西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

歩兵第七聯隊第一大隊西南戦記綴(3月)

はじめに

 アジ歴にある史料を読んでみようと思う。活字化されてない史料だがペン書きの読みやすい字で書かれている。これは石川県金沢市金沢城内にあった名古屋鎮台金沢営所の部隊の西南戦争時の戦記である。名古屋鎮台は名古屋に第六聯隊、金沢に第七聯隊が分かれて存在していた。

 第1図は左が簿冊の表紙、右が本文である。本文はすべてこの書体で書かれているので、誤読の可能性が小さいことを理解頂けると思うので、以下の本文は掲げない。毎日の記述に続いて補足・解説を加えるやり方で進めたい。原文で二段書きしてる部分はここではそのように表記できないので( )に入れて示す。ヿ=事・ノモ=ども・乄=してはそのままにし、ホ=等だけは等に改めた。原文で字の上から線を引いて見え消しし、上部に字を加えているのもここでは表現できないので上部の字を( )に入れる。アジ歴の原文を見たい場合はアジ歴を開いてレファレンス番号C13080000200を入力し閲覧を選べば閲覧できる。C13080000200「歩兵第七聯隊第一大隊 西南戦記綴 明治一〇、三、一―八、八」(防衛省防衛研究所蔵)が本戦記の名称である。

 この戦記はNo.1からNo.9に分けて閲覧できるようになっており、1と2は3月の記録、3は4月の記録、4は5月の記録、5は6月の記録、6は「明治十年三月 戰記綴 第一大隊」の表紙、7は戦闘次第書で戦闘があった日に限る記述、8は勲功者、9は1の下書きのような文書である。

 月毎に読んでいくことにし、8の勲功者や9の下書きは扱わないでおこうと思う。

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             簿冊の表紙・本文の状態

3月の行動

    明治十年三月一日

名古屋鎭臺ヨリ命アリ我歩兵第七聯隊第一大隊ヲ大坂表ニ出張スヘシト聯隊長亦令シテ翌二日ヲ以テ行ヲ脩メシム是ヨリ先キ鹿児島縣士西郷隆盛桐野利秋篠原国幹等衆ヲ卒ヒ兵器ヲ弄シ熊本縣下ニ乱入シテ(此書大隊ノ記事ナルヲ以テ強テ他ノ事由ヲ舉ケス以下仝シ)二月二十一日臺兵ヲ熊本城ニ囲ム已ニ二月十九日ヲ以テ詔シテ征討ノ命ヲ下サル是ニ至テ我大隊此命アリ蓋シ以テ待ツヿアルナリ故ニ行装最モ急速ヲ要シ下士兵卒ノ行軍ニ堪ヘガタキモノ十九名ヲ營所ニ残シ少尉神代清之進ヲシテ宿割士官トナシ下士二名ヲ従ヘ即発セシメ亦第四中隊ノ左小隊ヲシテ本隊ニ後ルヽトコロノ輜重護衛タラシム計官亦之ニ属ス則軍装ヲ命スルモノ左ノ如シ

 

此夜永井曹長大坂ヨリ鳥尾中将ノ命ヲ含テ来リ亦急進ヲ催ス

      三月二日

天晴ル午前第三時三十分搭營隊ヲシテ先ツ発セシム大隊ハ聯隊長ノ命ヲ以テ仝五時二十分整列塲ニ整列ス大隊長陸軍少佐古川氏潔副官陸軍中尉石川昌世医官陸軍々医小泉親正計官陸軍々吏補髙柳信昌第一中隊長陸軍大尉手嶋孝基仝隊附陸軍中尉木下勝知仝少尉永田政義仝試補林従須第二中隊長陸軍大尉大川矩文仝隊附陸軍少尉吉田鐘吉中川千寿尋仝試補桐渕直第三中隊長陸軍大尉上田速実仝隊附陸軍中尉岡先仞仝少尉神代清之進仝試補吉弘鑑徳内山功第四中隊長陸軍大尉児玉通良仝隊附陸軍中尉有馬純一仝試補島村友直渡辺奏助下士兵卒看病人卒等合テ六百七十二名其整頓ヲ告クルヤ聯隊長自ラ検閲ヲナスヿ式ノ如シ終テ直ニ行進ヲ始ム寒天途頭甚タ悪シク午後第四時小松駅ノ舎營ニ着ク此日患者殊ニ少シ 

 聯隊所在地である金沢城の南西約26㎞に小松がある。

      三月三日

午前第六時発程暁天ヨリ降雪終日止マス路頭亦甚タ泥濘ナリ闔隊大イニ疲勞ノ色アリ午後第七時金津駅ノ舎營ニ着ク患者合テ三十名又靴傷ニ罹ルモノ頗ル夛ク午後便冝草鞋ヲ用ユルヲ許ス此日第四中隊ノ第三半隊ハヲ卒ユ(有馬中尉之)小松駅ニ次ス 

 金津は2004年から「あわら市」となった。小松の南西30㎞。当時はまだ鉄道線路はなく、駅とは街道の中で宿ることのできた設備のある所をいう。次スとは、やど(宿)す。行軍二日目にしてワラジに替えたものが30人ということは、軍靴の品質も悪かったのだろう。

      三月四日

午前第六時発程終日曇天路傍ノ積雪二尺有余近日ニ比シテ稍暖ナリ午後第七時十分鯖江駅ノ舎營ニ着ク此日台四中隊附陸軍少尉村山政明戸山學校ヨリ復隊今朝ヲ以テ本隊ニ加列ス患者合テ九十五名第四中隊ノ第三半隊ハ大聖寺ニ仝第四半隊及ヒ補之ヲ卒ユ(渡辺少尉試)會計一行ハ小松駅ニ次ス 

 金津から鯖江まで約30㎞。

      三月五日

午前第六時発程終日降雨路次甚タ悪シ午後今庄駅ニ舎營ニ着ク患者合テ百三十五名ナリ此日台四中隊ノ第三半隊ハ舟橋駅ニ第四半隊及ヒ會計一行ハ大聖寺ニ次ス

 鯖江から今庄まで約21㎞。患者とは具合の悪くなった者をいう。

      三月六日

午前第六時出発午前降雨而午後晴ル北陸ノ咽喉木芽嶺ニ掛ル山路最モ﨑嶇タリ積雪五尺余一陣ノ寒風来ル毎ニ枝葉ノ雪ハ散シテ烟ノ如ク馬ハ四蹄ヲ埋テ嘶キ進マス行甚タ艱難ヲ極ムト𧈧ノモ滿目ノ風色実ニ爽快餘情雪ヲ掬シテ行歩ヲ慰シ近日ニ比シテ却テ行進ヲシテ速ナラシム嶺ヲ下ル二里ニシテ通路平坦ナリ遂ニ路傍一塊ノ雪タニ見ス午後第一時十分敦賀駅ノ舎營ニ着ク患者合百四十五名ナリ此日第四中隊ノ第三半隊ハ武生駅ニ第四半隊及ヒ會計一行ハ舟𣘺役ニ次ス 

 木ノ芽峠は標高625m位。今庄から敦賀まで約21㎞。前日の病人135人も行軍したのだろう。恢復した人もいるだろうし、新たに悪くなった人を加えて本日は患者が145人となった。

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金沢営所から神戸までの行程と日時(以降もアジ歴以外の地図はカシミール3D使用)

