西南戦争之記録

これは高橋信武が書いています。

「北東方面陸軍航空作戰經過」昭和二十年十一月十五日 第一飛行師團司令部 

はじめに

 西南戦争には関係ないけど父の遺品を紹介します。父は終戦時には第一飛行師団参謀でした。僕が小さかったころに防衛研究所(当時は別の名称)の人が二人自宅に来て、聞取り調査していたのを覚えています。当時中学生だったかな。数年前、遺品をみた際にこの冊子が出てきたのですが、周知の事実しか書かれていないと思っていました。末尾に終戦時の軍用機数が書かれており、これには興味が沸き、ちょっと図書館で他書を見たりネット検索した結果、数値が異なるので、そのうち紹介しておきたいと思っていました。今現在も全く調べが進んでいないのですが、単に史料紹介するだけでも世の中には喜んでくれる人が現れるんじゃないかと思い、今回公開します。

資料の状態

 表紙・裏表紙は縦25.8㎝・横18.3㎝で、本文よりも厚手の西洋紙で、その二倍の大きさの紙を二つに折り曲げています。本文は薄手の和紙で、その大きさは縦25.6㎝・横17.8㎝で、薄色の茶褐色で長方形に縦20.4㎝・横14.2㎝の枠が印刷されています。枠は二重線で外は太線で内側は細線です。また右下に陸軍と印刷されています。表紙は毛筆で記されているが、本文はガリ刷りで25頁あり、末尾に折込が3枚あります。ガリ刷りということは複数作成し、その一部を個人的に所持したのでしょう。提出分は防衛研究所が所蔵しているのでしょうか。

資料の作成時期

 表紙に昭和二十年十一月十五日とあるので、敗戦後に作成したものです。当時、敗戦即解散ではなく、米軍への引継ぎ作業が行われました。そのため各部隊の一部の幹部はその作業に関わっています。

 

次の頁は順番?

 

 

 史料紹介は以上です。この史料は11月15日の日付がある。防衛研究所に残る次に掲げる復員作業や各部隊の残務整理の実施計画案資料(「陸軍諸部隊整理業務進捗豫定概見表案」)によると、飛行第一師団は10月1日から12月1日の間に終了することになっており、この期間内に作成し、提出したものの控えのようです。

 史料によると、第一飛行師団所属の第54戦隊の一式戦闘機隼が35基残存していたことや、その他の機種の残存数も分かるという点で貴重な史料だと思います。1945年8月中旬時点では、陸軍にとって必ずしも多数の軍用機が残っていたわけではないが、戦争がいつまで続くのか誰も分からない状態だったのである程度の機数は残しておく必要があった筈です。

 

 

 1944年・1945年、北海道周辺の陸軍はアメリカ軍の侵攻を想定していたようです。実際米軍による空襲が繰り返されていました。しかし、8月9日になってソ連が対日参戦し11日に樺太に対して攻撃を始め、世の中では戦争は終わったと思っていた25日まで樺太では戦闘が続きました。日本は8月14日にポツダム宣言受諾を決定し15日降伏しました。

 しかし、千島列島では8月18日に武装解除していた日本軍にソ連軍が先制攻撃してきました。現地の日本軍は止むを得ず反撃し、戦いは21日まで続きました。ソ連軍は引き続き北海道本島に上陸してくるとみられるようになりましたが、この時ソ連スターリンは日本が連合国に降伏したことを承知のうえで戦いを仕掛け、少なくとも北海道の半分は領有するつもりでした。樺太と千島列島の戦いが続いている間にスターリンの目論見はアメリカに阻まれてしまいます。樺太と千島での8月15日以降の抗戦が時間を稼ぎ、ソ連の北海道占領を阻む結果となりました。

 父(高橋敏雄)から聞いたことだが、1945年8月14日に千島列島に空路出発する予定だったが、悪天候のため途中で引き返したのか初めから離陸を断念したのかこれを書いている自分には分からないが、もし千島に行っていたら戦死するかよくてシベリア抑留だっただろう、という事でした。しかし、この事は戦記に記載がない。この日の目的地が千島だったという点に関して、自分の聞き違いか、戦記の書き洩らしか。

 戦記では14日には飛行第一師団が参謀長・参謀と第54戦隊、つまり一式戦闘機隊などと第32戦隊つまり九十七式襲撃機隊が樺太に出撃予定だったが、悪天候のため途中で引き返したことになっています(防衛庁防衛研修所戦史室1971年「戦史叢書 北東方面陸軍作戦〈2〉ー千島・樺太・北海道の防衛ー」pp.467~469)。

