西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

重野安繹(しげの やすつぐ)の漢詩軸紹介

 重野安繹の漢詩掛軸2点を紹介したい。2点とも以前購入したもので、読めない字がいくつかあるので先日、大分県立先哲史料館の松尾大輝さんに解読をお願いした。その場でも読めない字は残ったが、読めないまま紹介する。松尾さんには以前もお世話になったが、今回もお礼申し上げたい。

 

 重野安繹について松沢裕作2012「重野安繹と久米邦武」山川出版社から見ておきたい。太陽暦となった明治6年以前は陰暦で書いているらしいが。

 重野安繹(1827.11.24-1910.12.6)薩摩藩士。字名は子徳、通称厚之丞、号は成斎。

1839 年藩校造士館入学、1848年―1854年昌平坂学問所1854年島津斉彬に抜擢され造士館訓導師(江戸詰)となる。

 1857年半から江戸の留学生に支給される金をめぐり文書偽造の罪に問われ、翌1858年3月奄美大島に遠島となる。1859年2月奄美大島竜郷に西郷隆盛遠島になる。大島で重野が西郷を訪問したことがある。1862年生麦事件

 1863年春、西郷は赦免され庭方に任命される。6月27日、生麦事件の交渉でイギリス艦隊が鹿児島湾に投錨、28日、薩摩藩側から使者が派遣され、使者は御軍役奉行折田平内・御軍賦役伊地知正治造士館助教今藤新左衛門と重野だった。この頃、重野も赦免されていたのである。英艦隊と7月2日から4日にかけて戦闘になり、戦後の交渉が江戸で行われた際に重野は江戸詰家老岩下佐治右衛門と共に藩代表として交渉に臨んでいる。

 1864年、重野は長州藩をはじめとした西日本の諸藩の情勢を探索し報告書を藩に提出。その後鹿児島に帰り7月、島津久光の命により歴史書皇朝世鑑」作成に関わる。以後、軍事とは違う分野に進んでいる。中国書の翻訳「和訳万国公法」の鹿児島藩版に従事し1870年に刊行。

 1868年(明治元年)「皇朝世鑑」・「和訳万国公法」出版を進めることと、島津家先祖の調査のため大阪に派遣された。1871年2月、辞職を申し出て大阪で塾を主宰。7月(太陽暦では8月29日)、廃藩置県を迎え東京へ転居。12月、文部省編輯寮地誌局勤務。1872年5月左院勤務、1873年9月左院編輯課長。1875年4月太政官正院修史局副長。1877年1月修史館に改称。重野は一等編輯官。1882年から10年間、漢文体の「大日本編年史」編集作業。1882年川路利良の墓碑の碑文執筆。1886年、修史館は内閣臨時修史局と改称。1888年帝国大学に移管され臨時編年史編纂掛に改称。11月、重野は臨時編年史編纂委員長、帝国大学文科大学教授兼任。1889年帝国大学文科大学国史科設置。史学会が設立され会長に就任。1893年文部大臣井上毅は長年刊行されない修史事業を批判し、重野は東京大学の史誌編纂委員長職を解かれた。重野が去った後、1985年帝国大学は正史編輯を止め、史料集出版へと転換した。現在も東京大学史料編纂所で続けられている史料編纂事業がこれである。重野は1898年に再び東京大学教授に任じられ1901年まで勤めた。 

七言絶句1

胸中鞱畧是長城     胸中の鞱畧は是れ長城なり

誓剪鯨▢報聖明   鯨▢を剪り聖名に報じることを誓う

吉甫歸来知▢白     吉甫は帰り来り▢の白きを知る 

髙堂飲御詠于征     高堂に飲み征にゆくを御詠す

西郷南洲督兵北征畳韻三首之一南洲通称吉之輔 成斉繹

西郷南洲が兵を督して北征するを送り韻三首を畳むるの一 南洲は通称吉之輔

 読み下しは高橋による。4句目は怪しい。于を「に」と読めば「征に」となるが、前の言葉と意味が通じない。一句・二句・四句の末字が「い」の押韻。吉甫は西郷吉之輔のことで、詩だけを見ると西郷が帰ってきた後の宴会の機会に作詩したと読めるが、為書きからは西郷が北征に行くのを送るとなっており、それなら出発前のことになる。

 三首の内の一首とあるので、他の詩は出発前のものであり、この詩は凱旋後に詠んだものか。

 鮮明な画像ではないので後日撮り直そう。下は鮮明だが傾いてしまった。

 印がこれ。

 西郷隆盛のこの頃の動向を記す。

 明治元年1868年6月14日(旧暦か)鹿児島帰着。8月6日鹿児島発、北越薩軍の総司令として出発。10月中旬京都に凱旋。11月初旬鹿児島帰着。明治2年5月1日鹿児島発、平定後の25日箱館着。

 重野の作詩時期は西郷が北越から鹿児島に帰った1868年11月から翌年4月までの間とみられる。

七言絶句2

萬▢新栽繞緑塘 万▢は新たに栽えられ、川の土手には緑がめぐり

枝〃輕艶競時装 枝々は輕艶して時装を競う

松間老木無人 松間の老木、人の賞するなく 

獨占春光向夕陽 獨り春光を占めて夕陽に向かう 

明治丁酉清明節七十一叟成齊

 第一句の二字目が分からない。大野さんの意見では「林の下に豆」かもと。丁酉(ひのととり)は明治30年(1987年)、清明節は春分から15日目。つまり明治30年3月20日。重野は71才。自分を人から賞されない老木に譬えての作詩である。

以上です。▢が判明したら追記します。