      三月七日

午前第六時発程終日晴天疋田ヲ経テ深坂峠ニ掛ル山路嶮ナリ積雪二尺午後第一時塩津駅ニ着ク湖口ニ滊舩四艘ヲ艤シ以テ本隊ノ至ルヲ待ツ大休憩終テ乗舩大隊本部及第一中隊ヲ江州丸ニ第二中隊ヲ丹頂丸ニ第三中隊ヲ以呂波丸ニ第四中隊ヲ明進丸ニ午後第三時十分拔錨湖上風波烈シ一時三里ヲ馳ス江州丸及ヒ明進丸ハ午後第八時十分大津ニ着ス着岸前丹頂丸以呂波丸ト相後ル後ニ云フ丹頂丸ハ片田ノ洲上ニ乗リ上ケ急ヲ報スルニ依リ以呂波丸ハ針路ヲ轉シテ之ヲ救フ而乄力及ハス止ヲ得スシテ大津ニ駛リ曩ニ着スル所ノ二舩ヲ遣リ悉ク之ニ移シ乗セ夜二時着駛ス馬ハ東シ東海道ヲ経テ陸地ヲ行カシム此日第四中隊ノ第三半隊ハ今庄駅ニ第四半隊及ヒ會計一行ハ武生駅ニ次ス 

 深坂峠は標高約360m。敦賀から塩津まで約16㎞、さらに琵琶湖を63㎞縦断し大津着。馬が東に向かって陸を行ったというのは、弾薬箱その他を琵琶湖岸の東回りで運んだということだろう。琵琶湖では明治7年には15隻の木造汽船が就航しており、江州丸はこの年2月に建造されたばかりの64トンの木造汽船だった(ネット情報「びわ湖鉄道歴史研究会湖上連絡運輸の歴史研究」)。

      三月八日

午前第七時発程天晴ル西京七條ノ停車塲ヨリ半大隊宛両度ニ乗車各一時三十分間ニシテ梅田ノ停車塲ニ達ス大坂鎮臺ノ命ニ依リ第三營ニ着營ス午後第五時ナリ司令長官四條少将大坂鎮臺々下警備向委任被仰付タル旨布達アリ此日第四中隊ノ第三半隊ハ敦賀駅ニ第四半隊及ヒ會計一行ハ今庄駅ニ次ス亦第三中隊長上田大尉吐血症ニ罹リ入院セリ 

 朝、大津を出発したのだろう。大津から七条ノ停車塲まで約11km。七条ノ停車塲とは京都駅のことで、この年2月に開業したばかりだった。七条停車場から梅田まで約43km。※下の写真は「むかしもん文庫」さんが複製した七条停車場の葉書。

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       三月九日

我大隊大坂衛戍ノ勤務ニ服ス四條少将ノ大坂警備ヲ任セラヽルヤ名古屋鎮臺ノ幕僚ヲ率ヒ事務所ヲ鎮臺ノ中ニ設置セラル我大隊亦総テ少将ノ指揮ニ属ス此日第四中隊ノ第三半隊ハ湖上ヲ航シ大津駅ニ第四半隊及會計一行ハ敦賀駅ニ次ス而我大隊戦地出張ノ内命アリシヨリ有馬渡辺ノ両尉及會計官ニ電報シ護送ノ弾薬ハ大津營所ニ収藏セシメ速ニ本隊ニ合スベキヲ命ズ

       三月十日

我大隊ノ携銃ミニヘールヲ引換ヘスナイードルヲ携ヘシム第四中隊ノ第三半隊ハ此日第三營ニ着ス第四半隊及ヒ會計官ハ大津駅ニ次ス  

そういえば、小倉営所の鎮台兵も熊本に行く途中でスナイドル銃に変更していた。

       三月十一日

名古屋鎮臺令シテ我大隊ノ三中隊ヲ神戸ニ繰込シメ其第三中隊ヲ以テ神戸守衛ニ充テ第四中隊ハ尚ホ坂地ニ屯在セシム故ニ病兵ノ従軍シ難キモノ五名ヲ送院ス午後第五時十五分仝三十分ト両度ニ乗車各一時十分間ニシテ神戸ニ達シ右半大隊ハ滋野中佐ノ約束ヲ受クヘキ命ナルヲ以テ本港ノ陸軍参謀部ニ届出タリ此日第四中隊ノ第四半隊ハ中隊ニ會計一行ハ本隊ニ合ス

       三月十二日

夜半第三中隊長代理岡中尉来リ云フ我第一大隊ヲ以テ長﨑出張ヲ命セラル故ニ該隊神戸守衛ヲ解カルヽノ電報名古屋鎮臺ヨリ達セリト而乄本隊ハ未タ何等ノ命ヲ得ス

       三月十三日

征討総督本營ヨリ我大隊ノ右半大隊ヲ征討別働第二旅團ヘ編入セラルヽノ命ヲ得タリ即時乗舩ノ凖備ヲナス先ツ長﨑港ニ到ルヘキノ口達アリ参謀部諸員ト午後第七時三十分三菱郵舩社寮丸ニ駕ス仝八時拔錨海上風波穏ナリ播摩洋ヲ航ス一時四里ヲスルト云フ此日第三中隊ハ神戸港守衛ノ如シ第四中隊ハ大坂ヨリ神戸ニ繰込午前第九時ヲ以テ至ル亦征討従軍ノ大隊本部及ヒ二中隊出発スルヲ以テ四條少将ニ電報ス 

 別働第二旅団編入を命じられた時刻は記さないが、「即時乗舩ノ凖備」をして神戸港で19時半に乗船している、二時間程前に命じられたものか。社寮丸とは、明治7年の台湾出兵の際に兵員輸送用に米国商船シャフツボリー号324トン・長さ60.9mを買収し、台湾征討の関係で台湾の港である社寮に因んで名付けたもの。

      三月十四日

午前第八時讃岐夛度津ニ投錨ス是ニ於テ第十三聯隊ノ中一中隊仝シク別働隊ニ編入セラルヽヲ以テ該隊ノ乗舩ヲ待ツ午後三時四十分拔錨水島洋ヲ航ス風波穏ナリ 

 島津久光への勅使を護衛して鹿児島に行き、用務終了後に鹿児島から13日に長崎に入港していた黒田清隆中将は、14日征討参軍に任命されている。当時熊本城に籠城していた第十三聯隊が別働第二旅団に編入するというのは間違いか。

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               先頭部隊の行程・航路

       三月十五日

周防洋ヲ航ス午後第一時長門ノ下関ニ投錨ス砲廠部ヨリ弾薬銃器等ヲ積入ルト云フ髙柳軍吏補隊用ヲ以テ上陸ス仝九時拔錨此夜玄界洋ヲ航ス風波穏ナリ

       三月十六日

午後第四時二十分肥前長﨑港ニ着艦ス是ニ於テ搭營隊及ヒ前衛若干ヲ編制シ先ツ上陸セシム午後第五時悉ク浦五島町ノ舎營ニ着テ兵隊ヲ休憩セシムヘキノ口諭アリ竊ニ聞ク是ヨリ先キ参軍黒田中将髙島大佐ト別働隊ヲ此港ニ集合シ懸軍ヲ以テ賊軍ノ背後ヲ衝クノ策ヲ畫セラル是ニ於テ諸隊ノ港駐スルモノ凡ソ九中隊ナリト云フ

      三月十七日

旅團編制蓋シ成ル歩兵二聯隊ニ砲兵ヲ加ヘラルヽト云フ髙島大佐ヲ旅團長ニ岡沢少佐ヲ参謀官ニ茨木黒木ノ両中佐ヲ第一第二ノ聯隊長ニ而乄我大隊ハ二中隊ナルヲ以テ第十一聯隊第一大隊ノ第三中隊ヲ合シ第一聯隊第一大隊ト称セラレ茨木中佐ニ属ス 

 「征西戰記稿」によると衝背軍は17日に「是日賊背ニ出ルノ旅團ヲ名ケテ別働軍ト曰フ」とある。

       三月十八日

茨木聯隊長副官以上ヲ本部ニ會シ示諭アリ因ニ云フ別働隊ナルモノハ其任最モ重大ニシテ之ヲ使用スルニ當リ其難キ素ヨリ論ヲ俟タズ諸士官以下力ヲ協セ志ヲ一ニシテ目的ヲ達スヘキ也今示諭スル所亦豫メ期シ難シト𧈧ノモ各自戒飾セハ亦滿一ニ裨補アルヘシ而乄口諭最ノモ剴切ナリ先ツ道ヲ海路ニ取ルノ目的ナルヲ以テ上陸ノ手配ヲ議定セラルヽ左ノ如シ

