山山塊の北部だろう。戦闘は20日まで続いているので、戦跡の比定についてはまた後で触れたい。

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 上図は西南戦争を通じて両軍が使用した小銃弾を材料の変遷を加味して図示したものである。左欄の官軍エンフィールド銃弾は全期間を通して鉛製で、断面の下部が薄くなっている。発射時に爆発力で銃弾の裾が広がり銃身に密着して爆発力を推進力に替える工夫である。

 ちょっと考えると鉄の方が堅くて銃弾に向いていると思うかもしれないが、比重が違う。比重とは簡単に言うと摂氏4度の水1立方㎝の重さを1とした場合の比較値である。鉛は11.4、鉄は7.8で、軽い鉄は遠くに飛ばないから銃弾には向いていない。現在の銃弾も表面は鉛以外の金属で被覆しているが多くは内部に鉛を詰めている。

 官軍は当初の吉次峠や横平山、田原坂、山鹿等の戦いではエンフィールド銃は基本的に使わなかった。スナイドル銃を重用していたが、スナイドル弾を著しく消耗したため、熊本城解放前後からはエンフィールド銃の使用を奨励した。その為、上記の戦場では官軍のエンフィールド銃弾はほぼ見られない。勘違いした解釈はまま見受けるが。

 自分も以前高熊山の台場跡を略図化したことがある(高橋信武・遠部 慎2005「高熊山ヘ」『西南戦争之記録』第3号)。以下は蛇足だが、2004年2月に国分市(今は霧島市)で行われた九州縄文研究会に参加するため夜明け前に大分を出発し、長崎から出発した遠部氏と人吉の高速出口で合流して駆け足で高熊山頂上を図化し、国分に行ったのを思い出す。その時は8基を図化した。ついでに鳥神岡の西方も歩いて台場跡を1基図化した。どちらも初めて訪ねたところだった。高橋・遠部の略図と報告書の測量図を参考までに掲げる。画板に方眼紙をクリップで止め、磁石と巻き尺とシャープペンシルで描いた略図も捨てたものではないナと自図自賛。

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  この18日、熊本県境の青木越に薩軍が来襲したので、黒萩山から一部を割いて応援した。この薩軍は坊主石山を奪われたため、官軍の力を削いで坊主石山を奪い返そうとしたものだと解釈されている(「別働第二旅團戰記」巻之四 三十一)。18日に坊主石山を奪った別働第二に対し、薩軍は東西二面から臼砲2門で射撃を加え、19日朝まで対戦は続いた。その時点で高熊山に対する攻撃を第三旅団が行わないので、坊主石山に対する薩軍の攻撃を少しでも弱めたいと考えた別働第二は第三旅団に高熊山を急擊するよう依頼している。それに対し第三旅団は明日の朝、高熊山を占領しようと計画しており、本日は黒萩山から大砲8門で攻撃するし、隙があれば同山に突撃して占領するというものだった。結局、第三旅団の19日の戦闘報告表は砲兵の3件だけだったが、坊主石山に対する薩軍の攻撃は目に見えて減少した。

C09084798100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0304・0305

  第三旅團大坂鎮臺砲兵第四大隊第壱小隊右分隊長 陸軍中尉三宅敏徳㊞

  戦闘月日:六月十九日 戦闘地名:薩摩國小木原村并ニ仝所山上ニ於テ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第七時整列同第八時左砲車ハ小木原村ニ於テ前面

  ノ賊塁ヲ射擊シ右砲車ハ仝所後方ノ山上ニ於テ発放終日砲戦最モ勉ム午

  后第七時日西山ニ傾キ照準スル能ハス依テ退軍ス 我軍総員:六十壱名

 左砲車は小木原村の中から、右砲車は十曽川右岸の低い山から高熊山を砲撃したらしい。

 

C09084798200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0306・0307

  第三旅團大阪鎮臺豫備砲兵第二大隊第一小隊 陸軍少尉杉田豐實㊞

  戦闘月日:六月十九日 戦闘地名:鹿児嶋縣下薩摩國伊佐郡セメンノ丘 

  戦闘ノ次第概畧:午前第十一時山砲一門命令ニ依テ右翼司令官竹下中佐

  ノ本営ニ至リ午后第一時セメン野丘ニ備ヱ髙熊山ニ向テ陸續發射ス午後

  第五時山野ノ尾ノ上村ニ帰ル  我軍総員:拾七  傷者:軍属 壱名

 四斤山砲1門を場所不明のセメンノ丘に据え高熊山を午後1時から5時まで砲擊している。

 6月20日、第三旅団は21個中隊と5小隊で右翼軍・左翼軍に分かれて午前3時開戦することにした。安満隊は右翼軍で、正面及び鳥神岳左方の攻撃部署である。戦闘報告表があるので掲げる。

