はじめに
別働第二旅団司令長官山田顕義少将の西南戦争中の漢詩を紹介したい。
これは軸あるいは額から剥がしたのか裏に和紙が貼りついた状態である。本紙の大きさは縦114㎝、横63.5㎝で、朱印が三ヶ所にある。印影の大きさは上右のが縦3.9㎝・横2.1㎝、左下の2点はどちらも縦横3.4㎝である。三行にわたり七言絶句が書かれ、左に空齊という山田顕義の号に主人を続けている。便宜的にこれを作品イと言おう。漢詩は捷報未来人未還 思迷官賊両軍間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山である。読み下すと次のようになろう。
捷報(勝ったという報告)未だ来たらず (報告のために帰ってくるはずの)人未だ還らず 思い迷う官賊両軍の間 一夜海南の天色赤し 王師(天皇の軍隊)今まさに郎山を度せんとす
類似作品
作品イとよく似ているが全く同じではない漢詩が日本大学発行の「山田顕義傳」にある。これを作品ロとしよう。実物の写真がなく活字だけが示されている。
「陣營中偶作」
未看傳騎報勝還。思到兩軍官賊間。一夜海南天色赤。王師今應度卽山。
である。第一句は作品イが捷報未来人未還であるのに対し、作品ロは未看傳騎報勝還と表現が異なる。ただし、勝ったという報告をもたらす人が帰ってこないという状態を歌うのは同じである。第二句も思い迷うのか、思いは到るのかと表現が異なるが差異は小さい。第三句は同じである。第四句は最後の二字を郎山と読むのか即山と読むのか、おそらくはどう読むのか解釈が分かれたのだろう。「即山を度せんとす」は意味が通じないと思うがどうだろうか。しかし、郎山を度せんとす、といってもそのままでは意味不明である。ただし、何々郎山のことを漢詩に適したように郎山と略したのなら、理解できる。
日本大学からはこれとは別に、西南戦争中の山田の漢詩が5点公開されている(丸山茂他「學祖 山田顯義漢詩百選」1993年3月日本大学広報部編)。そのうちの一首は「山田顕義傳」と同じものを四字だけ違う字として解釈したもののようである。
「陣營中偶作」
未看傳騎報勝遠 思到兩軍對塁間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山
である。前記の作品ロとの違いは第一句末の字が還ではなく遠であることと、第二句が両軍ではなく對塁となり、第四句が即ではなく郎とすることである。この本にある写真(下の写真)では還の字が小さく、しかも不明確であり、敢て遠と読む必然性は認められない。作品イのように還と解釈してよいだろう。両軍と對塁を読み間違える訳がないので別物が存在したのだろう。
制作の時期と場所
郎山とはどこにあるのだろうか。前出の丸山氏は「陣營中偶作」を次のように解釈している。「いまだに遠く離れた征討軍から 戦勝を報ずる伝令の馬が現れない 我が思いは 官・賊両軍の激戦地へと飛んでゆく 夜通し 海南の空は 赤々と燃えている 天子の軍は 今まさに五郎山を渡ろうとしているに違いない」というものである。
そもそも何時の作品だろうか。海南という言葉を使っているので東日本が戦場となった戊辰戦争時の作品ではなかろう。やはり西南戦争時に詠んだものだろう。丸山茂氏は、郎山とは熊本県玉名郡玉東町の五郎山を二文字にしたものと記述している。そうだろうか。五郎山は田原坂の西南にあり、横平山の北東側にある低い山であり、「征西戰記稿」によると、3月9日・3月14日に官軍が攻撃し、14日には一部を奪い、15日からは五郎山争奪は戦記に登場しなくなる。この時点で官軍の占領地域に入ったらしい。この時期は熊本城救援のため新たに編成された衝背軍が登場しておらず、山田少将もこの頃まだ九州に出張していない。海路長崎に上陸したのは3月23日で、翌日八代に着いている。五郎山のことなど知らなかっただろうし、知っていても気にして漢詩を作るほどの関係にはなかった筈である。陣營中偶作という題名からも戦地での作であることが分かる。
郎山とはどこか
