西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

臼杵関連・高原(たかはる)士族田口敬之助

 薩軍兵士田口敬之助は西南戦争の際、大分県臼杵で6月10日に負傷し、翌日官軍熊本鎮台に連行されている。彼は薩軍の状況を自供し、薩軍内部の規律を記した書類一枚を所持していた。防衛研究所にその際の彼に関する資料が残っている。臼杵で降伏した薩軍側の供述等は他にないので、彼らの面影を伝えるものとして掲げておきたい。

 原文で二段書きの部分はこのブログではその通りに表示できないので小文字の一段として示す。

C09084044200「戦闘報告原書 明治十年五月一一日~七月十七日 第二旅団」防衛省防衛研究所蔵1059~1068

二号

     生捕人

    鹿児島縣下日向國諸縣郡高原村(※当時旧日向国は鹿児島県だった)

 

           士族

           什長南方押伍改称田口敬之助

旧正月十四日頃同村知人ゟ志学校へ入校ノ義示談之▢承リ種々相断タレノモ終ニ戸長等之名簿二而鹿児島表へ發足セシナリ

一二番大隊六番小隊へ編入大隊長貴島清小隊長永井半ノ丞

一旧四月廿三四日頃鹿児島出立八代通ヲ来リ肥後ノ國ニ来リシカ炮聲頻ナレノモ自隊ニハ城ニ向ハスシテ直ニ山鹿口ニ出滞陣シ同断ニテ戦ハス隈府ニ到リ十五六日是レヲ守リ同所ニテ始メテ戦タリ然ル處竹羽(※たかば竹迫)ニ引キ揚亦同所ゟ大津ヘ同行同所ゟ二重峠ヘ引キ亦同所ゟ矢部濱町へ引キ夫ヨリ馬見原へ退キ亦同所ゟ椎葉山ヲ越ヘ山家〃ニ立寄リ是ヨリ直ニ延岡新町へ引揚ク細島近傍ニ一泊尚(※哨)兵ヲナシ同所ヨリ竹田小高野ニ出張竹田表敗走ノ

節ハ三日間ヲシテ臼杵ニ着セリ

一馬見原ヨリ退去ノノキ(※時)ハ銘々米五合位モ携帯途中ニテ焚キ或ハヒヘ抔

 ヲ喰ヒ行ク者モ有之実ニ難渋セリト

一弾薬ハ敷根方ニテ出来スルヤ少〃モ運送スヘシ(※敷根については後述)

一當時小隊長竹ノ内六ノ助鹿児島表草牟田ノモノナリ小隊長東郷辰二分隊長ヲ菊池

 ▢ナリ

一隊中ニテ銃器乏シ破損ノ器械ハ都度々々ニヨリ修スヘシ

一西郷及桐野両人ノ居所ハ隊長以下是レヲ知ラスト

一隊中人氣粉〃紜々迚モ一定スル能ハス就中日頃ニ至リ脱隊スルモノ多シ早▢降

 伏センヿヲ希望スト虽モ長官無理ニ進メシム故ニ無據出務セリト

臼杵ヘ出張ノ隊ハ凡テ七中隊此人員凡ソ八百人位アラント思ヘリ

  六月十一日

本人熊本鎭臺本営ニ於テ取調候處右通申出候ニ付大畧記載差出候也

 十年六月十二日   吉田大尉(※吉田道時)

 

 

  野津少将殿

 

   外ニ三葉▢添▢▢候事

三号

 

      鹿児島縣日向ノ国諸方

      郡髙原士族

        田口敬之助

         當三十三才

右ノ者六月十日臼杵戦闘ノ際手負ニテ翌十一日熊本鎭臺本営へ列来リ本人所持品ノ内左ノ一書有リ因ツテ呈ス 

      定

一戎器ヲ棄テ逃走スル者

一戦場ニ於テ兵士ノ分ヲ誤ル者

一道路在陣共人民ニ對シ乱暴狼藉スル者

  右相犯ニ於テハ盡ク割腹ニ處候條厚ク可得其意候事

   但戦場ヲ脱シ逃帰等致候者ハ盡ク捕縛シ人吉方ヨリ差送其罪相糺候條是亦相心得

   布卒ニ至ル迠無洩告諭可致置事

丑四月廿九日    本営

   奇兵隊

   行進隊

   正義隊

     本営御中

  右人吉ニテ各隊編制ノ際其目相定候段同人申出候事

 