 

C09084798400明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0310・0311

  第三旅團工兵第二大隊第二小隊第二分隊 陸軍少尉内藤冨五郎㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:小木原村 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時山野村出発同第五時小木原村迠繰込同第七

  時ヨリ本道筋江架橋一ヶ所ヘ築造同第十一時大口迠繰込同夜同所ニ宿陣

  翌二十一日午前第十一時羽月麓村迠繰込   我軍総員:貳拾貳名 

 

 C09084798500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0312・0313

  第三旅團大阪鎮台砲兵第二大隊第一小隊第二分隊 陸軍々曹佐野貞㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣下薩摩國伊佐郡大口村 

  戦闘ノ次第概畧:村井大尉ノ命ニ依リ砲一門ヲ率ヒ午前三時ニ十分山野 

  尾ノ上村ヲ發シ本道ヨリ大口川ニ進メハ戦闘ナリ此ニ於テ放発シ賊ノ敗

  北ニ従ヒ追射スルヿ両三回同八時ニ至ツテ歩兵トトモニ大口村ニ入リ止戦

  ニ因テ同村ニ舎営ス   我軍総員:拾貳名 

 出発場所である山野尾ノ上村とは山野村の一部である尾ノ上村という意味である。大口川とは羽月川だろう。

C09084798600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0314・0315

  第三旅團大阪鎮台徒歩砲兵第二小隊 陸軍中尉石川髙宗㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣下薩摩國伊佐郡 

  戦闘ノ次第概畧:六月十九日午后六時ヨリ平出水村前面防禦線ヲ守備シ

  同二十四日午前三時開戦我軍攻撃盛ニ乄終ニ賊徒各塁ヲ捨テ奔走ス此ニ

  於テ厚東中佐ノ命ニ依リ武田大尉ノ隊トノモニ向野丘ヲ経テ鍋岩谷ニ至リ

  瀧本大尉ノ隊ト合シ金摺村ノ防禦線ヲ守備ス   我軍総員:二拾三名

 向野丘というのは平出水村の東側にある向井野付近の山だろう。平出水村の近くで戦闘後に向井野に移動しており、戦場は両者の中間だろう。鍋岩谷は不明。金摺村というのがいかにも金鉱山の村らしい。

C09084798700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0316・0317

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:千貫岡 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時四十分向野岡ヲ発シ千貫岡ノ賊ヲ攻撃同第

  三時四十分頃開戦我隊向フ処ノ賊塁五ヶ処アリ防禦嚴重我兵一時苦シム

  深霧賊塁ノ左右翼ニ出テ烈敷劔撃進突ス此勢ニ賊逃迯ノ色ヲ顕シ是レニ

  乗シ烈敷発砲終ニ塁ヲ捨テ走ル我兵速ニ守備ヲナシ小隊交換シテ走ル賊

  ヲ漸々羽月村マテ追撃ス

  我軍総員:百十八人 死者:下士卒一等卒太田萬吉 二等卒西濱  

  傷者:※12人あるが略す

 向野岡は向井野村の山あるいは岡だろう。千貫岡は向野岡の隣位か。石川隊は鍋岩谷で瀧本隊と合流したとするが、瀧本報告にはない。また、石川隊が最終的に守備した金摺村の防禦線は、合流した瀧本隊の最後に出ている羽月村付近だろう。羽月村は場所不明だが、大口街西側か。

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C0908479800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0319・0320

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:古志山 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時半出水村山上ノ哨處ヲ發シトカメ岡右方賊

  塁ノ正面ニ進軍ス此時☐霧深咫尺ヲ弁セス依テ一齊ニ鯨波ヲ發シ銃槍ヲ

  振ツテ堡内ニ突入ス賊兵大ニ狼狽塁外ニ出テ拒戦ス我兵憤戦猛烈ニ發射

  スルニ依リ遂ニ道ヲ西南ニ取リ潰走ス此ニ於テ北クルヲ逐フテ☐村葉月

  麓ヲ経ヘ堂崎村ニ到リ止戦ス

  我軍総員:八拾人 傷者:下士卒 一   備考我軍※略す

 葉月麓は羽月麓だろう。堂崎は大口街の南南西2.2km付近である。

C09084798900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0321・0322

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍中尉横地 剛㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:トガミ山脉右方  