゜背嚢携帯具ハ艦中ニ残シ置クヿ ゜弾薬百発宛携帯ノヿ ゜鞋足袋ハ附着ノ外ニ壱足宛携帯ノヿ ゜塩肉用意ノヿ

此日旧左半大隊ハ神戸ニアツテ出征別働第二旅團ヘ編入セラルト云フ 

 高島大佐は歩兵一大隊・警視隊700余人を率いて午前4時長崎港を出発し、19日午前6時過ぎ八代市街から直線距離11kmの日奈久の須口に上陸した。

        三月十九日

第一中隊兵卒二名第三中隊伍長壱名戦役ニ堪エ難キヲ以テ當港海軍仮病院ニ送ル此夜出征ノ乗舩割ヲ示サル聯隊本部及ヒ第二大隊ヲ社寮丸ニ第一大隊本部及ヒ第壱第二中隊ヲ赤龍丸ニ仝第三中隊及旅團本部附属軍医部ヲ浦丸ニ其時限ノ如キハ明日ノ命ニ依ルヲ以テ緩急速ニ整頓ヲ要ス云々此夜第四中隊附陸軍少尉試補渡辺奏助神戸ニヲイテ病没ス

 赤龍丸は西南戦争の発端となった鹿児島にある陸軍砲兵属廠の弾薬製造器械や弾薬を大阪に移送しようとした際に使用した船でもある。瓊浦丸は英国蒸気船モリエルを明治7年に買い取り、瓊浦(たまうら)丸と名付けたもの。

        三月二十日

正午十二時ヨリ乗舩スベキノ命アリ午后第二時悉皆乗舩ス此役也先ツ肥後国葦北郡日奈久ヲ目的トナスト云フ仝第二時五十五分拔錨天草下島ノ西南ヲ航ス駛行スルヿ壱里余ニシテ社寮瓊浦ノ両艦遥ニ我後ロナルヲ見ル須臾ニシテ我ニ先チ進ミ遂ニ形ヲ見サルニ至ル此日旧左半大隊ハ神戸ヲ発艦ス 

 衝背軍の内、赤龍丸・社寮丸・瓊浦丸は八代海に南西側から侵入したことが分かる。

      三月二十一日

午前第七時天草島ノ牛深ニ停舶ス社寮丸ハ已ニ拔錨スルヲ見ル瓊浦丸ハ亦我ヨリ後レ来ル髙柳軍吏補隊用ヲ以テ上陸ス諸舩皆ナ需要品ヲ此所ニ取ルト云フ仝九時十分拔錨天草下島ト長島トノ間ヲ航ス波甚髙シ午後第二時十分日奈久港ニ着艦ス我本隊ニ先ツ一日第二聯隊ハ軍艦ト共ニ此港ニ至ル賊ノ戌兵戦ヲ挑ム軍艦大砲ヲ放ツニ及ヒ辟易山林ニ遁逃シ尋テ上陸難ナク此地ヲ占領セリト云フ是ノ時ニ當ツテ賊軍熊本ヲ囲城シ木留山鹿ノ諸嶮ニ戦ヒ殺傷相當迭ニ勝敗アリト聞ケリ聯隊長ヨリ令アリ我第三中隊ヲ日奈久ニ留置其他ハ八代ニ進軍スベシト而乄陣ヲ距ルヿ二里余端舟便セズ風波亦烈シ先ツ社寮丸ヨリ上陸ヲ始夜ニ入ル午後第九時風強ク波髙シテ夜間舟ヲ揖シ得ス明朝ニ至ルヘキヲ以テ兵隊ヲ休憩セシムヘキノ命アリ

午後第十時二十五分鳳翔艦長ヨリ少尉試補粕谷精一ヲシテ参軍ノ旨ヲ奉シ諸艦ヲ地方ヘ近寄セシム命ニ應シ仝十時四十分拔錨一轉シテ進ミ仝十一時十五分陸ヲ距ル十丁余ニシテ投錨ス海底三尋ナリト云フ是ヨリ酒ヲ■ニ盛リ以テ舟子ヲ励シ陸續上陸ヲ始ム  

 一字不明。

     三月二十二日

晴天午前第八時四十五分悉皆上陸ス輜重遠用ノモノハ本艦ニ残シ置ケリ第三中隊ヲ此地ニ残シ午後第三時三十分八代ニ達ス我半大隊ノ至ルヤ第二大隊ノ二中隊ヲ宮ノ原ニ進軍セシメラル當八代ヲ距ル二里余此地ニ合戦アリ賊兵千余一昨日ノ戦ヒ甚苦難ナリト云フ午後第四時第一中隊ヨリ進軍セシムルノ命アリ未タ方向ヲ詳ニセス聯隊長牛嶋大尉ヲ召シテ示授セラル蓋シ向坂ヨリ川床小浦ノ間道ヲ経テ賊軍ノ迂回ヲ防キ進テ宮ノ原ニ會セシムルノ約束ナルベシ直ニ発進セシム第二中隊ハ風紀衛兵及ヒ宮ノ原ヘ弾薬ヲ護送ス各一分隊ヲ以テ之ニ充ツ

本縣士族八代ノ土人後藤基徳ナルモノヲ本部ニ召シテ當地ノ近况ヲ問フ二月中旬賊魁西郷隆盛兵千余ヲ率ヒテ此地ニ次ス其夜俄ニ道ヲ海路ニ取リ独リ熊本地方ニ趣ク壮士五六十人ヲシテ左右ヲ護セシメ傍人其面ヲ見ル能ハス其前夜旬日賊勢ノ通行スルモノ殆ント二萬ナラント云フ

八代士族夛シ熊本士族ノ賊ニ應スルヤ檄ヲ傳ヘテ之ヲ招ト𧈧モ能ク方向ヲ辯シ大義ヲ唱テ之ヲ却ク然レノモ弾丸ノ地ニ孤立シ勢ヒ累卵ノ如ク閉息シテ官軍ノ入ルヲ待ツノミ始メ有志輩鎮撫方ト号シ人民ヲ保護ス官軍ノ入ルヤ之ヲ警視部ニ属シ探偵及ヒ戦地ノ嚮導トナス周旋甚タ最メタリ午后第四(十)時折笠軍曹ヲシテ糧ヲ第一中隊送ラシム

本日命アリ左ノ如シ 下士卒ハ軍隊手帖ヲ必ス懐中スヘシ 八代ヲ出発スル各大隊ハ病室伍長ヲ残シ置ベシ 

 向坂は場所不明地名。後述するが坂谷が正しいようだ。川床・小浦・坂谷は龍ケ峯(現在の地図では竜峰山)の東側の細長い谷筋にあり、八代平野からは龍ケ峯の山脈があるため直視できない。

