小川又次日記の舞台が竹田になったので、標記の史料の内、竹田市部分を掲げることにしました。これは以前に入手したもので、西南戦争後に参謀本部が関係各県に戦地の状況を取り調べて提出させたものです。ポツダム宣言受諾直後、軍関係史料が連日焼却され、各地の軍関係施設で黒煙が上がり続けるという事態になった際、心ある人が持ち出したもののようです。文字は大分縣罫紙に書かれています。市町村作成資料を大分県兵事課が取り纏め、清書して提出したものです。
内容は村・町単位で作成した説明文と絵地図から構成されています。精粗バラバラであり、戦跡が一番多い宇目は一番簡単かつ詳細不詳の内容です。
このブログでは本文の上部にフリガナがある場合にその通りに表示できないので該当部の直後に小文字で表示します。少しずつ訂正加筆します。
二十八ノ5
大野 直入 南海部 北海部(以上は表紙)
校合済
明治十年西南ノ役戦地取調書
大分縣(以上内表紙)
直入郡竹田町
新五月十三日午後五時頃薩軍凢八拾名鹿児嶋縣日向國臼杵郡ヨリ大分縣大野郡重岡村ヲ経テ竹田町ヘ乱入處々ニ屯ス仮リニ本營ヲ同町商加嶋吉郎宅ニ設ケ直ニ同町商後藤六平外三拾名ヲ召集シ市中火盗ノ警備ヲ命ス衆辞スレノモ許サス翌十四日ヨリ市街ヲ巡邏セシム且ツ哨兵ヲ四方ニ置キ竹田士民ノ部外ニ出テ或ハ物品ヲ運搬スルヲ嚴禁ス
但後藤六平外三拾名十三日ヨリ廿八日迠巡邏ノ報勞トシテ壱人ニ付玄米三斗入俵或ハ銅銭壱円宛ヲ授與ス官軍廿九日進擊ノ際薩軍ト共ニ逃走シ後各自首ス
同十四日暁ニ至テ薩軍逐次ニ増加シ無慮六百余名ニ及フ大迫薩人最モ多シ隊長ノ如キハ竹下某峯﨑某荒巻某大迫某石塚某野間某鎌田某吉村某前田源七等トス本営ヲ更ニ同町黒野元平宅ニ移シ且ツ分営二三ヲ設置シ竹田士族ヲ誘導ス堀田政一竹田士族先ツ之ニ應シ首謀タリ遂ニ報國隊四小隊ヲ編製ス該隊ニ於テ故ラニ通行券ヲ専製ス
十四日薩軍竹田登髙社ニ強迫シ帳簿ヲ點検シ現在金壱万余圓ヲ掠奪ス
十六日同町分営渡部眞直宅ヘ滞在ノ隊長野間某賊兵二百名ヲ率イ大野郡今市駅ヲ経テ大
分縣廳ヲ襲ハントス大分郡畑中村ニ至リ官軍警備ノ嚴ナルヲ探知シ路ヲ東方ニ轉シ黄昏同郡鶴﨑町ニ避ク東京警視隊ノ上陸スルニ際會ス同夜其不意ヲ襲フ賊軍嚮導佐藤輝夫竹田士族戰死ス翌十七日賊兵大野郡犬飼町ヲ経テ復タ竹田町ニ帰営ス
十六日中津隊ノ中賊魁後藤純平矢田宏等来着ス
同日報國隊ヨリ同町冨商等ヘ軍資金ヲ募ル其金員巨額ニシテ各家頗ル困却ス則チ相共ニ謀テ薩軍隊長石塚某ニ哀訴ス石塚曰ク軍資ヲ人民ニ募ル理ナシト後チ報國隊長堀田政一ヨリ該件取消ノ旨ヲ示セリ
同日賊兵同町郵便局ニ強迫シ官金若干ヲ掠奪ス
同廿九日拂暁騎群峠直入郡飛田川村賊塁ヨリ頻リニ急ヲ告クモ應援ノ兵ナク彈丸モ既ニ欠乏シ該塁忽チ敗ル随テ各所ノ賊塁悉敗潰ス