  戦闘ノ次第概畧:本日午前開戦ニ付昨夜第十二時當線ヲ発シ竊賊塁ニ近

  接ナル森林ニ伏兵シ而期ヲ待リ時ニ暴風実ニ咫尺ヲ辯セス當隊此機ニ乗

  シ吐喊直ニ賊塁ニ突入シ賊ノ堡塁數ヶ所ヲ乗取ル賊狼狽出ル處ヲ失ス當

  隊憤進尾擊終ニ大口ノ近傍善寺塚ニ歩哨線ヲ定ム   

  我軍総員:百十六將校以下百十六名

 

C09084799000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0323・0324

  第三旅團名古屋鎮臺第二聯隊第壱大隊第二中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:鹿児嶋縣薩摩國羽月郷ケナシムタ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時ヨリ鹿児嶋縣薩摩國伊佐郡羽月村ケナシム

  タニ於テ戦ヲ初メ賊ヲ追テソーキ郷シモドノ村至リ命令ニ依リ羽月郷善

  寺塚ニ引揚ケ大哨兵ヲ張ル 我軍総員:將校百十六名 我軍ニ獲ル者:

  銃 元込銃 壱挺 弾薬 ヱンピール銃弾藥壱箱  器械 鑄形并刀各

  壱個宛

  備考敵軍:小銃壱挺刀壱本羽月郷ケナシムタニ於テ得ル

       ヱンピール銃弾藥壱箱鑄形壱個同所ニ於テ得ル

  我軍総員:百貳拾参名 

 シモドノ村は下殿村で、羽月川と川内川の合流点の少し北にある。元込銃はスナイドル銃である可能性がある。

C09084799100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0325・0326

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:薩摩国大口郡腰山上 

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時三十分頃岩塚岡ヲ発シ仝第四時頃腰山ノ麓

  ニ至リ雲霧ニ乗シ側面及ヒ正面ヨリ銃鎗突感直ニ山上ノ數壘ヲ陥ル賊敗

  走尾擊シテ終ニ善十塚ノ岡迠占領ス次ニ午前第七時ナリ   

  我軍総員:六拾壱名

 分からない地名ばかりが出てくる。善十塚は善寺塚か。ゼンジ塚がゼンジュ塚と聞こえたのか。

C09084799200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0327・0328

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:十年六月廿日 戦闘地名:観音谷 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前一時大哨兵ノ位置出発観音谷ノ山頂ニ達スレ

  ハ東方既ニ白ク我兵ヲシテ右側ニ当ラシム賊ノ弾丸射ルヿ雨ノ如シ我カ

  兵奮擊鼓譟シテ進ム遂ニ賊塁数十ヶ所ヲ拔ク尚オ逃ルヲ遂テ岳南ニ赴ク

  時ニ午前第五時ナリ 

  我軍総員:九十五名

 観音谷とはどこか。

C09084799300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0329・0330

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:觀音谷 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分各隊賊塁ノ左正面ヨリ侵襲ス賊早ク

  モ之ヲシリ速クニ各隊ニ向テ乱射ス此時我隊第壹半隊ヲ賊塁ノ背後ニ迂

  回セシメ放火壹回直ニ突進ス賊之ヲ知ルヤ大ニ狼狽シ守地ヲ捨テ四方ニ

  散乱シタリ 我軍総員:八十七人

 

 C09084799400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0331・0332

  第三旅團第十聯隊第三大隊第三中隊大尉山村政久㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児縣大口郡土山 

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日午前第三時淵辺村ノ山ヲ出第三時土山ノ敵

  塁ニ向ヒ開戦直チニ臺塲ヲ乗取夫レヨリ間道本庄万出村ニ至リ大哨兵ヲ

  布ケリ  

  我軍総員:百四拾五人 俘虜:未詳一人 備考敵軍:一敵ノ人夫体ノ者

  壱人ヲ縛ス直チニ本営エ送ル

 土山と本庄万出村が場所不明。我軍備考は薄くて読めない 傷者下士卒も薄くて読めない。

C09084799500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0333・0334

  明治十年六月廿二日歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 第三旅団    

  陸軍大尉安満伸愛㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:大口 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分ソンダ山ノ賊ヲ打拂ヒ続テ河邊ノ賊

