西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

飯田山へ 

 今日、熊本平野の南東側にある益城町飯田山に岡本真也さんと登った。彼の誘いに喜んで応じた。熊本平野の南東部に目立つ山だがまだ登ったことがなかった。遠くからでも頂上が広く、立木が切り払われているのが分かる。西南戦争戦跡の踏査を重ねている人なので、飯田山に行く目的はもちろん台場跡探しである。

 迷いつつ車で9合目よりも上まで行き、そこから歩き。帰宅してから写真を再生しよ

うとしたら記録が無かった。容量が超過したらしい。昨日の分はあったのだが。

 赤い点線が歩いた所で、頂上は草原だった。見渡したところ台場跡はなさそうだった(初め投稿したi部分が間違えて少し消えてしまった。台場跡がなかったので常楽寺の説明などはなくても問題はないが、少し復元した

 4月20日の熊本平野周辺で行われた両軍の会戦後、薩軍は平野南東側に退却し、矢部方向に移動していった。官軍は地元民などを探偵にして情報を収集していた。次にその探偵報告を掲げる。

 表紙は毛筆で「探偵書 第三旅團 參謀部」だが右側にペンか鉛筆で明治十年三月廿四日~五月五日と加えている。0828・0829アジ歴の推奨する表紙はC09084823400、探偵書 明治10年3月24日~10年5月5日(防衛省防衛研究所)である。0828・0829 これでは名は体を表していない。防衛研究所の都合で適当につけたとしか思えない。

十二三日頃西郷川尻ヨリ矢部道杦堂村近傍ナル間道ヲ通過シ矢部ニ本陣ヲ置ク由十六日迠ハ熊本賊ノ本営ハ木山ヨリ二三合東寺中ト申処ニアル由

同日頃迠桐野ハ木山ニアリシ処十六日午前第一時大挙シ南ノ方飯田山ニ向キ進軍ト号シ発足ス今日ハ御船カ飯田山ノ西ノ麓土山ニアルヘシ

肥後人ノ賊ニ与セシ者今二千余人ハアルヘシト

   手負即今平病  池辺吉十郎

           松嵜宇平治

池辺隊ト号ス大畧千人ナルヘシ

 

           宮嵜八郎

           﨑村常雄

           有馬源内

右協同隊三百タラス

賊ノ総軍ハ今ニ一万モアルヘシ

 ここに出てくる土山を下図に示す。桐野利秋等が滞在あるいは通過したらしい。飯田山に登る際、道を間違えてこの辺りを通ったが桐野のことは知らなかった。岡本さんから土山では瓦製作が行われていたと聞き、帰って調べてみたところ、土山では明治時代に瓦製作が行われていたが、開始時期は江戸末期と考えられてきた。最近では益城町福富で発見された瓦製品に「慶長十年三月十三日土山大工新十郎作」と刻まれているのが確認され、一気に江戸初期には製造開始されていたことが判明した(2008「益城文化財」27)。

 近年、鹿児島城跡から土山製とみられる刻印をもつ瓦が出土している(阿比留士朗2020)。

 4月下旬から5月上旬まで飯田山・船野山の北西側から南側の地域では官軍が守備線を設けていた。「征西戰記稿」では日時・地名・中隊名など日々の細かいことは書かれていないが、それらを記す当時の防衛研究所の史料があり、アジ歴経由で閲覧できるので掲げる。下図に次に引用する赤字地名が登場する。

C09080750400「明治十年 報告 西南征討関係書類 甲」陸軍記室印 のうち「征討中日誌 教導團撰拔大隊」

本日午后第六時第一二中隊鯰村ニ遷リ舎営ス

二十日本日御船賊塁ノ前面ヨリ攻撃スヘキ命ヲ受ケ午前第二時三十分第一第二中隊甲佐郡鯰村ヲ発シ隈ノ庄ニ遷リ直ニ同郡古賀村ニ至ル同五時三十分第一中隊ヲ以テ緑川ノ上流嶋ヲ渡渉シ辺田見山ニ登リ戰端ヲ開キ賊塁ヲ離ルヽ僅カニ二三米突ノ地迠進ミ賊塁ニ平行スル堰堤ニ沿ヒ激戰ス同十時左右翼ヨリ攻擊セル諸隊ノ連絡ヲ得テ漸ク御船ヲ拔クヿヲ得タリ此ノ日賊ノ死傷数ヲ知ラス弾薬器械粮米等数夛ヲ分取ル

