西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「絵入りロンドン新聞」354 THE ILLUSTRATED LONDON NEWS ARRIL  14、1877の紹介

 日本で「絵入りロンドン新聞」と呼ばれるこの情報誌は1842年に創刊し、1971年までは週刊紙だった。その後は月間や隔月に刊行されていたが2003年に休刊したという。題名の如くロンドンで発行されていた。

 西南戦争の記事と絵がある資料の存在は皆さん御存知だろうが、あえて紹介したい。この号は1877年4月14日刊行である。冒頭の354の意味は不明。通巻番号かも知れないが。裏と表に印刷され、文字面を表とすると裏面には上下に版画が置かれ、どちらも西南戦争関連の絵柄である。

 西南戦争に関する記事が表面冒頭にあり全体の1/5以上の面積を占めているが、他にもLEGAL EDUCATION. (法学教育)・THEATRES.(劇場)・BOOKS ABOUT TURKEY.(七面鳥に関する本)の記事がある。初めに西南戦争に関する部分だけを取り出し、原文と和訳を掲げる。次に版画を示そう。

 

THE CIVIL WAR IN JAPAN. 日本の内戦。

Our Correspondent and Special Artist at Yokohama, Mr. C. Wirgman, writes as follows, on Feb. 27, upon the subject of his two sketches: 横浜の特派員であり特別アーティストのC.ワーグマン氏は、2月27日、2枚のスケッチについて次のように書いている。

“Japan being a volcanic country, it is but natural that frequent eruptions should take place there. Indeed, since last October, when the garrison of Kumamoto, in the province of Higo, was attacked in the dead of night, and numbers of officers and soldiers were massacred by “Old Japan” fanatics, rebellions and risings of the farmaers have occurred in nearly all parts of this country. 日本は火山国であるから、噴火が頻発するのは当然である。実際、昨年10月以来肥後国熊本の守備隊が真夜中に襲撃され、多数の将校や兵士が「旧日本」狂信者たちによって虐殺されて以来、この国のほとんどすべての地域で農民たちの反乱や蜂起が起きている。神風連の乱萩の乱秋月の乱

But they have been separately put down by the Imperial Government. しかし、それらは帝国政府によって個別に鎮圧されてきた。

During all these outbreaks the powerful clan of Satsuma remained perfectly quiet, even during the Mayebara insurrection in Cho-shin, which threatened at one time to involve the whole of Japan in a civil war. 一時は日本全土が内戦に巻き込まれる恐れがあった長州の前原の反乱のときでさえ、薩摩の豪族はこうした暴動の間中、まったくおとなしくしていた。

In order to appease the farmers, their taxes were reduced, and all was apparently quiet throughout the land. 農民たちをなだめるため、税金は減額され、国中が一見平穏になった。

Still, from time to time, rumours reached. それでも時折、噂は届く。

Yeddo to the effect that Satsuma was much agitated. 江戸によると、薩摩はかなり興奮していたようだ。

It was reported at one time that Saigo, at the head of seventeen battalions, was marching on the capital, to present a memorial asking for the removal of obnoxious Ministers. 一時は、西郷が17の大隊を率いて都に進軍し、不都合な閣僚の罷免を求める建白書を提出すると報じられた。

These rumours were, however, contradicted, and everything seemed going on smoothly, when the Mikdo went to Kiyoto to open the railway on the 5th of this month. しかし、これらの噂は否定され、今月5日に御幸が京都に鉄道開通のために赴いたときには、すべてが順調に進んでいるように見えた。

But hardly had that ceremony been satisfactorily performed when news reached here that a Government steamer, removing powder from Kagoshima (the capital of Satsuma). Had been sent away by armed Samurai, who refused to allow the powder to be removed from their province. しかし、その儀式が満足に執り行われたのも束の間、鹿児島(薩摩の首都)から火薬を運んでいた政府の汽船が、武装した武士たちによって追い払われたという知らせが届いた。薩摩から火薬が持ち出されるのを拒否した武装した侍たちによって、薩摩から火薬が持ち出されたのだ。※本来の政府側の目的は鹿児島からスナイドル弾薬製造装置を搬出することだった。