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           上陸した洲口から宇土半島南部

      三月二十三日

雨今朝折笠軍曹帰リ報シテ云フ昨夜第一中隊ノ糧ヲ少浦ニ輸致ス未タ沼道賊ノ処在ヲ見ス其小浦ニ潜伏スルモノハ官軍進擊ヲ聞キ遁レ走リタリ故ニ本日ハ宮ノ原ニ會合ナルベシト午後第六時三十分手嶋大尉ヨリ髙田伍長ヲシテ報告セシメテ曰ク黎明小浦ヨリ軍ヲ進メ赤越山ヲ過ク方サニ山蹊ヲ下ラントス茲ニ賊軍會戦シ小勢且弾薬ニ乏シ援兵及ヒ弾薬ヲ乞フ云々ナリ直ニ之ヲ旅團長ニ上申シ出援ノ命ヲ奉ス速ニ第二中隊ヲ勒シ将ニ発セントス更ニ鏡町口危嶮ノ報アリ轉シテ仝地ニ應援スヘキヲ再命セラル第八時四十分八代ヲ発ス途ニ傷者数夛ノ八代ニ帰ルヲ見ル仝第十一時二十五分鏡町ニ達ス是日當所ノ戦ヒ大勝利進擊一里余夜ニ至テ旧線ニ復ル適々點賊我左側面川尻ノ方ヨリ急襲シ来テ甚タ苦戦死傷頗ル夛シ殆ト敗兆アリタリト然レノモ漸ク戦面線ヲ回復シ事已ニ去ルト云フヲ以テ中隊ハ仝所ニ止メ進テ氷川ノ戦塲ニ至ル彼我両堤ヲ保持ス巨离凡四五丁余於是黒木中佐ニ面議シ命ヲ傳フ亦目今援助ヲ要スヘキ形勢ナキヲ以テ明朝ヲ待テ発途前ノ命令ヲ酌量シ臨機方向ヲ轉スヘキヲ約シ鏡町ニ帰リ次ル更ニ吉田少尉ヲ派遣シ中佐ノ許ニアラシメ以緩急ニ備フ

此日旧左半大隊ハ長﨑ニ着艦シ直ニ當八代エ発進ノ命ヲ拝スト云フ

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             宮ノ原と東側の関係地図

  23日、第七聯隊は宮ノ原の東にある南種山や立神山を攻撃し、結局南種山を占領した。この日の南種山攻撃については25日に茨木聯隊長が報告書を提出しており、すぐに読むことになるが25日の記事が詳しい。戦闘「征西戰記稿」では

  二十三日高島大佐ハ茨木隊長(第一聯)ヲ宮ノ原ニ遣リ該道ノ兵ヲ統轄セシ

  ム

  昨日坂谷ニ至リシ一中隊ハ北種山方面ノ偵察ヲ行ハントシ拂暁小浦村ヨリ

  進ミ將ニ赤浦越ニ抵ラントシ賊ニ谿間ニ會ヒ即チ開戰ス午前八時ナリ賊一

  タヒ潰走シ更ニ立神村ノ山頂ニ據リ射擊ス因テ南種山村ニ在ル一中隊大隊

  第三中隊(第一聯隊第二)ヲシテ迂路ヲ取リ之ニ向ハシム(略)

とあり、本戦記で向坂とあるのが坂谷に、赤越山とあるのが赤浦越となっている点以外は本戦記を基にしたように似ている。坂谷は竜峰山頂上の東800m付近の山腹に位置する集落である。ここから北東約2㎞に小浦地方がある。向坂という地名はこの辺りにはないし、誤記だろう。

 本戦記では触れていないがこの付近の戦いには警視隊も参加していた。参考になるので「征西戰記稿」の記事を掲げる。

  是日警視隊ハ午前第九時赤山及ヒ豐之内ノ哨線ニ在ル第一號ノ一番小隊第

  三號ノ三番小隊ヲ氷川ヲ渡リ立神山ノ賊ヲ擊ツ賊兵凡ソ五六百防戰甚タ力

  ム對戰シテ午後ニ至ルモ未タ拔ケス是ニ於テ其一番小隊長中島警部則(時)

  奮然衆ヲ勵マシテ進ム賊支ユル能ハス之ヲ追フ數丁中島遂ニ之ニ死ス又三

  番小隊ハ午後三時左半隊ヲ立神山ニ収メ哨兵ヲ排ス時ニ午後六時ナリ(略)

 ここに出てくる赤山と豐之内は氷川左岸で、宮ノ原の東方にある集落である。第七聯隊第一大隊の西側を担当したことになる。

    三月二十四日

黎明吉田少尉戦塲ヨリ帰テ異状ナキヲ報ス於是約ノ如ク方向ヲ轉シ第一中隊ニ合セント道ニ宮ノ原ヲ過ク茨木聯隊長ノ此地ニアルヲ以テ尚部署ヲ受ク

第一中隊ノ會戦スルヤ第二大隊ノ第三中隊ト賊ノ立神山ニ拠ルヲ合擊シ遂ニ之ヲ拂ヒ進テ北種山ニ進擊シ全勝ヲ得退テ南種山ヲ守ル村ト云フ(平野ノ部)則チ第二中隊ヲシテ其左方立神山ニ沿フテ第二大隊第三中隊ノ保守スル地部ヲ交換セシメ大隊本部ヲ立神村ニ置ク氷川ノ北側ニアリ 

 この日、第一聯隊は立神山を奪い、続いて北種山に進撃して奪った。戦線は氷川の北岸地域に北上した。3月17日の旅団編成により第七聯隊は衝背軍の第一聯隊に名称変更した。

      三月二十五日

晴ル午後大雨第一中隊本月二十三日戦状ノ概略ヲ報告スルヿ左ノ如シ

二十三日聯隊長ノ口達ヲ以テ第一中隊偵察巡廻ノ命アリ午后第五時三十分八ツ代ヲ発ス向坂ニ至ラント乄天将ニ暮ントス山腹隊ヲ止メテ休憩ス于時髙嶋大佐急進シテ諭旨ヲ授ケラル赤越山及ヒ平野村辺ヲ径過シテ途中賊兵ニ逢ハヽ速ニ擊破シテ明朝皈営スヘキ云々アリ尚進ンテ小浦村ニ至リ土民ヲ出シテ賊状ヲ探偵セシムルニ正シク宮ノ原ノ残賊赤越山辺ニ出没スルアリト依テ仝夜ハ小浦村ニ頓宿ス二十三日黎明更ニ軍ヲ進メテ赤越山ヲ過ク方ニ山蹊ニ下ラントス前衛木下中尉直ニ開戦ス午前第九時ナリ尚陸續應援ヲ出シテ擊戦ス後藤大尉ノ中隊ト相會ス賊立神山ニ拠テ砲発ス我軍猛烈ニ攻擊賊勢漸ク退ク午后第一時過キ砲声止ム然ルニ賊又迂廻シテ北種山ニ潜伏シ我背后尾擊セントスルノ兆候アリ再ヒ後藤大尉ト相議シテ之ヲ攻ム我カ軍南種山ノ平野村ニ拠ル賊ハ北種山ニ拠ル擊戦数時黄昏進擊ニ决ス若宮神社(※下図参照)ノ民家ニ放火ス烟炎山ニ登ル于時山上ニ進擊ス賊狼狽シテ退ク全勝ヲ得テ遂ニ兵ヲ整ヘ平野村ノ村落ニ防禦線ヲ計画ス午后斥候ヲ出シテ賊状ヲ探ルニ凡ソ二三百名程モ北種山ノ口上白谷辺ニ在リテ時々我カ動静ヲ窺フナリ當日ノ戦争ニ上下士官兵卒ノモ死傷ナシ然レノモ僅カニカスリ弾ニテ衣服ヲ打拔カレタルモノ三名アリ二十四日永田少佐ヲ以テ第一中隊更ニ平野村防禦線ヲ固守スヘキノ別命アリタリ

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             若宮神社

 別働第一旅團歩兵第一聯隊第一大隊長

 明治十年三月  陸軍少佐古川氏潔

今午後第八時大隊長ヲ聯隊本部ニ右シ明日大進擊ノ部署アリ我大隊ノ右翼南種山(第一中隊)ハ依然之ヲ保守シ第二中隊ノ左翼ヲ張テ進擊シ総軍ノ右翼部ハ小川ヲ目的トナスト云フ猥リニ違背進擊スルヲ許サス

