西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 5月 

  5月5日、第三旅団は直前に第四旅団の一部を吸収合併していたが、その26個中隊は本拠を馬見原(厚東中佐)に置き、新町(古田少佐)・高森町(大島少佐)・上色見村(坂本大尉)・黒川村と大津町と下市村と村山村(友田少佐)・下色見村(川村少佐)に部署を割り振った。4月19日時点では安満隊は川村少佐に属していたので、そのままだとすれば安満隊は下色見村が配置先であろう。色見村は阿蘇五岳の一つ、高岳の南東麓にあり高森町の北側に位置する。

 5月6日薩軍熊本県南部の人吉や熊本県境に近い宮崎県江代に移動してしまったことが判明し、三浦は総督本営に建議した。

  方今一旅團ノ兵員ヲ舉ケテ高森地方ニ置クト雖モ曾テ攻守ノ用ヲ成サス且

  三田井口ノ如キハ既ニ熊本鎭臺ノ分屯アリ更ニ向フ所ヲ定メ賊衝ヲ突クニハ

  若カス

 本営もこれを認め、三浦は「高森地方ノ諸兵ヲ収テ熊本ヨリ八代ニ至ルヘシ馬見原ノ分遣兵ハ便路八代ニ至レト」命令し、第三旅団は東向きの進軍方向を南西方向に変換することとなる。7日、軍団本営は夏略衣について雛形を示して通達している(「西南戰袍誌」pp.56)。

 8日時点の新たな守地は熊本県宇土半島基部付近の隈庄・宇土町・松橋である。安満隊は大島少佐に属して他の6個中隊と共に宇土町に配備された。

 5月9日、八代の牙営で別働第二旅団の山田顕義少将、別働第三旅団の川路利良少将と会議したが、その際、川路が水俣口の戦況不利を語り、翌10日、三浦・山田は再度協議し、第三旅団の10個中隊を水俣口救援の先鋒として翌朝派遣することを決めた。この日、第三旅団の兵卒以上の人数は3,460人だった。11日第三旅団先鋒を乗せ、汽船貫効丸は八代を投錨し水俣に向かった。

 貫効丸は1869年英国で製造した318トンの木造蒸気船である。1時間に24kmの速度を出せた(単行書・処蕃類纂・会計 単00786100アジ歴)

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  過刻御面談之後只今寛功丸水俣ゟ到着第三旅團士官帰来承候得共別動第三

  團ゟ山江差出有之候兵隊も昨朝賊ゟ襲来セラレ遂ニ石坂迠引揚其後陸續襲

  来此度者余程多分之賊勢ト相見申候都合ニ依而者出水江出張之兵も引揚可申

  支議通報有之然而者先刻弐中隊丈ケハ水俣近傍ニ残置候様可相達ト申上直ニ

  其侭相達候得共右之仕合ニ付弐中隊ヲ水俣ヘ残置候得者必☐出水ハ引揚可申

  ト存候何分一且官軍之入込候地ヲ容易ニ賊有トな須樣ニ而者大ニ人心之帰向

  ニ関係シ自カラ威令も不相行樣可相成と存候間兎ニ角出水ハ固守致様申遣進

  候ニ付御地滞在兵之中今弐大隊至急彼方江出張相成候様御指揮可被下候之此

  段申進候也

   五月十一日       三浦少将

              山田少将 (※ニ段表示できない)

   山縣参軍殿

 

    第三旅団はこのあと佐敷・水俣にまたがる大関山周辺に一ヶ月前後展開し、ここを舞台に薩軍と戦闘を繰り返すのだが、第三旅団が現れる前の大関山の状態を振り返っておきたい。

 5月3日、川路少将の別働第三旅団は一小隊を大関山に配置したのを始め、石坂口・大河内と古里・寒川村の八切嶺・猩々坂・久木野村に部隊を展開した。大口方面の出入りを抑えたのである。4日、大口西部の山野村などの薩軍を襲って占領し、5日後続部隊も山野に進んだ。6日、大口に向かって進軍したが牛尾川で薩軍が迎え撃ち、官軍は山野村に下がって守備をした。8日、薩軍大関山・八切峠・大河内村に来襲し、官軍は日当野に退却して守備を配置した。10日、官軍先鋒の山野村が襲われ、官軍は水俣市深川村の高岳・金毘羅山・中尾山に退却した。11日、高岳・深川街道・深渡瀬・金毘羅山・矢代山などが襲われ16日まで戦闘が続いた。その間の12日、大関山から北に延びた尾根の東側にある大野村を本営とした薩軍佐敷町まで襲来した。この時点で薩軍大関山と北側に続く約10kmの尾根(掃部越・札松峠等)を占領していた。

 上記の文書は、薩軍の攻勢が続くので、5月11日、第三旅団の三浦少将と別働第二旅団の山田少将が陸軍の山縣参軍に二大隊の出兵を要請したものである。上記の報告は一例だが、このような書面が頻繁に行き来したのである。幸いに今、これらを見ることができるが、ネットやデジタル時代の現在の情報が将来どれほど残るのか心配になる。

 水俣に第三旅團5個中隊を運んだ貫効丸は11日午後もしくは12日に八代に帰り着き、その日の午前3時三浦以下はこれに搭乗して八代と水俣の中間にある佐敷に移動した。この12日朝、佐敷東方の鉾野峠や佐敷中心部に向かって薩軍の襲撃があった。その薩軍は人吉方向からではなく、南東側から出発している。背後には後々戦闘がある札松峠や大関山、国見山がある。第三旅団は到着したばかりだったが、古田中佐の2個中隊が佐敷駐屯の別働第四旅団に加勢し撃退に成功した。

 「戰記稿」によると、この12日の薩軍の攻撃は鵬翼隊約300人が鉾野峠南東3,8kmの祝坂方面から三方向に分かれて官軍を襲撃したものだった。一手は桑原・田川の哨兵線を、二手目は兼丸山を襲いこれらが佐敷の町中に迫ったのである。兼丸山の位置は同名の中世山城跡から推定すると、宮浦川と佐敷川の合流地点の北東側に突き出た尾根の先端付近であろう。もう一手は塩汲山の麓から松生峠という恐らく鉾野峠の東側であろう場所を襲い、続いて鉾野峠に襲い掛かった。この日、薩軍は明け方の暗いうちに出発し、戦いは午前8時に薩軍の退却により終わった。この方面攻撃の薩軍は本拠を祝坂の南1kmの大野村を根拠地にしていた。

f:id:goldenempire:20210630073410j:plain    12日、大口から水俣に川路の旅団が退却してきたので、水俣は約二千の兵となり第三旅団の存在は過剰に思えたので佐敷に退いて水俣と佐敷の中間の空虚を埋めることにした。

 第三旅団の水俣派遣兵を佐敷に引き揚げる命令を水俣に派遣されていた揖斐大佐に伝えるため亀岡少尉試補が12日、水俣に着き、川路少将に伝達している。しかし、鹿児島県大口から水俣に退却してきた川路旅団は弱々しかった。

  水俣の景況は警視隊一たび山野に敗れし以來畏縮振はず、既に深川村も奪

  現に水俣背後の矢筈彌次郎兩山に在て僅かに敵を支へ、陣町の如きは往々彈

  丸の達する距離に敵あり恟々とし輜重糧食の如きは汽船に積載し一歩を誤ら

  ば悉く海に投せんとする勢なり、故に強て警視隊の請求に依り先着近衛、鎭

  臺兵の若干を防禦線に出だして援助せしむ警察官の云ふ所は我等既に賊の悔

  慢する所となり、如何ともする能はず只黄帽鎭臺兵を指すの影を視するのみに

  て足れり赤帽兵の如きは望外の賜ものにして實に蘇生の思ひあり或は・・

  (「西南戰袍誌」pp.59・60)

という状態だった。川路は揖斐が佐敷に帰るのを強いて止め、その説明の使いを三浦のもとに遣っている。

   16日の第三旅団守線は以下のようである。右翼(津奈木川ヨリ中尾村ヲ經テ上木塲ニ至ル)・中央(上木塲ヨリ石間伏ヲ經テ豊澤ニ至ル)・左翼(桑原ヨリ鋒野峠異体字山ヲ内線トシ大尼村ノ岐路ニ至ル) 

 当時、第三旅団は歩兵19個中隊・工兵4分隊・砲兵2分隊があり、この内から内藤少佐を司令官として4個中隊を上木場に配置している。中央の豊澤(後出の「熊本県の地名」では、1875年に長崎村と豊尺村・楮ヶ迫村が合併し丸山村になっている。豊尺のことか。下図の大関山の北北西約5km付近だろう)と中尾村が場所不明で大尼村は大尼田村である。右翼は川路の別働第三旅団と連続していた。

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 5月18日、薩軍が上木場を襲撃した。

  午前十時久木野ノ賊凡ソ二百餘砲二門ヲ以テ第三旅團上木塲ノ守線ヲ襲フ

  兵直チニ應戰ス賊更ニ兵ヲ增シ來リ迫ル乃チ若干ヲシテ大關山ニ迂回セシメ

  賊ノ側面ヲ擊ツ午後七時彼レ少シク退ク我兵追擊夜ニ入テ兵ヲ収ム

 第三旅団は芦北町上木場に進み、南側下方の水俣市久木野を臨んで守線を張っていたのである。久木野は大口と水俣市街を結ぶ水俣川支流域の集落である。明治時代の地図平凡社の「鹿児島県の地名」『日本歴史地名大系』附録地図)を見ると久木野を通る北西から南東へ続く山道が主要道路となっているようであるが、この道は戦国時代や安土桃山時代にも使われている(「上井覚兼日記」)。後日出てくることになるが、第三旅団は小川内を通り鹿児島県の山野村に進軍しているのである。上木場集落は左に大関山を控え、後方には三十丁坂の要所があり、右には水俣の諸山と対峙する重要な場所の集落である。

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 この時は官軍守備範囲には大関山は入っておらず、西側の上木場集落が襲われた。この戦闘にかかわったのは歩兵5個中隊で494人だった。戦死2人・負傷17人。再び翌19日午前10時、上木場は正面からというから南側から襲われ午後6時官軍は三十丁坂に退却した。地図では三十挺坂とある。

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 この19日の安満隊の戦闘報告表が存在する。表は下図だが、抜き出して記述内容を掲げておきたい。

   C09084784000「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」0017・0018

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸愛 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:長左エ門釜

  戦闘ノ次第概畧:士官壱名三分隊ヲ引ヒ分進シ長左門釜ニ至リ其地勢タル

  前後渓谷ニ樹木繁茂更ニ展望ナク一線ノ道路ナルアル而已時ニ午前第十時賊

  兵凡ソ三百余突然前面左翼ヨリ襲来ス遂ニ我隊利アラスシテ退却ス

  我軍総員:四十三人 死者:下士卒貳名 傷者:下士卒三名 

  生死未明:下士卒壱名

 43人は三分隊の人数である。

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 19日の戦闘報告表は他にもあるので掲げる。

C09084784100「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0019・0020

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第一大隊第三中隊長心得 井上親忠㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡上木塲村 

  我軍総員:73  傷者将校1 下士卒7

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時頃賊兵進擊ス因テ死力ヲ尽シ之ヲ防クト𧈧モ

  寡支エ難ク終ニ午後第五時頃上木塲村ノ后方ノ山ニ引揚ケ之ヲ防ク

C09084784200「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0021・0022

  第三旅團歩兵第八聯隊第一大隊第一中隊長 矢上義芳 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:上木葉村出ノ山 我軍総員:95

  傷者 下士卒5  生死未明 下士卒2

  戦闘ノ次第概畧:十九日賊大ニ兵員ヲ増加シ左翼ニ在ル諸中隊ヲ衝突シ后

  敗走賊益進撃我隊ノ背后ニ出テ挟撃ス我隊防戦之ヲ務ムト𧈧モ勢ヒ支フヿ能

  ハス三十丁坂ニ退キ防戦

C09084784300「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0023・0024

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:肥後國芦北郡古石村ノ内境石 

  我軍総員:105 

  戦闘ノ次第概畧:午前第十一時安満大尉ノ隊ヘ援隊トシテ肥後國芦北郡古

  村ノ内長左衛門釜ヘ進発大ニ苦戦午后五時三十分境石ヘ退却同處ニ於テ留戦

  直ニ大哨兵ヲ備フ (※境石は場所不明)

