西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

竹田市鏡東部の戦跡

「西南戦地取調書 豊後」に官薩両軍の陣地があると記録のある竹田市鏡の東部に行ってみた。

 問題の部分を拡大してゆく。

 濃い青の三角が薩軍台場、赤が官軍台場である。濁淵川が蛇行して三方を囲った部分に山が一つある。ここから北側にかけて両軍の台場が背中合わせに並んでいる。今回はこれらを確認したい。 

 しかし数年前に自動車専用道が新設され、問題の地域を切り開いて横断しており、もっと早く気付くべきだった。台場跡の可能性があるものを見つけたので作成した図面を原図のまま掲げる。

 上の踏査場所を下図に示す。

 原図が見づらい。上右の地図で破線が通過場所。尾根を断ち割る新道の上をコンクリート橋がつないでいる。それを南に車で渡って、突き当りに駐車し、そこからU字形に急傾斜の路面を登るとそこにあるコンクリート吹付面を登って原地形の尾根にたどり着く。吹付の西側に凝灰岩の20㎝大のものを石垣状に積んでいるようなのが見えたが、草木で明瞭ではない。もしかすると土塁の片面か。下はグーグルマップ3D。山の東部は急斜面で濁淵川に落ち込んでいる。

 なだらかな尾根の水平部分を過ぎて登りきると平面三角の頂上が現れる。頂上は8m×5.5mの平地で、南東側に削り出した地形を確認。規模は東西5.5m、南北4m。台場ならあるはずの土塁部分はないが、頂上から下る稜線の上部にあるので台場だった可能性があるとして図化。背後を削り、前面にその土を移動させたような形。高い方から下側に向けて撮ったのがこれ。

 逆方向の下から撮ったのがこれ。森の様子ぐらいしか伝わらないが。

 頂上の反対側、ここから18m北側に長さ1.7m×1.1mのものあり。東部は少し土塁状で、内側は10㎝くぼむ。鉄棒を突き刺すとさらに25㎝~40㎝床まであることが分かる。規模が小さいので台場跡とは断定できない。東側の急斜面の上にあるので、台場を設けるのに適当な位置である。

 頂上付近には4、5か所鹿の寝床があった。一番明確なものを図示したが長さ130cm,幅110㎝で斜面下方向に掘りのけた腐葉土がたまっており、内側は20㎝弱なだらかに窪む。この山では鹿の糞もあちこちで見かけた。

 ここは地表面は火山灰層であり、川向台場跡のようにすぐに凝灰岩になっている、ということはなかった。

 帰りに新道の南側から北方向を撮ったのがこれ。後で歩いてみたが手入れされてない竹林と杉林だった。この向こう側の山では台場跡は確認できなかった。(※「史部の部」さんが☆を付けてくれるのでついつい踏査をしてしまうし、蛇が出る前に歩いておきたくて最近足しげく山を歩いてしまった。)写真の左下の石橋をくぐって進むと長湯温泉に通じる。途切れているが左端の山には台場跡が6基あり、石橋の向こう側の山の先端にも1基薩軍の台場跡がある。これらは絵図にも載っているが、絵図の方が数が多いようだ。

 絵図には多数の台場が描かれているが、南部の山で可能性のあるものを2基見つけただけで、意外だった。南部ではもうこれ以上見つからないと思うが北部は簡単に見ただけなので、注意深く全体を見たら確認できるかも知れない。