此日午前旧藩大隊(山田川路両少将ノ旅團八代ニ上陸ス此半大隊モ其員中ニアリシナリ)ハ八代ニ上陸シ直ニ我大隊ニ編入セラル中隊番号故ノ如シ故ニ旧第十一聯隊第一大隊第三中隊ハ第二大隊ニ轉セラレタリ其左半大隊ハ宮ノ原ニ着次第一中隊ヲ明日此地ノ應援ニ差向ケラルヽ別命ヲ以聯隊長ヨリ傳ヘラル

 若宮神社の民家に放火したのは官軍である。官軍は薩軍に負けず劣らず盛んに放火した。本戦記では3月23日から25日までの進路上に様々な地名が登場する。向坂・立神山・赤越山・北種山・南種山などの場所がどこにあるのかを理解しなければ文書を読んだとしてもただ読んだだけで、内容が分かったということにはならない。

 3月23日の記述にある向坂が坂谷であることには触れた。向坂は4月の戦記にも登場するので、ここで場所が判明したのは好都合である。

 40年程前になるが、九州縦貫自動車道の事前発掘調査でスナイドル銃弾2点が出土した遺跡がある。立神ドトク遺跡である。氷川の北岸にあり、当時、自分は南岸の平原瓦窯跡発掘調査のアルバイト生活をしており、毎日麓から歩いて小山の上にある現場まで通い、一年前後も付近の現場の調査員たちと同じ民宿生活をしていた。一帯は戦跡だらけだったのに、当時は西南戦争のことなど頭の片隅にもなかったのが悔やまれる。

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   立神ドトク遺跡(九州縦貫自動車道建設前に発掘調査している)

 立神山という山は地図にはない。立神地区の山を立神山と呼んだのであろう。氷川の北側にあるのは確かだろう。しかし、この付近は特徴のない低い山が万遍なく分布しており、特定しづらい。ここは熊本県内でも有数の大型前方後円墳を含む野津古墳群の所在地でもある。古墳の上に陣地を築いたかもしれないが未確認である。立神山は第6図のように広範囲に想定しておこう。

 南種山の位置はどこか。3月24日の記事では南種山ヲ守ル村ト云フ(平野ノ部)とあり、25日の記事でも我カ軍南種山ノ平野村ニ拠ル賊ハ北種山ニ拠ルとあり、南種山が河俣川の左岸に位置する平野村にあるとしている。しかしこの表現だと南種山といわれる地域は広い範囲を指す言葉であって、平野村がその一部に含まれているとも受け取ることができる。つまり、平野村とは別に南種山の種山村があるとも受け取れる。という訳で河俣川下流域の両岸を意味する可能性がある。とにかく氷川の南岸地域にあるのは確かである。

 南種山が分かれば北種山は氷川の対岸、北岸であろう。24日記事には賊ノ立神山ニ拠ルヲ合擊シ遂ニ之ヲ拂ヒ進テ北種山ニ進擊シ全勝ヲ得退テ南種山ヲ守ル村ト云フ(平野ノ部)則チ第二中隊ヲシテ其左方立神山ニ沿フテからすると、西方の宮ノ原から攻めていった官軍が立神山を奪い、さらに東方の北種山に進んだと理解できる。北種山は候補地が二つある。もしくは両方がそう呼ばれた可能性もある。戦跡の分布調査をすれば結論を下せるかも知れない。

 赤越山とはどこか。二十三日戦状ノ概略によると「宮ノ原ノ残賊赤越山辺ニ出没スルアリト依テ仝夜ハ小浦村ニ頓宿ス二十三日黎明更ニ軍ヲ進メテ赤越山ヲ過ク方ニ山蹊ニ下ラントス」の部分に小浦村に頓宿したとあるのは谷間の集落に泊まったということか。さらに山谿に下ろうとしたとき、前衛部隊が開戦したという。

 次の記録は第二旅団聯隊長茨木惟昭中佐が提出した当日、3月23日の戦闘に関する報告表である。これによると、戦闘に参加したのは第一大隊の第一中隊と第二大隊の第二・第三中隊で総員は514人であり、薩軍は山手口(山の方)に約1,100人だった。戦闘地名の欄には「宮ノ原村ノ西北南谷立神阿弥陀寺越大野村赤越山立神山南北種山辺ニ於テ」とあり、戦闘ノ次第概略の欄には「午前第八時頃開戦正午十二時頃賊大敗午后第八時止戦」とある(C09085076900「明治十年三月☐ 戰鬪報告原稿 出征別働隊第一旅團」0046防衛省防衛研究所蔵)。

 茨木聯隊長はこれとは別に、次の報告も旅団司令長官に提出している(09085087200「明治十年三月☐ 戰鬪報告原稿 出征別働隊第一旅團」0046防衛省防衛研究所蔵)。

本日当聯隊第壱大隊第壱中隊第二大隊第二第三中隊戦闘概略不取敢左江報告致候也

   第壱聯隊長

 三月二十三日(十年)  陸軍中佐茨木維昭印

 

  陸軍大佐髙嶋鞆之助殿

 

第壱大隊第壱中隊大尉(手嶋)ハ黎明小浦村ヨリ發シ南種山ノ賊ヲ攻擊セント欲シ赤越山ノ谿間ニ於テ開戦ス賊ハ立神村ノ山頂ニ據リ發砲ス茲ニ於テ第二大隊第二中隊壱小隊(後藤大尉引卒)ト倶ニ立神村ニ向ヒ進擊ス賊要地ヲ占メ迂回セントスル色アリ直ニ我兵ハ早ク山頂ヨリ之レヲ横擊シ賊防キ不能シテ立神北種南種ノ三村民家ヲ放火シ北ルヲ逐ヒ終ニ立神村ノ山上要地ヲ占メタリ亦宮原口ニ在ル第二大隊第三中隊(加藤大尉)仝第二中隊壱小隊(大供中尉引卒)ハ宮原ノ山頂ノ巢窟ヲ拔キ頗ル劇戦シ賊大野山ニ北ル数塁ヲ乗取リ黄昏ニ至リ山上ノ要處ヲ占メ哨兵ヲ配布セリ本日ノ賊兵死傷夥シ亦隊中ニモ損セリ其人名等ハ逐而詳細戦闘報告表ヲ以テ申出スヘキナリ

 種山という集落が氷川の南岸にある。ここは南から来る河俣川との合流地点でもあり、河俣川の右岸に種山、左岸に平野の集落がある。茨木中佐の報告書には、南種山攻撃を目的に黎明に小浦村を出発したとある。

 同じ簿冊に前掲文書に酷似するものがある。異なる字句を指摘してみる。

  本日当聯隊第壱大隊第壱中隊第二大隊第二第三中隊戦闘概略不取敢左江報告致候也

   第壱聯隊長

   三月二十三日(十年)  陸軍中佐茨木維昭印

 

    陸軍大佐髙嶋鞆之助殿

 

  第壱大隊第壱中隊大尉(手嶋)ハ黎明小浦村ヨリ發シ南種山ノ賊ヲ攻擊セン

  ト欲シ赤越山ノ谿間ニ於テ開戦ス賊ハ立神村ノ山頂ニ據リ發砲ス茲ニ於テ

  第二大隊第二中隊壱小隊尉引卒(後藤大)ト倶ニ立神村ニ向ヒ進擊ス賊要

  地ヲ占メ迂回セントスル色アリ直ニ我兵ハ早ク山頂ヨリ之レヲ横擊シ賊防

  キ不能シテ立神北種南種ノ三村民家ヲ放火シ北ルヲ逐ヒ終ニ立神村ノ山上

  要地ヲ占メタリ亦宮原口ニ在ル第二大隊第三中隊大尉(加藤)仝第二中隊

  壱小隊尉引卒(大供中)ハ宮原ノ山頂ノ巢窟ヲ拔キ頗ル劇戦シ賊大野山ニ

  北ル数塁ヲ乗取リ黄昏ニ至リ山上ノ要處ヲ占メ哨兵ヲ配布セリ本日ノ賊兵

  死傷夥シ亦隊中ニモ損セリ其人名等ハ逐而詳細戦闘報告表ヲ以テ申出スヘ

  キナリ

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          報告書を筆写したと見られる文書

 この文書の頁番号は0302だが、その直前には3月26日までの死傷者一覧が記されているので、0302は23日に書かれたものではない。茨木の印がないし、提出報告書を後日書き写したものと考えられる。気になるのは提出した報告書では赤越山となっている地名が、ここでは赤山越となっている点である。実際、赤山という村落が平野の南西にあるので、この集落の東側に越える尾根を赤山越と呼んだに違いにない。したがって23日の戦記にある赤越山というのは間違いであろう。そうすると戦記が理解しやすくなる。筆写した人は地名の間違いに気付いたに違いないが、戦後、戦記を作成する段階では提出した方が反映されたのだろう。 なおこの件に関してはNo,9の戦闘次第書にも登場しているので、後の方の文書をここで取り上げると紛らわしいので、その際に検討したい。