This was, indeed, the beginning of the troubles. これがトラブルの始まりだった。

The schoolboys, the Samurai, and the army in Satsuma, then took up rms and invaded the next province, that of Higo. 薩摩の学徒、武士、軍隊はその後、軍を率いて隣の肥後国へ侵攻した。

The Mikado and his councillors had before wished to pursue a policy of conciliation. ミカドとその評議員たちは、以前から融和政策を望んでいた。

But, on their receiving a telegram to the effect that the insurgents had acted in this manner, they were obliged to declare war. しかし、反乱軍がこのような行動をとったという電報を受け取ったため、宣戦布告せざるを得なくなった。

The Mikado then appointed Arisugawa no Mia Commander-in-Chief, with full powers to crush the rebellion as speedily as possible. ミカドは有栖川宮総帥を任命し、反乱をできるだけ早く鎮圧する全権を与えた。

Since then the Government has forbidden the publication of any news by the native newspapers; but frequent rumours of battles having been fought have reached Yokohama. それ以来、政府は現地の新聞がニュースを掲載することを禁じているが、戦闘があったという噂は頻繁に横浜に届いている。

The Satsuma men have, since the revolution of 1868, been the spoilt children of Japan; but they evidently wish to keep their Imperium in imperio, which is a thing not sending against them a large military force. 1868年の革命以来、薩摩の人々は日本の甘やかされた子供たちである。しかし、彼らは明らかに大規模な軍隊を派遣しない帝国の統治(※スペイン語・イタリア語:帝国、皇帝の統治)を維持することを望んでいる。

Thousands of troops have been sent down in the mail-steamers belonging to the Mitsubishi Company(Japanese)、which were purchased from the Pacific Mail Steam- Ship Company(American) some time ago. 数千人の軍隊が、少し前に太平洋郵便蒸気船会社(アメリカ)から購入された三菱会社(日本)の郵便蒸気船で下向している。

 These troops look splendid; they are armed with short sniders, well clothed, and well fed; each soldier has extra pair of shoes attached to his knapsack, and a red, blue, green, or purple blanket. これらの部隊は立派に見える。彼らは短いスナイドル銃で武装し、十分な服を着て、十分な食事を与えられている。各兵士は背嚢に予備の靴を履き、赤、青、緑、紫の毛布を持っている。

During the last fortnight Yokohama has been enlivened by their presence. この2週間、横浜は彼らの存在によって活気づいた。

They came down from Yeddo in the train, and are here embarked on board the steamers. 彼らは列車で江戸から降りてきて、ここで汽船に乗船している。

Yesterday 2000 men went south, and 300 policemen, fine-looking fellows, armed with quarter-staves, arrive at their destination. 昨日、2000人が南下し、300人の警官達(六尺棒武装した立派な男)が目的地に到着した。

I inclose a few sketches from life, to show how Yokohama looks during an insurrection; and I will send you more.” 反乱時の横浜の様子を示すため、数枚のスケッチを同封する。

The Japanese official paper demies that General Saigo is taking any part in the insurrection; but the very fact of that denial, lookingto the terms in which it is made, and to the fact that General Saigo is down in the province where the insurrection is going on, rather tends to confirm the report that he is promoting the insurrection. 日本の官報は、西郷元帥が暴動に参加していることを否定している。しかし、その否定がなされている言葉や、西郷将軍は暴動が起こっている地方にいるという事実を見れば、むしろ、西郷元帥が暴動を推進しているという報道を裏付ける傾向がある。

There is a telegram from San Francisco, dated the 21st ult, stating that Kagoshima was captured by the Imperial troops, after a sharp and severe conflict. 21日付のサンフランシスコからの電報によると、鹿児島は熾烈な戦いの末、帝国軍に占領されたとのことである。

It will be remembered that this place was bombarded by a British squadron, or ship of war, to punish the Prince of Satsuma for some injuries done to British property some fourteen years ago. この地は、14年ほど前、英国の財産を傷つけた薩摩の皇太子を罰するために、英国艦隊(あるいは軍艦)によって砲撃されたことを覚えているだろう。

 

