西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「西南戦地取調書 豐後」の内、佐伯市旧宇目町 ※追加・修正します。つづく

 6月24日の説明まで来た段階で、上記を紹介しておきたいと考えた。この史料は前にも述べたが明治16年参謀本部員が関係各県を巡り、市町村に戦跡の報告を求め、各県が県毎にまとめて提出したものが世の中に流失したものの内、大分県関係の史料である。

    原剛「陸海軍文書の焼却と残存」(『日本歴史』第596号pp.56~58 1998年3月)によると、ポツダム宣言受諾を決めた1945年8月14日、日本陸海軍は重要機密文書の焼却を決め、即日実行に移している。また同日、陸軍大臣の命令により全陸軍部隊に対して焼却指令が出された。しかし、陸軍省の公文書「大日記」・海軍省の公文書「公文備考」、海軍部隊などの「大東亜戦争戦時日記」・「戦闘詳報」などは偶然にも焼却を免れている。この他関係者により密かに保管された文書もある。

 以上は曲折を経て現在、防衛研究所国立公文書館・財団法人史料調査会海軍文庫に収蔵されている。防衛研究所国立公文書館の史料はアジア歴史資料センターを通じてインターネット公開されているが、図面に関してはまだ完全には公開されていないようである。公開された文書をみると文書番号・受領番号等が部分的に欠落していると考えられるものもあるが、以上の様な経緯があったためであろう。 

 現在、工事に先行し発掘調査が全国で行われているが、時々大量に焼かれたそのような文書の焼けた痕跡が見つかることがある。しかし、「西南戦地取調書 豐後」も焼却の危機に見舞われたのかもしれないが、幸い現在高橋の手元にある。

 以下では佐伯市宇目(旧称南海部郡宇目町)の部分を中心に紹介し、解説する。

                                                                            

           大野郡

             重岡村

             大平村

新四月十二日薩軍隊長大山丈一郎賊兵凢三百余人ヲ率テ来リ四手ニ別レ一ハ本道鹿乗通一ハ伏部野管ノ諸峯及田野河内ノ各所ヨリ乱入其后相続テ進入ス其数知レス

 但鹿児島縣日向國臼杵郡熊田地方ヨリ進入本郡千束村通北海部郡臼杵地方及直入郡竹田地方ニ乱入スト云ヘリ

同日進入ノ賊軍當村禅宗長昌寺巡査出張所ニ乱入小銃ヲ連発スル甚シク屯集ノ巡査僅ニ廿七八名ナルヲ以テ拒クヿ能ハス直ニ各所ヘ遁走ス仝所市園川ニテ巡査壱人佐伯普士熊ナル者賊ノ為メニ狙擊セラレテ死ス

新六月十七日賊本軍小野市村字三國峠及旗返ニテ戰争敗走ノ末当地ニ退去字市園ニ本営ヲ設ケ仝日ヨリ仝廿日迠四日間滞在同夜大雨ニ乗シテ日向國熊田地方ニ引去ル

仝廿四日先ニ退去ノ賊軍重岡村字赤松峠及大平村字豆柄峠ニ再ヒ進入官軍少シク退ク熊本鎮台十三聯隊長小川少佐身ヲ挺シテ指揮シ賊ヲ討ツ賊支フルヿ能ハス乄熊田地方ニ潰走ス此戰賊軍死傷数ヲ知ラス然レノモ現ニ死體ノ所〻ニ散乱スル八九名ナリト云フ

同七月三日梓峠ノ官軍斥候ヲ出シ賊営ヲ窺ハシム途ニシテ賊兵百余人ニ逢ヒ直ニ戰ヲ開ク賊兵迂回シテ水ケ谷ノ分営ヲ襲フ官軍火ヲ分営ニ放テ退ク仝所ノ人家為夫三戸焼失セリ而乄官軍ハ退テ城ノ越及サムカリ峠ニ塁ヲ築キ賊軍ハ進テ黒土峠ニ營ス戰争十数日々交々勝敗アリ同廿七日官軍本郡田原村字板戸山ヨリ登リ急ニ水ケ谷字扇山絶頂ノ賊塁ヲ突ク其他ノ賊軍支フル能ハサルヲ知テ遂ニ日向國臼杵郡河内名村ニ退ク

