西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

川ナシ峠の記事追加

 先に臼杵市甲﨑山の戦跡②で1977年6月9日に官軍が臼杵攻撃の前に野営した川ナシ峠の所在地について検討し、下図の位置、2基の台場跡がある所付近に想定したが、当時の大分県民はその所在地について知らなかった、という史料が2件あったので掲げる。

 その記録は2点とも「明治十年騒擾一件」に記載がある。同書は1972年頃、大分県武徳殿が壊されるとき処分される廃品の山の前を県警吏員であった藤丸正見氏が通りかかり、西南戦争その他に関する古文書が捨てられそうになっているのに気づき回収し、後日出版されたものである。本書の内容を同書凡例から引用する。

 (本書は)明治十年西南戦争の勃発から城山陥落の終局後まで、当時の大分県警察が情報収集に当り、大分県管内の各警察署・各区戸長をはじめ、大久保内務卿・内務省・司法省・征討総督本營・九州臨時裁判所・官軍警視隊・熊本鎮台・海軍軍艦および熊本県・福岡県・長崎県愛媛県など隣接各県のほか、各方面ととり交わし「秘密往復公文書」であり、今日では西南戦争研究にとって未公開の貴重な史料である」という。

 まず1点は佐伯市内の宇目町に戦跡地名を権令が問い合わせたのに対する回答である。字犬石・建石・川無峠についてであり、地元の回答は「一字川無峠 是ハ当両區地内ニ無之」(pp.403)である。その2は次。

 戦地取調書

井村井村山  諏訪村 諏訪山  末廣村 江牟田村境 水ケ城山 市濱村 福良村境 市橋

野田村臺 十一小區野田村河原山村 十五小區青江村境 境姫岳 江無田村  十六小區 津久見

右者本月八日付ヲ以云々御達本行之通相心得候得共、川無峠及建巌等地名稱呼之義ハ未タ熟知仕候条、蓋シ誤謬ニテハ有御座間敷哉此段上申仕候也、

             第四大區十三小區 

 明治十一年一月十一日  副戸長 斉 藤    泰 ㊞

             戸長  山 本    確 ㊞

 大分縣史詩編輯掛

         御中 ※pp.409・410 

  いくつかの地名を回答した後、川無峠・建巌などは熟知していない、誤謬ではないでしょうか、とあり、地元でも知らなかったのである。問い合わせた大分県臼杵のみでなく宇目にも問い合わせているわけであり、どの行政区域にあるのかも知らなかったのであろう。建岩は津久見市にあり、宇目が建石として回答しているのも間違いだろう。臼杵で川ナシ峠を知らないと回答しているのを見ると市内でそれほど一般的に知られた地名ではなかったのである。