C09084784400「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0025・0026

  第三旅團近衛歩兵第貳連隊第壱大隊第三中隊長 陸軍大尉大西 恒㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:上木塲長左衛門釜 我軍総員:147 

  死者:兵卒4 傷者:将校1 伍長1 兵卒14 生死未明:伍長2 兵卒6 

  人夫2

  戦闘ノ次第概畧:五月十九日午前第五時発裡ニ而當中隊山田中尉引卆ニ而

  大斥候上木塲ヘ出張然ル所長左門釜敗走ノ越(※趣のつもり)ニ而直ニ為援隊

  出張午後第四時過迠防禦終ニ戦破ス亦直ニ上木塲ヲ防禦ス

 長左衛門釜の場所は不明。「戰記稿」の19日の記述から検討する。

  十九日午前十時賊又上木塲ヲ侵シ正面左翼ヲ猛擊ス我兵奮激必死格鬪スレノモ

  彼益〃兵員ヲ增シ勢頗ル猖獗我兵最モ苦戰シ午後六時遂ニ退テ三十丁阪ノ上

  ニ據リ力ヲ竭シテ之ヲ拒ク(※この日の戦死14人・負傷59人)

C09084784500「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所蔵)0027・0028

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第四中隊 曹長神尾一信㊞ 

  戦闘月日:五月十九日 戦闘地名:大関山 我軍総員:95 死者:下士1 

  兵卒7

  傷者:中尉1 少尉2 下士9 兵卒13 生死未明:下士1 兵卒3

  戦闘ノ次第概畧:午前第十時頃ヨリ賊我撒兵線ニ向テ襲来ス我隊賊ノ☐☐

  ヲ撃チ大ニ戦ヒシカ后ニ至リ賊ノ勢ヲ増依テ必死防戦ノ術ヲ尽ストノモ遂ニ防

  守スル能ハスシテ上木塲村ニ退却ス三十峠ニ防禦線ヲ定ム

 5月19日午前十時に開戦し、正面(前面)左翼からの攻撃を受けたことは安満・神尾の戦闘報告表と同じである。分かっている登場場所は上木場や三十丁坂である。その他不明場所も周辺にあるらしく、また大関山の西側地域のようである。

 平山隊は午前11時に長左衛門釜に応援に駆け付けているので、途中から参戦したのだろう。しかし、午後6時に退却し三十丁坂の上で防戦したことは安満の戦闘報告表にはなく、長左衛門釜と三十丁坂がそれほど離れた場所ではないのだろう。「戰記稿」は官軍が退いた先が三十丁阪の上だとしている点、長左衛門釜はそれよりも高所の尾根続きか。

 神尾隊は三十峠に退いているが三十丁坂の上り切った辺りだろうか。井上隊は上木場村背後の山で防いでおり、隊によって別の場所に分散して薩軍を防ぎとめたのである。他の隊の最終位置は分からない。下図にこの日の戦いに関する推定場所を示す。

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 この件に関する薩軍側の記述を見ておきたい。「薩南血涙史」では5月20日の久木野の戦いとしているが、官軍の記録には20日に該当するものがないので、日付の間違いであろう。

  五月二十日

  官軍別働第三旅團の兵久木野に進入するの報あり、是に於て大野本營淵邊

  平諸將を會し之を襲撃するに决し、兵を分ちてニとなし一は山路より一は正

  面よりす山手の先鋒は干城八番中隊(禰寝重邦)正面の先鋒は干城三番中隊

  (成尾)たり干城四番中(岩切)は山路の後軍たり、諸隊(諸隊の數明を欠く)

  く久木野に向かつて進發す、行々斥候を發して敵狀を偵察せしむ、斥候還り

  報じて曰く「敵合既に近し且つ山際に守壘あり」と、禰寝隊因て潜に兵を進

  め左右の山間に兵を伏せ漸く敵壘に近づくや一薺の發銃を期とし三面一時に

  衝入せしかば官兵一支にも及ばず塁を棄てヽ潰走す山路の切隊尋で又逼り

  共に追擊し進みて官軍の營を斬る、官兵兵仗を委棄して走る、此時正面の成

  尾隊及び其他の諸隊(隊號未詳)亦敵を敗りて來り會す此戰ひ僅々一時間餘

  にして大勝を得、銃器彈藥其他の物品夥多を獲たり、然れども此地守備の要

  地にあらざるを以て日暮大野に歸陣せり、

 5月19日(20日は間違い)、大野村には淵辺群平がいて官軍が久木野に進入したことを知り、久木野を攻撃することにした。この官軍は第三旅団である。戦場になったのは上木場や長左衛門釜であり、大関山の南麓にある久木野では戦いはなかった。薩軍は大野村から久木野村経由で大関山方面に向かったということである。官軍は上木場の本営を捨て、多量の武器弾薬が奪われたというが、戦闘報告表には奪われた記録は見られない。おそらく本営に集積していたものが奪われたのであり、各隊が戦闘中に奪われたのではないので、それぞれの戦闘報告表には記されなかったのだろうか。  

 もう一つ薩軍側の記録を掲げる。5月12日の佐敷攻撃部分から、19日以後についても引用する。

  同十三日頃我隊外二中隊ヲ以テ佐敷駅ヘ進撃ス、官兵固守シテ連射ス、我

  斉ク進ムト雖トモ銃丸雨注ニシテ官ノ柵ヘ近ツクコト不能、遂ニ大野村ヘ退

  キ旧地ヲ守ル、同十九日頃久木野村ヘ官軍寄セ来ルトノ報知アリ、依テ我隊

  外五六中隊ヲ以テ進撃セントシテ同所ヲ発シ第午前十一時頃ヨリ交戦ス、数

  時間ヲ過スト雖トモ進撃ノ詮全ク不見得シテ、一同奮発シ烈撃スル処、午后

  五時頃ニ至リ終ニ官兵敗走ス、銃器・弾薬等数多分捕ス、我兵該地ヲ守ル、

  同二十四日未明ヨリ官軍我守兵ヲ襲フ、我兵防クコト不能テ弐三丁退キ暫

  時防戦シ、我兵再ヒ奮撃シテ官兵ヲ走ラス、此時自分ニモ銃創ヲ負ヒ鹿兒島

  県大口郷病院之様護送セラレ療養ヲ受ケ(以下略)            

  (「堀内只治上申書」pp.895・896『鹿児島県史料 西南戦争第二巻』)

 佐敷町攻撃は5月12日である。18日と19日の戦闘開始時間がほぼ同じ10時頃で、終わったのは午後5時頃だったと後掲の官軍側戦闘報告表は記す。この上申書で19日とあるのは18日の可能性もある。これも分捕り品が多かったと記す。薩軍側の状況の一端を窺うことができる。

 22日に戦況観察に来た第二旅団の報告があるが(後出)、それによれば死傷者の銃・弾薬が奪われたとある。「戰記稿」によると、この戦いで官軍側は死者13人、負傷者59人、失踪15人が生じている。「西南戰袍誌」によると官軍は歩兵6個中隊と3分隊、砲兵1分隊(山砲1門・臼砲2門)で計691人だった。他の諸隊(隊號未詳)とあるが、遊撃ニ番小隊の妹尾包道と財部實治の上申書に、この戦いに参加したとある。財部の該当箇所を掲げる。

  未明ヨリ大野村ヲ発シ上木場ニ着ス、双方台場ヲ築キテ互ニ応炮ス、因テ

  山ヲ経テ官軍ノ横合ニ突出、縦横奮戦五六町追撃仕候処、官軍要害ヲ取リ一

  足モ退カス激戦時ヲ移ス、然ル処応援相続キ一層力ヲ得、其上小高キ岡ヨリ

  大炮ヲ連発スルニヨリ官軍防ク事能ハズ、台場ヲ捨テ引退ク、此日小隊長江

  口盛一戦死ス、外ニ手負数名、其夜野陣ヲ張リ翌日大野村ヘ帰陣ス 

  (「財部實治上申書」pp.11~14『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』)

 18日に薩軍が大砲2門を使ったと「戰記稿」にある。大砲を使ったことは「薩南血涙史」にも載っているが、三日後の久木野の戦いの部分である。三日後も同所で戦いがあったというのは何かの間違いらしい。上申書では双方が台場を築いたとある。午前10時頃から午後5時頃まで7時間くらい続いた戦闘中にも台場を築いたのである。戦跡が残っているなら具体的な両軍の進撃場所が分かると思う。戦闘中の台場築造といえば、観音山大分県佐伯市と宮崎県延岡市では10時間くらいの戦闘があったが、攻めた側の官軍が進撃した尾根に、敵のいる方向を意識した台場を点々と残していて、官軍がどの尾根から登ってきたのかが判明したことがある(高橋2002「宗太郎越え周辺のできごと」pp.110~135『西南戦争之記録』第1号)

 西南戦争の戦跡を調査すると台場跡・休憩所跡の平場削り出し部などの遺構のほか、銃弾や薬莢・砲弾などが出土するのが一般的な在り方である。たとえば、大分県佐伯市椎葉山戦跡は薩軍が守っていた複数の台場を築いて守っていた陣地を官軍が一度だけ攻撃し、官軍が敗退した戦跡である。大分県埋蔵文化財センターが台場跡を測量し、周辺をあまり広くではなかったが金属探知機を使って遺物の分布状態を1点1点記録したところ、官軍が進撃した経路や、薩軍が台場群の前方に構築していた柵列の位置が浮かび上がってきた。戦記の記述を裏付ける具体的な調査例となったのである。

 椎葉山例を持ち出してきたのは以下の理由である。今後、考古学的な立場で金属探知機を使用し広範囲を調査すれば、大関山・国見山・長左衛門釜や上木場・掃部越・札松峠等々集中的に戦跡が分布する地域でも同様以上の成果が期待できると思われるからである。ただ銃弾を拾い集めてみたいとの興味だけで盗掘するのはやめて欲しい。戦闘の記録が消滅してしまい、取り返しがつかなくなる。

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 大関山周辺で戦闘が行われた5月から6月以降は、薩軍が小銃弾として最適の鉛不足状態になっており、鉛に錫を混合した銃弾や、錫だけの銃弾を使い始めた段階である(高橋2017「西南戦争の考古学的研究」吉川弘文館。比重の重い鉛は火縄銃段階から銃弾として重宝されてきた。西南戦争では鉛や錫・銅が手に入りにくくなった7月段階に、銃弾としては軽すぎて不適な鉄製品が登場している。これは薩軍側の話であり、官軍は終始鉛製銃弾を使っていたので、5月からの戦跡では両軍の発射した銃弾を判別しやすい。

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 広範囲に遺物分布を調べれば、官軍や薩軍の遺物が尾根の中で分かれて分布する状態が確認でき、戦闘経過を戦記と比較検討できるようになるかも知れない。ただ単に台場跡だけが戦跡ではないことを認識していただきたい。

 5月20日、上木場に対する薩軍の攻撃が盛んなので三浦梧楼少将は敵の勢いを分散させようとして大関山の北方にあるらしい札松越の攻撃を計画した。数年前、岡本真也さんと大関山や中尾山・久木野を歩いたことがある(岡本さんに問い合わせたところ、それは2017年5月27日であり、その際高橋が作製の四本杉台場跡位置図を持参していたことを思い出させてくれた)。ほとんど車で横付けできたのだが。頂上北半分は人手の入った木々に覆われ(自然林ではないということ)見通しが悪く、南半分は伐採されて空き地が広がっていた。広い上面には中継塔2基・大関神社・石室などあり。石室にはサザエと大型巻貝が奉納されていた。木々の間に北向きの長さ10mの台場跡が浅い細谷の谷頭にそれぞれ4基、別に東端に長さ32mの一直線の台場跡が一基あり、これの土塁部の高さは内部の床から50cmあった。大関山の頂上(どこが頂上か分からないくらい広い)には簡略な地図看板があり、札松峠や嘉門越の位置が描かれていた。絵地図のようなもので、およその位置が分かる程度である。札松峠は大関山から北に延びた尾根の先端近く、5km程先、市野瀬・祝坂の西側背後にあるとしていた。