同日午前七時頃薩軍大野郡市塲村地方ヘ悉皆退去ス
同日午前九時頃官軍四方ヨリ竹田町ヘ進入戰争ナシ所々ニ放火ス此際最モ風烈手後二時ニ至テ灰燼ニ屬スル附屬家屋土藏等ハ除キモノ凢ソ四百拾余戸
薩軍五月十三日ヨリ同廿九日退去ノ際迠竹田町滞在中各自能ク法律ヲ守リ酒色ヲ恣ニスルノ擧動ナク給與方ノ如キハ兵卒一人ニ食料米壱升菜料金二銭五厘宛ノ定メアリ
但本営分営ノ家主ヘハ前後壱銭ノ宿料モ授與ナシト云フ
五月十三日午後六時薩軍竹田町ヘ乱入直ニ一ノ病院ヲ同町ニ設ク院長其付屬拾壱名許尤モ同月廿八日ヨリ同廿九日拂暁迠悉皆大野郡市塲村地方ニ引揚ク
但死傷者ハ其時々大野郡重岡村地方ニ運搬セリ
同町ニ於テ戰争及ヒ築塁等ノケ所ナシ
右之通候也
明治十六年九月十一日 右戸長 草 刈 正 弘
直入郡竹田町
明治十年五月十三日小雨欝トシテ終日不霽午後四時薩軍竹田警察署町竹田村字鷹匠町蓮昌院ニ置ク竹田區裁判所字八幡川豊音寺ニ置ク襲来砲擊ス是先賊熊本縣下阿曽郡坂ノ上ノ戰ニ潰ヘ矢部地方ヲ経テ人吉ニ至リ終ニ日向ノ延岡ニ退キ再ヒ隊伍ヲ整列シ本月十二日大野郡重岡ニ出テ直チニ本地ニ進撃セリト云フ事火劇ニ出ルヲ以テ防禦ノ術ナク警吏判官等狼狽シテ各地エ遁走セリ内區長吉田肇等亦走テ熊本鎭台ニ此ノ景况ヲ告ク當時竹田地方人心匈々トシテ道路目ヲ以テス直チニ番兵ヲ各地ノ要所ニ置キ拾名乃至二拾名ヲシテ巡邏セシメ士民ノ部内ヲ出ル或ハ物品ヲ運搬スル等ヲ堅ク禁シ守備甚タ嚴ナリ午後六時ヨリ賊軍増加シ翌十四日八中隊ニ及フト云フ四十人乃至八十人ヲ小隊トナス方時竹田士族ノ輩各地ニ集合シテ官ニ中立シ其方向ヲ議セシム如何セン堀田政一等一二ノ不平党アリテ賊ニ與シ中津ノ賊徒後藤純平等ト謀リ村町無頼ノ徒ヲ驅使シ士族ノ各所ニ潜伏スル者及ヒ賊ニ應セサルモノハ災害家族ニ及フト強迫シ終ニ士族輩一千有余ヲ随従セシムルニ至ル抑竹田カ賊ニ應セシハ脅迫ニ出テ止ヲ得サルニ出ツ是ヨリ先大分縣廳守備ノ為メ若干名ノ出張セル等ヲ以テセリ勤王ノ士ナルヲ知ルニ足ルベシ於此十九日本村正覚寺ニ隊伍ヲ編製シ報國隊ト称シ三小隊トナシ豊岡政一中川涛太郎豊岡太郎隊長ナリ軍備稍具ル此日ヤ天気鬱陶人心ヲシテ不快ナラシムノミナラス数千ノ烏鳥本堂ノ上ニ啼鳴充満シ頗ル凶ヲ告クル如トシト云フ報國隊編制ナルヤ學校財産小區用金其他ヲ以テ軍用金トナシ亦堀田政一ノ名ヲ以テ
通行券ヲ発セリ翌二十日熊本鎮台ノ進征スルト聞クヤ賊軍ヲ進メテ本郡恵良原村字戸ノ下ニ開戰ス星ヲ見テ退ク拝田原村字山下本村崩岩蛇塚等ノ要所ニハ賊兵ヲ置キテ官軍ノ進擊ヲ防守ス亦嚴ナリ同二十四日官軍進擊シテ山下以下ノ賊塁數ケ所ヲ拔ク是日ヤ砲聲實ニ山岳ノ一時ニ潰崩スルニ異ナラス官賊ノ死傷亦尠ナシトセス山下ノ賊ハ烏嶽山手ニ退キ崩岩蛇塚ノ賊ハ字茶屋ノ辻ノ塁ニ退ク