 田口敬之助の経由した場所を地図で示すと以下のようになる。

 上の写真を撮った時は新燃岳が噴火しているときだった。家に帰った後も現地からの中継画像を見続けたことを思い出した。

敷根火薬製造所について

 敷根火薬製造所は霧島市国分に所在していたが3月10日に海軍が破却した。田口等は知らなかったのである。鹿児島県教育委員会が発掘調査を行っており、その報告書を

「敷根火薬製造所跡・根占原台場跡・久慈白糖工場跡 かごしま近代化遺産調査事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」2018年 鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書 第194集 今村結記 樋之口隆志 鹿児島県立埋蔵文化財センターから引用する。

敷根火薬製造所は、薩摩藩火薬製造の本局である滝ノ上火薬製造所の分局として文久3(1863)年に 建設された。前年の文久2(1862)年に生麦事件が、文 久3(1863)年に薩英戦争が勃発しており、薩英戦争に誘発されて設置された可能性が指摘されている(秋吉 2012)。敷根火薬製造所の見聞役は伊勢仲左衛門という人物である。

 明治4(1871)年に廃藩置県となり、翌明治5 (1872)年、敷根火薬製造所が鹿児島県から陸軍省へ献 納される(JACAR:C09112755900)。しかし、陸軍省へ引き渡しになった際に、火薬製造が取り止めになったため、伊勢仲左衛門は、海軍省へ敷根火薬製造所を陸軍省から受け取り、火薬を買い入れて欲しいと申し出た (JACAR:C09110794700)(秋吉2012)。伊勢仲左衛門の申し出が受け入れられ、明治6(1873)年、敷根火薬製 造所が陸軍省から海軍省管轄となり( J ACAR:C09111656400)、火薬の製造が再開された。その後順調 に火薬製造を行っていたが、明治9(1876)年12月、伊勢仲左衛門が免許鑑札を受けていないことが発覚し、火薬調製や海軍省への上納が差し止めになった。さらに、 金員売却や建物・機械等の官私の区分とを今後の取り決めをはっきりさせるため、伊勢仲左衛門が上京を命じられる(JACAR:C09112191800)。明治10(1877)年1月、伊勢仲左衛門が東京に到着し(JACAR:C09112354200)、 海軍省と協議をしたと思われる。当初は、伊勢仲左衛門に火薬売買の免許鑑札請求を鹿児島の所轄庁へ出願させ、許可を得ることを検討するが( J ACAR: C09112354200)、その後一般人民の火薬製造についてはまだ規則もないため当分許可になることは難しいことが発覚する。そのため、次の方策として敷根火薬製造所を官営にすることが検討される。

伊勢仲左衛門がなんとか敷根で火薬製造を続ける道を模索している最中、西南戦争が勃発し、3月10日には伊 東指揮官が春日艦を率いて敷根湾に到着する。その後、艦長らを率いて上陸して,敷根火薬製造所へ行き、火薬 樽をすべて倉庫から出して水中へ投げすて、その他の機械などただちに処分できないものはすべて焼き払った (海軍省1885)。敷根火薬製造所の土地と焼け残った建 物は不要となってしまい、明治11(1878)年、海軍省か ら鹿児島県へ引き渡す手続きがとられ(J ACAR: C09112755900)、敷根火薬製造所の歴史は幕を下ろすこ ととなる。

 報告書に工場の全景を描いた絵が添えられている。

 下部に掲げているジグザグ紋様の旗は大隊旗のようなもので火薬製造工場の軍旗だろうか。建物群上部には水車が沢山描かれている。それを拡大。矢印が水車。

 この付近だけ石垣土塁が設置されているのは、火薬の暴発に備えたのだろう。

 田口敬之助の名を地元高原町文化財調査報告書に見つけたので掲げる。 

 高原の有力者永濱家に関係した江戸初期から明治4年までの記録があり、その中に慶応元年(1865年)田口がもう一人の竹之下庄五と共に鹿児島番兵の役を務めたことが分かる。鹿児島城下の番兵の役である。翌年には京都守護としてこの二人が登場している。鹿児島藩士の一人として幕末維新の京都周辺の騒擾を経験していたのだ。寅7月から翌年卯2月13日まで。

 この年、このようなことがあった。薩長同盟寺田屋事件・第二次長州征伐・徳川慶喜が第15代将軍になる・孝明天皇崩御

 田口敬之助は幕末の騒乱に薩摩藩士として参加し、その延長として西南戦争にも好むと好まざるとに関わらず従軍したのだろう。

 以上。