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    しかし、国土地理院の基準点検索によれば標高539.4mの三等三角点の地名が札松である。大関山頂上からほぼ北に3,5kmの地点である。ここからさらに北に4,5kmの付近が大関山の看板にある札松であり、本当はどうなのだろうか。昔の地名を調べるのに参考にしたことがある平凡社の「日本歴史地名大系」の『熊本県の地名』附図を見ると札松嶺があった(下図左)。

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 地図の精度が違うので正確には比較できないが、ほぼ大関山の看板と同じ位置に札松がある。国土地理院の負けであろう。同書にはいくつか面白い記述もある。三十丁坂というのは豊臣秀吉が薩摩征伐の際通行した古道であり、彼が鉄砲30挺を並べて鹿狩りをしたことに由来するという。確かに坂の長さは1,1km程度しかなく、三キロ坂というには短すぎる。また、「かもん越」というのは1592年の梅北の乱朝鮮出兵の際に佐敷城を薩摩の梅北某が隙を衝いて攻め、結局失敗した事件)に際し、「何ノ掃部トカ云ル者」がここで討取られたため名付けられたという。同書にはまた、掃部越は長崎村から大野村方面へ抜ける間道があり、その大野側を「かもん越」と呼ぶ、としている。

 札松峠については、後藤正義著「西南戦争 警視隊戦記」の挿図で「札松嶺」が示されており、今までの想定と合致する。f:id:goldenempire:20210813192006j:plain

 5月20日、「戰記稿」で久しぶりに安満隊が確認できる。

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  廿日札松越攻擊ノ兵ヲ部署スル左ノ如シ

として15個中隊があるうちに、内藤少佐に属して安満の隊は粟屋中尉・弘中大尉の隊と共に交代予備兵となっている。

 部署表の侵略点(※攻撃目標)は札松峠掃部越である。攻撃兵の進路は「大關山右翼ヨリ迂回(※隊長は矢上・平山・大西・林・安滿・粟屋・弘中)」・「小平山ヨリ掃部越ヘ進ム(※弘中・堀部・横地・武田・沓屋)」・「梶ケ迫ヨリ野間越(※栗栖)」・「小平越ヨリ(※沖田・久徳)」・「矢筈山(※竹田・山村)」・「札松峠(※瀧本)」・「鋒ノ峠(※隊長名の記載なし)」の七つに分かれていた。不明地名は小平山・野間越・鋒ノ峠・矢筈山である。次は20日の「戰記稿」。

  午前三時四十分開戰賊壘數所ヲ陷レ札松峠茂リ越ノ要地ヲ占領ス已ニシテ

  賊又兵ヲ增シ來ル我兵奮擊再ヒ之ヲ郤ケ對壘砲射夜ニ入テ止マス

  茂リ越という場所不明の地名が出てくるが、後で触れる。この日の戦死は5人、負傷は27人だった。上記の各中隊には20日の戦闘報告表を残しているものがあるので、不明地名の解明を目指して見ておこう。 

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    C09084784800「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」(防衛省防衛研究所)0033・0034

  第十二聯隊第二大隊第二中隊長陸軍大尉沓屋貞諒㊞ 戦闘月日五月二十日 

  戦闘地名:丸山内獅迫  我軍総員:百五拾七人(※一人平均弾薬6,4発を発射した) 

       戦闘ノ次第概畧五月二十日午前第三時野津村ヲ出発シ即時矢筈山ニ至リ午

  前第七時歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊ノ應援トシテ半隊ヲ分派シ丸山内

  獅迫ニ進ミテ即時開戦午后第四時当所ヲ引揚ケ小平山ニ至ル而シテ費ス處

  弾薬千発

 場所不明の野津村→矢筈山(虎石山か)→丸山内獅迫に進み開戦し、そこを引き挙げて小平山に至った。丸山内獅迫で応援したのは栗栖隊に対してである。同じ戦闘でも登場する地名が異なるいい例である。弾薬消耗も少なく、死傷者もいない戦闘だった。部署表の進路では梶ケ迫より野間越となっており、現在の地図には楮ケ迫と丸山が確認できる。矢筈山に到着後、丸山内獅迫で戦闘しているので、矢筈山には薩軍がいなかったと分かる。小平山も同様である。 

 もう一つ横地少尉(「戰記稿」では中尉)の戦闘報告表を見てみよう。小平山より掃部越へ進むと部署表にある工兵隊である。

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     C09084784700「明治十年自七月至九月 第三旅團戦闘報告表」0031・0032

  工兵第二大隊第一小隊第貳分隊 少尉横地重直㊞ 戦闘月日:五月二十日 

  戦闘地名:虎石山 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時城迫村ヲ発シ第三時四十分百木川内村ヘ着シ

  ヨリ分隊ヲ半折シ一ツハ百木山ニ於テ塹溝并ニ鹿柴等數ヶ所ヲ所〃造築ス一

  ツハ虎石山ニ於テ塹溝ヲ築キ午後第九時比(※頃)百木川内村ヘ引揚ク

  我軍総員:将校以下二十名

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 出発した城迫(虎石山の北西2km)から百木村まで谷間低地の2km弱だから40分は順調な経過時間である。そこで分隊を半分に分けて、一は百木山という背後の山だろう所に塹壕と鹿柴などを数ヶ所に築き、残りは百木村から北東に直線距離1,4kmの虎石山に塹壕を築いて百木川内村へ引き上げたという。百木山と目される尾根は大関山から長く伸びており、どの範囲に築造したのかは現地踏査が必要である。台場類を築いたのだから当然攻撃部隊がそこに進んだ訳である。

   大関山一帯の戦いは6月3日までのようである。25日からが明確でない。多数の中隊が参加し、それだけ多くの戦闘報告書を作製しているので、場所不明地名の考察は20日時点の史料で決め付けないでおこう。以下では戦闘報告表全体を掲げるのは数点にとどめ、戦闘地名や戦闘の概略などの基本的な部分だけを列挙して進めたい。確認したい人は出典を示すのでそちらを覗いていただきたい。

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    5月20日の戦闘報告表、残りの物を続けて掲げる。総員の数字は現代風に改めた。

 C09084785000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0037・0038

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長 大尉瀧本美輝㊞ 戦闘月日:

  五月二十日 戦闘地名:布田松峠 我軍総員:126 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時半牛渕村ヲ発シ野々本ヲ経テ布田松峠ニ向ヒ

  軍峠ヨリ凡ソ四百米突ノ山上ニ出ツ賊二三輩アレ共皆迯去セリ想像スルニ展

  望兵ナラン☐アツテ賊発砲ス我兵モ之レニ應シ直ニ塹濠ヲ築塁警戒嚴ニス終

  日賊発砲不止 

 牛渕は5月12日に薩軍が襲った佐敷中心部の東方、八幡の南側600mくらいにあり、田川川の下流域である。野々本は不明だが、牛渕から上流に向かって細長い水田地帯があり、これを3,4kmほど遡り札松山の西方尾根から銃撃したものと思う。札松峠が標高327mの付近なら西側の尾根の適度の場所、標高289m地点からの距離は800mくらいある。そこからもう少し高い根元の方なら距離は600m弱である。現地踏査をして戦跡分布調査が必須だ。

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   C09084785400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0046・0047

  第三旅團東京鎮臺豫備砲兵第一大隊第二小隊長 陸軍大尉久徳宗義㊞ 

  戦闘月日:五月二十日 戦闘地名:矢筈山ニ於テ 我軍総員:28 

  戦闘ノ次第概畧:午前第四時四十五分山砲壱門ヲ頂上ニ備ヘ札松峠ニ在ル

  塁ニ對シテ射擊シ午后五時ニ至テ止ム 

 矢筈山という場所は大砲を置いて札松峠を砲撃できる環境、直視できる場所である。札松峠の南方から西方のどこかにあるのだろう。前出の瀧本報告にある札松から400m離れた山が候補地の可能性がある。

 次も5月20日の戦闘報告表である。栗栖は5月21日・22日、6月3日にも表がある。

   C309084785500「明治十年自五月至七月 戦闘告表 第三旅団」0047~0049

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第弐中隊長栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:五月廿日 戦闘地名:谷木塲山 我軍総員:104 

  死者:下士卒5 傷者:下士卒12

  戦闘ノ次第概畧:午前一時城迫村ヲ発シ兵ヲ☐メテ谷木塲山ニ攀☐三時四

  分一薺鯨波ヲ発シ賊塁ノ左翼ヨリ攻撃ス賊狼狽☐☐ヲ知ラス塁及ヒ廠舎数

  箇ヲ捨テ走ル我兵三方ニ向ヒ賊壘ノ側面ヲ射撃ス札松越ノ賊下射ヲ受クルヲ

  以テ射巨离内ノ塁悉ク捨テ迯ル我兵寡ナルヲ以テ穂平山ヲ尾撃セス同六時☐

  賊兵大ニ増加屡襲来ス我兵憤戦最モ勉ム彼レ遂ニ志ヲ得ス保平山(※穂平山)

  ニ退ク後チ互ニ塁ヲ築キテ防戦ス 

 城迫村は前日に瀧本隊が出発点とした牛渕村よりも3,7km谷底平地を南下し、薩軍に近づいた場所である。薩軍が占拠していないと判明し、滞在地を前進させていたのである。「戰記稿」では出張本陣とある。20日、栗栖隊は札松峠を占領したと記すが、他の報告には占領したとは記していない。札松峠は長い尾根全体を指す言葉で、その一部を栗栖隊が奪っただけという可能性もある。谷木場山という地名は栗栖だけが使っている。穂平山はすぐ後に出ている保平山と同じだろう。薩軍は札松越で上から射撃されたという。峠の一部でのことだろうか。官軍はそれを見下ろす山、谷木場山で留まったらしい。

 地名が多数出てきたが、当時の人がどう発音したかを示す電報がある。

C09084537700「雜書 明治十年五月中 第貳旅團」(防衛省防衛研究所蔵)0649~0651

5月20日午後6時25分佐敷三浦少将発、山田少将・三好少将宛電報

  コンチヨウ。ヲヲノグチシンゲキ。ウヨクハ。ヲヲゼキヤマヨリ。コヒラヤ

  マ。カモンゴエ。シゲリゴエ。アンノゴエ。フダマツトウゲマキザムライト

  ウゲ。イワイカニイタゴトクコレヲリヤクシユシゾクヲヲイニ。ハイソウ

  ス。シカバ子スジウヲヨビジウキダンヤクヲステテノガルナホススンデ。ヲ

  ヲノノ。ホンエイニ。トツニウシ。ダイセウホウノダンヤクシチヨウトウヲ

  トルサラニススンデカガミ山ヲリヤクシブンケンタイヲヲクコノダンゴホウ

  チニヲヨブ

 漢字平仮名交じりにすると次のようになろう。

今朝、大野口進撃。右翼は大関山より小平山・掃部越・茂り越・庵の越・札松峠・牧士峠・祝坂に至り悉くこれを略取し、賊大いに敗走す。屍数十及び銃器弾薬を捨てて逃る。なお、進んで大野の本営に突入し、大小砲の弾薬輜重等を取る。更に進んで鏡山を略し、分遣隊を置く。この段御報知に及ぶ。

 人吉から鹿児島北部を総括する別働第二旅団山田少将、隣接する第二旅団三好少将に現状を通知したのである。

 21日の「戰記稿」は「廿一日午前三時三十分大野村ノ賊又札松峠ノ栗栖大尉ノ守線ニ來襲シ刀ヲ揮テ我壘ヲ斫リ勢ヒ頗ル猛烈我兵奮戰半時間纔ニ之ヲ郤ク」と死傷者の表だけである。下記はその栗栖隊の戦闘報告表である。 

 C09084785600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0050・0051

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第二中隊長栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:五月廿一日 戦闘地名:谷木塲山 我軍総員:80 