二十五日茶屋ノ辻賊軍早暁官軍ヲ掩擊シ蛇塚ノ塁ヲ拔クモ衆寡不敵遂ニ官ニ擊取セラルヽト云フ
同二十九日暁各地ノ官軍大進発火ヲ放チテ遂ニ竹田ノ賊巣ヲ拔ク此日晴天ナレノモ火煙日光ヲ覆ヒ朦朧タ月夜ノ如ク余炎翌三十日ニ至リ消ス類焼戸数二千戸ニ近シ賊大野郡緒方地方ニ向ヒテ去ル竹田士族ノ賊ト共ニ潰走スルモノ四拾余名ナリ外一千余名ハ直チニ官ニ自首ス
鬼ケ城・茶屋ノ辻周辺の台場分布を推定してみた。現在、茶屋ノ辻は山が削り取られ、谷が埋め立てられて競技場となっており、戦跡は消滅していると思う。鬼ケ城と田能村竹田墓(下図の名所記号の所)のある尾根は行ったことがある。鬼ケ城頂上は江戸時代からの墓地になっており、銃弾痕の残る墓石が幾つか立っているが台場跡は見かけなかった。
絵図によると茶屋ノ辻には二股に分かれた小川が黄色で描かれ東西二ヶ所北流しているが、これらを緑線で1974年測量の下図上に推定した。
上図右の田能村竹田墓のある尾根筋に薩軍の台場が並んでいたらしいと当初は想定したが、間違いだった。旧地形ではそれよりも西側に、⛩記号の南に延びる尾根があり、そこに台場が並んでいたと考えられる。総合運動公園造成で旧地形は削られて、台場跡は空中高い位置にあったことになる(以前、遺跡保護運動をしていた大学の専門家が道路建設では旧地形が深く掘り除かれることを理解しておらず、建設後は道路面の下に遺構が埋められてしまうと理解していたのに驚いたことがあったのを思い出した)。しかし、この辺りでは未だ台場跡は1基も確認していない。
絵図では鬼ケ城から西に川を渡る橋を描いている。現在、黄色く描かれた今の道路が橋跡の少し上流(川は左から右に流れている)で渡っていると分かる。絵地図からみるに、当時の橋は茶屋ノ辻から西に進んだ道が川沿いの道にぶつかる先に架かっていた。川の西岸(図の左外)に阿蔵山がある。「戰記稿」では5月24日、鬼ケ城茶屋ノ辻ノ地タルヤ四塞ニシテ阿藏ニ通スル板橋アリ道路ハ阿藏山ニ通スル小徑三個ヲ除クノ外、有ルヿナシ故ニ十一時ニ十分我カ一發ノ砲聲ヲ期シ靜間中尉浩輔一小隊ヲ率テ本道ヨリ潜カニ阿藏山ヲ下リ橋ヲ渉リ村ニ入リ鬼ケ城ニ攀躋シ賊壘ヲ距ル僅ニ五米突ノ處ニ達シ一齊ニ発射シ壘ニ入リ遂ニ數壘ヲ拔キ黄昏兵ヲ収メ守線ヲ竹田ヨリ五丁ノ處ニ定メ警備ヲ嚴ニスとある橋がこれである。
直入郡挟田村
明治十年五月十三日午後第四時薩軍隊長石塚某貳千有余人ヲ卒テ日向國延岡駅ヲ経テ豊後國竹田駅ヲ本営トシ同月廿九日午前第十時迠滞在ノ処官軍追擊ニヨリ大野郡市塲駅地ニ引拂フ
同年五月十六日竹田士族堀田政一ノ脅迫ニ依リ兵隊トナルモノ僅カニ五人
但死傷等壱人モナシ
