西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 6月の2 

「C0908479800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0319・0320

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:古志山 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時半出水村山上ノ哨處ヲ發シトカメ岡右方賊

  塁ノ正面ニ進軍ス此時☐霧深咫尺ヲ弁セス依テ一齊ニ鯨波ヲ發シ銃槍ヲ

  振ツテ堡内ニ突入ス賊兵大ニ狼狽塁外ニ出テ拒戦ス我兵憤戦猛烈ニ發射

  スルニ依リ遂ニ道ヲ西南ニ取リ潰走ス此ニ於テ北クルヲ逐フテ☐村葉月

  麓ヲ経ヘ堂崎村ニ到リ止戦ス

  我軍総員:八拾人 傷者:下士卒 一   備考我軍※略す

 葉月麓は羽月麓だろう。堂崎は大口街の南南西2.2km付近である。

C09084798900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0321・0322

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍中尉横地 剛㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:トガミ山脉右方  

  戦闘ノ次第概畧:本日午前開戦ニ付昨夜第十二時當線ヲ発シ竊賊塁ニ近

  接ナル森林ニ伏兵シ而期ヲ待リ時ニ暴風実ニ咫尺ヲ辯セス當隊此機ニ乗

  シ吐喊直ニ賊塁ニ突入シ賊ノ堡塁數ヶ所ヲ乗取ル賊狼狽出ル處ヲ失ス當

  隊憤進尾擊終ニ大口ノ近傍善寺塚ニ歩哨線ヲ定ム   

  我軍総員:百十六將校以下百十六名

 

C09084799000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0323・0324

  第三旅團名古屋鎮臺第二聯隊第壱大隊第二中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:鹿児嶋縣薩摩國羽月郷ケナシムタ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時ヨリ鹿児嶋縣薩摩國伊佐郡羽月村ケナシム

  タニ於テ戦ヲ初メ賊ヲ追テソーキ郷シモドノ村至リ命令ニ依リ羽月郷善

  寺塚ニ引揚ケ大哨兵ヲ張ル  我軍総員:將校百十六名  我軍ニ獲ル

  者:銃 元込銃 壱挺 弾薬 ヱンピール銃弾藥壱箱  器械 鑄形并

  刀各壱個宛

  備考敵軍:小銃壱挺刀壱本羽月郷ケナシムタニ於テ得ルヱンピール銃弾

  藥壱箱 鑄形壱個同所ニ於テ得ル   我軍総員:百貳拾参名 

 シモドノ村は下殿村で、羽月川と川内川の合流点の少し北にある。元込銃はスナイドル銃である可能性がある。

C09084799100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0325・0326

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:薩摩国大口郡腰山上 

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時三十分頃岩塚岡ヲ発シ仝第四時頃腰山ノ麓

  ニ至リ雲霧ニ乗シ側面及ヒ正面ヨリ銃鎗突感直ニ山上ノ數壘ヲ陥ル賊敗

  走尾擊シテ終ニ善十塚ノ岡迠占領ス次ニ午前第七時ナリ   

  我軍総員:六拾壱名

 分からない地名ばかりが出てくる。善十塚は善寺塚か。ゼンジ塚がゼンジュ塚と聞こえたのか。

C09084799200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0327・0328

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:十年六月廿日 戦闘地名:観音谷 

  戦闘ノ次第概畧:本日午前一時大哨兵ノ位置出発観音谷ノ山頂ニ達スレ

  ハ東方既ニ白ク我兵ヲシテ右側ニ当ラシム賊ノ弾丸射ルヿ雨ノ如シ我カ

  兵奮擊鼓譟シテ進ム遂ニ賊塁数十ヶ所ヲ拔ク尚オ逃ルヲ遂テ岳南ニ赴ク

  時ニ午前第五時ナリ 

  我軍総員:九十五名

 観音谷とはどこか。

C09084799300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0329・0330

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第四中隊陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:觀音谷 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分各隊賊塁ノ左正面ヨリ侵襲ス賊早ク

  モ之ヲシリ速クニ各隊ニ向テ乱射ス此時我隊第壹半隊ヲ賊塁ノ背後ニ迂

  回セシメ放火壹回直ニ突進ス賊之ヲ知ルヤ大ニ狼狽シ守地ヲ捨テ四方ニ

  散乱シタリ  我軍総員:八十七人

 

 C09084799400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0331・0332

  第三旅團第十聯隊第三大隊第三中隊大尉山村政久㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児縣大口郡土山 

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日午前第三時淵辺村ノ山ヲ出第三時土山ノ敵

  塁ニ向ヒ開戦直チニ臺塲ヲ乗取夫レヨリ間道本庄万出村ニ至リ大哨兵ヲ

  布ケ

  我軍総員:百四拾五人 俘虜:未詳一人 

  備考敵軍:一敵ノ人夫体ノ者壱人ヲ縛ス直チニ本営エ送ル

 土山と本庄万出村が場所不明。我軍備考は薄くて読めない 傷者下士卒も薄くて読めない。

C09084799500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0333・0334

  明治十年六月廿二日歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長第三旅団陸軍大尉

  安満伸愛㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:大口 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分ソンダ山ノ賊ヲ打拂ヒ続テ河邊ノ賊

  壘数多ヲ取リ尚進テ大口本道守賊ノ左翼ヲ猛擊ス彼敗兵ヲ留メ必死ノ形

  勢ニ移リシト𧈧豈ニ保ツ可ンヤ遂ニ又敗ス尾撃シテ大口旧城ニ到リ兵ヲ

  留ム再攻撃ノ命ニ依リ進テケ子山ニ到ル爰ニ於テ固守ノ命ヲ拝シ大哨ヲ

  布ケリ   我軍総員:八十七人 

  我軍備考:一死傷異情ナシ 一糧十四俵花北村ニ於テ獲タリ 

  一此日費ス所ノ弾数三千八百発ナリ

 ソンダ山は羽月川右岸の園田村背後の山という意味である。ケ子山は、かね山と読むかも知れない。大口町の東側に金山があったということか。付近の菱刈金山は1981年発見である。

 戦闘報告表ではこの日、花北山で安満大尉が薩軍所持の白米と玄米を分捕っており、23日までに厚東中佐に届け出ている。

C09084912200第二号 自五月至六月 來翰綴 第三旅團参謀部 

  去ル廿日攻撃之際賊徒所事之白米拾俵玄米四表分捕候旨安満大尉ゟ届出

  候間即大口村出張糧食分配處ヘ引渡方可取斗旨該隊ヘ相達置候間此段御

  届ニ及置候也

    六月廿三日厚東陸軍中佐

     第三旅本營

         御中

 それらを官軍が消費したかどうかは分からない。

C09084799600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0335・0336

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊附属同聯隊第貳大隊第四中隊一

  小隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:大田村 

  戦闘ノ次第概畧:此日攻撃隊トナリ午前第二時小木原村砲台エ整列直ニ

  對向ノ地エ散布俄カニ急進突戦ノ譜合ヲ吹奏シ正面左右トガメガ丘左ノ

  諸塁瞬間ニ乗取續テ連突セシ折賊ノ背后ヲ絶ツナランカ正面左ヘ突出シ

  タリ依テ我軍一時混乱ヲ醸シ甚戦ナレ共肉薄是ヲ攻メタリ賊手ノ舞ヒ

  足ノ踏處不覺シテ散乱敗走北クルヲ逐テ大口街ヲ經テ花北山々上マテ追

  撃止陣シタ   我軍総員:三拾八名

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 上図は南報告に出ている地名を示したものである。小木原村を出発し大田で羽月川を渡り、鳥神岡の麓で戦ったのだろう。この朝、鳥神岡の麓の丘陵、ソンダ山で戦った別の隊の報告もあるので、南隊も同所で戦ったのだろう。その後大口街を通り抜けて花北山で留まっている。花北は平野部にあり、付近の山に登って守備したのだろう。具体的にはどこであるかは不明。図の下部には辺見十郎太の涙松跡がある。ウィキペディイアから説明文を引用する。「明治10年6月20日、西南戦争の高熊山の戦いで敗走した辺見は、現在の鹿児島県伊佐市菱刈市山にあった松並木で馬を止め「死を堵して固守すること四句余の山塁、いまこの要害の地 (高熊山)を糞鎮(政府軍)に奪わる。あぁ、吾が事終った。今は鹿児島に帰って死に就かんのみである。」と嘆き、涙を流したと伝えられている。」 南隊は前もそうだったが報告を二種類作成している。

C09084799700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0337・0338

  第三旅團歩兵第八聯隊第壱大隊第三中隊 中隊長 大尉南 小四郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:大田村 

  戦闘ノ次第概畧:此日攻撃隊トナリ午前第二時小木原村砲台エ整列直ニ

  對向ノ地エ散布俄カニ急進突戦ノ譜合ヲ吹奏シ正面左右トガメガ丘左ノ

  諸塁瞬間ニ乗取續テ連突セシ折賊ノ背后ヲ絶ツナランカ正面左ヘ突出シ

  タリ依テ我軍一時混乱ヲ醸シ甚戦ナレ共肉薄是ヲ攻メタリ賊手ノ舞ヒ

  足ノ踏處不覺シテ散乱敗走北クルヲ逐テ大口街ヲ經テ花北山々上マテ追

  撃止陣シタリ   我軍総員:九拾三名 傷者:下士卒壱名

 対向の地は羽月川の対岸らしい。淵辺や園田の集落がある辺りか。人数が異なるだけである。

C09084799800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0339・0340

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第四中隊長心得 中尉岡 煥之㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣下小木原村前方 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時援隊トシテ小木原邨ヲ発シ本道ヨリ進ム然

  ルニ第六時頃本道ノ味方殆ト敗ルヽノ勢アリ依テ古田少佐ノ命アリ援隊

  ヲ道ノ左右ニ配布シ攻撃當方遂ニ賊大口ヲ捨テ走ルニ付又攻線ヲ攻撃

  隊ニ譲リ隊ヲ集メ援隊トナリ☐ヒ本庄ノ下出村☐☐江至リ茲ニ大哨ヲ占

  ム

  我軍総員:百二拾五名  備考:死傷ナシ此日費ス所ノ弾薬五千発

 岡隊は本道を進んだので小木原村から大口中心部に直線的に移動したらしい。本庄ノ下出村は場所不明。小銃弾は平均40発発射している。

C09084799900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0341・0342

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:ソンダ山 

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月廿日午前第三時トカメ丘左方ソンダ山之

  賊塁ニ向ケ攻撃于時大雨且ツ濃霧ニ乗シ潜テ賊ノ左方ニ出テ突然彼カ側

  面ヲ撃ツ賊兵狼狽一時烈シク防戦スト𧈧モ我兵奮進遂ニ賊塁九ヶ所乗取

  彼大ニ敗走逃ルヲ追テ羽月ニ至テ休戦ス此日費ス所ノ弾数凡ソ千二百余

  発   我軍総員:九拾三名

 前にも出てきたが鳥神岡の東側に園田村がある。ソンダ村と聞こえたので漢字が分からず、聞こえたとおりに書いたのだろう。バンバデーラと聞いたら馬場平とは思わないようなものである。昔の発音を標準語化するのが流行っていて、ウエンバイが国指定史跡上野原ウエノハラになったのと同じである。下村隊は一人13発弱の小銃弾を発射しているのでそれ程の激戦ではなかった。

C09084800000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0343・0344

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿兒嶋縣ハツ郡千貫ヶ山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時平泉村ノ防禦線ヲ發シ援隊ニテスワノヽ山

  ニ至ル処第三時先鋒隊開戦ニ付直ニ之レニ応ス暫時ニシテ賊兵ヲ敗走セ

  シム而シテ進ンテスワノヽ山ニ至リ第十一時茲ニ防禦線ヲ占ム

  我軍総員:百三十二 傷者:下士卒一   我軍ニ穫ル者:銃:二 

  器械:刀二

  備考我軍:一傷者一名ハ一等卒根本末吉スワノヽ山ニテ傷ク

  備考敵軍:一銃二挺ハスナイドル 一刀ハ破損物 右スワノヽ山ニテ得ル

 スワノヽ山は場所不明。平泉村つまり平出水村を出発しているので、羽月川の右岸を進んだのだろうか。スワノ前遺跡というのが左岸の坊主石山の南東にあるのを参考までに掲げておきたい。結論は保留する。分捕り品にはスナイドル銃2挺がある。

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C09084800100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0345・0346

  第三旅團大坂鎮臺砲兵第四大隊第一小隊右分隊長 陸軍中尉三宅敏徳㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国大口驛

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時整列同第七時山野村出立直チニ大口ニ進入

  ス敵退去スルニ依テ該地ニ宿陳ス   我軍総員:六拾壱名

  我軍ニ穫ル者:砲:壱門外ニ車臺二輛 銃:小銃三挺 弾薬:大砲彈三

  百三十四個外ニ箱入七個 小銃彈五百外ニ五箱 器械:具足一領 鎗三

  十九本 刀七本 銃劔十二本喇叭三管

 三宅隊は山野村を出発し戦うことなく大口街に直進したようである。分捕った砲弾334個と箱入り7個は5月上旬に山野の戦いで別働第三旅団から分捕ったアームストロング砲弾もあるかも知れない。

C09084800200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0347・0348

  第三旅團第八聯隊第一大隊第二中隊 大尉沖田元康廉㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前一時整列直ニ出発髙熊山下ニ至リ卒ニ令シ賊塁ニ

