satsumareb’s diary

これは高橋信武が書いています。

草木藪(くさきやぶ)・杉ヶ越 ※今回紹介する一帯に安易な気持ちで出かけないでください。迷うと危険です。

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 久し振りに台場跡探しに行ったので写真を投稿します。佐伯市宇目の戦跡です。石灰岩・赤いチャート・砂岩のような堆積岩が山砂利のように混じり、踏むと足元が流れる登りにくい山でした。写真の左端が杉ケ越。草木藪では杉ケ越に通じる大分県側のトンネルの真上とその南側に3基の薩軍台場跡がありました。ただし、ここでは戦いはないまま、戦争はおわっています。下の写真はトンネルの北側にある嶺の頂上から西側を撮ったものです。

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 これは明治18年大分県(担当は兵事課)が参謀本部に提出した「明治十年西南ノ役戦地取調書」(高橋蔵)で、参謀本部はこれに表紙を加えて「西南戦地取調書 豐後」としています。市町村が提出した説明文と地図からなり、100頁前後ある貴重な史料です。

 草木藪は薩軍が守った場所として知られてはいたものの具体的にはどこにあるのか不明でしたが、この史料によりおよその場所が判明し、以前あたりを付けて出掛けてみたところ台場跡を1基確認していました。今回は二回目の踏査です。

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 上は部分拡大です。右端にある四王子ヶ嶽とは傾山かなと思います。草木藪の右にある大明神越は杉ヶ越として国土地理院地図に載っている県境の峠です。

杉ヶ越

 簡単な神社が宮崎側をむいて存在し、周りには最大直径4m位のものなどいくつか杉の切り株(下図では橙色で示す)があり、神社は杉を祀ったのが始まりかもしれません。現在はトンネルが真下を通っていて、旧道はトンネルの宮崎側から登ると正面に左右に続く尾根の手前に着き、そこに峠道と神社があります。

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 杉ヶ越の尾根は標高が1000mくらいの所にあり、台場跡が1基、宮崎側を向いて存在します。草木藪と同じくここも実際の戦闘はなかった戦跡ですが、宮崎県と大分県を行き来できる路線であるため、薩軍が守ったり、官軍が守ろうとしたりした場所です。大分側山道は廃道状態です。杉ヶ越の台場跡は何年か前、踏査に行って見つけたものです。神社がなかなか風情ある様子でした。石段が始まる所を横切る小道は傾山の登山道で、トンネルの右傍から登り着いた場所です。

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 右上写真は直径4mの杉の切株。手前に左から右奥に旧道が延びる。神社は切株の向こう側にある。

草木藪 

 次は草木藪です。

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 草木藪の台場跡は写真は撮ったけど、写真だと草木の中にあるので台場跡だと理解できない状態で割愛しようかと思ったけど、ましな1枚を掲げます。

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 これは草木藪峠方向を向いた2号台場跡で、北側の尾根筋よりも2mほど高い場所にあります。尾根の中央にあるため長年の間に人や鹿・猪が踏み続けたので土塁部分の中央は土が流れ、内側の窪みも痕跡的ですが、向く方向から考えると尾根の先、峠道はこの先で尾根筋がぐっと下がりきったところを斜めに横断する状態であるのですが、そちらをにらんでいます。この先の急激に下がる手前に1号が西、左向きに造られています。眼下には西からくる山道があり、それを見張る状態です。前回はこの尾根の先が下がる部分を見下ろしただけで引き返したのですが、今回は北側の分布状態を確かめるため、降りてみました。降り着いた本当の垰(たお)部分に左側の杉ヶ越の方から旧道が来て、右斜め前方に下っていく状態でした。垰から北側に登り、頂上に進むと両側は急斜面で狭い状態でした。

 3号はこの写真の背後、左後の高い場所にあり、やや大型の「J」字形です。そこからは急激に尾根が落ち込み、谷底の水音がよく聞き取れました。後で地図を調べたら水平距離で700mの所を西山川が流れていましたが、もっと近いところに地図にない支流の滝があるみたいです。

   「西南戦地取調書 豐後」はポツダム宣言受諾直後に各地の軍関係文書を数日間に焼却した際に心ある人が秘かに持ち出し、巡りめぐって高橋の所に来たのだと思います。戦場になった各県も参謀本部に提出したはずであり、熊本県立図書館には熊本県分の控えが残っているようです。

 薩軍側の記録「二見はやし上申書」『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』pp.851~857に次の記述がある。当時二見は奇兵二十二番右小隊長だった。