  傷者:下士卒8 

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時半頃賊徒急ニ火擊シ我堡内ニモ刃ヲ振フテ突

  ス我兵憤戦屈セサルヲ以テ賊志ヲ得ス遂ニ四時頃退去後チ互ニ塁内ニ在ツテ

  射撃ス   分捕:兵糧嚢   五箇  

C09084785700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0052.0053

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長瀧本美輝㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:布田松峠 我軍総員:百二十六人 

  傷者:二等卒西光藏

  戦闘ノ次第概畧:前日ヨリ賊ト對向シ昼夜発砲不止互ニ進退ナシ 

C09084785800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0054・0055

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長心得井上親忠㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:肥後國芦北郡上木場村 我軍総員:69 

  傷者:1

  戦闘ノ次第概畧:午後☐五時頃防禦線ニ在リ敵ノ流玉ニ中ル 

C09084785900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0056・0057

  第三旅團名古屋鎮臺歩兵第六聯隊第壱大隊第二中隊陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:肥後國芦北郡古石村 我軍総員:17  

  傷者:下士卒1

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時肥後国芦北郡古石村大哨兵中前面江斥候トシ

  壱隊差出ス 

C09084786000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0058・0059

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊左一小隊 中隊長大尉南小四郎㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:和久道石 我軍総員:四拾五名 

  死者:下士卒3・傷者:下士卒1

  戦闘ノ次第概畧:和久道山上ノ砲台防戦中午前四時ニ十分賊月ノ山影ニ入

  ヲ幸トシ潜行突戦スルヲ拒攻撃遂ニ其賊ヲ走ラス然カレ𧈧ノモ我カ砲台ト賊塁

  ハ水平面髙尖ノ地理ヲ以菫カニ傷ヲ受クル者アリ  

C09084786100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0060・0061

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:五月二十一日 戦闘地名:熊本縣佐敷郡虎石山 我軍総員:139 

  傷者:下士卒4

  戦闘ノ次第概畧:昨二十日ヨリ引續キ對戦ス此日敵ノ切込ミヲ受クルト𧈧ノモ

  敵兵人少ナルヲ以テ瞬時ニ彼レヲ退却セシメ而シテ昼夜對塁シテ戦フ 

 「戰記稿」では死者が下士1・卒2で、傷者が下士3・卒11で、21日の戦闘報告表の死傷者の数を足すとその通りである。

 先日から官軍は札松峠周辺を集中的に攻撃している。上木場村の負傷者は攻撃時ではなく、流れ弾に当たっている。 

 5月22日の「戰記稿」にある部署表は次の五ヶ所である。掃部越ノ山續・掃部越山下長崎村邊ヨリ・札松峠ノ右翼・札松峠ノ左翼・矢筈山。どれも札松峠の南側か、南西側に位置している。この日の結果は次の通り。

  午前四時諸口薺ク進ミ右翼大關山ヨリ掃部越茂リ越アンノ峠札松峠牧士峠

  坂ニ至ル其延長三里餘賊ノ要壘數百所ヲ拔ク賊大ニ狼狽死屍兵器輜重ヲ委棄

  シテ去ル遂ニ進テ大野ノ賊巢ヲ覆シ尚ホ進ンテ鏡山ノ要地ヲ占領ス

 攻撃部隊の右翼の位置が大関山、そこから順にすでに場所の判明した掃部越・位置不明の茂リ越・アンノ峠(掃部越の西方に庵の山という地名があるのでこの付近だろう)・牧士峠・祝坂となっている。鏡山の要地を占領した件については下記の斎藤大尉の報告表に詳しい。

C09084786200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0062・0063

  第三旅團歩兵第二聯隊第三大隊第壱中隊長 陸軍大尉齋藤徳明㊞

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:(※空白) 我軍総員:145 

  戦闘ノ次第概畧:午前第七時城山ノ賊徒同山ヲ降リ襲来セリ直ニ開戦防禦

  賊徒再ヒ城山ヘ退去午后第六時休戦

  備考敵軍:廿二日午前第八時梅ノ木村出発午后第壱時鏡山着直ニ大哨兵ヲ

  布ス同第五時津毛村ヨリ賊徒三百余各城山江出兵致セシ由土人ヨリ急報セリ

  爰ニ於テ鏡山ヘ配賦セシ大哨兵ノ半員ヲ引揚鏡山左翼後ノ小山江配兵城山ノ

  賊徒ニ備然レノモ兵員寡少ナルヲ以テ散兵ニ配布シ賊徒襲来ノ防禦線トス翌廿

  三日午前第七時城山ノ賊徒同山ヲ降リ我隊占據セシ鏡山左翼後ノ小山ニ發射

  (※?)シツヽ攀シ来ル故ニ直ニ之ニ應シ賊兵ヲ下射スル数十分間ニ乄賊徒退

  去シテ再ヒ城山ニ登リ同山ヨリ追々小山ヲ経テ大野村ニ迂廻セントスルノ勢

  アリ故ニ之レヲ防射スル甚シキヲ以テ賊徒其志ヲ達スル能ハス城山及ヒ近傍

  小山ヘ塹壕ヲ築キ防禦ノ備ヲナセリ午后第六時休戦同十二時防禦線ヲ他隊

  ヘ譲リ鏡山ヘ引揚

 斎藤隊は22日午前8時、場所不明の梅ノ木村を出発し午後1時に鏡山に到着して大哨兵を配布した。その後、午後5時に地元民から薩軍約300人が城山に入ったとの知らせがあったので鏡山の哨兵半分を割いて鏡山左翼後ろの小山に配置した。鏡山の後方には尾根が続くだけであり、独立した峯は認めがたい。人吉に向かい山の北側を左翼とすれば、標高569m・547m・582mなどの小山が見られる。23日午前7時、城山にいた薩軍が移動して先の小山によじ登りながら射撃してきたが撃退した。しかし、薩軍はこの小山を経て大野村に迂回しようとしたが果たせず、また城山に帰って城山と付近の小山に塹壕を築いて防禦の備えをしたという。

 城山に該当しそうな山城跡を「熊本県の中世城跡」から探すと鏡山頂上から2,7km北側の標高421mに高尾城跡(芦北町大字告)という鏡山と尾根続きの山城跡があり、これが最も該当しそうである。鏡山左翼の小山も踏査して戦跡が見つかれば確定できそうだ。

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C09084786300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0064・65

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊長大尉南小四郎

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:繁リ越口 我軍総員:四拾名 

  死者:下士卒壱名 ・下士卒壱名

  戦闘ノ次第概畧:午前三時和久道ノ砲台ニ整列隊ヲ四分シ開戦ノ期ヲ約シ

  ニ繁リ越口ノ賊塁ニ向ヒ夜ノ明クルヲ潜ミ疾足突入開戦彼レハ不意ニ在テ狼

  狽ス我レ初発スル所山上二三ノ砲塁ハ瞬時ニ捨テ札松本道ノ大塁エ走ル賊踵

  ヲ跪テ肉薄疾戦殺傷相當リ終ニ諸塁ヲ我カ有トスル時既ニ五時三十分ナリ

 

C09084786400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0066・67

  第三旅團歩兵第八聯隊第壹大隊第三中隊長大尉南小四郎㊞

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:繁リ越口 我軍総員:九拾五名 

  死者:下士卒壱名 ・下士卒壱名

  戦闘ノ次第概畧:午前三時和久道ノ砲台ニ整列隊ヲ四分シ開戦ノ期ヲ約シ

  ニ繁リ越口ノ賊塁ニ向ヒ夜ノ明クルヲ潜ミ疾走突入開戦彼レハ不意ニ在テ狼

  狽ス我レ初発スル所山上二三ノ砲塁ハ瞬時ニ捨テ札松本道ノ大塁エ走ル賊踵

  ヲ跪テ肉薄疾戦殺傷相當リ終ニ諸塁ヲ我カ有トスル時即チ五時三十分ナリ

 南隊は和久道から出発し、繁リ越の敵を攻撃すると、敵は札松本道の大塁に逃げ込んだという。この順番に南から北へ続くのだろう。

C09084786600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0071・0072

  第三旅團近衛歩兵第二聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉甼田実賢㊞

  戦闘月日:五月二十貳日 

  戦闘地名:札枩峠 我軍総員:九十二名 

  戦闘ノ次第概畧:当日援隊トシテ札枩峠ノ賊塁ヲ攻撃ス同日手負戦死等一

  モナシ

C09084786500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0069~70

  第三旅團歩兵第十一聯隊第一大隊第三中隊 陸軍大尉武田信賢㊞

  戦闘月日:五月二十二日 

  戦闘地名:加門越 我軍総員:百三十七 敵軍死者:四 ・傷者不詳

  戦闘ノ次第概畧:加門越ノ賊塁ヲ落スヘキ命ニ依テ午前第三時我中隊ヲ三

  シ一ツヲ先頭トシ残ル二部ヲ援隊トナシ各銃劔ヲ装シ虎石山ノ塁ヲ越ヘ密ニ

  前進ス月ハ没シテ暗昏我彼ノ弾玉ハ頭上ヲ飛行シ荊棘(※棘は異体字ハ軍衣

  ニ纏テ行進ヲ害ス止テハ物音ヲ聞キ或ハ匍匐シテ進ミ又渓谷ヲ攀チテ未明逆

  賊ノ首塁外部ニ接着猛声ヲ同発起立シテ塁内ニ突入連々放火ス援隊續ヒテ之

  レニ合ス賊兵狼狽塁ヲ捨テ走テ右翼ノ山背ニ據リ頻ニ発火スト𧈧ノモ保ツ能ハ

  ス忽チ敗走ス于時天漸ク明ケ我隊絶テ尾撃セス茲ニ於テ警備ヲ整フ

 かもん越を守っていた薩軍は台場を捨て右翼の山に移って反撃したという。谷間にかもん越があるという推定が正しいかも知れない。

 

C09084786700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0073・0074

  第三旅團工兵第二大隊第二小隊第二分隊 陸軍少尉藤冨五郎㊞

  戦闘月日:五月二十二日 

  戦闘地名:加門越 我軍総員:貳拾壱名 内十名不戦 敵軍: 凡三百名

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時百木河内村出発加門越山上ニ至リ防禦線。塹

  數十箇所ヲ築キ午后第六時長嵜村ニ止陣ス

    かもん越の山上とは、谷間を後ろにして防禦線は張らないだろうからかもん越の北側にある尾根に築造したのだろう。敵がいた方にも多数の遺構が残っているかも知れない。

C09084786800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0075~77

  第三旅團 大坂鎭臺歩兵第九聯隊第三大隊第三中隊 陸軍中尉松居吉統㊞

  戦闘月日:五月二十二日 

  戦闘地名:肥後国足北郡平ノ山 我軍総員:九拾二名 内十名不戦  敵軍 凡

  三百名戦闘ノ次第概畧:明治十年五月二十二日午前第一時三十分穂木山ノ大

  哨兵ヲ引揚ケ長﨑村ノ山下ヨリ嘉門峠ノ右方平ノ山ニ向テ午前三時五拾分吶

  喊攻擊直ニ此ノ塁ヲ乗取リ尋テ笠木山ノ残賊ヲ逐擊同山ノ塁ヲ奪フ而乄従是

  大野泥メキノ両村江斥候ヲ出シ賊情ヲ探偵セシムルニ賊兵遠ク迯遁シ一人

  アルナキヲ還報ス於爰仮ニ哨兵線ヲ定メ命令ヲ俟ツ暫アツテ友田少佐来リ哨

  線改定サルヽニ付其位置ニ據リ塹濠ヲ設ケ固守ス此時弾藥五百余ヲ放

  分捕:銃三・弾薬千・糧拾四石三斗五舛

 

C09084786900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0078

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第一大隊第一中隊 陸軍大尉堀部久勝

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:肥後国珠磨郡 我軍総員:百三十二名 

  戦闘ノ次第概畧:五月二十二日午前第三時三十分嘉門及ヒ小比良札松山ノ

  塁進擊ニ付我軍ノ右翼ヲ守備シ且ツ百木☐(焼?)上ケ山上ノ賊塁ニ対シ虚

  擊ノ命アリ之ニ依テ午前三時三十分兵ヲ分ケ山腹ニ伏セ諸口ノ闘ヒ始マルヤ

  擊ス暫ラクニシテ賊塁ヲ捨テ去ルノ勢ヒアリ依テ捜索兵ヲ出シ續テ山上ニ攀

  登シ進ム賊塁ヲ捨テ走ル

 