同年同月廿七日正午ヨリ賊軍挟田村字観流亭及ヒ丹六才登リ山ヨリ字遠見塚及上ケ尾ノ官軍ニ向ヒ同月九日午前十時迠三日間戰争アルモ官賊軍共ニ勝敗ナシ
右戰ニ兵火ニ罹ル者五戸
但放火ハ官賊不詳
同五月十五日ヨリ同廿九日マテ人夫ヲ屬ニ出スヿ凢ソ貳百余人其賃銭拾壱銭三厘或ハ六銭ヲ受取ルモノ貳拾有余人無賃銭ニテ兵粮等ヲ戰地ニ運送等之為使役者百数拾人
右 之 通 候 也
明治十六年三月六日 右戸長 安東義三郎
現代の地図に絵図の台場を推定して記入したのが下図だが、官軍台場は地点を記入しにくかった。挾田川を挟んで東に官軍、西に薩軍が分布したことがわかる。この分布状態は法師山を官軍が奪った後だろう。この範囲の台場跡は今まで誰も探したことがないと思う。それでとにかく現地を探してみる必要がある、と思う。
三 宅 村
枝 村
中 村
明治十年五月五日ヨリ同廿五日迠賊軍竹田本営ヘ人夫百人ヲ出ス但無賃
同日枝村ト植木村界字法師山ヘ賊ノ斥候兵拾名斗リ疆壁ヲ築キ竹田ヨリ交代ニテ守ル
同二十五日午後一時頃東京警視廳萩原大警部ノ兵大野郡神堤ヨリ来リ一時間程戰争アリ賊敗走官兵死傷五六名直ニ麓ナル字石原ヲ本営ト定ラル
同二十七日拂暁ヨリ鏡口ヘ進擊戦争凢三時間官軍苦戦午前九時頃引揚死傷凢五拾名
同二十九日拂暁ヨリ再進擊賊敗走尾擊シテ竹田町ニ入ル
右之通候也
明治十六年八月三十日 右戸長 伊東魂平
挿図では法師山の賊徒塁(薩軍台場跡)が一基だが、実際は官軍台場跡が10基、絵図にある薩軍台場跡1基が残っている(「西南戦争戦跡分布調査報告書」2009 大分県教育庁埋蔵文化財センター調査報告 第44集)。絵図では左が北である。
この報告書で北向きの11号だけを薩軍台場跡と推定して報告したように、絵図では頂上北部に北向きに薩軍台場が示されており、正解だった。しかし、西南戦争直後に参謀本部に地元が提出したこの報告は安易なものであり、あまり実態を示していなかったことが分かる。当時現地を訪ねて台場跡分布状態を調べ報告書を作成した村や町はほとんどなかったとみられる。しかし、後で掲げる会々村だけは現地を調べて報告した可能性がある。
直入郡植木村
明治十年薩軍竹田駅ヘ進入滞在時日及隊長氏名兵卒員数等ハ竹田村ニ仝ジ
同年五月廿五日当村字弓嶽ニ對スル字法師山トノ間ニテ官賊両軍放擊凢一時間勝敗未决賊走ル死傷ナシト云ヘリ
兵火ニ罹ル者六戸
但火ハ官軍ノ放火ニ拠ル五月廿九日未明字荻迫大擧屬追擊ノ際ナリ死傷等ナシ熊本鎮
台兵大凢百五拾名余
右之通候也
明治十六年九月六日 右戸長 児 玉 直 友
上図では賊軍がいたのは緑色に塗られた政所と荻迫の中間地帯ということになっている。