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 衝背軍が作成した3月21日から23日の鏡町・宮原地図(下は正しい方位にし、

    一部分を拡大したもの)

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              官軍作製戦地地図 

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                 3月23日のまとめ

 宮原付近の戦闘は3月20日に始まっていた。鹿児島への勅使護衛兵だった高島鞆之助大佐の部隊は3月19日、八代南方の日奈久(ひなぐ)の洲口に上陸し(歩兵一大隊半と巡査700人)、20日には八代の北側にある氷川の南岸、宮原(みやのはる)と鏡村に進出し開戦した。薩軍は北方にあたる小川付近から氷川北岸に哨兵を配置し、宮原東方の複雑な丘陵地帯も占拠し、鏡村・宮原を奪おうとしていた。官軍は当初は兵数が少なく押され気味だった。

 立神山の南側、氷川の南岸の豊の内・油谷には21日に警視隊が哨兵を配置していた。第七聯隊第二大隊は3月22日に上陸後すぐに八代から宮原(みやのはる)に進み、氷川を挟んで北部の薩軍との対戦に参加していた。宮原の下流にある鏡村一帯は別の衝背軍が戦っていた。第一大隊が宮原付近の攻撃に到着したのは翌23日だった。

 第一大隊第一中隊は八代平野の東側の山脈竜峰山の東側中腹にある坂谷を黎明に出発し、小浦村を経て北上した。薩軍が八代の背後を迂回して市街に進むのを警戒したのである。左側の急峻な竜峰山から続く尾根の北部を越えたであろう、さらに赤山越を過ぎようとしたとき、東北側の南種山にいた薩軍と午前8時から9時頃戦いが始まった。前日宮原に着いていた第二大隊第三中隊も東方に進んでこの戦いに参加している。午後1時頃には氷川の北にある立神山の一部を警視隊と共に占領したようだが、完全に占領するのは翌日になってからだった。

 「薩南血涙史」から3月23日の種山・立神方面の薩軍の対応状況をみておきたい。

  黎明高島大佐の率ゐる別働第二旅團及び警視隊は方面に於ける薩軍を攻擊

  せんとし、立神山、宮原山、砂川の薩軍に逼る、陣ケ平の柚木隊(第六番

  大隊八番)中摩隊(第六番大隊三番隊)等力戰して之を拒ぐ、瞬時にして

  戰ひ愈激し、此時柚木正次郎は兵を分ち潜に繞りて山上より官軍の側面を

  擊ち奮戰して之を走らせり、既にして官軍又兵を增し返戰して激しく發砲

  す、偶本道の遊軍守を失して走る、柚木隊、中摩隊止むを得ずして小川に

  退き種子山を守る、宮原口の橋口隊(第三番大隊八番中隊)は其兵を分ち

  一面は前面に當り、一面は山手より横擊して之を走らし大に利を得進んで

  鏡村の官軍を攻擊す、敵嶮に據り善く拒ぐ遂に拔ぐ可らざるを察し兵を収

  めて舊塞に還る、兒玉隊は進みて野津村に戰ひ此處に築壘して拒守せり、

  都城隊(遊撃一二番)は小川より種子山に轉じ之を守備す(pp.388)

 立神山の部分が本戦記に対応すると思われるが、陣ケ平という地名は不明である。上面の平らな山は氷川北側には立神地区にしかなく、北種山は地形から該当しないので、立神の一部であろう。これら薩軍側各隊長の口供書がないようなのでより詳しく知ることができない。末尾の種子山を守備したというのは氷川北側の北種山だろう。