  壘数多ヲ取リ尚進テ大口本道守賊ノ左翼ヲ猛擊ス彼敗兵ヲ留メ必死ノ形

  勢ニ移リシト𧈧豈ニ保ツ可ンヤ遂ニ又敗ス尾撃シテ大口旧城ニ到リ兵ヲ

  留ム再攻撃ノ命ニ依リ進テケ子山ニ到ル爰ニ於テ固守ノ命ヲ拝シ大哨ヲ

  布ケリ  我軍総員:八十七人 備考:一

  死傷異情ナシ 一糧十四俵花北村ニ於テ獲タリ 一此日費ス所ノ弾数三

  千八百発ナ

 ソンダ山は羽月川右岸の園田村背後の山という意味である。ケ子山は、かね山と読むかも知れない。大口町の東側に金山があったということか。付近の菱刈金山は1981年発見である。

 戦闘報告表には記載がないがこの日、安満大尉は薩軍所持の白米と玄米を分捕っており、23日までに厚東中佐に届け出ている。

C09084912200第二号 自五月至六月 來翰綴 第三旅團参謀部 

  去ル廿日攻撃之際賊徒諸事之白米拾俵玄米四表分捕候旨安満大尉ゟ届出

  候間即大口村出張糧食分配處ヘ引渡方可取斗旨該隊ヘ相達置候間此段御

  届ニ及置候

    六月廿三日厚東陸軍中佐

     第三旅本營

         御中

 それらを官軍が消費したかどうかは分からない。

C09084799600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0335・0336

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊附属同聯隊第貳大隊第四中隊一

  小隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:大田村 

  戦闘ノ次第概畧:此日攻撃隊トナリ午前第二時小木原村砲台エ整列直ニ

  對向ノ地エ散布俄カニ急進突戦ノ譜合ヲ吹奏シ正面左右トガメガ丘左ノ

  諸塁瞬間ニ乗取續テ連突セシ折賊ノ背后ヲ絶ツナランカ正面左ヘ突出シ

  タリ依テ我軍一時混乱ヲ醸シ甚戦ナレ共肉薄是ヲ攻メタリ賊手ノ舞ヒ

  足ノ踏處不覺シテ散乱敗走北クルヲ逐テ大口街ヲ經テ花北山々上マテ追

  撃止陣シタリ   我軍総員:三拾八名

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 上図は南報告に出ている地名を示したものである。小木原村を出発し大田で羽月川を渡り、鳥神岡の麓で戦ったのだろう。この朝、鳥神岡の麓の丘陵、ソンダ山で戦った別の隊の報告もあるので、南隊も同所で戦ったのだろう。その後大口街を通り抜けて花北山で留まっている。花北は平野部にあり、付近の山に登って守備したのだろう。具体的にはどこであるかは不明。図の下部には辺見十郎太の涙松跡がある。ウィキペディイアから説明文を引用する。「明治10年6月20日、西南戦争の高熊山の戦いで敗走した辺見は、現在の鹿児島県伊佐市菱刈市山にあった松並木で馬を止め「死を堵して固守すること四句余の山塁、いまこの要害の地 (高熊山)を糞鎮(政府軍)に奪わる。あぁ、吾が事終った。今は鹿児島に帰って死に就かんのみである。」と嘆き、涙を流したと伝えられている。」 南隊は前もそうだったが報告を二種類作成している。

C09084799700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0337・0338

  第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:大田村 

  戦闘ノ次第概畧:此日攻撃隊トナリ午前第二時小木原村砲台エ整列直ニ

  對向ノ地エ散布俄カニ急進突戦ノ譜合ヲ吹奏シ正面左右トガメガ丘左ノ

  諸塁瞬間ニ乗取續テ連突セシ折賊ノ背后ヲ絶ツナランカ正面左ヘ突出シ

  タリ依テ我軍一時混乱ヲ醸シ甚戦ナレ共肉薄是ヲ攻メタリ賊手ノ舞ヒ

  足ノ踏處不覺シテ散乱敗走北クルヲ逐テ大口街ヲ經テ花北山々上マテ追

  撃止陣シタリ   我軍総員:九拾三名 傷者:下士卒壱名

 対向の地は羽月川の対岸らしい。淵辺や園田の集落がある辺りか。人数が異なるだけである。

C09084799800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0339・0340

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 煥之㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣下小木原村前方 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時援隊トシテ小木原邨ヲ発シ本道ヨリ進ム然

