西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

市来四郎文書の薩英戦争の火箭(かせん) ※前野良沢が「解体新書」を解読したように少しずつ進行中です。

 先日、大分県立図書館で新入荷図書の棚に「鹿児島県史料市来四郎 三」があったので、パラパラっとめくったら薩英戦争時の火箭(かせん・ロケット)の記述があった。この本は市来(いちき)四郎編「旧邦秘録(きゅうほうひろく)文久3年巻五~巻一六を活字化したもので、下関戦争と薩英戦争関係の史料がほとんどである。

 薩英戦争で英国海軍が火箭を使ったことは知っていたが、この史料では着弾した火箭の寸法を記しており、このような記録があることは知らなかった。当時の英国火箭だから長い棒付きのコングリーブ火箭であることは分かるが、参考までに英国の火箭(ロケット)について詳述したC・Eフランクリン著2005「英国火箭」の内容と比べてみたい。

 

薩英戦争

 戦争の概要については鹿児島県のHPから薩英戦争の項目を貼り付けることにする。

島津久光文久2(1862)年8月,幕政改革を終えての帰途,東海道生麦村で行列に遭遇した騎馬イギリス人4名が,下馬してよけることをしなかったことから藩士に斬られ,3名の死傷者をだすという生麦事件がおきた。イギリスは,薩摩藩に対して犯人の処刑と賠償金25000ポンドの支払いを要求した。薩摩藩はこれを拒否したので,翌年6月27日イギリス艦隊7隻が鹿児島に来航し,7月2日に薩英戦争が起こった。

 

市来四郎

 まず、安藤保2019「鹿児島県史料市来史郎一 玉里島津家史料補遺」解題から彼がどういう人物だったのか簡単に見ておきたい。市来(1829年1903年)は鹿児島城下士の家に生まれ、初め高島流砲術を学ぶ。以後、御製薬掛・火薬製造所改正掛など洋学の知識を必要とする部署を歴任した。島津斉彬の側近として長崎でオランダ人から砲術・汽船運用製造などを伝習し、集成館事業に深く関係した。その後、明治2年藩兵二大隊の東京派遣に際して輜重隊宰領(さいりょう・監督)を務めたりしたが、兵制改革の意見が西郷隆盛と対立し帰県。鹿児島で製紙業を開いたが施設は西南戦争で焼失した。

 戦争中は島津久光と同じように桜島に避難し、戦後は久光の許可を得て島津家の事蹟編纂(へんさん)に従事した。作成した史料は「照國公御伝」・「尊話録」・「旧邦秘録」・「斉彬公御言行録」・「忠義公史料」・「斉彬公史料」・「斉宣公史料」・「斉興公史料」・「島津家国事駚掌史料」・「石室秘稿」・「旧邦秘録材料」など多数があり、現在、「鹿児島県史料」として刊行が続いている。

 

火箭の記述

 今回掲げる火箭の記述は次の史料のものである。

「鹿児島県史料 市来史郎史料 三」「旧邦秘録文久三年至巻一六(自巻一五)至巻一六(自巻一五)七」113   pp.301 

〇田原陶章曰、四日(彼ノ十七日)午後英艦云云、七艘ノ内一艘小根占砲台前面凡一里許ノ処ニ碇泊ス、夜入前「ロケツト」(火箭)二発ヲ放ツ、田間ニ打込ム、取揚テ見ルニ、鉄管直径三寸余、長二尺五寸余、矢木詳カナラス、長一丈三尺許アリ、鉄管ノ上ニ小榴弾ヲ附着シアリ、是ニハ火伝ヘス、番号92トアリ、

 激しい戦闘のあった翌日、英国艦隊は鹿児島湾から退去したが軍艦の一隻は自力で長距離を航行できず、薩摩藩の小根占砲台の前4㎞付近の海上に停泊した。薩摩藩では追撃できる軍艦がなく、手をこまねいている間に、一隻の英国艦が来て曳航していった。