 この号は1877年4月14日発行だが、記事にある通りワーグマンが絵二枚と記事を書いてロンドンに送ったのである。彼の記す日付は2月27日とあり、当日作画、執筆したとすれば西南戦争が始まって約一週間後に描き、書いたのである。作画の日時は多少の幅を考えてもいいかも知れないので、27日以前と考えておこう。おそらく政府軍が初めて横浜港を出帆した2月14日から、と時間幅をもたせて考えておきたい。

 東京からの出兵記録の原文がある。カタカナを漢字に変えて示す。

C04027547500「明治十年二月 大日記 諸向送達 土 陸軍第一局」防衛省防衛研究所

兵員凡四百名程本日、出帆の東京丸に乗り組み候、就ては、乗り組みの際、臨時協議、及ぶ可くも、これ有る可くに付き、其の節、不都合無き樣、取り計らふ可し、

     二月十四日   

     神奈川縣  陸軍省 

 2月14日横浜港で東京丸に兵員約400人が乗船する件。他の記録ではこれは近衛兵3個中隊である。なお、他に兵庫丸に近衛兵1個中隊・東京鎮台歩兵1個中隊が乗船している。

 次は裏面である。

A SKETCH AT THE JETTY. YOKOHAMA: TROOPS ABOUT TO EMBARK FOR THE SEAT OF WAR.桟橋でのスケッチ。横浜:戦地に向かう軍隊。

 白黒の絵なので帽子の鉢巻の色は不明だが、鎮台兵なら黄色、近衛兵なら緋色である。佐倉桜香著「新訂 西南戦記考ー西南戦役・官軍陸戦史ー【軍装図解編】」が参考になる。背嚢の上に毛布が紐で固定されている。全員の毛布は背嚢の側面から上面を取り巻くように描かれているが、佐倉著に掲載の写真では上辺に乗る状態となっている。明治7年の佐賀の乱の絵でも近衛と同じような配置で毛布が描かれている。

 この時の兵装は明治7年の下記の史料が参考になる。背嚢の背面にある長方形の物は不明である。面桶と呼ばれた弁当箱か。小さすぎるように思われるが。腰のまわりに弾薬入れ、その中央寄りに小型の何かがあり、背嚢の左右に革靴が一足ずつ括り付けられている。靴底に金属製の鋲が並ぶのは現物の姿を反映している。

 明治7年段階の史料だが「非常出兵ノ節工兵下士兵卒并附属品等量目概形表別 明治七年十月四日」という参考にできる資料がある(00200100公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年~明治八年・第二十六巻、第二十七巻・明治元年~明治八年)。下表の上段中央から右部を占める部分の「負擔スヘキ背嚢并附属品量」をみると、兵士が背嚢に附属させ、携帯すべき品物および数量が分かる。但し水筒が載っていないのはそれなりの理由があったのだろう。兵員に行き渡るだけの数量がなかったのだろうか。

 右腰に水筒がぶら下がる。左肩に掛けて右腰に斜めに付けたはずである。水筒ならブリキ製とガラス製があったことが分かっている。ガラス製なら黒く塗装された牛革で覆われ、下部がコップの代わりになるので横方向に線が引かれたように描かれる筈だが、そこまで細かく描かなかっただけか。弾薬入れも腰につけている。銃は英国製のスナイドル銃で、腰に下げた銃剣はヤタガン式。兵士は外套を着用している。2月だから寒かったのである。足首には脛から靴の上面の大部分を覆う白い脚絆を付けている。

 画面右部には十字紋様を背面に付けた衛生兵がおり、横に三段区画された紋樣の手旗を持っている。フェルト帽のような鍔が全周に回る帽子を被った相対的に背の高い二人の人物は西洋人であり、ワーグマン自身も描き込んだのかも知れない。

 向こう側に帆柱が見えるのはこれから乗り込む東京丸か兵庫丸、あるいは別の船か。

EMBARKATION OF GOVERNMENT TROOPS FOR SATSUMA AT THE JETTY, YOKOHAMA. 横浜の桟橋で薩摩に向かう政府軍の乗船。

 次は項目を新たにし、水筒について書こうかと思う。