西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

明治12年の水筒

 防衛研究所にある明治12年の水筒関係記事は陸軍が次の1件で、海軍は軍艦がそれぞれ増加配給を請求した文書がある。

C04028722300明治12年 「大日記 近校団所軍馬囚獄 自9月1日至10月31日 第5局第8課」(防衛省防衛研究所)」0076~0078

 第八百三拾四号 

   第五局

別紙伍第二千五百卅七号東京鎭臺ゟ伺出之通及指令候条可相渡此旨相達可候事

 明治十二年八月三十日

      陸軍卿西郷従道

  実地行軍或ハ野営演習用ニ御備付相成候武力面桶及ヒ水筒不足之分ハ増渡之義ニ付伺

一武力製面桶   千九百六拾弐□

一硝子製水筒   三千〇〇壱個

右ハ実地行軍或ハ野営演習等ニ兼テ両品若干御備附相成候處各隊実人員ニ比スレハ前顕之通不足ヲ生シ更ニ増減相成候ハヽ府下各隊宛ノ員数ハ當臺被服陣営課ニ於テ格護為致各分屯之兵隊へハ兼テ実數丈ケ備置急遽出兵等ニ差閊無之様致度此段相伺候也

 十二年七月十八日

    東京鎭臺司令長官

     陸軍少将野津道貫

   陸軍卿西郷従道殿

伺之通

 但水筒ハ武力製之分可相渡事  

 東京鎮台は前年3月には西南戦争で破損したり失った面桶と水筒の修理について伺い出ている。今回東京鎮台は実地行軍や野営演習などで使うものとして備え付けているもののうち、不足しているブリキ弁当箱1,962個とガラス製水筒3,001個を渡すよう依頼したが、第五局は水筒はブリキ製(面桶を弁当箱と理解)を渡すと回答している。ガラス製水筒はあったとしても、まとめて渡すほどの数はなかったのだろう。

  八月三十日 

 次は海軍関係。

 明治12年、海軍の東・比叡・鵬翔・日進・金剛・浅間・春日・扶桑・第一丁卯・龍驤の諸艦長が協議し、弾薬嚢と水筒などを各艦に備え付けたいと上申している。一例として比叡艦を揚げる。読み易い字で書かれているので活字化の必要はない。C09113610500「明治十二年 公文類纂 後編 十九」防衛研究所蔵0435~0460

 引用分を要約すると、明治12年5月5日、比叡艦長から乗組員の陸戦隊用に弾薬嚢138個・水筒(水瓶)138個の配布を依頼するものである。用途は陸戦隊用とあり、戦闘のため上陸する場合に使うためである。あて先は東海鎮守府

 東海鎮守府では海軍卿に6月23日に進達し、海軍卿は兵器局から受け取るようにと7月3日に回答している。

 但し天城艦だけはすでに水瓶が行き渡っていたので一連の依頼では水筒を書き入れていない。どの文書にも水筒の材質に関する記載がないのでブリキ製あるいはガラス製かは分からないが、起案段階ではおそらくすでに装備しているものと同じガラス製を想定していたとみられる。

 明治12年まとめ

 明治12年段階では陸軍も海軍もブリキ製水筒を渡すと回答しているのをみると、この時期にはブリキ製水筒の製作が進んでいたのである。一方、ガラス製水筒は配布されていないが、明治27(1894)年の日清戦争では途中までガラス製水筒が使われている。日清戦争までの間にブリキ製水筒の配布を止めたのだろうか。