西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

竹田市川向の戦跡

 先日竹田市西光寺の北東側背後の凝灰岩丘陵地帯を歩いてみたが、今回はその続きです。時々引用する「戦地取調書」に薩軍の陣地があったと記録があるので確認に行ったわけです。

 絵図で濁淵川が蛇行し南側に突き出ている部分が下の地図の右上部にある屈曲です。その屈曲と竹田市街地との間の山地に濃い青色三角の薩軍台場が描かれています。

 ちょっと見にくい地図だが画面右半分、川の北側に青い破線で示したのが歩いた軌跡。竹田市役所一帯は原地形が削られ、平地が造成されている。平坦地の南西部から山に登り、尾根筋を台場跡を求めて歩いてみた。そして台場跡2基を確認した。山に入った場所から台場跡を確認したところまでは西南戦争当時の地形が残っているのは、人工的な平坦面や削った場所がないので明らかだった。清書する前の図面を掲げる。

 二つの遺構を貫くように巻き尺を張り、直角に1m毎に上端・下端を計測してゆく。等高線は付近で最高所を0mとし(大抵は土塁部上面がそれである)、1mずつ低いところを直角方向に測り、下ってゆく。それを何か所かで行い、線を結ぶ。今回は図の下側は垂直の凝灰岩の崖面になっていたので、崖のそばまで近寄らなかった。崖下には民家があるが、屋根が下の方に見えたので、崖の高さは10mくらいはありそうだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 前後するが、初めに竹田市遠矢に行ってみた。高鼻公園の北側にあり、間に谷を挟んで向かい合う尾根筋にある。高城から東に続く所です。5月20日熊本県高森から進んだ官軍が恵良原えらばる・高城に布陣した際、竹田市街地方向から薩軍が襲撃して結局撃退され下峠という場所不明のところに退却している。下峠がどここにあるのか分からないが高城の東側に標高410mの高い場所があり、ここに台場跡がないか気になったからです。台場跡があればここが下峠と呼ばれたとみられるからです。東側から登り、縦走してもう一つ続きの小さい高まりにも行ってみたが、どちらも何もなし。三角点から写真を撮っただけ。

 三角点から北側を見た状態。九重連山

 南側。宮崎県境の尾根。中景の左部分に桜が一直線に咲いているのが高鼻公園です。遠矢の道の南側の民家で訊いたら「遠矢とは高鼻公園まで弓を射たこと」にちなむということだった。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 再び川向。台場跡があるのは尾根が東西に走る場所で、略図で説明すると1号の東側から登ってきて台場跡を確認した。尾根筋の中軸よりも片側に偏った位置に存在する。土塁部分は通路として踏み均らされていて東半分は小径のようになっている。台場跡全体の長さは4.2m位で、幅は2.1m。内側の窪みは長さ2.1m、幅1.1mで、特異な点は凝灰岩が地表間際まであるので鉄棒を差し込むと本来の床面が確実に分かる。南部の壁は垂直に立ち、凝灰岩のきれいな面が残っている。内側の深さは南側の地面から30㎝くぼむが、鉄棒はさらに70㎝突き刺さる。つまり深さは100㎝あることになる。長い銃を持って二人が入るのは動きにくかったとみられる。

 ここから西側8mにもう一つ窪みがある。土塁状部分はなく、窪みの長さは2.0m、幅は1.1mで、内部は地表から38㎝まで埋まっている。鉄棒を指すとさらに28㎝床面が深いことが分かる。したがって内側の深さは66㎝である。これも凝灰岩に彫り込まれており、規模からみて台場跡である。2号台場跡とする。

 図の南側は崖面であり、続きの南東部は両側が垂直に切り立った幅狭い橋のような地形であり、さらに5m位先では細くなって終わる。図の南側下の方には民家がある。2号のそばに古い壊れたテレビ用のアンテナが二個転がっている。

 川向の台場跡の特徴は小型であること、凝灰岩に掘り込まれているので本来の深さが分かることである。別の報告する竹田市鏡南東部の台場跡かな、とした2号に似た規模である。

 以前、ここから北東の方向にある法師山戦跡の報告をしたときに、周辺の台場跡も掲げているので、今回のも含めいつかまとめておきたい。まだまだ竹田市街のそばに未知の台場跡がありそうなのだが、全く・・・という感じがする。