明治7年、台湾征討という明治政府としては初めての海外出兵があった。この時の水筒に付いて記す。
発端となったのは明治4年10月に年貢を輸送していた琉球御用船が台風の為に遭難し3人が溺死、69人が台湾南東部に漂着し救助を求めたが、原住民により54人が殺害されるという事件である。清国や欧米との協議など途中経過は略すが、明治7年4月政府は大隈重信参議を台湾蛮地事務局長、西郷従道陸軍中将を台湾蛮地事務都督に任命し出兵準備に入った。
4月7日、海軍の軍艦孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍から熊本鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵が命じられ、5月6日には台湾南部に上陸し、間もなく戦闘を交えて占領した。
このように政府による台湾に関して新設された部署は4月4日に初めて設けられているが、陸軍はその直前にすでに準備を始めていたのかも知れない記録がある。
C04025894900「明治七年三月 大日記 諸寮司伺届并諸達 金 陸軍第一局」防衛研究所蔵1256・1257
第七百四十八号
一水筒 弐千個
右者今般習志野原野営演習用として御渡相成度此段相伺候也
七年三月十七日 陸軍少将曽我祐凖
西郷大輔殿
伺之通 三月十八日
分かり易くすると「右は今般、習志野原野営演習用としてお渡しあいなりたく、この段あい伺いそうろうなり」となる。千葉県習志野で演習を行いたいので水筒2千個を渡してください、という曽我少将の起案に対し、西郷従道大輔がそのままを認めたものである。陸軍の水筒が記録されたものとしては最初のものとみられる。水筒の材料については不明である。
なお、この史料の表紙は次のものである。
防衛研究所が示す題名は「大日記 諸寮司伺届并諸達 3月金 陸軍第1局」だが、原題通りに「明治七年三月 大日記 諸寮司伺并諸達 陸軍第一局」に改めておく(一々記さないが他も同様)。水筒が登場するものを日付順に掲げる。
C09120129400「明治七年四月 諸省」(陸軍記室)印」防衛研究所蔵0103・0104
青第六百廿号 甲三套第七百四十九号
一丸形テント 三張
一水入但プルイス製 百個
右之品御省御受求之内御借受致度及御依頼候条支給否御答有之度候也
四月八日 海軍省
陸軍本省
御中
海軍が陸軍から丸形テント3張りと水入を100個借用したいとの依頼文である。水入とは複数人が使えるような備え付けの大きめの水を入れた入れ物であるのか、個人用の水筒かであろう。100個という多量なので水筒であったとみられる。陸軍省の水入がプルイス製だと分かる。プルイスとはプロシアやプロイセンと呼ばれた国・地域だろうか。西南戦争中に川路利良が薩軍が砲撃した大砲について「プロイス製アルムストロングニ而(※にて)」と表記する例もある(C09085348900「明治十年五月ヨリ起ル第二号諸向来翰 乙 別働第二旅團」防衛研究所蔵)。この史料は陸軍がプロシアから水筒を購入していたことを示す根拠と捉えたい。さらにそれは金属製かガラス製かが問題として残る。
C04025704400「明治七年九月 大日記 諸鎮臺伺届并諸達 木 陸軍第一局」防衛研究所蔵0476・0477
第三千百八十五号
水呑 六百七十五個
右ハ明十九日行軍被■代候■而本臺歩兵隊ヘ配賦致度ニ付御渡被下度此段相伺候也
九月十八日 陸軍少将種田政明
陸軍卿山縣有朋殿
伺之通九月二十日
明治7年9月18日付。水呑675個を翌日の行軍の為、借りたいとの起案に陸軍卿が承認している。水呑とあるのが水筒の事である。明治以前には竹筒に水を入れて兵士が携帯することがあったので、明治になると個人用の飲料水入れを形状は筒ではないが水筒と呼んだのである。
次も同じ9月18日の伺い文で、別の部隊に関するものらしい。
C04025704500明治7年「大日記 諸鎮臺伺届弁諸達 9月木 陸軍第一局」防衛研究所蔵0477
第三千百八十六号
明十九日行軍ノ御達有之候付而ハ水呑別紙ノ通御渡被下度此段相伺候也
九月十八日弍時 陸軍中佐岡本兵四郎
陸軍卿山県有明殿
伺之通 九月二十日
別紙
水呑 百三十五個
右御渡被下度此段申□候也
□□第一大隊長代理
九月十八日 大尉河野通行
岡本中佐殿
次は上記の演習後のものである。
C04025706100「明治七年九月 大日記 諸鎮臺伺届并諸達 木 陸軍第一局」防衛研究所蔵0506・0507
第三千二百四十五号
水筒 五個
但二個大損三個小損
右ハ過日実地行軍之節第五局ゟ借用之分破損致候ニ付其侭返納致候此段申候也
團
九月廿四日 陸軍中佐岡本兵四郎
山縣陸軍卿殿
135個借り出した水筒の内、5個が破損したので返納するというもの。
C04025710100「明治七年九月 大日記 諸鎮臺伺届并諸達陸軍第一局」防衛研究所蔵0572・0573
第三千二百十二号
一 水筒 五百八拾壱個
右此度歩兵第一大隊蛮地ヘ出張ニ付相渡度候間至急御渡被下度此段相伺候也
陸軍少将種田政明代理
九月二十日 陸軍中佐岡本兵四郎
陸軍卿山縣有朋殿