  ルニ第六時頃本道ノ味方殆ト敗ルヽノ勢アリ依テ古田少佐ノ命アリ援隊

  ヲ道ノ左右ニ配布シ攻撃當方遂ニ賊大口ヲ捨テ走ルニ付又攻線ヲ攻撃

  隊ニ譲リ隊ヲ集メ援隊トナリ☐ヒ本庄ノ下出村☐☐江至リ茲ニ大哨ヲ占ム

  我軍総員:百二拾五名  備考:死傷ナシ此日費ス所ノ弾薬五千発

 岡隊は本道を進んだので小木原村から大口中心部に直線的に移動したらしい。本庄ノ下出村は場所不明。小銃弾は平均40発発射している。

C09084799900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0341・0342

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:ソンダ山 

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月廿日午前第三時トカメ丘左方ソンダ山之

  賊塁ニ向ケ攻撃于時大雨且ツ濃霧ニ乗シ潜テ賊ノ左方ニ出テ突然彼カ側

  面ヲ撃ツ賊兵狼狽一時烈シク防戦スト𧈧モ我兵奮進遂ニ賊塁九ヶ所乗取

  彼大ニ敗走逃ルヲ追テ羽月ニ至テ休戦ス此日費ス所ノ弾数凡ソ千二百余

  発   我軍総員:九拾三名

 前にも出てきたが鳥神岡の東側に園田村がある。ソンダ村と聞こえたので漢字が分からず、聞こえたとおりに書いたのだろう。バンバデーラと聞いたら馬場平とは思わないようなものである。昔の発音を標準語化するのが流行っていて、ウエンバイが国指定史跡上野原ウエノハラになったのと同じである。下村隊は一人13発弱の小銃弾を発射しているのでそれ程の激戦ではなかった。

C09084800000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0343・0344

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿兒嶋縣ハツ郡千貫ヶ山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時平泉村ノ防禦線ヲ發シ援隊ニテスワノヽ山

  ニ至ル処第三時先鋒隊開戦ニ付直ニ之レニ応ス暫時ニシテ賊兵ヲ敗走セ

  シム而シテ進ンテスワノヽ山ニ至リ第十一時茲ニ防禦線ヲ占ム

  我軍総員:百三十二 傷者:下士卒一

  我軍ニ穫ル者:銃:二 器械:刀二

  備考我軍:一傷者一名ハ一等卒根本末吉スワノヽ山ニテ傷ク

  備考敵軍:一銃二挺ハスナイドル 一刀ハ破損物 右スワノヽ山ニテ得ル

 スワノヽ山は場所不明。平泉村つまり平出水村を出発しているので、羽月川の右岸を進んだのだろうか。スワノ前遺跡というのが左岸の坊主石山の南東にあるのを参考までに掲げておきたい。結論は保留する。分捕り品にはスナイドル銃2挺がある。

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C09084800100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0345・0346

  第三旅團大坂鎮臺砲兵第四大隊第一小隊右分隊長 陸軍中尉三宅敏徳㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国大口驛

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時整列同第七時山野村出立直チニ大口ニ進入

  ス敵退去スルニ依テ該地ニ宿陳ス 我軍総員:六拾壱名

  我軍ニ穫ル者:砲:壱門外ニ車臺二輛 銃:小銃三挺 弾薬:大砲彈三

  百三十四個外ニ箱入七個小銃彈五百外ニ五箱 器械:具足一領 鎗三十

  九本 刀七本 銃劔十二本 喇叭三管

 三宅隊は山野村を出発し戦うことなく大口街に直進したようである。分捕った砲弾334個と箱入り7個は5月上旬に山野の戦いで別働第三旅団から分捕ったアームストロング砲弾もあるかも知れない。

C09084800200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0347・0348

  第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊 大尉沖田元康廉㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前一時整列直ニ出発髙熊山下ニ至リ卒ニ令シ賊塁ニ

  達セスンバ発火ヲ禁ス凖備已ニ終テ兵ヲ潜メ山頂ノ賊塁ヲ指シテ攀躋塁

  ヲ巨ル纔カニ五六米突時已ニ三時我全兵大声銃鎗ヲ揮テ突入賊狼狽或ハ

  放火スルモ弾着髙ク或ハ降雨ノ為メ雷管鳴ヲ傳火ヲ得ス漸時ニシテ賊ノ

  三塁ヲ奪フ直ニ廠舎ニ火シ更ニ追テ又数塁ヲ陥ル是ニ於テ兵ヲ半月ニ布

  キ猛烈火擊夜ノ明ルヲ竢ツ天明ケ全山ヲ掠シ猶山下ノ残賊ヲ尾擊シ此夜

  鳥越ノ右側ニ於テ守線ス   我軍総員:八十九名 失器械:銃剣三挺

  我軍ニ穫ル者:

  俘虜:下士卒一名 銃:十二挺 弾薬:四箱外大砲弾三個

  備考我軍:〇銃剣三挺髙熊山ニ於テ衝突ノ侭発火ノ砌紛失

  備考敵軍:〇俘虜鹿児嶋士族一佐弥右衛門〇ヱンヒール十挺シニーデル

  二挺〇弾薬ハヱンヒールノミ此銃及ヒ弾薬ト凡テ髙熊山ノ賊塁ニ於テ分

  捕

 午前1時に出発して、高熊山の下に到着して密かに登り、薩軍の台場から5mか6mの近くまで忍び寄り、開戦は午前3時だった。雷管鳴ヲ傳火ヲ得スは「雷管、鳴るを伝うる火を得ず」だろう。この日は雨だったので、金属薬莢実包を使わない前装銃・管打銃は筒先から粉火薬を入れるため、雨に濡れて発火しなかった、ということ。シニーデルはスナイドル。スナイドル銃は金属薬莢を使用し、官軍の多くが装備していた。

C09084800300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0349・0350

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第二中隊長 陸軍大尉福島庸知㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時防禦線ヲ発シ同第三時髙熊山ノ塁壁ヲ襲ヘ

  一時ニ賊兵ヲ追拂ヘ全ク髙熊山ヲ占領テ斥候ヲ出シ賊ヲ追躡シ大口邉ニ

  入ル賊退キ去ル 

  我軍総員:九十五 傷者:下士卒 三 我軍ニ穫ル者:銃 十二

 午前2時に防禦線を出発し、午前3時に高熊山を攻撃している。攻撃が3時からというのは直前の沖田報告と同じである。一気に片が付いた。

C09084800400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0351・0352

  第三旅團工兵第二大隊第一小隊第二分隊陸軍少尉横地重直㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時塹溝造築ノ爲メ髙熊山ノ麓ヲ発シ頂上ニ登

  レバ賊等敗走スルヿ数里漸ク進テ大口村ヲ過キ馬越街道ナル田中村ニ至

  レバ既ニ☐☐テ本夜同村ノ民家ニ宿陣ス   我軍総員:拾九名

 高熊山の戦いが始まった時間の午前3時に麓を出発し、頂上に到着したときには薩軍(熊本隊)は数里も先に敗走していた。それで築造作業はせず馬越街道の田中村に宿陣している。

C09084800500 「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0353・0354

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊中隊長代理中尉松田是友㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時三十分髙熊山出発嶮ヲ不厭山上ノ賊塁ヲ攻

  撃我隊ヲシテ先鋒賊ヲ突刺候処賊アハテサヽユル者ナク敗走及依テナ

  ンナク数塁ヲ攻落シ右小隊ヲシテ走賊ヲ遂擊ス左小隊ヲシテ山ノ口山辺

  ノ賊ヲ追打数塁ヲ落シ入夫ゟ馬越山ヘ防禦線ヲ定 

  我軍総員:九十八名 我軍ニ穫ル者:俘虜:未詳 一名

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 山ノ口は坊主石山の南東側麓の村であり、その名で呼ばれた山は坊主石山の南西部分か、もしくは村の東側の山だろう。その後進んだ馬越街道の路線は分からないが、中世の馬越城跡が上図左下にある。付近の山が馬越山だろうか。

C09084800600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0355・0356

  第三旅團近衛歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊中隊長陸軍大尉竹田實行㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日髙熊山攻撃ノ為メ午前第二時大哨兵ヲ発シ

  同山左ノ麓ニ兵ヲ散布シ第三時銃鎗進撃シテ山上ノ賊塁ヲ乗取リ爰ニ防

  禦ノ凖備ヲナシ夫ヨリ馬越街道稲荷山ニ進軍シテ大哨兵ノ凖備ヲナス 

  我軍総員:百三拾八名 傷者:下士卒壱名 

  我軍ニ穫ル者:銃:ヱンヒール短銃 二挺 弾薬:仝 五百発入 壱箱

 稲荷山は他の戦闘報告表にも出てくる。馬越城跡の東か北東だろう。

C09084800700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0357・0358

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長陸軍大尉斎藤徳明㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時髙熊山防禦線出発同第三時攻擊隊ノ進ヲ見