では郎山とはどこか。「征西戰記稿」や「薩南血涙史」などに出てこない郎山が実在するとは思えない。何々郎山を略して郎山としたと考えるしかない。熊本県水俣市には矢城山という戦跡がある。市街地の東方約6㎞にあり、尾根続きのさらに東側には何度も激戦があった大関山がある。この方面を担当した官軍は別働第三旅団である。別働第二旅団の山田は直接関係ないと思われるかもしれないが、実は山田は4月18日に総督本営から次の辞令を受けている。
平佐大尉(是純)征討總督ノ命ヲ奉シ隈庄別働第二旅團ノ牙營ニ至リ辭令書
ヲ山田少將ニ傳ヘ別働第一二三四旅團ノ總轄ヲ命ス
(「征西戰記稿」巻二十三 熊本聨絡九)
従って山田が配慮すべき管轄地域は水俣も当然含まれるのである。
次は5月15日に別働第三旅団司令長官川路利良少将が水俣から山田に提出した報告である(C09085364200「諸向来翰 乙 別働第二旅團 明治十年五月ヨリ起」防衛省防衛研究所蔵)。
當團髙岳山ノ尾ニ有之砲塁ハ賊壘ト接近シ賊襲来ノ色アルヲ以テ昨十四日午
後三時三十頃我兵進ンテ直チニ賊塁ヲ乗取リ尚深川村(賊ノ費出所アリ) ニ
火ス然ルニ矢代山ノ賊依然砲塁ニ據リ我中線ノミ進メ候テハ萬一ノ虞有ルヲ
以テ右山尾(即賊塁アル所ノ地)ニ引揚ケ固守致シ候其節生捕分捕(臼砲小銃
中隊旗)等モ有之其他死傷追而取調可申出候ヘ共不敢取概畧御届申進候也
別働隊第三旅團司令長官
明治十年五月十五日 陸軍少将川路利良
陸軍少将山田顕義殿 ※原文通りにニ段書きできない部分はカッコに入れている。
ここに登場する矢代山には薩軍がいて、官軍にとって憂慮すべき存在だとの内容である。でもこれでは郎山とつながらない。この後、5月20日に川路から山田へ報告が来ている。
以下は川路少将から山田少将宛(5月20日)・山田少将から山縣参軍宛電報(5月22日)・別働第二旅団黒川大佐から山田少将宛(5月22日)の三通を合冊して、5月22日に山田少将が山縣参軍に宛てた文書である(C09082213300「明治十年自三月至八月 別働第三(第二)旅團戰闘報告 軍団本營」防衛研究所蔵0619~0626※)。黒川大佐の文は人吉関係だから略す。
別帋之通届出候間比段御届申候也
十年 別働第二旅団司令長官
五月二十二日 山田陸軍少将
山縣参軍殿
一 昨日中尾山ノ賊ヲ掃撃後續テ昨日鬼ケ岳ニ並ベル巧ミ通シヲ乗取候処弥
二郎山ノ賊戦ハズシテ狼狽逃走ス依テ直ニ賊塁ニ人リ陣営ニ放火セリ此
時討取壱人生捕壱人アリ我軍死傷ナシ
今朝薩州ウハバノ原ニ向テ大斥候ヲ出シ置候同所ハ薩州小川内ヘ一里半六ケ
所番所ヘ七合程之道程之由ニ承リ候尚其後ノ景况ハ後ゟ可申進候
一本日桜野村ニ於テ賊鹿児嶋縣士族田尻嘉兵衛ナル者ヲ生捕ル
右概畧及御届候也
別働隊第三旅團長
明治十年五月廿日 川路陸軍少将印
山田陸軍少将殿
ここに弥二郎山という表現が登場する。前後の戦況からみて、矢城山または矢代山と呼ばれる山のことであろう。水俣市を東西に貫流する水俣川の左岸に中尾山(標高334m)があり、この山は市街地から3㎞弱南東に位置する。その南東約7㎞には鬼岳(標高734m)がある。右岸には大関山(標高902m)や、その西8㎞ほどに矢城山(標高586m)がある。矢城山には5月14日あるいはその直前から19日午前1時頃まで熊本隊が守っていた(佐々友房「戰袍日記」)。15日の川路の報告では矢代山になっている。矢城山・矢代山・弥二郎山と様々に呼んでいるが同じ山とみるべきである。戦況の変化により矢城山が官軍の中に突出する形になったので熊本隊は東側に退却したのである。
熊本県南端の水俣の状況、矢城山・矢代山・弥二郎山周辺について山田は山縣参軍に報告しているのである。この直前には水俣から鹿児島県北西部の大口盆地の山野に進入した官軍であったが、逸見十郎太率いる薩軍に西方に追い返され、水俣に退却しての交戦状況報告であり、山田は気にかけていたのである。当時、彼は八代を拠点に球磨川流域の戦線を繰り返し巡視しており、まだ人吉盆地突入は十日ほど先である。人吉の南に隣接する大口(伊佐市)への川路の部隊の進撃状況は気になるところであった。その思いと考えたい。
おわりに
以上、郎山とはどこかということで考えてみた。捷報未来人未還 思迷官賊両軍間 一夜海南天色赤 王師今應度郎山の第一句は別働第三旅団川路少将から勝利の報告が来るのを待っていたということではないだろうか。郎山とは矢城山や矢代山あるいは弥二郎と呼ばれた山であろう。