同四月十二日ヨリ六月廿日マテ賊ニ夫ヲ出スヿ凢三千後百余人内千人ハ賃銭一人七銭ニテ鹿兒島縣臼杵郡熊田駅及本縣南海部郡横川驛ニ諸品ヲ運送シ余ハ無賃ニテ本郡小野市駅及同郡宇田枝駅ニ運送ス

同四月十二日ヨリ六月廿日之内ニ当村字鹿乗ニ炊出塲ヲ置重岡市園ニ本営分営ヲ設ケタルモ同廿日鹿児島縣旧杵郡川内名村ニ引拂フ

右之通候也

                   右戸長

 明治十六年十一月廿日          髙 橋 貢                                 

 冒頭は新五月が正しい。これまで初めて薩軍大分県内に侵入してきた状況について「戰記稿」では「本月十二日午後六時賊四五十名突然重岡ニ襲來シ巡査假屯所ヲ砲擊ス重岡ヲ距ル二三町二哨所アリ哨者賊ノ至ルヲ報ス然レノモ之ヲ禦ク二兵器ナシ唯〃本縣及ヒ各地警察署ニ報知スルノ手順ヲ爲ス而シテ分署ヲ出レハ既ニ前後ヨリ砲擊セラル死スルモノ二名其他ハ散亂シテ僅ニ免ル」とあり、薩軍がどこから重岡に来たのか記していない。

 しかし、渡辺用馬「豊後地方戦記」は当時11歳だった著者が成人後に当時の言い伝えなどを取材し記述したもので、地元民ならではの情報が載せられている。そこでは侵入路は宮崎県熊田から赤松古道という尾根筋を通って重岡の南方にあたる鹿乗に現れたとある。取調書で鹿乗を含む別方向の四つの方向から薩軍が侵入したと記しているのは目新しい点である。おそらく赤松峠までは尾根筋の赤松古道を通り、そこから四つに分かれて侵入したのだろう。全く知られていなかった情報であり、価値がある。

 長昌寺は重岡集落の東部にあり、前面の水田地帯を隔てて赤松峠左右の尾根群に相対している。当初薩軍の襲来に備えて臨時に設けられた巡査出張所があり、薩軍が乱入したとあるように薩軍大分県に侵入してくるなら当時の主要路線である赤松峠を越えるだろうと大分県では想定し、巡査30人を重岡に備えていたのである。長昌寺には戦争中、この後、乃木希典が滞在している。

 薩軍が6月17日、宇目北端の三国峠・旗返峠から敗走した後、追撃する官軍は小野市を越えて榎峠まで進み、薩軍はその東側の千束(せんぞく)、南東側の重岡に立て籠もったとされている。取調書では薩軍の本営は重岡の北1㎞程の市園だったとあるのも新たな情報である。

 この数日の榎峠対重岡における対峙状況は戦跡分布調査でより明らかにできた(「西南戦争戦跡分布調査報告書」)。これについては後日図示したい。

 6月24日に赤松峠・豆殻峠一帯に薩軍が襲来した戦いは、官軍にとって際どい勝利だったが、地元民が十三聯隊長小川少佐身ヲ挺シテ指揮シ賊ヲ討ツとあるように小川又次少佐の活躍は目立っていたらしい。詳しくはブログ「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」臼杵の戦い以降も参考にしていただきたい。

 絵図の字が読みづらいので拡大する。方位は描かれていないが、上が東、右が南で描かれている。国土地理院地図にないのは三本谷・豆柄峠・城ノ越・扇山・切込山・字宇太郎(※宗太郎だろう)・長内・落畑であり、これらの位置は他の情報(三角点所在地名)で判明したものもあるがそれなりに貴重である。しかし扇山だけは場所が不明である。廿七日官軍本郡田原村字板戸山ヨリ登リ急ニ水ケ谷字扇山絶頂ノ賊塁ヲ突ク其他ノ賊軍支フル能ハサルヲ知テ遂ニ日向國臼杵郡河内名村ニ退クの部分に板戸山と扇山が出てくる。7月27日の「戰記稿」などによると官軍は板戸山に秘かに登り、そこにいる薩軍を破って黒土峠を攻撃して薩軍を梓山に追い出したしたことになっている。絵図の扇山の位置は符合しない。