  達セスンバ発火ヲ禁ス凖備已ニ終テ兵ヲ潜メ山頂ノ賊塁ヲ指シテ攀躋塁

  ヲ巨ル纔カニ五六米突時已ニ三時我全兵大声銃鎗ヲ揮テ突入賊狼狽或ハ

  放火スルモ弾着髙ク或ハ降雨ノ為メ雷管鳴ヲ傳火ヲ得ス漸時ニシテ賊ノ

  三塁ヲ奪フ直ニ廠舎ニ火シ更ニ追テ又数塁ヲ陥ル是ニ於テ兵ヲ半月ニ布

  キ猛烈火擊夜ノ明ルヲ竢ツ天明ケ全山ヲ掠シ猶山下ノ残賊ヲ尾擊シ此夜

  鳥越ノ右側ニ於テ守線ス 

  我軍総員:八十九名 失器械:銃剣 三挺 我軍ニ穫ル者:俘虜:下士

  卒一名 銃:十二挺 弾薬:四箱外大砲弾三個

  備考我軍:〇銃剣三挺髙熊山ニ於テ衝突ノ侭発火ノ砌紛失

  備考敵軍:〇俘虜鹿児嶋士族一佐弥右衛門〇ヱンヒール十挺シニーデル

  二挺〇弾薬ハヱンヒールノミ此銃及ヒ弾薬ト凡テ髙熊山ノ賊塁ニ於テ分

  捕

 午前1時に出発して、高熊山の下に到着して密かに登り、薩軍の台場から5mか6mの近くまで忍び寄り、開戦は午前3時だった。雷管鳴ヲ傳火ヲ得スは「雷管、鳴るを伝うる火を得ず」だろう。この日は雨だったので、金属薬莢実包を使わない前装銃・管打銃は筒先から粉火薬を入れるため、雨に濡れて発火しなかった、ということ。シニーデルはスナイドル。スナイドル銃は金属薬莢を使用し、官軍の多くが装備していた。

C09084800300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0349・0350

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第二中隊長 陸軍大尉福島庸知㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時防禦線ヲ発シ同第三時髙熊山ノ塁壁ヲ襲ヘ

  一時ニ賊兵ヲ追拂ヘ全ク髙熊山ヲ占領テ斥候ヲ出シ賊ヲ追躡シ大口邉ニ

  入ル賊退キ去ル 

  我軍総員:九十五 傷者:下士卒 三 我軍ニ穫ル者:銃 十二

 午前2時に防禦線を出発し、午前3時に高熊山を攻撃している。攻撃が3時からというのは直前の沖田報告と同じである。一気に片が付いた。

C09084800400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0351・0352

  第三旅團工兵第二大隊第一小隊第二分隊陸軍少尉横地重直㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時塹溝造築ノ爲メ髙熊山ノ麓ヲ発シ頂上ニ登

  レバ賊等敗走スルヿ数里漸ク進テ大口村ヲ過キ馬越街道ナル田中村ニ至

  レバ既ニ☐☐テ本夜同村ノ民家ニ宿陣ス  我軍総員:拾九名

 高熊山の戦いが始まった時間の午前3時に麓を出発し、頂上に到着したときには薩軍(熊本隊)は数里も先に敗走していた。それで築造作業はせず馬越街道の田中村に宿陣している。

C09084800500 「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0353・0354

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊中隊長代理中尉松田是友㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時三十分髙熊山出発嶮ヲ不厭山上ノ賊塁ヲ攻

  撃我隊ヲシテ先鋒賊ヲ突刺候処賊アハテサヽユル者ナク敗走及依テナ

  ンナク数塁ヲ攻落シ右小隊ヲシテ走賊ヲ遂擊ス左小隊ヲシテ山ノ口山辺

  ノ賊ヲ追打数塁ヲ落シ入夫ゟ馬越山ヘ防禦線ヲ定   

  我軍総員:九十八名 我軍ニ穫ル者:俘虜:未詳 一名

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 山ノ口は坊主石山の南東側麓の村であり、その名で呼ばれた山は坊主石山の南西部分か、もしくは村の東側の山だろう。その後進んだ馬越街道の路線は分からないが、中世の馬越城跡が上図左下にある。付近の山が馬越山だろうか。

C09084800600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0355・0356

  第三旅團近衛歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊中隊長陸軍大尉竹田實行㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日髙熊山攻撃ノ為メ午前第二時大哨兵ヲ発シ

  同山左ノ麓ニ兵ヲ散布シ第三時銃鎗進撃シテ山上ノ賊塁ヲ乗取リ爰ニ防

  禦ノ凖備ヲナシ夫ヨリ馬越街道稲荷山ニ進軍シテ大哨兵ノ凖備ヲナス 

  我軍総員:百三拾八名 傷者:下士卒壱名 

  我軍ニ穫ル者:銃:ヱンヒール短銃 二挺 弾薬:仝 五百発入 壱箱

 稲荷山は他の戦闘報告表にも出てくる。馬越城跡の東か北東だろう。

C09084800700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0357・0358

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第一中隊長陸軍大尉斎藤徳明㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時髙熊山防禦線出発同第三時攻擊隊ノ進ヲ見

  直ニ髙熊山ニ攀登シ一分隊ヲ以テ斥候出シ后チ一半隊ヲ攻擊隊ノ援隊ニ

  発遣セシメ賊兵ヲ長駆シテ徳兵衛村ノ臺ニ防禦線ヲ定メ守備ス  

  我軍総員:百拾四名 

  我軍ニ穫ル者:ヱンヒール銃二挺 スナイドル銃 壱挺

  備考敵軍:午前第二時出発髙熊山麓森林中ニ兵ヲ潜伏セシメ同第三時攻

  擊隊ノ進ヲ見直ニ兵ヲ二分シ一ハ髙熊山横面堡壘ノ右翼ニ進ミ一ハ左翼

  ニ進ミ山ニ攀登シ直ニ散兵ニ配布シ一分隊ヲ以テ山下ノ村落ニ斥候ヲ出

  セシ時賊ノ敗兵返テ我カ兵ニ抗ス故ニ戦フ須臾ナリ又一半隊ヲ出シ攻撃

  隊ノ援隊タラシメ遂ニ進テ徳兵衛村ノ臺防禦線ヲ定メ守備ス

 徳兵衛村は場所不明だが、伊佐市役所の南東約5,6kmに徳辺(とくべ)がある。 

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C09084800800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0359・0360

  第三旅團砲兵第四大隊第壹小隊分隊長 陸軍少尉居藤髙次郎㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:髙熊山

  戦闘ノ次第概畧:朝第二時半山野村出発鳶ノ巣岡ニ向ケ進ミ髙熊山ヲ超

  過シ小苗代村ニ繰込馬越臺ニ至テ数十個ノ塹溝ヲ築キ夜第十二時重冨村

  ニ引揚ク 我軍総員:拾五名

 重冨村は徳辺から2kmほど高熊山寄りにある。小苗代村は地図には載っていない。検索すると「薩摩旧跡巡礼」というブログに「今回は伊佐市菱刈市山にある小苗代薬師堂跡です。十三世紀頃には存在していたという、歴史ある薬師堂であったそうです。」という記事を見つけた。今は松原神社といい、辺見十郎太の涙松跡から南東200ⅿ付近にある。当時その村名が存在したかどうかは兎も角、戦闘報告表ではこの辺りを小苗代村と呼んだのである。

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C09084800900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0361・0362

  第三旅團工兵第二大隊第壱小隊第一分隊 陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:鹿児嶋縣於大口郡小木原村

  戦闘ノ次第概畧:大口丑山小木原村防禦線ヲ固守シ遂ニ進テ孫子下村ニ

  達シ同所大哨兵線ニ守備ス 我軍総員:五十三人 

  備考我軍:当小隊ノ内徒歩編製ノ隊

  丑山は牛尾の山、工兵隊だから攻撃には参加せず、小木原村の防禦線にいて、その後、馬越村で大哨兵の守備についている。孫子下村はマゴシ村、あるいはマゴシタ村つまり馬越村のこと。

C09084801000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0363・0364

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊 陸軍少尉小倉信恭㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡栗山村

  戦闘ノ次第概畧:六月廿日午前第二時三十分左翼開戦スルヤ我隊栗山ノ

  賊塁ニ對戦シ同所賊壘ヲ乗取リ左翼賊軍ノ火ノ挙ルヲ見ルヤ一層猛烈ニ

  進入スル処賊遂ニ悉ク胸壁ヲ棄テ隣奔リ之ニ乗シ里村迠追撃ス然レノモ同

  所ニ於テ賊戦シ勢ヒ盛ナリ故ニ苦戦ニ及ヒ我兵稍退歩シテ猛射スレバ賊

  終ニ大敗シ奔リ稲荷山迠尾撃シ仙臺川ヲ隔テ茲ニ大哨兵ヲ張ル 

  我軍総員:百八人 傷者:將校二人 下士卒四人 

  我軍ニ穫ル者:銃 和銃三挺 備考我軍:※傷者名を略す

 栗山は不明。これも園田村がソンダ村と表記されたように郡山のことかも知れない。南隊報告0335部分に掲げた地図に郡山を示した。高熊山の南西で、小木原村の南東側に位置する。コオリ山がコリ山とかクリ山に聞こえたので栗山と書いたのだろう。栗山を奪った後に進んだ里村は郡山から水田地帯を1.7㎞南下した所、大口の町の中心の西部、羽月川沿いにあり地理上の関係は矛盾しない。

 仙臺川は東流して大口中心部から南西4,6km付近で羽月川に合流する川内川のことである。稲荷山がまた出てきたが、記述から川内川の手前、大口側にあると分かる。

C09084801100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0365・0366

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長代理 陸軍中尉中村 覺㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:高隈山

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第二時三十分髙熊山ノ麓ニ向テ進撃同シク第

  三時開戦忽チ大喊ヲ作ツテ賊塁ニ驅ケ入ル賊皆ナ支スシテ走ル尾擊シテ

  大口ノ臺ニ至ル頃賊又返リ戦フ此時我兵ヲ左ニ大迂廻セシメテ賊ノ側面

  ヲ撃ツ賊畢ニ死体ヲ棄テ走ル追撃シテ「マゴシ」ノ臺ニ至ル戦止ム時ニ

  午后第四時三十分頃也費ス処ノ弾丸大七千發

  我軍総員:将校以下百三拾貳名 死者:将校一 下士卒一 

  傷者:下士 一 我軍ニ穫ル者:銃 火縄銃一挺及ヒ刀三本 

  備考我軍:※死傷者名を略す

 小銃弾は一人平均53発を使用している。

C09084801200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0367・0368

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊等陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:十年六月廿日 戦闘地名:薩摩国大口村城山

  戦闘ノ次第概畧:午前四時大口進撃援隊トシテ進軍髙熊山ノ左翼前方ニ

  テ開戦直チニ城山ヲ落シ入レ大口村ニ進入續テ馬越村ノ上ノ山ニ追撃ス 

  我軍総員:百二十五名 死者:下士卒一名 傷者:下士卒一名 

  敵軍総員:二百人余 死者:三名斗 傷者:不詳 

  我軍ニ穫ル者:弾薬 若干 糧 二十四俵 備考

  我軍:傷者一名二等兵卒☐原熊吉也午前四時頃開戦大口ヲ落シ入レ同十

  二時頃馬越村ノ山上迠追撃防禦線ヲ同所ニ着ク 

  備考敵軍:死傷若干見請ルト𧈧モ助ケ去二三名戦地ニ死体ヲ残セリ 

  一弾薬若干ハ破捨セリ 一粮米ハ粮食課ニ送ル

 弘中隊は18日の報告では鳥神岡を占領し守備していたので、高熊山の左翼前方で開戦とい意味は敵にとっての左翼、羽月川の右岸ではないか。その後。川を渡って大口町に進んだのだろう。伊佐市(大口)中心部、市街地に接して北西部に大口城跡がある。これが城山だろう。

C09084801300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0369・0370

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊 陸軍大尉本城幾馬㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡大口町

  戦闘ノ次第概畧:六月二十日午前二時開戦仝午后三時ニ至ル

  我軍総員:八十七名 死者:下士卒一 傷者:下士卒五 我軍ニ穫ル者

  :俘虜 下士卒一 備考我軍:明治十年六月二十日午前第三時小野木原

  ノ大哨兵ヲ引拂シ大口ニ向ヒ進撃仝第三時半發戦直ニ胸壁數十ヲ乗取リ

  大口村迠追撃同處ニ於テ賊俄ニ拔刀突入一時苦戰終ニ討拂ヒ尚尾撃スル

  叓三里余已ニ馬川内村ニ至ル時賊遠ク迯ケ去ルヲ以テ同所ニ於テ大哨兵

  ヲ布ク此時彈藥壱万発ヲ放ツ傷者伍長田邉正則仝下村保輔兵卒中嶌捨治

  郎川口與吉坂本留吉死者兵卒嶌田辯藏

  我軍ニ穫ル者:器械:大砲玉七拾五個 小銃玉壱箱 鉛壱俵 劔八本 

  糧:米貳拾弐俵

  小野木原は小木原だろう。馬川内村はウマゴシ村、つまり馬越村である。中世の馬越城跡を北側背後にもつ集落が馬越村だろうか。小銃弾は一人平均115発を使用している。普通は百発所持していたので、補給を受けなければ危険な状態になっただろう。

C09084801400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0371・0372

  第三旅團歩兵第拾貳聯隊第貳大隊第二中隊長陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:十年六月二十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡大口町

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時鳶巣ヲ出発シ二時四十分髙熊山下ニ至テ隠

  匿シ三時五拾分開戦即時臺塲畧取直ニ進撃午后第四時馬越ニ至テ防禦ス

  我軍総員:百四十二名 備考我軍:傷者壱名ハ二等卒淺井忠次放ツ所ノ

  弾数四千五百發  

 鳶巣丘を午前2時に出発し、40分かかって高熊山の下に到着し、3時50分に開戦したという。他の隊は3時に攻撃を始めたのとは異なる。一人31発強の銃弾を発射。

 以上、第三旅団の記録である。

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 字が小さくて見づらいかも知れない。最上段が時間、赤い部分が戦闘を表す。戦闘はほぼ午前3時に開始され継続時間は分からない。

    次は別働第二旅団の記録を見ておきたい。20日時点で黒萩山・弁天山・坊主石山とその東側の尾根を占拠していた同団は引き続き戦闘に参加しており、報告を残している。最初は三好少佐が高島少佐に提出した報告である。