 前日の戦いでは鹿児島城下町に向けて多数の火箭(ロケット)がパーシュース号その他の軍艦によって撃ち込まれたが、この日は取り残された軍艦が小根占の水田地帯に打ち込んだのである。その時発射された火箭を薩摩側で回収し、寸法や材質などを記録したのである。

 これによると先頭部分には小榴弾が付いており、その次に鉄製の筒があり、末尾に木製の長い棒が付いていたことが分かる。鉄筒部分の直径は9.1㎝余、その長さは約75.758cm余、尾部の木製軸は詳かでなかったが、長さ約3.94mくらいだった。先頭の鉄管の頭にある小榴弾には火を伝えないというのは不発ということか。

 これまで薩英戦争時の英軍火箭に関する具体的な記録があることに気が付いていなかったので、これについて述べたい。

 

同書記載その他火箭記事

 同じく「鹿児島県史料 市来史郎史料 三」には火箭が何ヶ所か登場する。参考までにそれも抜き出しておきたい。

 pp.199・200:69の5の番号を付けられた史料である。小文字で横二行の部分はこのブログではその通り表示できないので小文字一行とする。

琉球大二艘小一艘ハ、六月初メ例年ノ如ク入港シ、下町波止内ニ碇泊シケルカ、朔日開戦ノ内決アリシニ依リ、同日昼頃三艘共ニ磯天神社沖ニ廻航碇泊ス、同時二和船二艘十七八反帆二艘、共ニ日州赤江船ナリ、モ同所ニ碇泊セシニ、砲声轟ク二至リ乗込ノ輩ハ吉野村ノ方ニ避ケ行キタリ、申ノ下刻頃、敵味方ノ砲声熄ミ、英艦ハ咸桜島地方ニ退キ、暫時アリテ小汽船二艘所謂砲艦来リ、琉船・和船ニ向テ砲発スルコト十余弾、而シテ脚舟二艘ヲ以テ乗入リ焼キ立タリ、英船ハ二三丁許ノ処ニアリテ、集成館及ヒ鋳銭局或ハ御邸ニ向テ放発スルコト数十、子ノ上刻頃ニ至テ桜島ノ方ニ退キタリ、琉和船ハ炎(※人偏)チ燃上リ、鋳銭局ノ海浜ニ流レ来リ、恰モ焼キ船トモ云フヘキ形状ナリ、然ルニ海浜ニハ鋳銭局建築用ノ材木囲ヒ木屋数十間建テ列ネタルニ流レ寄リ、直ニ燃ヘ移リ苦木屋ナルカ故、直ニ燃移レリ、鋳銭局ニ延焼シ、或ハ英船ヨリ火箭又ハ焼弾ノ類多ク打懸ケ、数所ニ燃上リタリ、集成館ニハ数十ノ火箭・焼弾或ハ種々ノ大小弾ヲ打込ミ、同シク焼キ立タリ、二局共ニ稍同時二燃上リ、東風ハ烈シク敵艦ハ絶ヘス放発シ、暫時ノ間ニ灰土トナレリ、御邸「仙巌邸ヲ云フ」ハ幸ニシ恙ナカリキ、此時御邸ニハ始羅郡山田郷ノ兵百余名警衛シ上陸ニ備ヘタリ這兵物主四本休兵衛門・談合役伊東仙太夫集成館ニハ掛員竹下清右衛門・岩下新之丞等ヲ初四五名、職工数十名、人足百余名アリテ、七百目ノ野戦砲二門ヲ以、上陸ニ備ヘタリ、同館ハ各砲台ノ器械・要具ノ修繕或ハ弾丸製造等ニ昼夜兼業シタリ、鋳銭局ハ廿八日ヨリ製造ヲ止メシ故、職工僅ニ三名、人足三四名、掛員ニハ市来正右衛門今史郎ト呼フ、・磯永喜之助弘卿・中原太郎三名ニテ、五百目ノ野戦砲一門及ビ「ゲへール」銃ニ三丁ヲ以テ上陸ニ備ヘタリ、而シテ夜半頃迄ニ両局共悉ク焼燼シ、集成館ハ鎔鉄・鎔鉱二炉ノ煙🔲(※この活字無)二基ヲ残スノミ煙🔲(※同)煉瓦ナルカ故ナリ、〇此ノ二局ヲ彼新聞紙等ニ記スカ如ク、製造所及ヒ倉庫ト認メタリヤ、砲発スルコト各砲台ニ同シ、後日両局内二止マリシ弾丸ノ数大小三十余個、其他破裂シタル者モ数十個アリタリ止リタル弾丸ハ実弾・破裂弾ノ二種ナリ、破裂弾不発ノモノ半バ以上アリタリ、諸弾皆長尖弾ナリ、〇、此時鋳銭局ニ於テハ琉球通宝凡三千七八百両ヲ焼滅ス、