取調書の記述では板戸山から扇山に進撃、するとその他のおそらく黒土峠の薩軍が敗走したことになっており、上図のような位置に扇山を推定した。この日、薩軍日向國臼杵郡河内名村ニ退いたのではなく、県境梓山とそこから大分県内に派生した尾根に台場群を築いて官軍の進行を防いだ。当時も今も重岡は下図の位置にあり、現在下図の左外側にあるのはJRの重岡駅であって、西南戦争に登場するのは図の重岡である。

 図の矢印は台場跡が向く方向を示す。下部に左右に走るのが大分・宮崎県境の尾根で、6月20日から8月14日までのいつかに、両軍のどちらかが築いたもの。青が薩軍赤が官軍。左に北西尾根の一部が見える。

 上の写真は梓山北西尾根の薩軍台場跡。人物は大分県教育委員会山本哲也さん。線を加えないと何のことか分からない。

上図は梓山北西尾根の薩軍台場跡の一部。このくらいの間隔でずらっと並んである。間隔が密なところを見ると人員も多かったようだ。休憩所と書いたところは地形を削って平坦面を造っている。敵弾の来ない側の斜面に仮設の小屋掛けをして雨露を凌いだのだろう。図ではこれだけだが、いくつもある。

その後、8月15日の延岡市和田越の戦いに参加するため14日に撤退している。

 大分県内だけでなく、おそらく関係各県の中で最も多数の台場跡が残る重岡村だが、その割に村が作成した報告内容は台場跡が残ることに触れていない。

 

           大野郡

             千 束 村      

             塩見園村

             河 内 村

明治十年旧三月廿九日(※「五月十二日の付箋)薩軍大野郡重岡ニ乱入同日滞在翌旧四月重岡発起当千束村ヲ経テ直入郡竹田町ヘ乱入ス

旧四月十七日(※「五月廿九日」の付箋)薩軍竹田ニテ数日滞在戰争之末敗軍ニテ凢貳千六百人程小野市村ニ退引同日滞在翌十八日其人数ノ内凢三百人程当村ヲ経河内村塩見園村ヲ通行南海部郡佐伯村ニ侵入ス

旧五月七日(※「六月十七日」の付箋)三国峠薩軍敗走小野市村ニ退引同所ニテ時々戦争ノ末当千束村字上河尻字ヒベリ峠ニ薩軍塁ヲ築キ官軍ノ侵入ヲ防ク同十日夜迠劇戰薩軍敗レテ同夜重岡村字赤松ニ退ク

旧五月七日(※「六月十七日」の付箋)三國峠薩軍敗走ノ徒一ハ南海部郡字樫ノ峯ヲ経テ河内村字神田峠ニ臺塲ヲ築キ官軍ノ進入ヲ防クト雖ノモ亦敗レ一ハ千束村字酒利嶽「字コシキ岩」ニ出ツ両手ノ人数凢二百人位千束村字酒利ニテ合軍直ニ同村字豊藤迠退引退ヲ遂ヒ官軍凢貳拾人位ニテ進擊スルヲ薩軍俄ニ轉戦スルヿ翌八日午後三時頃ニ至ル其内官軍追々進入遂ニ薩軍重岡村赤松ニ引ク此戰争ニ薩軍隊長一人兵士三人即死アリト云フ

旧五月四日(※「六月十四日」の付箋)賊軍報國隊ノ本部ヲ当千束村士族深田太郎方ニ置キ豊前國中津賊巨魁ノ一人後藤順平報國隊半隊長福永庸夫(竹田士族)報國隊付髙﨑善右衛門ヨリ村内頭立者矢野祥平市川堅蔵ヘ農兵可差出段迫ルト雖ノモ其内賊軍諸塁敗走ニ依テ報国隊悉皆南海部郡佐伯村通リ引拂フ農兵差出サス済ミタリ