C09086075000「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1251・1252

  六月廿日第三旅團ト戮力髙隈山攻撃ノ命ヲ被ル其方向並ニ人員前日ノ如

  シ午前第二時三十分雨ヲ冒シテ黒矧山ヲ降リ山下ニ潜伏ス拂暁戦端開ク

  聲ヲ聞キ山畑村ヲ経テ進ム山頂ノ賊塁已ニ陥リ山腹ノ賊モ亦随テ潰走セ

  リ進テ木ノ内村ニ至ル時ニ青木越ノ山脈ニ拠ル処ノ賊髙隈山ノ陥ヲ見テ

  退テ爰ニ至リ我兵ノ進ムニ會ヒ左方ヨリ射撃ス我兵之ニ應シテ火戦ス暫

  時ニシテ賊敗走ス於第三旅團ノ左翼ト連絡シ戦且ツ進テ遂ニ大口

  ニ入リ尚進擊スル叓二里余ニシテ兵ヲ収テ大口ニ還ル此日死傷ナシ

    右戦状報告仕候也

           遊撃歩兵第壱大隊長

     十年六月廿七日  陸軍少佐三好成行

      陸軍少佐高島信茂殿

 18日と同じく山畑村経由で高熊山に進んでおり、「山頂ノ賊塁已ニ陥リ山腹ノ賊モ」とあるように山頂と山腹に敵塁があったという。木ノ氏村まで進んだときに黒萩山背後の熊本県境の青木越にいた薩軍が高熊山が官軍に奪われたことに気づき、退却してくるのに遭遇し、若干銃撃戦となった。彼らはその後、山間を抜けて大口北部に逃走したのだろう。三好等は大口中心部を過ぎて進撃したが、中心部に引き返している。

 次は部下の第28中隊長井野大尉の報告である。    

C09086074800「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1253・1254

  昨十九日午后ヨリ弁天山哨処江出張シタルニ今廿日第三旅團兵高熊山ノ

  賊ヲ撃破シ續テ進撃ノ景况ニ付預テ命令ノ如ク直ニ兵ヲ率テ大口村ヘ進

  入シタルニ最早賊兵遠ク退却スルヲ以テ大口村ニ兵ヲ止ム

    本日ノ景况ノ通ニ候間間此段御届申候也

            第廿八中隊長

    本年六月廿日   陸軍大尉井野好脩

 

     陸軍少佐三好成行殿

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 第28中隊は19日午後から弁天山の配置に付いており、20日は高熊山が陥落した後に大口町まで進んでいる。

 次は第30中隊平井少尉の報告である。

C09086074800「ト第十二号 戰時報告 別二第五方面游撃歩兵第一大隊」1255・1256

  六月廿日午前第三時半頃第三旅團ヨリ高隈山ニ登リ山頂ニ戦フヲ見當隊

  ハ第三旅團ニ應援トシテ右山下ヨリ進擊スヘキ命ヲ受ケ同山下ニ至ルニ

  賊兵既ニ敗走セリ故ニ進ンテ木ノ内村ニ至ル頃賊兵我左ヨリ襲来ス因テ

  我迎ヱ戦フ事僅カニシテ賊退ケリ此ニ於テ我兵ハ右側面行進ニテ射撃シ

  ツヽ大口(※旧城?)ノ左側ニ沿ヒ第三旅團先鋒兵ト連絡シ終ニ市山村

  ノ向ヒ川迠達シ同地ニ止リ(ア)ル内進テ第三旅團ノ兵員我カ方ニ増加

  シ来ルニ付其隊引卒ノ中尾少尉ニ同地ヲ托シ置キ大口迠引揚ケ罷帰リ候

  間此段御届候也

    本年六月廿四日

              第三十中隊長心得

               陸軍少尉平井信義

      陸軍少佐三好成行殿

 第30中隊はおそらく黒萩山から出発し、木ノ氏村まで来たとき左側から攻撃されたというが、敵は青木越を退却してきた薩軍だと考えられる。少し谷奥の山畑村で第28中隊がその敵に遭遇しているからである。市山村ノ向ヒ川、つまり市山村の向かい側は小苗代村とされた場所であろう。

 別働第二旅団の記録で珍しいのは、青木越を退去してきた薩軍と山畑村や木ノ氏村で交戦した記録の存在である。この件に関し「戰記稿」は、

  別働第二旅團ノ兵ハ木之氏村近傍ノ賊ヲ擊チ悉ク之ヲ敗リ遂ニ進テ大口

  ニ入リ猶ホ尾擊スルヿ二里餘ニシテ大口ニ歸ル 

とあるだけで、交戦した相手が青木越から退却してきた薩軍だったことについて触れていない。別働第二旅団にとってその他は大した戦いのない日だった。

 官軍側の記録を見てきたので次に薩肥軍の記録を簡単に見ておこう。「薩南血涙史」によると高熊山は熊本隊の三番隊(佐々)・四番隊(深野)が守っていたが、6月18日まだ暗い朝霧の中を第三旅団が襲撃してきた。予め準備していた石を投げたり、射撃して官軍を退けている。左翼(干城一番中隊隊長伊集院権右衛門)も激戦で、応援に駆け付けた協同隊と辺見が派遣した一隊が官軍を撃退した。この左翼というのは、高熊山部分の左翼ではなく平地部での戦いだったと上記の戦闘報告表類の存在から考えられる。

 高熊山を守っていた熊本三番隊長による戦状記録は佐々友房「戰袍日記」に記載がある。

  十八日敵軍暁霧ニ乗シ大喊シテ髙熊山ノ胸壁ニ迫ル勢風雨ノ如シ沼田能

  勢等防戰最モ力ム余時ニ左小隊、以テ山下ノ人家ニ休憩ス急ヲ聞キ馳セ

  上レハ戰方ニ酣ナリ乃チ沼田等ト衆ヲ皷シ奮戰ス此山三面壁立一面稍

  々陵夷、而シテ巨石縦横、壘下ニ錯峙ス此時霧益々深ク咫尺ヲ辯セス敵

  兵之ヲ時トシ石間ヨリ射擊殊ニ甚シ距離僅ニ五六間ニ過キス是ニ於テ主

  旗雲生嶽等數人ニ命シ豫メ備フル所ノ巨石ヲ投下ス敵兵壓死スル者甚タ

  多シ能勢自ラ巨石ヲ轉シ敵丸ノ爲メニ股ヲ貫カレ仆ル衆之ヲ扶ケ去ル時

  ニ狂風驟ニ至リ濃霧忽チ散ス敵兵面貌鮮明、逡巡退去セントス我兵氣ヲ

  得テ石丸交々發ス敵軍死屍銃器ヲ棄テ遂ニ大ニ敗走ス此役半隊長能勢運

  雄、分隊長中林駒八、長安田義虎、兵士村上又熊以下傷者六人、岩間

  隊死二人、傷三四人ニ過ギズ既ニ乄敵ノ別軍、坊主石山ヲ攻ム伊集院之

  ニ死ス餘衆壘ヲ捨テヽ走ル敵軍奮進、坊主石山ヲ占領シ更ニ進テ大口ニ

  迫ラントス我兵危ミ謂フ此山獨リ敵中ニ突出セルヲ如何セン此時池邊氏

  来テ監督ス石ニ踞シ烟ヲ吹キ泰然トシテ動カス衆頼テ以テ安シ暫アツテ

  薩兵數百、大口山上ヨリ坊主石山ニ向テ疾驅シ以テ敵軍ヲ擊破シ山ヲ越

  ヘ谷ヲ渡リ北ルヲ逐フ數丁然レトモ坊主石山終ニ復スル能ハズ(略)十九

  日前八時髙熊山ノ力攻ス可ラスヲ察シ戰略ヲ一變シ坊主石山ノ半腹、及

  正面ノ丘陵、並ニ本道等ノ數處ニ於テ礟臺九個ヲ築キ山ヲ環リ一齊亂發、

  殆ト虚時ナシ四斤砲、野戰砲、山砲ノ數種アリ而乄破裂彈アリ實彈アリ

  着發彈アリ宛モ萬雷ノ頭上ヨリ堕落スルカ如シ此ノ如キ者盡日、胸壁

  四、爲ニ壊ル而シテ我隊一礟ナク徒ニ壘中石間ニ潜伏シ時ニ小銃ヲ以テ

  相應スルノミ其苦知ル可キナリ日暮ニ至テ止ム此日、敵費ス所ノ礟彈ヲ

  推算スレハ蓋シ七八百個ニ下ラサル可シ而シテ深野隊ノ兵士岩﨑谷藏ヲ

  除クノ外、滿山又一人ノ死傷ナシ衆戯テ曰ク岩﨑一命以テ數千金ニ値ル

  亦以テ死ス可キノミト此時ニ方テ彈藥空乏復一凾ナシ深野隊幹事財津永

  記来リ議シテ曰ク守ルニ彈藥ナク寧ロ去ルニ如カス余聽カス曰ク此山ハ

  大口ノ保障タリ决シテ撤ス可ラスト因テ議ス明旦復今日ノ如クンバ恐ク

  ハ支ヘ難カラン夜ニ乘シ山上ニ隧道ヲ開鑿シ以テ礟彈ヲ避ク可シト乃チ

  人夫數十人ヲ雇ヒ之ヲ堀ラシム余沼田、筑紫及深野隊ノ半隊長大西彌太

  郎、同分隊長内海善九郎等ト薫督深更ニ至ル更ニ人ヲシテ代督セシメ營

  内ニ寝ス幾モナク礟聲耳ヲ穿チ驚キ起テバ敵兵方ニ諸壘ヲ占取シ飛丸雨

  集ス余慙憤之ヲ復セント欲ス而シテ深夜闇黒、一軍散亂、収拾ス可ラス

  終ニ引キ去ル危巌壁立、歩ス可ラス木根ヲ捫シ岩角ヲ縋シテ下ル敵敢テ

  追ハス木内村ヲ過キ一丘陵ニ登呼子笛ヲ吹ク敗兵盡ク聚ル率子皆完人

  ナシ(銃劔創ニ係ル者兩三人ニ過キス餘皆山谷ニ陷リ巌稜ニ觸レタル

  ナリ)半隊長安岡競、伍長佐藤嘉津馬終ニ至ラス蓋シ二人刀ヲ揮ヒ奮戰

  遂ニ之ニ死セリト云フ此時天漸ク明ケ大雨驟ニ至ル敵兵随テ進ム會々北

  村部下ヲ率ヰ来リ余ニ代リ殿シテ退大口町ニ抵ル比、四方ノ敗兵麑集

  ス而シテ左翼平泉、渕邊方面亦先ツ敗レタリト云フ是ニ於テ邊見大ニ怒

  リ馬ニ跨リ大呼叱咤ス敗兵風靡返戰ス池邊氏亦自ラ本道ニ出テ衆ヲ麾キ

  返戰セシム山﨑氏及友成周旋甚タ勤ム余北村ト兵ヲ合セ右翼ノ髙阜ヨ

  リ返戰ス敵兵支ヘス敗走ス北クルヲ遂フ數丁、余小丘ニ佇立シ槍ヲ杖キ

  衆ヲ指揮ス敵丸来テ右手及右腹ヲ傷ク流血淋漓タリ伍長增見直丈馳セ来

  テ余ヲ扶ケ行カントス沼田、筑紫二人ヲ呼ヒ部下ヲ托乄去ル庄川ニ抵

  ル敗兵爭ヒ濟リ殆ト舟中ノ指掬ス可キノ概アリ遂ニ横川病院ニ抵ル蓋シ

  皆微創ナリ暫アツテ友成、竹内及牧柴隊幹事中村信雄、北村隊小隊長間

  部武雄深野分隊長福田新九郎以下重創ヲ被リ至ル此役、惣軍死傷無慮

  數十人、熊本隊最モ多シト云

 18日、薩肥軍が大きな石を投げ落として官軍を苦しめたことは官軍側の記録と一致する。巨石を投下した一人、主旗雲生嶽は力士である。官軍兵士は五、六間(10m強)の距離に迫り、岩の陰から射撃している。前に見たように、スナイドル薬莢が同じ状態で、熊本隊の台場から見たら蔭の側から出土している。

 19日、坊主石山は別働第二旅団に奪われ、黒萩山に四斤砲2門・ブロードウエル砲2門、坊主石山に四斤砲2門の大砲を置いて高熊山を砲撃している。また、その西側では第三旅団が四斤砲8門で高熊山を砲撃している。佐々の記述では、砲弾は破裂彈(空中で爆発する砲弾で、火薬を詰めた榴弾と火薬と鉛玉を詰めた榴散弾とがあり、形が微妙に異なる)・實彈(アームストロング砲弾には榴弾と内部も鉄製で破裂しない実弾があるが、高熊山砲撃にこの砲は使われなかった。別働第二旅団が装備したブロードウエル砲弾は頭部に信管が付いていて内部に火薬が詰まっていたので、単なる鉄塊ではない。【山本達也2018「西南戦争の弾薬-火砲弾薬編-」】)・着發彈(破裂弾とは信管だけが異なり、衝突すると爆発する)があったとあるが、実弾の存在は勘違いだろう。破裂弾が空中で爆発せずに直接命中し、破裂しないものがあったのかも知れない。

 19日官軍が使用した砲弾は7,8百個というのは砲撃音を数えたのだろう。別働第二旅団戦記は17~19日の三日間に280余弾を発射したと記すので、第三旅団は470発前後だろう(750-280=470)。発掘調査では3点の四斤砲弾片が報告されている湯葉﨑2021)

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 実際に使われた砲弾や銃弾・薬莢は出土した数よりもはるかに多かったが、それらはどうなったのだろうか。多数が発見できたなら、もっと具体的に戦闘を復元できる筈だが、長年の採集・盗掘がこういう所にも影響を残している。

 報告書では各戦跡の位置を次の図のように想定している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 報告書の結論にとらわれることなく、戦跡の位置を考えてみたい。先に当時の高熊山・芝立山・坊主石山などの一枚の地図、「大口攻撃之記」にあるものを掲げたが、それらが実際はどこに該当するのだろうか。下図では「大口攻撃之記」地図の山の輪郭を伸縮しつつ現在の地図に重ねてみた。