 集成館一帯を発掘すれば火箭が出土するかも知れない。集成館と鋳銭局に打ち込まれた砲弾の半分以上は不発弾だった。第二次大戦の米軍の艦砲射撃でも一割程度不発弾があったというのを読んだ記憶があるので、確かに不発弾は多かったのだろう。

〇前二記シタルカ如ク、申ノ下刻頃ニ及ンテ夷船モ砲発ヲ媳メ桜島小池村ノ沖ニ退キ今朝マテ、碇泊ノ所尚ヲモ火箭ヲ磯又ハ愛宕山ヲ越シテ放チタリ、昼過頃上町向築地薬師某カ土蔵ニ止リタル火箭ヨリ燃上リ、行屋橋ヲ越シ竪馬場ニ延焼シ、浄光明寺ニモ燃カヽリ、火光天ヲ焦シ悽マシキ形況ナリ、東風烈シク消防ノ人ムナク、風ニ従テ焼立テ暁ニ至レリ、此時各砲台ノ守兵ハ上陸ニ備ヘ、殊ニ祇園砲台ハ苦戦一方ナラス労レタルカ故、応援兵阿多郷ノ一隊ヲ物主伊集院仲二率ヒ来リテ交代シ、砲台兵ハ清水馬場ナル寺尾庄兵衛カ宅ニ引揚ケ憩ハシメタリ寺尾モ同シク、砲台兵ナリ、(pp.200・201)

 鹿児島市街地の十分の一くらいに火災が広がったのは上町の薬師某方の土蔵に火箭が命中したのが大きかった。硫黄数千俵を土蔵に納めていたという(同書69の13)。

69の7。pp.201には浄光明寺火箭ノ類許多放擊シタリとある。この寺は立派な外観から城と間違えられた。

71(前半を略す。pp.207)

(※和暦7月4日)然ル二未ノ刻頃ヨリ七艘共ニ蒸気ヲ立タルカ故、再ヒ侵襲スルナラント各砲台又ハ陸兵ハ戦備ヲ令シ待チタリシニ、豈ニ図ラン、未ノ下刻頃抜錨シ南方ニ向テ出航セリ、喜入沖辺ヨリ果シテ回旋来撃スルナラント待設ケタリシニ、七艘ナカラ申ノ刻過ル頃ニハ帆影モ見ヘス退去セリ此時七艦咸寛航ス、或ハ挽綱ヲ附シラレタル故ナラン、玆ヲ以テ各砲台ハ勿論、諸隊皆大ニ失望シタリ、而シテ当日夕刻指宿・山川等ノ早馬来テ、夷艦七艘ノ内一艘小根占海ニ碇泊シ、外六艘ハ悉ク佐多岬ヲ旋リ出帆シタリト註進ス、此註進二依テ一艘ハ小根占海二アリト雖モ、素ヨリ恐ル二足スト新兵新兵トハ二日ノ戦後各郷ヨリ来レル兵ヲ云フ、数隊ヲ海岸其他要衝ノ地二備ヘ、各砲台又ハ城下兵ノ諸隊ハ、本日晩景帰家休憩スヘキ旨令セラレタリ、因テ各持場ゝ二於テ勝吐気ノ式執行シ帰家シタリ、城下警衛隊・両御旗本其他遊軍隊ハ城下二集リ勝声ヲ揚ケタリ、実二勇々敷形況ナリキ賜暇ノ令ハ各物主ヲ本営二召喚シ、国老小松帯刀伝令且褒詞ヲ演達セリ、〇小根占沖二碇泊ノ英船、四日ノ夜小根占麓ヘ大砲ニ発、火箭三個榴弾二個打掛ケ、五日ヨリ毎日調練或ハ楽ヲ奏シ、或ハ船ノ修復ヲナスノ形況ナリ、