  第一飛行師団の状況 第一飛行師団は、成田参謀長を豐原に派遣し、八月十

 一日、第八十八師団と所要の連絡を終えていたが、八月十二日、方面軍命令に

 より直ちに対ソ作戦に転換した。しかし同師団の作戦方針転換、飛行部隊の出

 撃は後手後手に回った。

  第一飛行師団長佐藤中将は次のように回想している。

   ソ連樺太に侵入して来たので、方面軍は飛行師団に対し樺太方面に出撃するよう連

    絡してきた。私は「方面軍は、かつて、樺太は支作戦であるといった。いま樺太に出撃

         することは、あたかもガ島の状況が非になってからしかもそれを救援しようという考え

         にも似ている。」として、方面軍の意見に反対した。しかし、その後、この件に関する

         方面軍命令が出された。そこで私は成田参謀長を落合に派遣するとともに、飛行部隊を

         部署した。

   第一飛行師団の兵力部署は次のようであった。

   敵の上陸阻止の目的をもって、第二十飛行団(長 甘粕三郎大佐)指揮のもとに、飛

       行第三十二戦隊(襲撃)及び飛行第五十四戦隊(戦闘)を樺太落合飛行場に進出させる。 

  第二十飛行団長は八月十二日夕、「明日帶廣に出頭せよ」という命令を受け

    たが、この日天候は雨で、かつ汽車便もなくて行けず、十三日、室蘭から鉄道

    で廣に出頭した。甘粕飛行団長が飛行師団命令を受領したのは八月十三日ニ

    ニ〇〇のことであった。

  飛行師団参謀長成田大佐および同参謀高橋義雄少佐(43期)は、再度豊原に

    飛び、十四日、第八十八師団と連絡し、第二十飛行団の進出準備指導に任じ

    た。

  飛行第五十四戦隊が飛行団命令により札幌を飛び立ったのは八月十四日のこ

    とであった。方面軍命令を受領してから二日、ソ連が参戦してから六日ものち

    のことである。しかし飛行戦隊は天候に妨げられ宗谷海峡を越えられなかっ

 た。

  第二十飛行団の状況は甘粕大佐の日記によると次のとおりであった。

    八月十四日 一〇時三〇分、重爆にて出発せるも、霧にて引き返す。午後、樺太方面

    天候不良なるも、襟裳岬廻りにて札幌に向かう。札幌到着時、戦闘機上空を出発、十

    五時三十分札幌発、途中西方を戦闘機引返すを見る。宗谷海峡海上五〇米雨中を東方

    に向いたるも、益々不良。引返して淺茅野に着陸、戦闘、襲撃とも連絡なきも、取りあ

    えず、札幌宛(筆者注 飛行第五十四戦隊宛)明拂暁の攻撃命令を打電す。

  飛行第五十四戦隊の状況は、戰隊長竹田勇中佐の回想によると次のとおりで

  あた。

   ソ軍の侵攻に伴い、私の戦隊は落合に移動して、侵攻するソ軍を攻撃すべき命を受け

    た。よって八月十三日整備員を重爆で先遣させ、飛行部隊は翌十四日ニ四機をもって札幌

      を出発したが、天候不良のため途中から引き返した。

  飛行第三十二戦隊もまたほぼ同様であった。

 関係略地図を掲げます。

 冒頭に史料紹介したように、8月中旬段階には飛行第一師団にあった軍用機は司令部に軍用偵察機2機・九十七式重爆撃機3機、第32戦隊に九十九式襲撃機22機、第54戦隊に一式戦闘機隼35機、第38戦隊に百式司偵5機がありました。引用した戦史叢書の記述から樺太攻撃のために登場した機種・機数を掲げると次のようになります。

 九十九式襲撃機(佐藤中将回想では第32戦隊の全機とみられる)・九十七式重爆(甘粕大佐日記はおそらく1機と竹田中佐回想の多分2機)・一式戦闘機24機(第54戦隊竹田中佐回想)であり、なお残存したのは軍用偵察機2機・百式司偵5機となる。もし、第一飛行師団が千島に派遣する予定があったとすれば、これら軍用偵察機2機と百式司偵5機しか使えなかった。父が言ったように千島に派遣される予定だったとすれば、攻撃用 ではなく偵察・協議・激励だったのだろうか。

 ところで引用した「戦史叢書」には誤記がある。「飛行師団参謀長成田大佐および同参謀高橋義雄少佐(43期)は、再度豊原に飛び、十四日、第八十八師団と連絡し、第二十飛行団の進出準備指導に任じた。」の部分にある高橋義雄少佐という陸軍の軍人は存在しない。高橋敏雄とすべきで、また43期ではなく45期である。陸軍士官学校の卒業期数のことです。これから考えると、「戦史叢書」の記述を疑うべからざるもの、とすべきではない。

 この当時、父の部下だった人が後年に記したものがあります。初めの方に掲げた集合写真に写っている山下肇さんです。彼の「学徒出陣五十年」岩波ブックレットNo.317を引用します。同書によると山下さんは1920年東京生まれ。東京大学独文卒。ドイツ文学者。1943年~45年応召。東京大学教授、関西大学教授をつとめ、現在(※1993年)、東京大学名誉教授。「わだつみ会」常任理事、「学徒出陣」五十周年委員会委員長、著書に「近代ドイツ・ユダヤ精神史研究」他、翻訳に「ゲーテとの対話」他がある。