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 下図が想定する各山の位置である。

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 芝立山から坊主石山と東側の山地は二又鍬、あるいは古代中国の貨布のような形をしている。南西側から芝立山に向かって谷が入り込んでいるのは、現在の地図とよく符合する。高熊山と坊主石山の間には木ノ氏から人吉の田野に通じる田野越道があるとされているが、これも屈曲状態が符号する。現状と異なる点は高熊山がやや西側にある点と、黒萩山の山地が現状よりも幅広いことである。しかし、芝立山に向かって入り込んだ谷が符合する点や黒萩山と高熊山の位置関係はこれ以外に考えられない。第三旅団の戦闘報告表を検討した際、斎藤隊が金山岡出発險ヲ越ヘ閑行シテ髙熊山ノ麓ニ至リ兵ヲ部署シたり、松田隊が金岡山ニ兵ヲ潜伏セシメ同十八日午前第零時十五分仝地出発仝第三時三十分髙熊山賊塁凡十米突ヲ隔テ敵ヲ発見シ直ニ開戦したりしているのを見ると、「大口攻撃之記」で高熊山とされている一つの山塊全部を高熊山と考えるべきであろう。発掘調査報告のようにその端っこの方に黒萩山を想定するのは難しい。齋藤隊などの報告に黒萩山を経由したと記してないということは、その進路に黒萩山がないということである。もう一度、斎藤隊の進路を掲げる。

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 上図のように齋藤隊の進路には黒萩山はなかったと考えられるのである。高熊山や坊主石山・柴立山などの周辺でもっと広く戦跡分布状態を調べれば、ここに想定した場所に台場跡が確認できるのではないだろうか。どちらを向いているかとか、どこに分布するかとかから以上の推定は裏付けられるかも知れない。

 ところで、高熊山では「薩南血涙史」や佐々が言うように頂上だけに守兵が置かれていたのではない。

  我軍一番・三番・四番・五番中隊高隈山ヲ守ル、其三番・四番ノ如キハ

  其頂上ニ在リ、厳然動カス、而テ敵前岡ニアリ、翼暁大霧ニ乗シ来リ侵

  ス、

 翌暁とは18日だろう。前の岡に敵がいるというのは、金岡山や黒萩山の官軍だろう。続きを掲げる。

  我小隊長沼田常雄蹶起シテ曰ク、敵来レリ、汝等何ソ怠タレルヤ、大ニ

  叫テ兵士ヲ指揮ス、分隊長高橋長秋・加々山克已然能力ム、劇戦数刻弾

  薬頓ニ尽ク、敵殆ント塁壁ヲ奪ハントス、援兵偶至ル、兵気復振フ、即

  チ大石ヲ擲チ吶喊ス、敵多ク死傷ス、乃チ敗レ退ク、其大瘡ヲ蒙リテ退

  ク事ヲ得サルモノ谷間ニ蠢々焉トシテ哀号ノ声聞ニ堪ヘス、此戦我半隊

  長能勢運雄分隊長中村駒八其他五六名瘡ツク、 (「中村信雄外五名(熊本隊)連署戦状上申書」『鹿児島県史料西南戦争第二巻』pp.829~841

 沼田常雄は頂上を守っていた三番隊のようである。頂上傍まで攻め込まれた後、官軍が負傷者を残して背後の小丘に立て籠もったと考えられ、18日夜には高熊山の頂上周辺を守る状態に変化したのだろう。

  十四日、薩肥の軍守備を修め。右翼坊主石山は薩正義中障長伊集院權右

  衛門之を守り、谷を隔て高熊山之に次く、山頂は熊本三番、四番兩中隊

  之を持す。山の左右に各小丘あり、右丘は五番中隊之を守り、左丘一番

  中隊之に據る。ニ番中隊は遊軍として後方に在り。而して大口街道より

  左翼平泉、渕邊、トガメ岡に至るまで、薩軍之を守り、守線東西數里に

  連互し、大口町に薩肥の本營を置く。

 6月14日、高熊山の頂上を三番中隊と四番中隊が守り、山の左右に小さい丘があり、右丘を五番中隊が、左丘を一番中隊が守っていたという。頂上は分かるが左右の小丘がどれを指すのか明確ではないが、推定図を示す。

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 熊本隊士で隊長池辺吉十郎の側近だった中島典五は懲役一年に処せられた人だが、「彪皮一班録」という池辺の本営記録に準ずる記録を残している青潮社1996「西南戦争資料集」に掲載)。高熊山における守備状況については一番中隊と五番中隊の位置が異なるように記録している。

  是ニ於テ前後ノ薩軍総テ大口ニ會ス、而シテ先ニ我五番中隊ノ田野口ニ

  発向スルモノモ来リテ相會ス、因テ我五番中隊共ニ連合ス、而シテ山上

  ハ三番中隊ト四番中隊之ヲ守ル、又左右翼ニ各小丘アリ、左丘ハ五番中

  隊之ヲ守ル、右丘ハ一番中隊之ヲ守ル、各左右小隊ヲ以テ更代シ、ニ番

  中隊ヲ以テ援隊ニ備フ、又右岡ノ守リト谷ヲ隔テ相對スル高丘アリ、薩

  兵之ヲ守ル、(pp.54~55)

 これによると右岡と谷を隔てて相対するところに坊主石山が位置することになる。上図で五番中隊を高熊山頂上の北側に想定し、一番中隊を頂上の西側に想定したがこれは間違いということになる。中島によると一番中隊の隣に谷を隔てて坊主石山があるのだから上図の一番と五番は入れ替えねばならない。佐々説と中島説のどちらが正しいのかは分からない。

 先に三番隊佐々の記録を見たが、彼は頂上を守っており、頂上での戦いが記述の中心になっているように感じる。左右の小丘の記録も見てみたいが探せない。もしかしたら頂上以外の戦跡の分布調査で何か分かるかも知れない。 

 熊本隊が高熊山から退却して大口町まで来たとき、平出水や淵辺方面などの薩軍も集まって来た。この時、辺見十郎太は敗兵を止め本道方面から官軍を迎え撃ち、熊本隊の池辺吉十郎等も右翼の高い丘から官軍を攻撃し追い返している。官軍の戦闘報告表に出てくる薩肥軍の反撃である。安満の報告には「ソンダ山ノ賊ヲ打拂ヒ続テ河邊ノ賊壘数多ヲ取リ尚進テ大口本道守賊ノ左翼ヲ猛擊ス彼敗兵ヲ留メ必死ノ形勢ニ移リシト𧈧豈ニ保ツ可ンヤ遂ニ又敗ス尾撃シテ大口旧城ニ到リ兵ヲ留ム」の部分である。大口町に通じる本道を守る賊の左翼を撃退し、安満隊は大口城跡に進んで一旦停止している。佐々が小丘ニ佇立シ槍ヲ杖キ衆ヲ指揮したのは町の北東部にある城跡だったかも知れない。

 その後、薩肥軍は本庄川(川内川)を渡り川を挟んで官軍と対峙状態となるが、負傷者は東側の横川町の病院で治療する。

 次に熊本隊三番中隊伍長だった眞勢一次の上申書を掲げる。中隊長は佐々である。日付は間違えているので(※)内に正しい日付を加える。

  同廿日(※18日)敵兵払暁我塁ヲ圧シテ発射ス、時ニ霧深クシテ咫尺ヲ弁

  セス、挙隊丸乏シク敵乗シテ増進ム、乃チ礫ヲ擲テ拒キ戦フ、会マ霧晴

  レ丸亦至ル、奮撃之ヲ卻ケ銃及ヒ弾薬ヲ獲タリ、此日半隊長能勢登股ヲ

  傷ツ、 

           (「眞勢一次上申書」pp.286~288『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』)

 「戰袍日記」によれば、半隊長能勢運雄は18日に巨石を投げた際に股を貫かれており、この能勢は同一人物であり、本文に廿日とあるのは正しくは18日のことである。続きの文を掲げる。

  同廿一日(※20日三面ノ丘山ニ十余門ノ大砲ヲ配置シ頻ニ我ヲ射ル、胸

  壁一ツモ全キモノナシ、皆俯伏シテ之ヲ避ク、即夜敗壁ヲ修メテ未タ就

  ラス四更官兵我丸ノ乏シク暴雨ニテ「ミニヘル」銃ノ発弾セサルヲ察シ

  襲ヒ来リ塁ニ逼リテ射ル、全壁拒クコト能ハス退キ走テ大口ニ至リ、兵

  ヲ整ヘテ又タ進ミ撃テ卻クル五六丁、丸竭キ退テ本庄ヲ保ツ、

 20日高隈山から大口町まで退却し、兵ヲ整ヘテ又タ進ミ撃テ卻クル五六丁という状態は官軍を退けた距離が500mから600mだったとする点が他にはない具体的な数値である。最後の記述、退いて本庄を保ったその本庄は川内川の南側、伊佐市の大口盆地の南側にある旧本城村である。古閑俊雄も高熊山敗退後に「遂ニ薩肥全軍共ニ退ヒテ本城ニ據ル、即チ大河ヲ夾ンデ・・(pp.96)」と記している。この場合の薩肥全軍とは水俣の深川や佐敷の大関山、伊佐市の高熊山一帯に展開した部隊のことである。

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 6月20日の次に作成された第三旅団の戦闘報告表は10日後の30日のものが少しあるのだが、その間はどうしていたのだろうか。「戰記稿」(「征西戰記稿」を略しています)をみてみよう。

 下図はこれからの記述に関係する地域の地図である。鹿児島県と宮崎県との県境は一部分決まっていないらしい。伊佐市と東側にあるえびの市の境界から熊本県人吉市の県境線はカルデラの壁になっており、急な崖線である。カルデラ南部は霧島連山が覆いかぶさって不明確とされる。

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 6月21日に関する「戰記稿」記事はない。22日、「第三旅團ハ廿二日其左翼ト別働第二旅團ノ右翼ト馬越村ヲ界トシテ守線ヲ定メタリ因テ部署ヲ更ムルヿ左ノ如クシ大口ニ移營ス大繃帯所ハ當分ノ内第二旅團ト合併セリ」及び部署表がすべてである。それによると、右翼軍は分遣位置が羽月村・田代村で司令官は川村少佐の5個中隊と内藤少佐に1個中隊、左翼は分遣位置表記なしで吉田少佐の5個中隊、正面は大島少佐の3個中隊、以上を竹下中佐がまとめ、その他大口及び金場村に友田少佐の5個中隊を厚東中佐がまとめることになった。田代は伊佐市中心部の西南西側約9kmにあり、その先の宮之城(薩摩郡さつま町)方面を警戒しての配置とみられる。「大口及ヒ金塲村」の金場村は不明だが市街地北側だろうか。

 21日から29日の間、第三旅団方面は戦闘がなかった。しかし、隣接する川内川の上流域では第二旅団が対岸の敵を射撃し、川越しに交戦している。第三旅団のことではないので簡単に「戦記稿」を引用するに留めたい。第二旅団の戦闘報告などを掘り返してくると、記述の範囲が際限なく広がりそうだから。

  第二旅團ハ廿二日一中隊第九聯隊第一大隊第二中隊〇和智大尉ヲ以テ攻襲偵察

  トシ線外馬越麓川北村湯尾等ニ出スニ賊ハ川内川ヲ阻シテ一帯ノ砲壘ヲ

  羅布シ壘内賊ノ來往スルヲ見ル因テ狙擊數發之ヲ試ルニ答射頗ル烈シ蓋

  シ毎壘賊數三十ニ下ラス又渡頭ニモ壘ヲ設ケ砲擊極メテ劇シ我兵據ルヘ

  キノ地物ナク纔ニ沿岸ノ一小村落ニ入リ下士官以下十三名ヲ留メ虚彈ヲ

  發シテ賊ヲ☐シ本隊ハ線内ニ歸レリ午後前岸火揚ル因テ又一中隊島野中尉

  ヲ遣テ之ヲ伺フ是時賊ハ渡口ノ砲ヲ撤シ其後方ノ一小阜ニ移セリ砲僅ニ

  二門曩ノ火ハ即チ其彈道ヲ蔽遮スル民家三四戸ヲ燬キシナリ賊我兵ノ到

  ルヲ見テ發射亦烈シ我兵應射セスシテ歸リ途ニ馬越ノ黌内ニ密藏セル賊

  ノ榴弾三百發散弾小銃五糧米百五十苞ヲ獲テ之ヲ収ム篠崎善六ノ告ニ

    據ル是日大口麓ニ移營シ別働第二旅團ノ守地即チ第三旅團守地ノ馬越村ノ左翼

  ヲ其守地トシ馬越村ノ本道ヲ界トス

 22日の第二旅団の攻撃は馬越村・川北村・湯之尾などである。古閑俊雄の「戰袍日記」pp.98には薩兵の守る湯之尾が砲撃されたことを記している。

  同廿二日晨暁、官兵湯ノ尾本道薩兵ノ台場ヲ襲フ、薩兵激戦之レヲ勤ム、

  官兵巨砲ヲ以テ湯ノ尾ノ寨ヲ焼カントス、破裂丸數々湯ノ尾ノ民家ニ☐

  (まま)リ焼ケントスルコト數回、薩兵或ヒハ火ヲ消シ或ヒハ敵ニ当リ遂

  ニ撃ツテ之ヲ退ク 

 少なくとも薩兵は湯之尾付近の左岸を守っていたと分かる。

 23日、三浦少将は厚東(ことう)・竹下両中佐に次の命令を出した。

  明朝各大隊長及ヒ各中隊長ヲシテ防禦線ヲ巡視シ濟ル可キ處ヲ川内川ニ

  定メシム可

 川内川は東部のえびの市からカルデラ内に流れ出て、湧水町で西に屈折して伊佐市に向かい、市街地手前で左折し南西の宮之城町を経て川内市に流れており、丁度官軍各旅団の配置は川の右岸に沿うように並んでいたのである。6月25日には第三旅団は右翼を柳葉山(場所不明)に、左翼を湯尾城山(湯之尾周辺にあるのだろう)にして東側の第二旅団と連絡する状態だった。三つの旅団は第二旅団を中央に置き、大口から人吉盆地東側まで連続していた。下図は大口から宮崎県最西端のえびの市における分布状態である。第二旅団に関しては布陣した所の地名は記録があるが、場所不明というものが多い。「戰記稿」では各旅団の配置状態を次のように記している。