 一旦、両軍とも砲撃を終えた後に英国艦隊は石炭を投入し機関を始動させ煙を上げたので、薩摩側は再度の攻撃が始まるものとして応戦の準備を整えて待っていた。しかし、艦隊は意外にも鹿児島湾を南下し、大隅半島南端の佐多岬を回って見えなくなってしまった。出発地横浜に帰って行ったのである。

 一艘だけは小根占の付近海上に留まり船の修復をしているらしかった。その際、夜間には火箭を打ち上げたり小根占の水田を砲撃し、また火箭3個をそこに打掛けた。小根占村は1941年に根占町になり、現在は南大隅町と呼ばれている。撃ち込まれた火箭は本書で観察記録があるが、その後3個はどうなったのだろうか。

 なお、先に引用したように資料番号113では小根占に発射した火箭は3発ではなく2発だったとある。2、3発だったとしておこう。

 74の5(pp.212)

〇英艦ヨリ放チタル砲弾ヲ大砲製造所二進メタリ、其数大小二百余個二及ヒタリ、酒類ハ実弾・破裂弾ノ二品ナリ破裂弾ハ皆発セサルモノヽミナリ、悉ナ長実二弾二シテ、円弾ハ一個モナシ、〇両日ノ間彼ヨリ放チタル弾丸、悉ク破裂シタル二非ス、破裂シ或ハ各所ノ土堤・石牆等ニ打込ミタルハ拾ヒ得サルモ又多シ、或ハ砕片又多シ、是等ヲ以テ両日ノ間彼カ放発ノ大小弾数百個ニ及ヘルヲ知ルヘシ海軍雑誌ニ大小弾四百八十一個、空放百八十七ト記セリ、又二日ノ昼後ヨリ各艦火箭ヲ飛セルモ少カラサリキ、

 火箭を使ったのが各艦だったとある。ほとんどの軍艦が装備していたのかも知れない。

 その後、薩英戦争の結果について、江戸の薩摩藩邸では江戸城中の噂を書き残している。部分的に引用する。

同書の86。pp.242~244〇七月十二日、江戸邸南部矢八郎御城坊主木村宗三ヨリ漏聞ノ趣左ノ如シ南部ハ留守居附属吏也、

(略)薩摩ヨリ英国軍艦不残当港へ横浜帰リ来リ、早速尋問トシテ幕役右船ヘ罷越、一先戦争ノ次第承候処、(略)幕役人共「アドミラール」二相尋ネ候二、定テ英国ノ武威ヲ薩摩二残シ勝軍ナラント申候処、「アドミラール」ハ二ガ笑シテ、此後ノ戦ハ見事二打破リ御覧二入レント申シ、勝敗ノ咄ハ取リ合不申、以後ノ戦二ハ陸兵・海軍二ツナカラ備、一時二打破ルト申シ居候由、此ノ咄ヲ以テ不手涯ノ証拠トノ評判二候由、

