西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

豊後大野市緒方町小富士山踏査

 2023.2.23、竹田と緒方町を歩いた。

 先ず、竹田市西光寺背後の尾根を歩いてみた。「戦地取調書」に台場があったと描かれているので確認したかった。

 図の三角がそれで、満徳寺の東の山に二ヶ所、西光寺の北東側に一ヶ所ある。

 西光寺の本堂前には寺の前の河原で薩軍に殺された藤丸警部の銅像がある。広場の北側は斜面で墓地になっている。何年か前、ここで墓石を見て歩いたことがあった。今日はその中央にある階段を抜けて頂上を右手に進み、山に入る。手入れされていない尾根の上に江戸時代からの墓石が延々と続き、竹田市の他の尾根でも同様だったなと記憶がよみがえった。

   やや広い場所にピラミットのような形の上に十字架がある墓石があり、その東側に細尾根が突き出しており、その支尾根先端に土塁のようなものが東向きにあった。上図の青色破線〇(大体この辺り)。右側面から土塁の向こう末端までは垂直に20mくらい落ちる凝灰岩の崖面となっていた。前方を遮る地形がないので下を通る者を射撃しやすい場所である。下を覗き込むのが怖い。崖面には木がなく、脆いかもしれないただの凝灰岩が切り立つだけ。これを読んで現地に行って、土塁から向こう側を見下ろさないでほしい。念のために記すと、落ちたって自己責任だから。下の写真は土塁?のこちら向きの面に画板を立てて撮った。

 尾根を北上して満徳寺のそばまで見た。寺の北東にある尾根は一旦下がって再び登らなければならないので小山のようになっている。時間がなかったのでそこには行かなかった。歩いた範囲には他に台場跡らしきものはなかった。図の緑線が歩いた経路である。この他、最初に尾根に取りついた場所よりもさらに南側にも台場が描かれているが、今回はそちらには行かなかった。

 その後、10時に待ち合わせていた由布晃さん(竹田市片ケ瀬)宅に行き、小富士山とその南西側にある岡藩主中川家墓所に案内して頂いた。由布さんからは以前、片ケ瀬に西南戦争直後の墓石があると教えていただき見に行ったことがある。それは戦争で墓石が荒らされたので再建したというようなことが彫り込まれていた。今回の山は自分は初めてだった。途中、南側の景色が美景だった。青空を背景にしたらもっときれいだっただろう。帰りに見た時も同様だった。

 遠景左の傾いたのが傾山1605m、右の高いのが障子岩1409mだと思う。撮った所から傾山まで14.5km。

 小富士山の南西の小高い場所に下の写真の中川家墓所がある。石段・石垣は凝灰岩だが、灯篭や墓石は兵庫の御影石を使っている。

 人物は由布さん。かまぼこ状の石は儒教思想による形とのことだった。今朝見た西光寺背後や、以前歩いた拝田原でも見たことがある。

 そのあと、小富士山に南西側から歩いて登った。頂上尾根に二ヶ所、凝灰岩製の祠があった。屋根の一辺が110cmくらいあり屋根正面に西側のは中川家の花びらのような丸十字家紋、東側のは二つの矢羽根紋を彫り込んでいた。面白かったのは小富士山の頂上や途中の斜面などあちらこちらに大きな礫岩があったことで、石英や緑色その他の円礫が含まれていることだ。由布さんの注意喚起で気づいたことである。阿蘇東側の大野川流域は9万年前に阿蘇溶結凝灰岩が台地を形成したが、その台地面から突き出た高い山は阿蘇山噴火よりもはるかに古い時代のものである。日本列島の原型が大陸から切り離される前にプレートの衝突で沿岸の砂礫が次第にたかまり、この高さに残っているのだろうと勝手に推測した。数千万年かそれよりも古い時代のことである。

 帰り道、遠景写真を撮った所で昼食、由布さんがガスで湯を沸かして入れた熱いお茶とコーヒーが美味しかった。

 由布さんの家に戻り、車二台に分かれて荻町の高花公園に行き、先日写真だけ撮ってブログに載せてた一基の台場を図化した。下の写真のように台場跡に線を加えないと何だかわからないと思うが今回はそのままを掲げる。このように上方から撮影できて、樹木が少ないという好条件の台場跡は少ない。プラ磁石が湿気て不調だったので今日作成した略図を修正する必要がある。写真の右側は一段高いが、そこに台場跡らしい窪みがあるのを前回確認したがこれは後日図化したい。今日は曇りだった。

 小高野関係の史料

 今回、岡藩中川家墓所と小富士山を歩いたのは西南戦争時に台場か何かを築いたのではないかと考え、それを探したかったからである。

 アジ歴でみるC09083757000「探偵電信報告 出征第一旅團」(防衛省防衛研究所蔵)0539~0541は竹田のから退却した後、臼杵に進撃しそこで降伏した薩軍兵士の自供である。小高野に出張したとある。薩軍の一部が宿泊したのか周辺に守備を置いたのかは不明だが探してみる価値はありそうだった。

