西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

中井弘の漢詩掛軸

 中井弘(ひろむ)は鹿児島出身のひとで、幕末・明治に活躍している。彼の漢詩掛軸を紹介したい。フランスで詠んだ詩であり、当時の日本人が西洋に行ってどのような漢詩を作ったのか興味がわいたので購入した。掛軸の高さは220㎝、軸先を含まぬ横幅は67㎝。

 

 

 彼はいくつも名前をもっていたが中井桜洲というのも知られている。屋敷茂雄2010「中井桜洲 明治の元勲に最も頼られた名参謀幻冬舎ルネサンスにより中井の欧州紀行「漫遊記程」上・中・下巻があると知り、国会図書館デジタル史料を覗いてみた。

 すると幸いなことにこの漢詩と同じものが載っていたので、解読するまでもなかった。

巴黎城郭一眸看 十六砲臺戦後寒 吟客登臨無限感 歐州猶未保平安

     仏蘭西雜感桜洲山人

 パリ城外を一眸に見ることのできる十六砲台は戦いを終え、寒空の下にある。砲台に登り詩を詠んだ私は2年前の、1870年の普仏戦争を想い、時の流れを感じたが欧州の平和はなお未だ保てていない。

    両方で異なる点は、本で一望とあるのが軸では一眸とある点くらいである。掛軸には押印がないので、出かけた先で自作を思い出しながら書いたのだろう。気取らずに普段筆記するような感じで素早くさっさと書いた感じがする。 

 モンバリヤンとはモンワレヤンのことらしい。戸田文明「明治初期日本人のパリ・コミューン観」四天王寺大学紀要 第 64 号( 2017 年 9 月)という論文があった。普仏戦争時に使われた要塞である。米欧回覧組と同時期にフランスに行っていた成島柳北(二年後に朝野新聞を創刊した人)の「航西日乗」明治5年12月29日に「此地(※パリ郊外のサンゼルマン)より馳眺すればセイヌ川一帯素練の如くにして、遠くモンパリヤンの砲台を望む。此砲台は普兵の抜く能はざりし巴里外の最大要地なり。楼丁に酒肴を命じ暫く林木の間を散歩し、黄昏再び楼に登りて飲む。」にも記されている。当時有名な場所だったのだろう。

 榎本翁とは榎本武揚の事であり、榎本は1874年1月18日に樺太の国境画定その他の問題を解決するために駐露特命全権公使に任命され、6月にサンクトペテルブルグに着任し、翌1875年10月に帰京している。「中井の「漫遊記程」に榎本と英国からフランスに行ったことが記されているが日付がない。

 中井は旅の途中でいくつも漢詩を作り、榎本に添削を依頼したという。「漫遊記程」を読んだ感想は筆まめだなあ、である。最近旅行をしたがこういう旅行記は全く残せなかったし、詩作も思いつかなかったからそう思う。