政所と荻迫付近を拡大すると該当しそうな台地あるいは山は三ヶ所ある。このうち1では下図のように薩軍台場を7基確認済である。台場跡の土塁部分が向く方向を矢印で示す。道路を挟んだ東側の山には何もなかった。2と3については踏査したかどうか記憶が曖昧である。台場跡はなかったような気がする。文末に掲げた会々あいあい村の史料では1の東側の山に複数の台場があるように描かれている。
直入郡平田村
新五月二十日ヨリ薩軍隊長姓名不詳兵卒凢貳百名ヲ率テ此地ニ滞在直入郡竹田村ヨリ来リ同廿五日同地ニ去ル
五月廿三日官軍進擊字稲荷峠ヨリ字下原向ヘ掛ケ同日午前第七時ヨリ同廿五日迠三日間戦争アリ賊軍死傷不詳官軍死傷凢三拾人ト云ヘリ
五月廿三日一日人夫貳拾人賊軍ニ仕役官軍進入ニ紛レ同日帰村
五月廿三日ヨリ廿九日迠官軍病院并分営等ヲ設ケ七日間滯陣炊出等ニ仕役ニ成ル
右之通候也
明治十六年八月廿日 右戸長 太 田 原 平
北半分・南半分に活字を入れる。
城原往還沿いに両軍の台場が築かれたようである。絵図の台場の位置を現代地図に推定記入したものがこれ。上平田の西側は不正確になった。
次は上図の下側から右側地域である。
直入郡飛田川村
明治十年新五月廿一日報國隊第貳番小隊長南方實一小隊人員八拾人ヲ率テ同郡竹田町出発同日午前一時頃本村字古城城牟禮城墟ニ出兵同所西ノ鼻ヨリ南ノ方ニ廻リ臺塲ヲ築滞在
同廿二日同隊滞在
同廿三日官軍城原口ヨリ進擊午前七時頃開戦薩軍一小隊隊長名不詳應援トシテ出兵本道竹田ヨリ日田道ヨリ進軍字切通シニテ防戦午前十時頃官軍引上薩兵モ古城ニ引上休戦報國隊即死壱人手負壱人薩兵ハ不詳
同廿四日折々砲戦午後二時頃官軍岩木口本村内古城南ヨリ進擊賊軍一小隊ヲ古城東ノ鼻ニ廻シ砲戦一時間余戦争官軍敗走賊軍古城東ノ方ニ臺塲ヲ築滞在
同廿五日折々砲戦三番隊小隊長堀田政一一小隊人員八拾人ヲ率テ出兵貳番小隊ニ代ル薩兵モ更代
同廿六日午前四時頃ヨリ官軍襲擊賊軍苦戦十二時頃官軍引上
報國隊即死壱人手負三人同日令ニ依リ報國隊ハ同所引上ケ直ニ竹田村上角口下石ノ臺塲ニ出兵其後薩兵戦守同廿九日総軍引上ノ令ニ依リ竹田町ニ退軍戦争勝敗不詳
新五月廿二日ヨリ同廿九日迠薩軍隊長蒲田某百余人ヲ率ヒ本村字三砂谷ヘ滞在
但日向地方ヨリ来リ同地方ヘ去ル
同日ヨリ字爪尾板屋地神塔田原ノ各所ニ臺塲ヲ築
同廿四日字柱松ニ於テ一時間程戦争アリ賊勝利賊死傷ナシ
同日ヨリ同廿九日迠各臺塲ヨリ日々砲戦勝敗ナシ死傷不詳
同廿九日兵火ニ罹ル者貳拾五戸但官ノ放火
同月廿二日ヨリ同廿九日迠人夫ヲ屬ニ出ス事凢百人其賃銭ハ壱人一日金拾銭ノ約束ノ處賊俄ニ敗走ニ付賃銭不拂シテ去ル
内七拾人余ハ各所ヘ糧食ヲ運送ス三拾余人ハ村内各所ノ臺塲小屋掛等ヲナス
同月十六日ヨリ同十八日ニ至リ報國隊堀田政一豊岡太郎等ノ脅迫ニ依リ兵隊トナル者拾三人雜役トナルモノ拾五人病院炊出塲本分営等ナシ
右之通候也