         生捕人

       鹿児島縣下日向国諸縣郡馬原村

                  士族

                  什長 

                  当分押伍改称田口敬之助

旧正月十四日頃同村知人ヨリ私学校ヘ入校ノ義示談之趣承リ種種相断タレノモ終

 ニ戸長等ノ先導ニ而麑児島表ヘ發呈セシナリ

一二番大隊六番小隊ヘ編入大隊長貴島清小隊長永井半之亟

旧正月廿三四日比麑島出立八代通ヲ来リ肥後ノ国ニ来リシカ炮声頻リナレノモ自

    隊ニハ城ニ向ハスシテ山鹿口ニ出滞陣シ同所ニテ戦ハス隈府ニ至十五六日是レ

 ヲ守リ同所ニテ始メテ戦タリ然ル処竹羽(※竹迫)ニ引キ揚亦同所ヨリ大津ヘ同

 断同所ヨリ二重峠ヘ引キ亦同所ヨリ矢部濱町ヘ引キ夫ヨリ馬見原ヘ退キ亦同所

 ヨリ椎葉山ヲ越ヘ山家々々ニ立寄リ是ヨリ直ニ延岡新町ヘ引揚ケ細島近傍ニ一

 泊番兵等ヲナシ同所ヨリ竹田小高ニ出張竹田表敗走ノ節ハ三日間ヲシテ臼杵

 ニ着セリ

一馬見原ヨリ退去ノノキハ銘々米五合位宛携帯途中ニテ焚キ或ハヒエ抔ヲ喰ヒ行ク

 者モ有之實ニ難渋セリト

一弾薬ハ敷根方ニテ出来スルヤ少々宛運送スヘシ

一当時小隊長竹ノ内六之助麑島草ケ田(※草ム田)ノモノナリ半隊長東郷辰ニ分隊

 長ハ菊地某ナリ

一隊中ニテ銃器乏シ破損ノ器械ハ都度〃〃ニヨリ修スヘシ

一西郷及桐野両人ノ居所ハ隊長以下是レヲ知ラスト

一隊中人氣紛々迚モ一定スル能ワス就中日比ニ至リ脱隊スルモノ多シ畢竟降伏セ

 ンヿ希望スト雖モ長官無理ニ進メシム故ニ無據出勤セリト

臼杵ヘ出張ノ隊ハ凡テ七中隊此人員凡ソ八百人位アラント唱ヘリ

   六月十二日

 

本人熊本鎭臺本営ニ於テ取調候處右通申出候ニ付大畧記載差出候也

   十年六月十二日               吉田大尉

 

 

    野津少將殿

 

     外ニ三葉差添差出候事 

 田口は什長という階級で、押伍を改称したものという。10人位の兵士の隊長である。これを読むと田口は竹田で戦闘に参加したとかの記述は見られない。小高野を通り過ぎたのではなく、周辺に滞在して守備についていたのではないだろうか。小高野にずっと滞陣していた可能性がある。

 また、ブログ「西南戦争之記録」で公表した玉来村・吉田村入田村などの報告に次のように小高野が登場する。

同十六日ヨリ同廿二日迠薩軍隊長不詳凢三百余人ヲ卒テ入田村ノ内字小髙野ヘ滞在

 小高野は初めに薩軍が侵入してきた宇目の方向に位置し、当初から現に300人ほどが滞在していたのである。知られていなかった情報である。

 ブログ「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」5月でも小高野が登場する。

五月廿九日晴天午前四時頃ヨリ第一中隊ハ前面坊主山ニ第二中隊ノ右小隊ハ鬼ケ城ニ左小隊ハ玉来口本道ヨリ第三中隊ハ竹田市中ヲ経テ岡城ニ第四中隊ハ古城ニ攻撃奮進以テ悉ク賊塁ヲ拔ク此賊皆「ウタエタ指シテ逃去スト云フ此日我死傷詳カナラス賊ヲ斃スヿ數十名亦銃及ヒ彈藥其他諸器械數十個ヲ分捕ル同夜第一中隊モ小髙野地方ニ第三中隊ハ城東十川村ニ第四中隊ハ城跡ニ大哨兵ヲ配布ス此日竹田市中過半兵燹ニ罹リ而シテ本隊ノ即死ハ兵卒小川紋吉負傷軍曹松下俊彦外四名アリ于時小川紋吉其中隊ニ語テ曰ク本日苦戰ナル可シ必死以テ先鋒タランヿヲ望メ共其死センヿヲ暁リ敢テ許サ﹅リシカ開戰忽直先ニ進ミ銃劔ニ賊首ヲ貫ヤ惜哉自身已ニ斃ス爲メニ衆大ニ奮フ

 これからみて、薩軍を竹田から追い出した直後に熊本鎮台部隊が、薩軍が去った方向を警戒し配置についたことが分かる。

 以上の記録を見ると小高野周辺では戦いはなかったようだが、西南戦争に無関係だったのでないことが分かる。