C09084787000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0080・81

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第三大隊第四中隊 中隊長陸軍大尉弘中忠

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:肥後国百木河内 小平山辻野 

  我軍総員:百二十名 敵軍:一小隊斗リ

  戦闘ノ次第概畧:本日午前三時三十分ヨリ小平山ノ上辻野ノ臺塲ニ向ヒ進

  五時比賊ノ臺塲二ヶ所ヲ乗取直ニ大関山ニ對シ防禦線ヲ定ム  

  備考:敵軍・大関山又ハ鏡山ノ右ヘ敗走

 

C09084787100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0082・83

  第三旅團歩兵第拾二聯隊第二大隊第二中隊長陸軍大尉沓屋貞諒㊞

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:多門越口 我軍総員:百五拾人

  戦闘ノ次第概畧:五月二十二日午前第十二時小平山ヲ出発シ仝一時四十分

  門山ニ至リ当所半服ニ隠匿シ午前第四時開戦即時嘉門山ヲ乗取ル

  我軍ニ穫ル者:弾薬三

  備考:放ツ處ノ弾薬五百發 分捕:一銃壱挺ハ短銃 弾薬五箱ハヱンピール

  藥二百七拾発入箱ハ ミニーヒル弾藥五百発入

 多門越口はカモン越口だろう。小平山から嘉門山まで中間では戦闘がなかったので、隣り合った位置関係であろう。到着するのに一時間40分もかかっているのは、単純に距離を反映するとすれば2km位離れているのだろうか。官軍の攻撃開始時間は午前3時半(弘中隊→小平山ノ上辻野ノ臺塲に向かう・堀部隊はこの時間に兵を伏せて諸隊の攻撃を待った→百木☐上ケ山上ノ賊塁)・午前3時50分(松居隊→嘉門峠ノ右方平ノ山)・午前4時(沓屋隊→嘉門山攻撃)・未明(武田隊→嘉門越)とほぼ午前4時前後を記録している。したがって掃部越攻撃は午前4時前後に始まっており、その他の隊もこの攻撃に合わせて開戦するよう計画されていたのだろう。なお、「戰記稿」の部署表には弘中隊の記載はない。未明ないし午前5時半(南隊)頃には戦闘は終了し、弘中によれば薩軍大関山又ハ鏡山ノ右ヘ敗走したとあるが、鏡山の方に敗走したのだろう。  

C09084787200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0084・85

  第三旅團歩兵第八連隊第一大隊第二中隊 陸軍大尉沖田

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:矢筈山 我軍総員:八十七名

  戦闘ノ次第概畧:午前三時三十分ヨリ援隊トシテ矢筈山ヲ出発大野越ノ右

  髙岳ニ至リ兵ヲニ分シ山上ニ配布シ一ハ大野村ニ向ハシメ一ノ髙処ニ兵ヲ停

  メ更ニ若干ノ斥候ヲ大野村ニ派出ス午後一時部署定リ塩浸村ニ至ル

 午後1時に到着した塩浸村は佐敷川の右岸にあり、札松峠などは左岸である。大関山から続く尾根全体から薩軍を追い払ったということである。佐敷川右岸の薩軍は驚いて浮足立っただろう。 

C09084787500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0090・91

  第三旅團歩兵第十一聯隊第三大隊第貳中隊長 陸軍大尉栗栖毅太郎㊞

  戦闘月日:五月廿二日 戦闘地名:谷木塲・穂平山 我軍総員:七拾六人

  戦闘ノ次第概畧:昨来塁内ニ在テ連戦屡賊ノ襲来ヲ防ク午前三時頃攻撃隊

  我塁内ヨリ道ヲ分ツテ穂平及ヒ札松越ニ進軍ス我兵此ノ攻撃隊ヲシテ安全ニ

  敵塁ニ近接セシメンヿヲ謀ル賊発射スルヿ他日異ナラス機ニシテ開戦我兵先

  一小隊ヲ出シテ之レニ連絡ヲ保ス先是一薺ニ鯨波ヲ発シ大ニ虚勢ヲ示ス賊遂

  ニ諸塁ヲ捨テ迯ル依テ穂平山ヲ占メ西ニ連絡ヲ保テ塁ヲ築キテ防守ス

 谷木場があって、その北側の左右どちらかに穂平山があるということか。谷木場は栗栖以外使用しない地名である。もしかすると他の人は別の名で呼んだのかも知れない。そうであれば、同じ場所に名前が二つあることになる。 

C09084787600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0092・0093

  第三旅團歩兵第十聯隊第三大隊第壱中隊長陸軍大尉瀧本美輝㊞

  戦闘月日:五月二十二日 戦闘地名:布田松峠 我軍総員:百二十五人 

  傷者:将校1・下士卒5

  戦闘ノ次第概畧:午前第三時三十分前日滞陣ノ山上ヲ発シ布田松峠ニ向ヒ

  軍賊街道ノ左右髙処要地ニ大小塁八個ヲ構ヘ一層嚴重警備ス我軍欲☐ノ銃ニ

  劔ヲ附シ中隊ヲニ分シ左右塁ノ際ニ潜寄リ塁ニ至リ皆一同ニ発擊銃劔ヲ以テ

  突入ル十分間ニシテ彼レ塁ヲ捨テ敗走セリ我軍左右ニ分レ賊ヲ逐フヿ凡ソ三

  町ニシテ散兵線ノ侭彼レノ復襲ヲ防禦セン為メ警戒ス 

  我軍ニ穫ル者:ヱンピール銃五挺・ヱンピール弾薬箱共 三箱

 前日の瀧本隊の位置は記録がないが、その前日20日は「布田松峠ニ向ヒ進軍峠ヨリ凡ソ四百米突ノ山上」にいたので、そこにとどまっていたのだろう。札松峠を攻めるにあたり中隊を二分し進んでいる点は直前史料の栗栖隊に似ている。

 5月19日から22日までの第三旅団の状況を調査に来た第二旅団作成の報告がある。開戦当初から一緒に行動していた第一旅団と第二旅団は5月5日、第一は熊本市神水に、第二は同じく砂取町に本営を移し以後別行動をとることになった。第二旅団は5月18日に八代に進み、次の史料は状況把握のため各地に将校を派遣していたその報告である。

C09084554000「雜書 明治十年五月中 第貳旅團」1062・1063

  廿二日☐☐傳令下士持帰ル

  五月二十二日

  第三旅團本営出張湯浦(佐敷よ里一里半)ニアリ之レヨリ南方古田村ト飛松

  ノ問ニ高岡村湯浦ヨリ一里十丁)アリ同村ニ厚東中佐出張不在ニ付書記ヨリ十

  九日以来ノ况景大略尋問左ニ記ス

  本月十九日午前第四時三十分頃上木塲近傍ノ山頂ヘ各兵配賦シ水俣ヨリ進

  ノ巡査ニ連絡ヲ定ム

  同日第十二時頃上木塲辺ヨリ賊兵拔釼襲来防戦スル不能古道村前方マテ退

  直ニ隊整進撃スト雖モ前防禦線ニ進ムヲ下得退却直ニ一丁斗進ミ爰ニ防禦線

  ヲ定ム(古田村ヨリ貳里斗)現今山頂ニヨリ對塁ス然レノモ本日午後良地ヲ撰シ壹

  防禦線ノ変換アル由

  賊襲来之際死傷士官三名下士已下七拾六名ナリ

  同時山砲一門手臼砲一門小銃スナイドル六拾挺斗弾薬三箱奪レタル由小銃

  豫備ニアラス死傷ノ者ノ由ナリ去ル廿日午前第三旅團惣進擊ノ筈ナレノモ右翼

  前日賊襲来リ為ニ進擊ナシ百木川内村出張ノ友田少佐ニ就テ尋問且ツ戦地目

  擊ノ件左ニ川村少佐内藤少佐(古道村)友田少佐(百木川内)古田少佐各一邉ノ

  指揮官タ一昨日拂暁友田少佐ノ手大進擊アリ今村ヨリ梶ガ迫シヽ迫迠進メ

  リ左翼尤モ進ミタリ同所對塁此日友田ノ手死傷三十三名即死三名賊ノ弾薬貳

  箱小銃二挺分取シタリ大野村ハ賊根拠粮食ノ分配モ此ニアリ我戦列ヨリ目下

  ニアリ追々退クヘシ

  昨廿一日拂暁拔劔襲来リ南大尉ノ左小隊少シク退ケリ即死三名負傷一名官

  少シク狼狽ニ出ツルヨシ追々旧線ニ復シタリ

  一昨日以来賊鏡山ニ拠リ塁ヲ築キ人員モ多分ニ見エタリ

  三旅團ノ左翼ヤハズ山ナリ四旅團ノ右翼才ノ尾峠ナリ

  佐敷ヨリ戦列迠巨离ヤハズ迠壹里半余シシヽ迫迠貳里余上木塲迠四里半余ナリ

    十年

     五月廿二日      陸軍少尉佐藤当可※第八聯隊第三大隊第二中隊

                陸軍少尉試補岩根常重※第八聯隊第三隊第四中隊

 鏡山には19日から多くの薩軍がいて築塁していたとある。次は第二旅団の将校が第三旅団の厚東中佐から聞き取った情報である。

C09084554300「雜書 明治十年五月中 第貳旅團」1082

  五月廿二日

   厚東陸軍中佐ニ就テ尋問景况書

  一本日古田少佐友田少佐引率ノ隊ヲ以テ加門越札松峠進撃ノ目的ナリ午前

  三時五十分進撃大関山ヨリ小平山加門越シゲリ越アンノ越札松峠牧士峠及ヒ

  祝坂ニ至ル迠其延長三里余ニシテ賊塁数ヶ所悉ク之レヲ取リ夫レカ為メ賊兵

  大ニ敗走ス進軍途上ニ賊ノ尸数十及ヒ銃器弾薬ヲ捨テ人吉ニ逃ル由尚又進軍

  大野村(賊ノ本営アリ)ニ突入シ大小銃ノ弾薬四箱粮米八十俵余其他銃器等ヲ

  分捕更ニ進テ鏡山ヲ畧シ分遣隊ヲ派出シ同山ニテ賊ト相對ス進擊ノ際官軍死

  傷士官以下四十名程ノ由同日右翼内藤少佐ノ持塲進擊ナシ去ル十九日以来異

  条ナシ

 大関山ヨリ小平山・加門越・シゲリ越・アンノ越・札松峠・牧士峠及ヒ祝坂の順に南から北に並べているのか。場所不明なのは小平山とアンノ越、延長三里余とは13km位。地図上で大関山から祝坂まで尾根筋を辿っていくと10,5kmであり、ほぼ正しい。アンノ越は次にも述べるが庵の山という地名がかもん越の西側にあるので、この付近だろう。牧士峠の次に祝坂を並べているので、祝坂の手前にある尾根筋が牧士峠だろう。まきし峠と読むのではないと示す史料がある。

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陸軍軍用電信「五月廿二日午前六時廿五分発」山田少将殿・三好少将殿:左敷三浦少将

 電文を漢字仮名混じりにしてみる。

今朝大野口進撃。右翼は大関山よりコヒラ山、掃部越、シゲリ越、庵ノ越(※庵の山というのが虎石山の北にある)、札松峠、マキ侍峠、祝坂に至るまで。その延長三里余にして賊塁数百ヶ所悉くこれを略取し賊大いに敗走す。屍数十及び銃器弾薬を捨てて逃る。なお進んで大野の本営に突入し大小砲の弾薬輜重等を取る。更に進んで鏡山を略し、分遣隊を置く。この段、御報知に及ぶ。    報知依頼 

