西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

三笠宮崇人親王の帯広視察写真

 帯広で撮られた集合写真に三笠宮が写っているのを実家で見たことがある。高松宮の日記は出版されているが三笠宮の日記がなく、どういう状態で撮影されたものなのか分からないままだったが、「三笠宮崇人親王」が出版されたことを知った。大分県立図書館にはなかったので宮崎県立図書館から借りだしてもらった。読んでみるとこれは高松宮のような日々の詳細な日記本文はみられず、第三者が編集したもので伝記に近いものだった。

 紹介するのは横27.8㎝の写真である。 

    三笠宮崇仁親王伝記刊行委員会2022.12.2「三笠宮崇仁親王吉川弘文館 全1323頁から1944年(昭和19年)8月末から9月の関係部分を掲げる。※引用はpp.391~392 ※は高橋が記入。

 

八月三一日 午前九時四〇分所沢飛行場御発、午後零時半札幌御着。三井倶楽部御泊。(日記)※空路埼玉県所沢から札幌へ。

九月一日 札幌神社御参拝。北部軍司令部、第七七司令部(北海道帝国大学内)他を御視察。この日より四日まで、札幌御滞在、御視察。(日記)

九月四日 午前九時三五分札幌御発、同一一時一七分豊原御着。王子クラブにて御昼食。樺太神社、護国神社を御参拝。この日より六日まで、豊原御滞在、御視察。(日記)※豊原付近に王子クラブ・樺太神社・護国神社があることを見ると、豊原は樺太南部の現ユジノサハリンスクのことである。この日の移動も飛行機移動だった。

九月六日 午前九時

一七分豊原駅御発、午後七時敷香駅御着。王子クラブ御泊。この日より八日まで、敷香御滞在、御視察。(日記)

九月九日 午前八時半内路御発、同一〇時五〇分計根別御着。同一一時二〇分計根別御発、午後零時二〇分帯広御着。藤川温泉ホテル御泊。(日記)※内路は樺太庁敷香郡にあった内路(うちろ。現ガステロ)のこと。内路から計根別までは飛行機移動。

九月一〇日 午前一〇時一五分帯広御発、同一一時一〇分沼ノ端御着。午後二時半室蘭防衛司令部御着、御昼食、状況御聴取。同五時一五分登別グランドホテル御着。(日記)

九月一一日 御視察の後、午後一時半敷生御発、同四時半所沢御着、御帰邸。(日記)

九月一二日 午前九時半、東久邇宮殿下が黒崎貞明陸軍少佐とともに御来邸、御対面。三笠宮殿下は阿南惟幾陸軍大将を教育総監に推薦することに御賛成で、すでに梅津美治郎参謀総長にその旨を話したと御話になる。午後、梨本宮邸に御参。(東)(日記)

九月一三日 明治神宮御参拝。御出勤、北部軍御出張の御報告。大宮御所に御参。御参内、天皇皇后両陛下と御一緒に映画「若き東亜」等を御覧。終わって茶菓を賜る。(昭)(日記)

 

 以上で引用を終わる。三笠宮は陸大卒業後は「若杉参謀」(秘匿名)として南京の支那派遣軍総司令部参謀に赴任、現地の実情に衝撃を受ける。航空総軍参謀として敗戦をむかえたのは、満二九歳のときであった。

 伝記には三笠宮が帯広に行った目的が記されていないが、帰京後の9月13日に「北部軍御出張の御報告」とあるように天皇に陸軍視察の結果を報告している。北部軍とは1940年12月2日に創設され、以下のように1944年3月に第五方面軍の編成により廃止されているので、この場合は第五方面軍とすべきである。

 C13071240800「大本営陸軍統帥記録 昭和21年12月~27年9月」(防衛省防衛研究所蔵)

北方軍の統帥組織を作戦軍的性格に變更するの必要を認め北方軍を第五方面軍と改稱して東部軍との防衛担任地境を概ね津輕海峡とすることに變更し又千島方面防衛の為第二十七軍司令部を新設して第一飛行師団と共に第五方面軍司令官の隷下に入るることとなり乃ち三月中旬大本營は第七師団に動員を下令し第五方面軍、第二十七軍の戦闘序列を令すると共に左の要旨の命令を下達せり(略)