士官・兵卒ノ咄二ハ、負軍二テ能キ甲比丹モ死シ、船ㇵ打破ラレ早々引取リ候ト申居候由、幕役共長州ト弱強ヲ尋候処、長州ヨリハ十倍強ク手当モ十倍相調候ト申候由、

幕役人共モ、薩摩カ手当アリトモ英国七艘ノ武備二ハ困マルヘシ、十二十降伏スヘシト存シ居候処、此節ノ評判ト英船ノ損所ヲ見テ驚キ候由、

 薩英戦争の成り行きについて幕府役人は薩摩に勝ち目はないとみていたが、意外な結果に驚くこととなった。英国艦隊の提督に対し、英国の武威を薩摩に示し勝利したのだろうと尋ねたところ、提督は苦笑いして言葉を濁したのである。そして次は陸兵と合同で戦い、見事に打ち破る、と告げている。薩摩側も再戦を想定していたが、結局、それはなかった。

 実際、人的被害は英国側が倍以上だった。薩摩側でも完敗だったとは考えておらず、薩摩側が球形の砲弾だけだったのに対し、英国側の尖った砲弾が優っていたと捉え、戦争後の交渉の席で技術向上について協力を依頼し相手を困惑させながら承諾させている。薩摩側の砲弾は球形の物ばかりで、小銃弾も英軍が放った椎の実形の尖ったものはこの時初めて見たと書いている。この段階には椎の実形の銃弾を使うエンフィールド銃はもっていなかったのである。

 その他の火箭記事を掲げる。

105。pp.250

〇七月廿日達、郡元村ニ在ル伊集院平カ別荘地ヲ買上ケ、火具製造所火巧製造所ト称ス、

建設ノ旨達セラレタリ、従来火具製造ハ火薬製造所稲荷川字瀧ノ上ニ在リ、ニ設ケアリシニ、戦争ノ際近隣ニ敵ノ火箭或ハ弾丸落チタリシ故、以来同局ニ於テハ製造ノミヲナシ、火薬及弾丸其他ノ火具ハ坂元村及ヒ草牟田村龍泉院ノ境内ニ倉庫建シ貯蓄スヘキ旨モ令セラレタリ、

 近年発掘調査された瀧の上火薬製造所の近くにも火箭が撃ち込まれたという。

109の9。pp.272~276

〇第九号、英国新聞紙ニ曰ク、(略)「パーサス」号ハ火箭及焼弾ヲ鹿児島第五号台場ノ北方海浜ニ在ル大磯ヲ云フ乎、製造所倉庫等集成館及ヒ琉球通宝鋳造局ノ二ヶ所ナリ、ヲ砲擊シテ之ヲ焼滅セリ、(略)此日鹿児島市街三四ヶ所ニ火光起レリ、蓋シ我艦放ツ処火箭ノ為メ、或ハ大風ノ為メニ失火セシノ二ツナルヘシ、

我艦ハ第五台場北方製造所ノ前面ニ於テ、「パーサス」号放発スルコト凡ソ三時間、午后八時ニ至リテ止メ、

 パーサス号とはパーシュース号と同じ。第五台場の番号は南から第一・第二と数えた英国側の仮称番号であり、祇園砲台(祇園之洲砲台)のことである。この砲台は北部に土塁がなく、そこを狙って斜め方向から砲撃され被害が大きかったので、戦闘直後に土塁が付設された。下図は砲台の左部分に土塁がない状態を示す。

 上図は「鹿児島紡績所跡・祇園之洲砲台跡・天保山砲台」鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(172)2012年から転載した。

 

C・Eフランクリン著「英国火箭」

 冒頭に述べたようにこの本から薩英戦争に使われたイギリスの火箭がどのようなものだったのか見ておきたい。

 1805年から1901年のナポレオン時代、植民地戦争時代の火箭を紹介した本である。翻訳アプリdeeplで読んでみた。これまでの翻訳機能よりも格段に進歩しているが、いちいち原文を打ち込まねばならないのが面倒くさい。