明治十六年八月廿日 右戸長 金 子 勇 夫
上図の字田原に六ヶ所、台場が書き込まれているが(下図)、これらは踏査していなかった。竹田駅の西側あたる。
上の地図は藤島純高2003「『古城峠攻略記』について」(「西南戦争之記録」第3号)による古城の台場跡分布図である。塗りつぶしが台場跡であり、白抜きは伝承による想定台場位置である。古城の南麓を巡る道は地形に沿っているため現在のものと屈曲状態が似ており、今も位置が変わっていないようである。したがって絵図と比較しやすい。絵図では大きく見て三ヶ所に台場が分布し、中でも西部の逆L字形は特徴的である。しかし現状ではもっと多く存在する。絵図報告が不正確だったと言わざるを得ない。さらに城跡の周囲に古城の薩軍を攻撃するため官軍の台場が多数築かれたとされているのに絵図には描かれていない。
玉 来 村
吉 田 村
入 田 村
君ケ園村
拝田原村
岩 本 村
明治十年五月十三日午後四時頃薩軍数百人直入郡竹田町ニ忽然襲来同廿九日迠滞在尤此ノ二十九日ニ大敗走ニテ大野郡宇目地方ニ去ルト云
但其隊長ハ石塚忠右衛門野村某ト云ヘリ
同十六日ヨリ同廿二日迠薩軍隊長不詳凢三百余人ヲ卒テ入田村ノ内字小髙野ヘ滞在
但竹田町ヨリ来リ大野郡寺原村ノ方ヘ去ル
同十七日ヨリ同廿二日迠入田村ニ於テ人夫ヲ賊ニ出スヿ凢八拾五名其賃無賃銭ナリ字丸山辺臺塲建築或ハ又死傷四名ヲ竹田村光西寺迠運搬ス
同十九日ヨリ同廿一日迠三日間玉来村字鞍掛吉田村字庚申塔辺ニアル官軍ニ對シ戦争死傷四人アリト云
同十八日玉来村區戸長役塲元六大區四小區用務所エ薩軍歩兵六名来リ諸雜品掠奪シ竹田町エ去ル
同十九日午前八時頃竹田町ヘ屯集スル薩軍之内凢二中隊二手ニ分レ一手ハ玉来村ヲ経テ君ケ園村之内字ハヱノ尾ニ出一手ハ吉田村ヲ経テ岩本村ノ内字サキヲク峠ニ出君ケ園村之内字石原村ニアル官軍ニ對シ午前九時ヨリ開戦暫時ニシテ官軍恵良原村之内字戸上ニ引揚ク賊軍追擊同所戸下ニ至ル薩軍同日午後四時頃玉来村ヲ経テ竹田町ニ去ル此戦ニ賊兵即死二名負傷三名ト云ヘリ
同日吉田村ニ於テ賊ノ脅迫ニヨリ人夫二十二名岩本村ヨリ同断人夫四名都合二十六名ト岩本村ヨリ空俵二百トヲ募集シ以テ同村字サキヲク峠ノ臺塲建築或ハ手負二名ヲ竹田町ニ護送セリ
同日薩軍熊本縣下下仁田水村佐伯伊三郎ノ所有金ヲ掠奪シ玉来村ヨリ人夫拾人駄馬五疋出サシメ右略奪金竹田町ニ運搬ス其賃金壱人ニ付金三拾銭ツヽ臺塲築立或ハ糧食運搬等ヲナス但無賃銭ナリ
同廿一日午前六時官軍熊本鎮台玉来村ニ進擊シ同村字阿藏尾立鞍掛吉田村ノ内字庚申塔拝田原村字耳切峠コンヒラ峠源次郎峠等ヲ始トシ處々ニ臺塲ヲ築キ玉来村市街ニ官軍本営ヲ建ツ