 帯広の写真舘が撮影しているのでこの写真は帯広で撮られたのはほぼ間違いない。前列中央に三笠宮、他に14人が写り、後列に13人が写っている。詳しく調べれば数人は判明するのだろうが、三笠宮の右に第一飛行師団長原田 宇一郎中将がおり、この人は特徴的な顔立ちなので分かった。前列左から二人目が第一飛行師団参謀西村守雄少佐かな?とみられるほか、後列に父が写っている他は判明しない。下に掲げるように第一飛行師団参謀長成田貢大佐の写真が別にあるので、この中に並んでいるはずだが指摘できない。

 下は左半分。背後に迷彩塗装の双発機が写っている。尾翼の紋様は不明。

 次は右半分。

 背後に三枚プロペラの戦闘機が二機写っている。次は成田貢大佐と西村守雄少佐?などが写った1944年8月14日に帯広で撮影したものである。後列右端の山下肇さんが「中央公論」(1995年1127号)に投稿した写真である。

 成田大佐は三笠宮の集合写真に入っているはずだが、これと指摘できない。似たような人が複数いて断定できない。

行 程

 三笠宮の北海道・樺太方面視察の行程図を示す。

 埼玉県所沢から空路札幌に飛び、再び空路で樺太の豊原に移動。そこから北の内路までは鉄道を利用しているが、内路から北海道東部の計根別までは飛行機で移動し、以後は飛行機移動で最終的に所沢に帰着している。樺太で鉄道を使ったのは悪天候で飛行機を利用できなかった可能性がある。豊原と内路には飛行場があったのだから天気が良ければ空路で行ったはずである。

 

 集合写真の背後に写った飛行機は何だろうか。

 左の双発機は操縦席の風防は天井中軸を左右に分けて開閉し、その片側は四分割されている。操縦席と重なる状態で垂直方向に棒が写る。操縦席と垂直尾翼との中間に機銃座らしき半球形の突起物がある。

 エンジンは主翼左右に一基ずつあり、右エンジン部の状態からプロペラは三枚であろう。一枚が下に下がり、一枚が右上に向かっているようにも見える。これは薄すぎて判然としないが。機体尾部は垂直尾翼下端から少し突出し、縦方向に断ち割った形は円形で小さい。機体の側面、主翼の付近には窓はない。機首にはガラス窓がないように見える。後部の車輪を出すときの扉が写っていないので、飛行中には格納しないらしい。

 この双発機の機種についていろいろな写真集で比べてみたが全く同じものは確認できなかった。父の写した第一飛行師団と考えられる別の写真に機首に濃い帯状の塗装をした三枚プロペラ双発機がある(下)。

 同様塗装の飛行機写真がある(「日本軍用機写真総集」月刊「丸」編集部編1970年pp.136)。これは一〇〇式輸送機(キー57)であり、「九七式重爆から発達した三菱輸送機MC-20と同型の陸軍の主力輸送機で日華事変末期から太平洋戦争の全期間を使用され、落下傘部隊輸送機としても使われた。」という。

 

 昭和otaku画報(gahoh.net)というネット情報でよく似た飛行機を見つけた。記述説明がないので想像すると、1937年制式の九七式重爆撃機(三菱キ―21)を改造したものと考えられる。図に見えるように機体尾部に突出しているのは機銃ではないかとみられるが、帯広での写真ではこれを撤去しているようである。九七式重爆撃機を改造したものに1940年制式の一〇〇式輸送機(三菱キ―57)があるが、それは機体末尾に機銃はなく、尖った形である。

 参考までに九七式重爆撃機は下図のような飛行機である。

 尾部の機銃部分の形や垂直尾翼の形等が昭和otaku画報(gahoh.net)のⅡ乙機とそっくりである。ただし、集合写真の双発機は尾部と機体上部の機銃を外しているように見える。また、垂直尾翼に描かれた紋様の意味は不明である。

まとめ

 三笠宮のこの視察は基本的に飛行機を利用していた。帯広の集合写真に写った双発機は九七式重爆撃機を改造した多数の同型飛行機のうちの一機であり、尾翼の紋様の意味するところが分からないので皇族専用機だったのか断定できない。皇族専用機はあったとしても公開していなかったかも知れず、そうであればこの集合写真の背後に写っているのは貴重だろう。2機の戦闘機は陸軍の代表的な戦闘機だった一式戦闘機(隼)のようであり、9月の視察飛行を護衛して行動したのかもしれない。これら3機も視察に関係した飛行機であることを記念して一緒に写したのではないだろうか。

 なお、帯広の自衛隊に勤務していた兄(昭武)によると、集合写真の背後に写る三棟の建物は現存しているとのことである。