 山下さんは大学卒業の一ヶ月後に応召入隊し、訓練をうけたのちほぼ一年たって札幌にあった飛行師団司令部に配属されている。 

  父のいない家庭の跡嗣ぎのことも軍隊では配慮の対象になる。ここで歩兵か

 ら航空兵に転科になった。前橋から五、六十名の見習士官が津軽海峡を渡った

 が、そのうちに二名だけが参謀部付となった。一橋大出のN君と私で、二人は戦

 後までそれこそ無二の戦友である続ける。二人の上に京大出の気象掛中尉T氏

 がおり、若い二人は情報将校、このトリオは参謀部内の知的な輪としてその後

 の師団内の注目を集めるグループを形成し、それが私にとって戦中最高の支え

 となった。

  札幌の司令部に落ちついて、最初の休日外出のとき、N君と私は真先に「丸

 善」書店にとんで行って、入隊以来飢えていた書物への渇をいやした。北方の

 環境を自覚してであろう。まず買いこんだのは、ロシア語の入門書であった。

 この辺が他の見習士官たちとはちがっていたかもしれない。

  昭和十九年春、司令部が札幌から前進基地帯広に移ってから、私たちの直属

 上司T参謀はいっそう私たちに目をかけてくれ、他の参謀たちも明らかに私た

 ちに一目おいて親密の度を深め、飛行機や列車で単独出張する機会も多くなっ

 た。北千島行も忘れがたいが、一九四五年八月、ソ連参戦と同時に私は参謀長

 と共に南樺太へ作戦に出張し、オホーツク海上を這うように飛んで、すでにソ

 連ミグ機の来襲中の樺太中をかけまわった。予想外に早く準備が終わって十三

 日中に道内に帰投でき、十五日払暁には残った戦闘機の総力をあげて一斉攻撃

 の計画が天候不良で順延となり、敗戦の詔勅下って万事休すとなった。私の場

 合、一歩おくれれば樺太残留の可能性もあったし、家族は病人も含めて空襲下

 の東京からはるばる帯広へ疎開してきたところだった。

  戦後の復員輸送

 戦後直ちに復員輸送が開始され、(以下略) 

 彼の直属上司T参謀が父でした。1945年8月に参謀長と南樺太に出張し13日中に道内に帰投したという部分は「飛行師団参謀長成田大佐および同参謀高橋義雄少佐(43期)は、再度豊原に 飛び、十四日、第八十八師団と連絡し、第二十飛行団の進出準備指導に任じた」と同じ件だとみられます。ここでも14日に千島に出張の予定だったという父の話、或いは僕の聞き間違いと相違しています。

 8月14日に千島に派遣される予定だったという件の実否は自分では判断できないので、そういう話を父から聞いたと記憶しているという事だけ記しておきたいと思います。

 ついでに脇道にそれますが、父から当時北海道で東條英機に対し軍用機の状況を15分位説明したことを聞いたことがありました。「戦史叢書」を見ていたら、1944年4月6日に「東條参謀総長は突然帶廣に飛来第一飛行師団および第七師団の軍状を視察し、四月七日主要幹部を集め大要次のような訓示を行った」pp.167という記述が目についた。この時のことでしょう。

 

 ついで2

 引用してきた「戦史叢書」pp.478に次のような記述がある。

  スターリンは、八月十六日、トルーマンにあて次のように要求した。

  1 ソ軍に対する日本軍の降伏地域に千島列島の全部(all the Kurile

   Island)を含る。

  2 ソ軍に対する日本軍の降伏地域に、釧路と留萌を結ぶ線(両市を含む)

   以北の北海道を含めること。

 (略)

  八月十八日、トルーマンが第一の要求を認める返信をスターリンに送ったと

 きには、ソ軍の占守島進攻は既に開始されていたのであった。トルーマンはこ

 の返信とともに、千島列島の中央に軍事的および商業的目的のために、陸上機

 と水上機の航空基地設定の権利をもちたいと要求した。

  トルーマンの要求はスターリンによって拒否され、スターリンの北海道占領

 企図はトルーマンによって拒否された。

 実際には8月18日にソ連軍は千島列島北部の占守島に奇襲攻撃を掛けてきた。降伏準備を進めていた現地の日本軍は止むを得ず反撃し、21日になって停戦となった。ソ連アメリカの要求を退けるためもあって千島列島の実質的占領を必要としたのであろう。北海道北部占領はトルーマンに拒否されているが、現地の日本軍が反撃せずソ連軍が千島・樺太を簡単に占領できていたなら北海道占領がどうなったかは分からない。

 

 とりとめのない記述に終始してしまいましたが、以上で終わります。

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