先日の小富士山踏査のところで触れた竹田市荻町高鼻公園の台場跡略図を作成したので投稿します。西南戦争時のものです。下は南側から遠景写真を撮ったもの。地図の矢印の位置から。
左奥の崖の上に戦跡があります。
高鼻公園の突端から北東方向を写したもの。遠景中央の屋島のような山が古城です。その右奥に薄く見えるのが法師山です。この山では初め大分市方面から来るであろう官軍を警戒して薩軍が台場を築き、その後官軍が多数の台場を築きました。 法師山以外は阿蘇山から9万年前に流れてきたものが埋めています。高鼻公園もそうです。古城も薩軍が拠点とした場所であり、別のところで紹介するつもりです。
上の写真はグーグルマップで北から見た高鼻公園の状態。観音像の北側に尾根の一つが突出し、その中腹に旧道跡かもしれない路線が破線のようにあったが正確には見ていない。昔、ここは馬瀬野峠といわれていたというが、路線の位置については記録がないようです。路線が突出した先に台場があってもよさそうな場所があるが、その場所には展望台が築かれており、遺構の有無は不明。高鼻公園の台地上に攻め上ろうとする場合、この北側に下る細尾根を上るのが正攻法です。当然官軍もこの弱点を理解して尾根筋の途中や上部に台場を築いていたと考えられますが残念ながら確認できません。
公園の東端に展望施設があり、その南西に石塔が一つ立っている。銘文は「地神塔」、裏面下部に石刻云々と刻んでいる。銃弾の痕がないかと見たがなかった。
1号が最初に見つけたもの。その後で一番高い平坦面で藤棚のまわりに4号?・5号?を確認し、さらに2号・3号?を見つけた。土塁部分が残るのは1号と2号であり、3号から5号は土塁部分が存在しないので、台場跡であるとは断言できないが可能性があるものと考えている。ここは公園として元の地形に手が加えられているので、そう考えた。赤線を加えた下の図はもし土塁跡が残っていたとしたらこのようなものだっただろう、という推定図です。
個々の説明。
1号の背後、南側にある高まりは台場跡の内側に植樹した際の排土です。2号の西側は10m位先で谷に落ち込むが北側が断崖になっているのに比べれば緩やかな谷の傾斜です。2号内で守る立場で言えば、右手の北側は10m以上垂直に切り立った凝灰岩の崖面だから敵が来る恐れはない状態です。守る場合、3号?は不要といえます。でも下を通る敵を射撃するには適当な場所です。1号の南側は段差があり、2mほど高くなっています。この段差が西南戦争時にあったのかは不明ですが、おそらくあったんだろうなと思います。
これらの他、東側には4号?・5号?のような楕円形のくぼ地6~8号?が台地の北縁に沿って並んでいます。これらは土塁部分がなく、内側の窪みも浅い状態でその気にならなければ見逃すところでした。密接して断続的に続く状態です(下の2枚。上は東から・下は西から)。
白い棒の位置が6号?の西端で、右奥に向かって7号?・8号?が浅いくぼみとして残る。
8号から東に43mで観音像のある半円形の構築物が南に開いてある。東から撮った上の写真、巻き尺の始まり付近右側に8号?台場跡があり、谷を見下ろす位置にあることが分かると思います。向こうに見えるのは4号?と5号?の中間にある藤棚です。
観音像。
まとめ
高鼻公園で確実な台場跡は1号と2号の2基だけです。土塁部分がなく台場跡と断定できないものを含めても台場跡は東西に長い尾根の西部にだけ分布しています。東部は当時の地形が削られて平坦になったり、展望台が造られたりして台場跡がなくなったと考えられます。発掘調査をすればもしかしたら内側の窪みが検出できるかも知れません。
高鼻公園の地形は南から東は崖面になっており、守備を薄くしてもよい状態です。北東側に尾根が突出する部分は、敵が攻撃しやすい部分です。その西側、つまり北部は再び崖面であり、その西側は北から谷が入り込むが比較的下から攻めやすい地形です。上面東部の南部にある石塔に銃弾の痕跡がないのは、敵が北から攻めてきたことを示すのではないかと思います。