       三月二十七日

晴ル第一中隊ハ第三中隊ト守地ヲ議乄宮ノ原ニ引揚休憩スヘキヲ命ス大隊本部

亦仝地ニ移ル會計官ハ二中隊ヲ給養ノ為メ立神ニ止ル

第四中隊ノ守線ヲ画シ尾髯山ノ左方ニ哨兵ヲ出シ援隊ヲ大野村ノ本山ニ置ク

第二中隊本月二十六日戦状ノ概略ヲ報告スル左ノ如シ

三月二十六日諸道ノ官軍大進擊アリ我二中隊ハ(大尉大川距文少尉吉田鐘吉少

中川千尋仝試補桐渕直)兼テ立神近傍ノ防禦線ヲ保守ス午前第七時仝處山間

(園山ト云フ)ヲ進ミ大野村ニ向フ我先捜兵賊軍ノ所在ヲ発見セシヲ報ス於是

援隊ヲ叢林ニ伏セ敵状ヲ窺ヒ彼レハ前山(坂野ト云フ)ニ散在シ凡二三百計ヲ

所々ニ地物ヲ占領セリ直ニ開戦左右小隊攻擊道ヲ分ツ右小隊ハ第一半隊(大川

大尉桐渕少尉試補)ヲ進メ大野村左側ノ山端(大野村ノ山続ニシテ村前及右翼

ニ突出セル地)ニ至リ地區ヲ占領シ交戦数刻敵丸雨注ス (桐渕少尉試補津田伍

長喇叭☐梅音治此時傷ク)亦仝時ニ右方ニ對スル山間ニ敵兵出沒シ我兵ヲ側擊

ス急ニ援隊(中川少尉)ヲシテ我右側ナル丘陵ニ散兵ヲ増加シ斉ク前方及ヒ右

方ノ敵ト劇戦ス(兵卒下☐太郎此ノキ傷ク)敵火次第ニ减スルヲ察シ急ニ彼ノ拠

ル所ノ堡塁ニ向テ突進ス賊地ヲ棄テ走ル少時尾擊ス東北ノ東小川ニ向テ進ム此

際左小隊ハ右方ニ進越シ鳶巢近傍ノ山畔ニ出ツ馳テ其山上ニ登リ於小戦ス少時

ニ乄賊右方ニアル叢林中ヨリ敵ノ増加スルヲ見亦砲擊ス既ニシテ賊右方ニ廻走

スルヲ以テ半隊ヲ分チ左右山渓ヨリ馳セ下リ一村ヲ過テ急ニ敵ヲ追フノ后ニ右

小隊ト相合シテ小川ニ入ル此日天晴ル将校以下傷者合テ四名更ニ宮ノ原ニ引揚

 別働隊第一旅團歩兵第一聯隊第一大隊長

 明治十年四月     陸軍少佐古川氏潔 

 場所不明の地名がたくさん出てきた。白谷・尾髯山・園山・坂野・鳶巣である。本山だけが地図に載っている。 

 三月二十八日

晴ル午前三時命アリ第三旅團ヨリ一大隊松𣘺辺ヘ斥候トシテ進軍スルニ依リ第

三第四中隊ヲ援兵タラシメヨト於是西山下副官越智軍曹ヲ南種山及本山ノ両哨

地ニ遣シ令ヲ傳ヘシム尋テ事迅速ヲ要スルヲ以テ更ニ副官ヲ派遣シ整フトコロ

ノ部隊ヲ率ヒ小川ニ繰込ブ(ベ)キヲ再命ス本日ノ事総テ第三旅團参謀官中村中

佐ノ指揮ヲ受クベキヲ以テ大隊長ハ先ツ小川ニ至ル而乄中佐発進スルノ後第九

時両中隊至ル仝九時三十分有馬中尉壱分隊ヲ率ヒ斥候トシテ本道ヨリ松𣘺地方

ニ進マシム已ニ仝地ニ當テ炎燃ノ天ニ漲リヲ見砲声ノ地ニ震フヲ聞ク尋テ児玉

大尉モ亦中隊ヲ率ヒ発ス時已ニ移ルヲ以テ大隊長大隊附ヲ従ヘ小川ヲ出ツ道ニ

諸隊ノ陸続戦ニ趣クヲ見ル令シテ喇叭伍長ヲ岡中尉ノ許ニ遣リ其中隊ヲ急進セ

シム河辻村ノ出郷ヲ過ク右方山間ニ賊兵ノ出没スルヲ第三旅團ノ傳令使ヨリ聞

ク且ツ我隊ヲ止メ之ニ當ランヿヲ乞フ辞シテ尚進ミ豊福村ニ至ル副官ヲ止メテ

第三中隊ノ至ルヲ待チ令ヲ傳ヘシム大隊長ハ亦進テ中村中佐ヲ索ム未タ所在ヲ

詳ニセス

是ヨリ先キ第四中隊ハ豊福村ヲ過ル壱丁余曩ニ派遣スルトコロノ斥候隊ト合シ

中村中佐ノ命ヲ以テ賊軍ノ左側面ヲ衝突スベキ為メ右方ノ往還ニ沿フテ進マン

トス適賊軍モ我右翼ニ迂回セントスルニ會シ浦河内村ノ辺ニ戦塲ヲ開ク我兵直

前ス賊山間ノ松蔭ニ潜拠シ三方ヨリ包囲突擊セラレ遂ニ支フベカラザルニ至ル

是時ニ當テ大隊長ハ左翼久具村ノ辺ヲ巡視シ帰テ本道ノ右方ニ中村中佐ニ遇ス

軍議変セス戦已ニ敗色アリ第三中隊ハ亦来ラサルヲ以テ副官来リ陳ス於是第四

中隊ノ戦面ヲ開キ得行テ之ヲ督ス中隊長等已ニ敗スルノ儀ニアルヲ以テ隊伍紛

乱整フヘカラス漸ク危嶮ヲ保ツニ遇ス適々傳令使ヲシテ収兵ノ命アリ遂ニ敗退

シテ豊福村ノ辺ニ隊伍ヲ整フ人員已ニ半ヲ减ス続テ該隊ヲシテ先ツ本道ヨリ引

揚シム大隊長及ヒ大隊附ノモノ皆退テ豊福村ニ憩フ敗兵道ニ咽塡ス実ニ大兵ノ

敗スル名状スヘカラザルモノアリ漸ク退テ豊福村ヲ距ル二丁余賊尾擊シ来リ村

ノ左右側ヨリ我兵ヲ狙擊ス隊長大隊附ノ者ニ令シテ之ニ應セシム徐々ニ向江村

出郷ニ至ル先ツ地物ニ拠テ諸隊ヲ散蔓ス

第三中隊ノ進ムヤ第三旅團傳令使ノ差圖ニヨリ外﨑村ニ入リ夫ヨリ右方山間ニ

散布シ賊ノ迂廻ニ備ヘ将ニ進擊セントスルノキ本軍已ニ収兵スルヲ見山麓ニ沿フ

テ走リ亦来テ河江村ニ合ス於是中村中佐ノ来テ配兵スルニ際シ山田少将ノ出ラ

ルヽニ値フ命ヲ得テ團隊小川ニ引揚午后第五時舎營ニ就ク本日ノ戦約束十分ナ

ラズ遂ニ此敗ヲ取ル死屍夛ク敗手ニ入ル死傷ヲ実検スルニ将校三名下士率四拾

三名生死未明五名ナリ初メ壱大隊ノ大斥候タリシモ後チ数大隊ヲ増加セリト云

第一第二中隊ハ此日宮ノ原ニ休憩セリ

 28日の記述に登場する地名のうち、向江村と外崎村だけがどこにあるかわからない。

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              3月28日関係地図

 地理上の関係は北に豊福があり、南側に向江村、さらに南に外崎村が存在することになる。外崎村は位置の分かる河江村の北側にあるはずだ。その位置には竹崎という集落があるが、これを外崎と筆写の際に間違えたのではなかろうか。崩れた字体では読み間違えそうな竹と外である。この日の「征西戰記稿」にはどちらも登場しないのだが。この簿冊の末尾にある元の文書(C13080001000)を確認すると矢張り、竹と書いている。なお、31日部分に掲載されている28日の報告では竹崎村になっている。

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       簿冊後半にある戦記の原文(竹嵜村とある)

 第七聯隊進路よりも少し東側になるが、中世城跡に台場跡らしいものがある。氷川町の高城跡である。この年代の調査ではまだ西南戦争はあまり意識されなかったようであるが、中世の城跡に似つかわしくない遺構だと思う(大田幸博1978「熊本県の中世城跡」熊本県文化財調査報告 第30集)。西南戦争時の台場ならこの前後の築造であろう。東を向いているので官軍が造ったものかも知れない。

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 28日の第四中隊の報告が31日部分に掲載されている。

        三月二十九日

晴ル正午第十二時ヨリ第二中隊ヲ南種山ノ大哨兵ニ充ラル會計官及輜重兵ハ小

川ニ移ス 昨日ノ戦生死未明タリシ藤田政次郎ハ道ヲ失シテ賊中ニ入リ夜賊線

ヲ越テ帰リ来ル

午后第四中隊ノ死屍収穫ノ為メ伍長新郷道廣ニ兵卒三名ヲ附シ昨日ノ戦塲ニ遣

ス豊福村ニ至テ賊哨ヲ隠見シ帰テ行ク能ハサルヲ報ス兵卒田村梅十ナルモノア

リ独山麓ニ沿フテ遂ニ浦河内村ニ至リ土人ノ死体ヲ環視スルニ紛レ某々々ノ死

体ヲ実検シ来ル而乄土人ノ惨毒ナル衣服ノ血ニ塗レタルヲ剥キ川ニ洗ヒ干シタ

ルヲ見タリト然レノモ近傍ニ賊哨ノ出没スルヲ以テ力及バス帰テ状ヲ報告ス其膽

勇嘉スルニ足ル明三十日第四時ヲ以テ大進擊ノ内命アリ大隊長宮ノ原ニ行テ部

署ヲ受テ帰ル亦第一中隊ハ仝時限小川ニ繰込ノ約ナリ此日旅團長髙島大佐ヲ少

将ニ岡澤少佐ヲ中佐ニ任セラレタルノ布達アリタリ

 この日別働旅団の名称を次のように改め、以後はこのままだった。別働第二旅団(高島大佐)は同第一旅団(高島は少将となる)とし、同第三旅団(山田少将)を同第二旅団とし、同第四旅団(川路少将)を同第三旅団とした。

