西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

明治9年の軍用水筒 Military canteen from 1876

明治9(1876)年の軍用水筒に関する記事から。

 

C07060070600「明治九年四月 大日記 諸黌教導團裁判所之部

防衛 陸軍省第一局」防衛研究所蔵0727・0728

 同六日

 学第百八十九号 肆第九百四十四号

  一水筒        弐百拾個

  一食噐菜入付「ガソール 弐百拾個

  一輸車         参  輌

 右ハ行軍演習施行之儀御許可相成候ハヽ前書之通演習中御渡相成度此段相伺候也

(右は行軍演習しこうの儀、ご許可あいなりそうらはば、前書のとおり演習中にお渡しあいなりたくこの段あい伺いそうろうなり)

    九年三月廿七日

      士官学校長代理

         中佐長阪昭徳(※西南戦争中に書いたこの人の字は難読字です)

     卿代理

      鳥尾大輔殿

   伺之通

      四月六日 五局ヘ相達ス

 明治9年3月以降に士官学校で行軍演習を行うので水筒210個その他を渡して欲しいとの伺い。ガソールは意味不明。弁当箱か。行軍の目的地は次の史料で分かる。

 次はこの行軍演習の目的地が下野の国(現在の栃木県)日光あたりであることなどが判明する。 

C07060072700「明治九年四月 大日記 諸黌教導團裁判所之部 金 陸軍省第一局」防衛研究所蔵0775~0777

 学二百十一号         肆九百二十四号

 当校学生戦地行軍演習トシテ来四月中旬ヨリ二週以上三週内ノ日数ヲ以テ下野日光邉

 迄差遣申度御許可ニ相成候上ハ昭徳并ニ左ノ人員同行致度尤教師ノ儀ハ首長へ御達相

 成度此段相伺候也

   三月廿七日    戸山学校長代理   

                 中佐長坂昭徳

        卿代理 

          鳥尾大輔殿

 遂テ御許可相成候ハヽ別紙ノ文意ヲ以テ地方府縣ヘ御達相成度尤御達濟ノ上其写御沙

(おってご許可あいなりそうらはば、別紙の文意をもって地方府県へお達しあいなりたく、もっともお達し済の上、そのうつしごさ)

 汰渡相成度此段申添候也(た渡しあいなりたくこの段、申し添え候なり)

 伺之趣聞届候条入費取調可申出事(うかがいのおもむき、聞き届けそうろうじょう、入費取り調べ申し出るべきこと)

   但出發日限取究メ可申出事(ただし出発にちげん、取り決め申し出るべきこと)

        四月廿一日㊞

 肆第千百四十一号

 学二百十二号        □千百四十一号

   「スニーデル」銃用空薬包御渡之儀ニ付伺

 一「スニーデル」銃用空薬包 貮萬四千發

 右者兼テ伺出置候學生行軍演習之儀御許可相成候ハヽ第一期学生行軍演習ニ凖シ壹名(右は、かねて伺い出置き候学生行軍演習の儀、ご許可あいなりそうらわば、第一期学生行軍演習に準じ一名)

 壱百貮拾發宛総員教官下士并學生共凡貮百名へ演習用トシテ前書之通御渡相成度此段(一百二十発ずつ総員、教官・下士・ならびに学生ともおよそ二百名へ演習用として前書のとおり、お渡しあいなりたく、このだん)

 相伺候也(あい伺いそうろうなり)

            戸山學校長代理

     明治九年四月十八日  中佐長坂昭徳

  山縣陸軍卿殿 

 24000発を一人120発で割ると200人となる。総員は教官下士(ならびに)學生であり、少尉・大尉・少佐などの教官と曹長・軍曹などの下士官、それに学生で、当然学生数は200人以下である。

 広田照幸1979「陸軍将校の教育社会史 立身出世と天皇制」世織書房全491頁により、士官学校についてみておきたい。

 陸軍の士官を養成する幼年学校発足が1872年、士官学校開校は1874年である。広田によると「一八七二~七六年の時期の士官学校は、まだ本格的な将校養成に踏みだしていなかった。むしろ、教導団出身の生徒から選抜されたり、各隊から選抜されたりした者を、変則生として受け入れ、速成教育によって士官に養成する役割を果たしていたからである。七五年に開校した正規の士官学校が、卒業生をだすようになったのはようやく西南戦争後になってからである(pp.80)」という。

 また、1875年は士官生徒第1期・第2期の合計数が309人で、翌76年(明治9年)は零人、西南戦争のあった1877年は100人だった(同pp.85)。これから見ると行軍演習に参加した士官学校生徒は1875年に在校した309人のうち、約三分の二未満となる。主な参加者が第1期生だったのか第2期生だったのかこの起案からは分からない。

 ウィキペディアから明治9年前後の陸軍士官学校について引用する。

 この修業期間は兵科によって異なっていた。歩兵・騎兵は当初2年であったが、

   1876明治9年)に3年に変更された。砲兵と工兵は当初3年であったが、

 1876年(明治9年)に4年、1881年明治14年)に5年へと延長された。砲兵と

 工兵は在校期間が長く、少尉に任官した後も在校した。これを生徒少尉と称し

 た。士官生徒制度は第11期生までで終わった(士官生徒卒業生は1285名[23])。

 学習内容は1学年では幾何学代数学力学理学・化学・地学。2学年で軍政

 学・・築城学・鉄道通信学などを学ぶ

 これによると第1期生が入学したのは明治8年2月で、授業内容は1学年は幾何学代数学・力学・理学・化学・地学であり、第2学年になると軍政学・兵学・築城学・鉄道通信学などを学ぶとある。したがって、第1学年は机上の学習、第2学年になると現地で学習することもあったのだろう。つまり、明治9年4月の行軍演習は二年目を迎える生徒、つまり第1期生を対象としたのだろう。

 続きがあって、後日、演習期間は三週以上、四週以下に再度届け出て許可されている。また、弾丸がない状態のスナイドル弾薬を一人に付き120発ずつを渡してほしい、とのこと。この時点では水筒の製造が十分でなく、士官学校に水筒が行き渡っていなかったことになる。