 本の構成は4つに分かれ、火箭本体・発射装置・牽引車馬・馬の付属具・要員の服装と細々した装具・火箭収納具等々について図解を交えて解説している。

 Ⅰ ナポレオン時代。1805-1817 Ⅱ 初期植民地時代。1817-1867 Ⅲ 後期植民地時代。1867-1901 Ⅳ 英国火箭要員の制服 

 薩英戦争よりも前だが参考になるので1827年ころのコングリーブ火箭の図を掲げる。左端の火箭はこの時期ではないかも知れない。

 上図にはないのが下図のカーカスヘッドという火箭である。頭が尖って推進剤しか入っていないものの事だろうか。

 1863年の薩英戦争はⅡ 初期植民地時代。1817-1867が参考になるだろう。

 本書にある1844年段階の史料には以下のように下図の各部位の数値が示されている(pp.69・70)。1863年の薩英戦争で使われた火箭に関する数値が冒頭のように記録が残されているので、一覧中では記録に対応すると考える数値だけをで加えた。

 なお、西南戦争前後に日本海軍は英国から火箭を輸入し装備しているが、二十四斤・六斤・三斤のほか九斤が少量ある。九斤は国産したのだろう。原文にあるprは斤と訳して使ったのだろう。

 1863年の薩英戦争翌年頃の火箭の図がある。棒の断面形は八角形で、末端に向かい細くなる。

 同じ1864年頃には下図が示されており、筒基部の噴出孔の形が円形6個ではなく、3個の空間となっている。赤字は挿図の説明部分である。

 上に掲げた2図共にある最上部の棒(ステック)は推進剤が詰まった鉄製の長筒(ケース)部分の基部にねじ込むものである。例えれば凧あげに必要な紙の尾の役割及び重量で衝撃力を増すためだろう。19世紀初期のコングリーブ火箭の棒は長筒側面に固定されていたが、この時期の物は図のように次段階のヘール火箭が登場するまで長筒基部中心にねじ込まれていた。

 長筒の内部には推進剤が充填されており、基部の方から内部を貫くのは推進剤の燃焼に必要な空気の通り道である。基部には5個の噴出孔があいている。月ロケットに例えれば、先端の人が入る居住部分が爆弾であり、その基部に導火線の役をするものが差し込まれている。長筒の推進剤が基部の方から次第に燃えてゆき、導火線役の部品まで達するとそれに燃え移り、それも少しずつ火を伝えるように燃えていく。先端の爆弾部(居住部分)は筒に6個のねじで固定されている。

 もう一度市来史料に戻って火箭の数値を掲げる。先頭部分には小榴弾が付いており、その次に鉄製の筒があり、末尾に木製の長い棒が付いていた。鉄筒部分の直径は9.1㎝余、その長さは約75.758cm余、尾部の木製軸は詳かでなかったが、長さ約3.94mくらいだった。鉄管直径三寸余の9.09㎝に近いのは24pr火箭寸法表による鉄筒基部の直径約8.82㎝が最も近い数値である。24pr火箭の鉄筒は長さ約70.612㎝であり、長二尺五寸余(76.5㎝)に近いが多少異なる。矢木詳カナラス、長一丈三尺許アリは基部の木製軸を指すとみられ長さ363㎝あまりの事であり、同じく350.52㎝が近いことが分かる。残存状態により遺物の計測数値が違ったのか、不正確にやや適当に把握したのかも知れない。したがって、市来史料にある火箭は24pr、24斤火箭だったとみられる。先頭に小榴弾が付いているので、先の尖った型ではない。

 1864年ころに関する部分に英国軍艦に装備した火箭について次の記述がある(訳/pp.75)。

各船には144発を超えないロケット弾が装備され・・

 薩英戦争に参加した英国軍艦も一隻につき144発以下を装備していたのだろう。火箭は軍艦の砲兵から不人気だったし、狭い艦内に多量を置くわけにはいかなかったが、重たい大砲では持ち込めないような敵地内の陸上の悪条件下でも持ち込めるのが利点だった。フランクリンによるとコングリーブ火箭(その後改良型のボクサー火箭も登場)の現物は世界に数点しかないという。鹿児島市街周辺に打ち込まれた火箭はおそらく数百点あったとみられるので、破片が発見されれば貴重でありその可能性はあると思う。

つづく(原文を訳しても理解しずらいところがあり、少しずつ加筆します。)