  廿五日第二旅團ハ昨日ノ占定ニ依リ午前第七時ヲ期シ哨兵ノ全線ヲ進ム

  其右翼線端ヲ湯尾麓ノ上流楢原山ニ起シ平澤津稻葉崎ヲ占メ左折シテ甲

  尾原山田平分石北ノ山烏帽子石及ヒ般若寺越ヨリ岡松村ヲ以テ左翼線末

  トシ別働第二旅團ニ連絡シ而シテ右翼ニ隣スル湯尾馬越ノ両麓ヲ第三旅

  團ニ譲リ

という配置だが、甲尾・原山・田平・分石・北ノ山・烏帽子石は国土地理院地図になく、同名のバス停もないので下図には記せない。

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 この頃は梅雨時だった。

  昨日(25日)以來猛雨盆ヲ傾ケ川内川ノ水、暴ニ漲リ堤防ヲ超越シ馬越

  村ノ道路ニ溢ル故ニ第三旅團ハ曾木本城湯之尾諸村ノ賊ヲ前岸ニ見ルモ

  濟川ノ凖備ヲ爲ス能ハス(略)廿日第二旅團三好少將ハ線外ニ出テ賊状

  ヲ視察シ一部兵ヲシテ川ヲ越エ賊ヲ驅ラシメント欲シ渡渉便宜ノ地ヲ撰

  ム終ニ得(略)(29日)第三旅團ハ連日ノ強雨川流暴漲ノ爲メ曾木本

  城湯尾ノ賊ヲ攻擊セント欲スルモ百計殆ント盡キ濟川ノ術ヲ得ス蓋シ川

  内ノ川タル其流殊ニ急ニシテ浮梁舟筏ノ能ク渡リ得ヘキニアラス之ヲ第

  二旅團ニ謀ルモ其苦シム所、我ト同シ是日右翼軍ノ一部羽月村ヨリ宮城

  街道ヲ探索シ遂ニ川内川ヲ渡リ鶴田村ニ至ルニ對岸ノ賊ハ專ラ羽月及ヒ

  大口湯尾ノ前面ニ備ヘ鶴田以西ハ天險ヲ恃ミ其警備ヲ懈ル者ノ如シ乃チ

  竹下中佐牧野少佐等倶ニ策ヲ献シテ曰ク連日ノ甚雨、川流暴漲シ今一二

  日ノ晴ヲ得ルモ遽ニ徒渉シテ對岸ノ賊ヲ衝ク能ハス寧ロ鶴田ニ大懸軍ヲ

  差遣シ彼ノ背ヘ出テ彼ヲシテ後顧ノ憂アラシメハ假令ヒ正面徒渉ノ便ヲ

  得サルモ以テ大ニ其膽ヲ破舟筏又用ル所アラント(「戰記稿」)

 第三旅団は連日の雨で川内川を渡ることができなかったが、大口から南西方向の宮之城方面を探ったところ、薩軍の守備が手薄であることを掴んだのである。

 五日間前後動きのなかった第三旅団だが、6月30日には西部で川内川下流方面を攻撃することにし、その結果は次の戦闘報告表の通りであった。

C09084801500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0373・0374

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠

  ㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:鹿児嶌縣下大隅国☐☐郡千代川

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時童﨑村ヲ発シ同七時三十分頃千代川ヲ隔テ

  ヽ開戦同九時頃鈴ノ瀬ニ渡舟シ川西村賊ノ数塁ヲ陥ル尾撃シテ湯尾ノ麓

  ニ至リ要地ヲ占領ス時ニ午後第四時ナリ   

  我軍総員:六拾二名 我軍ニ穫ル者:銃 一 弾薬 二

  備考敵軍:小銃ヱンピール 弾薬二箱スナイドルヱンピール合シテ七百

  発余

 童﨑村は伊佐市役所の南南西3,5㎞付近の堂崎のことであり、鈴ノ瀬は地図に載ってないので初めは分からなかったが、伊佐市大口大字下殿字下ノ瀬に川内川の鈴之瀬水位局があると判明し、川沿いの地だと判明した。この日の井上隊の軌跡を地図で示す。

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C09084801600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0375・0376

  第三旅團歩兵第六聯隊歩兵第十一聯隊第三大隊第弐中隊長 陸軍大尉栗

  栖毅太郎㊞   戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:曽木村本庄村

  戦闘ノ次第概畧:午前第六時☐ノ☐ゟ曽木ケ瀧迠之處ヘ衛兵ヲ散布シ河

  岸ノ賊ニ向ツテ虚勢ヲ占ス大砲数門ノ連發シ☐リ賊兵ヲ塁内ニ潜カクシ

  走ルヲ得ス遂ニ河岸ノ塁ヲ捨テ山上ノ塁ヲ保ツ此ニ於テ我兵狙撃或ハ一

  齊ニ發射スルヲ以テ又之レヲ捨テ走ル既ニシテ攻撃隊速ニ川ヲ渡るヲ以

  テ賊全ク潰走我隊モ又舩渡曽木里村ニ至リ命ヲ得テ本谷村ノ内西ノ☐山

  上ニ露営ス

  我軍総員:九十人

 字が小さ過ぎて読めない部分があるので下に原文を掲げる。

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 曽木の瀧は鈴之瀬のすぐ西側下流に位置する。栗栖隊は井上隊の西側から川内川を渡ろうとしたようだ。結局、対岸へ舟で渡り西ノ山?の山上に露営している。当然陣地を構えた筈である。この配置は南西側の宮之城(現在のさつま町)を意識してのものだろう。

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C09084801700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0377・0378

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉大西 恒

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:千台川

  戦闘ノ次第概畧:本日午前第六時開戦当隊援隊ニテ善寺塚正面ヨリ進擊

  賊ト千台川ヲ隔テ戦フ我兵扼腕憤怒川ヲ渡ラント欲ト𧈧賊前岸堅固堡塁

  数ヶ所ヲ連子加フルニ急流泥水ニシテ其浅深不可量依テ茲ニ止マリ戦フ

  ヿ暫時ニシテ賊大ニ潰走ス我兵尾擊終ニ渡川歩哨線ヲ☐處ニ定ム

  我軍総員:將校以下百二十五人

 この隊の20日の戦闘報告表は横地剛中尉が作成している。善寺塚正面から進むと川内川の向岸に薩軍の台場が数基あり、しばらく対戦すると敵が潰走したので川を渡って歩哨線を定めたという。この報告だけではどこのことかさっぱり分からないが、善寺塚は6月20日の戦記にも登場する地名である。先ず、横地報告の関係部分を再度掲げる。

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第三中隊 陸軍中尉横地 剛㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:トガミ山脉右方 戦闘ノ次第概畧:本日午前開戦ニ付昨

  夜第十二時當線ヲ発シ竊賊塁ニ近接ナル森林ニ伏兵シ而期ヲ待リ時ニ暴風実ニ咫尺ヲ辯セ

  ス當隊此機ニ乗シ吐喊直ニ賊塁ニ突入シ賊ノ堡塁數ヶ所ヲ乗取ル賊狼狽出ル處ヲ失ス當隊

  憤進尾擊終ニ大口ノ近傍善寺塚ニ歩哨線ヲ定ム

 横地隊は鳥神岡の右方の山地で戦い、薩軍の台場数個を乗っ取り、尾撃して大口町の近くにある善寺塚に歩哨線を張った。これから分かるのは善寺塚が伊佐市街地の付近、おそらく羽月川寄りにあるらしいという情報である。次は6月20日の平山隊報告の情報である。平山隊報告にも同じ地名が出てくるので再び掲げる。

  第三旅團名古屋鎮臺第二聯隊第壱大隊第二中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:六月廿日 戦闘地名:鹿児嶋縣薩摩國羽月郷ケナシムタ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時ヨリ鹿児嶋縣薩摩國伊佐郡羽月村ケナシムタニ於テ戦ヲ初メ

  賊ヲ追テソーキ郷シモドノ村至リ命令ニ依リ羽月郷善寺塚ニ引揚ケ大哨兵ヲ張ル

 羽月郷に善寺塚があるという点は横地報告を補強する情報である。下殿よりも北側にあると分かる。

 もう一つ、下記の類似の地名記録があるので再度掲げる。

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:六月二十日 戦闘地名:薩摩国大口郡腰山上 

  戦闘ノ次第概畧:午前第一時三十分岩塚岡ヲ発シ仝第四時頃腰山ノ麓ニ至リ雲霧ニ乗シ

  側面及ヒ正面ヨリ銃鎗突感直ニ山上ノ數壘ヲ陥ル賊敗走尾擊シテ終ニ善十塚ノ岡迠占領ス

  次ニ午前第七時ナリ

 前の3件から善寺塚が大口町西部で、羽月川付近らしいと考える。善十塚ノ岡はおそらく同じ場所であろうが、一緒に出てくる岩塚岡や腰山が場所不明なので、参考にならない。腰山は栗栖報告0319で古志山とある場所と同じだろう。

   古志山 戦闘ノ次第概畧:午前第二時半出水村山上ノ哨處ヲ發シトカメ岡右方賊塁ノ正面

  ニ進軍ス此時☐霧深咫尺ヲ弁セス依テ一齊ニ鯨波ヲ發シ銃槍ヲ振ツテ堡内ニ突入ス賊兵大

  ニ狼狽塁外ニ出テ拒戦ス我兵憤戦猛烈ニ發射スルニ依リ遂ニ道ヲ西南ニ取リ潰走ス此ニ於

  テ北クルヲ逐フテ☐村葉月麓ヲ経ヘ堂崎村ニ到リ止戦ス

 出水村は平出水だろう。このように栗栖隊の行動は大口町の北西から南西側が舞台になっており、善寺塚想定地と矛盾しない。

 再び30日の戦闘報告表を見ていきたい。

 C09084801800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0379・0380

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸愛㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:仙臺川

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時仙臺川ノ賊ヲ攻擊ス賊塁ヲ捨テ走ル追テ楢

  葉村ノ臺ニ至リ命ニ依リテ大哨兵ヲ布ケリ

  我軍総員:八十人  備考我軍:一死傷ナシ 一費ス所ノ弾数五百發

 一人6発強の小銃弾を使っている。死傷者も出なかったし、それ程、困難な戦闘ではなかっただろう。楢葉山は楢原山だとすると第二旅団の担当区域になるのでそれに比定するのは疑問が残る。楢原山地図を再度掲げる。後で7月1日の戦闘報告表を見たら、安満隊は楠葉村を出発しているのが分かった。楢は誤読ということになる。ただ、楠葉村は場所不明であるが、楠原村なら湯之尾の南西2,9kmにあるので、ここかも知れない。

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 C09084801900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0381・0382

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第四中隊長 陸軍大尉武田信賢 花押

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:自滝ノ神 至楠葉

  戦闘ノ次第概畧:六月三十日午前第六字諏訪野山ヲ雷発シ同第六時千

  川上ノ前岸ヨリ川ヲ隔テ開戦ス遂ニ川ヲ渡リ賊壘数ヶ所ヲ拔キ進撃シ同

  午后第五時本城上アラタ原ニ至リ露営ス

  我軍ニ穫ル者:俘虜 下士卒 一 弾薬 一箱  我軍総員:百三十六  

  備考敵軍:一弾薬一箱ハヱンヒェール五百發進擊ノ際本城ニ於テ之ヲ獲

  ル    俘虜兵卒鹿児島縣泉髙尾郷士族出水彌助

 本城上アラタ原は下殿の南東3.5km付近の川内川南岸にある荒田付近だろう。馬越村の対岸やや西側である。

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 C09084802000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0383・0384

  第三旅團歩兵第拾貳聯隊第貳大隊第二中隊長 陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:馬越

  戦闘ノ次第概畧:午前第十時馬越出発同四十分渡塲ニ至リ對敵放擊午后

  第三時賊塁ヲ取ル直ニ追擊午后第五時湯尾山ニ至テ防禦ス

  我軍総員:百三拾九人  備考我軍:放ツ所ノ弾数八千發

 一人58発小銃弾を使用しており、安満隊の6発強に比べれば楽な戦闘ではなかったと想像できる。

 C09084802100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0385・0386

  第三旅團工兵第二大隊第一小隊第一分隊 陸軍少尉石川義仙㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:湯ノ尾

  戦闘ノ次第概畧:朝第三時重冨村出発湯ノ尾村ニ向ケ進ミ湯ノ尾ノ渡ニ

  於テ竹筏ヲ以テ橋ヲ急造シタ第八時作業終リ湯尾ニ於テ露営ス

  我軍総員:拾七員

 

 C09084802200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0387・0388

  第三旅團大坂鎮臺砲兵第四大隊第壱小隊右分隊長 陸軍中尉三宅敏徳㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:大隅伊佐郡馬越村ニ於テ 

  戦闘ノ次第概畧:午前第九時整列同第十時馬越村山上ニ於テ開戦正午第

  十二時頃砲戦最モ盛ンニ午后第一時頃進軍千代川ノ北岸ニ放列ニ備フ第

  三時頃敵逃走スルニ付湯ノ尾村ニ宿陣ス   我軍総員:二十人

 

 C09084802300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0389・0390

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠見㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:湯ノ尾町ヨリ横川本道