同日拝田原村ノ内字ヲカネサマ山上嵩中川神社地竹田村字崩岩ヘビ塚等ノ数ヶ所ニ薩軍臺塲ヲ築キ玉来村地方ノ官軍ニ對シ開戦是ヨリ同廿九日迠砲聲止ム時ナシ
同日吉田村字塚原ヱ薩軍凢四拾名臺塲ヲ築キ屯ス同廿二日午前七時官軍切込ミ戦争賊遂ニ敗走シ入田村ノ内字鐙ヘ引拂ヘリト云
同廿三日玉来村字阿藏兵燹ニ罹リ焼失スル者拾八戸
但火ハ官ノ放火ト云ヘリ
同廿六日拂暁ヨリ拝田原村字ヲカネサマ山字鳥越辺大戦争初メ賊勝利後チ大ニ敗走竹田ヘ引拂此日拝田原村字鳥越辺兵火ニ罹リ焼失スル者拾九戸賊死傷十二名ト云ヘリ
但火ハ前同断
薩軍竹田地方ヘ襲来シ其脅迫ニヨリ随従セシ者玉来村ニ二十三名君ヶ園村ニ五名拝田原村ニ八人吉田村ニ五人ナリト云
右之通候也
明治十六年十二月八日 右戸長総代 田 代 早 苗
他の地図では見ることのできない地名や詳しい記事情報がみられる。台場の分布は描かれず、官軍・薩軍がいた場所を大雑把に書き入れている。小高野丸山は多分あれだろうという山はあるがまだ踏査していない。
「西南戦地取調書」の末尾近くに直入郡會々村の報告がある。他の村・町に比べて提出が遅れたため、初めに大分県令の言い訳一枚があり、次に村作成の文章三枚を県が清書したものが続き、最後に村作成の絵図一枚である。
写真を示すので理解できると思うが欄外に十八年四月接の墨書、上部欄外に編纂課の楕円朱印、頁欄外上部に割印のように上が欠けた一辺31mmの朱印がある。本来は大分縣兵事課であろう。欄外右に受乙第四〇四号(号は別字)と読めなかった丸朱印、その下部に須藤の楕円朱印が押されている。当時、参謀本部にいた須藤定穀大尉だろう。また、大分縣と書いた付箋が貼られている。県毎に割り振って整理していたのだろう。
以上が欄外の説明で、以下は罫線枠内について。
陸第四拾七号 參謀本部受領 參月第四九六号
客年九月一日付陸第二百六号ヲ以テ去ル十年戰地書類御回付之節申進置候直入郡會々村ノ分屡督促候處漸ク指出候ニ付即チ及御回付候此段申進候也
明治十八年三月廿六日 大分縣令西村亮吉印
參謀本部副官茨木惟昭殿
明治十年薩軍ニ関シタル事蹟概畧
大分縣直入郡會々村
一新五月十三日午後薩軍隊長竹下某岩嵜某大迫某石塚某等総兵凡千八百餘人ヲ引卒シ竹
田街ニ乱入スル哉直ニ哨兵ヲ当村(字下木字屏風ケ淵字赤坂字三砂字川下)各所ヘ分
置シ士民ノ部外ニ出テ或ハ物品ヲ運搬スルヲ禁シ守備ヲ嚴ニス同五月廿一日ヨ
リ仝廿九日マテ六小隊(一小隊兵卒八十人工卒輜重卒十五人)当村(字上鹿口〇字平字
千引字七里峠字内河谷峠字三砂)諸所ニ塁壁ヲ築キ滞在
但新五月十三日午後五時頃鹿児島縣日向地方ヨリ竹田街ニ乱入仝月廿九日午
前八時頃当縣大野郡宇目郷地方ニ去ル
一仝五月十六日薩軍随従竹田報國隊ノ兵旧六大區十一小區々長吉村某ヲ字下木ニ
斬ル