四月一日(※「五月十三日」の付箋)ヨリ五月八日迠人夫ヲ賊ニ出スヿ凢貳千余人内賃銭ヲ受ケタル者五百人程最一人賃銭五銭其余ハ無銭ニテ竹田口賊ノ死傷人ヲ運送或ハ彈薬ヲ運ヒ臺塲築等ニ役セラル

 

 

右之通ニ候也

       右村戸長代理筆生

 明治十六年八月廿七日  志賀 省平

 北を上にし、字を活字化したのが下図である。賊台場は烏嶽・ヒビク峠・神田峠・作道豊藤に、官軍台場は榎木峠に描かれている。神田峠の北側は歩いてみたが台場跡はなかった。作道豊藤は道路上に造られたので当然残らない。烏嶽一帯には三国峠敗退後に薩軍が築いた台場跡が10基ほどある。ヒビク峠にはあるかどうか不明。

 

                              小野市村

旧三月廿九日(※「五月十二日」の付箋)薩軍大野郡重岡村ヘ乱入同夜重岡村ヘ滞在翌四月一日薩軍隊長(姓名不詳)凢千五百人ヲ引卒当地ヲ通行直入郡竹田町ヘ乱入仝所ヘ数日滞在戰争ノ末

仝四月十七日(※「五月廿七日」の付箋)薩軍敗走凢二千六百人程当地ヘ退引シ同夜滞在翌十八日薩軍勢ヲ二手ニ分ケ一手ハ大野郡市塲通リ北海部郡臼杵町ヘ乱入一手ハ大野郡千束村通リ南海部郡佐伯村ヲ襲フ残軍凢八百人程当地ヘ滞在当地字上津小野市川壽八宅ヘ本營ヲ置キ(薩軍隊長等姓名不詳)当地字旗返シニ塁ヲ築キ直入郡竹田町ヨリ進擊ノ官軍ヲ防ク仝十九日北海部郡臼杵町ノ薩軍敗走又々当地ヘ引揚ケ南海部郡山部村大野郡奥畑村界字三國峠ニ賊塁ヲ築キ官軍ノ臼杵ヨリ追擊ヲ防ク尤賊軍ノ本部ハ前顕ノ当地市川壽八宅ヲ変セス旧五月六日迠当地ヘ滞在ス滞在中此本部ヨリ大野郡木浦鑛山同郡南田原村ノ内字葛葉字梅津等ヘ賊軍ヲ出シ塁ヲ築キ直入郡竹田町ヨリ大野郡大白谷通リ追擊ノ官軍ヲ防ク

旧四月十九日(※「五月三十一日」の付箋)ヨリ同五月六日迠ノ内当地字旗返シ並大野郡奥畑村南海部郡山部村界三國峠ノ賊塁ニテ折々戰争アリ勝敗不詳ト雖ノモ賊軍死傷凢七拾人程ト云ヘリ

旧五月四日(※「六月十四日」の付箋)夜大野郡南田原村字梅津ノ賊兵敗走翌五日当地字柏山ニ塁ヲ築キ官軍ノ追擊ヲ防クヿ終ニ仝七日ニ至ル

旧五月七日(※「六月十七日」の付箋)三國峠ノ薩軍敗走即死拾一名夫ヨリ賊兵当地ヘ引退ク其際当地旗返シ及柏山賊軍潰走薩軍ノ本部其他諸兵共過半大野郡重岡村ヘ去ル途中当地字上津小野字釘戸字小野市ニテ凢二時間程戦争終ニ賊兵当郡千束村ト小野市村ノ界字榎木峠ニ蹈止メ同夜ヨリ同十一日迠戦争同十二日薩軍敗走当郡重岡村字赤松ヘ去ル

四月一日(※「五月十三日ヨリ六月十七日マテ」の付箋)ヨリ仝五月七日迠人夫ヲ賊ニ出スヿ凢二千余人内四月一日ヨリ四月十八日(※「五月十三日ヨリ仝三十一日マテ」の付箋)迠凢人夫九百人程ハ賃金一人ニ付金五銭ヲ受ク仝十九日ヨリ五月七日迠人夫凢千百余人ハ無賃ニテ彈薬或ハ死傷人等ヲ大野郡重岡駅同郡宇田枝駅南海部郡横川駅ヘ運送又ハ薩軍ノ臺塲築キ等ヘ出ル