  戦闘ノ次第概畧:午前六時本城正☐川ニ對シ開戦十二時頃前岸ノ臺塲ヲ

  落シ入レ即時筏ニテ渉川湯尾町ヨリ横川本道ニ進撃山上ニ對シ終夜防戦

  ス

  我軍総員:百二十名 死者:将校一名 傷者:下士卒四名 失器械:銃

  劔二   我軍ニ穫ル者:弾薬:若干  

  備考我軍:死陸軍少尉須藤輝長傷一等兵卒春田与吉二等兵卒☐木萬次郎

  二等兵卒小☐☐造二等喇叭卒栗山廣田左衛門ノ五名也

  渡川ノ刻筏覆リ銃及劔ヲ河中ニ投ス銃ハ捜リ得ルト𧈧劔遂ニ不知

  備考敵軍:死人二三名見請ト𧈧モ不詳瘡同断 弾薬ハ破壊セス

  本城正☐川は中村報告0397にある正木川と同じか。正木川は場所不明だが。

 

 C09084802400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0391・0392

  第三旅團砲兵第四大隊第一小隊左分隊長陸軍少尉居藤髙二郎㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:アバノ山

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時三十分羽月麓村ヲ発シ五時四十分アバノ山

  ニ着直ニ胸壁ヲ築キ同第七時戦端ヲ開キ一時盛ニ砲戦シ九時ニ至リ歩兵

  ノ進路ヲ開第十一時過キ賊次第ニ逃走セシ故発射ヲ止ム同第四時ニ至リ

  羽月麓村ヘ退軍スベキ命ヲ得五時十五分羽月村ヘ着到ス   

  我軍総員:十八名

 

 C09084802500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0393・0394

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊陸軍大尉本城幾馬㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:大隅国

  戦闘ノ次第概畧:六月三十日第四時馬越村ノ大哨兵ヲ引拂ヒ本城村ニ進

  ム賊退去スルヲ以テ廿二羽石山ニ至リ為援隊ト仝処固守ス   

  我軍総員:八拾七名

 

 C09084802600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0395・0396

  第三旅團歩兵第六聯隊第壱大隊第壱中隊 陸軍大尉山本 弾㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:薩摩國伊佐郡湯ノ尾村城山ノ間

  戦闘ノ次第概畧:六月三十日午前第七時頃ヨリ千代川ヲ挟ミ我右翼湯ノ

  尾神社川邉ヨリ右翼ニ至ル迠烈敷発放川村少佐ノ手ノ進ニ従ヒ我右翼烈

  敷発兵卒両三名ヲ以テ筏ヲ浮レノモ賊発放列敷渡ルヲ得ス依テ又一二ヲ

  游渡セシメ舟ヲ奪ヒ漸ク一二分隊ヲ渡シ進撃ス其余モ漸々川ヲ渡リ防禦

  線ヲ定ム

  我軍総員:百五名 傷者:下士卒一人 備考我軍:手負 兵卒小池寅次郎

 地図を見ると湯之尾神社の東側で川内川が北側に蛇行した痕跡が残っており、西南戦争後に流路変更した可能性がある。 

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 下図は本城が旧伊佐郡本城村だった時の村範囲図であるが、河川改修による流路変更が行われる前の状態とみられる。

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 C09084802700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0397・0398

  第三旅團歩兵第六聯隊第三大隊第二中隊長代理 陸軍中尉中村 覺㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:本城正木川

  戦闘ノ次第概畧:此日午前第五時ヨリ本城正木河ノ堤上ニ散布シ正面ノ

  賊塁ヲ虚撃ス十一時過キニ及ンテ竹筏ニ乗リ河ヲ渡リ賊ヲ逐フ時ニ午后

  第四時半頃也是レヨリ本城ヲ過キ湯ノ尾町本道ノ即チ長池ノ岡ニ至リ賊

  ト戦フノモ夜茲ニ對塁互ニ砲撃天明ニ至ル

  我軍総員:将校以下百十五名  傷者:下士卒三 

  備考我軍:傷者:二等卒 伊藤彦十郎

  右診察ヲ受クルモ入院セス

     上等卒 寺島民之助

     二等卒 伊藤定八

  右兩名軽傷ニ付診察ヲ乞ハズ

 正木河と長池ノ岡は場所不明だが当隊が結局湯之尾に進んでいるのから考え、これら不明地は川内川沿いにあり、湯之尾の西方らしい。

 C09084802800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0399・0400

  第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉久徳宗義㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:湯尾山及湯尾渡塲ニ於テ

  戦闘ノ次第概畧:分隊ハ湯尾山ニ備ヘ午前五時半ヨリ前面ノ賊塁ヲ烈

  シク攻撃ス午后三時賊敗走スルヲ以テ射擊ヲ止ム分隊ハ湯尾渡塲ニ於

  テ午前六時ニ十分ヨリ對岸ノ賊塁ヲ攻擊ス此地最モ敵ニ近接スルヲ以テ

  霰弾数十発ヲ放射ス午后三時賊敗走スルヲ以テ放射ヲ止ム

  我軍総員:四拾三名

 四斤砲の霰弾は形が缶コーヒー状で、砲弾の飛距離は300m~500mである。多数の小球の粒が空中で飛散する。

 C09084802900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0401・0402

  第三旅團大阪鎮臺豫備砲兵第二大隊第一小隊長左分隊長 陸軍少尉杦田

  豊実  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:薩摩国伊佐郡アバ野

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時山砲三門羽月麓村ヲ発シアバ野ニ至リ砲臺

  ヲ築き同七時放射ヲ始メ賊ノ胸壁数箇ヲ擊破シ同九時頃竟ニ歩兵ノ進路

  ヲ開ク亦一砲車ヲ下殿村ヘ轉シテ曾木ノ賊塁ニ向テ発射ス同十一時賊逃

  走ニ付発射ヲ止ム午后五時命ニ因テ羽月麓村ニ帰ル 

  我軍総員:三拾六人

 アボ野も川内川沿いらしい。

 C09084803000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0403・0404

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 陸軍大尉矢上義芳㊞

  戦闘月日:十年六月丗日 戦闘地名:本城村辺 

  戦闘ノ次第概畧:本日当隊ヲ區分シ二個ノ小隊ヲ編制シテ一ツハ右翼一

  ツハ左翼援隊ノ命ヲ奉シ午前六時下妙村出発シ千代川ノ架渠ヲ経テ屯集

  ス而ルニ賊敗走ス遂ニ小越瀬村ニ達ス于時午后三時ナリ 

  我軍総員:九十七名

 下妙村と小越瀬村は場所不明。

 C09084803100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0405・0406

  第三旅團近衛歩兵第二連隊第一大隊第一中隊長代理リ 中尉横地剛㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:下ノ木葉

  戦闘ノ次第概畧:当援隊為下ノ木葉迠進軍シ千台川ヲ渡リ本城岳前迠進

  ミ同所ニ防禦ス   我軍総員:百零三名

 下ノ木葉は場所不明。

 C09084803200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0407・0408

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊 中隊長大尉 南小四郎代理 少尉浮

  村直養㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:本城

  戦闘ノ次第概畧:此日第二攻撃隊ノ命アリ午前第四時花北山ヲ引揚ケ馬

  越前目ノ河堤ヘ散布シ架橋成ルヤ直チニ第一攻撃隊ニ續テ渡川俄然

  吶喊正面ヲ衝突シ下荒田村ノ数塁ヲ拔キ尾擊シテ本城町ヲ経タカム子山

  ニ登レハ賊前山ニ依リ防戦不退我猛撃スルノモ猶不退午后第八時半分兵ヲ

  引揚ケテントウ岡山ニ沿フテ防禦ス 

  我軍総員:九拾貳名  傷者:将校一名 下士卒一名

  備考我軍:傷者 中尉 伊藤一幸

          仝  伍長 山本春松

 

 C09084803300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0409・0410

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊附属同聯隊第貳大隊第四中隊一

  小隊 中隊長大尉 南小四郎代理 少尉浮村直養㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:本城

  戦闘ノ次第概畧:此日第二攻撃隊ノ命アリ午前第四時花北山ヲ引揚ケ馬

  越前目下村ノ河堤ヘ散布シ架橋成ルヤ直チニ第一攻撃隊ニ續テ渡川俄然

  吶喊正面ヲ衝突シ下荒田村ノ数塁ヲ拔キ尾擊シテ本城町ヲ経タカム子山

  ニ登レハ賊前山ニ依リ防戦不退我猛撃スルノモ猶不退午后第八時三十分兵

  ヲ引揚ケテントウ岡山ニ沿フテ防禦ス 

  我軍総員:三拾九名  傷者:下士卒二名

  備考我軍:傷者 二等喇叭卒 山本福松

          仝  仝     西脇卯之助

 ひとつ前の報告とは青色部分が違う。

 C09084803400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0411・0412

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名: 花北山ヨリ本城村ニ至ル

  戦闘ノ次第概畧:午前第十時四十分仙臺川ヲ渡リ曽木村ニ向ツテ進撃ス

  賊退テ本城村山上ニ塁ヲ築キ防禦ノ勢ナク因テ山村大尉ノ隊ト我一小隊

  ヲ以テ正面ヲ衝キ他一小隊ヲシテ賊塁ノ左翼ニ迂回セシメ背后ニ出テ射

  撃ス賊狼狽支ユル能ハズシテ退ク北ルヲ追テ南本城村ニ進ム賊山上ニ據

  ル我隊激戰左翼ノ髙山ヲ乗取ル賊ハ后方ノ山ニ退キ固守ス于時薄暮

  近ク進撃ニ利ナキヲ知リ二百米突退キ山上ニ防禦線ヲ定

  我軍総員:八十八人 傷者:下士卒三人

  備考我軍:兵卒田中竹枩久保田冨三郎喇叭卒山田岩吉ノ三人負傷

 

 C09084803500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0413・0414

  第三旅團第十聯隊第三大隊第四中隊長心得中尉岡 煥之㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名: 鹿児島県下下出村

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時攻撃隊トシテ本城下出村ヲ発シ渡川開戦ス

  可キノ命アルニ依リ暫時渡川ノ凖備ヲ待ツテ進撃ス然ルニ賊敗テ南本城

  ノ前山マテ尾撃シ茲ニ大哨兵ヲ占ム此日不詳ナシ

  我軍総員:百二十名   備考我軍:此日費ス所ノ弾薬二千発

 下出村は堂崎の東側対岸にある下手のことである。次の山村報告にも出てくる。この日、岡隊は一人17発弱の小銃弾を発射した。

 C09084803600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0415・0416

  第三旅團第十聯隊第三大隊第三中隊大尉山村政久㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名: 鹿児島県下本城村

  戦闘ノ次第概畧:六月三十日午前第四時本城下出村ヲ発程シ第五時本城

  下出村ノ前方大口川ノ前ニ一時防禦ヲ調ヘ先頭渡舟ノ警備ヲナスソレヨ

  リ川ヲ渡リ追〃進ンテ本城村ニ至ル尚本城ヨリ湯ノ村ノ前方ニテ敵ヲ見

  直ニ開戦午后第八時同所エ大哨兵ヲ布ク

  我軍総員:百四十三人

  我軍ニ穫ル者:現米三十六俵 備考我軍:現米三拾六俵ハ本城村ノ内前 

  田村今朝次郎ト申者ノ後ロ竹林ノ内ニ在アル其儘其處ニ置ク

  敵軍備考:現米三拾六俵ハ本城村ノ内前田今朝次郎ト申者ノ後ロ竹林ノ

  内ニ在ル其儘處ヘ置ク

 現米は玄米。

 C09084803700「明治十年自五月至七月  戦闘報告表 第三旅団」0417・0418

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名: カジク村ヨリ本荘迠之間

  戦闘ノ次第概畧:明治十年六月丗日午前第三時鶴田村出発曽木村ニ向ケ

  進擊カジク村ニ至ル時賊兵本道ノ並木ニ依テ防戦ス我兵左側ヨリ擊テ之

  レヲ走ラシ進テ炭持村ニ至ル賊又本道并山上ヨリ烈シク防戦スト𧈧モ我

  兵益奮擊又之レヲ走ラシ逃ルヲ追テ芋頸山ヨリ本荘ニ至テ休戦ス此日費

  ス処ノ弾数凡ソ三千五百発

  我軍総員:九十四名 傷者:下士卒壱名 備考我軍:明治十年六月丗日

  攻撃之節傷 兵卒 小林卯之吉

 小銃弾は一人平均37発強を使用している。

 C09084803800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0419・0420

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第壱中隊大尉齋藤徳明㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:本城カ嶽

  戦闘ノ次第概畧:二十九日午前第五時羽月村出発午后第四時鶴田村到着

  三十日午前第二時鶴田村出発同第五時攻撃隊開戦ス同第九時一小隊ヲ以

  テ賊兵ノ左側面ヲ攻撃シ遂ニ進テ本城ケ嶽ニ至リ防禦線ヲ定メ守備ス

  我軍総員:百拾七名

  備考敵軍:午前第二時鶴田村出発同第五時楠原村ニ至リ攻撃隊戦端ヲ開

  ヤ否ヤ直ニ一小隊ヲ以テ本道ノ右翼山上ニ散兵ヲ配布シ賊兵ノ迂回ヲ禦

  ガシム既ニシテ賊兵敗走ス又進ンテ平地ニ在ル賊兵ヲ山上ヨリ左側面ヲ

  攻撃スルヿ凡ソ一時間餘賊支フル能ハズシテ敗走ス遂ニ進テ本城ケ嶽ニ

  至リ防禦線ヲ定備ス

 本城ケ嶽とはどこだろうか。後述するようにこの日薩肥軍が幸田あるいは高田、小田の中世山城跡があった陣ケ岡を中心に防禦陣地を構えたことを考えると、本城ケ嶽とは陣ケ岡を指す可能性がある。

 C09084803900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0421・0422

  第三旅團東京鎭臺歩兵第二聯隊第三大隊 第二中隊陸軍大尉福島庸智㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:灰持村近方

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時靏田村ヲ発シ曾木村ニ向ヘ灰持村近方ニ於

  テ賊兵ヲ追拂ヘ進デ本城ガ嶽ニ至ル   我軍総員:九十四

 