 牧士峠は「まきざむらい峠」だった。賊塁数百なら今でもかなり残っているだろう。

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 札松峠は5月22日に奪い、以後戦闘報告表に登場しない。札松峠や大野村から薩軍が撤退した件は、北西側で佐敷から人吉を目指していた別働第二旅団の戦線に少なからず影響を与えることになった。薩軍幹部の河野主一郎は生き残ったので懲役刑を受けた際に上申書を残している。「五月三十日大瀬村ニ退キ哨兵線ヲ張ル、蓋シ我左翼ニ連絡セル大野口敗レタルヲ以テナリ、」(「河野主一郎上申書pp.222~ 239」『鹿児島県史料 西南戦争 第二巻』)。日付は間違えているかも知れない。白木村・才木村の薩軍は背後を第三旅団に占領されたため、東側3km前後にある告(つげ)村に移動し、球磨川南岸の要地である屋敷野・箙瀬(えびらせ)薩軍も人吉側に移動し、別働第二旅団は人吉に向け戦うことなく若干前進した。  

  5月23日の動向を「戰記稿」から掲げる。

  廿三日上木塲口第三旅團ノ一部兵ハ守線ノ延長ニシテ兵寡キ(五中隊)

  明朝奮擊シテ前面ノ賊ヲ攘ヒ然ル後其方位ヲ固守セント欲シ竹下中佐ハ各隊

  長ヲ會シ其五中隊ヲ以テ線内ニ在テ徐ニ射擊ヲ行フ午後賊モ大砲數發ヲ放ツ

  賊ハ二十二日第三旅團ノ爲メニ大野ノ牙營ヲ陷レラレシヨリ專ラ力ヲ久木

  ニ盡シ又兵ヲ分テ一ハ別働第三旅團ヲ中鶴ニ防キ一ハ山野大口ヲ扼守シテ第

  三旅團上木塲ノ兵ニ備ヘタリ(賊將邉見十郎太池邊吉十郎是陣ニ在リテ指揮セリト云フ)

 23日の戦闘報告表は存在しない。この日第二旅団が派遣した将校が第三旅団の哨兵線を目撃し報告している。

C09084554400「雜書 明治十年五月中 第貳旅團」1083

  第三旅團持塲左右翼戦闘線目撃ノ件

  右翼三十丁坂右ニ八連隊第一大隊佐々木大尉一中隊ナリ之レ右方警視隊ト

  絡全ク絶ユルヲ以テ厚東中佐ヨリ水俣本営何ノ処迠進ミタルヤヲ尋問中ノ由

  ナリ三十丁坂之左ニ近衛隊一中隊其左ニ八連隊第一大隊矢上大尉ノ隊大関

  ト相對シ(麓ナル由)夫レヨリ左長左エ門カマ山六連隊第二大隊石井中尉ノ隊

  ヲ以テ連絡ス続テ左方大嶋少佐友田少佐古田少佐ノ手ニ至ル古田少佐ノ左翼

  ハ第六連隊第三大隊栗林大尉ノ一中隊ト遊撃隊三好少佐并髙嶌少佐ノ手ヲ以

  テ連絡セリ右処山頂ニ拠リ堡壘ヲ築キ防守ス

    十年

     五月廿三日           武田中尉

    波多野少佐殿           佐藤少尉

    中𦊆大尉殿            岩根少尉試補                            

 佐々木大尉は右翼三十丁坂に、三十丁坂の左に近衛隊一中隊、その左に矢上大尉の隊が大関山と対す。それより左の長左衛門釜に石井中尉隊、その左に大嶋・友田・古田。古田の左翼は第六聯隊第三大隊栗林大尉の一中隊がいて、別働第二旅団の三好少佐・高嶌少佐の隊と連絡を付けた状態である。

 これから地理的関係を推定することが可能である。東ないし南東に向かい右から三十丁坂、その左におそらく尾根、さらに左にこれも尾根があり、大関山に正対しているらしい。その左に長左衛門釜があり、さらに大嶋、友田、古田の各隊が位置につき、第三旅団の最左翼に栗林隊がいたのである。これらを地図上に落としてみる。

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 あまり自信がある配置状態の推定図ではない。5月19日の部分で考えた際は長左衛門釜をもっと西側の尾根に推定したのだが、今回とは異なってしまった。

 薩軍は官軍が大口に進軍するのを防ぐという消極策に方針変換せざるを得なかった。しかし、大関山やその東側の国見山からは薩軍が去ったわけではない。

    5月24日、第三旅団は本来の目的地である鹿児島県大口山野に向けて動き出したが、薩軍にさえぎられてしまう。「戰記稿」を掲げる。

  廿四日第三旅團ハ山野大口ノ賊焰ヲ撲滅セント午前三時開戰シ勇ヲ鼓シテ

  關山ニ向ヒ直チニ長左衛門釜狐岩等ノ諸壘ヲ取ル頃クアリテ賊又反擊シ來リ

  池邊吉十郎ノ拔刀隊最モ善ク戰フ我兵モ亦善ク之ヲ拒クト雖モ新鋭ノ賊ニ敵

  シ難ク遂ニ略取ノ地ヲ退キ三十丁坂ノ舊線ニ據ル

 そして24日の戦闘報告表である。

C09084787800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0096・0097

  第三旅團名古屋鎭臺歩兵第六聯隊第一大隊第三中隊長陸軍大尉井上親忠㊞

  戦闘月日:五月二十四日 戦闘地名:肥後国芦北郡上木場村 我軍総員:65

  傷者:下士卒3

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分頃攻撃隊山上ノ賊壘ヲ陥ル因テ我正面

  賊塹濠ヲ保ツ能ハス退走ス直ニ尾擊要地ヲ占領ス然リト𧈧モ残賊猶左翼ヲ襲

  ヒ我兵利ナク終ニ午后第六時三十分比舊防禦線迠引揚ケタリ

  我軍ニ穫ル者:俘虜・下士卒一、銃一(協同隊兵卒)

 どこで戦ったのかわからない報告であるが、「戰記稿」からすると三十丁坂を出発し、長左衛門釜と大関山頂上を奪ったものの、薩軍の逆襲を受けて元の場所に退却したのである。 

C09084787900「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0098・99

  第三旅團歩兵第八連隊第一大隊第一中隊長陸軍大尉矢上義芳

  戦闘月日:四月廿四日(※五月) 戦闘地名:上木塲辺 我軍総員:87 

  傷者:下士卒3・軍属1

  戦闘ノ次第概畧:左翼ノ諸隊大関山及ヒ長左衛門釜攻撃ノ命ヲ蒙リ午前七

  頃遂ニ目的ノ地ヲ占領ス依テ右翼ノ諸隊モ進テ曩ニ建築スル処ノ諸塁ヲ占ム

  然ルニ午后五時過キ賊兵進ミ長左衛門釜ヲ突ク我兵支ユル能ハス終ニ乱レ再

  ヒ三十丁阪ニ退キ防戦ス

 

C09084788000「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0100・0101

  第三旅團近衛第二聯隊第一大隊第四中隊 中隊長代理中尉粟屋充藏㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:狐山 我軍総員:36

  戦闘ノ次第概畧:午前第八時頃賊軍ノ右翼我軍ノ為メ敗走ス依テ我隊ヲシ

  狐山上ノ賊ヲ進擊ス賊塁ヲ捨テ﹅久木野街道ニ退散シタリ是ニ於テ我隊ヲ賊

  塁ノ左翼ニ向ハシメ塁ヲ隔ツル凡三百メートルノ巨离ヲシテ防禦線ヲ定メ賊

  ヲ狙擊ス午后第五時頃ヨリ我軍ノ左翼ニ襲来ス我軍☐☐☐又我軍ノ正面ニ向

  テ襲来我隊賊ノ側面ヲ乱射シ賊☐☐☐

 狐山という場所は薩軍の 左翼に当たるらしいと推定できる。大関山の頂上から南西に延びた尾根にゴットン石という名所がある。人が上に乗って移動するとゆっくり動いてゴットンとかすかな音がする岩がある。これを狐山と呼んだのかとも思ったが、後出の海軍本営探偵報告では狐岩という場所があり、両者が離れている絵図があるので、後で検討する。

 

C09084788100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0102・103

  第三旅團東京鎮臺歩兵第二聯隊第一大隊第二中隊長 陸軍大尉下村定辞㊞

  戦闘月日:明治十年五月廿四日 戦闘地名:国見山・大関山両所 

  我軍総員:103   死者:下士1・傷者:将校1・下士2・卒11

  戦闘ノ次第概畧:明治十年五月廿四日午后第十一時石間伏村出発翌進擊第

  時ヲガノ又村ヨリ国見山ニ向ケ進擊第四時三十分ヨリ開戦賊兵頗ル要害ノ嶮

  ニ據テ烈シク防禦スルヲ以テ速ニ進ムヿ不能依テ正午十二時頃ヲガノ又村ヘ

  引揚ケ再ヒ午后二時頃道ヲ轉シテ直ニ大関山ニ進入平山大尉隊ト合併防戦午

  后八時頃ヨリ漸々第二防禦線迠引揚ク

 ヲガノ又村は大野村の6km上流、大関山の北東2km、国見山の北北東2kmにある。ヲガノ又は大木を伐採するときに使う大きな鋸に由来し、山仕事が生業だったので村の名になったようだ。もう一つの国見山が大関山の尾根続きで南南東5.6kmにあり、はたしてどちらが戦記に出てくる国見山かわからなかったが、この記述により大関山に近い方がこの国見山だと確定した。 

C09084788200「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0104・0105 

  第三旅團歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊長 陸軍大尉安満伸㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:長左エ門釜 我軍総員:118 

  戦死:将校1・下士卒9・傷者:下士卒9・不明:下士卒3

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分長左門釜ニ突入賊徒散乱堡塁悉ク占領

  依テ兵ヲ纏メ防禦ノ法ヲ立ント欲スル際賊徒突然我隊ノ中間ヲ絶チ頗ル苦戦

  午后第六時ニ旧臺ニ引揚

 戦死した将校は古川治義中尉である。

C09084788300「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0106・0107

  第三旅團名古屋鎮臺第六聯隊第壹大隊第貳中隊 陸軍大尉平山勝全㊞

  戦闘月日:五月二十四日 戦闘地名:肥後国芦北郡大関

  我軍総員:142 戦死:下士卒3 傷者:下士卒8生死未明:下士卒1

  戦闘ノ次第概畧:午前第十二時肥後国芦北郡古石村発軍同郡大入道ニ至ル

  前第三時三十分開戦一舉ニシテ大関山ヲ乗リ取リ長左衛門釜等ノ賊ヲ☐☐追

  拂ヒ即大関ヲ占領シ直ニ大哨兵ヲ備フ俄然トシテ賊兵再ヒ同処ニ迫ル我兵

  奮闘以テ漸退却セシム午後第七時三十分本営ヨリ同処ヲ引揚大入道ノ臺塲ヲ

  固守スルノ命アリ依テ同時命ノ如クス 失銃:二挺・失器械:帯皮胴乱

  我軍ニ穫ル者:降人下士卒1・銃:ヱンピール三挺 弾薬:ヱンピール千

  ・器械:刀三本

 12時古石村発、大入道へ。15時30分開戦し一挙に大関山を奪い大哨兵を置くが逆襲により19時30分大入道に帰り台場を固守。大体は他の隊と同じである。 

C09084788400「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0108・0109

  第三旅團工兵隊陸軍少尉 林 庸雄㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡上木塲近傍

  我軍総員:40

  戦闘ノ次第概畧:午前四時古道村ヲ發シ上木塲口ニ進ム仝七時比賊軍ノ右

  敗ルヽヲ見テ直ニ進撃シ賊塁三個ヲ乗取リ之ニ依テ守防ス仝十一時比歩兵隊

  ト交換シ塁ヲ退キ塹溝築設ニ着手シ凡十余個ヲ築ク午后六時比ニ仝處歩兵隊

  ノ退却スルヲ見テ仝ク退却ヲナセリ

 

C09084788500「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0110・0111

  第三旅團大阪鎮臺豫備砲兵第二大隊第一小隊中央分隊長陸軍少尉野間駒㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:熊本縣下肥後国芦北郡上木塲 