       三月三十日

天雨フル午前第四時小川ヲ発シ本道ヲ進ミ河江村ノ出郷ヲ過ル二丁余ニシテ我

大隊ハ往還ノ左方ニ散開シ第一第二中隊ハ戦鬥兵トナリ第四中隊ハ後方ニアツ

テ豫備隊トナル全軍ヲ概見スルニ第四旅團ハ(川路少将)右翼ニアツテ山道ヲ

進ミ先ツ鯖上ニ戦鬥スルヲ聞ケリ其左リヲ第三旅團トス(山田少将)我大隊ハ

之ト連絡シ左翼ハ殆ト海辺ニ及ト云全軍進擊午前九時久具村ニ至テ開戦ス我大

隊(第一中隊第三中隊)ハ中久具村ヲ挟テ左方寄田川ノ堤ニ沿フテ配布ス両隊

ノ面地形ヨカラズ飛丸来ルヿ尤モ烈シ未タ諸口ノ進取十分ナラス奮戦数時是時

ニ當テ第三中隊ニ命令シ大野川ノ堤ニ進擊セシム是ニ至テ左右隊ヨリ稍突出ス

ルノ勢ナリ薄暮前亦第一中隊ニ進擊ヲ令ス大ニ進テ畑中ニ伏ス日遂ニ暮ル砲声

漸ク止ム未タ一塁ヲ陥レス休戦ノ後小川ニ引揚クヘキノ命アリ中隊ヲ中久具村

ノ入口ニ纏ム已ニシテ再命アリ昼間占領スルトコロノ地區ヲ確守スヘシト於是

各隊皆侵線ニ就キ嚴ニ警戒ヲ加フ此日雨甚シ衣帯ヲ渋シ肌ニ達ス然レノモ前日ノ

敗アリ勇気凛々引揚ノ命アルニ當テ皆不平ヲ鳴シタリ大隊本部ハ中久具村ニ露

宿ス

第四中隊ハ豫備タルヲ以テ聯隊長ノ命ヲ以テ其左小隊ハ浦河内ノ方ニ向ヒ戦鬥

ヲナス休戦ノ後纏メテ下郷村ニ陣セシム後亦其一半ヲ第三中隊ノ線ニ増加ス傷

者合計拾名ナリ

去ル二十八日生死未明タリシ第四中隊兵卒坪﨑松次郎ハ其日ノ戦ヒ賊ニ包囲セ

ラレ浦河内村民家ニ潜ミ居シカ本日午前官軍ノ入ルヲ以テ帰投ス仝隊兵卒山内

金左エ門モ負傷シテ該地ニアリト報ス亦病院ヘ送ルノ手配ヲナサシム

第二中隊ハ南種山ニアツテ大哨兵ヲナス此日我旅團第一旅團ト改称セラル

 前日に旅団名の変更があったのは反映されていない。これまでは別働第二旅団だったので、戦記を読む際紛らわしかった。鯖上は場所不明だが、娑婆神峠というのがあるのでこれのことだろう。川路の別働第三旅団1,200人が攻撃し占領した。茨木聯隊長の戦闘報告表を掲げる。

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               3月30日関係地図

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      C09082211300別動第2.第3旅団戦闘報告の図

      三月三十一日

晴諸隊皆ナ昨日ノ侵線ニ相持スルヲ以テ号砲一発ヲ合圖トナシ大進擊ヲ行フヘ

キノ命アリ午前第七時砲声轟ク諸軍大閧斉シク進テ前面ノ川堤ニ達ス都テ右翼

軍ノ進ヲ待テ便宜進取スヘキ約ヲシ以テ我兵此堤ニ劇戦スルヿ数十分時第十時

右翼ノ賊兵敗走スルヲ見諸軍亦進擊シテ賊塁ヲ陥レ直ニ松𣘺ニ突入ス本日戦我

大隊常ニ諸隊ニ先キンス松𣘺ヲ占領スルニ至テ先要所ニ哨兵ヲ置ク後チ部署ア

リ第一中隊ヲ善同寺村辺ニ哨兵タラシム余ハ皆舎営ス傷者纔ニ一名ノミ

去ル二十八日生死未明タリシ第四中隊兵卒京藤成吉ノ死体ヲ松𣘺ニ見ル負傷シ

タモノヲ縛シ残酷ナル害ニ遇ヒタリト土人ノ語リシト云フ収テ鏡町ニ送ル且ツ

仝地戦塲本日全ク官軍ノ地トナルヲ以テ小泉軍醫副及ヒ下士等ヲ遣シ死屍ヲ検

シ仮埋葬仝地ニナサシム

會計官及輜重ハ此地ニ移ス第二中隊ハ南種山ニナリ本日曹長西山廣定(大隊附

)野村維直(第一中隊)ヲ少尉試補ニ軍曹田川正要林為隆江橋亮安藤傳三郎折

笠晴雄ヲ曹長ニ伍長岩城豊常中嶋脩三ヲ軍曹ニ各々官ヲ授受シ分課ヲ錯互セラ

ル伍長山口玄三ニ大隊武器掛リノ職ヲ攝セシム

第四中隊本月二十八日浦河内村戦状ノ概略ヲ報告スルヿ左ノ如シ

二十八日天晴ル午前第三時頃第三旅團ノ一大隊松𣘺辺ニ大斥候トシテ進軍スル

ニ依リ我第二中隊(中尉岡千仞少尉神代純一少少尉試補内山正明仝試補島村友

直)第四中隊(大尉児通良中尉有馬純一少尉村山正明仝試補島村友直)ハ應援

ノ命ヲ得小川ニ至ル中村中佐ノ約束ニ就ク中佐アラス第九時卅分有馬中尉ニ

分隊ヲ率ヒ斥候トシテ先ツ発セシム継テ第四中隊ニ進軍ヲ命ス時已ニ移ルヲ

以テ大隊附将校(副官中尉石川昌世)下士ヲ率ヒ小川ヲ発ス道ニ諸隊ノ陸続戦

ニ趣クヲ見ル於是更ニ傳令使ヲ派遣シ第三中隊ヲシテ速発セシム第十時豊福ニ

至ル副官ヲ止メテ令ヲ第三中隊ニ傳ヘシメ中村中佐ニ面謁シ命ヲ得ルトコロア

ラントス戦ヒ已ニ酣ナリ馳テ戦地ヲ探索シ第四中隊ノ戦面ニ出ツ(副官第三中

隊ノ豊福ニ至ラザルヲ以テ已ニ茲ニ来リ属ス)已ニ将校以下負傷スルノ後ニア

ルヲ以テ隊伍紛乱整フベカラス是ヨリ先キ第四中隊ノ久具ニ至ルヤ中佐ノ命ヲ

以テ賊軍ノ左翼則チ側面ヲ衝突スベキ為メ右方ノ往還ニ沿フテ浦河内ニ出ツ道

ニ賊兵ヲ発見シ忽チ戦端ヲ開ク我兵直前ス賊廻テ三方ヨリ包囲シ弾丸飛集忽チ

数名傷ク苦戦凡ソ三時間已ニシテ収兵ノ命アリ是ニ至テ辛シテ漸ク引退ク二三

町ニシテ小池ノ堤ニヲイテ隊ヲ整フ人員半バヲ减ス午後第二時ナリ此戦ヤ敵合

僅ニ二十歩計ノ将校以下死傷四拾六名生死未明五名ナリ第三中隊ハ道ニ竹﨑村

ニ至ル右方山間ニ賊ノ出没スルヲ以テ傳令使ノ差圖ニ依リ仝処ニ散布シ山間ニ

向フ已ニシテ本軍ノ収兵ニ際スルヲ以テ本道ニ帰ル賊官軍ヲ尾擊シ来リ豊福ニ

至ル大隊下士ヲシテ之ヲ砲擊セシメ徐々引退ク河江村ノ出郷ニ至テ更ニ小川ニ

引揚ノ命アリ仝所ニヲイテ舎営ス午后第五時ナリ

第四中隊生死未明五名ノ内一名ハ賊手ニ死シ三名ハ帰ル報告標ニ詳ナリ

  別働第一旅團第一聯隊第一大隊長

  明治十年四月   陸軍少佐古川氏潔

 善同寺村は宇土駅の南南東1.9㎞にある善道寺町のことだろう。3月31日の記録は4月分にも記載があるので、そちらで検討する。