旧五月四日(※「六月十四日」の付箋)賊軍報國隊ノ本部ヲ大野郡千束村字酒利士族深田太郎宅ニ置キ豊前國中津賊巨魁ノ一人後藤順平報國隊半隊長福永庸夫(竹田士族)報國隊付髙﨑善右衛門ヨリ宇目郷中農兵トナル者悉皆差出候様脅迫ニ依リ時ノ当地副戸長荒巻百市伍長矢野祥平其外伍長等数人召列前顕報國隊ノ本部ヘ立裁後藤順平福永庸夫ヘ對面農兵ハ差出カタク候旨申述候処後藤順平大ニ怒リヲ発シ副戸長荒巻百市ヲ捕縛セヨト附属ノ賊兵ヘ命シタルモ荒巻百市ニ於テ農兵ヲ出スヿヲ肯セス辛シテ終ニ其塲ヲ逃レ去ル伍長矢野祥平ハ後藤順平ノ命ニテ縛セラレタルモ同夜髙﨑善右衛門ノ情ニ依リ縛ヲ免サレテ帰ル同夜南田原村ノ内字梅津ノ賊敗走続テ其後当地ノ賊軍敗走シタルヲ以テ幸ニ農兵ヲ出サスシテ相済タリ

旧四月十七日(※「五月廿九日ヨリ六月十六日マテ」の付箋)ヨリ仝五月六日迠当地字上津小野市川壽八宅ヘ薩軍ノ本部ヲ設ケ字同所小野鉄蔵宅ヘ炊出塲ヲ設ケ字小野市衛藤由蔵宅ヘ大小荷駄詰所ヲ設ケタルモ旧五月七日大野郡重岡村ニ引拂フ

右之通候也

               右村戸長

 明治十六年八月廿日        荒巻百市

 北部を拡大する。

 6月14日、梅津ノ賊兵敗走翌五日当地字柏山ニ塁ヲ築キとして柏山の名が登場する。梅津越を退却した薩軍が小野市までの途中にある険しい山に台場を築いたという記録はあるが、柏山と山名を記すのはこの史料だけである。おそらく柏山(標高680m)に相当するのだろうと思っていたが、簡単に行けそうにないのでいまだに踏査していない。

                    大野郡             

                       南田原村

                       木浦内村

四月十八日ヨリ五月七日マテ薩軍(隊長姓名不詳)凢千貳百人程此地ニ滞在

 但大野郡小野市村ヨリ来リ宮崎縣臼杵郡河内名村ヘ去ル

五月四日南田原村字梅ズ峠ニ於テ二時程戰争アリ賊敗走死傷二拾七人ト云ヘリ

其戰ニ兵火ニ罹ル者八戸

 但官兵之放火

四月一日ヨリ五月七日迠人夫ヲ賊ニ出スヿ凢千八百八拾人此賃銭(髙低平均)壱人ニ付金六銭宛ヲ受ル

四月十八日ヨリ五月四日迠南田原村字葛葉ニ薩軍分営ヲ設ケ五月四日梅ズ峠ノ戰ニ薩軍敗走同村田原ヘ引同月七日宮崎縣臼杵郡河内名村ヘ引拂

 

右 之 通 ニ 候 也

            右村戸長代理筆生

 明治十六年八月廿日    今 山 一 人

 

 北部と南部に分けて拡大し、活字化してみた。里数の記入もあるが略す。

 赤い🔲薩軍台場、黒い🔲が薩軍台場である。図中の台場地名を国土地理院地図に掲げる。官軍台場が描かれているのは上図の左端で、大明神越は現在、杉ケ越と呼ばれ杉越大明神の社があり、その北側に台場跡が1基ある。このブログでも紹介したことがある。草木藪はこの絵図により所在地を想定できた。トンネルの上がそれである。それらしいところを歩いたら台場跡3基を発見し、これもブログで紹介済である。犬流という場所はどこか不明である。図の右端に駒鳴というのがあるが駒鳴砦という古城にいくつか台場跡が残っている。