C09084804000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0423・0424

  第三旅團歩兵第三聯隊第三大隊第一中隊中隊長陸軍大尉竹田実行

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:曽木街道

  戦闘ノ次第概畧:六月三十日曽木ノ賊背攻撃ノ援隊トシテ午前第二時鶴

  田ヲ発シ本道ヲ進ミ第六時針持村ノ坂上ニ兵ヲ配布シ正面ノ賊敗走スル

  ニ及ンテ第八時兵ヲ纏メ本道ヲ進ム第十時本道ノ賊ヲ攻撃ス第十一時賊

  敗走ス依テ本道ノ右ヲ尾擊シテ金山ノ麓ニ至リ大哨兵ノ凖備ヲナス 

  我軍総員:百拾八名

 

 C09084804100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0425~0427

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壱大隊第貳中隊陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:鹿児嶋縣薩国曽木口街道進擊

  戦闘ノ次第概畧:六月廿九日午前第五時金波田村ヲ発シ田代村花子峠平

  江口神子村ヲコへ靍田村ノ麓ニ至リ一泊ス翌丗日午前第二時曽木口街道

  進撃途中賊ノ哨兵ヲ目撃スルヤ直ニ賊徒七名ヲ生捕残余ノ賊ハ左右エ散

  乱ス是ヨリ急行終ニハイモチ山ニテ賊ノ臺塲ヲ発見ス我隊本道ヨリ右ニ

  進ミ迂道ヲコヘテ賊ノ背後ヲ襲ハント進入ス賊此ノ挙動ヲ先見シ巓兵ヲ

  増シ頻リ☐発射ス諸隊一聲突入賊ノ占領シアル山頂ヲ乗リ取リ直チニ家

  屋ヲ放火シ此ニ依テ賊壱名ノ死体ヲ見ル弾薬数百ヲ分捕ル暫時火中ニ捨

  ル是ヨリ進擊終ニ山ノ麓ニ至ル降賊右山ヨリ発覚我隊ノ右翼ニ至ルヤ直

  ニ射撃シ暫時奮戦進テ潰破シ道ヲ進テ本城村右翼ノ山頂ニ大哨兵備ヘ命

  ヲ待ツ 

  我軍総員:百拾四名 我軍ニ穫ル者:銃 ヱンピール二挺 

  我軍ニ穫ル者:器械:刀 九本  備考敵軍:六月丗日午前第貳時曽木

  口街道進撃途中賊ノ哨兵目撃スルヤ直ニ賊徒七名ヲ生捕ル分捕左之通リ 

  刀九本 銃貳挺

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 平山隊はだいぶ大回りをしているが、「戰記稿」によれば南岸の曽木にいる薩軍の背後を襲おうとしたのである。

 C09084804200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0428・0429

  第三旅團第十聯隊第三大隊第一中隊長陸軍大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:十年六月三十日 戦闘地名:カイジク村

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時靍田村ヲ発シカイジク村ニテ賊ノ哨兵ニ逢

  フ直ニ賊走リ同処山上ニ集ル我兵其左翼村中ヨリ一ツノ髙山要処ニ登ル

  此山ニ亦賊アリ討テ走ラセ暫時固守ス本道賊走ル我兵ハイモチ村ヲ経テ

  山上ニ登ルト亦賊アリ稍暫シ互ニ発砲賊ヲ陥レ彼レ迯ルヲ進テ強ク尾擊

  シ曽木村ニ至ル本庄村方向ニ方テ一ツノ小山ニ賊発砲亦是レト戦フ暫在

  テ走ル終ニ日没ス本庄村口金山麓ニ大哨兵務ム

  我軍総員:百拾四名  我軍ニ穫ル者:銃:和銃 壱挺   

  器械:日本刀 二本  器械:刀 九本 刀九本 銃二挺

 以上28件(浮村隊は2件)が第三旅団の6月30日の戦闘報告表である。

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 不明の場所もあるが全体としては、川内川を渡って対岸の曽木や本城村に進んでいる。東に進んだ部隊は湯之尾の対岸付近で止まっているのは、それより東側は第二旅団の進軍方向だと判断したのであろう。

「戰記稿」は6月30日の行動をどう纏めたのだろうか。前半は戦闘報告表とあまり変わらないので後半部を掲げる。

  午前六時砲九門ヲ馬越村ノ臺及ヒ湯尾下手村アバ野等ニ配置シ曾木本城

  湯尾町ノ前面ヨリ發火ス時方サニ十時未タ迂回兵ノ砲聲ヲ聞カス前面ノ

  賊依然變態アラサルヲ以テ三浦少將ハ下手村ノ臺ニ在テ古田少佐ニ令シ

  敵丸ヲ冒シ竹筏ヲ以テ川ヲ渡ラシム既ニシテ遥ニ迂回兵ノ砲聲ヲ聞キ尋

  テ火焰ヲ曾木村背後ニ認メ果シテ迂回兵ノ其目的ヲ達セシヲ知リ衆皆欣

  躍先ヲ爭テ渡ル初メ濟川ヲ圖ルヤ豫メ傍近渡津ノ小艇ヲ索ムルニ多クハ

  賊岸ニ在リ或ハ之ヲ沈メ或ハ之ヲ毀チ僅ニ七隻ヲ大口川ニ繋ク故ニ豫メ

  竹筏數個ヲ作リ之ヲ田間ニ伏セ或ハ林中ニ匿シ以テ今日ノ用ニ備フ是ニ

  於テ浮筏、流ヲ亂シ對岸ニ達セントスルニ未タ此岸ヲ離レサル二三間ニ

  シテ激流、筏ヲ破リ或ハ深サ數尋ノ處ニ至リ棹竿其用ヲ爲サス乃チ更ニ

  筏ヲ聚メ二三或ハ四五個ヲ約スル數重ニシテ遂ニ渉ルヲ得、直チニ曾木

  ヲ略シ本城ニ至ル此時迂回兵既ニ曾木ノ山上ニ在リ頻リニ賊ノ側面ヲ撃

  ツ賊尚ホ湯尾横川ニ退キ更ニ湯尾山ニ據リ大ニ我兵ヲ拒キ又再ヒ兵ヲ勒

  シテ我カ湯尾ノ友田少佐ノ兵ヲ撃ツ此戰遂ニ暁ニ達シテ止マス

 第三旅団の三浦少将は川内川北岸の下手の台地から指揮していた。旅団右翼部隊が対岸の曽木背後から攻撃するのを待っていたが、なかなか現れないので秘かに用意していた竹筏を持ち込んで渡ることができた。丁度その頃、迂回兵も曽木背後の山上に進出しており、右岸に対峙していた敵の側面を攻撃したので敵は湯之尾・横川に退却した。末尾にある友田少佐の隊はこの日の右翼部隊であり、中村中尉・本城大尉が属していた。この戦いは翌暁に至っても止まなかった。なお、曽木付近での渡河の際、綱と舟を利用した仮橋を東京鎮台工兵第一大隊が築いている(C09082154200「戰鬪履歴 軍團事務所」0901防衛研究所蔵)

 

  六月三十日仙代川向岸ノ賊攻撃ノ際先頭ニ在テ舟数艘ヲ浮ヘ下殿村下流

  ニ於テ操綱橋ヲ架シ以テ我軍ヲ渡ス 

 架橋の場所は下殿村の下流にある曽木の瀧付近だろう。各戦闘報告表には舟橋は登場しないが、井上隊の記述にそれらしき部分「鈴ノ瀬ニ渡舟シ川西村賊ノ数塁ヲ陥ル」がある。

 30日、第三旅団の左翼に位置した第二旅団の行動を簡単に見ておきたい。

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 午前七時、第二旅団の右翼軍は稲葉崎・城山(場所不明)川内川対岸を銃砲で射撃し、午後3時になっても膠着状態のままだったので、一個中隊を楢原山に派遣し稲葉崎と共に十字砲火を浴びせ、渡河する官軍を射撃する隙を与えないようにして対岸に渡ることができたので、他の兵士も次々に後に続いて陣地に迫ったので薩軍は栗野・横川・本城方面に分かれて退却した。その結果、第二旅団左翼は広田村に、正面は付近の山上に、右翼は二渡村に陣地を築いて守備を布いた。

 第二旅団左翼軍は午後七時稲葉崎を出発して東方の北方村、つまり川内川の北岸を占領して対岸としばらく交戦した。次いで稲葉崎の方から薩軍が退却してきたので対岸の敵も退却を始めたのを機会に官軍は川を渡って、それまで薩軍がいた陣地を改造して夜明けを待った。

 

 薩軍・熊本隊の状況

 6月30日、官軍の戦闘記録を見てきたが薩軍・熊本隊などの記録も見ておきたい。熊本隊古閑俊雄「戰袍日記 全」の6月24日部分を掲げる。

  同廿四日晨暁、官兵我ガ長蛇ノ寨ヲ襲フ、然レドモ川ヲ隔テヽ遠ク砲戰

  ス、午牌下流薩ノ干城隊ノ守寨敗レテ高田ニ退ク、初メ官兵筏ヲ作リ夜

  半ヨリ之レヲ渡シ、急ニ干城、雷撃ノ守寨ヲ襲フ、薩兵不意ヲ衝カレ寨

  ヲ棄テヽ走ル、此ニ於テ官兵其ノ寨ヲ焼ヒテ進ミ来ル、我カ軍ノ背後ニ

  煙焰ノ起ルヲ怪ミ、斥候ヲ遣ハシテ之レヲ伺ハシムルニ還リ報ジテ曰ク、

  薩兵已ニ敗レ官兵其ノ虚ニ乗ジテ、☐☐ノ村ニ放火シ潮ノ如クニ襲ヒ来

  ルト、時ニ本営命アリテ全軍ヲ高田ニ纏ムト、此ニ於テ薩肥共ニ本城ヲ

  退ク、然ルニ湯ノ尾口ノ米倉ニ薩ノ兵粮數千俵ヲ蓄フ、官兵急ニ迫マツ

  テ之ヲ奪ハントス、薩兵之レヲハバミテ拒ギ戰フ、熊本隊亦横ニ撃ツテ

  薩兵ヲ助ク、激戰數時砲声雷ノ如ク夜ニ入テ已マズ、

 長蛇ノ寨とは薩肥軍の陣地が川内川南岸に蛇行して連続的に存在したことを形容したものである。宇野東風編「硝煙彈雨丁丑感舊録」を掲げる。彼は当時未刊行だった古閑の日記や佐々の記録も参考にして執筆したという。上記の古閑の24日の内容は官軍の戦闘記録からみて30日の誤記ではないかと考えられるが、宇野もそう判断したらしく、30日のこととして書いている。

  三十日、暁、東軍來たりて、我が本城伊佐郡長蛇の塞を襲ふ。而して川

  内川の右岸に止り、水を隔てて銃火を交ふ。敵下流を亂して至る。薩兵

  守を去つて退く。協同隊之を見、進みて山上より敵の後繼隊を瞰射す。

  敵辟易して稍〃郤く。已にして敵の別隊、また一道より來たりて、我が

  側面より攻擊す。我が兵頗る苦戰し、淵上隊長奮鬪して之に死す。我れ

  敵を左右に受け、勢支ふべからず、退くこと數丁、險に據りて再び戰ふ。

  東軍益々猛進し、喊聲を發して逼る。我か隊敢死防戰す。銃聲山谷に響

  き、彈丸恰も蝗蟲の飛ふが如し。邊見其の苦戰の狀を聞き、一隊を發し

  て扶援せしむ。協同隊謝して曰く、厚意此に至る。實に謝する所を知ら

  す。然れども、我が隊堅守し、諸君をして左顧の憂なからしめむ。幸に

  念となす勿れと。遂に辭して受けず。

  而して其の上流の薩兵、亦敗れて高田へ退き、東軍其の寨を焼きて進み

  來る。我が熊本隊其の上流に在り、背後に煙焰の起るを怪しみ、斥候を

  して之を探らしむ。還り報して曰く、薩兵已に敗れ、敵火を放ち、勢に

  乗して來攻するなりと。時に我が本營より命あり、急に全軍を高田へ退

  くべしと此に於て、薩肥の兵共に本城を退き、高田山に守線を張り、我

  が四番中隊は、陣ヶ岡を守る。

 薩軍が退き、次いで熊本隊・協同隊が退いた高田は地図で確認できなかったが、湯之尾のほぼ南5kmに幸田という地名を発見した。高田は「たかだ」ではなく、「こうだ」と発音するのだろう。下図はその広域地図である。

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 「高田山に守線を張り、我が四番中隊は、陣ヶ岡を守る」とあるので国土地理院の「基準点閲覧」で探したら「陣の岡」という三角点が幸田集落の北側にあった。そこを熊本四番中隊が守り、付近を他の薩肥軍が守ったのである。鹿児島県教育委員会の「鹿児島県の中世城館跡」によると陣の岡には中世の城が造られている(奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」参照)。残念ながら縄張り図はない。周辺の村々を見下ろす高い地形が時代は違えど防衛上の利点を備えている訳である。高田山という特定の山はおそらく存在せず、幸田にある山という程度の意味だろう。現地を踏査すれば台場跡がたくさん残っているのを確認できるだろうと思う。

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 6月30日前後の薩軍の状況について、薩軍の雷撃十番中隊右小隊半隊長だった唐仁原叶の上申書が詳しいので引用する(「唐仁原叶上申書」『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』pp.245~249)。但し、二日ほど間違えて新しい日付を記しているようである。( )内に正しいと思われる日付を加えて示す。

