西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

明治8年の軍用水筒 Military canteen from 1875

 

 これまで軍用水筒について何回か書いてきたが、今回は防衛研究所の史料から明治8年の軍用水筒関係の記録を掲げる。前年は台湾出兵とそれに伴うと考えられる事前の野外演習が複数の部隊で行われたが、この年は水筒に関連する記録は少ない。

C04026560600「明治八年十又二月大日記 諸局参謀近衛病院軍馬教師之部 水 陸軍第一局」防衛研究所蔵1731 ※上記の中で「教師之部」の部は不確実。

 局二百六十二号 参二千四百六十九号

 今般雑司ヶ谷ニ於テ對抗運動

 天覧被為在候ニ付ブリツキ面桶及水筒各隊へ御渡シ相成度此段申出候也 指揮長官

   十二月廿五日                         東伏見嘉彰

     山縣有朋殿

 申出之通

  但各所管ゟ員数ヲ以第五局ニ而可受取候事

      十二月廿五日㊞

 冒頭の一行と後半の申出之通以下は薄色だが、朱書きかも知れない。対抗運動とは敵味方に分かれて行う模擬戦闘だろう。

 天覧被為在候ニ付ブリツキ面桶及水筒各隊へ御渡シ相成度此段申出候也は天覧あらせられそうろうにつき、ブリツキ面おけおよび水筒各隊へお渡しあいなりたく、このだん申し出そうろうなり

 天覧とは天皇がみること。天皇の字の上に他の字を置かない、わざと空白を設けているのがしきたりだった。

 明治8年には普段は水筒を所持してなかったらしい。この時は第五局からブリキ製を受けとったのであり、各隊ではいつもは所蔵していなかったのである

 

 次は防衛研究所の史料ではないが同年、村田経芳陸軍少佐が欧州研修に出張している。綿谷 雪編1971「村田銃発明談」『幕末明治実歴譚』(引用は1989年の復刻全422p;青蛇房)pp.278・279による。

 村田氏は、いったん倫敦に帰りて武器博覧会を見物に行きたり。ここには古代の武器をはじめとして、当今の武器まで陳列しありて、参考に資するもの少なからず。その中に就き村田氏は軍用水漉器械に注目して、その掛りの者にむかい、これはいずれの時に用いしやと尋ねしに、英国が亜弗利加(※アフリカ)を撃ちしときに用いし水漉(※みずこし)器械にて、また他の別種の水漉器械は埃及(※エジプト)を攻撃せしときに用いしものなり。亜弗利加、埃及の戦役の際、兵士の疫病にかかるもの少なからざりしが、その原因は飲料水の不良にあることを覚りたれば、この水漉器械を一兵卒毎に携帯せしめしに、それがため疫病を予防して、すこぶる好結果を得たりとのことなり。村田氏は市中にてその水漉器械を売りさばく家を聞き合わせ、これを買い求めて持ち帰りたり。

 何ゆえに村田氏はかく水漉器械に注意せしやというに、かねて支那地方は非常に飲料水の不良なる由を聞き及びたれば、一朝わが国が支那と隙を生じたるときは、必要の具と信じたれば、これが取り調べをなしたるなり。それより帰朝の後、戦地に携帯する水漉器械の必要を説きたれども、何人もその必要を感ぜざりしという。然るに村田氏の予想に違わず、かの二十七八年の日清戦争起りしかば、村田氏は英国より持ち帰りたる水漉器械に自己の考案を付し改造して、試験のためこれを戦地に送りたり。また自ら銃猟におもむくときも、これを携帯して山中にて渇をおぼゆるときは、川の瀦留水などをその器械にて漉して飲用せしが、一回も飲料水の害を受けしことなしという。

 後に明治31年式という水筒が製作されるが、村田の経験が生かされた可能性がある。