伺之通
但在庫ギヤマン製之分可相渡候事
右者第五局ヘ達ス
明治7年9月20日岡本兵四郎中佐が歩兵第一大隊の台湾出張に際し水筒581個を至急渡して欲しいとの要望。山縣の返事は「第五局在庫のギヤマン製を渡す」とある。ギヤマン製でないのもあったらしい。ガラス製水筒を渡すというのである。
C04025718700明治七年十月 大日記 諸鎮臺伺届并諸達 木 陸軍第一局」防衛研究所蔵0783・0784
第三千三百廿九号
第六聯隊背嚢附属品之中兵糧入并水呑器■御備付無之今般送第三千五百九十五号
御達候趣も有之候行軍之際事實差閊候儀不尠候ニ付下士官已下之者ヘ更ニ別紙雛
形之両品御下渡相成度段同隊〃長勤務少佐厚東武直ゟ伺出▢(※見え消し)条則別
紙図面相副上申仕候間至急何等之御指揮有之度此段相伺候也
九月廿四日 陸軍少将四条隆謌※たかうた
陸軍卿殿
別紙雛形畧之※別紙ひながたこれを略す
読み方は。「第六聯隊背嚢(はいのう・リュックサック)附属品のうち、兵糧入れならび水呑器■御備え付けこれなく、今般送第三千五百九十五号御達(おたっし)そうろう趣もこれありそうろう行軍の際、事實さしつかえ候儀すくなからず候に付き、下士官いかの者ヘ更に別紙雛形の両品、御下げ渡し相なりたき段、同隊〃長勤務少佐厚東武直より伺い出▢(※見え消し)条、すなわち別紙図面相いそえ上申つかまつりそうろうあいだ至急何等の御指揮これありたく此のだんあい伺い候也」
明治7年9月24日以段階で第六聯隊(名古屋鎮台)には兵糧入れ(おそらく面桶つまり弁当箱)・水筒が存在せず、行軍にさしつかえるので図面を添えて申請します、ということ。
C04025540200「明治七年十月 大日記 諸局伺届并諸達 陸軍第一局」防衛研究所蔵0470・0471
第二千二百五十六号・第四千七百九十九号
過而蓮沼村実地行軍之際水呑器御貸渡相成候處右之内七十七個同處練兵中破損
以多し候ニ付其侭返納候様致度此段相伺候也
都督代理
七年十月廿二日 陸軍大佐野津道貫
陸軍卿山縣有朋殿
伺之通 十月廿五日
読み易くすると「かつて蓮沼村実地行軍の際、水呑器御貸し渡し相成り候處、右の内七十七個同處練兵中破損いたし候に付き、其のまま返納候よう致し度く此の段相伺い候也」。蓮沼行軍日時は不明だが、「借用した水筒の内、77個が破損したのでそのまま返納したいのだがどうですか」ということ。金属製ならそんなに簡単に壊れない筈だからガラス製水筒を借りたのだろうか。
C04025769900「明治七年十一月 大日記 諸鎮臺伺届并諸達 木 陸軍第一局」防衛研究所蔵1792・1793
第四千十四号黒第四千五百四十四号
本年九月九日送第三千五百九十五号行軍之義云々御達ニ依リ当臺諸兵遠程行軍
演習為致候処人別水入筒一個ツ﹅所持為致度旨各隊長よ里申出仕候右者必要之
品ニ付支給致度存候尤御許可相成候得共右金員当臺臨時費之内ヨリ仕拂可申哉
夫々何分之御指揮被下度候也
十月廿三日 陸軍少将三好重臣
陸軍卿山県有朋殿
書面出征用水呑当時調査中ニ付追而現品可相廻候事
十一月八日
9月9日に行軍演習した際、各隊長から人別水入筒を一個ずつ携帯させたいと申し出があり云々とある。三好重臣は東京鎮台?。ここでも各鎮台に面桶・水筒が行き渡っていないことが分かる。水筒という固有名詞も見られない。
次は明治7年12月22日の伺い文である。
C04025583400明治7年「大日記 諸局12月水 伺届弁諸達書 陸軍第一局」(防衛省防衛研究所)」1195・1196陸軍省罫紙
第四千三百七十六号
今般出征用トシテ調製致候ブリツキ面桶並水呑其外大釡薬鑵等之類ハ追而調整
全備之上各鎮臺兵員ニ応シ餘而餘備トシテ送達致置候様致度此段相伺候也
監督長代理
十一月廿二日 監督 田中光顕
陸軍卿宛
伺之趣調製全備之上ハ各鎮台格護致置非常之用ニ可相充事
但鎮臺派出第八局官員ニ而取締可致事
十二月廿八日
台湾出征用に制作したブリキ製面桶・水呑・その他大釡ヤカン等を各鎮台にも予備として送る事。すでに台湾出兵は終わった段階の文である。面桶とは弁当箱のようなものだろう。今般製作したブリキ製の面桶・水筒・大釜薬缶などは製造が進んで全国の鎮台兵員に行き渡るようにすると共に、予備の分も送るということ。今般出征用として製作したとあるので、それまではこれらの品目は製作していなかったのであろう。しかもガラス製ではなくブリキ製だけを製作したと考えられる。ではすでに引用したガラス製水筒(下に再掲)は全てプロシア製だろうか。
以上、明治7年4月に開始された台湾出兵に際して陸軍が水筒を初めて準備したことをみてきたが、同年2月・3月に起きた佐賀の乱における水筒にも関心をもってしまう。同乱には初め熊本鎮台兵が出動し、多数の死傷者が出た。その後、他の鎮台からも参戦している。下表は陸軍文庫「佐賀征討戰記」(明治8年)から。
この佐賀の乱の際の水筒に関する記述を見つけることはできなかった。季節は冬から初春にかけてであり、夏程には水分補給が問題になることはなかったかも知れない。しかし、水分補給は必要だっただろう。みんなで使う水桶などを持ち込んだのだろう。