一仝五月十九日薩軍随従竹田報國隊ノ兵大分縣十等警部藤丸某ヲ熊本縣阿蘇郡黒
岩村ニ捕ヘ字下木ニ斬ル
一仝五月廿三日木原口(熊本街道)ヨリ官軍進撃字上鹿口ニテ凡五時間戰争賊兵敗
レ退ク此戰官賊死傷不詳賊飛田川村ノ内字古城ヲ根拠トシ字上鹿口ニ數塁ヲ築
キ守防ス官軍平田村ノ内字杖取ニ塁壁ヲ築キ尚該地方ニ哨兵線ヲ張リ對陣仝廿
八日迄折々小戰アリ仝廿九日未明ヨリ官軍大進撃終ニ古城ノ根塁ヲ拔ク賊兵忽
チ上鹿口地方ノ塁ヲ捨テ去ル此戰官ノ死傷不詳賊死三人傷不詳
一仝五月廿六日三宅村字法師山口ヨリ「官軍(警視隊)進撃賊一戰ニシテ字千引地
方ノ塁ヲ捨テ去ル官軍字鏡迄尾撃シ此処ニ守備ス賊軍字米納沢峠字内河谷峠等
ニ對陣仝廿七日拂暁賊ノ拔刀隊凡三十四人突然後手ヨリ顕レ出前後ヨリ挟撃(
此処南ハ山北ハ川一線路)官軍苦戦終ニ大ニ敗レ根塁法師山ニ退ク此戰官軍ノ死三
十餘名(将校二名)負傷者凡八十餘名賊死傷ナシト云フ仝廿九日官軍進撃賊各所
ノ守塁ヲ捨テ去ル
一同五月廿六日字内河谷峠ニテ小戰アリ勝敗不詳
一仝五月廿九日字古城ノ賊塁敗潰スルヤ字三砂ノ塁ニ止リ官軍ノ進路ヲ遮リ凡一
時砲戰賊終ニ敗レ去ル此戰官軍ノ死傷二名傷不詳賊死二人ト云ヘリ
一仝五月廿九日官軍四方ヨリ進撃字平字瀧ノ上等ニ塁ヲ築キ續テ竹田街ニ進軍ス
一仝五月廿九日賊軍敗走ノ際兵火ニ罹ルモノ二百一戸但官ノ放火
一仝五月十三日ヨリ仝廿九日マテ人夫ヲ賊ニ出スヿ凡百五十人其賃金壱人金拾銭
ノ約定ナルモ賊俄ニ敗走賃金不拂シテ去ル最糧食ヲ運搬シ其他雜役ス
一仝五月十七日薩軍ニ随従ノ巨魁竹田士族堀田政一谷川忠悦等ノ脅迫ニ拠リ兵隊
トナルモノ百二十二人内砲隊十五人小銃隊百七人内戰死四人
一右仝雜役トナルモノ七十五人
右者明治十年五月十三日ヨリ仝廿九日マテ薩軍ニ関シタル事蹟概畧取調別紙戰
地圖相添進達候也
大分縣直入郡會々村外一ケ村
明治十八年三月十四日 戸長 草 刈 正 弘
陸軍省七等出仕横井忠直殿
絵図を分割して示す。
この絵図にも多数の台場記入があり、多くは未確認のままである。字浦谷の地名がある場所の西側で川の屈曲に囲まれた部分に台場が描かれているのは初めて知った。また、その西側、字鏡の東側の山にある台場跡は確認済みだが、その北側にも連続して存在するのは現地を確認していない。
その他、この絵図には西部含めて点々と台場が描かれており、今後これを基に分布調査すべき課題が多いと感じる。他の村の報告に比べ、台場跡の分布状態が詳しく描き込まれており、会々村だけ提出が遅れたのはその作業に時間をかけたためかも知れない。
まとめ
この史料は西南戦争にとっては貴重な情報源となっている。また、明治初期の地図情報としても貴重である。佐伯市分についてはまだ印刷されていないが、投稿済である。