  我軍総員:15

  戦闘ノ次第概畧:山砲壱門午前一時三十分古田村ヲ発シ同三時三十分三十

  山着曩ニ建築ノ肩墻ニ侑ヘ仝四時ニ十分大島少佐ノ命ニ依リ放射ヲ始メ仝六

  時歩兵進軍ニ付仝官ノ命ヲ以テ放射ヲ止メ午后四時厚東中佐ノ命ニ依リ砲車

  ヲ退ク

 

C09084788600「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0112・0113

  第三旅團近衛歩兵第貳連隊第一大隊第三中隊長 陸軍大尉 大西 恒㊞

  戦闘月日:五月二十四日 戦闘地名:長左衛門釜谷 我軍総員:122 

  死者:下士卒4 傷者:下士卒13 生死未明:兵卒1

  戦闘ノ次第概畧:明治十年五月二十四日午后第三時古道村ヲ発長左衛門釜

  攻進同二十四日午前第五時頃開戦ス直ニ臺塲攻取ス敵勢放走ス狐岩迠追討ス

  我軍大勝利然ル后チ長左衛釜谷ニテ防禦スト𧈧モ人少ニテ左翼迠連線行届兼

  終ニ敵勢突進シ☐不得止引揚引続キ上木塲ニテ防禦ス

 午前3時古道村出発、午前5時頃長左衛門釜谷で開戦。敵の台場を乗取り狐岩まで追いかけて大勝利。その後は長左衛門釜谷で防禦したが少数のため左翼まで守備できず敵が突進し上木場に引き揚げた。 

 久木野には狐岩の伝承がある。ただし、大関山付近のものではなく、久木野川沿いのきつね岩だが紹介したい。昼間多くの狐がその岩の上に寛ぎ、夜は畑を荒らしていたのである男が杉の葉で岩の周りを山のように覆い、水をかけて火を着けた。辺りは煙で覆われ、八日目にやっと消えた時、親狐が子狐を抱くようにして死んでいたので村人は可哀そうに思いお稲荷さんを祀り、毎月食べ物を供えた、ということである(片岡英治編・久木野の文化を守る会「久木野の伝承」)。大関山の狐岩も似たような言い伝えがあり、祀られていたのかも知れない。

C09084788700「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0114~0116

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊長 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:五月廿四日 戦闘地名:大関山 我軍総員:105 傷者:将校2

  下士16 生死未明:下士卒2

  戦闘ノ次第概畧:午前第五時三十分大関山ノ麓登尾ヨリ進ム諸兵静粛深林

  谷ヲ渉リ稍クニシテ敵ノ堡塁ヲ見タリ諸兵一勢ニ鯨聲ヲ發シ直ニ銃鎗ヲ以テ

  突進ス賊辟易塁ヲ捨テ脱ル尚進テ堡塁数ヶ所ヲ奪ヒ勢ニ乗テ大関山ノ嶺ニ至

  ル賊兵退散爰ニ於テ諸兵ヲ整頓シ防禦ノ策ヲ為サントス偶賊敗兵ヲ集メ必死

  右翼ヲ衝右翼ノ兵潰散スルヤ直ニ我隊ノ正面ヲ襲テ諸兵奮戦賊兵ヲ左右ノ谷

  ヨリ進メ左右側ヲ挟撃ス然レ共一歩モ退ス防戦ス遂ニ弾尽キ援散スルヲ以テ

  已ヲ得ス退テ背後林中ニ入ル日没迠防戦シ命ヲ得テ退却旧防禦線ニ就ク

  24日の戦況はどれも似た内容で、初めは官軍が調子よく薩軍の陣地を奪ったが、反撃されて出発地に退却したというもので、官軍の人数は戦闘報告表からは833人だったとわかる。死者18人(19人)・傷者68人(62人)・行方不明7人(0人)である。()の数字は「戰記稿による。

 24日の戦いには逸見十郎太・池辺吉十郎が陣頭に立っていたという両軍の記録がある。

  廿四日第三旅團ハ山野大口ノ賊焔ヲ撲滅セント午前三時開戰シ勇ヲ皷シテ

  關山ニ向ヒ直チニ長左衛門釜狐岩等ノ諸壘ヲ取ル頃クアリテ賊又反擊シ來リ

  池邊吉十郎ノ拔刀隊最モ善ク戰フ我兵モ亦善ク之ヲ拒クト雖モ新鋭ノ賊ニ敵

  シ難ク遂ニ略取ノ地ヲ退キ三十丁坂ノ舊線ニ據ル (「戰記稿」)

 池辺の隊は反撃時に登場しているが、池辺がいたとは断定できない。逸見は見られない。

  此日の戰に賊將逸見十郎太池邊吉十郎陣頭に立ち部下を鼓舞督勵して大に

  めたりと云ふ。 (「西南戰袍誌」pp.68)

  これも亀岡が目撃したわけではない。

  人吉方面ニ下ル途中江白ト云フ所ニ一泊シテ、人吉ノ鍛冶町ニ五日位滞在シ、

  田野越ヲ通リテ大口ニ達シ、大口ヨリ肥後ノ久木野ニテ丘ヲ挟ンデ辺見氏ノ

  指揮シ従ッテ官軍ト相戦ヒ、始メ我兵二十名位附近ノ絶頂ニ登リ官軍ヲ見下

  シテ之ト互ニ相戦ヒタルモ再ヒ逆襲サレ丘ヲ下ルトキ、余ハ官軍ノ小銃ノ為

  メ足ヲ傷キ匍匐シテ漸ク丘下ノ民家ニ倒ル。

          (「西牟田休之進ノ談」『維新戰役従軍記』川内市史料集4 1974年pp.161・162)

 初め薩軍は20人位だったので退却し、反撃時に辺見が指揮したのであろう。記述が簡略で、池辺については触れていない。官軍の戦闘報告表を長々と掲げたので、「薩南血涙史」の5月24日の記述も掲げておこう。

    官軍大舉して久木野、山の神協同体(渕上幾)左小隊の壘を攻撃擊す、壘

  なるを恃み守兵少し左小隊必死防戰スト雖も衆寡敵せず遂に敗る、右小隊來

  り援け左小隊亦辺戰し奮戰之を恢復せんと欲し戰ひ甚だ努む、敵間遠きもの

  五六間近きものは數歩に過ぎず戰ひ益々激烈に至り彈丸雨注砲聲山壑に震動

  す而して勝敗未だ决せず此地深林鬱蒼として全軍の景狀を知らず、既にして

  忽ち聞く周圍に喇叭の聲の起るを、協同隊大に驚き乃ち斥候を發して之を窺

  はしむるに曰く「諸壘皆敗れて官軍盡く此塁に集まる」と、是に於て矢竭き

  道窮まり援兵亦至らず兵士死傷するもの相踵き餘す所四十餘人に過ぎず、然

  れども衆皆進死の榮たるを知り死を决して一呼正面の敵を衝き之を擊破し四

  方を展望すれば官軍の重圍恰も蜘網の如く其層なるを知らず、衆相顧みて曰

  く「天吾輩を亡ぼせり」と、又死を冒して再び戰ひ本道を望めば一陣の塵埃

  起り一隊の兵殺到するを見る衆皆な曰く「敵又來る」と、漸く近づけば是れ

  乃ち熊本ニ番中隊(北村盛純)の來り援くるなり衆大に喜び初めて再生の思ひ

  を爲し、相携へて本道に出づ、此時正義三番中隊(森元休五郎)破竹三番中

  隊(橋口龜助)は猪の嶽近傍に在りしが官軍久木野本營を襲ふの報を得倶に共

  に疾驅して之に赴き久木野の砲隊(坂元吉)又後装砲を以て救援せり斯くて

  邊見此敗報を聞くや大に憤り怒髪帽を衝き呼聲雷の如く四尺有餘の野太刀

  (此太刀は新納忠元祠に納めありし者といふを提げ自ら縦横に奔走し敗兵を整理し

  以て舊壘を恢復せんとし、砲三發を以て進擊を約し正義三番隊は背面より破

  竹三番隊其他の諸隊は正面より激しく進擊し奮鬪接戰して失ふ所の堡壘盡く

  之を恢復せり、此役協同隊最も苦戰勇鬪し令名益々盛なり死傷も亦協同隊に

  多し官軍の死屍三十餘を見、銃器彈藥若干を獲たり、兩軍死傷未詳。

 前にも述べたが大関山頂上には山の神神社がある。熊本の協同隊はその付近を守っていたのである。池辺率いる熊本隊も21日には山崎定平が率いて協同隊一中隊と共に久木野方面の守備をしていた記録がある(佐々友房「戰袍日記」pp.145)。同書24日の記述には

  廿四日池邊氏、深野、余、鳥居等各隊長ヲ率ヰ雉山ヲ出テ地形ヲ巡視シ遂

  矢筈嶽ニ登ル云々

とあり、池辺は水俣方面にいたとあり、この日大関山にはいなかった可能性が強い。5月上旬から6月上旬に大関山の戦いに加わっていた薩軍正義隊某中隊長林一郎と分隊長服部喜壽の上申書がある(「林 一郎・服部喜壽連署上申書」『鹿児島県史料西南戦争第二巻』pp.871~876)。これもまた監獄で自分と仲間の記憶をもとに書いたので日付は間違えている。第三旅団が佐敷に来る前、大関山には警視隊が配置についていたが、5月8日大口方面から進んだ薩軍に襲われて放棄していた。引用する上申書はこの時点からの記録である。林らは大関山の南西側の深川付近にいた。

  然ルニ当方面ヨリ人吉ニ通融スル久木野村ノ脈道ヲ断テ官軍固守ス、時ニ

  月廿三日頃ナラン、速カニ彼地ヘ繰出シ候様本営ヨリ報知アリ、即隊ヲ率テ

  久木野村ヘ到ル、是時味方ノ各隊モ追々繰込ミ翌日午前七時頃ヨリ進擊、自

  分隊ハ左翼ヨリ進テ本道ニ到レハ官軍要地数ヶ所ニ台場ヲ築キ固守ス、味方

  ノ総軍銃ヲ発シ互ニ烈戦時刻ヲ移シテ勝敗決セス、午后六時頃ニ至リ味方一

  同奮激突出シ、遂ニ官軍敗走、台場ヲ奪フテ味方ノ軍ヲ構ヘ、銃器・弾薬分

  捕夥シ此ニ自分隊死傷十一名、時ニ自分左小隊ハ本道ニ防戦ス、右小隊ハ山神ト

  云聳ヘタル山径一筋アル頂キニ台場ヲ築キ此ニ守兵ス、同廿九日頃未明ヨリ

  官兵突然声ヲ発シテ来襲フ、互ニ銃ヲ放ツテ戦フト雖モ遂ニ味方敗走、山

  ノ半腹ニ退ク此ニ自分隊半隊長服部喜之丞外ニ壱名戦死、然ル処午后五時頃味方ノ総

  軍旧地ヲ復セント烈シク戦フ、官兵辟易シテ敗走ス、直ニ味方ノ総軍進テ旧

  地ニ到リ防戦数日此ニ服部喜寿半隊長トナリ、時ニ六月十三日頃ナラン、官軍

  ニ寄セ来リ勢ヒ烈ク遂ニ味方敗北此ニ自分隊死傷五名各隊岩井河内ニ曳揚ケ此

  ニ守兵ス、

 5月8日以後の大関山の戦いは19日・24日・6月3日だから、ここで廿三日頃ナランというのは19日であり、廿九日頃というのは24日である。そして最後が6月3日である。19日の戦い後に左小隊は本道に、右小隊は山の神に台場を築いて守ったという。本道とは山神ト云聳ヘタル山径一筋アル頂に続くその道であろう。薩軍は西側を向いた状態の台場を築いたらしい。

 海軍参軍の川村純義中将の本営に各地の探偵報告がもたらされている中に5月24日前後の佐敷・水俣方面のものがある。その中に大関山や札松越周辺を横から見た略図二枚が添えられており、記述内容もだが地名比定の参考にもなるので掲げる。小文字部分は原文では二行書きである。