  而六月四日吾一中隊延岡ヲ出発豐後地ニ進軍ス、同日熊田駅ニ一泊シ翌日昧旦同所

  出足重岡ニ着ス、爰ニ隊ヲ止メ置キ単身小野々市分営ニ至リ軍議ヲ決シ、重岡ヘ帰

  リ翌払暁ヨリ左小隊ハ三國峠ニ進ム、吾右小隊ノ左半隊ハ半隊長ノ吉野之ヲ率テ宇

  目津越シニ進ンデ彼地ヲ守ル、右半隊ハ吾輩率テ木浦礦山ニ至リ、奇兵壱番和田正

  之丞隊并武田報國隊ト交代シテ、西山・草木山等ノ両所ヲ守ル、鐘掛越ニハ当所農

  兵ヲ以先ヨリ之ヲ守ラシム、敵ハ中津留・高千穂其他諸所ニ在リ、而同月十三日午

  前七時比宇目津越之吾左半隊守ルノ台場ヘ敵二百名余不意ニ襲来、暫時防戦スト雖

  少兵ニシテ終ニ敗走ス、此時兵士世山勝之・片寄傳藏銃瘡ヲ負フ、葛葉村給養宿陣

  ニ敵放火ス、依テ壱里余退軍要害ノ地ニ拠リテ守兵ヲ置キタル由半隊長吉野某ヨリ

  報知達シ、夫ヨリ直ニ横撃ノ敵ヲ禦ノ為笹峠三ケ所ニ胸壁ヲ築キ、西山・草木山ノ

  両所ノ兵ヲ分配シテ之ヲ守ラシム、此時三番一小隊木浦礦山ヘ着ス、依テ所々ニ兵

  ヲ分配シテ共ニ此地ヲ守ル事二三日ヲ過ギテ、三國并旗返シ等相敗レ、小野々市

  営モ最早重岡ニ退営ス、是ニヨツテ木浦礦山ノ守兵方今退軍スベシト右分営ヨリ

  達シ、之レニ随テ直ニ兵ヲ纏メ当所背後ノ大霧峠ヲ越ヘテ下赤村ニ退軍ス、

 草木山とは草木藪のことだと思います。大分県薩軍奇兵隊が侵入したのは5月12日で、それは宮崎県延岡から大分県南部の佐伯市宇目の重岡(誤解されることが多いが、重岡は日豊線重岡駅の場所ではなく、そこより4km西方です)でした。以後、竹田、佐伯、三重、鶴崎臼杵などで暴れまわり、その間、宇目は拠点のようになっていました。

 当時、第一旅団が阿蘇南東側の高千穂方面から延岡に向かって東進中で、これが宇目の薩軍にとって南西側からの脅威となっていました。杉ヶ越・草木山(草木藪)などはそれに対する警戒網でした。この文によると二見隊が守る以前に既に奇兵一番中隊や竹田報国隊が守備を設けていたようです。しかし、6月17日に北東側の旗返峠や三国峠を奪われると草木藪からは撤退し、近くの宮崎県下赤に移動したのです。

 その後、草木藪にはどちらも守備を置かないままに過ぎました。延岡市長井村で官軍に包囲された西郷隆盛桐野利秋等の薩軍は8月18日に延岡市可愛岳を急襲し、19日、可愛岳の西方に向かって逃走し、官軍は行方を探索することになり草木藪が再登場します。

 下記は第二旅団の文書に登場する草木藪です。20日薩軍が鹿川越(二つあるので紛らわしいが)に到着したことを把握した宮水の東、舟の尾の東にある新町に出張していた宮井少尉は薩軍大分県に向かう場合を想定し、草木藪とその西側の三ツ合に警備兵を出すよう進言したが、実現しなかったようです。但し、参謀本部に提出した前掲の地図では官軍が守ったとする記号が記されていますが、この点は検討課題です。

C09080572300「探偵戰鬪報告 明治十年八月十七日ヨリ同廿六日 延岡出張軍團本営」(防衛省防衛研究所蔵)0773

  今朝賊獅子川峠ヲ経テ山浦越或ハ杉ケ越ノ両道ニ向ケ突出シタルヿ確然タリ故ニ木

  浦口草木藪峠ト三ツ合トニ充分ノ兵ヲ出シ警備ヲナシ而シテ宮水ヨリ川ノ詰メニ進

  撃兵ヲ出シ杉ケ越三ツ合ノ両道何レニテモ賊ノ経行セシ方エ向ケ御繰出シ相成度此

  段申進候也

   逐テ西郷桐野別府兄弟村田逸見馬ニテ指揮ス(手負ナレノモ)等ハ何レノモ同道ニテ本

   文ノ通突出シタル趣ナリ且賊ハ竹田ニ出ル趣ニ付三ツ合ヨリ三本松越(堀江中佐カ豊

    後路エ通行シタル道ナリ)ヲ経テ竹田江向ケ御繰出相成候ハヽ都合冝敷ト奉存

    右八月廿一日新町出張宮井少尉ヨリ報告

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 谷を通るよりも尾根を進む方が安全であり、もし薩軍大分県方向に進んだなら草木藪を通ることも十分あり得ることでした。しかし、薩軍大分県方向には進まず、三田井から南に向かいました。