本日午后第一時第一中隊砥川村迠行進シ玆ニ舎営ス

本日午后第四時第二中隊舩ノ山ニテ大哨兵ヲ配布ス

二十一日本日午前第六時第二中隊ハ第一中隊ト船ノ山ノ大哨兵ヲ交換シ砥川村ニ舎営ス

 砥川村は船野山の西麓にある。

本日午后第五時第三中隊甘木村ノ大哨兵ヲ引揚ケ砥川村ニ来ル直ニ船ノ山ニ大哨兵ヲ張ル

本日午后第六時第一中隊甘木村ニテ大哨兵ヲナス

二十二日午前第十二時第二中隊赤井村ニ遷リ大哨兵ヲナス

 赤井は船野山の北側麓の集落である。現在の地図では水田地帯よりも少し高い地形に南北900mほどの範囲に住宅が分布する。昔は洪水を想定して住む場所を選んでいた筈だから、低地に進出していないという点では旧来の集落の在り方を示している。集落北部の東側に標高32mの小さい山があり、大きな開発もされてないようなのでここに薩軍が去った東を向いた台場跡が残っているかもしれない。確認可能性がある所を示す。

 ここからは空想地図も掲げる。

本日午前第四時第一中隊甘木村ヨリ郡見坂ニ遷リ大哨兵ヲ張ル

 郡見坂は現在地図にある軍見坂だろう。黄色く表示された道は斜面を通過しており、哨兵を置くとしたら守りやすく攻めやすい頂上尾根筋を選んだだろう。下図のような想定をして現地を探したらいいと思う。 

二十三日本日午后第一時第三中隊舩ノ山ノ大哨兵ヲ交換シ砥川村ニ舎営ス

   舎営とは(ポチっとしてみたら)軍隊が兵営以外の家屋で宿泊や休養することで、露営ではないとのことなので、砥川村にはこの時台場を築いたわけではない。この日の「戰記稿」別働第二旅団の記事は次のように記す。

 別働第二旅團ハ哨兵線ノ守備成ルヲ告ク即チ北ハ船底山ヨリ南ハ郡見阪ニ至リ其左ハ

 熊本鎭臺ニシテ右ハ別働第三旅團タリ而シテ守線ノ傍近復タ隻賊ヲ見ス蓋シ悉ク矢部

 ニ走レルナリ乃チ本團ヨリ斥候ヲ矢部地方ニ出シ賊情ヲ偵察セシムルニ賊ハ金内ニ屯

 シ守兵ヲ水田尾ニ出セリト云フ既ニシテ村民ノ來リ報スルアリ曰ク萬坂及ヒ其近傍ニ

 賊兵防御セリト金内ハ御船ヨリ郡見阪ヲ經テ矢部ニ至ルノ沿道ニ在リ萬坂ハ甲佐ヨリ

 矢部ニ至ルノ路ニ在リ夫レ矢部ノ地タルヤ環ラスニ群山ヲ以テシ進軍ノ路纔カニ南面

 ノ一方アルノミ山田少乃チ屡〃偵察兵ヲ出シ或ハ村民ノ地理ニ明カナル者ヲ遣リ矢部

 ニ通スルノ間道若クハ樵路ヲ探究シ將サニ進ンテ矢部ノ賊ヲ驅除セントス

 4月20日の熊本平野一帯の会戦に敗れた薩軍は矢部方面に退却し、官軍は再度の来襲を警戒しつつ探偵を放って情報収集していた。薩軍の一部は三つ下の地図に示す万坂で守備を設けていたが、官軍は村民を使った情報収集で把握していた。

二十四日本日午后第七時第二中隊赤井村ノ大哨兵ヲ引揚ケ砥川村ニテ舎営ス

本日午后第三時第三中隊舩ノ山ニ大哨兵ヲ張ル

二十五日本日午后第二時第二中隊ハ第三中隊ト舩ノ山ニ於テ大哨兵ヲ交換ス

二十六日本日午后第一時三十分第一中隊ハ第二中隊ト舩ノ山ニ於テ大哨兵ヲ交換ス

二十七日本日午前第八時第一中隊舩ノ山ノ大哨兵ヲ引揚砥川村ニテ舎営ス

本日午后第四時当隊一同砥川村ヲ出發シ栗ノ倉ニ遷リ舎営ス

    栗ノ倉が分からない。上の図のように木倉という所が軍見坂の西側にあるのが該当するのか。「きのくら」と発音するらしい。地元民の発音がそう「くりのくら」聞こえたのだろう。