C09082320300「明治十年五月以后 探偵書 海 参軍本營」0263~0269

      十年五月廿四日報知

  午前四時頃ヨリ第十三大區八小區内上木塲村ト申所ニテ同村ヲ挟ミ双方野

  ナリ進擊賊兵破レテ後之山手ニ迯走ス此山萱立ニテ八名生捕官軍進テ賊ノ台塲ヲ

  取リ此ニ於テ交戦午后六時頃迠勝敗不决官軍死傷二十名程賊ノ死傷不御嶽

  望坂ノ賊未タ退ス官兵巧ミ通シ中尾山濱ノ町ヨリ二里位ニ進ミ泉ト云処ヘ賊胸

  壁ヲ築キ和銃ヲ携エ固メ居ル官兵陣坂ニ進ム久木野ノ賊仁五木村江出張ス官

  兵深渡瀬ニ進ミ矢ハズ山ノ賊未タ退カス官兵長﨑村ニ進ミ廿三日ヨリ休戦此

  日東京巡査千百人到着丸島ニ陳ス 

 以下原文では見え消しで訂正している部分は、そう表記できないので(   )に入れる。5行目から4行は水俣の戦況である。以下5行は球磨川沿岸地域のこと。

  一本月廿二日夜官軍心服(箙)瀬及神之瀬ニ進ム賊火ヲ放ツテ大瀬ニ走ル

   ノ瀬ノ賊ハタカソ及大瀬ニ二分シテ去ル賊(凡)千人内三百位ハ熊本士

   族也ト云フ同

   廿三日朝タカソ山ニ進軍一時間程戦争賊即死一名生捕一名互ニ勝敗ナシ此

   日官軍上蔀ノ本陣ヲ心服(箙)瀬ニ移ス神ノ瀬ニ連(絡)セリ山地中佐

   ハ神之瀬ニア

  一人吉市中ニハ賊ノ屯集少シ纔ノ兵徘徊スルヲ見ルノミ市中モ平穏ナリシ

   去ル廿三日頃ヨリ少々同様家物ヲ運フモノ多シ

  一五木越ニ戦争アリテ多數ノ手負ヲ人吉ヘ輸来大ニ混雑ノ体ナリ病院ハ寺

   ハ町家ニ二軒アリ

  一廿三日人吉ノ帰路渡村ヲ過クルノキ賊百五十名計人吉ニ退ク此ヨリ告村ニ

   二百名計屯ス玉薬雷管ハ人吉九日町五日町ニ五ヶ所製造所ヲ設ケテ拵ヘ居

   レリ

  一八代間道球磨川筋清正公山ニ砲壘ヲ築キ二ヶ所一ヶ所ハ既ニ砲ヲ備フ又

   下湊口ニ同断之亦砲ヲ備フ

  一大瀬村ニ賊丗名屯

  一一舛地ニ賊合議本陣ヲ爰ニ据ント此兵ハ大野神ノ瀬ヨリ退キタルモノナ

   ン

  一告村ト川ヲ隔惣見山アリ賊百名屯ス此絶頂ニハ民戸十一軒アリ

    但惣見山ハ髙山ニシテ告村ヲ見下シ尤險要ノ地ナリ

  一米穀ハ鹿児島ヨリ人吉ニ運フ甚タシ

  一廿一日賊布達ヲ廻シ同所ノ士族元足軽ニ至ル迠呼出新ニ兵ヲ募ル銃ハ火

   筒ナリ

  一神ノ瀬口ニアル賊兵ハ肩ニ赤色ノ章ヲ附ス新募兵ナリ半ハ銃ナシ

      五月廿日報知

  一本月十八日五木谷椿村ヲ略取上(平)瀬ニ進ム賊走ツテトヲシニ止ル

   兵死一人傷四人賊ハ死五人生捕二人十九日休戦

  一十八日十九日大河内村本陣箙瀬口ハ休戦

  一十八日十九日水俣口ハ深川ト深渡瀬トニテ對戦止マス

  一佐敷口ハ今朝開戦

      五月廿一日報知

  一本日午前五時頃虎石麓在屯之官軍江穂木平ノ賊渓間ヨリ五十名程拔刀ヲ

   テ襲撃防戦直ニ賊敗レ穂木平ヘ走ル依テ官軍ハ虎石山絶頂ヘ進ミ同九時頃

   山頂ヨリ麓迠臺塲ヲ築キ穂木平並シゲリ之賊江向ケ砲撃其昨日動揺官軍ハ

   頻ニ発砲賊ハ稀ニ砲発ス

  一水俣口ハ久木野ノ賊四百名計井良之迫ト申所ヘ若干屯シ仁王木村ヘ硝兵

   出セリ十九日官軍之レヲ陥レ進テ其跡ニ硝兵ヲ散布シ同廿日中尾野近邉屯

   在ノ賊ヲ鬼ケ嶽ヲ進撃櫻之馬塲江進ンテ對陣 ※以下は蒲生隊の降伏文書

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  21日の記述は虎石山・穂木平・シゲリなどの戦闘報告表にも登場する地名である。穂木平は櫨木とも表記されるものと同一らしく、漢字が難しかったのが原因か。この場所の国見山(大関山の東に同じ名の山が二つある)というのは他では見たことがない名前で、この図図から考えて掃部越の谷筋の北側にある標高324mの山だろうか。西斜面に庵の山とある山である。

 下図もこの史料の一部である。上木場背後の山から眺めた状態であろう。下木場というのは現在の地図にはないが、上木場の南西約1kmに陳越という地名が、谷川の西側にあるがこの付近に当時は集落があったのだろうか。図には守備線が三列見られ、手前のが官軍、他が薩軍と考えた。現地踏査すれば痕跡が見つかるかもしれないが推奨はしない。マムシ・マダニ・スズメバチに噛まれたり、迷って帰れなくなることもあり得るから。鹿・猪・アナグマ大関山とその東側の国見山の中間で目撃した)には遇うかもしれないが。

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 5月24日の大関山の戦いを南西方向から見ていた記録がある。別働第三旅団の巡査喜多平四郎の「征西従軍日誌 一巡査の西南戦争(佐々 克監修2001講談社学術文庫である。

  同二十四日 天気

   我が内匠通より左、東の方遙かに眺望する所の高山は、人吉城の裏手に

  たる大関山という。そこの山腹の広原に、我が陸軍賊軍と相峙せり。この所

  今早朝より烈しく砲戦するを眺望するの所、官軍忽ち賊塁を落としたりと見

  えて、賊線の位置々に数個の烟煙揚がるを見る。砲声は殊に盛んなり。賊軍

  の位置、谷を越えて却きたりと見えて、少しく低き方に大砲一門を引いて発

  射するの煙を見る。夕刻に至り、それより高き方の山腹に大砲二門を備え、

  山上の方に向けて頻りに防射連発す。その破裂丸の煙によって遠望し、これ

  を察するに、官軍大関山の山上、樹木の生茂したる方に迂回したるものと見

  えて、賊軍は即ち二門の大砲をもって山上の方を斜めに仰いで発砲する事頻

  りなり。暮れ方に至り、その破裂丸、山の低き方に至り、距離従って遠く破

  裂するを見る。これにおいてこれを察するに、山上の方に迂回せし官軍、彼

  の防射厳重なるによって進む事あたわずして、却きたるものと見受けたり。

  翌日聞く所によれば、この戦い早朝より官軍大勝利にて、賊軍の戦線を破り、

  胸壁数ヵ所を落としたり。賊軍却きて防ぐ、官軍山上の樹間に迂回し、賊軍

  を臨みこれを撃つ。賊兵二百ばかり抜刀、決死切り込み来たりしによって、

  官軍敗走して早朝より夕刻までに攻落したる芝居を捨て、また元の位置に帰

  り固守せりとなり。

 大関山南西尾根にあるゴットン石付近の植生について、堀部隊報告は西南ノ焼野字ゴツトンニ走ル、下村隊報告は「ゴットン」ノ野と呼んで他と区別していることから、大関山頂上は樹木が繁茂していたらしいと推測できるが、喜多の記述も大関山の山上、樹木の生茂したる方とあり、少なくとも頂上の一部は樹木が繁茂する状態だったようである。前掲の海軍の報告にある挿図も大関山頂上一帯は樹木が描かれているが、周辺はそれがない。

 現在、大分宮崎県境の陸地峠付近のように鬱蒼とした戦跡でも当時は萱野だった場所があるのは、生業が当時と今とでは全く異なり、萱のような草を利用し、小枝を頻繁に拾って燃料にする生活だったからである。戦場の一部が野原だったため、南西側の石坂からも戦況がよく見えたことが分かる。

 24日、佐敷本営に山縣参軍・三好少将(第二旅団)が来て協議した(「西南戰袍誌」pp.68)。

 25日は第三旅団は左翼を球磨川南岸の一勝地村に延ばし、別働第二旅団と連絡を保つようにした。

 C09084788800「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0117・0118

  第三旅團第八聯隊第壹大隊第四中隊長 陸軍大尉佐々木 直㊞

  戦闘月日:五月二十五日 戦闘地名:肥後国芦北郡古石村大入道 

  我軍総員:130 傷者:下士卒1 

  戦闘ノ次第概畧:午前第二時三十分肥後國芦北郡古石村ノ内大入道ニ於テ

  哨兵ヲ布シ歩哨勤務中

 26日、第三旅団は左翼を鏡山口とし、右翼を上木場口と定めている。団の進路は大口方面であり、人吉ではない。

 この日、5月26日に長州出身の木戸孝允が病死した。当日午後2時5分、木戸孝允の死去を知らせる電報を熊本の山縣は佐敷の三浦に発している。漢字片仮名混じり文「木戸孝允今朝死去セリト山尾杉両人ヨリ報知アリ此段御報知申ス」を併記した陸軍軍用電信用紙が綴じられているが、意外にも電文にはキドタカスケとある。どういうことだろうか。タカヨシではないのか。山縣が自身で作文した電文であれば、そのままタカスケが正しいと思う。当時の人は一般にタカヨシと呼んでいて、それが現在に至ったのかも知れないが、木戸は山縣よりも4歳年長、三浦よりも11歳年長の同じ長州藩出身で互いに若く有名でない頃からの知合いである。実は出世する前はタカスケで、同じ藩の周りの者はタカスケと呼んでいた可能性もある。

 木戸は万延元年(1860)に水戸藩士と議諚書を作成しており、署名は桂小五郎の左に孝允と併記しているので、この頃までには孝允と名乗っていたと分かる(木戸公傳記編纂所1927「松菊木戸公傳 上」pp.73)。タカスケでは軽いと思いタカヨシと呼んだり、コウインと読んだりしたのだろうか。伊藤俊輔改め春輔が明治になると博文などと称えだしたので、木戸本人もその気になって途中からタカヨシと称したのかも知れない。しかし、山縣は三浦に対してはあえて昔の呼び名を電報に使ったのである。

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 その後、5月28日三浦は熊本に行き(C09084891000)、29日午後八代着、31日佐敷に帰った(C09084891100・「西南戰袍誌」pp.70)。第三旅団は5月24日の大関山攻撃を最後にしばらく積極的に動かなかった。その訳は水俣で戦っている別働第三旅団の進軍状況に連動することと共に、別働第二旅団が人吉を奪った後に薩軍が鹿児島県内に退却するのを待っていたためと考えられる。別働第二の山田少将と頻繁に情報交換をしており、別働第三の川路少将からも逐次情報を得ており、あえてしばらく前進を止めていたようである。

 28日に5月24日の戦闘で行方不明になっていた安満隊の兵士が二人帰ってきたので、上官に報告している。

C09084811100「明治十年自五月至七月 戦闘報告表 第三旅団」0567

  過日安満大尉ゟ戦闘報告表差出候後死生未明之者別紙届出書之通帰隊候条

  段及御届候也

 

  五月廿八日   内藤少佐

  當口司令官殿

   参謀官御中

 

       二等卒 竹川民藏

       仝   森下源右衛門

  右二名昨廿七日午前帰隊候也

 

  拾年五月廿八日  陸軍大尉安満伸愛

 

   陸軍内藤少佐殿 

 5月24日不明になった3人のうちの2人である。残る一人はどうなったのだろうか。