  十七日(15日)本営ヨリ用向ニテ隊与決議アリテ、雷撃十番中隊右小隊

  半隊長ニ命セラル、十八日(16日)午前五時山野小木原ニ進撃終日撃合、

  敵味方勝敗ナシ、味方兵士二名手負、八幡原ヘ守ヲ付番兵ヲ置、十九日

  (17日)未明ヨリ大砲ヲ打掛互ニ大砲小銃終日撃合死傷ナシ、午後七時大

  口本営ニ至リ邊見ニ両日戦争ノ顚末ヲ語ル、邊見大ニ喜ヒ酒盃ヲ取リ十

  時頃帰リ守リ先ヲ廻リ、押伍ニ敵モ近クナル模様ニ付探リヲ打ヘシト伝

  フ、廿一日(19日)同断、廿二日20日午前三時敵兵進擊シ互ニ大小

  撃合、午前五時山手ノ方熊本隊守場ヨリ打敗ラレ引揚ノ形勢ニヨリ、押

  伍両名斥候ニ出、間モナク帰リ告ルニハ、山手ノ方熊本池邊隊ヨリ敗レ

  引揚タリト、聞ヨリ早ク台場ヨリ大口本道ヘ引出シ、里程七合計来ル時

  邊見ニ出合フ、此時夜既ニ明タリ、邊見云、池邊隊ヨリ敗立、左右ノ山

  手モ引揚実ニ残念ノ事ナリ、此上ハ本営輜重引揚ル迄此辺ニテ敵ヲ支ヘ

  ヨト、直ニ邊見ハ本営ニ帰、其後敵ヲ顧レハ英々声ニテ撃掛進来ル故、

  隊ヲ本道ニ伏セ敵二町程来ル時俄ニ起リ立惣進撃ノ処、大口山野境迄盛

  返シ、敵ノ死傷相応ニ相見、飛越々々進入ス、此ニ隊ヲ開カセ暫時ノ間

  戦フ内、山手左右ノ隊嚮ニ引タル故夾打トナリ、余義ナク散々ニナリ引

  上ル時中隊長平山・兵士竹添源兵衛手負、外ニ隊夫ニ名手負アリ、余ハ

  本営ニ至リ邊見ニ偶ヘハ、全ク子ノ働ヲ以テ本営輜重モ引揚タリト云、

  夫ヨリ邊見ニ随ヒ馬越往還ニ出、味方ノ兵隊残ラス馬越ヲ指テ引揚、同

  所ハ地利宜シカラス、故ニ本城郷ニ本営ヲ立、各隊皆引上ケ、余カ隊ハ

  一人モ来サル故、本営ヨリ湯ノ尾町口渡場ニ至リ尋レハ、散兵追々ニ集

  リ漸ク隊ヲ纏メ湯ノ尾町ニ引揚休息サセ、又々本営ニ至ル、本営ニハ各

  中隊三官打寄、守リヲツクベキ地利ヲ議ス、菱刈川ヲ敵味方ノ境トシテ

  川筋ニ守ヲ付ルニ血シ、余カ守場ハ湯ノ尾口舟渡場ニテ隊ニ帰リ直ニ守

  ヲ付、廿三日(21日)廿四日(22日)場詰休戦、廿五日(23日)ヨリ三十

  日迄同断、七月一日(6月28日)本営ヨリ湯ノ尾郷方限ヘ敵兵見ユルニ付、

  渡場ノ守ハ正義三番ニ譲リ、午前十時頃湯ノ尾郷麓ノ前ニ守ヲ付、二日

  (?日)午前八時ヨリ敵大炮撃掛、川ヲ隔テ互ニ終日発炮死傷ナシ、三日

  (30日)午前三時官軍進撃ニ及、曽木郷ノ内城山ニ番中隊ヨリ打敗ラレ、

  我持場ニモ打掛来リ、持留メタレトモ城山ノ味方敗レ来ルヨリ、友崩レ

  トナリ、横川往還小田村山ノ口ニ引上ケ各中隊ヲ伏セ、余カ隊ハ本道ノ

  右翼ニ伏セ、午後十時迄戦ヒ防留メ、午後十一時官軍引揚ク、味方隊長

  有馬戦死、分隊長一名・押伍二名・兵士三名手負、敵ノ死傷相分ラス、

 20日の敗戦後、薩軍は川内川、菱刈川としているが、を境に敵味方の境界とすることにし唐仁原の雷撃十番中隊右小隊は湯之尾の南岸の渡場を守ることになった。30日にはさらに退却し、小田村を守ることになった。これは熊本隊が高田と記す幸田村のことである。

 「薩南血涙史」は20日敗戦後の薩肥軍の動向について次のように記している。

  雷擊八番中隊(綾部)雷擊九番中隊(隊長未詳)は戰はずして靑木村を退き

  八番は本城鳥越に九番は菱刈に、破竹三番中隊(橋口)は栗野恒次に正義

  三番中隊(森元)は馬越に干城三番中隊(成尾)は曾木に鵬翼五番(渕邊)

  左翼成尾隊已に敗れ敵退路を遮斷せしを以て本城川内川の上流に向つて

  退却せしが敵の追擊急にして船を爭ひ爲めに溺死するもの六七名辛ふじ

  て本城に退けり又熊本隊は菱刈に干城七番中隊は湯の尾に退き新募兵遊

  擊八番隊と合併し、東條矢之進中隊長に重信榮之丞小隊長に綾部繁半隊

  長となり各隊川を挾みて對陣し、本營を本城に置き以て三十日に至る、

  此際遥に官軍を望めば其兵山野に充滿し壘を築き柵を樹え陣営數里に亙

  り其幾千なるを知らず。(pp.543)

 これによると20日の敗戦後、各隊が移動して新たに配置についた場所は、本城鳥越(雷撃八番)・菱刈(雷撃九番・熊本隊)・栗野恒次(破竹三番)・馬越(正義三番)・曽木(干城三番)・本城(鵬翼五番)・湯之尾(干城七番)が記されている。

 これ以外については上申書を調べてみた。湯ノ尾本道左翼川端(雷撃六番:「鹿児島県史料西南戦争第四巻」(以下同じ)pp.244・245)・曽木(干城ニ番pp.265~267・四五日して春持へ。pp.368)・湯之尾(鵬翼六番pp.347・正義四番:第二巻pp.148)などである。これらのうち、西端は曽木と針持で、一番東側は栗野の恒次である。対峙した官軍は大部分が第三旅団だが、東部は第二旅団に相対していた。

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 6月30日、第二旅団の戦闘報告表があり、川内川沿岸で大口から退却し守備をしていた薩肥軍と戦ったことを記録している。第三旅団とは違う様式の表であり、罫紙に線を加えて表を作成している。 

  六月三十日於薩摩国稲葉崎村戦闘報告表

  第二旅團第九連隊第一大隊第二中隊長代理陸軍中尉嶋野翠㊞ 

  総員:63(人数は要約して示す)

  戦闘景况ノ部

  本日午後第一時ヨリ弘田山ノ哨兵ヲ揚ケ稲葉崎ヨリ川内川ノ前岸ヲ砲弾

  ト相援ケテ攻撃ス賊遂ニ胸墻ヲ棄テ逃ル直ニ川内川ヲ越ヘ陣ケ岡ニ防禦

  線ヲ定メテ防守ス

 弘田山は場所不明である。川内川南岸には稲葉崎の西側に広田という地名があるが、この時点で官軍が南岸に渡っていたとは考えられず、右岸のどこかに弘田山があるのだろう。30日、午後1時から第二旅団が川内川対岸を砲撃とともに攻撃して渡河し、陣ケ岡に防禦線を定めたという。徒河した時間は分からない。次の脇阪報告が午後4時30分に徒河したとするので、この頃だろう。陣ケ岡とは幸田北側の山であるが、この山を奪う戦闘があったとは記していない。この文書の末尾の意味は薩軍陣ケ岡ニ防禦線ヲ定メテ防守したと理解した方がいいようである。

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C09083974700「明治十年戰鬪報告 第二旅團」0560・0561

  明治十年六月丗日於栗野郡稲葉崎村戦闘報告表

  第二旅団歩兵第九聯隊第一大隊第三中隊長代理

  陸軍少尉脇阪葦雄㊞ 総員:101人

  戦闘景况ノ部

  六月丗日午前第十一時三十分哨兵線ヨリ稲葉崎村ニ下リ我中隊一小隊ヲ

  配布シ川ヲ隔テ〃攻撃午后第四時三十分頃賊兵ノ走ルヲ追ヒ直ニ川ヲ徒

  渉シ平田村ニ至リ山上ノ賊壘ヲ焼キ續テ二渡リ村ノ西方ノ山中ニ進ミ同

  處ニ哨兵ヲ配布ス

 初め脇阪隊は稲葉崎村の背後の山上を守備していたのだろう。村に下って川岸から攻撃し、午後4時30分になって徒河した平田村とは稲葉崎の対岸西側にある広田村のことだろう。平田村は存在しない。広田村の山に敵の陣地があり、これを焼いて上流に向かい南東に進んで、二渡村の西側の山を占領して哨兵を配布したのである。

 この日の第二旅団の戦闘について「戰記稿」では右翼軍の一部だったことが分かる。つまり、左翼の方略は「川内川ヲ渡テ栗野ノ賊ヲ擊ツ」・中軍は「機ニ乗シテ川ヲ渡ル」であり、伊藤大尉・島野中尉・松本中尉の三個中隊は西村少尉の山砲二門、工兵三分隊と共に「稻葉崎ノ賊ヲ擊ツ」となっていた。他に三個中隊の援軍と一個中隊が「左翼軍ノ内ヨリ出テ近衛兵粟屋大尉ノ一小隊ニ代リ中岡大尉ニ属シ吉松口鶴丸ノ賊衝ヲ扼ス」ことになっていたが、これは最も東方に位置するので大口方面から退却した薩肥軍には直接的な関係はない。

 この日の結末について「戰記稿」を掲げる。

  午前七時右翼軍稻葉崎及ヒ城山ニ出テ前岸ノ賊ヲ擊ツ銃砲連發屡ゝ賊壘

  ヲ摧キ賊兵ヲ斃ス賊險崕ノ數壘ニ據リ殊死拒戰敢テ少クモ屈セス午後三

  時ニ垂ゝトスルモ未タ勝敗ヲ分タス是ニ於テ更ニ一中隊大久保大尉ヲ遣リ

  其戰線ニ介シ劇射之ヲ援ク又楢原山ノ戰線右翼ヲ進メ両中隊和智今村兩

  大尉ヲシテ十字火ヲ以テ前岸ノ賊壘ヲ猛撃シ賊ヲシテ川ヲ渉ル者ヲ要擊

  スルニ暇アラサラシム賊兵色動ク偶ゝ我砲彈彼壘中ニ著發シ一壘皆斃ル

  賊兵益ゝ驚ク是ニ於テ我三中隊島野中尉脇阪少尉吶喊奮進躍テ稻葉崎麓

  下ノ急流ニ入ル時ニ水方ニ漲リ其疾キ箭ノ如シ而シテ一人ノ溺ルヽナシ

  田村伊吹木工三郎両少尉下士以下十四名ヲ麾キ先ツ上リ赤身直チニ瀬

  岸ノ賊壘ニ傳キ短兵搏戰遂ニ奪フテ之ニ據リ仰テ山上ノ餘賊ヲ攻ム先鋒

  諸隊叱咤之ニ繼キ皆濟ル既ニシテ橋筏成ル山口少佐右翼援軍ヲ率テ濟ル

  是ニ於テ先キニ壘ヲ奪ヒシ者氣ヲ得テ益ゝ奮ヒ躍テ山上ノ賊壘ニ入リ叱

  咤賊兵ヲ驅ル諸隊繼テ進ム賊兵狼狽數十ノ堅壘ヲ棄テ火ヲ民家ニ放チ栗

  野横川本城ノ地方ニ分走ス我軍兵ヲ分テ之ヲ遂フ日ノ暮ルニ會ヒ乃チ止

  ム遂ニ諸隊ヲ擺布スル左ノ如クシ以テ陣跡山ノ賊壘ト俯仰相對持ス蓋シ

  此間ノ地形重巒複嶽互ニ相匝合シ賊ハ其高所ニ據リ我ハ稍ゝ其中間ニ在

  リ故ニ壘壁ヲ急造シテ夜ヲ徹シ工兵勞ヲ極ム

上記に言う諸隊ヲ擺布スル左ノ如クシは表になっているが、文字で示す。

  左翼:廣田村・ニ個中隊・大久保大尉利貞 伊藤大尉

  正面:山 上・一個中隊・松本中尉

  右翼:二渡村・二個中隊・今村大尉 島野中尉

 この続きには栗野麓や吉松越などの下図の右側、東側地域の記述があるが、略す。

 上記「戰記稿」第二旅団 の最終の配置状態を図示すると下図のようになる。この他、第三旅団の戦闘報告表にも各部隊がこの日どこに停止したのか位置が記録されているが、場所不明の所が多いので図示できなかった。例えば、アバノ山(居藤隊)・廿二羽石山(本城隊)・長池ノ岡(中村隊)・小越瀬村(矢上隊)・本城岳の前からテントウ岡山に移動(横地隊)・タカムネ山の前山に敵がいて、テントウ岡山に沿うところに移動(浮村)・左翼の高山(岡隊)・本城ケ嶽(齋藤隊)や湯之尾渡口対岸付近などである。これらの位置は下図の上左部に守備をつけ、第二旅団に隣接していた筈だが。 

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 この日最後は陣跡山(陣ノ岡)の敵と対戦して戦闘を継続している。薩肥軍側が高田や小田と呼んだ幸田集落の北側にあるのが陣の岡と呼ばれた陣跡山であろう。大口町の北西側で高熊山から鳥神岡までに戦線を築いたように、幸田山を中心に新たな戦線を構えて官軍の進行を止めようとしたのである。これは官軍の一部が本城ケ嶽、本城岳と呼んだ山およびその周辺のことである。上記の内、本城ケ嶽に進んだ齋藤隊はその末端部に守備を付けたのだろう。

 このように6月30日に官軍が湯尾町ヨリ横川本道ニ進撃山上ニ對シ終夜防戦ス(弘中隊0389)・本城岳前迠進ミ同所ニ防禦ス(横地隊0405)などのように本城地域に止まっていたのは、薩肥軍がその地域に守線を張り抵抗していたからである。