  直ニ髙熊山ニ攀登シ一分隊ヲ以テ斥候出シ后チ一半隊ヲ攻擊隊ノ援隊ニ

  発遣セシメ賊兵ヲ長駆シテ徳兵衛村ノ臺ニ防禦線ヲ定メ守備ス 

  我軍総員:百拾四名 

  我軍ニ穫ル者:ヱンヒール銃二挺 スナイドル銃 壱挺

  備考敵軍:午前第二時出発髙熊山麓森林中ニ兵ヲ潜伏セシメ同第三時攻

  擊隊ノ進ヲ見直ニ兵ヲ二分シ一ハ髙熊山横面堡壘ノ右翼ニ進ミ一ハ左翼

  ニ進ミ山ニ攀登シ直ニ散兵ニ配布シ一分隊ヲ以テ山下ノ村落ニ斥候ヲ出

  セシ時賊ノ敗兵返テ我カ兵ニ抗ス故ニ戦フ須臾ナリ又一半隊ヲ出シ攻撃

  隊ノ援隊タラシメ遂ニ進テ徳兵衛村ノ臺防禦線ヲ定メ守備ス

 徳兵衛村は場所不明だが、伊佐市役所の南東約5,6kmに徳辺(とくべ)がある。 

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C09084800800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0359・0360

  第三旅團砲兵第四大隊第壹小隊分隊長 陸軍少尉居藤髙次郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:朝第二時半山野村出発鳶ノ巣岡ニ向ケ進ミ髙熊山ヲ超

  過シ小苗代村ニ繰込馬越臺ニ至テ数十個ノ塹溝ヲ築キ夜第十二時重冨村

  ニ引揚ク   我軍総員:拾五名

 重冨村は徳辺から2kmほど高熊山寄りにある。小苗代村は地図には載っていない。検索すると「薩摩旧跡巡礼」というブログに「今回は伊佐市菱刈市山にある小苗代薬師堂跡です。十三世紀頃には存在していたという、歴史ある薬師堂であったそうです。」という記事を見つけた。今は松原神社といい、辺見十郎太の涙松跡から南東200ⅿ付近にある。当時その村名が存在したかどうかは兎も角、戦闘報告表ではこの辺りを小苗代村と呼んだのである。

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C09084800900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0361・0362

  第三旅團工兵第二大隊第壱小隊第一分隊 陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣於大口郡小木原村

  戦闘ノ次第概畧:大口丑山小木原村防禦線ヲ固守シ遂ニ進テ孫子下村ニ

  達シ同所大哨兵線ニ守備ス 我軍総員:五十三人   

  備考我軍:当小隊ノ内徒歩編製ノ隊

  丑山は牛尾の山、工兵隊だから攻撃には参加せず、小木原村の防禦線にいて、その後、馬越村で大哨兵の守備についている。孫子下村はマゴシ村、あるいはマゴシタ村つまり馬越村のこと。

C09084801000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0363・0364

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊 陸軍少尉小倉信恭㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡栗山村

  戦闘ノ次第概畧:六月廿日午前第二時三十分左翼開戦スルヤ我隊栗山ノ

  賊塁ニ對戦シ同所賊壘ヲ乗取リ左翼賊軍ノ火ノ挙ルヲ見ルヤ一層猛烈ニ

  進入スル処賊遂ニ悉ク胸壁ヲ棄テ隣奔リ之ニ乗シ里村迠追撃ス然レノモ同

  所ニ於テ賊戦シ勢ヒ盛ナリ故ニ苦戦ニ及ヒ我兵稍退歩シテ猛射スレバ賊

  終ニ大敗シ奔リ稲荷山迠尾撃シ仙臺川ヲ隔テ茲ニ大哨兵ヲ張ル 

  我軍総員:百八人 傷者:將校二人 下士卒四人 

  我軍ニ穫ル者:銃 和銃三挺 備考我軍:※傷者名を略す

 栗山は不明。これも園田村がソンダ村と表記されたように郡山のことかも知れない。南隊報告0335部分に掲げた地図に郡山を示した。高熊山の南西で、小木原村の南東側に位置する。コオリ山がコリ山とかクリ山に聞こえたので栗山と書いたのだろう。栗山を奪った後に進んだ里村は郡山から水田地帯を1.7㎞南下した所、大口の町の中心の西部、羽月川沿いにあり地理上の関係は矛盾しない。