 薩軍台場は図上部に梅ケ峠から熊ケ谷越に三ヶ所並んである。今は梅津越というところであり、台場跡が確認されている(横沢慈2009「梅津越周辺」『西南戦争右戦跡分布調査報告書』)。生木峠では何も発見できなかった。図の中央下部やや右寄りに四か所薩軍台場が描かれている。田原から梅津越を結ぶ道路を遮断するように存在するが、これらは未確認である。

南部を拡大し活字化した。官軍の台場は西から天神原上・天神原・大切リ下・コジキ谷上・大峠にまとまる様子が見える。戦記ではこの辺りでの戦いはなかったようであり、一番東にある大峠かなという場所でしか台場跡を確認していない。

 茅野鹿倉・真弓鹿倉の鹿倉という地名は狩猟の場という意味らしい。可愛岳の戦い直後に薩軍が通過した神楽というのも同じであり、中世あるいはもっと古くから狩猟に適した人の少ない地域だったことが分かる。

 

 大野郡奥畑村

夫レ(※「五月十三日」の付箋)薩軍ノ發行スル旧四月一日薩軍隊長(姓名不詳)凢千三百餘人ヲ引率当地ヲ通行直入郡竹田町ヘ乱入同所ヘ數日滞在戰争之末旧四月十七日(※「五月廿九日」の付箋)薩軍敗走凡二千三百餘人程当地ヲ通行ス大野郡小野市村ニ滞在翌十八日薩軍勢ヲ數ケ所ニ分チ大野郡市塲村通行北海部郡臼杵町ヘ乱入一手ハ大野郡千束村通行南海部郡佐伯村ヲ襲フ残兵凢千人程当地ヘ接続スル字小津小野村ヘ滞在本営ヲ小野市村ニ置キ(薩軍隊長等姓名不詳)本村字旗返シニ賊塁ヲ築キ直入郡竹田町ヨリノ追撃ノ官軍ヲ防ク仝十九日(※「北海部郡臼杵町ノ薩軍敗走又々当地ヘ引」の付箋。清書の際に間違えたので付箋を貼ったらしい。)揚ケ当奥畑村堺字三国峠ニ賊塁ヲ築キ官軍ノ臼杵ヨリ追擊ヲ防ク最賊軍ノ本営ハ小野市村ニ變セス旧五月六日迠当地ヘ滞在ス三国峠ヲ根塁トシ大野郡木浦鑛山同郡南田原村ノ内字葛葉字梅津等ヘ賊軍ヲ出シ塁ヲ築キ直入郡竹田町ヨリ大野郡大白谷村通リ追擊ノ官軍ヲ防クト云フ

旧四月十九日(※「五月十三日ヨリ六月十六日マテ」の付箋)ヨリ同五月六日迠ノ内當地字三国峠并旗返シノ賊塁ニテ折々戰争アリ終ニ賊軍敗走ス賊軍ノ死傷凢七拾四人ト云ヘリ

旧五月四日(※「六月十四日」の付箋)夜大野郡南田原村同郡大白谷村堺ノ字梅津ノ賊兵敗走翌日大野郡小野市村字柏山ニ賊塁ヲ築キ官軍ノ追擊ヲ防ク事同七日迠ニテ是亦敗走ス

旧五月七日(※「六月十七日」の付箋)当地三国峠薩軍敗走即死拾余名夫ヨリ賊兵大野郡小野市村ヘ引退ク其際所々ノ賊兵散乱本部ハ勿論諸兵共過半大野郡重岡村ヘ引途中榎木峠ニ蹈止乄同夜ヨリ同十一日迠戰争ス仝十二日薩軍終ニ敗走同郡重岡村ヲ経テ字赤松峠ニ引去ル

四月一日(※「五月十三日ヨリ仝廿二日マテ」の付箋)同十日迠人夫ヲ賊ニ出ス事凢五百人餘リ内四月一日ヨリ同十日迠人夫百四拾人程ハ賃金壱人ニ付金拾銭ヲ受ル旧四月十一日以降五月十二日迠人夫三百余人ハ無賃ニテ彈藥或ハ臺塲築キ等ニ出ス

右 之 通 ニ 候 也

 明治十六年八月廿日   戸長  和 田 謙 芳