二十八日本日午后第一時三十分当隊一同栗ノ倉ヲ発シ古閑ノ原迠行進シ事故アツテ復ヒ栗ノ倉迠歸リ舎営ス

 軍見坂の東に古閑原がある

二十九日午前第七時第三中隊郡見坂ヨリ下鶴村迠大哨兵ヲ張ル第二中隊ハ辺田見山ニ於テ大哨兵ヲ張ル

 軍見坂の南側尾根を守っていたのを更に南側の下鶴まで延長したのである。

 辺田見山はすでに20日の記事に登場したことがある。第二中隊が緑川ノ城流嶋ヲ渡渉シ辺田見山ニ登リ戰端ヲ開キ賊塁ヲ離ルヽ僅カニ二三米突ノ地迠進ミ賊塁ニ平行スル堰堤ニ沿ヒ激戰スである。これによればこの時、薩軍の台場が辺田見山にあったとは読めない。辺田見山という山は現在知られていないと思うが、辺田見集落のそばの山であることは容易に想像がつく。辺田見山に官軍が台場を築くなら下図のような位置に想定できるだろう。官軍は辺田見山を占領し、次に川沿いの堤で戦ったと書いているだけである。薩軍はここには台場を築かなかったようである。20日以降、辺田見山が登場するのはこの29日であり、その間は誰もいなかったのだろうか。

本日午后第九時第一中隊ノ内二分隊ヲ以テ下鶴村廣瀬橋ニテ第三中隊ノ援隊トナル

 広瀬橋は場所不明だが、多分下鶴付近だろう。橋のたもとか、橋の上に台場を築いて守っていたのだろう。

三十日本日午后第二時第一中隊ハ第二中隊ト邉田見山ニ於テ大哨兵ヲ交換ス第三中隊ハ石原中尉ノ隊ト大哨兵ヲ交換ス

 別働第二旅団石原應恒中尉は7月24日に大尉に昇進している(征討総督本営宛 大尉被任の請書 発石原中尉」C09082388400「明治十年 請書 軍團本營」防衛省防衛研究所蔵)。前日29日に辺田見山は第二中隊が守っていたが、30日に交代した。第三中隊は石原中尉(中隊長心得)の第四中隊と替わった。山上には台場跡があるだろう。尾根続きですぐ東側では軍見坂から下鶴までを別の中隊が守っていたことが分かる。薩軍が移動した矢部浜町・万坂に近いので薩軍の攻撃を警戒したためだろう。

本日午后第十時第一中隊ノ内二分隊石原中尉ノ隊ト交換ス

五月一日本日午前第八時第一中隊辺田見山ノ大哨兵ヲ引揚ク本日午前第十一時当隊一統栗ノ倉ヲ発シ御舩ニ遷ル

本日午后第三時御舩町ヲ出発シ一統堅志田塲馬村ニ遷リ舎営ス

 堅志田は飯田山の南南西10㎞程、下益城郡美里町にある。

二日本日午后第九時第三中隊ヨリ軍曹一名🔲勢伍長二名伍長二十名堅志田町山川中佐出張所ノ守衛ヲ交換ス

三日本日午后第二時第二中隊ヨリ一分隊ヲ出シ右守衛兵ヲ交換ス

本日午前第十二時当隊一統堅志田町ニ移リ舎営ス

四日本日午前五時三十分堅志田町山川中佐出張所ノ守衛兵ヲ引揚ク

 述べてきた範囲を担当した部隊の戦記「別働第二旅團戰記」が国会図書館デジタルで閲覧できる。読みやすいので掲げる。

 以上のように4月下旬に飯田山守備を担当した別働第二旅団は、益城町赤井、御船町辺田見山、下益城郡美里町馬場まで延長16㎞の範囲に哨兵を置いていたのである。しかし、この地域でほとんど戦いがなかったためか西南戦争に関する本では扱われてこなかったようである。いつか戦跡の分布調査が行われることを期待したい。