 仙臺川は東流して大口中心部から南西4,6km付近で羽月川に合流する川内川のことである。稲荷山がまた出てきたが、記述から川内川の手前、大口側にあると分かる。

C09084801100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0365・0366

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長代理 陸軍中尉中村 覺㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:高隈山

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第二時三十分髙熊山ノ麓ニ向テ進撃同シク第

  三時開戦忽チ大喊ヲ作ツテ賊塁ニ驅ケ入ル賊皆ナ支スシテ走ル尾擊シテ

  大口ノ臺ニ至ル頃賊又返リ戦フ此時我兵ヲ左ニ大迂廻セシメテ賊ノ側面

  ヲ撃ツ賊畢ニ死体ヲ棄テ走ル追撃シテ「マゴシ」ノ臺ニ至ル戦止ム時ニ

  午后第四時三十分頃也費ス処ノ弾丸大七千發

  我軍総員:将校以下百三拾貳名 死者:将校一 下士卒一 傷者:下士

  卒一 

  我軍ニ穫ル者:銃 火縄銃一挺及ヒ刀三本 備考我軍:※死傷者名を略す

 小銃弾は一人平均53発を使用している。

C09084801200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0367・0368

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊等陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:十年六月廿日 戦闘地名:薩摩国大口村城山

  戦闘ノ次第概畧:午前四時大口進撃援隊トシテ進軍髙熊山ノ左翼前方

  ニテ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦直チニ城山ヲ落シ入レ大口村ニ進入續テ馬越村ノ上ノ山ニ追撃ス

  我軍総員:百二十五名 死者:下士卒一名 傷者:下士卒一名 敵軍総員

  :二百人余 死者:三名斗 傷者:不詳 我軍ニ穫ル者:弾薬 若干 糧

  二十四俵 備考我軍:傷者一名二等兵卒☐原熊吉也午前四時頃開戦大口ヲ

  落シ入レ同十二時頃馬越村ノ山上迠追撃防禦線ヲ同所ニ着ク 

  備考敵軍:死傷若干見請ルト𧈧モ助ケ去二三名戦地ニ死体ヲ残セリ 一弾

  薬若干ハ破捨セリ 一粮米ハ粮食課ニ送ル

 伊佐市(大口)中心部、市街地に接して北西部に大口城跡がある。これが城山だろう。

C09084801300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0369・0370

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊 陸軍大尉本城幾馬㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡大口町

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日午前二時開戦仝午后三時ニ至ル

  我軍総員:八十七名 死者:下士卒一 傷者:下士卒五 我軍ニ穫ル者:

  俘虜 下士卒一 備考我軍:明治十年六月二十日午前第三時小野木原ノ大

  哨兵ヲ引拂シ大口ニ向ヒ進撃仝第三時半發戦直ニ胸壁數十ヲ乗取リ大口村

  迠追撃同處ニ於テ賊俄ニ拔刀突入一時苦戰終ニ討拂ヒ尚尾撃スル叓三里余

  已ニ馬川内村ニ至ル時賊遠ク迯ケ去ルヲ以テ同所ニ於テ大哨兵ヲ布ク此時

  彈藥壱万発ヲ放ツ傷者伍長田邉正則仝下村保輔兵卒中嶌捨治郎川口與吉坂

  本留吉死者兵卒嶌田辯藏

  我軍ニ穫ル者:器械:大砲玉七拾五個 小銃玉壱箱 鉛壱俵 劔八本 糧

  :米貳拾弐俵

  小野木原は小木原だろう。馬川内村はウマゴシ村、つまり馬越村である。中世の馬越城跡を北側背後にもつ集落が馬越村だろうか。小銃弾は一人平均115発を使用している。普通は百発所持していたので、補給を受けなければ危険な状態になっただろう。

C09084801400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0371・0372

  第三旅團歩兵第拾貳聯隊第貳大隊第二中隊長陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡大口町

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時鳶巣ヲ出発シ二時四十分髙熊山下ニ至テ隠匿

  シ三時五拾分開戦即時臺塲畧取直ニ進撃午后第四時馬越ニ至テ防禦ス

  我軍総員:百四十二名 備考我軍:傷者壱名ハ二等卒淺井忠次放ツ所ノ弾

  数四千五百發  

 鳶巣丘を午前2時に出発し、40分かかって高熊山の下に到着し、3時50分に開戦したという。他の隊は3時に攻撃を始めたのとは異なる。一人31発強の銃弾を発射。